谷繁元信

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谷繁 元信
中日ドラゴンズ 監督 #27
2009年7月16日(阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県の旗 広島県比婆郡東城町
(現:庄原市
生年月日 (1970-12-21) 1970年12月21日(53歳)
身長
体重
176 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1988年 ドラフト1位
初出場 1989年4月11日
年俸 9,000万円(2015年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

  • 中日ドラゴンズ (2014 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2003年(アジア予選)
WBC 2006年

谷繁 元信(たにしげ もとのぶ、1970年12月21日 - )は、元プロ野球選手捕手)、中日ドラゴンズ監督(第31代)。2014年シーズンより選手兼任監督を務める[1][2]2016年シーズンより監督専任となる。

1990年代以降のプロ野球を代表する捕手として活躍し、南海ホークスなどで活躍した野村克也の通算試合数を抜きプロ野球歴代1位の記録を持つ。また、連続シーズン安打本塁打記録(27年)の保有者でもある[3][4]

経歴

プロ入り前

山深い中国山地広島県比婆郡東城町(現・庄原市)出身。野球好きの父の影響で小学校2年生時に地元の少年野球チームに入り野球を始める[5]。子どもの頃は巨人ファンで、原辰徳に憧れていたという。

小学6年時にすでに広島県内の野球関係者に谷繁の名は知れ渡っていたというが[6]、事情により高校は島根県江津市の江の川高等学校(現・石見智翠館高等学校)に進学する(後述)。投手として入部するも練習試合でよく打たれ、1ヶ月後には監督に捕手転向を命じられる。

夏の甲子園に2度出場。特に1988年夏には島根県予選で、5試合全ての試合で計7本塁打を放ち、甲子園大会でもベスト8に進出。高校通算で42本の本塁打を放ち、強打の捕手として江藤智とともに「東の江藤、西の谷繁」と呼ばれた。

1988年のドラフト会議横浜大洋ホエールズが1位指名で交渉権を獲得し、契約金5800万円、年俸480万円(金額は推定)で入団合意した[7]。大洋球団は期待を込めて、チームの看板選手で、前年に引退した山下大輔が付けていた背番号1を与えた。地元の広島東洋カープからも熱心に誘われていたが、カープのドラフト1位指名は野村謙二郎であった[5]

大洋・横浜時代

下関球場で行われたオープン戦で巨人・斎藤雅樹から本塁打を放つなど結果を残すと監督の古葉竹識に抜擢され、高卒1年目にもかかわらず開幕一軍入りを果たした。公式戦初打席で初安打を放つ。一年目から一軍にフル帯同し、出場80試合、打率.175、3本塁打、10打点という成績を残す。

1990年須藤豊が監督に就任すると、西武から獲得した秋元宏作と併用されるようになり、前年まで正捕手だった市川和正は第3捕手へと追いやられた。しかし1992年、シーズン中に休養した須藤に代わりヘッドコーチから監督代行に昇格した江尻亮からはリード・打撃ともに評価されず、一時出場機会を失った。

1993年、横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズへ球団名が変わるのを機に、捕手だと1という数字が防具に隠れて見えないという理由から背番号を8に変更。近藤昭仁が監督に、大矢明彦がバッテリーコーチに就任し、大矢からリード面を中心に守備を徹底的に鍛えられる。それでもしばらくは秋元との併用が続き、先発出場していた試合でも抑え投手の佐々木主浩が登板すると、「佐々木のフォークボールが取れない」、「暴投時に谷繁は手で捕りに行くが、秋元は身体で止めに行く[8]」との理由から秋元に交代させられていた。また肩は強かったものの、リード面での評価もあまり高くはなかった。

大矢が監督に昇格した1996年からは重点的に起用されるようになり、それに伴って打撃も成長。初めて打率3割も記録した。この頃から同僚のロバート・ローズの影響でウエイトトレーニングを始め、翌1997年は初めて二桁本塁打を記録。リード面でも成長し、投手陣の成績が良くなるなど、捕手としての評価が急上昇する。オフにはFA権を獲得し、当時正捕手が不在だった巨人への移籍の噂なども囁かれたが、リーグ2位になり現実味が帯びてきたチーム優勝を目指し宣言残留をした。

1998年、開幕から本塁打を打ち続け、前田智徳松井秀喜に次いでリーグ3位の速さで本塁打を2桁に乗せて話題となった。攻守の要としてチーム38年ぶりのリーグ優勝・日本一に大きく貢献し、自身初のベストナインゴールデングラブ賞を受賞するなど、リーグを代表する捕手に成長した。また佐々木主浩と共に最優秀バッテリー賞も受賞。翌1999年マシンガン打線の8番打者として、高打率を残す。

2001年は初めてシーズン20本塁打を打ち、オフにメジャーリーグへの移籍を目指しFA宣言を行う[9]トニー・アタナシオと代理人契約を結び、「年俸が下がってでもメジャーに行きたい気持ちがある」と強い決意で渡米。12月5日にはシアトル・マリナーズサンディエゴ・パドレスアナハイム・エンゼルスの関係者らの前でワークアウトを行ったが、良い条件が得られなかったためメジャー挑戦を断念し、中日ドラゴンズへ移籍。背番号は7。横浜は中日からの補償として金銭を選択するが、当時中日の正捕手であった中村武志が出場機会を求めトレード志願し、横浜へ金銭トレードで移籍。結果的に正捕手同士の“交換トレード”という形になった。

中日(選手→監督)時代

移籍1年目の2002年は打率.215と低迷したが、チャンスでは勝負強さを発揮し、ともに自己最多となる24本塁打、78打点を記録する。

2003年は前年より持ち直し、打率を上げたが怪我による離脱もあってホームランは20発には届かなかった。それでもチームの正捕手として存在感を示し、長打力も発揮した。なお、この年は野口茂樹が先発の時は、柳沢裕一にマスクを譲ることが多かった。

2004年落合博満が監督に就任。正捕手のエースナンバーは森昌彦に代表される27、もしくは田淵幸一に代表される22という落合の持論により、背番号を7から27に変更した。同年は不動の正捕手として攻守ともにチームを牽引し、リーグ優勝に貢献。移籍後初のシーズン100安打を打った。川上憲伸と共に2度目となる最優秀バッテリー賞を受賞した。日本シリーズ第3戦で逆転満塁本塁打を放つ活躍を見せるも、チームは日本シリーズ敗退を喫した。

2005年は打率.234と規定打席到達者最下位となった。オフには、「FA権を行使しての移籍する」という落合の予想に反して、「このチームで日本一」になりたいと宣言残留した。落合もそれに応え、谷繁を正捕手として起用し続けることを決めたと言われている。

2006年にはWBC日本代表に選ばれ、2次リーグのアメリカ戦ではスタメンマスクを被った。7月26日の対阪神戦で捕手としては史上4人目となる通算2000試合出場を達成。しかし打率、安打数、塁打数、盗塁数で、規定打席到達者中リーグ最下位を記録する。8年ぶりにゴールデングラブ賞を、2年ぶりに川上と共に最優秀バッテリー賞を受賞した。

2007年8月8日の対広島東洋カープ戦でプロ野球47人目となる通算300二塁打達成。8月10日の対巨人戦で、更新中だった捕手の連続守備機会無失策のプロ野球記録が1708で止まった。打撃面では打率、得点、安打数、三塁打、塁打数、盗塁数で、規定打席到達者中リーグ最下位を記録したが、守備面では前年に続きゴールデングラブ賞を受賞するなど、チーム53年ぶりとなる日本一に大きく貢献した。同僚の川上も2年連続で同賞を受賞しており、同一チームの同一バッテリーによる2年連続受賞はセ・リーグ初となった。

2008年6月25日

2008年は6月に右脇腹痛で登録を抹消され、移籍後初めて二軍戦に出場するなど不本意なシーズンとなった。また2004年に痛めた腰の状態も悪く、この頃には毎日常に足がしびれている状態であったという。この年のオフ、腰椎(ようつい)の椎間狭窄(きょうさく)症の治療のため、腰の骨の一部を削る手術を受ける。なお、翌2009年の夏ごろまでは手術の痛みが残り、思うように動けなかったという[10]

2009年、開幕直後に右ふくらはぎのけがで約1カ月間欠場する。7月5日の阪神戦で捕手として野村克也についで歴代2位となる通算2328試合出場を達成。9月1日、通算200号本塁打と200犠打を達成(両方を達成したのは史上3人目)した。9月にプロ野球史上初の4度目のFA権を取得。プロ入り21年目で自身初となる守備率10割(無失策)を達成し、ゴールデングラブ賞を受賞した。

2010年7月28日に捕手としては野村克也以来であり、プロ野球史上8人目となる2500試合出場達成。休養や小さな怪我での欠場はあったものの、シーズンを通して一軍登録を抹消されず、チーム4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

2011年6月4日対西武戦の5回の守備の際、高山久とのクロスプレーで左ひざ内側側副靭帯を損傷し、約2カ月間一軍登録を抹消される。谷繁不在の間、チームは15勝21敗1分けと大きく負け越したが、谷繁はその間リハビリと上半身のトレーニングに懸命に取り組み、7月29日に一軍復帰した後は打率.301、打点23と打撃面でも活躍した。9月末には球団記録にあと1つに迫る10試合連続打点を記録するなど、ペナントレース終盤の逆転優勝劇に大きく貢献し、2年ぶりとなるゴールデングラブ賞と、5年ぶりとなる最優秀バッテリー賞を吉見一起と共に受賞した。8月25日ヤクルト戦(明治神宮野球場)で、プロ23年目、通算2594試合目にしてプロ入り初めて一塁手としてスタメン出場をした。なお、一塁手に限らず公式戦で捕手以外の守備に就いたのも初めてである。しかし、ポストシーズンでは一転して打撃不振に陥り、CSでは全試合にスタメン出場するも無安打に終わる。ソフトバンクとの日本シリーズでも全試合にスタメン出場したが無安打は続き、11月20日の第7戦5回の第2打席で三振を喫し、1989年大石大二郎近鉄)の21打数連続無安打のシリーズワースト記録を更新する、22打数連続無安打を記録。無安打記録は最終的には23打数まで伸ばし、CSファイナルステージ第1戦の第1打席からは43打席連続無安打を喫したことになった。

2012年4月25日のヤクルト戦で24年連続となる本塁打を放ったが、これは「入団一年目」からの連続シーズン本塁打のプロ野球新記録となった。7月26日の阪神戦で本塁打を放ち、通算3000塁打を達成。打率はリーグ最下位だったものの、5年ぶりに規定打席に到達するなど、シーズンを通して活躍を見せた。CSファイナルステージでは第1戦の第4打席で適時二塁打を放ち、前年から続いたポストシーズン無安打記録は60打席で止まった。

2013年は開幕から打撃が好調で、5月6日のヤクルト戦で右前安打を打ち、通算2803試合目で史上44人目の通算2000安打を達成した。プロ25年目、9693打席目での達成は史上最遅であり、42歳での到達も宮本慎也の41歳5ヶ月を抜いて最年長記録となった。また2000安打達成者のうち2014年終了時点で、生涯打率が.250に達しない唯一の選手である。捕手としては野村克也、古田敦也に次いで3人目の達成となった。5月12日の広島戦で中日での通算1000安打を達成。「2球団で1000安打達成[11]」は大杉勝男金本知憲に次いで史上3人目である。しかしその後は打撃不振に陥り、守備でも盗塁阻止率が自己最低の.174を記録するなど、不本意なシーズンに終わった。6月30日には通算出場試合数が2832試合となり、王貞治を抜いて歴代2位となった。

選手兼任監督

2013年10月9日、元監督の落合博満の推薦により、2014年シーズンより選手兼任監督としてチームの指揮を執ることが球団より発表された[1][2]。NPBでは古田敦也(ヤクルト)以来7年ぶり、チームとしては野口明以来59年ぶりとなる選手兼任監督となった。

2014年7月22日の対DeNA戦(横浜スタジアム)で2回無死一、二塁の場面で久保康友から本塁打を放ち、野村克也の記録を更新するNPB新記録の新人から26年連続本塁打。また選手兼任監督の本塁打は同じく1977年の野村以来37年ぶりとなった[12]8月27日、対DeNA戦(ナゴヤドーム)で捕手として2922試合目の公式戦出場を達成し、これも野村の持っていた記録を34年ぶりに更新した[13]。同年は監督としてチームをBクラスから脱出させることができず、選手としてもオールスターゲーム出場は果たしたものの、シーズンの打撃では1割台に終わり、1995年以来の100試合未満の出場に終わった。

通算試合出場数1位達成・現役引退

2015年からは肩書きが監督兼選手に変更となる[14]3月27日の開幕戦にはスタメンを松井雅人に譲り、2014年まで続いていた開幕スタメン連続出場が21年で途切れた[15]4月30日の対巨人戦(東京ドーム)でスタメン出場し、野村克也以来史上2人目の通算3000試合出場を達成した[16]5月2日のDeNA戦では9回からマスクをかぶったが、本塁上のクロスプレーでセーフと判定されたことを巡り、山路哲生球審に触れて抗議したとして退場が宣告された[17]。退場処分を受けたのはプロ27年目、出場3001試合目で初めて[18]。翌5月3日日本プロフェッショナル野球組織熊崎勝彦コミッショナーから厳重注意と制裁金20万円の処分が科された[19]が、翌々日の5月4日阪神甲子園球場で行われた阪神タイガース7回戦で今季初の安打得点に続いて初本塁打もマークし、汚名返上するとともに安打、本塁打ともに27年連続となり、自身の持つプロ野球記録を更新した[3][4]。後半戦、チームは最下位と思わしくない状況であったが、7月25日明治神宮野球場での東京ヤクルトスワローズ戦の7回から捕手として途中交代出場。この出場により南海ホークスなどで活躍した野村克也(当時は西武ライオンズ)が持つ通算試合出場数の3017試合に肩を並べ、迎えた7月28日の本拠地ナゴヤドームでの阪神タイガースとの試合で8番・捕手で先発出場し、通算3018試合出場を達成。野村の記録を塗り替え前人未到の記録を達成した。

9月13日時点では腰痛の影響と、後半戦は自身の出場を控え、杉山翔大桂依央利といった若手捕手を積極的に起用し続けてきたことの影響で出場試合数は27試合に留まり、同日にはサンケイスポーツより[20]9月15日には中日新聞[21]日刊スポーツより[22]今季限りで現役を引退し、今後は監督に専念すると報じられた。そして9月21日、同日の巨人戦終了後にナゴヤドームで記者会見し、「とうとうこの時が来たなという思いと、やっと来たなという思い。その両方がある」と心境を語り、正式に現役を引退することを表明した[23]。なお監督としての任期(4年契約)が2年残っており、2016年度からは監督専任の形でチームに残る[24][25]。順位は5位に終わり、中日で監督就任から2年連続Bクラスは1969年、1970年の水原茂以来45年ぶり[26]

9月24日には選手としてナゴヤドームでの最終戦となる阪神戦を終えた試合後、チームメートであり部下でもある選手たちの手で5回胴上げされた。同じく今季限りで現役引退する和田一浩の胴上げの後、谷繁も胴上げを促されたが、シーズンの低迷もあってか、首を何度も振って固辞。場内から地鳴りのような「谷繁コール」が絶え間なく続くと、両手を広げて制した。だが、結局は和田の後押しも手伝い根負けし、苦笑いしながら、いったんは引き上げかけた歩みを方向転換してマウンド付近へ戻ると、和田と同じ5回、最後は笑顔で宙に舞った[27]

9月26日には横浜スタジアムで行われた古巣・DeNA戦(引退試合)に臨み、8番・捕手でスタメン出場した。古巣の計らいもあり、試合後には異例のビジターでの場内一周を行った。現役最後の打席は2回に巡ってきた。2死一、二塁、カウント2-2から井納翔一の直球を捕まえるも遊撃の正面に転がるゴロ。最後をヒットで締めくくることはできなかったが、一塁まで全力で走塁し、「いつも通り」を貫いた。ベンチ前に戻ると、花束を持ったDeNA・三浦大輔に出迎えられた。涙ぐむ3人の息子や両親を目にすると、もうこらえることはできなかったという。涙を流しながら、最愛の息子たちの頭を優しくなでたという。試合が終わると「谷繁コール」が湧き起こり、ホームベース付近に両軍の選手たちが集合。引退を表明してした和田、小笠原道大らもこの瞬間のためだけに球場に駆けつけた。5度宙を舞った主役は、その足でファンのもとに駆け寄ってあいさつ。「いい思い出になりました。本当に幸せです。もう2度とあんなコールを受けることはないだろうね」と感謝した。背番号と同じ27年間の現役生活にピリオドを打ち、万感の思いで現役生活に別れを告げた[28]。 なお、引退試合の翌27日、自らを現役選手登録抹消し、28日に赤田龍一郎を登録しているが、山本昌の引退登板となった、10月7日のシーズン最終の広島戦(マツダ=本来の日程が雨天順延)において、赤田を抹消し、自らを再度現役選手登録しているものの、出場はなかった。

12月2日付で、日本野球機構(NPB)から自由契約選手として公示された[29]

人物

所属した球団で最初に付けた背番号(大洋=1、中日=7)を、いずれも後に就任した監督(横浜・近藤昭仁、中日・落合博満)から「捕手のイメージに合わない」という理由で変更されている。最初の変更の際は、同じく現役時代に1番を付け、二塁手だった近藤監督の「背番号1は内野手の番号」という持論により1番は内野手の進藤達哉(36番から変更)に与えられ、かつて大洋に在籍した名捕手・辻恭彦がつけるなど、横浜では捕手の番号というイメージがあった背番号8が谷繁に与えられた(谷繁が横浜退団後も8番は欠番となり、同じく捕手の相川亮二がレギュラーを獲得して着用するまで使用されなかった)。ちなみに、1992年秋の「横浜ベイスターズ」への球団名変更直後の秋季練習で、「ベイスターズの背番号1」のユニフォームを着用している[30]。また中日での背番号7も、1桁の背番号の場合、キャッチャーのプロテクターで背番号が隠れてしまったり、割れてしまうことがあまり縁起がよいものではない、という落合監督(当時)の持論により変更されている。

高校は広島県内の広島県立広島工業高等学校に進学する予定で、同校の野球部監督からは「試験だけ受けてくれれば大丈夫」と言われていた。しかし、その言葉を真に受けて受験勉強に真剣に取り組まなかったせいか入試に落ちてしまい、やむなく紹介された島根県の江の川高校(現・石見智翠館高等学校)に進学したのだという[5][31]

サザンオールスターズの大ファンで、ナゴヤドームでの登場曲も中日入団後しばらくはサザンの『HOTEL PACIFIC』を使用している(2009年・2010年は偶数打席のみ。奇数打席はFabolousの『Everything,Everyday,Everywhere』)。2011年以降は、名古屋を拠点に活動し、自身とも親交が深いラッパーAK-69の楽曲を登場曲に採用している。また、2014年に選手兼任監督に就任した際、チームスローガンをAK-69の楽曲に因んだ「Start it Again 強竜再燃」にしている。

2014年から選手兼任監督としてチームの指揮を執っているが、2000本安打を打った捕手は野村克也古田敦也と自身の3人のみであるが、野村と古田は現役時代に選手兼任監督としてチームの指揮を執っていた経験があることから、2000本安打を打った捕手全員が一度は選手兼任監督を経験することとなった。

打撃面ではパンチ力はあるが、通算打率.240と確実性を欠いている。事実規定打席到達者中打率最下位も複数回経験している。また打率3割を現役時代、1996年の1度しか記録したことがない。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1989 大洋
横浜
80 171 154 9 27 2 2 3 42 10 0 0 1 1 13 3 2 43 4 .175 .247 .273 .520
1990 75 182 154 8 27 7 0 3 43 16 2 0 8 1 17 3 2 36 4 .175 .264 .279 .544
1991 82 221 186 24 44 9 3 5 74 24 5 1 8 2 20 2 5 39 8 .237 .324 .398 .722
1992 74 186 162 16 31 9 0 2 46 9 0 0 4 0 18 5 2 34 2 .191 .280 .284 .564
1993 114 343 290 22 68 10 2 4 94 26 3 0 7 0 40 8 6 74 6 .234 .339 .324 .663
1994 129 415 359 29 82 19 2 5 120 36 0 1 8 1 42 5 5 94 8 .228 .317 .334 .651
1995 93 203 181 16 45 7 1 6 72 21 1 0 5 0 17 2 0 39 2 .249 .313 .398 .711
1996 127 456 380 36 114 25 3 8 169 54 2 3 14 3 53 7 6 70 10 .300 .391 .445 .836
1997 128 489 397 42 92 19 2 13 154 46 2 1 25 3 61 9 3 71 14 .232 .336 .388 .724
1998 134 538 461 50 117 23 1 14 184 55 1 2 6 4 62 7 5 83 13 .254 .346 .399 .745
1999 122 491 427 55 126 23 0 11 182 51 0 1 7 5 46 13 6 45 16 .295 .368 .426 .794
2000 122 493 446 35 112 21 0 9 160 44 0 0 3 1 41 6 2 91 20 .251 .316 .359 .675
2001 137 532 447 54 117 19 2 20 200 70 4 2 9 1 65 8 10 107 6 .262 .367 .447 .815
2002 中日 130 515 446 53 96 21 0 24 189 78 4 0 10 2 49 8 8 116 8 .215 .303 .424 .727
2003 112 426 367 48 97 20 1 18 173 69 3 2 8 4 42 2 5 90 11 .264 .344 .471 .816
2004 121 472 408 47 106 11 0 18 171 68 1 0 11 6 42 7 5 92 10 .260 .332 .419 .751
2005 141 537 449 58 105 22 0 14 169 65 3 2 8 6 69 5 5 106 10 .234 .338 .376 .715
2006 141 520 428 48 100 22 1 9 151 38 0 0 13 3 71 16 5 102 12 .234 .347 .353 .700
2007 134 474 382 33 90 15 0 6 123 44 0 1 19 5 62 15 6 85 10 .236 .347 .322 .669
2008 113 384 329 27 77 18 0 2 101 27 0 1 9 1 39 4 6 45 9 .234 .325 .307 .632
2009 115 369 298 32 62 7 0 9 96 33 0 0 19 4 44 8 3 62 9 .208 .312 .322 .634
2010 110 367 308 23 75 15 0 7 111 32 0 1 11 1 42 4 5 81 5 .244 .343 .360 .703
2011 102 330 277 26 71 10 0 6 99 31 0 0 12 1 38 5 2 51 5 .256 .349 .357 .706
2012 134 458 386 15 88 14 0 5 117 32 0 1 14 2 52 3 4 67 15 .228 .324 .303 .627
2013 130 438 379 19 82 12 0 6 112 34 1 2 6 3 46 2 4 70 11 .216 .306 .296 .601
2014 91 274 226 15 44 11 0 1 58 23 0 1 5 2 39 1 2 36 8 .195 .316 .257 .573
2015 30 52 47 4 13 2 0 1 18 4 0 0 2 0 3 0 0 9 0 .277 .320 .383 .703
通算:27年 3021 10336 8774 844 2108 393 20 229 3228 1040 32 22 252 62 1133 160 114 1838 236 .240 .333 .368 .703
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
  • 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

年度別守備成績


捕手 一塁
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 捕逸 守備率 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1989 75 296 38 5 3 5 .985 50 32 18 .360 -
1990 73 344 33 2 1 2 .995 42 25 17 .405 -
1991 79 416 41 4 6 8 .991 53 31 22 .415 -
1992 69 356 32 2 3 2 .995 37 26 11 .297 -
1993 109 667 64 3 14 3 .996 46 30 16 .348 -
1994 127 809 64 6 12 4 .993 76 46 30 .395 -
1995 92 390 40 2 6 1 .995 51 32 19 .373 -
1996 125 858 83 10 15 4 .989 101 59 42 .416 -
1997 128 1003 74 5 10 7 .995 70 47 23 .329 -
1998 133 899 93 5 18 4 .995 92 55 37 .402 -
1999 122 806 82 4 8 5 .996 95 58 37 .389 -
2000 122 871 79 3 15 2 .997 79 52 27 .342 -
2001 137 828 109 3 20 3 .997 81 37 44 .543 -
2002 129 971 73 6 25 7 .994 58 30 28 .483 -
2003 110 770 42 2 6 7 .998 48 33 15 .313 -
2004 120 887 49 2 14 9 .998 45 28 17 .378 -
2005 140 1014 65 2 14 6 .998 55 31 24 .436 -
2006 138 1006 79 1 10 3 .999 57 34 23 .404 -
2007 133 908 58 3 12 9 .997 57 34 23 .404 -
2008 113 737 51 3 10 3 .996 64 43 21 .328 -
2009 114 689 64 0 11 7 1.000 53 36 17 .321 -
2010 109 639 61 6 8 4 .992 63 40 23 .365 -
2011 100 524 48 1 9 1 .998 37 27 10 .270 1 5 0 0 1 1.000
2012 131 736 75 1 12 5 .999 72 46 26 .361 -
2013 122 681 65 1 9 5 .999 86 71 15 .174 -
2014 87 504 50 1 8 2 .998 66 50 16 .242 -
通算 2937 18609 1612 83 279 118 .996 1634 1033 601 .368 1 5 0 0 1 1.000
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
チーム
年齡
2014年 中日 4位 144 67 73 4 .479 13.5 87 .258 3.69 43歳
2015年 5位 143 62 77 4 .446 13.0 71 .252 3.21 44歳
通算:2年 287 129 150 8 .462 Bクラス2回

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1998年8月25日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、8番・捕手で先発出場 ※史上347人目(飯田哲也と同日達成)
  • 100本塁打:2001年10月3日、対広島東洋カープ27回戦(広島市民球場)、2回表に高橋建から右越2ラン ※史上217人目
  • 1000本安打:2001年10月9日、対中日ドラゴンズ27回戦(横浜スタジアム)、3回裏に朝倉健太から中前安打 ※史上208人目
  • 1500試合出場:2002年8月1日、対読売ジャイアンツ20回戦(東京ドーム)、8番・捕手で先発出場 ※史上137人目
  • 1000三振:2003年8月6日、対広島東洋カープ19回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に高橋建から ※史上34人目
  • 150本塁打:2004年5月18日、対広島東洋カープ7回戦(広島市民球場)、5回表に高橋建から左越2ラン ※史上136人目
  • 2000試合出場:2006年7月26日、対阪神タイガース9回戦(ナゴヤドーム)、7番・捕手で先発出場 ※史上36人目
  • 1500本安打:2006年10月9日、対東京ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、4回表に石川雅規から右中間適時二塁打 ※史上90人目
  • 300二塁打:2007年8月8日、対広島東洋カープ14回戦(ナゴヤドーム)、4回裏に宮崎充登から右翼フェンス直撃適時二塁打 ※史上47人目
  • 1500三振:2009年8月14日、対東京ヤクルトスワローズ16回戦(ナゴヤドーム)、2回裏に村中恭兵から ※史上7人目
  • 200本塁打:2009年9月1日、対広島東洋カープ19回戦(浜松球場)、3回裏に今井啓介から左越ソロ ※史上94人目
  • 200犠打:同上、7回裏に青木勇人から ※史上29人目(200本塁打と200犠打を両方達成したのは高木守道石毛宏典以来、史上3人目)
  • 2500試合出場:2010年7月28日、対読売ジャイアンツ14回戦(東京ドーム)、7番・捕手で先発出場 ※史上9人目
  • 100死球:同上、11回表に山口鉄也から ※史上15人目
  • 350二塁打:2011年9月19日、対読売ジャイアンツ19回戦(東京ドーム)、5回表に野間口貴彦から左線適時二塁打 ※史上32人目
  • 1000四球:2012年4月10日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、6回表に小野淳平から ※史上13人目
  • 3000塁打:2012年7月27日、対阪神タイガース14回戦(ナゴヤドーム)、8回裏に福原忍から左越2ラン ※史上50人目
  • 2000本安打:2013年5月6日、対東京ヤクルトスワローズ7回戦(明治神宮野球場)、6回表に押本健彦から右前安打 ※史上44人目
  • 1000打点:2013年6月13日、対埼玉西武ライオンズ4回戦(西武ドーム)、9回表にデニス・サファテから中前同点適時打 ※史上40人目
  • 10000打席:2013年9月23日、対横浜DeNAベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、9回表の第4打席で達成 ※史上9人目
  • 250犠打:2014年10月1日、対横浜DeNAベイスターズ23回戦(ナゴヤドーム)、2回裏にギジェルモ・モスコーソから投前犠打 ※史上18人目
  • 3000試合出場:2015年4月30日、対読売ジャイアンツ6回戦(東京ドーム)、8番・捕手で先発出場 ※史上2人目
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:12回 (1993年、1997年 - 2002年、2005年、2007年、2012年 - 2014年)
  • 守備機会連続無失策:1708、2006年4月4日 - 2007年8月10日 ※セ・リーグ歴代2位
  • 連続シーズン安打:27年、1989年 - 2015年 ※NPB記録
  • 連続シーズン本塁打:27年、1989年 - 2015年 ※NPB記録
  • 球団最年長本塁打:44歳4ヶ月13日、2015年5月4日 (NPB記録は、岩本義行の45歳5ヶ月7日)
  • 最年長猛打賞:44歳4ヶ月13日、2015年5月4日 ※セ・リーグ記録(NPB記録は、落合博満の44歳5ヶ月、1998年5月16日)
  • オールスターゲーム最年長安打記録:43歳6ヶ月、2014年の第1戦(西武ドーム
  • 捕手として試合出場:2922試合 ※NPB記録、2014年8月27日現在
  • 2000本安打達成者による年間最高安打最低記録:126安打(1999年)
  • 歴代通算三振数:1838、 清原和博の1955に次いで歴代2位

背番号

  • 1 (1989年 - 1992年)
  • 8 (1993年 - 2001年)
  • 7 (2002年 - 2003年)
  • 27 (2004年 - )

登場曲

  • 「Move It Like This」Baha Men(2002年)
  • 「Who Let The Dogs Out」Baha Men(2002年)
  • 「Perfect Love(Remix)」Lutricia McNeal(2002年、奇数打席)
  • 「You Showed Me(Club Mix)」Lutricia McNeal(2002年、偶数打席)
  • 「Without Me」Eminem(2003年)
  • 「In Da Club」50Cent(2003年、奇数打席)
  • 「Wanksta」50Cent(2003年、偶数打席)
  • 「Right Thurr」Chingy(2004年)
  • 「My Band」D12(2004年、奇数打席)
  • 「Dirt Off Your Shoulder」Jay-Z(2004年~2005年、偶数打席)
  • 「Thugs Get Lonely Too」2Pac(2005年、奇数打席)
  • 「For That」50Cent(2005年、奇数打席)
  • 「If I Can't」50Cent(2005年、偶数打席)
  • 「Let The Record Skip」ビザール(2005年)
  • 「Heard 'Em Say」カニエ・ウエスト(2006年、奇数打席)
  • 「Shake That feat. ネイト・ドッグ」Eminem(2006年、偶数打席)
  • 「There It Go(The Whistle Song)」ジュエルズ・サンタナ(2006年)
  • 「Seize The Day」RYO the SKYWALKER(2006年)
  • 「Money Maker」Ludacris(2007年)
  • 「Hips Don't Lie」Shakira(2007年~2008年)
  • 「Low feat. T-Pain」フロー・ライダー(2008年)
  • エロティカ・セブンサザンオールスターズ(2008年、奇数打席)
  • マンピーのG★SPOT」サザンオールスターズ(2008年、偶数打席)
  • 「Everything, Everyday, Everywhere」Fabolous(2009年~2010年、奇数打席)
  • HOTEL PACIFIC」サザンオールスターズ(2009年~2011年、偶数打席、2011年は全打席)
  • 「Lookin' My Eyez」AK-69(2011年、奇数打席)
  • Still... feat. AK-69AI(2011年、偶数打席)
  • 「SWAG IN DA BAG」AK-69(2012年~2014年、2013年~2014年は偶数打席)
  • 「START IT AGAIN」AK-69(2013年、奇数打席)
  • 「THE INDEPENDENT KING」AK-69(2014年、奇数打席)
  • 「The Throne」AK-69(2015年、奇数打席)
  • 「ICU」AK-69(2015年、偶数打席)

代表歴

関連情報

関連書籍

脚注

  1. ^ a b 谷繁選手兼任監督就任会見”. 中日ドラゴンズ公式サイト. 中日ドラゴンズ (2013年10月10日). 2013年10月11日閲覧。
  2. ^ a b “中日監督に谷繁捕手、来季就任へ 落合氏もGM受諾”. 中日スポーツ. (2013年10月9日). http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2013100901001788.html 2013年10月9日閲覧。 
  3. ^ a b 中日谷繁が27年連続安打&本塁打 NPB記録更新 - 野球 : (日刊スポーツ 2015年5月4日17時15分)
  4. ^ a b 谷繁兼任監督、出た!日本記録更新の27年連続安打&本塁打! - スポニチアネックス2015年5月4日 15:37)
  5. ^ a b c “谷繁 悔しさで成長…父・一夫さん「今考えればカープに感謝」”. スポーツニッポン. (2013年5月7日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/07/kiji/K20130507005754010.html 2013年5月7日閲覧。 
  6. ^ “少年野球時代 彼らはすでに天才だったのか - 現代ビジネス”. 週刊現代 (講談社). (2012年2月11日号). http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31730?page=5 2013年5月7日閲覧。. 
  7. ^ 『朝日新聞』1988年12月10日付朝刊 (14版、23面)
  8. ^ 赤坂英一「キャッチャーという人生」 講談社
  9. ^ TRY FOR MAJOR『月刊スラッガー』2002年1月号、日本スポーツ企画出版社、39頁。雑誌15509-1。
  10. ^ 2008年12月26日スポーツニッポン、2011年8月2日中日スポーツ
  11. ^ 横浜時代は通算1002安打。
  12. ^ 谷繁監督 ノムさん超え弾 日本新26年連続本塁打、37年ぶり兼任弾スポーツニッポン2014年7月23日配信
  13. ^ 谷繁“ノムさん超え”プロ野球新記録の捕手2922試合出場 スポニチアネックス(2014年8月27日)
  14. ^ 選手名鑑 谷繁元信(監督兼選手)中日ドラゴンズ 公式サイト 2015年3月28日閲覧
  15. ^ 谷繁兼任監督痛すぎるサヨナラ負け「これが開幕戦」日刊スポーツ 2015年3月28日
  16. ^ 谷繁 今季初スタメン、史上2人目の3000試合出場達成 スポニチアネックス(2015年4月30日)
  17. ^ 谷繁退場走者タッチ遅れ球審にタッチ/写真リプレー -(日刊スポーツ)[2015年5月2日19時47分]
  18. ^ 谷繁兼任監督初退場「両手で触れた」3001試合目 - 野球 : 日刊スポーツ([[[2015年]]5月3日10時38分 紙面から])
  19. ^ 中日谷繁監督に厳重注意と制裁金20万円 - (日刊スポーツ)[[[2015年]]5月3日14時51分]
  20. ^ 中日・谷繁が今季限り現役引退 腰痛で今季出場27試合のみ(1/3)(2/3)(3/3) - サンケイスポーツ 2015.9.13 05:06
  21. ^ 「中日新聞」2015年9月15日朝刊第1面 「中日・谷繁 現役引退へ 近く会見 来季、監督に専念」及び第29面「若い捕手台頭 再建集中 谷繁現役引退へ 肩の痛み引かず」
  22. ^ 中日谷繁引退44歳体力限界、専任で監督3年目勝負 - 日刊スポーツ([[[2015年]]9月15日7時23分 紙面から])
  23. ^ ★谷繁元信監督兼選手が引退”. 中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース (2015年9月21日). 2015年9月21日閲覧。
  24. ^ 谷繁引退「正直ボロボロ」 右より厚い左手、捕手の勲章(朝日新聞2015年9月21日 9月24日閲覧)
  25. ^ 中日谷繁監督シーズン報告 オーナー創設80年V厳命 - [2015年10月20日11時27分 日刊スポーツ紙面から]
  26. ^ 【中日】谷繁監督、来季続投へ急転 白井オーナー「契約を破るわけにいかない」 - スポーツ報知(2015年9月19日 6:00)
  27. ^ 谷繁、最初は固辞もスタンドと和田に促され胴上げ5回 下位低迷謝罪も - スポーツニッポン(2015年9月19日 22:40)
  28. ^ 中日谷繁兼任監督、ラスト横浜スタジアムに涙 - 日刊スポーツ(2015年9月27日7時17分 紙面から)
  29. ^ 2015年度 自由契約選手 - 2015年12月2日閲覧
  30. ^ この時8番は鴻野淳基(内野手・翌年49番に変更)が着用し、進藤はまだ36番を着用していた。その他石井琢朗(66→0)等翌年背番号を変更した選手も旧背番号のユニフォームを着用していた。
  31. ^ 週刊現代」、講談社2012年1月28日、pp. 166

関連項目

外部リンク