矢野燿大

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矢野 燿大(矢野 輝弘)
阪神タイガース 監督 #88
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現役時代(2008年 阪神甲子園球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市平野区
生年月日 (1968-12-06) 1968年12月6日(53歳)
身長
体重
181 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1990年 ドラフト2位
初出場 1991年8月3日
最終出場 2010年5月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本代表
五輪 2008年

矢野 燿大(やの あきひろ、本名:矢野 輝弘〈読み同じ〉、1968年12月6日 - )は、大阪府大阪市平野区出身の元プロ野球選手捕手、右投右打)。解説者評論家コーチを経て、2019年より阪神タイガース一軍監督を務めている。

現役時代は中日ドラゴンズ1991年 - 1997年)と阪神(1998年 - 2010年)に在籍し、2003年2005年には正捕手として、阪神のセ・リーグ優勝に貢献した。現役引退後、2013年11月からは野球日本代表のバッテリーコーチを務めた。2016年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして阪神へ復帰[1]2018年には阪神二軍ウエスタン・リーグ)の監督を務めた[2]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学2年時、地元の少年野球チームで軟式野球を始めた。当初は遊撃手だったが、チームの捕手が故障してから捕手を務めた。大阪市立瓜破中学校では当時野球部がなかったため、バスケットボール部に所属していた。

大阪市立桜宮高等学校に進学し、硬式野球部に入部。少年野球時代の活躍を知る当時の監督伊藤義博によって、1年生からレギュラーに抜擢された。伊藤が1年後に東北福祉大学の硬式野球部監督へ転じてからは、投手以外の全ポジションを経験、捕手として1年後輩の土井善和バッテリーを組みながら、クリーンナップを担うまでに打撃を伸ばした(後述)ほか、3年時には主将も務めた。高校通算で3本塁打を記録したものの、春・夏とも甲子園球場での全国大会出場を果たせなかった。高校時代のコーチに岡田龍生がいる。

高校卒業後、伊藤がいた東北福祉大学へ進学。高校時代と同じく捕手以外のポジションもこなしていた関係で、1989年には三塁手として仙台六大学野球春季リーグ戦のベストナインに選ばれた[3]。さらに、リーグ戦の終了後は、大学日本代表や第18回日米大学野球選手権のメンバーにも入った[4]。4年時の仙台六大学野球リーグ戦では、捕手として春季から2季連続でベストナインに選出。ラストシーズンであった秋季には、最優秀選手と最多打点のタイトルも獲得した[3]。なお、チームは矢野の在学中に仙台六大学のリーグ戦で優勝を続けていて、矢野の4年時には大学選手権で決勝・明治神宮大会で準決勝へ進出した。また、金本知憲は矢野と同じ年齢ながら、1年浪人の後に矢野の下級生として入学。矢野と共にチームの主軸として活躍し、卒業後に阪神で再びチームメイトになっている。

大学卒業後は教職へ就くことも検討していたが、1990年のNPBドラフト会議で、読売ジャイアンツ(巨人)と中日から2位で指名を受けた。抽選の結果、中日が独占交渉権を獲得し、4位で指名された大学の同級生・吉田太と共に入団した。入団当初の背番号は2。この会議では、東北福祉大学から矢野・吉田以外にも、内野手の宮川一彦横浜大洋ホエールズ、投手の小坂勝仁ヤクルトスワローズからそれぞれ指名され。4人のプロ野球選手が誕生している[5]

中日時代[編集]

1991年、1年目から一軍公式戦に出場。この年は22試合に出場し、プロ初本塁打も放った。翌1992年は72試合に出場。うち捕手として65試合に出場し、22試合で先発マスクを被った。打撃面でも打率.259と一定の成績を残した。同年10月1日の対阪神タイガース戦(ナゴヤ球場)では1-1の同点の延長10回二死一、二塁の打席で猪俣隆からサヨナラ安打を放った[6]

1993年からは出番が減り、1993年には24試合、1994年は35試合の出場に留まり、打撃面でも成績を残せなかった。1995年には57試合に出場したものの、同年オフのドラフト会議で1位指名を受けた荒木雅博に背番号2を譲る形で背番号38に変更。

1996年8月11日の対巨人戦では、野口茂樹とバッテリーを組んでノーヒットノーランを達成した。また、捕手として一軍に帯同しながら、打撃力の高さを買われて公式戦に外野手として出場することもあった。また、巨人が逆転優勝を決めたナゴヤ球場での最終戦には、1番・中堅手で出場。中日の選手としては同球場の公式戦で最後となる本塁打を放った。56試合の出場で、打率.346、7本塁打、19打点だった。

1997年は中日では最多の83試合に出場、うち捕手として60試合に出場した[7]。シーズン終盤は主に右翼手として起用され、合計62試合に先発出場した。しかし、シーズンオフに大豊泰昭とともに、関川浩一久慈照嘉との交換トレードで阪神へ移籍[8]。背番号は39となった。当初このトレードは中村武志放出の予定で進んでおり、もし実現していれば矢野を正捕手で起用する予定だったと当時中日の監督だった星野仙一がのちに振り返っている[9]

阪神時代[編集]

移籍1年目の1998年は、当時の監督であった吉田義男にリード面を評価され、山田勝彦に代わってすぐに正捕手の座を勝ち取った。5月26日の対中日戦で川尻哲郎をリードして2度目のノーヒットノーランを記録。この試合の対戦投手は中日時代にノーヒットノーランを達成した野口であった[10]。この年、7月7日の対横浜戦(大阪ドーム)で1点を追う9回二死一、二塁の打席でこの日まで無敗で連続セーブ記録を続けていた、当時全盛期(この年のシーズンMVP)の“大魔神”こと佐々木主浩(大学の1年先輩)から、佐々木のその年唯一の敗戦となる逆転サヨナラ安打を記録した[11]。同年はプロ入り初のシーズン100試合出場を果たし、最終的に打率.211と低調だったが110試合に出場した。

1999年、プロ入り9年目にして初めて規定打席に到達し、打率.304(リーグ10位)を記録した。阪神の捕手で規定打席に達した上での打率3割を記録したのは1979年の若菜嘉晴(打率.301)以来20年ぶりのことであった。同年8月13日の対ヤクルト戦(大阪ドーム)では2-2の同点の延長15回二死満塁の打席で高津臣吾からサヨナラ安打を放った[12]

2000年、打率こそ前年を下回ったが正捕手に定着、こちらも若菜以来20年ぶりに2年連続捕手として規定打席に到達した。

2001年オフ、このシーズン限りで監督を辞任した野村克也の後任として、かつて自らをトレードで放出した星野仙一が阪神監督に就任。この時「また星野監督に捨てられてしまう」と失望したと後に語っている。

2002年、4月13日の対横浜戦(阪神甲子園球場)で9回に本塁上のクロスプレイで左肩を脱臼[13]。7月26日の対中日戦(阪神甲子園球場)では3-3の同点の9回無死一塁の打席で落合英二から左前安打を放ち、これを左翼手の蔵本英智が後逸しサヨナラ勝ちとなった[14]が、8月10日の対中日戦(ナゴヤドーム)で骨折して戦線離脱[15]し、好調だったチームも矢野の離脱と共に失速した。

2003年日本ハムファイターズの正捕手だった野口寿浩がトレードで入団。自身のポジションが危ぶまれたが、大学時代のチームメイトで広島東洋カープから移籍してきた金本の影響を受け、強い体作りに着手。シーズンを通してほぼマスクを被り、8番の藤本敦士とともに「恐怖の下位打線」と呼ばれた。MVPは4点差で井川慶に譲ったものの、チーム防御率セントラル・リーグトップの3.53、打撃でも打率.328(リーグ3位)を記録し、初のベストナインゴールデングラブ賞を獲得。ゴールデングラブ賞は捕手として史上最年長での初受賞であった。同年6月17日の対横浜戦(阪神甲子園球場)では2点を追う9回無死満塁の打席でデニーから逆転サヨナラ3点適時三塁打[16]、9月5日の対横浜戦(阪神甲子園球場)では1点を追う9回一死一塁の打席でエディ・ギャラードから逆転サヨナラ2点本塁打[17]を記録した。

2004年には36歳にして自身初となる全試合出場を達成。しかし、シーズン終盤には捕逸などミスも目立った。また、辻恭彦以来球団史上2人目となる全試合マスクを目指したが、代打出場のみだった試合が1試合あり達成できなかった。同年7月29日の対中日戦(阪神甲子園球場)では7-7の同点の延長12回二死一、二塁の打席で岩瀬仁紀からサヨナラ安打を放った[18]

2005年には三振を減らすべく宮本慎也を参考にした打撃フォームに改造。6月11日の対日本ハム戦(阪神甲子園球場)で7回一死満塁の打席で矢野諭から満塁本塁打[19]、8月18日の対横浜戦(大阪ドーム)で5-5の同点の延長10回一死一、二塁の打席で木塚敦志からシーズンの対横浜戦勝ち越しを決めるサヨナラ安打を放った[20]。シーズン通算では自己最多の19本塁打を放ち、盗塁阻止率も自己最高記録を残した。自身2度目のベストナインとゴールデングラブ賞、日本シリーズ敢闘賞を獲得。同年、自身2回目となるFA権を取得し、オフに行使のうえ残留[21]

2006年、5月4日の対巨人戦(阪神甲子園球場)では2-2の同点の延長10回二死二塁の打席で福田聡志からサヨナラ安打[22]、翌5日の対横浜戦(横浜スタジアム)では自身初の1試合3本塁打を含む5打数4安打7打点[23]と活躍。シーズンでは17本塁打を放ち、10月4日の対ヤクルト戦(明治神宮野球場)では2回に石井一久から3点本塁打を放ち、通算100本塁打を達成[24]。チーム2位の78打点も評価され、2年連続3度目のベストナインにも選出された。

北京オリンピックでの矢野(2008年)

2007年は週に1試合ほど野口や狩野恵輔にスタメンマスクを譲ることが多く、4月24日の対ヤクルト戦(阪神甲子園球場)で1-1の同点の9回一死満塁の打席で高津臣吾からサヨナラ安打を放った[25]が、セ・パ交流戦時に右のふくらはぎを痛めたこともあり、一時登録を抹消。打率.236、 6本塁打と打撃不振に終わった。同年オフには北京オリンピックの野球日本代表に招集され[26]、アジア予選で試合の終盤を任される「抑え捕手」として活躍した。

2008年は野口が岩田稔上園啓史ら若手とバッテリーを組み、矢野は主に安藤優也下柳剛福原忍らと組む併用でスタート。スタメン出場しなかった試合では終盤に代打で出場し、その後抑え藤川球児とバッテリーを組むような起用が多く、2年ぶりに規定打席に到達。夏場には藤川、新井貴浩と共に北京オリンピック代表に招集された。同年9月は、9日の対ヤクルト戦(阪神甲子園球場)では2-2の同点の9回無死無走者の打席で押本健彦からサヨナラ本塁打[27]、13日の対広島戦(阪神甲子園球場)では両者無得点で迎えた延長10回一死一塁の打席で梅津智弘からサヨナラ二塁打[28]の2度のサヨナラ打を放った。

2009年は前年オフに手術した右肘の回復が遅れたため開幕から二軍での調整が続き、7月に一軍昇格した後もスタメン出場は安藤・下柳が先発する試合に限られた。8月16日には41歳の下柳と組んでプロ野球史上初の40代バッテリーでの勝利を達成したが、シーズン終盤に右足首を骨折して再び戦線離脱し30試合の出場に終わった。打撃では100打席未満ながら打率3割、得点圏打率4割超を記録。オフに心機一転の意味を込め、登録名を本名の矢野輝弘から矢野燿大へ変更した[29]

2010年城島健司の加入もあり、8試合の出場のみだった。6月に右肘の故障で一軍登録を抹消されていたが回復の目処が立たず、9月2日にこのシーズン限りの現役引退を球団に申し入れ、了承された[30]。9月25日の中日との二軍最終戦では下柳とバッテリーを組み、9回の1イニングを無失点に抑え、試合後の二軍引退セレモニーで阪神と古巣・中日の双方の選手から胴上げされ、「中日での7年間がなければ僕はない。野球人生を幸せに送れた」と感謝を述べた[31][32][33]。9月30日の対横浜戦では、9回二死から出場予定だったが、二死になる前に抑え投手の藤川が村田修一に逆転3点本塁打を打たれたため、矢野の試合出場は幻となった。試合後、藤川を抱き2人で号泣し「これまでお前のおかげでいっぱいええ思いさせてもらったよ」と声を掛けた。引退セレモニーでは「最高の野球人生でした。またいつの日か甲子園で会いましょう!」と述べた[34]

現役引退後[編集]

2010年11月、スポーツニッポン大阪本社専属野球評論家への就任を発表。2011年1月からは、朝日放送サンテレビ野球解説者としても活動を始め、2月13日に朝日放送テレビが関西ローカルで放送した阪神対ヤクルトの練習試合中継で、事実上の解説者デビューを果たした。朝日放送では、現役時代の2004年から、オフシーズンに同局のラジオ番組『矢野輝弘のどーんと来い!!』(2010年からは『矢野燿大のどーんと来い!!』)のパーソナリティを担当していた。

朝日放送『おはよう朝日です』『NEWSゆう+』『キャスト』で月曜日のスポーツキャスターを務めるかたわら、同局のゴルフラグビーなどのスポーツ中継や、サンテレビ『熱血!タイガース党』に不定期で出演。朝日放送の全国高等学校野球選手権大会中継でも、不定期で登場した。

2012年の日本プロ野球公式戦期間中に開催されたロンドンオリンピックでは、競技種目に野球が入っていないにもかかわらず、朝日放送を代表して岩本計介アナウンサーとともに現地取材を敢行。金本が現役引退を発表した同年9月12日には、ABCラジオの『ABCフレッシュアップベースボール』で阪神対ヤクルト中継の解説を担当する一方で、試合前に開かれた金本の引退発表記者会見の取材にも携わった。

2011年3月には、自身初の著書『考える虎』が発売された。発売直前に東日本大震災が発生したことを受けて、同書の印税の全額を、大学時代を過ごした仙台市を含む被災地域への義援金として寄付することを表明した。

2014年11月23日、第4回神戸マラソンで自身初のフルマラソンに挑戦した。熱烈な阪神ファンである坂本直子(元天満屋所属、2004年アテネオリンピック・女子マラソン7位入賞)からマラソン指導を受けた結果、3時間55分37秒で完走を果たした。

日本代表指導者時代[編集]

2013年、常設されていた野球日本代表(侍ジャパン)の新体制化に伴ってトップチームの新監督に就任した小久保裕紀の下でバッテリーコーチに就任。背番号は、自身の好きな数字(8)や矢野の妻の誕生日(8月8日)にちなんだ88[35]。矢野にとってはプロ・アマを通じて初のコーチ就任であった。

コーチとして、同年11月に台湾で開催された国際強化試合「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」、2014年11月に日本で開催された日米野球2014[36]2015年3月の強化試合「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」[37]、同年11月の第1回WBSCプレミア12[38]に参加した。

プレミア12開催期間中に阪神の一軍コーチ就任を発表したが(後述)、大会期間中は日本代表コーチとしての活動を優先した[39]

阪神指導者時代[編集]

一軍の作戦兼バッテリーコーチとして[編集]

2015年10月27日、阪神の一軍作戦兼バッテリーコーチに就任。大学および阪神でのチームメイトだった金本の一軍監督就任を受けての本格的な現場復帰で、登録名は阪神での現役後期→野球解説者時代に続いて矢野 燿大、背番号は日本代表コーチと同じ88[1][35]

2016年は春季キャンプから捕手陣を「横一線」として競い合わせた末に、二軍生活の長かった岡﨑太一に一軍開幕戦のスタメンマスクを初めて任せた。その後は、解説者時代から注目してきた原口文仁や、新人の坂本誠志郎を一軍に抜擢。故障の影響で育成選手契約を結んでいた原口については、4月の支配下再登録を経て、クリーンアップの一角を担う正捕手格の主力選手に育て上げた。

2017年、原口を事実上一塁手へ転向させる一方、2015年の正捕手だった梅野隆太郎に、開幕から多くの試合でスタメンマスクを任せた。4月4日の対ヤクルト戦(京セラドーム大阪)では、5回表に阪神の先発投手藤浪晋太郎からヤクルトの畠山和洋への死球をきっかけに生じた乱闘で、藤浪を守る目的でグラウンド上に出たところ、畠山への死球に激昂したウラディミール・バレンティンに突き倒され、跳び蹴りで応戦[40][41]。バレンティンとともに審判団から退場を宣告された。矢野にとってはコーチ就任後初の退場処分で、翌5日にNPBから厳重注意と制裁金15万円を科された。シーズン終了後、2016年から二軍の指揮を執っていた掛布雅之が「オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー」という特別職に転じたことに伴い、二軍監督へ異動。

二軍監督として[編集]

2018年のウエスタン・リーグ公式戦では、「超積極的」「諦めない」「誰かを喜ばせる」という方針の下で、若手選手に積極的な走塁の意識を植え付けた。チームが勝利した試合では、勝利へ貢献した選手にヒーローインタビューやファンに対するスピーチを必ず体験させた。その結果、前年のシーズンをリーグ最下位で終えたチームを8年ぶりのリーグ優勝に導き[42]ファーム日本選手権も12年ぶりに制した[43]。ウエスタン・リーグでの最終成績は、115試合で68勝40敗7分。通算勝率は.630で、リーグ内のチーム最多記録であるシーズン163盗塁[43]と、チーム歴代最多記録のシーズン68勝を達成した[44]

一軍監督として[編集]

2018年シーズン、チームがリーグ最下位となったことで、一軍監督の金本が辞任を表明した。これを受け、球団は急遽矢野に一軍監督就任を要請[45]、矢野はこれを受諾し[46]、同月18日、翌2019年より一軍監督を務めることが正式に発表された。

就任に際しては、金本監督時代の方針を継承しながら、二軍監督時代に続いて「超積極的」「諦めない」「誰かを喜ばせる」という姿勢を選手に浸透させることを表明[47]。一軍監督として初めて臨んだ10月25日のNPBドラフト会議では、藤原恭大辰己涼介の交渉権を逃しながらも[48]、二軍監督時代に大阪ガスとの練習試合で対戦した近本光司の指名に漕ぎ着けた。

2019年[編集]

ブチ破れ!オレがやる」というチームスローガンを提唱。野球解説者時代に契約を結んでいたスポーツニッポン大阪本社発行分紙面での恒例企画(阪神の一軍監督が年始に自筆の書を披露する企画)でも、このスローガンを毛筆でしたためた。さらに、二軍監督時代からの方針に加えて、一軍監督としての「5か条」(チームの勝利、勝利プラス1、喜怒哀楽、裏方への感謝、球団とも一体となったチーム作り)を提示。就任後初めて迎えた春季キャンプでは、自分で考える力を選手に植え付けるべく、自主性を重視しながら相応の結果を求める方針を打ち出した[49]。レギュラーシーズン中には、試合に敗れてもナイン一同でグラウンドに出て観客に一礼したり、感情を抑えながらインタビューに応じたりするなど、ファンに対する真摯な姿勢を貫徹[50]。一方、味方の選手が活躍した際に満面の笑みでガッツポーズを見せる姿が、「矢野ガッツ」と呼ばれるようになった[51]

レギュラーシーズンでは69勝68敗6分(勝率.504)で3位となり、吉田義男の監督第2期初年に当たる1985年(リーグ優勝)以来34年ぶりに、阪神の一軍監督が就任1年目でチームをAクラスに導いた事例となった。また新人監督が5割以上の最終勝率でAクラスを実現させた事例は1982年(リーグ3位)の安藤統男以来37年ぶりであった[52]が、前年のレギュラーシーズン最下位からAクラス入りに至った事例は、球団史上初めてであった。

クライマックスシリーズ (CS) では、横浜DeNAベイスターズとのファーストステージを2勝1敗で突破。第1戦(10月5日)では、CS史上初めて、最大6点差から逆転勝利を収めた。しかしファイナルステージでは、レギュラーシーズンで大きく負け越した巨人から1勝を挙げるにとどまり、日本シリーズ進出を逃した。

2020年[編集]

「楽しむからこそ実力が発揮できる」「笑うことには大きなパワーがある」というニュアンスで、チームスローガンを「It's 勝 Time! オレがヤル」(ロゴでは「勝」を「笑」と重ね合わせた特殊な文字で表記)に改めた[53]

この年は、新型コロナウイルス感染症がチーム内でも拡大しており、球団では感染防止策の一環として、チーム関係者によるシーズン中の外食の機会・参加人数を制限する内規を定めていた。しかし9月上旬、矢野が夏場の遠征中に内規を超える大人数での会食に臨んでいたことが報道された。これを受けて、球団では残りシーズンにおける(選手・スタッフを含めた)遠征先の外食を一切禁止したが、矢野の会食については、場所が(当時、感染者数が全国でも少ないほうであった)広島県内であり、球団本部の責任者が「監督のチームマネジメントやチーム力の強化に資する」という理由で会食を事前に許可していた[54]ことから不問とされた。

レギュラーシーズン中の10月26日に開催されたNPBドラフト会議では、大学球界屈指のスラッガーであった近畿大学佐藤輝明を、3球団と指名重複の末に抽選で自ら引き当てた。

2021年[編集]

コーチ陣の一部を入れ替え。「一軍監督としての過去2年間の成績(最高はセ・リーグ2位)を『超』えて『頂』(優勝)に『挑』む」というニュアンスで、「挑・超・頂-挑む 超える 頂(いただき)へ-」というチームスローガンを設定。春季キャンプでは、守備力の強化を図るべく、自身と同じチームへの所属や阪神への在籍経験がない川相昌弘を臨時コーチに招聘した。

レギュラーシーズンではリーグトップの77勝を挙げたほか、貯金も前年から3倍増の21にまで達したが、順位はリーグ優勝したヤクルトに続く2位にとどまった。もっとも、ヤクルトとの最終勝率の差は5厘(ゲーム差は0)で、セ・リーグではシーズンを通じて他の5球団に負け越さなかった。2リーグ分立後(1950年以降)の阪神の一軍監督で、チームを就任1年目から3年連続のAクラス入りに導いた人物は矢野が初めてである[55]。しかし、クライマックスシリーズでは、ファーストステージでシーズン3位の巨人を相手に2連敗を喫し、日本シリーズ進出を逃した。

一軍監督としてはこの年が3年契約の最終年であったが、9月、NPB球団では最も早く球団トップ(オーナー兼球団社長の藤原崇起)から続投を要請された。11月9日、一軍監督契約を改めて締結した。元阪急ブレーブス→オリックスの藤井康雄を秋季練習から一・二軍巡回打撃コーチへ招聘[56]。さらに、「捕手としての出番が減っているので、他のポジションに回ってでも出場機会を増やしたい」という原口の要望を受け、一塁手や外野手に専念させることを秋季練習から容認した。

2022年[編集]

「1球、一打、一瞬にこだわる」「チームが1つになる(ONE TEAM)」「一番上(リーグ優勝)に向けて前年よりもう1勝増やす」というニュアンスを掛け合わせたチームスローガンとして、「イチにカケル!」を新たに設定[57]。春季キャンプインの前日(1月31日)に、この年限りで監督職を退任する意向を選手と報道陣に相次いで明かした[58][59]。本人によれば、退任を決断したのは2021年シーズンの終了後で、同年9月に続投の要請(前述)を受けてから熟考を重ねた結果であった[60]

選手としての特徴[編集]

阪神タイガースを2度のリーグ優勝に導いた強打の名捕手[61]。勝負強い打撃と卓越したリード、通算守備率.996を記録した堅守が武器であり、攻守にわたり活躍した[62][63]。一方で、打てそうで打てなかった(苦手にしていた)投手に、小笠原孝(古巣の中日で活躍した左投手)を挙げていた。

山本昌からは、技術的にはストレートで追い込んで最後に変化球というタイプの捕手であったと評されている[64]

プロ入りを検討していた当時は、レギュラー捕手が高齢で捕手の層も薄かった阪神や巨人への入団を希望していた。それだけに、2歳年上の中村武志がレギュラー捕手として全盛期を迎えていた中日からドラフト会議で指名されたことに不安を感じていた[65]。後に中日時代の思い出を振り返り「(中村の)存在が大き過ぎて、勝てるとは思えなかった」と、ラジオ番組『スポーツにぴたっと。』で語っている。その中で、2010年に自身が引退する際に、当時中日のコーチに就任していた中村から労われたことに対し「中日時代はどうしても超えられなかった人なので嬉しい」と語り、「幸せな野球人生を送れた」と20年の現役生活を振り返った[31]

ドラフト会議では、司会者だった伊東一雄から名前を「てるひろ」と読み間違えられ、当時中日の監督であった星野仙一から「テル」と呼ばれるようになった。中日では星野から打撃力を評価されていたが、入団4年目(1994年)まで一軍で目立った実績を残せなかった。しかし、東北福祉大から一緒に入団した吉田が、その年のシーズン終了後に戦力外通告を受けてひっそりと退団したことから一念発起。「自分が辞める時に後悔だけはしたくない」という危機感を抱きながら、正捕手の中村のリードを本格的に研究するなど、自ら率先して練習に励むようになった。さらに、外野手として公式戦に出場する機会を重ねるうちに、捕手というポジションへの思いを強めた。「ボールがいつ飛んでくるか分からない外野手では、一球ごとにサインを考えたり投手にボールを返したりする捕手に比べて、どこか試合に参加してないような気持ちになった」という[65]。解説者に転じてからは、このような下積みの経験を基に、(捕手を含めた)若手野手のプレーや野球へ取り組む姿勢に苦言を呈することが多かった。

中日から阪神へのトレードが決まった際、当時中日の監督であった星野からは何も言葉を掛けてもらえず「絶対に星野さんを見返す。中日戦だけには絶対、負けへん」と中日相手には多く死球を要求していた。なお、星野の阪神監督就任後は、気まずい素振りも見せずに星野がよく話しかけてきてくれたため、次第に「星野さんに認められたい。認められるために頑張る」と気持ちが変わっていった[66]

阪神の選手時代には、「優しい」と形容する解説者が多い一方で、「阪神で一番短気」と言われることもあった。現に、退場寸前の乱闘を年に1度のペースで起こしたほか、幼児が駄々をこねるような仕草で審判の判定に不服を示すことも珍しくなかった。前述した2017年の退場処分以外にも、阪神捕手時代の1998年と2006年に、審判への暴力行為で退場処分を受けている。

人物[編集]

愛称は「テル」、「アキちゃん」など。

読書家で、愛読書は『夢をかなえるゾウ』(水野敬也)や『アドラー心理学』など。阪神での現役時代に星野の前任監督・野村克也から読書を勧められたことをきっかけに、読書の重要性を認識したことから、若手選手にも自主的に考えながら本を読むことを勧めている。阪神二軍監督へ就任してからのキャンプでは、宿泊先のホテルで朝食を取ってから球場へ出発するまでの1時間を読書に充当。「活字を追い掛けながら頭に入れたことは、他人に話すことで覚えられる」という考え[67]から、読んだ本の内容を、チームミーティングや選手へのアドバイスに反映させることも多い。

大のスイーツ好きで、阪神の現役時代後期には、プロ野球シーズン中に甲子園球場内の売店だけで販売されるスイーツのプロデュースも手掛けた(後述)。

現役を引退してからは、野球解説者・評論家として活動するかたわら、現役時代からの趣味であるゴルフ関連の番組にもたびたび出演。朝日放送が毎年11月に主催するマイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメントでは、ABCテレビの中継でラウンドリポーターを務めたり、アマチュアのゴルファーとして「マンデートーナメント」に参加したりしていた(#関連情報に詳述)。しかし、他のゴルフトーナメントへの出場に向けた練習中に左肘を痛めたことから、2014年5月20日に患部を手術。手術の直後には、左腕を大きなギプスで固定しながら、同局のレギュラー番組への出演を続けていた[68]

現役時代には験を担がなかったが、阪神一軍監督に就任してからは、「未来に起こりそうな慶事をあらかじめ祝ってしまうことで現実を引き寄せる」という「予祝」(よしゅく)を実践しており、毎年初頭から、チームがリーグ優勝や日本シリーズ制覇をすでに達成したかのようなコメントを、報道陣の前で意識的に繰り返している[69]。就任2年目の2020年には、「日本シリーズの制覇を記念してチーム全体でハワイ旅行」という予祝を体現すべく、選手会長の糸原健斗など選手有志からの発案による「矢野ハワイ」(現地の挨拶であるアロハにちなんだポーズ)をオープン戦で披露していた[70]。しかし、後に新型コロナウイルス感染拡大の影響で、予祝どころではない事態に次々と見舞われ、また「矢野ハワイ」実現への絶対条件である日本シリーズへの出場も2年続けて巨人に阻まれた。2021年にもリーグ制覇を僅差で逃したものの、シーズン限りでの監督退任を表明したうえで臨んだ2022年沖縄春季キャンプの終盤(2月23日)には、当日「1日キャプテン」を任されていた糸井嘉男西勇輝の発案による「サプライズ予祝」で、選手から3回にわたって胴上げされた。NPBの春季キャンプ期間中に監督が選手から胴上げされるのは初のケースであった[71]

2019年のレギュラーシーズン最終盤には、試合がある日に起床してから球場でユニフォームに着替えるまで赤色のパンツを履くように心掛けていた。この時期、チームは6連勝でレギュラーシーズンを終え、前述した最終戦でシーズン3位を確定していた[72]。その後も、クライマックスステージやドラフト会議など、監督として大事な局面へ臨むたびに赤色のパンツを着用していた[73][74]。このエピソードにちなんで、阪神球団では2020年6月から、矢野の監修による「矢野監督勝負パンツ」(矢野のイラストと阪神球団のロゴを入れた赤色のボクサーブリーフ)を公式グッズとして発売している[75]。もっとも、佐藤輝明への独占交渉権を4球団の指名重複による抽選で引き当てた同年のドラフト会議には、赤色のパンツを履くなどの験を担かずに「自然体」で臨んでいた[76]

2020年1月13日(月曜日・成人の日)、兵庫県西宮市成人式式典「二十歳を祝うつどい」が甲子園球場で初めて開催された際には、同球場スコアボード内の「オーロラビジョン」から式典中に流されるメッセージビデオに阪神のユニフォーム姿で出演。阪神の一軍監督として、新成人に「チャレンジ」を勧めるメッセージを寄せた[77]。この式典には、監督在任中の2021年・2022年にもビデオを通じてメッセージを寄せている。

選手・著名人との交流[編集]

桜宮高校の野球部では、後にお笑い芸人となる河本栄得高山知浩が同級生として在籍しており、高山が3番、矢野が4番を打っていた。高山の前に走者が出ると勝負強い矢野に打席が回るよう、ほぼ毎回高山にバントのサインが出されたと高山が語っている。阪神に在籍していた2005年のシーズンオフには、リーグ優勝記念旅行の模様を放送する特別番組で、高山と2人で漫才に挑んだ。高山からは「アキちゃん」と呼ばれている。

阪神での現役時代には、当時の主力投手陣(藤川、福原、安藤、下柳など)からは絶大な信頼を受けていた。ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した井川からも「ヤンキースに来て下さい」と言われたことがある。巨人時代の上原浩治からも、オールスターでバッテリーを組んだ際にブログで「阪神で矢野さんがみんなに好かれる訳がわかった。すごく話しやすいいい人」と評され、2007年12月のアジア予選対韓国戦でバッテリーを組み9回裏を三者凡退で抑え勝利した際は、ウイニングボールを上原から直接手渡され、自らのブログで「一生の宝物」と書いた。

阪神時代のチームメイトである関本賢太郎とも仲が良く、矢野の現役時代には、「必死のパッチ」(「必死で頑張った」という意味の大阪弁)という発言をめぐる丁々発止のやり取りが人気を博した。矢野は、「自分がヒーローインタビューで最初に発した『必死のパッチ』を、翌日のヒーローインタビューで関本が勝手に真似たせいで、いつの間にか球団公認で関本の『必死のパッチ』グッズまで作られた」と主張。ヒーローインタビューや出演番組では、関本に向けて冗談交じりで「『必死のパッチ』を返せ」と迫る一幕もあった。実際には、関本が「必死のパッチ」を使用することを容認しており、矢野が現役を退いた後は、現役後期の関本にとどまらず、自身より後で阪神に入団した西岡剛・藤浪・原口もヒーローインタビューで使用している。その一方、関本が試合後のヒーローインタビューにて西岡に対して「“必死のパッチ”は矢野さんに借りている」と発言した翌日、『おはよう朝日です』で「貸した覚えはない」と応酬した。また、『キャスト』のスポーツキャスターを務めていた時期には、自身が担当するコーナー「ヤノスポ」で「必死のパッチ賞」を創設。公式ブログで阪神のコーチ就任を報告する際にも、「必死のパッチで頑張って来ます!」という言葉で記事を結んでいる[78]

また、阪神での現役時代には、オフシーズンを中心に関本や福原忍と趣味の釣りに興じていた。日本を代表するバスプロ今江克隆とも親しく、今江が経営している会社IMAKATSUの工場へ足を運んでルアーを作るほどである。なお、そのルアーは、同社ウェブサイト内のブログなどでたびたび紹介。解説者時代には、スポーツキャスターやラジオパーソナリティとして、野球・釣り以外のスポーツも積極的に取材していた。

阪神の一軍監督就任を機にヘッドコーチとして東北楽天ゴールデンイーグルスから招聘した清水雅治とは、2人とも現役の選手として星野監督時代の中日に在籍した時期、同じマンションに居住していた関係である。ナゴヤ球場やナゴヤドームで中日のホームゲームを開催する日に、矢野が4歳年上の清水を自家用車に同乗させ、自身の運転によって一緒に球場へ入るほどの間柄でもあった。清水は、2002年に西武ライオンズで現役を引退した後、西武・日本ハム・千葉ロッテマリーンズ・楽天や野球日本代表で16シーズンにわたってコーチを歴任し、2018年シーズン終了後も楽天から残留の要請を受けていたが、その最中に阪神の一軍監督へ就任した矢野から直々に一軍ヘッドコーチ就任を要請され、現役時代にプレー経験がない阪神への移籍を決めた[79]。2019年のシーズン終了後には、中日時代のチームメイトだった井上一樹も一軍打撃コーチに招聘。2021年シーズンには、井上が一軍のヘッドコーチ、清水が二軍の野手総合コーチに異動した。清水はレギュラーシーズンの終了後に退団したものの、シーズン中に開催された2020東京オリンピックの野球競技に日本代表チームのコーチとして携わったほか、退団後も代表チームのコーチを続けている。

2020年11月10日の阪神対巨人戦(甲子園)終了後に催された藤川の現役引退セレモニーでは、公の場としては自身の引退以来10年ぶりに藤川とのバッテリーが実現した。前述した事情で矢野の引退試合が幻に終わったことを背景に、藤川本人が「監督と選手」の立場を越えて1球だけの「ラストピッチング」を提案したことによるもので、矢野は捕手役で藤川の投球を受けた[80]。2010年のシーズン終了後にも、関西テレビで放送された年末特別番組の企画で藤川を相手に「ラストキャッチング」に臨んだ[81]

矢野のファンであることを公言している声優水樹奈々が2006年1月21日に行った日本武道館ライブ(NANA MIZUKI LIVEDOM-BIRTH- AT BUDOKAN)でビデオメッセージとサインボールを送り、2009年に水樹がナビゲーターとして出演していたGAORAの『ぷちトラ!』にて、お礼としてそのライブのDVDをプレゼントされた。また、矢野の地元・関西では、ラジオパーソナリティ桜井一枝も矢野公認のファンとして知られている。

プロデュース・社会貢献活動[編集]

2006年から2008年シーズンには、本人プロデュースのオリジナルスイーツ「Yano Chou(矢野シュー)」を甲子園球場の内野席売店で販売。夏季には、シューの中身をアイスに変えていた。2008年9月から現役最終年の2010年シーズンまでは、プロデュースメニューの第2弾「矢野輝弘(燿大)のヘルシーミックスジュース」と、繰り返し使える専用のタンブラーを同様の方法で販売。2006年8月末には、公式サイト限定でオリジナルTシャツを発売した。解説者時代にも、2014年に「矢野燿大のタイガースワッフルボウル」、2015年に「矢野の中華風牛肉弁当」を期間限定で発売している。

2003年からは、筋ジストロフィーを患うファンとも交流。現役最終年の2010年には、筋ジストロフィー患者や児童養護施設で暮らす子供たちへの支援を目的に、社会福祉法人・大阪府社会福祉協議会からの協力で「39(サンキュウ)矢野基金」を設立した。

2011年3月には、あきんどスシローの「応援部長」に就任。同月9日から31日までは、売上の一部を「39矢野基金」への寄付に充てることを目的に、自身のプロデュースによる2種類の寿司メニュー「必死のパッチまき」を近畿2府4県および徳島県の店舗(全103店)で発売していた[82]。同様の趣旨で、同年5月には「39矢野ネクタイ」、2012年3月には「Tシャツ」を公式サイトで販売している。

2015年には、「プロ野球の世界で、20年にわたり一線で活躍してきた矢野燿大だからこそできる恩返し」と称して、矢野が関西各地の少年野球チームを直々に指導する「39ベースボールプロジェクト」を4月から実施。軟式・硬式を問わず、指導を希望するチームを自身の公式サイトで募り、抽選で決まったチームを月に2回のペースで訪れていた。2016年からは、前年に現役を引退した関本が同プロジェクトを引き継いでいる。

2020年、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、日本高等学校野球連盟(高野連)主催の全国大会(第92回選抜高等学校野球大会第102回全国高等学校野球選手権大会および第65回全国軟式高等学校野球選手権大会)、男子の硬式選手権大会への出場校を決める地方大会、全国高等学校女子硬式野球連盟主催の第21回全国高等学校女子硬式野球選抜大会第24回全国高等学校女子硬式野球選手権大会第11回全日本女子硬式野球ユース選手権大会全日本女子軟式野球連盟主催の第18回全国高等学校女子軟式野球選手権大会が軒並み中止に追い込まれた際には、阪神の一軍監督として、これらの連盟に加盟する学校の硬式・軟式野球部の3年生男女部員とマネジャー全員(約5万名)に「甲子園の土キーホルダー」を贈呈することをコーチ・選手とともに提案した。球場を運営する阪神甲子園球場と阪神園芸の協力を得て、キーホルダーに用いる土を6月16日に甲子園球場のグラウンドで直々に採取する[83]など、プレゼントの実現に尽力し[84]、約4万8700個のキーホルダーが全加盟校へ贈呈された[85]。高野連から阪神球団に感謝状が贈呈され、11月27日に球団を代表して矢野と梅野が受け取った[86]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1991 中日 22 30 27 2 3 0 0 1 6 4 0 0 1 0 2 0 0 15 0 .111 .172 .222 .395
1992 72 118 108 10 28 6 0 0 34 8 0 1 0 1 8 0 1 20 3 .259 .314 .315 .628
1993 24 39 31 5 10 0 0 1 13 3 0 0 1 0 6 2 1 4 1 .323 .447 .419 .867
1994 35 53 46 5 10 2 0 1 15 2 0 1 3 0 3 1 1 9 2 .217 .280 .326 .606
1995 57 123 115 14 28 2 2 1 37 5 1 0 0 0 7 1 1 31 5 .243 .293 .322 .614
1996 56 124 104 26 36 3 0 7 60 19 1 0 2 2 13 0 3 16 2 .346 .426 .577 1.003
1997 83 244 214 24 54 8 0 3 71 19 1 0 5 0 22 1 3 32 3 .252 .331 .332 .662
1998 阪神 110 340 285 27 60 18 0 3 87 20 1 2 24 0 27 3 4 63 9 .211 .288 .305 .593
1999 113 418 369 39 112 13 2 3 138 27 5 2 6 2 36 2 5 74 14 .304 .371 .374 .745
2000 114 428 376 41 101 12 1 5 130 26 1 2 9 4 35 4 4 87 9 .269 .334 .346 .680
2001 119 364 327 26 79 10 1 8 115 30 1 1 5 3 28 0 1 72 10 .242 .301 .352 .653
2002 66 253 221 31 71 18 2 6 111 27 1 1 5 0 24 4 3 51 6 .321 .395 .502 .897
2003 126 484 433 65 142 25 5 14 219 79 1 0 4 1 38 6 8 84 8 .328 .392 .506 .897
2004 138 551 502 38 143 23 3 11 205 65 1 3 4 3 35 7 7 110 19 .285 .338 .408 .747
2005 138 550 499 53 135 26 0 19 218 71 1 1 9 2 32 1 8 113 12 .271 .323 .437 .760
2006 133 501 453 42 124 20 3 17 201 78 0 0 8 5 32 1 3 94 12 .274 .323 .444 .766
2007 106 401 356 25 84 14 1 6 118 42 0 0 7 1 34 0 3 92 9 .236 .307 .331 .639
2008 119 404 371 20 102 17 1 4 133 36 0 1 10 5 16 1 2 100 13 .275 .305 .358 .663
2009 30 83 75 9 23 1 1 2 32 8 1 0 0 0 8 1 0 17 1 .307 .373 .427 .800
2010 8 9 9 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .222 .222 .222 .444
通算:20年 1669 5517 4921 503 1347 218 22 112 1945 570 16 15 103 29 406 35 58 1089 138 .274 .335 .395 .730

年度別守備成績[編集]



捕手 外野


































1991 中日 14 34 3 0 0 2 1.000 3 0 3 1.000 -
1992 65 210 16 2 2 2 .991 22 18 4 .182 -
1993 21 56 7 0 1 3 1.000 8 5 3 .375 1 0 0 0 0 ----
1994 26 76 7 0 1 1 1.000 8 5 3 .375 -
1995 41 191 21 1 3 0 .995 16 10 6 .375 -
1996 38 157 13 1 0 3 .994 13 9 4 .308 12 14 1 1 0 .938
1997 60 307 28 2 3 4 .994 41 34 7 .171 22 34 0 0 0 1.000
1998 阪神 109 521 49 2 8 7 .997 80 54 26 .325 -
1999 111 693 52 5 8 6 .993 79 53 26 .329 -
2000 113 752 62 6 9 6 .993 69 45 24 .348 -
2001 108 556 72 3 14 2 .995 81 49 32 .395 4 4 0 0 0 1.000
2002 66 528 30 1 7 4 .998 31 19 12 .387 -
2003 123 932 66 2 11 14 .998 100 65 35 .350 -
2004 137 1126 56 3 16 5 .997 87 57 30 .345 -
2005 138 1130 76 3 11 8 .998 76 43 33 .434 -
2006 132 1001 75 6 7 5 .994 67 39 28 .418 -
2007 101 720 56 3 8 3 .996 67 47 20 .299 -
2008 116 748 63 2 7 4 .998 71 45 26 .366 -
2009 26 144 14 2 1 0 .988 18 13 5 .278 -
2010 1 0 0 0 0 0 .--- 0 0 0 .--- -
通算 1546 9882 766 44 117 79 .996 937 610 327 .349 39 52 1 1 0 .981

年度別監督成績[編集]

レギュラーシーズン



























2019 阪神 3位 143 69 68 6 .504 6.0 94 .251 3.46 51歳
2020 2位 120 60 53 7 .531 7.5 110 .246 3.35 52歳
2021 2位 143 77 56 10 .579 0.0 121 .247 3.30 53歳
2022 3位 143 68 71 4 .489 12.0 84 .243 2.67 54歳
通算:4年 549 274 248 27 .525 Aクラス4回
  • 2022年度シーズン終了時

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:7回(1999年、2002年 - 2006年、2008年)
  • 通算サヨナラ安打10本 ※阪神タイガース球団タイ記録[90]

背番号[編集]

登録名[編集]

  • 矢野 輝弘(やの あきひろ、1991年 - 2009年)
  • 矢野 燿大(やの あきひろ、2010年、2016年 - )

登場曲[編集]

代表歴[編集]

指導歴[編集]

関連情報[編集]

解説者時代の出演番組[編集]

2011年から2015年まで、朝日放送の解説者として、テレビ・ラジオで放送されるプロ野球中継(主に阪神戦)に登場。同局からの出向扱いで、『サンテレビボックス席』の阪神戦中継にも解説者として出演している。さらに中日OBでもあることから、CBCラジオの中日対阪神戦中継(ABCラジオと相互ネットの場合)に出演することがあった。

レギュラー番組[編集]

  • 虎バン朝日放送テレビ) - 阪神での現役時代から、インタビューやドキュメンタリー企画などにたびたび登場。2011年以降は、レギュラーコメンテーターとして出演。
  • おはよう朝日です月曜日(朝日放送テレビ) - 2011年3月7日放送分から、スポーツキャスターとしてレギュラー出演。
  • キャスト(朝日放送テレビ) - 『NEWSゆう+』の後番組で、2011年10月の放送開始から2015年3月まで、月曜日に編成されていた「ヤノスポ」でキャスターを担当。番組リニューアルで同コーナーが終了した2015年4月以降は、阪神時代のチームメイトだった下柳や桧山進次郎と交互に、水曜日の「週刊 浦川スポーツ」へ出演している。
  • スポーツにぴたっと。(ABCラジオ、オフシーズン番組)- 現役引退後初のレギュラー番組で、2010年度の途中(2011年1月5日放送分)から水曜日に出演(2011年度も続投)。2012年1月6日からは金曜日にも登場していた。2012年度は金曜日、『武田和歌子のぴたっと。』第2部として放送される2013年度以降は火曜日にのみ出演。
  • 金谷多一郎・矢野燿大の考えるゴルフSky・A sports+、2011年 - )
  • 虎魂(sky・A sports+、2011年10月から月1回のペースで放送)
  • NEWSゆう+月曜日(朝日放送テレビ) - 2011年3月28日放送分から番組終了の同年9月まで、スポーツコーナー「週刊YANO+」にレギュラー出演。
  • 見知らぬ関西新発見!みしらん(朝日放送テレビ) - 2013年1月5日放送分からスポーツコーナー「スポーツみしらん」が新設されたことを機に、スポーツキャスターとして同年9月21日の最終回まで出演。

不定期放送・出演[編集]

  • 矢野輝弘のどーんと来い!!(ABCラジオ、2004年度から、オフシーズンのレギュラー番組→スペシャル番組) - 阪神での現役時代からメインパーソナリティを担当。2009年度以降は『矢野燿大のどーんと来い!!』というタイトルで放送。指導者として阪神へ復帰してからも、年末年始の特別番組として継続している。
  • 矢野燿大の「アスリートの舞台裏」(ABCラジオ) - 2011年5月16日から月1回のペースで放送。メインパーソナリティを担当。
  • 熱血!タイガース党サンテレビ)- 阪神での現役時代にゲストやVTRで出演。ABC野球解説者時代には、「優勝対策委員長」という肩書で随時登場していた。指導者として阪神へ復帰してからも、ゲストとしてスタジオへ出演する際にはこの肩書を用いている。
  • CBCドラゴンズナイターCBCラジオ) - 中日主管の阪神戦(ABCラジオが同時ネットで放送する火曜 - 木曜の試合)中継にのみ、ゲスト解説者として出演。
  • 全国高校野球選手権大会中継(朝日放送テレビ)- 2011年から、試合前後に甲子園スタジオから放送される中継に、ゲストとして随時出演。ただし、試合の解説まで担当するわけではない。
  • マイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメント(朝日放送テレビ制作、テレビ朝日系列で放送) - 2011年以降のテレビ中継で、金谷とともにラウンドリポートを担当。2013年には、アマチュアのゴルフプレイヤーとして、本選への出場を目指して「マンデートーナメント(主催者推薦の予選会)」に初めて挑戦した(結果は6オーバーの59位で本選出場ならず)[92]

以下はゲストで出演した主な番組。

出演映画[編集]

  • ミスター・ルーキー』(2002年) - 阪神をテーマにした作品。当時の現役選手を代表して、本人役で最終決戦のシーンに捕手として出演。

出演CM[編集]

  • NEXTStage「極肌」(2012年、ABCラジオ・関西ローカル限定で放送)
  • NTTDoCoMo関西(2013年 - ) - スポンサーに付いているABCテレビ制作・全国ネットの高校野球関連番組(『速報!甲子園への道』や全国高校野球選手権大会中継)内を中心に放送
  • 関西アーバン銀行(2015年、ABCラジオ・関西ローカル限定で放送)
  • 阪神甲子園球場(2015年、関西ローカル限定で放送) - 阪神甲子園球場へ来場する際に電車・バスの利用を促す内容で、阪神電鉄の駅貼りポスターのモデルにも起用されている。

ABCラジオでは、矢野を起用した他社のスポットCMも随時流している。以下はいずれも、阪神での現役選手時代に出演したテレビCM。

著書[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b “矢野氏 作戦兼バッテリーコーチに就任”. デイリースポーツ. (2015年10月27日). https://www.daily.co.jp/newsflash/tigers/2015/10/27/0008516664.shtml 2015年10月27日閲覧。 
  2. ^ “矢野監督「えぐいなあ」ソフトバンク栗原の打撃絶賛”. 日刊スポーツ. (2020年11月24日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202011230000800.html 2020年11月25日閲覧。 
  3. ^ a b 仙台六大学野球リーグ戦パンフレット[信頼性要検証]
  4. ^ 第18回日米大学野球選手権日本代表選手”. 全日本大学野球連盟. 2021年7月10日閲覧。
  5. ^ “【矢野燿大物語117】「何で中日やねん…」喜びより落胆が勝った”. スポーツニッポン. (2018年11月11日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/tigersyano/kiji/20181108s00001410135000c.html 2021年7月10日閲覧。 
  6. ^ 「矢野10回殊勲打 阪神痛恨サヨナラ負け」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1992年(平成4年)10月2日付朝刊、19面(スポーツ面)。
  7. ^ “阪神矢野燿大監督はライバル巨人軍監督だった可能性も? 運命のドラフト - プロ野球番記者コラム - 野球コラム”. 日刊スポーツ. (2021年6月7日). https://www.nikkansports.com/baseball/column/bankisha/news/202106070000009.html 2021年10月6日閲覧。 
  8. ^ “【矢野燿大物語16】一睡もできなかったトレード通告”. スポーツニッポン. (2018年11月8日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/tigersyano/kiji/20181108s00001410134000c.html 2021年10月6日閲覧。 
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]