辻恭彦

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辻 恭彦
20171123 Yasuhiko Tsuji OB of whales at Yokohama stadium.jpg
2017年11月23日 横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市西区
生年月日 (1942-06-18) 1942年6月18日(78歳)
身長
体重
171 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1962年
初出場 1963年6月2日
最終出場 1984年10月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 横浜大洋ホエールズ (1985 - 1987)
  • 阪神タイガース (1988 - 1992)
  • 横浜ベイスターズ (1993 - 1998)
  • WIEN BASEBALL CLUB
  • 横浜球友クラブ
  • 国際総合伊勢原クラブ
  • 明治学院大学

辻 恭彦(つじ やすひこ、1942年6月18日 - )は、愛知県名古屋市西区出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ解説者。愛称は「ダンプ」。

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

兄弟に混じって野球に興じ、小学5年生の時から本格的に取り組むようになり[1]、中学3年次の1957年から捕手となった[1]。中学卒業後は1958年享栄商業へ進学するもグラウンドが無く、仲間と学校から走って40分も離れた山中に練習の場を整備したが、作業中に友人が土砂に巻き込まれて命を落とす[1]。このことがきっかけで一度も練習を休まず取り組むようになり[1]、3年次の1960年に同期のエース吉山智久(中日)とバッテリーを組み、3番打者として夏の甲子園県予選決勝に進出。後にプロで同僚となる豊橋工のエース牧勝彦を打ち崩して甲子園出場を決めたが、甲子園では1回戦で広野功多田勉を擁する徳島商に2-4で敗退[2]

高校卒業後は1961年西濃運輸へ入社し、1年目から5~6番を打つ好打者として活躍。2年目の1962年には都市対抗にチーム初出場を決めたが[3]、1回戦で常磐炭鉱に9回サヨナラ負けを喫する。大会終了後に阪神タイガースへ入団。

阪神時代[編集]

1年目は秋季キャンプから一軍へ合流したがエース村山実の投球練習でストレートとカーブに圧倒されてスライダーは捕球できず耳元をかすって後逸し、村山に「もうええ、こっちが怖いわ」と言われ、続いて受けた二枚看板の小山正明の投球は完璧なコントロールという事もあって捕球できたが良い音を出せず「ヘタクソ」と言われて終了するなど、プロの洗礼を受けた。

2年目の1963年土井垣武コーチの指導を受け、同年6月2日中日戦(甲子園)にフランク・ヤシックの代打で初出場を果たすと、同11日の中日戦(中日)では地元の試合で初めて先発マスクを被る。ずんぐりした体系で無口、毎日ブルペンで400~500球を受けるタフネスぶりであるほか、怪我が少なく丈夫で長持ちで、運送会社出身であったこともあり、土井垣に「ダンプ」というニックネームを付けられる。

3年目の1964年には9月30日のシーズン最終戦、リーグ優勝のかかった中日戦(甲子園)で河村保彦から初安打を放ち、リードでも古沢憲司太田紘一若生智男ピーター・バーンサイド渡辺省三の5人を引っ張って勝利に導いた。

1965年10月14日広島戦(広島市民)では大羽進から初本塁打を放ったほか、リードでは村山の延長12回完投勝利をアシスト。同年は二軍で29打点を記録し、ウエスタン・リーグの打点王を獲得。この頃から一軍での試合出場も増え始めるが、なかなかチャンスを得られずブルペン捕手を務める日々が続き、ブルペンで何百球と受け続けるうちに捕球技術が身に付いた。投手に俺の球は速いと自身を持たせるためにミットのスポンジを抜いてほとんど素手で捕球したため、「こうすると乾いた良い音が出る。するとピッチャーはその気になるでしょう。」という辻の手はいつもパンパンに腫れ上がっていた。

1967年江夏豊が入団すると、藤本定義監督が「江夏のように繊細でわがままなタイプにはダンプが向いとる」ということで江夏ー辻のバッテリーを編み出す。同年のシーズンオフには江夏から「もっと三振が取りたい」という相談を受けるが、辻は悩んだ末に「新たな変化球を覚えると武器のスピードを殺すので、ボール1個の単位で上下左右に投げ分けるコントロールを付けさせる」という結論に達し、江夏にそのトレーニングを命じている。

辻と江夏は名コンビと見られていたが、プライベートでもグラウンドでも普段は余り話さなかったという[4]。ミットを3つも分解して自分に合ったオリジナルのミットを作ったり、長時間も中腰の姿勢で疲れるため、股間を守る金隠しも付けて、打撃練習の時の捕手が座る小さな椅子[5]も考案した[4]。ブルペンで1球ずつ投げて返球するのは大変なため、雨樋を使って投手に転がして返すというアイデアも出した[4]

1968年には「ヒゲ辻」こと正捕手・辻佳紀の不調や和田徹外野手転向もあり、先発マスク71試合を含む86試合に出場。同年は9月17日巨人戦(甲子園)で江夏の354奪三振をアシストしたほか、10月8日の中日戦(中日)で新宅洋志から奪った383個目の三振、10月10日の中日戦(甲子園)ではMLB記録を上回る401奪三振の達成にも貢献。6月4日大洋戦(甲子園)では後にバッテリーを組む阪神キラーの高橋重行から生涯唯一のサヨナラ本塁打を放つが、この時はバットが折れ、西園寺昭夫のバットを借りて高橋の外のスライダーを打ったところ、まさかの本塁打となった。先発は江夏で、延長10回裏でそれまで6連続奪三振をしていたため、「ダンプさんが打たなければ、次の3人取って9連続だったのに」と思った江夏に怒られている[6]

1969年には田淵幸一の入団で控え捕手に回るが、キャッチング技術を江夏に信頼されていたため、江夏とはバッテリーを組む事が多かった。

1971年には田淵の故障により自己最多の130試合フル出場を果たし、これはセ・リーグ捕手では初の全試合出場を記録[7]。打撃面では自己最多の8本塁打を放ったが、打率.193と2割にも到達できなかった。同年7月28日の大洋戦(川崎)では阪神時代唯一の三塁打を放っているが、この時にはセンターに打った球を後にチームメイトとなる中塚政幸が後逸し、球は転々と外野の塀の下まで行った。中塚は前進守備でバックアップもなく、辻は必死に走って二塁を回って三塁に向かった。三塁コーチは「ホームに行け」と手を回していたが、辻は息切れしており、無理と思ってストップした。自軍ベンチからは「ダンプ、普通ならもうベンチ戻って、のんびりタバコ吸ってるぞ」と野次られた[6]1972年には再び田淵の控えに回るが、1973年8月30日の中日戦(甲子園)では江夏の史上初「延長戦ノーヒットノーラン」をアシストし、大記録達成に貢献。

大洋時代[編集]

1975年に辻佳紀との捕手・同姓・元チームメイト同士での交換トレード[8]で、大洋ホエールズに移籍。この頃のチームについて、後に「とにかくピッチャーのコントロールが適当で、コンビネーションなんか誰も考えてなかった。技術も意識も両方が足らんチームでした。」と後に振り返っている[9]。トレードになった時は、それまで阪神のコーチになるつもりで遊んでいたため、体が鈍っていたのを藤村隆男二軍投手コーチに鍛え直された[5]。体は戻ったが、頭脳と勘はすぐに戻らず、大洋の投手の特徴がなかなか頭に入ってこなかったこともあって、薄暮ゲームで2球続けて平松の球をパスボールした[5]。そして秋山登監督に「感覚もあるだろうから、二軍戦に出ろ」と言われたという。当時の大洋二軍は等々力のグラウンドにあり、辻はセンターの向こうにあった家賃5000円で水道使いたい放題、隙間風吹き放題のアパートに住んでいた[5]。二軍の試合に出場するのは簡単であったが、この試合が雨で中止になった。1966年に一軍に上がってから試合に出なくてもずっと一軍のブルペンにいたため、一度も二軍の試合には出場したことはなく、引退まで出場しなかった[5]

2年目の山下大輔と一番最初に仲良くなり、千葉のオープン戦に行った時に山下はグラブの紐が切れて別のグラブを使っていたが、辻は運動具店と考えていつもバックに入れていた十手のようなものを取り出し、紐を穴に通って引っ張り、修理を完成させたことがきっかけであった[5]。山下が「ダンプさん、こんなに早く直してくれてありがとう」と他の選手がいる前で礼を言い、チームに溶け込むことができた[5]

伊藤勲福嶋久晃に次ぐ3番手捕手として記録以外でチームに貢献し、1977年8月28日の広島戦(川崎)では杉山知隆の代打で三輪悟からサヨナラ本塁打を放つ。伊藤が南海に移籍した1979年からは福嶋の2番手捕手となり、1981年7月9日の広島戦(横浜)でアート・ガードナーの3ラン本塁打の際、ホームベースの踏み忘れを指摘して被弾数を減らした[10]。記録上は三塁打として処理されランナー2人の生還は認められたが、ベース踏み忘れの本塁打取り消しは1958年9月19日長嶋茂雄に次ぐ2人目で、ホームベースの踏み忘れは史上初であった[11]

1982年には日本ハムから加藤俊夫が加入し、関根潤三監督が加藤・辻・福嶋のベテラン捕手3人体制を編み出す。辻は前年6勝に終わった平松政次の再生を任されたほか、新人・若手投手の育成を主に受けることとなった。シーズンオフの契約更改では、プロ入り21年目でやっと1000万円の大台に達した。現役最年長となった1983年は関根が辻の年齢的ハンデを考えて「セーブ捕手」構想を打ち出すが、5月19日の巨人戦(福井)で平松の12年ぶりの巨人戦完封をアシストしたほか、同31日ヤクルト戦(平和台)では自身初の1試合5打点を記録するなど活躍。同年は6月時点で18試合に先発マスクを被り、この間のチーム成績は10勝7敗1分と勝ち越していた。シーズン後半に若菜嘉晴が加入すると、42歳となった1984年には出場機会が大幅に激減。

1983年6月15日の中日戦(石川県立)で鈴木孝政から最後の本塁打、8月12日の中日戦(横浜)で最後の安打を放った。

1984年は6月10日の中日戦(円山)で1-4で破れると、試合後の千歳空港で搭乗手続きを済ませた辻に関根が近づいてきた。関根が「なぁ辻よ、つらいだろうが黙って聞いてくれ。お前はまだ体が動く。その体が動くうちに若い者に捕手術の全てを教えてやってくれないか」と物静かな口調で話すと、辻は「監督、話はわかりました。しかし結論を出すまで1週間待ってください」と言ったが、関根は「球団には明日返事をすることになっている」と言った。翌11日に横浜スタジアムそばの喫茶店で、関根に二軍コーチを引き受けることを伝えた。二軍コーチになった辻は若い捕手にサインの出し方を教え、「いいか、サインは簡単な気持ちで出すなよ、右指の一本、一本に祈りを込めて、投手にわかったな、わかったなという気持ちで出すんだ。これだけは忘れるな。捕手の出すサインには顔があるんだ。その顔が投手を説得するんだよ」と伝えた。二軍でほぼコーチ役となったが、平松の引退試合となった10月13日のヤクルト戦(横浜)が、辻にとっても最終出場となった。同年引退。

捕手で実働22年は、中嶋聡の29年、谷繁元信の27年、野村克也の26年、八重樫幸雄の23年に次ぐ記録である。

現役引退後[編集]

引退後は大洋→横浜(1985年1997年 - 1998年二軍バッテリーコーチ, 1986年 - 1987年二軍捕手コーチ, 1993年 - 1995年二軍育成チーフコーチ, 1996年二軍育成兼バッテリーコーチ)、阪神(1988年1990年一軍バッテリーコーチ, 1989年1991年 - 1992年二軍バッテリーコーチ)、WIEN BASEBALL CLUB1999年コーチ)、横浜球友クラブ(2000年 - 2001年コーチ, 2002年 - 2003年助監督)、国際総合伊勢原クラブ(2005年 - 2014年監督)、四国アイランドリーグ(2005年巡回コーチ)、明治学院大学2015年総合コーチ)で監督・コーチを歴任。

阪神コーチ時代には大洋時代にバッテリーを組んだ高橋が二軍投手コーチで同僚となり、一緒にアメリカ教育リーグに投手6人を連れていったこともある。毎週5日間試合をやり、アメリカのマイナーリーグでプレー経験がある高橋に現地で色々と世話になったほか、大きなタラバガニを一緒に食べまくったこともあった[6]

横浜コーチ時代は横須賀スタジアムに室内練習場を作る時、当時は室内も投手前のネットだけで天井に当たった球が投手の頭に落ちてきて危なかったため、辻らがアイデアを出した。上からを2枚垂らして勢いを殺すようにしたり、ベースを前に出して後ろにネットを張り、次のバッターの待機場を作ったりした[5]。育成部に所属していたが、1998年、一軍のリーグ優勝の2日前にの竹之内雅史二軍監督と共に呼ばれて、大堀隆球団社長らに「来年は契約せんよ。」と通告された。辻は「もうちょっと待てば優勝味わえるのに意地悪ですよね。もうベテランを大事にしてほしいよな。竹之内とボヤいていました。」[12]と述べている。

退団後は興味が湧いた整体学校の「国際総合健康専門学校」へ通い、半年で整体師の資格を取得[1]テレビ神奈川解説者(1999年 - 2007年)も務め、プロ野球マスターズリーグでは札幌アンビシャスに所属。現在もシーズン中は全6試合をテレビ観戦しながら捕手の配球をチェックするのが趣味で[4]、整体師や国際総合健康専門学校の講師[13]も務めている[1]

エピソード[編集]

当時、球界には「ON(が見送ったきわどいコースの投球は)ボール」という俗説があった。辻は長嶋の打席では、江夏に内角カーブ(ストライク)、外角低め直球(ボール3個分はずしたボール)、内角カーブ(ストライク)、外角低め直球(ボール2個分はずしたボール)と投げさせた後、外角低めぎりぎりにボール1個分はずした直球を配球し、それを辻が思い切り腕を伸ばして捕球すると審判は三振をコールしたという[14]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1963 阪神 4 6 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1964 4 7 6 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 .167 .167 .167 .334
1965 9 29 28 1 6 0 0 1 9 1 0 1 0 0 1 0 0 3 1 .214 .241 .321 .563
1966 19 26 25 0 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 1 10 2 .040 .077 .080 .157
1967 26 34 32 6 6 0 0 3 15 6 0 0 0 0 2 0 0 7 1 .188 .235 .469 .704
1968 86 278 248 17 63 10 0 7 94 29 0 1 3 1 22 2 4 41 5 .254 .324 .379 .703
1969 83 230 200 10 45 11 0 3 65 24 0 3 1 2 24 1 3 32 6 .225 .314 .325 .639
1970 62 171 150 6 33 5 0 1 41 9 1 1 5 0 14 3 2 23 7 .220 .295 .273 .569
1971 130 445 399 21 77 9 1 8 112 27 5 1 12 1 28 4 5 47 11 .193 .254 .281 .535
1972 58 99 87 12 17 3 0 4 32 9 0 0 0 1 10 3 1 11 3 .195 .283 .368 .651
1973 24 63 57 2 12 1 0 1 16 1 0 0 2 0 4 0 0 10 3 .211 .262 .281 .543
1974 23 47 43 3 6 1 0 1 10 3 0 0 2 1 1 0 0 8 4 .140 .156 .233 .388
1975 大洋 31 34 31 1 5 0 0 1 8 1 0 0 0 0 3 0 0 6 0 .161 .235 .258 .493
1976 12 19 16 0 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 3 0 0 3 2 .125 .263 .125 .388
1977 54 127 110 10 30 8 0 1 41 10 0 0 1 0 16 1 0 30 1 .273 .365 .373 .738
1978 37 85 69 7 14 0 0 3 23 7 0 0 2 0 12 4 2 18 0 .203 .337 .333 .671
1979 55 112 88 13 18 3 1 3 32 6 0 1 4 0 18 3 2 27 2 .205 .352 .364 .715
1980 50 71 58 10 12 4 0 0 16 4 0 0 1 0 12 1 0 20 1 .207 .343 .276 .619
1981 54 101 86 7 20 4 0 1 27 5 0 0 6 0 9 1 0 14 1 .233 .305 .314 .619
1982 75 128 118 7 23 4 1 3 38 7 1 0 2 0 8 1 0 15 5 .195 .246 .322 .568
1983 72 147 132 9 27 3 1 3 41 13 1 0 9 0 6 1 0 28 3 .205 .239 .311 .550
1984 6 10 9 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 .000 .000 .000 .000
通算:22年 974 2269 1998 142 418 67 4 44 625 163 8 8 52 6 193 25 20 353 59 .209 .285 .313 .597
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号[編集]

  • 67 (1962年)
  • 44 (1963年 - 1967年)
  • 20 (1968年 - 1974年)
  • 8 (1975年 - 1984年)
  • 82 (1985年 - 1987年)
  • 74 (1988年 - 1992年)
  • 91 (1993年 - 1998年)

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f 辻 恭彦さん | 元プロ野球選手でコーチ、解説者を務めた | 保土ケ谷区版
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  4. ^ a b c d イメージと裏腹!? 「ダンプ」の愛称で親しまれた辻恭彦さんは超頭脳派
  5. ^ a b c d e f g h 週刊ベースボールONLINE ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ 第38回「試合前練習今昔物語」
  6. ^ a b c 週刊ベースボールONLINE ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ 第42回「懐かしの大洋戦士たち 阪神時代唯一のダンプ三塁打誕生秘話(?)」
  7. ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2009年3月23日号70-73ページ 「阪神歴代捕手の系譜」
  8. ^ このようなトレードが話題になった前例には、1966年オフに広島カープと阪急ブレーブスとの間で成立した、大石清投手と大石弥太郎投手との交換トレードがある。
  9. ^ 週刊ベースボールONLINE|野球コラム 短期連載ダンプ辻コラム 第14回「ワルの齊藤から教わったこと」
  10. ^ 【7月19日】1981年(昭56) 2人は見ていた…ガードナー、ホームベース踏んでいない
  11. ^ ミスター、幻の28号本塁打でトリプルスリーを逃す
  12. ^ 週刊ベースボールONLINE ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ、第28回「今回はちょっとドロドロしています」
  13. ^ コース紹介 - 国際総合健康専門学校
  14. ^ 玉木正之『プロ野球大辞典』(新潮文庫、1990年)P367 - 368)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]