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=== フィラデルフィア・フィリーズ ===
=== フィラデルフィア・フィリーズ ===
{{by|1992年}}[[4月2日]]にトレードで[[フィラデルフィア・フィリーズ]]に移籍。当初はリリーフでの起用だったが、5月途中から先発に転向し、[[6月8日]]の[[ピッツバーグ・パイレーツ]]戦でメジャー初完封を記録。14勝11敗・防御率2.35、リーグトップのWHIP0.99を記録するなど飛躍。{{by|1993年}}は前半戦で5連敗を喫したが、終盤にかけて7連勝を記録するなど16勝7敗・防御率4.02・186奪三振を記録し、チームの地区優勝に大きく貢献。[[アトランタ・ブレース]]との[[1993年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第1戦と第5戦に先発し好投するが、共に[[クローザー]]の[[ミッチ・ウィリアムズ]]がセーブに失敗し勝利は付かなかった。チームは4勝2敗で13年ぶりのリーグ優勝を果たし、防御率1.69・19奪三振の活躍が評価されて[[リーグチャンピオンシップシリーズ最優秀選手|シリーズMVP]]に選出された。[[トロント・ブルージェイズ]]との[[1993年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第1戦に先発し7失点で敗戦投手となるが、第5戦で5安打完封勝利を挙げる。しかし第6戦でウィリアムズが[[ジョー・カーター]]に逆転サヨナラの3点本塁打を浴び、2勝4敗で敗退した。ウィリアムズがマウンドにいる間、白いタオルで顔を覆う姿(これが更にチームメイトの不安を煽った)を何度もカメラに撮られるなど、終始落ち着かない様子だった。{{by|1994年}}は初の[[開幕投手]]を務めるが、勝利なしの7連敗と不調に陥り5月に離脱。7月下旬に復帰後は持ち直したものの[[1994年から1995年のMLBストライキ]]でシーズンが打ち切られ、2勝に終わった。{{by|1995年}}は開幕4連勝を記録するが、[[7月18日]]を最後に故障で離脱し、7勝に留まる。オフに[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]となるが再契約。{{by|1996年}}は開幕に間に合わず、5月中旬に復帰。打線の援護がなく9勝10敗だったが防御率3.19、8・9月で2完封を含む7完投を記録するなどリーグ最多の8完投の成績で復活の兆しを見せた。
{{by|1992年}}[[4月2日]]にトレードで[[フィラデルフィア・フィリーズ]]に移籍。当初はリリーフでの起用だったが、5月途中から先発に転向し、[[6月8日]]の[[ピッツバーグ・パイレーツ]]戦でメジャー初完封を記録。14勝11敗・防御率2.35、リーグトップのWHIP0.99を記録するなど飛躍。{{by|1993年}}は前半戦で5連敗を喫したが、終盤にかけて7連勝を記録するなど16勝7敗・防御率4.02・186奪三振を記録し、チームの地区優勝に大きく貢献。[[アトランタ・ブレース]]との[[1993年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第1戦と第5戦に先発し好投するが、共に[[クローザー]]の[[ミッチ・ウィリアムズ]]がセーブに失敗し勝利は付かなかった。チームは4勝2敗で13年ぶりのリーグ優勝を果たし、防御率1.69・19奪三振の活躍が評価されて[[リーグチャンピオンシップシリーズ最優秀選手|シリーズMVP]]に選出された。[[トロント・ブルージェイズ]]との[[1993年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第1戦に先発し7失点で敗戦投手となるが、第5戦で5安打完封勝利を挙げる。しかし第6戦でウィリアムズが[[ジョー・カーター]]に逆転サヨナラの3点本塁打を浴び、2勝4敗で敗退した。ウィリアムズがマウンドにいる間、白いタオルで顔を覆う姿(これが更にチームメイトの不安を煽った)を何度もカメラに撮られるなど、終始落ち着かない様子だった。{{by|1994年}}は初の[[開幕投手]]を務めるが、勝利なしの7連敗と不調に陥り5月に離脱。7月下旬に復帰後は持ち直したものの[[1994年から1995年のMLBストライキ]]でシーズンが打ち切られ、2勝に終わった。{{by|1995年}}は開幕4連勝を記録するが、[[7月18日]]を最後に故障で離脱し、7勝に留まる。オフに[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]となるが再契約。{{by|1996年}}は開幕に間に合わず、5月中旬に復帰。打線の援護がなく9勝10敗だったが防御率3.19、8・9月で2完封を含む7完投を記録するなどリーグ最多の8完投の成績で復活の兆しを見せた。


{{by|1997年}}は自身初の[[1997年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出される。[[9月1日]]の[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦で自己最多の16奪三振を記録。17勝11敗・防御率2.97・319奪三振を記録し、[[最多奪三振 (MLB)|最多奪三振]]のタイトルを獲得。[[サイ・ヤング賞]]の投票では4位に入った。{{by|1998年}}は15勝14敗・防御率3.25・300奪三振・共にリーグ最多の268.2イニング・15完投を記録し、2年連続で最多奪三振を獲得した。{{by|1999年}}は前半戦で13勝4敗・防御率3.13・7完投を記録し、3年連続で[[1999年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されて先発投手を務めた。後半戦は故障もあって2勝に留まり、15勝6敗・防御率3.54の成績だった。自身の活躍とは裏腹にチームは低迷し、次第に不甲斐ないフロントへの不満を口にするようになった。{{by|2000年}}[[7月26日]]に[[ビセンテ・パディーヤ]]他3選手との交換トレードで[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]に移籍。
{{by|1997年}}は自身初の[[1997年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出される。[[9月1日]]の[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦で自己最多の16奪三振を記録。17勝11敗・防御率2.97・319奪三振を記録し、[[最多奪三振 (MLB)|最多奪三振]]のタイトルを獲得。[[サイ・ヤング賞]]の投票では4位に入った。{{by|1998年}}は15勝14敗・防御率3.25・300奪三振・共にリーグ最多の268.2イニング・15完投を記録し、2年連続で最多奪三振を獲得した。{{by|1999年}}は前半戦で13勝4敗・防御率3.13・7完投を記録し、3年連続で[[1999年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されて先発投手を務めた。後半戦は故障もあって2勝に留まり、15勝6敗・防御率3.54の成績だった。自身の活躍とは裏腹にチームは低迷し、次第に不甲斐ないフロントへの不満を口にするようになった。{{by|2000年}}[[7月26日]]に[[ビセンテ・パディーヤ]]他3選手との交換トレードで[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]に移籍。


=== アリゾナ・ダイヤモンドバックス ===
=== アリゾナ・ダイヤモンドバックス ===
移籍後は途中5連敗もあったが、シーズン通算で11勝、リーグ最多の8完投を記録した。{{by|2001年}}は開幕5連勝を記録するなど6月までに12勝を挙げる。[[5月26日]]の[[サンディエゴ・パドレス]]戦では8回途中までパーフェクトに抑えたが、[[ベン・デイヴィス (野球)|ベン・デイヴィス]]がバント安打で出塁し快挙を逃した<ref>この行為が「Unwritten Rules([[野球の不文律]])」を破ったとして騒動になった。</ref>。22勝6敗・防御率2.98・293奪三振、いずれもリーグ最多の256.2イニング・6完投・37被本塁打を記録し、[[最多勝利 (MLB)|最多勝]]のタイトルを獲得。チームメイトの[[ランディ・ジョンソン]]と合わせて43勝・665奪三振を記録し、チームの地区優勝の原動力となる。ポストシーズンでも活躍は続き、[[セントルイス・カーディナルス]]との[[2001年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦に先発して3安打完封勝利、最終第5戦でも1失点完投勝利を挙げる。ブレースとの[[2001年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第3戦で12奪三振で1失点完投勝利を挙げ、チームは球団創設4年目でリーグ優勝を果たす。ヤンキースとの[[2001年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第1戦に先発し、7回1失点で勝利投手。第4戦でも7回1失点と好投するが、クローザーの[[金炳賢]]がセーブに失敗し勝利は付かなかった。最終第7戦では6回まで無失点に抑えるが、その後リードを許し8回途中で降板。チームは9回裏に[[ルイス・ゴンザレス (外野手)|ルイス・ゴンザレス]]のサヨナラ安打で勝利し、史上最速の創設4年目でのワールドチャンピオンとなった。ジョンソンと共に[[ワールドシリーズ最優秀選手|シリーズMVP]]を受賞し、[[スポーツ・イラストレイテッド]]誌の2001年度 "スポーツマン・オブ・ザ・イヤー" にも選ばれた。サイ・ヤング賞の投票ではジョンソンに次ぐ2位。{{by|2002年}}[[4月7日]]の[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]戦では自己最多で毎回の17三振を奪い1安打完封勝利。[[4月23日]]から9連勝を記録するなど前半戦で14勝を挙げ、[[2002年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]で先発投手を務めた。終盤に打ち込まれたが、いずれもジョンソンに次ぐリーグ2位の23勝(7敗)・316奪三振・259.1イニングを記録し、チームは2年連続地区優勝。カーディナルスとの[[2002年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第2戦に先発して7回1失点と好投するが勝敗は付かず、チームは3連敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票では前年に続いてジョンソンに次ぐ2位に入る。{{by|2003年}}は[[虫垂炎]]を患い[[4月19日]]に手術、[[5月30日]]のパドレス戦で打球を右手に受けて骨折。7月に復帰後も左膝の痛みを抱えながらプレイする等故障に泣いた。6月末には審判技術向上のため導入されていた[[クエステック・システム]]の監視カメラを[[バット (野球)|バット]]で破壊。これは非難されるべき行為には違いないが、「あんなカメラに左右されるなんて、冗談じゃない。これまでストライクとコールされた球が、ボールになる。しかもスタジアムにカメラが有る無しでコールも変わる。最悪のシステムだ」という主張は、同システムに不満を感じていた一部のメジャーリーグ関係者から強い支持を集めた<ref>[[木本大志]] 「[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/column/200306/0617kimo_01.html 『ICHIRO REPORT 3年目の真実』 VOL.7 Ques Tec System メジャーが導入を急ぐ判定監視システムとは?]」 『[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/ スポーツナビ]』、2003年。</ref>。防御率2.95・194奪三振を記録したものの8勝9敗に終わった。オフに球団との契約延長交渉が財政難のため決裂し、球団は移籍を容認<ref name="maj200402a">[[ナガオ勝司]] 「カート・シリング/37歳エースの男気。」『[[月刊メジャー・リーグ]]』2004年2月号、[[ベースボールマガジン]]社、2004年、[[雑誌コード|雑誌]] 08625-2、8 - 13項。</ref>。当初はフィリーズかヤンキースへ移籍と言われたが、フィリーズ時代に絶大な信頼関係を築いた[[テリー・フランコーナ]]がレッドソックス新監督の有力候補となってからは事態が一転し<ref>[[嶋田剛司]] 「テリー・フランコーナ/新監督の十字架。」『[[月刊メジャー・リーグ]]』2004年2月号、[[ベースボールマガジン]]社、2004年、[[雑誌コード|雑誌]] 08625-2、20 - 23項。</ref><ref name="maj200402a"/>、[[11月28日]]に[[ブランドン・ライオン]]、[[ケイシー・フォッサム]]、[[ホルヘ・デラロサ]]他1選手との交換トレードで移籍。ダイヤモンドバックスとの契約が2004年まで残っていたが、{{by|2005年}}から2年2500万ドル(3年目は1300万ドルのオプション)で契約を延長した<ref name="maj200402a"/>。
移籍後は途中5連敗もあったが、シーズン通算で11勝、リーグ最多の8完投を記録した。{{by|2001年}}は開幕5連勝を記録するなど6月までに12勝を挙げる。[[5月26日]]の[[サンディエゴ・パドレス]]戦では8回途中までパーフェクトに抑えたが、[[ベン・デイヴィス (野球)|ベン・デイヴィス]]がバント安打で出塁し快挙を逃した<ref>この行為が「Unwritten Rules([[野球の不文律]])」を破ったとして騒動になった。</ref>。22勝6敗・防御率2.98・293奪三振、いずれもリーグ最多の256.2イニング・6完投・37被本塁打を記録し、[[最多勝利 (MLB)|最多勝]]のタイトルを獲得。チームメイトの[[ランディ・ジョンソン]]と合わせて43勝・665奪三振を記録し、チームの地区優勝の原動力となる。ポストシーズンでも活躍は続き、[[セントルイス・カーナルス]]との[[2001年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦に先発して3安打完封勝利、最終第5戦でも1失点完投勝利を挙げる。ブレースとの[[2001年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第3戦で12奪三振で1失点完投勝利を挙げ、チームは球団創設4年目でリーグ優勝を果たす。ヤンキースとの[[2001年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第1戦に先発し、7回1失点で勝利投手。第4戦でも7回1失点と好投するが、クローザーの[[金炳賢]]がセーブに失敗し勝利は付かなかった。最終第7戦では6回まで無失点に抑えるが、その後リードを許し8回途中で降板。チームは9回裏に[[ルイス・ゴンザレス (外野手)|ルイス・ゴンザレス]]のサヨナラ安打で勝利し、史上最速の創設4年目でのワールドチャンピオンとなった。ジョンソンと共に[[ワールドシリーズ最優秀選手|シリーズMVP]]を受賞し、[[スポーツ・イラストレイテッド]]誌の2001年度 "スポーツマン・オブ・ザ・イヤー" にも選ばれた。サイ・ヤング賞の投票ではジョンソンに次ぐ2位。{{by|2002年}}[[4月7日]]の[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]戦では自己最多で毎回の17三振を奪い1安打完封勝利。[[4月23日]]から9連勝を記録するなど前半戦で14勝を挙げ、[[2002年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]で先発投手を務めた。終盤に打ち込まれたが、いずれもジョンソンに次ぐリーグ2位の23勝(7敗)・316奪三振・259.1イニングを記録し、チームは2年連続地区優勝。カーナルスとの[[2002年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第2戦に先発して7回1失点と好投するが勝敗は付かず、チームは3連敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票では前年に続いてジョンソンに次ぐ2位に入る。{{by|2003年}}は[[虫垂炎]]を患い[[4月19日]]に手術、[[5月30日]]のパドレス戦で打球を右手に受けて骨折。7月に復帰後も左膝の痛みを抱えながらプレイする等故障に泣いた。6月末には審判技術向上のため導入されていた[[クエステック・システム]]の監視カメラを[[バット (野球)|バット]]で破壊。これは非難されるべき行為には違いないが、「あんなカメラに左右されるなんて、冗談じゃない。これまでストライクとコールされた球が、ボールになる。しかもスタジアムにカメラが有る無しでコールも変わる。最悪のシステムだ」という主張は、同システムに不満を感じていた一部のメジャーリーグ関係者から強い支持を集めた<ref>[[木本大志]] 「[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/column/200306/0617kimo_01.html 『ICHIRO REPORT 3年目の真実』 VOL.7 Ques Tec System メジャーが導入を急ぐ判定監視システムとは?]」 『[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/ スポーツナビ]』、2003年。</ref>。防御率2.95・194奪三振を記録したものの8勝9敗に終わった。オフに球団との契約延長交渉が財政難のため決裂し、球団は移籍を容認<ref name="maj200402a">[[ナガオ勝司]] 「カート・シリング/37歳エースの男気。」『[[月刊メジャー・リーグ]]』2004年2月号、[[ベースボールマガジン]]社、2004年、[[雑誌コード|雑誌]] 08625-2、8 - 13項。</ref>。当初はフィリーズかヤンキースへ移籍と言われたが、フィリーズ時代に絶大な信頼関係を築いた[[テリー・フランコーナ]]がレッドソックス新監督の有力候補となってからは事態が一転し<ref>[[嶋田剛司]] 「テリー・フランコーナ/新監督の十字架。」『[[月刊メジャー・リーグ]]』2004年2月号、[[ベースボールマガジン]]社、2004年、[[雑誌コード|雑誌]] 08625-2、20 - 23項。</ref><ref name="maj200402a"/>、[[11月28日]]に[[ブランドン・ライオン]]、[[ケイシー・フォッサム]]、[[ホルヘ・デラロサ]]他1選手との交換トレードで移籍。ダイヤモンドバックスとの契約が2004年まで残っていたが、{{by|2005年}}から2年2500万ドル(3年目は1300万ドルのオプション)で契約を延長した<ref name="maj200402a"/>。


=== ボストン・レッドソックス ===
=== ボストン・レッドソックス ===
移籍1年目の{{by|2004年}}は前半戦で11勝を挙げ、2年ぶりに[[2004年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出される。[[9月16日]]の[[タンパベイ・デヴィルレイズ]]戦で勝利投手となり、{{by|1978年}}の[[デニス・エカーズリー]]以来、球団史上5人目の入団初年度での20勝を達成。21勝6敗・防御率3.26・203奪三振を記録し、チームの[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]獲得に貢献。[[アナハイム・エンゼルス]]との[[2004年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦に先発し勝利投手となるが、右足首の腱を断裂する怪我を負う。ヤンキースとの[[2004年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第1戦に先発するが、痛みから本来の投球ができず、3回6失点で敗戦投手となる。球団の医療スタッフは、痛めた足首の周囲の皮膚を縫い付けて断裂した腱が動かないようにする[[応急処置]]を敢行する。当時の報道によればこのような処置はそれまで誰もやったことがなく、有効性を確かめるために医療解剖用の死体を使ってリハーサルを行ったという。第6戦では7回1失点と好投して勝利投手となり、史上初めて3連敗からタイに持ち込んだが、試合終盤には縫合部分から出血し、靴下が血に染まった。以後は先発の前日に足の皮膚を縫い合わせ、登板が終わったら抜糸、を繰り返した(縫い付けたままでは患部が化膿する恐れがあるため)<ref>{{Cite web|date=2004-10-20|url=http://www.redorbit.com/news/oddities/95850/cadaver_used_to_help_fix_schillings_ankle/|title=Cadaver used to help fix Schillings ankle|language=英語|accessdate=2008-05-13}}</ref>。チームは最終第7戦も勝利して18年ぶりのリーグ優勝を果たす。カーディナルスとの[[2004年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第2戦に先発し、靴下を血に染めながら7回を4安打1失点と好投して勝利投手。チームは4連勝で{{by|1918年}}以来86年ぶりのワールドチャンピオンとなり、[[ボストン・レッドソックス#バンビーノの呪い|バンビーノの呪い]]を打ち破った。シリングの'''血染めのソックス'''は[[アメリカ野球殿堂|野球殿堂]]に展示されることになった。サイ・ヤング賞の投票では満票で受賞した[[ヨハン・サンタナ]]に次ぐ2位に入り、チーム全体でスポーツ・イラストレイテッド誌の2004年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。
移籍1年目の{{by|2004年}}は前半戦で11勝を挙げ、2年ぶりに[[2004年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出される。[[9月16日]]の[[タンパベイ・デヴィルレイズ]]戦で勝利投手となり、{{by|1978年}}の[[デニス・エカーズリー]]以来、球団史上5人目の入団初年度での20勝を達成。21勝6敗・防御率3.26・203奪三振を記録し、チームの[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]獲得に貢献。[[アナハイム・エンゼルス]]との[[2004年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第1戦に先発し勝利投手となるが、右足首の腱を断裂する怪我を負う。ヤンキースとの[[2004年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第1戦に先発するが、痛みから本来の投球ができず、3回6失点で敗戦投手となる。球団の医療スタッフは、痛めた足首の周囲の皮膚を縫い付けて断裂した腱が動かないようにする[[応急処置]]を敢行する。当時の報道によればこのような処置はそれまで誰もやったことがなく、有効性を確かめるために医療解剖用の死体を使ってリハーサルを行ったという。第6戦では7回1失点と好投して勝利投手となり、史上初めて3連敗からタイに持ち込んだが、試合終盤には縫合部分から出血し、靴下が血に染まった。以後は先発の前日に足の皮膚を縫い合わせ、登板が終わったら抜糸、を繰り返した(縫い付けたままでは患部が化膿する恐れがあるため)<ref>{{Cite web|date=2004-10-20|url=http://www.redorbit.com/news/oddities/95850/cadaver_used_to_help_fix_schillings_ankle/|title=Cadaver used to help fix Schillings ankle|language=英語|accessdate=2008-05-13}}</ref>。チームは最終第7戦も勝利して18年ぶりのリーグ優勝を果たす。カーナルスとの[[2004年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第2戦に先発し、靴下を血に染めながら7回を4安打1失点と好投して勝利投手。チームは4連勝で{{by|1918年}}以来86年ぶりのワールドチャンピオンとなり、[[ボストン・レッドソックス#バンビーノの呪い|バンビーノの呪い]]を打ち破った。シリングの'''血染めのソックス'''は[[アメリカ野球殿堂|野球殿堂]]に展示されることになった。サイ・ヤング賞の投票では満票で受賞した[[ヨハン・サンタナ]]に次ぐ2位に入り、チーム全体でスポーツ・イラストレイテッド誌の2004年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。


{{by|2005年}}は前年の故障の影響で開幕に間に合わず、復帰後も不本意な投球で再び[[故障者リスト]]入り。7月に復帰した後はクローザーとして9セーブを記録し、8月下旬からは先発に戻る。チームは惜しくも地区優勝を逃すがワイルドカードを獲得。[[シカゴ・ホワイトソックス]]との[[2004年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では3連敗で敗退。第4戦で先発予定だったため登板機会は無かった。{{by|2006年}}は開幕から4試合で4勝・防御率1.61を記録し、引退が近いのではという声も退けた。[[5月27日]]のデヴィルレイズ戦で史上104人目の通算200勝を達成。[[8月30日]]の[[オークランド・アスレチックス]]戦では[[ニック・スウィッシャー]]から三振を奪い、通算[[3000奪三振クラブ|3000奪三振]]に到達。与四球1000以下での達成は[[ファーガソン・ジェンキンス]]、[[グレッグ・マダックス]]に次ぐ史上3人目となった。直後に故障で離脱するが15勝7敗・防御率3.97・183奪三振を記録した。{{by|2007年}}1月にデニス・アンド・カラハンというラジオ番組に出演し、2007年シーズンで引退する意思がないことを表明した。契約延長を申し出るも、球団は年齢、体調などを理由にシーズンの終了まで交渉を拒否。それに対し、球団が独占交渉権を持つワールドシリーズ終了後の15日間に交渉を行うつもりはないと発言した。{{by|2007年}}[[6月7日]]のアスレチックス戦では9回2死まで失策の走者1人に抑えるも、[[シャノン・スチュワート]]に95マイルの速球をライトへ打たれ、後一歩でノーヒットノーランを逃した。その後2度の先発で打ち込まれ、[[7月20日]]に肩のMRI検査を受けて故障者リスト入り。9勝に留まるが、チームは12年ぶりの地区優勝を果たす。エンゼルスとの[[2007年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第3戦に先発し、7回無失点で勝利投手。[[クリーヴランド・インディアンズ]]との[[2007年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第2戦に先発し5回途中5失点で降板するが、第6戦は7回2失点と好投して勝利投手となり、チームは3年ぶりのリーグ優勝。[[コロラド・ロッキーズ]]との[[2007年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第3戦に先発し、6回途中1失点で勝利投手となり、3年ぶりのワールドチャンピオンに貢献した。
{{by|2005年}}は前年の故障の影響で開幕に間に合わず、復帰後も不本意な投球で再び[[故障者リスト]]入り。7月に復帰した後はクローザーとして9セーブを記録し、8月下旬からは先発に戻る。チームは惜しくも地区優勝を逃すがワイルドカードを獲得。[[シカゴ・ホワイトソックス]]との[[2004年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では3連敗で敗退。第4戦で先発予定だったため登板機会は無かった。{{by|2006年}}は開幕から4試合で4勝・防御率1.61を記録し、引退が近いのではという声も退けた。[[5月27日]]のデヴィルレイズ戦で史上104人目の通算200勝を達成。[[8月30日]]の[[オークランド・アスレチックス]]戦では[[ニック・スウィッシャー]]から三振を奪い、通算[[3000奪三振クラブ|3000奪三振]]に到達。与四球1000以下での達成は[[ファーガソン・ジェンキンス]]、[[グレッグ・マダックス]]に次ぐ史上3人目となった。直後に故障で離脱するが15勝7敗・防御率3.97・183奪三振を記録した。{{by|2007年}}1月にデニス・アンド・カラハンというラジオ番組に出演し、2007年シーズンで引退する意思がないことを表明した。契約延長を申し出るも、球団は年齢、体調などを理由にシーズンの終了まで交渉を拒否。それに対し、球団が独占交渉権を持つワールドシリーズ終了後の15日間に交渉を行うつもりはないと発言した。{{by|2007年}}[[6月7日]]のアスレチックス戦では9回2死まで失策の走者1人に抑えるも、[[シャノン・スチュワート]]に95マイルの速球をライトへ打たれ、後一歩でノーヒットノーランを逃した。その後2度の先発で打ち込まれ、[[7月20日]]に肩のMRI検査を受けて故障者リスト入り。9勝に留まるが、チームは12年ぶりの地区優勝を果たす。エンゼルスとの[[2007年のアメリカンリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では第3戦に先発し、7回無失点で勝利投手。[[クリーヴランド・インディアンズ]]との[[2007年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第2戦に先発し5回途中5失点で降板するが、第6戦は7回2失点と好投して勝利投手となり、チームは3年ぶりのリーグ優勝。[[コロラド・ロッキーズ]]との[[2007年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第3戦に先発し、6回途中1失点で勝利投手となり、3年ぶりのワールドチャンピオンに貢献した。
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[[Category:アリゾナ・ダイヤモンドバックスの選手]]
[[Category:アリゾナ・ダイヤモンドバックスの選手]]
[[Category:ボストン・レッドソックスの選手]]
[[Category:ボストン・レッドソックスの選手]]
[[Category:最多勝利 (MLB)]]
[[Category:ナショナルリーグ最多勝投手]]
[[Category:最多奪三振 (MLB)]]
[[Category:ナショナルリーグ最多奪三振]]
[[Category:アメリカンリーグ最多勝投手]]
[[Category:MLBオールスターゲーム選出選手]]
[[Category:MLBオールスターゲーム選出選手]]
[[Category:ワールドシリーズMVP]]
[[Category:ワールドシリーズMVP]]

2015年11月22日 (日) 08:56時点における版

カート・シリング
Curt Schilling
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アラスカ州アンカレッジ
生年月日 (1966-11-14) 1966年11月14日(57歳)
身長
体重
6' 5" =約195.6 cm
235 lb =約106.6 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1986年 ドラフト2巡目
初出場 1988年9月8日
最終出場 2007年9月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

カーティス・モンタギュー・シリングCurtis Montague Schilling, 1966年11月14日 - )は、アメリカ合衆国アラスカ州アンカレッジ出身の元MLB選手(投手)。

経歴

シャドウ・マウンテン高校を卒業後、アリゾナ州プレスコットのヤバパイ短期大学に進学。1985年のJUCOワールドシリーズ制覇に貢献した。

キャリア初期

1986年1月のMLBドラフトボストン・レッドソックスから2巡目に指名を受け入団。1988年7月29日マイク・ボディッカーとの交換トレードで、ブレイディ・アンダーソンと共にボルチモア・オリオールズに移籍し、9月7日の古巣レッドソックス戦でメジャーデビュー。目立った成績は残せず、ブロンドの髪に青いラインを入れたため保守的なフランク・ロビンソン監督を怒らせた、ということ位でしか知られていない存在だった[1]1990年は6月末にメジャーに昇格。リリーフとして登板し初勝利も挙げるが、セーブ失敗が6度もあった。1991年1月10日グレン・デイヴィスとの交換トレードで、スティーヴ・フィンリーらと共にヒューストン・アストロズに移籍。オフにロジャー・クレメンスから「君は時間を無駄にしている」と2時間に及ぶ大説教を受けた。今までのやり方ではダメだと気付き、それまでとは「全く違うアプローチ、視点、態度でゲームに臨む」ようになった[1]

フィラデルフィア・フィリーズ

1992年4月2日にトレードでフィラデルフィア・フィリーズに移籍。当初はリリーフでの起用だったが、5月途中から先発に転向し、6月8日ピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャー初完封を記録。14勝11敗・防御率2.35、リーグトップのWHIP0.99を記録するなど飛躍。1993年は前半戦で5連敗を喫したが、終盤にかけて7連勝を記録するなど16勝7敗・防御率4.02・186奪三振を記録し、チームの地区優勝に大きく貢献。アトランタ・ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦と第5戦に先発し好投するが、共にクローザーミッチ・ウィリアムズがセーブに失敗し勝利は付かなかった。チームは4勝2敗で13年ぶりのリーグ優勝を果たし、防御率1.69・19奪三振の活躍が評価されてシリーズMVPに選出された。トロント・ブルージェイズとのワールドシリーズでは第1戦に先発し7失点で敗戦投手となるが、第5戦で5安打完封勝利を挙げる。しかし第6戦でウィリアムズがジョー・カーターに逆転サヨナラの3点本塁打を浴び、2勝4敗で敗退した。ウィリアムズがマウンドにいる間、白いタオルで顔を覆う姿(これが更にチームメイトの不安を煽った)を何度もカメラに撮られるなど、終始落ち着かない様子だった。1994年は初の開幕投手を務めるが、勝利なしの7連敗と不調に陥り5月に離脱。7月下旬に復帰後は持ち直したものの1994年から1995年のMLBストライキでシーズンが打ち切られ、2勝に終わった。1995年は開幕4連勝を記録するが、7月18日を最後に故障で離脱し、7勝に留まる。オフにフリーエージェントとなるが再契約。1996年は開幕に間に合わず、5月中旬に復帰。打線の援護がなく9勝10敗だったが防御率3.19、8・9月で2完封を含む7完投を記録するなどリーグ最多の8完投の成績で復活の兆しを見せた。

1997年は自身初のオールスターゲームに選出される。9月1日ニューヨーク・ヤンキース戦で自己最多の16奪三振を記録。17勝11敗・防御率2.97・319奪三振を記録し、最多奪三振のタイトルを獲得。サイ・ヤング賞の投票では4位に入った。1998年は15勝14敗・防御率3.25・300奪三振・共にリーグ最多の268.2イニング・15完投を記録し、2年連続で最多奪三振を獲得した。1999年は前半戦で13勝4敗・防御率3.13・7完投を記録し、3年連続でオールスターゲームに選出されて先発投手を務めた。後半戦は故障もあって2勝に留まり、15勝6敗・防御率3.54の成績だった。自身の活躍とは裏腹にチームは低迷し、次第に不甲斐ないフロントへの不満を口にするようになった。2000年7月26日ビセンテ・パディーヤ他3選手との交換トレードでアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍。

アリゾナ・ダイヤモンドバックス

移籍後は途中5連敗もあったが、シーズン通算で11勝、リーグ最多の8完投を記録した。2001年は開幕5連勝を記録するなど6月までに12勝を挙げる。5月26日サンディエゴ・パドレス戦では8回途中までパーフェクトに抑えたが、ベン・デイヴィスがバント安打で出塁し快挙を逃した[2]。22勝6敗・防御率2.98・293奪三振、いずれもリーグ最多の256.2イニング・6完投・37被本塁打を記録し、最多勝のタイトルを獲得。チームメイトのランディ・ジョンソンと合わせて43勝・665奪三振を記録し、チームの地区優勝の原動力となる。ポストシーズンでも活躍は続き、セントルイス・カージナルスとのディヴィジョンシリーズでは第1戦に先発して3安打完封勝利、最終第5戦でも1失点完投勝利を挙げる。ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦で12奪三振で1失点完投勝利を挙げ、チームは球団創設4年目でリーグ優勝を果たす。ヤンキースとのワールドシリーズでは第1戦に先発し、7回1失点で勝利投手。第4戦でも7回1失点と好投するが、クローザーの金炳賢がセーブに失敗し勝利は付かなかった。最終第7戦では6回まで無失点に抑えるが、その後リードを許し8回途中で降板。チームは9回裏にルイス・ゴンザレスのサヨナラ安打で勝利し、史上最速の創設4年目でのワールドチャンピオンとなった。ジョンソンと共にシリーズMVPを受賞し、スポーツ・イラストレイテッド誌の2001年度 "スポーツマン・オブ・ザ・イヤー" にも選ばれた。サイ・ヤング賞の投票ではジョンソンに次ぐ2位。2002年4月7日ミルウォーキー・ブルワーズ戦では自己最多で毎回の17三振を奪い1安打完封勝利。4月23日から9連勝を記録するなど前半戦で14勝を挙げ、オールスターゲームで先発投手を務めた。終盤に打ち込まれたが、いずれもジョンソンに次ぐリーグ2位の23勝(7敗)・316奪三振・259.1イニングを記録し、チームは2年連続地区優勝。カージナルスとのディヴィジョンシリーズでは第2戦に先発して7回1失点と好投するが勝敗は付かず、チームは3連敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票では前年に続いてジョンソンに次ぐ2位に入る。2003年虫垂炎を患い4月19日に手術、5月30日のパドレス戦で打球を右手に受けて骨折。7月に復帰後も左膝の痛みを抱えながらプレイする等故障に泣いた。6月末には審判技術向上のため導入されていたクエステック・システムの監視カメラをバットで破壊。これは非難されるべき行為には違いないが、「あんなカメラに左右されるなんて、冗談じゃない。これまでストライクとコールされた球が、ボールになる。しかもスタジアムにカメラが有る無しでコールも変わる。最悪のシステムだ」という主張は、同システムに不満を感じていた一部のメジャーリーグ関係者から強い支持を集めた[3]。防御率2.95・194奪三振を記録したものの8勝9敗に終わった。オフに球団との契約延長交渉が財政難のため決裂し、球団は移籍を容認[4]。当初はフィリーズかヤンキースへ移籍と言われたが、フィリーズ時代に絶大な信頼関係を築いたテリー・フランコーナがレッドソックス新監督の有力候補となってからは事態が一転し[5][4]11月28日ブランドン・ライオンケイシー・フォッサムホルヘ・デラロサ他1選手との交換トレードで移籍。ダイヤモンドバックスとの契約が2004年まで残っていたが、2005年から2年2500万ドル(3年目は1300万ドルのオプション)で契約を延長した[4]

ボストン・レッドソックス

移籍1年目の2004年は前半戦で11勝を挙げ、2年ぶりにオールスターゲームに選出される。9月16日タンパベイ・デヴィルレイズ戦で勝利投手となり、1978年デニス・エカーズリー以来、球団史上5人目の入団初年度での20勝を達成。21勝6敗・防御率3.26・203奪三振を記録し、チームのワイルドカード獲得に貢献。アナハイム・エンゼルスとのディヴィジョンシリーズでは第1戦に先発し勝利投手となるが、右足首の腱を断裂する怪我を負う。ヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発するが、痛みから本来の投球ができず、3回6失点で敗戦投手となる。球団の医療スタッフは、痛めた足首の周囲の皮膚を縫い付けて断裂した腱が動かないようにする応急処置を敢行する。当時の報道によればこのような処置はそれまで誰もやったことがなく、有効性を確かめるために医療解剖用の死体を使ってリハーサルを行ったという。第6戦では7回1失点と好投して勝利投手となり、史上初めて3連敗からタイに持ち込んだが、試合終盤には縫合部分から出血し、靴下が血に染まった。以後は先発の前日に足の皮膚を縫い合わせ、登板が終わったら抜糸、を繰り返した(縫い付けたままでは患部が化膿する恐れがあるため)[6]。チームは最終第7戦も勝利して18年ぶりのリーグ優勝を果たす。カージナルスとのワールドシリーズでは第2戦に先発し、靴下を血に染めながら7回を4安打1失点と好投して勝利投手。チームは4連勝で1918年以来86年ぶりのワールドチャンピオンとなり、バンビーノの呪いを打ち破った。シリングの血染めのソックス野球殿堂に展示されることになった。サイ・ヤング賞の投票では満票で受賞したヨハン・サンタナに次ぐ2位に入り、チーム全体でスポーツ・イラストレイテッド誌の2004年度スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

2005年は前年の故障の影響で開幕に間に合わず、復帰後も不本意な投球で再び故障者リスト入り。7月に復帰した後はクローザーとして9セーブを記録し、8月下旬からは先発に戻る。チームは惜しくも地区優勝を逃すがワイルドカードを獲得。シカゴ・ホワイトソックスとのディヴィジョンシリーズでは3連敗で敗退。第4戦で先発予定だったため登板機会は無かった。2006年は開幕から4試合で4勝・防御率1.61を記録し、引退が近いのではという声も退けた。5月27日のデヴィルレイズ戦で史上104人目の通算200勝を達成。8月30日オークランド・アスレチックス戦ではニック・スウィッシャーから三振を奪い、通算3000奪三振に到達。与四球1000以下での達成はファーガソン・ジェンキンスグレッグ・マダックスに次ぐ史上3人目となった。直後に故障で離脱するが15勝7敗・防御率3.97・183奪三振を記録した。2007年1月にデニス・アンド・カラハンというラジオ番組に出演し、2007年シーズンで引退する意思がないことを表明した。契約延長を申し出るも、球団は年齢、体調などを理由にシーズンの終了まで交渉を拒否。それに対し、球団が独占交渉権を持つワールドシリーズ終了後の15日間に交渉を行うつもりはないと発言した。2007年6月7日のアスレチックス戦では9回2死まで失策の走者1人に抑えるも、シャノン・スチュワートに95マイルの速球をライトへ打たれ、後一歩でノーヒットノーランを逃した。その後2度の先発で打ち込まれ、7月20日に肩のMRI検査を受けて故障者リスト入り。9勝に留まるが、チームは12年ぶりの地区優勝を果たす。エンゼルスとのディヴィジョンシリーズでは第3戦に先発し、7回無失点で勝利投手。クリーヴランド・インディアンズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発し5回途中5失点で降板するが、第6戦は7回2失点と好投して勝利投手となり、チームは3年ぶりのリーグ優勝。コロラド・ロッキーズとのワールドシリーズでは第3戦に先発し、6回途中1失点で勝利投手となり、3年ぶりのワールドチャンピオンに貢献した。

オフにFAとなり、2年3,000万ドルを提示した球団もあったが[7]、1年800万ドルで残留。2008年3月13日、状態の思わしくなかった右肩のリハビリのため、60日間の故障者リスト入りした。本人は手術を希望したが、球団はまずリハビリすることを望んだ。復帰はオールスター明けとみられていたが[8]結局6月に手術を行い、終盤に復帰するのではと言われたが、1試合も登板することなくシーズンを終えた[9]。チームはワイルドカードでポストシーズンに進出。タンパベイ・レイズとのリーグチャンピオンシップシリーズ第5戦で始球式を務めたが、投球はホームベースのかなり手前でワンバウンド。レッドソックスファンのブログでは、「The 8 Million Dollar First Pitch(800万ドルの始球式)」と揶揄され[9]、チームは3勝4敗で敗退した。2009年3月23日に自身のブログで「パーティーは終わりだ。23年間のプロ生活で世界一のファンからいろんな場所で祝福を受けてきて、引退には何の後悔もない」と現役引退を表明した[10][11]

殿堂得票

2013年に最初の得票が行われたが、1年目の得票率は38.8%で落選した[12]

薬物使用勧誘告発

2008年のレッドソックス在籍時に、球団関係者から禁止薬物の使用を勧められたとレッドソックスを告発した。本人は手術を希望し、球団はリハビリすることを望んだが(先述)、その際にリハビリの一環として運動能力向上薬の使用を勧められたという[13]事実を2013年2月7日にESPNが報じた。結果的には禁止薬物の使用を断り[14]手術を受けたが、復帰できずに引退となった。

選手としての特徴

90mph台後半のフォーシームスプリッターが最大の武器で、他にも鋭く落ちる縦のカーブスライダーチェンジアップを投げた。速球のスピードには幅があり、98mph(約158km/h)を計時することもあれば、特に左打者に対して88mph(約142km/h)程度の遅い球を投げる時もあった[15]。決め球のスプリッターは80mph台後半の球速を誇った[15]。30代中盤以降は抜群の制球力を身につけ、2001年からの通算与四球率は1.40と驚異的な数値を記録しており、どの球種でもコンスタントにストライクを取ることができた[15]

若い頃は「君は頭が悪いんだってね」という問いに対し、「その通りだ」と答えるなど『パーティ・アニマル』と呼ばれるほど思慮が足りない選手であった[16]。しかし30歳を越えた辺りから膨大なメモとノートパソコンに蓄積したデータを用いた打者の分析や、自軍の野手の守備位置の研究などの徹底した準備を行うようになり、試合前にはコーチや選手を集めて打者一人一人に対する守備位置の確認を行い、「この打者に対しては2ストライクで守備位置を変えてほしい」などという要求まで出し、試合中でもマウンドから守備位置変更の指示を出すこともあった[16]。ダイヤモンドバックス時代にチームメイトだったルイス・ゴンザレスは「こっちには何のことだか…なんてことが多いが、彼は自分が何をやっているかをしっかりと分かっている。だから彼の言う通りにしたのにやられた、なんて時は側にやって来て『気にするな。間違ったのは俺だ』って言うんだよ」と語っている[16]

人物

気迫溢れるプレーを信条とし、日本のマスコミからは敬愛をこめて「マウンドの鬼」と称されたこともある一方で慈善事業にも積極的で、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の研究を支援しており、奪三振数に応じて毎年寄付を行っている。人気クイズ番組「Jeopardy!」(2006年11月9日放送)に出演した際は獲得した25,000ドルをチャリティへ寄付し、2004年のプレイオフでは、足首の手術を受けた後(カメラが足によく向かうのを知りつつ)シューズに "K ALS" (Kは三振の意)と書いた。2006年オフにレッドソックス移籍が決まった岡島秀樹松坂大輔のために日本語を少し学び始めた[17]。海外でのウィンターリーグの経験から、周りで全く分からない言葉を喋られる事がいかに気持ちの良くないものであるかを知っているため、少しでもそれを軽くするようにチームメートが努力をしてやるのが最高の解決方法だと語っている。

ゲーム

ボードゲーム/コンピューターゲームのファンとして知られ、「nerd(オタク)」を自認している[18]。特に戦術級ウォーゲームアドバンスト・スコードリーダー(Advanced Squard Leader / ASL)の根強いファンである。例年開催されるASLオクトーバーフェストに参加出来なかった時には、その無念さから自らの資金でASLオープンを創設した。その第1回は1993年1月15日にテキサス州ヒューストンで開催された。また同ゲームのための「Fire for Effect」というアマチュア隔月雑誌も刊行していた。発売元のアバロンヒル(Avalon Hill)が倒産してハズブロ社に買収された際にはASL部門を買い取り、マルチマン・パブリッシング社を設立し、ゲームの再版や新シナリオの販売などを手がけている。また新雑誌「ASL Journal」を創刊し、記事やゲームシナリオを提供している。

エバークエストエバークエスト2の大ファンとしても広く知られている。エバークエスト2の開発者がシリングに特別のキャラクターを作成し、2006年6月5日から7日までの3日間、ファンはそのバーチャルのカート・シリングと対戦する事ができた。このバーチャル・シリングが倒されるごとにソニーオンラインエンタテインメント社から5ドルがASL研究に寄付されたが、これもシリングの思いつきからである。その他PCゲーマー誌上で2つの拡張パックのレビューをしたこともある。

2006年にゲーム会社グリーンモンスターゲームズを創設した(のちに自身の背番号から38スタジオと改名)が、2012年6月に38スタジオは破産し、自身も無一文になってしまったという[19]

獲得タイトル・表彰・記録

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1988 BAL 4 4 0 0 0 0 3 0 -- .000 76 14.2 22 3 10 1 1 4 2 0 19 16 9.82 2.18
1989 5 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 38 8.2 10 2 3 0 0 6 1 0 6 6 6.23 1.50
1990 35 0 0 0 0 1 2 3 -- .333 191 46.0 38 1 19 0 0 32 0 0 13 13 2.54 1.24
1991 HOU 56 0 0 0 0 3 5 8 -- .375 336 75.2 79 2 39 7 0 71 4 1 35 32 3.81 1.56
1992 PHI 42 26 10 4 4 14 11 2 -- .560 895 226.1 165 11 59 4 1 147 4 0 67 59 2.35 0.99
1993 34 34 7 2 0 16 7 0 -- .696 982 235.1 234 23 57 6 4 186 9 3 114 105 4.02 1.24
1994 13 13 1 0 0 2 8 0 -- .200 360 82.1 87 10 28 3 3 58 3 1 42 41 4.48 1.40
1995 17 17 1 0 1 7 5 0 -- .583 473 116.0 96 12 26 2 3 114 0 1 52 46 3.57 1.05
1996 26 26 8 2 4 9 10 0 -- .474 732 183.1 149 16 50 5 3 182 5 0 69 65 3.19 1.09
1997 35 35 7 2 4 17 11 0 -- .607 1009 254.1 208 25 58 3 5 319 5 1 96 84 2.97 1.05
1998 35 35 15 2 1 15 14 0 -- .517 1089 268.2 236 23 61 3 6 300 12 0 101 97 3.25 1.11
1999 24 24 8 1 1 15 6 0 0 .714 735 180.1 159 25 44 0 5 152 4 0 74 71 3.54 1.13
2000 16 16 4 1 0 6 6 0 0 .500 474 112.2 110 17 32 4 1 96 4 0 49 49 3.91 1.26
ARI 13 13 4 1 1 5 6 0 0 .455 388 97.2 94 10 13 0 0 72 0 0 41 40 3.69 1.10
'00計 29 29 8 2 1 11 12 0 0 .478 862 210.1 204 27 45 4 1 168 4 0 90 89 3.81 1.18
2001 35 35 6 1 2 22 6 0 0 .786 1021 256.2 237 37 39 0 1 293 4 0 86 85 2.98 1.08
2002 36 35 5 1 2 23 7 0 0 .767 1017 259.1 218 29 33 1 3 316 6 0 95 93 3.23 0.97
2003 24 24 3 2 2 8 9 0 0 .471 673 168.0 144 17 32 2 3 194 4 0 58 55 2.95 1.05
2004 BOS 32 32 3 0 1 21 6 0 0 .778 910 226.2 206 23 35 0 5 203 3 0 84 82 3.26 1.06
2005 32 11 0 0 0 8 8 9 0 .500 418 93.1 121 12 22 0 3 87 1 1 59 59 5.69 1.53
2006 31 31 0 0 0 15 7 0 0 .682 834 204.0 220 28 28 1 3 183 1 0 90 90 3.97 1.22
2007 24 24 1 1 1 9 8 0 0 .529 633 151.0 165 21 23 1 2 101 0 0 68 65 3.87 1.25
MLB:20年 569 436 83 20 24 216 146 22 0 .597 13284 3261.0 2998 347 711 43 52 3116 72 8 1318 1253 3.46 1.14
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

脚注

  1. ^ a b Tyler Kepner / New York Times 「カート・シリング&ジョシュ・ベケットの師弟関係 "悪ガキ" から "エース" へ」 吉藤宗弘訳、『月刊スラッガー』99号、日本スポーツ企画出版社、2006年、雑誌15509-7、10-13頁。
  2. ^ この行為が「Unwritten Rules(野球の不文律)」を破ったとして騒動になった。
  3. ^ 木本大志『ICHIRO REPORT 3年目の真実』 VOL.7 Ques Tec System メジャーが導入を急ぐ判定監視システムとは?」 『スポーツナビ』、2003年。
  4. ^ a b c ナガオ勝司 「カート・シリング/37歳エースの男気。」『月刊メジャー・リーグ』2004年2月号、ベースボールマガジン社、2004年、雑誌 08625-2、8 - 13項。
  5. ^ 嶋田剛司 「テリー・フランコーナ/新監督の十字架。」『月刊メジャー・リーグ』2004年2月号、ベースボールマガジン社、2004年、雑誌 08625-2、20 - 23項。
  6. ^ Cadaver used to help fix Schillings ankle” (英語) (2004年10月20日). 2008年5月13日閲覧。
  7. ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』廣済堂出版、2008年、39項頁。ISBN 978-4-331-51300-2 
  8. ^ Red Sox's Schilling, out until All-Star break, goes on 60-day DL” (英語) (2008年3月13日). 2008年3月13日閲覧。
  9. ^ a b 「2008プレーオフ総集編 ALCS ア・リーグ・チャンピオンシップシリーズ レイズ対レッドソックス」『月刊スラッガー』2009年1月号、日本スポーツ企画出版社、2009年、雑誌15509-1、56頁
  10. ^ Calling it quits”. 38pitches. 2009年3月24日閲覧。
  11. ^ Schilling announces his retirement Right-hander won Series games for Phillies, D-backs, Red Sox”. MLB.com. 2009年3月24日閲覧。
  12. ^ http://www.baseball-reference.com/awards/hof_2013.shtml
  13. ^ http://www.sanspo.com/baseball/news/20130208/mlb13020815390003-n1.html
  14. ^ http://www.sanspo.com/baseball/news/20130208/mlb13020815390003-n1.html
  15. ^ a b c スカウティング・レポート『月刊スラッガー』2002年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、34-37頁。
  16. ^ a b c スペシャル・ストーリー/カート・シリング『月刊スラッガー』2002年3月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-3、34-39頁。
  17. ^ http://www.boston.com/sports/baseball/redsox/articles/2006/12/10/francona_awaiting_more_gifts/
  18. ^ [1]
  19. ^ 元メジャーリーグ投手、設立したゲーム会社38 Studiosの破産で一文無しに CNET Japan 2012年6月29日

外部リンク