鷹木信悟

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鷹木 信悟
鷹木 信悟の画像
プロフィール
リングネーム 鷹木 信悟
本名 鷹木 信[1]
ニックネーム THE DRAGON
史上初のNEVER二冠王者
我道驀進
パンピングホーク
身長 178cm
体重 100kg
誕生日 (1982-11-21) 1982年11月21日(37歳)
出身地 山梨県中巨摩郡旧田富町(現:中央市
所属 フリー[2]
スポーツ歴 レスリング
柔道
野球
トレーナー アニマル浜口[3]
CIMA
デビュー 2004年10月3日
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鷹木 信悟(たかぎ しんご、1982年11月21日 - )は、山梨県中央市出身。日本男性プロレスラー。本名:鷹木 信(たかぎ しん)[1]。現在は内藤哲也率いる新日本プロレスの反体制ユニット・ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンの一員。血液型O型。

経歴[編集]

デビュー以前[編集]

3人きょうだいの末っ子として山梨県の中巨摩郡で生まれる。少年期の鷹木は友人に言わせると「ジャイアンクレヨンしんちゃんを足して2で割った性格」という自由奔放な性格であり、機械が苦手でゲームを好まない一方で友達と野球やサッカーを行うなど外遊びが好きであった。子供の頃は夏でも冬でも1年中ずっと半袖半ズボンで過ごすというポリシーがあった。小学生時代の鷹木は朝早く登校すると始業までの間に相撲大会を開き自分が常に優勝をかっさらう、2年生から始めた少年野球では代打の切り札として活躍するなど、スポーツで後にプロレスラーとして発揮する能力の片鱗を見せた。何かと負けず嫌いであり、勉強が苦手で小学校のテストで10点から30点しか取れなかったので先生からたっぷり叱られ、それで負けん気に火が付いて勉強を頑張り、漢字テストで満点を連発してクラスで成績1位になり周囲を驚かせることもした。強くなりたいという願望は子供の頃から持っていたが、喧嘩好きというわけではなく、むしろ争い事は嫌いであった。しかし、目立つ存在であったため上級生から目を付けられることがあり、父親からは「先に手を出すな」と言われたが、その代わり、「先にやられたら倍にしてやり返せ。ケンカには絶対負けるな」と言われていた[4]

中学校入学後、野球部に所属する傍らで週2回柔道の道場に通った。元々プロレスには興味があったがのめり込むほどではなく、当時プロレスラーという認識があったのはアントニオ猪木ジャイアント馬場くらいであった。だが、バラエティ番組に頻繁に出演する大仁田厚を見て「いちばん知名度があるプロレスラー」という認識が強くなり、中学1年生の時にレンタルビデオ店で借りた大仁田vs天龍源一郎のノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチを見て「男の目指す最終地点はここだ」と思うようになった。本人はこの時の様子を「大仁田さんの熱血ぶり、天龍さんの無敵のオーラに惹かれましたね。本当に2人ともカッコいいと思った。でもあとから気づいたんですけど、僕がビデオを借りた時にはすでに大仁田さんは引退したあとだったんです。それで、ますます伝説のプロレスラーだと思いました。でも大仁田さんは今でもたまに試合していますよね(苦笑)」と話している。中学校の進路希望アンケートに「新日本プロレス全日本プロレスFMW」と記載するようなるほどプロレスラー志望が強くなったが、流石に親の反対に遭い、普通に高校進学することにした[4]

山梨県立市川高校在学中は柔道部に所属。柔道の道場でもプロレス技を練習するなどプロレス好きは相変わらずであった。主将を務めて関東大会出場を果たした。しかし、全国大会には出場していないので高校2年生の時に父親から「柔道でインターハイも行けないのに、プロの世界はそんなに甘いもんじゃない」と忠告されたこともある。卒業後はアニマル浜口レスリング道場に通いながら、肉体作りを学ぶためトレーナー専門学校に進学し、肉体作りに必要なトレーニング理論を学んだ。専門学校に入学したのは「プロレスで挫折しても普通に働くことができるように学校へ行け」と父に勧められたためであり、アニマル浜口道場の存在は高校の担任に「どうやったらプロレスラーになれるか知りたければ図書館で調べてこい」と言われて実際に本を見つけて調べたことで知った。アニマル浜口道場時代は76kgの体重を過食により150kgを超えるほど増やし、その後体を絞るための目標としてボディビル大会に出場したが納得のいくような結果が得られなかったといった経験をした。ボディビル大会に関しては翌年にもう一度チャレンジして優勝を果たしており、またレスリングの大会でも結果を残している。浜口道場時代にはまた内藤哲也KAI植田使徒などと共に過ごし、スパーリングも行ったことがある[4]

DRAGON GATE[編集]

新人時代[編集]

アニマル浜口道場で3年間を過ごしたのちに、DRAGON GATE(当時は闘龍門)に入門。21歳の時に闘龍門の試合を見るまで闘龍門の存在は知らず、闘龍門との出会いについては後年「正直、興味はありませんでした。初めて観てなんだこれは?と。今まで観てきたプロレスとはまったく違う空間が広がっていたんですよね。衝撃だったというか、見るものを惹きつけるものがリング上に広がっていました。会場の雰囲気も良かったというか。それで思ったんです。自分もこの空間の中に入りたいな」と鷹木は述懐している。同期にB×Bハルク戸澤陽カツオ(大野勇樹)がいた。闘龍門に入門した当初練習生はウエイトトレーニングを禁止されていたが、合同練習が終わった後などで隠れてジム通いを行っていた。すると、偶々そのジムでドン・フジイと会ってそこで訳を説明し、以来ウエイトトレーニングを許され、CIMAに頼み込んでミッドブレス(フィットネスジム)に通わせてもらうなどした。入門から半年後の2004年10月3日、博多スターレーン興行における対近藤修司"brother"YASSHI菅原拓也戦でプロレスデビューした。鷹木のパートナーはCIMATARUであった。デビュー戦について鷹木は後に「あの時はボコボコにされましたね。こんな試合を年間200試合も続けるのかと気が遠くなった。でもこんな所で挫けてはいられない。”ちくしょう、やってやる!”って思いはありましたよ。」と振り返っている。旧闘龍門JAPAN勢中心の同団体からデビューした初の新人レスラーであったが、鍛え上げられた体躯は新人離れしており、デビュー1年後の2005年には望月成晃の持つドリームゲートに挑戦、年末のKING OF GATEでもベスト4まで勝ち上がるなど、団体のトップレスラーに駆け上がった[4]

試合後のインタビューの最中に「では、トレーニングに行きましょう!」(チームメイトのCIMA・土井「これからかいな…」)と言い出すほどの筋肉バカキャラで、入場時には曲に合わせてマスキュラーポーズなどを披露している。

2006年5月からはDRAGON GATEから離れ無期限の単身アメリカ修行をし、7月の神戸ワールド記念ホール大会に一時帰国し吉江豊と対戦した。遠征先での怪我でしばらく休んでいたが、9月半ばよりアメリカでのリングネームを鷹木信悟からSHINGOと改名し復帰。

2007年4月17日の後楽園大会に突如現れ、B×Bハルクサイバー・コングYAMATOとの新ユニットNEW HAZARD結成と5月からの日本マット完全復帰を宣言。4月28日に森嶋猛が持っていたROH世界ヘビー級王座に挑むも敗北した。同年7月の神戸ワールド記念ホールではB×Bハルクサイバー・コングと共にオープン・ザ・トライアングルゲートを奪取した。同年11月にGammaを下してCIMAの持つオープン・ザ・ドリームゲートへの挑戦権を獲得する。大阪府立体育会館でCIMAと激闘を繰り広げるが、最後はCIMAのホルヘ・コンプリートの前に敗れた。

2008年4月17日の後楽園ホールで、5月の愛知県体育館大会で行われるマスカラ・コントラ・カベジェラ金網エスケープマッチでハルクが坊主にならない事を条件にハルクダンスを踊ることをサイバー・コングと共に公約。5月14日の後楽園ホール大会では公約通りダンスを踊ったが、ダンスの途中でハルクに攻撃。衣装を脱ぐと下にはNEW HAZARDカラーの赤ではなく、マッスルカラーの青のコスチュームを身に着けていた。この試合でサイバー・コングと共にマッスルアウトローズと結託し、REAL HAZARDとしてヒールターンした。

その後、鷹木はハルクとドリームゲート王座次期挑戦権をかけてシングルマッチを行うも死闘の末、DRAGON GATE史上初の60分時間切れ引き分けという結果に終わる。さらにドリームゲート王者であるCIMAが怪我の悪化のためベルトを返上することになり、2008年7月27日の神戸ワールド記念ホール大会でドリームゲート王座をかけて再戦が決定した。

オープン・ザ・ドリームゲート王者へ[編集]

年間最大大会である神戸ワールド記念ホール大会のメインを、闘龍門時代を経験していない新世代同士が戦うという異例のシチュエーションの中、35分を越える激戦を繰り広げ、ついにドリームゲート王座を戴冠した[5]。しかし試合後、REAL HAZARDのメンバー達と言い争いになりユニットから追放されるが、ドラゴン・キッド斎藤了Typhoonに共闘を呼びかけられる。難色を示したが、アンソニー・W・森の張り手と罵倒により渋々共闘していくことになった。この試合で右肩を負傷し、本来ならば欠場してもおかしくない状況であったが、負傷を公表することなく無理を押して試合に出場し続けた。そのためドリーム王者時代が一番苦しい時期であったと本人は後に振り返る[4]

2008年8月31日の博多スターレーン興行で、サイバー・コングを相手にドリームゲート王座防衛に成功。これは初防衛となった。試合後、WORLD-1入りを谷嵜なおきに打診されるが、改めてタッグリーグで組んだドラゴン・キッドの所属するTyphoon入りを宣言。しかし、CIMA横須賀享はこのことを帰国するまで知らされておらず、鷹木自身も我関せず的な態度を示したため、Typhoon内での亀裂を生んだ。

9月28日の福井大会で、新人時代に挑んで敗北したTAKAみちのくとドリームゲート王座を賭けて対戦し、王座防衛に成功。11月16日の大阪大会では同じTyphoonに所属する横須賀享とドリームゲート王座のタイトルマッチを行い勝利するが、行き過ぎた自己中心的な発言の数々が原因で斎藤了にTyphoon追放を言い渡された。

KING OF GATE2008は「高みの見物」として不参加。12月28日の福岡大会において、同大会で優勝した土井成樹を相手にドリームゲート防衛戦を行うも、マスキュラーボムの前に敗れ、王座陥落。

KAMIKAZE結成[編集]

2008年12月19日に岩佐拓、戸澤と新ユニットを結成すると発表、2009年1月11日にキッドが加入し新ユニット『KAMIKAZE』を立ち上げた。2010年5月の両国国技館大会で復帰したサイバー・コングと組み、CIMAとGammaの持つオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦し、見事に奪取する。鷹木も一時期のスランプから完全に抜け出すことに成功した[6]

7月のワールド記念ホール大会でハルクとカベジェラ戦を行い勝利したが、右肩を負傷。12月26日の福岡国際センターでオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座次期挑戦者チーム決定3WAYタッグマッチをサイバー・コングと挑むが敗戦、さらに右肩の負傷を原因に一時戦線離脱した。

2011年3月1日の後楽園ホール大会で行われたKAMIKAZEとBlood WARRIORSの敗者復活サバイバルイリミネーションマッチ3対4でYAMATOに4人目として呼び込まれ電撃復帰。KING OF GATE2011は初戦で望月成晃に敗れるが望月軍(仮)に入ることを決めた。しかし因縁のあるハルクとタッグを無理矢理組まされるなどタッグとしても成立しない場合が多く、結果ハルクはヒールターンした。

ユニット解散後はどこにも属さずにYAMATOと2人で試合を行い、敗戦が続くなどスランプに陥っていたが、後輩である富永千浩に「勝ち急いでいる」と目覚めさせられ、2012年4月にYAMATO、冨永、三代目超神龍と新ユニット「暁 〜AKATSUKI〜」を結成した。7月にYAMATOとのタッグでオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座を奪取[6]。12月23日福岡国際センターで王者CIMA・挑戦者鷹木・ハルクというオープン・ザ・ドリームゲート3wayマッチに挑戦。ドリームゲートでは初の3wayマッチだった。敗れはしたものの、新世代の意地を見せた[5][7]

2013年5月には再びツインゲートを獲得したがこの頃からYAMATOと衝突を繰り返すようになり、6月の戸澤・ハルクとのタイトルマッチで遂にYAMATOに裏切られ、王座を失った[6][7]。しかし7月にはオープン・ザ・ドリームゲートに挑戦し、CIMAを破って2度目のドリームゲート戴冠を果たした。15度の防衛で長期政権を築いていたCIMAを破ったこの試合は「新時代の扉を開いた」と評された[5][7]

浮沈 - 反撃[編集]

しかし直後の8月1日に、因縁のYAMATOが加入したMAD BLANKEYと鷹木が率いる暁との間でユニット解散マッチが行われ、敗退した暁は解散に追い込まれた。さらに8月23日にはYAMATOに敗北し、防衛0でドリームゲート王座も失ってしまった。鷹木自身「天国から地獄」と述べている[5][7]

その中でMAD BLANKEYを追放された戸澤と共闘を始め、さらに戸澤と行動を共にしたウーハー・ネイション、WORLD-1 INTERNATIONALの解散により吉野正人しゃちほこBOYリコシェも加わり、10月に6人で新ユニット「MONSTER EXPRESS」を結成した[7]。12月には戸澤と組んでYAMATO・土井成樹からツインゲート王座を奪取し、因縁のMAD BLANKEY勢に漸く一矢報いた。その後2014年に入ってもツインゲート防衛を重ねている[6]

狙われた鷹木信悟[編集]

2014年7月には試合に敗北しパンチパーマになった富永千浩をおちょくった所、富永が逆上し「パンチ富永」となってMAD BLANKEY入り。新たな因縁が勃発した[8]

B×Bハルクとの死闘[編集]

11月23日、ハルクと富永の試合後に乱入、勝手に襲いかかってきた富永を一蹴しハルクの持つドリームゲートに挑戦表明する。

そして12月28日、鷹木は福岡国際センターでハルクと死闘を繰り広げるがハルクのファースト・フラッシュで敗北。ハルクとのシングル戦では四度目の敗北になった(一度目はハルクがデビューしたての頃、二度目は他国でのオープン・ザ・フリーダムゲート選手権試合、三度目はハルクがヒールになったばかりの頃である)。

MONSTERとの決別 - 新ユニット結成へ[編集]

2015年8月16日にオープン・ザ・ドリームゲート王座の3度目の戴冠に成功。それと同時に不協和音の続いていたMONSTER EXPRESSから孤立。

8月30日、解散したMAD BLANKEYの残党と結託(K-ness.とパンチ富永は除く。更にKotokaやEitaとも結託)。9月23日に新ユニット「VerserK」として本格始動(吉野と戸澤はモンスターを裏切ったと言っているが鷹木本人は「正義に基づいた革命」と言い否定している)。

4度目のオープン・ザ・ドリームゲート王者 - 金網サバイバルマッチ[編集]

2016年2月14日、博多でススムにドリームゲートを奪われるが、3月6日にススムからドリームゲートを奪い返し、VerserK強制離脱を免れた。しかし、2月14日の対ススム戦でYAMATOの塩攻撃が誤爆して以来、YAMATOと仲間割れする。

3月6日にドリームゲートのベルトを奪い返した後にVerserKメンバー全員と握手を交わすが、それでもYAMATOとは仲直りができなかった。

そして、3月21日に斎藤"ジミー"了との初防衛戦に勝利した後は、完全にVerserKは鷹木派とYAMATO派に分かれてしまうと(この時点で鷹木派は鷹木とKotoka、YAMATO派はYAMATOと土井と谷嵜になった。サイバーはこの時点では不明。問題龍は中立)、5月5日の愛知県体育館大会でVerserKのメンバー同士による金網サバイバルマッチが決定。

5月5日、愛知県体育館大会メインの金網マッチにてYAMATO派にいた土井と谷嵜が裏切り鷹木派と結託。最終的にYAMATOはエスケープに成功するも、ユニットからYAMATOを追放した。

7月24日、YAMATOとドリームゲート戦を行い、ドリームゲート王座を失った。

2018年、全日本プロレスチャンピオンカーニバルに出場。開幕戦で当時の三冠王者であった宮原健斗を破り、自分よりも遥かに体格が大きい対戦者たちにも一歩も引かずに闘い、ブロック2位タイと奮闘し高い評価を得た。

2018年7月22日に、吉野正人の持つオープン・ザ・ドリームゲート王座に挑戦するも敗北する。

2018年9月9日の、仙台大会終了後に10月8日博多スターレーン大会ににて、ドラゴンゲートを退団することを発表する。

2018年9月24日、大田区総合体育館でのKAIとのシングルマッチをおこなうが、敗北する。

10月7日、博多スターレーン大会で、同期で幾多もの名勝負を繰り広げたライバルB×Bハルクと対戦し敗北。14年間所属したDRAGON GATEのマットを降りた。

新日本プロレス[編集]

2018年[編集]

2018年10月8日、新日本プロレス両国大会に登場し内藤哲也からロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンの新メンバーと紹介された。

11月3日、大阪府立体育会館にてBUSHIと組み、ジュニアタッグリーグの決勝戦3wayに挑むも、金丸組がROPPONGI 3Kに敗れたため、優勝を逃した。

2019年[編集]

1月4日、東京ドーム大会で金丸義信&エル・デスペラードの保持するIWGPジュニアタッグ王座を奪取し、第58代王者組となる(パートナーはBUSHI)[9]

2月3日、北海道立総合体育センターで行われたIWGPジュニアタッグ選手権試合では挑戦者組の金丸&デスペラード組との一進一退の両者譲らぬ攻防の末、18分4秒にリベリオンで金丸をピンフォール。第58代王者組が初防衛に成功[10]

しかし3月6日、大田区総合体育館大会でSHO&YOHにBUSHIが3Kでピンフォールを奪われ敗北。同王座から陥落[11] した。

5月13日より開幕したBEST OF THE SUPER Jr.26では、初出場ながらAブロック9戦全勝で優勝決定戦に進出。しかし6月5日に両国国技館で行われた優勝決定戦ではウィル・オスプレイに敗北し、準優勝に終わる[12]

7月6日より開幕したG1 CLIMAX29にもエントリーし、ジュニアヘビー級ながら矢野通タイチ石井智宏後藤洋央紀を倒して4勝を挙げる。また最終公式戦後にヘビー級転向を表明した[13]

2020年 - 史上初のNEVER 無差別級タイトル二冠王者[編集]

2020年1月5日、東京ドーム大会の第0試合でガントレットマッチ方式で行われたNEVER無差別級6人タッグ選手権試合にEVIL、BUSHIと組んで勝利し、NEVER無差別級6人タッグ王座を奪取[14]。翌6日の大田区総合体育館にてEVILと組んで石井智宏、後藤洋央紀とタッグマッチで戦い、5日にNEVER無差別級王座を獲得した後藤を鷹木式GTRからラスト・オブ・ザ・ドラゴンで沈めると、マイクでNEVER王座への挑戦及び同タイトルの価値の向上を高らかに宣言[15]

2月1日、北海きたえーるで行われた「THE NEW BEGINNING in SAPPORO」で後藤とNEVER無差別級王座のタイトルマッチで対戦。互いに一歩も譲らない打撃戦を展開し、久々にSTAY DREAMを繰り出すなどして後藤を追い込むも後藤の昇天・改を浴び、さらには頭突き合戦でペースを掴まれる。しかし正調GTRを切り返してのMADE IN JAPANで再度流れを掴み、最後はラスト・オブ・ザ・ドラゴンで快勝しNEVER無差別級王座を初挑戦にして初戴冠した。なお、これが新日本における鷹木のシングルタイトル初戴冠となり、加えて鷹木はNEVER無差別級6人タッグの王座を保持していたため、史上初のNEVER無差別級二冠王者となった[16]

2月20日、後楽園ホール大会で石井智宏を相手にNEVER無差別級王座の防衛戦を行う。エルボーや逆水平、ラリアット、バックドロップなど古典的な技の応酬で体力を削り合い、途中で石井の雪崩式ブレーンバスターを受けて窮地に追い込まれるも、最後は垂直落下式ブレーンバスターを鷹木式EVOで切り返すと、鷹木式GTR、パンピングボンバーと畳み掛けてからラスト・オブ・ザ・ドラゴンでピンフォールを取り、初防衛に成功[17]

6月22日に行われた「NEW JAPAN CUP 2020」の1回戦でSHOと対戦(第三試合)。序盤から気迫のこもった白熱の展開だったが最後はSHOのショックアローが決まり、1回戦敗退[18]。7月25日、ドルフィンズアリーナでエル・デスペラードを退けNEVER無差別級王座を防衛。「(お前らには)愛しさと切なさと心強さが、お前らには足りねえんだよ」とコメントを残した[19]

得意技[編集]

どんな相手も強引に持ち上げたり投げたりする荒技が多いが、上半身も下半身も強いため安定感やバランスがある。

フィニッシュ・ホールド[編集]

ラスト・オブ・ザ・ドラゴン
鷹木が新日本プロレスに移籍した後の必殺技で、下記の「ラスト・ファルコンリー」を改良したフィニッシュホールド
相手の右腕をハーフネルソン、左腕を股下を通して相手の手首を固定しながらファイヤーマンズキャリーの形で担ぎ、通常のデスバレーボムなら体重をかけて横に落とすところを、自身の前方側に回転させながら相手の頭から落として、振り上げた片脚が相手の喉元に落ちるように叩きつける変形のデスバレー・ドライバー。そのまま両脚で相手の体を挟む「昇龍固め」でホールドし、フォールを奪ってしまう。 ドラゴンゲート時代はラスト・ファルコンリーの名称で使用。「最後の鷹狩り」の意。
ドラゴンゲート時代はドリームゲート選手権などといった大一番でしか使わない技で鷹木曰く、「年に5回も使わないので一応奥の手」であったが、全日本プロレスのチャンピオンカーニバルに出場したさい、開幕戦で当時の三冠王者の宮原健斗にこの技を決め勝利している。新日本参戦後はメインフィニッシャーとしてシリーズ通して使用している。
MADE IN JAPAN
B×BハルクのF.T.Xのように相手の片腕をハーフネルソン気味にして首の後ろを捉え、もう片方の腕を相手の股下でリストクラッチした後、持ち上げつつその場で相手の体を前方回転させながらマットに叩き付ける変型ドライバー。落とす際、左足で首元をロックして「昇龍固め」にてホールドする。
鷹木が普段使うフィニッシュ技の一つ。新日本プロレス参戦後はYOSHI-HASHIのフィニッシュホールド「カルマ」と重複するためか封印していたが、BEST OF THE SUPER Jr.26決勝戦において解禁。
以来、試合後半の重要な局面での繋ぎ技及び前哨戦やタッグマッチにおいて格下相手に使用するフィニッシャーとして多用される。
パンピングボンバー
鷹木の放つ右腕でのラリアット。普段使うフィニッシュ技の一つである。インパクトの瞬間、絶妙に体重を浴びせて右腕を振り抜くため、軽量の選手なら軽々と宙を舞う。新日本参戦後はこの技がフィニッシャーになることは減ったが、シングル、タッグを問わず試合中多用され、試合終盤ではラスト・オブ・ザ・ドラゴンへの布石として使用される。
スライディング・パンピングボンバー
相手が座った状態で自らスライディングして放つパンピングボンバー

打撃技[編集]

逆水平チョップ
通常の逆水平の他、両手でのダブルチョップも使用する。
張り手
エルボー
通常のエルボー、左右のワンツーエルボー、ローリング式など使用する。
バックエルボー
エルボー・スタンプ
エルボー・ドロップ
ナックルパンチ
バックエルボーで動きを止めた相手を怯ませて龍魂ラリアットに繋ぐほか、コーナーに追い詰めた相手に何発も放っていくなど、試合序盤〜中盤にかけて多用される。本来は反則技であるため、新日参戦初期はレフェリーに注意を受け、掌底だと主張するシーンもよく見られた。
モンゴリアンチョップ
リズムのあるナックルパンチを2、3発見舞った後に放つ。鷹木の場合は、反撃の際に用いられることが多い。
延髄斬り
龍魂ラリアット
左腕で浴びせ倒すショートレンジのラリアット。走ってきた相手の動きをバックエルボーで止め、ナックルパンチで怯ませた後でこの技で浴びせ倒すというムーブを好んで使用する。
鷹木式GTR(グレート・鷹木・レボリューション)
後藤洋央紀との抗争の際に掟破りとして出した技。
初期は裏GTRの形で使用していたが、現在は、セカンドロープに外向きに座らせた相手の頭部を左脇下に抱え込み、体を反転させると同時に右腕を首元に振り下ろし、突き立てた右膝に打ち付ける変形GTR。正式名称「グレート・鷹木・レボリューション」。
鷹木式レインメーカー
G1 CLIMAX30の公式戦で対戦したオカダ・カズチカに対して放った掟破り技。

投げ技[編集]

ブレーンバスター
雪崩式ブレーンバスター
バックドロップ
ジャーマンスープレックス
ブリッジを効かせず投げ捨てる形で使用している。
熨斗紙(のしがみ)
KAMIKAZE時代のチームメイト、岩佐拓が使用していた変型のゴリーボム。
背中合わせで相手の両腕をフックしてゴリー・スペシャルの体勢で担ぎ上げて、両腕のロックを外して両脚に持ち替えて後ろに倒れこみ相手を顔面からマットに叩きつける。岩佐がDRAGON GATEを離れて以降レパートリーに入れており、鷹木は新日参戦後も試合を決める重要な繋ぎ技として愛用している。
熨斗紙・翼(のしがみ-つばさ)
G1 CLIMAX29の後藤戦ではスリーパー・ホールドへのカウンターとして披露したリバース式の熨斗紙。新日本の実況・解説からは「裏熨斗紙」と呼ばれることが多い。
スリーパー・ホールドを仕掛けた相手をおんぶで背負う形でキャッチして後ろに倒れ込む。熨斗紙は顔面を叩きつけるが、こちらは後頭部を叩きつける形になる。
オリジナルファルコンリー
旧名ラストファルコニー
相手の腕を相手の股下でロックした状態でファイヤーマンズキャリーのよう担ぎ上げ、エアプレーンスピンのように横回転を加えてからデスバレーボムのように倒れる技。
STAY DREAM
雪崩式で放つオリジナルファルコンリー
MADE IN JAPAN同様、新日本プロレス参戦後は長らく封印していた技だが、BEST OF THE SUPER Jr.26決勝戦において解禁。技名の由来は鷹木自身がファンである長渕剛の曲「STAY DREAM」から。
ブラッドフォール
相手の腕をロックした状態でアルゼンチン・バックブリーカーの体勢で担ぎ、相手の下半身を押し上げながら相手の頭を自分の前に投げ出すように180°回転させて相手の顔面からマットに叩きつける変型フェイスバスター。かけられた相手はフェイスバスターの形になり、かけた方は開脚尻餅状態になる。回転の仕方が違うDOI555土井成樹のような形である。カレーマンとの試合で負けた時の技スパイシードロップにヒントを得て、その直後から使うようになった。現在では安定性を優先しているため、相手の腕をロックしないバージョンを主に使用している。アルゼンチン・バックブリーカーで充分に締め上げてから放つ時もある。この技で当時のドリームゲート王者の望月成晃から3カウントを奪い、デビューから1年でのドリームゲート挑戦に漕ぎ着けた。現在では繋ぎ技として使用している。
パワーボム
通常、場外でも放ち、コーナーポストに向けて放つ時もある。
デスバレーボム
カウンターで放たれることも多く、大一番では場外やエプロンでも敢行する。
ポップアップ・デスバレーボム
走り込んできた相手を上空へ放り投げ、ファイヤーマンズ・キャリーでキャッチし、そのまま倒れ込んで後頭部からマットに叩きつける変型デスバレー・ボム。主にカウンターで使用され、試合の流れを一変させる。
向かってきた相手をショルダースルーで上空に投げてから行う場合もある。
ガロンスロー
ジャンボ堀のジャンボスープレックスと同型の技でパワーボムの体勢で相手を抱え上げ、そのまま後方に放り投げる。相手は顔面から落ちることになる。現在は使用していない。
ヨーソロー
サイドスープレックス(レスリングでいう「俵返し」)の体勢で相手を抱え、カナディアン・バックブリーカーのように肩に担ぎ上げながら自身も回転しつつ、相手を放り投げる。相手は仰向けのまま真横に回転して地面に落ちる。かつて全日本プロレスを中心に活動していたジム・スティールの必殺技ターボドロップ2と同型。現在は使用していない。
鷹木式ギャラリア
デスバレーボムの体勢で担いでから放つ変型のギャラリア。又は、 MADE IN JAPANの体勢で相手を担ぎ上げ、マットと垂直の状態へと移行し、シットダウンと同時に垂直落下で後頭部からマットに突き刺す変型のギャラリア。YAMATOとのオープン・ザ・ドリームゲート戦で繰り出した禁断の掟破り技。
鷹木式EVO
変形のエメラルド・フロウジョン。DRAGON GATE時代に犬猿の仲であったB×Bハルクの得意技。本来はパンプハンドル式で担ぎ上げ、右サイドに後頭部から叩きつける変形エメラルド・フロウジョンだが、鷹木流のアレンジが加えられており、新日本プロレス参戦後の石井智宏戦で垂直落下式ブレーンバスターの切り返しで披露された。
ソル・デ・ハポン
7月12日、DOMINIONで行われたNEVER無差別級選手権試合で初公開。
相手の右サイドから右腕はハーフネルソン、左手は相手の腿裏を抱えた状態で担ぎ上げると同時に捕らえた相手をポップアップしつつ自ら飛び上がると背面から倒れ込み、落下してきた相手の腹部に突き立てた両膝を打ちつけるパンプハンドル式の変形ガット・バスター。
技名は「日本の太陽」の意味。
鷹木式ドラゴン・スクリュー
トップロープに引っ掛けた相手の両脚をまとめて抱えあげてドラゴン・スクリューのように回転する。相手の膝よりも腰にダメージを与える技。
DDT
大一番では場外でも放つ。本人曰く「デンジャラス・ドライバー・タカギ」の略だという。

飛び技[編集]

ダイビング・エルボー・ドロップ
背面式を好んで使用する。
ダブルニードロップ
要所要所のタイミングで、相手の首または頭部を狙って放つダブルニードロップ。時折コーナーからのダイビングニードロップも見せる。
トペ・コンヒーロ
滅多にやらないが、6人タッグ3WAYなどでトペの競演が行われた際に披露する時がある。トップロープを飛び越える時に、それを掴んで鉄棒の大車輪の様な感じで回転するが、姿勢が綺麗である。ドラゴンゲートでは比較的体格の大きい鷹木が繰り出すだけにインパクトは大きい。ドラゴンゲート時代はベビーサイドの時にしかやらなかったのでレア技に近かった。新日本参戦後も使用しているが、ドラゴンゲートと異なり場外フェンスがある為、やると脚(主に膝の裏辺り)をそれに勢いよくぶつけてしまう。

絞め技[編集]

MANRIKI
うつ伏せ状態の相手の左腕を両足で挟み込み、両手を相手の後頭部でクラッチして締め上げる腕取り式の変型袈裟固め。直前の大外刈りで相手をマットに叩きつけ、そのまま相手の片腕を足で挟み込みつつ、もう片方の腕を相手の頭の後ろに回して自分の両腕でロックし袈裟固めに移行する一連の動きのムーブもこの技の一部。仕掛ける側はクロスフェイスとほぼ同じ形になる。

関節技[編集]

ボストンクラブ

フォール技[編集]

鷹の爪
いわゆる隠し技である丸め込み。体落としのような形で相手を倒し、そこから横十字に固めてフォールを奪う技。

合体技[編集]

リベリオン
BUSHIとの合体技。鷹木がホイールバローの体勢で担ぎ上げた相手に対し、ロープから走り込んできたBUSHIが両膝を押し当てて飛びつき、そのまま後方へ倒れ込んで顔面を打ちつける合体式のコード・ブレイカー。技名は「反逆」「反乱」の意。

タイトル歴[編集]

DRAGON GATE
パートナーは順にYAMATOサイバー・コング、YAMATO、YAMATO、戸澤陽
(パートナーは1、2度目:B×Bハルクサイバー・コング/3度目:GammaYAMATO/4度目:ドラゴン・キッド岩佐拓)
プロレスリング・ノア
(パートナーはB×Bハルク
ROH
(パートナーは土井成樹
新日本プロレス
(パートナーはBUSHI
(パートナーはEVIL&BUSHI
第20代は第29代NEVER無差別級王座との2冠。
プロレス大賞
  • 技能賞(2008年)

入場曲[編集]

その他[編集]

  • モットーである「我道驀進」は入場コスチュームの背中に記されており、現在のブログ名にもなっている。しかしその性格は衝突を招きやすく、B×BハルクYAMATOパンチ富永など多くの因縁を抱える[7][8]
  • 後ろ髪がトレードマークであり、デビューしてから一度も切っていなかった。この独特のヘアースタイルを自らパンピング・ヘアーと名付けており、側頭部の模様もタイトルマッチなど、何らかのイベントに合わせて変更していた。しかし2009年に起こった動物虐待騒動のけじめとして自ら頭を丸めた。
  • なぜか火野裕士KAZMA SAKAMOTOからライバル視されている。火野とは「どっちの背筋が凄いか」で争っていた。
  • アメリカ遠征中にヒゲを蓄えたのは、相手に新人と思われるのが嫌でワザと老け顔にしたらしい。
  • 出身は山梨だが、Blood Generationに所属したとき鷹木以外のメンバーが全員関西出身で加入条件のひとつが「関西人」であったため、住民票を神戸に移した。しかし2010年末の肩の負傷による長期欠場を機に、リハビリ等の兼ね合いから東京へ住居を移している。DRAGON GATEでは他に望月成晃、新井健一郎らが同様に東京を拠点としている。
  • 2014年2月に関東地方を襲った大雪では、交通機関の麻痺で故郷の山梨県に足止めされ試合を欠場してしまった。滞在中は体力を生かして雪掻きをこなした[21]。その後の興行では罰ゲームでヨースケ♡サンタマリアとのシングルと言う罰ゲームマッチを行った。
  • 長渕剛のファンである。
  • スターバックス好きを公言している。
  • 幼稚園時にドアのガラスに頭から突っ込み、小学校時はコンセントにキーホルダーを差し込んで感電する等、幼少の頃より負けん気の強いトンパチな性格であったと語っている。
  • 影響されたレスラーは大仁田厚、2014年5月のデビュー10周年記念の山梨大会では、吉野正人・戸澤陽とタッグを組み、大仁田厚・田中将斗ドラゴン・キッドの元FMWタッグとの6人タッグマッチを戦ったほか[22] 2014年11月には大仁田とタッグで、2017年7月には対戦相手としてそれぞれ電流爆破デスマッチを経験している。
  • デビュー当初は筋肉バカのイメージが強く、吉野正人(当時:YOSSINO)をBlood Generationに加入させるかどうかをCIMAに問われたときも「とにかく、これだよ! これ!」と言って、なぜかマスキュラーポーズをするという不可解なことをしていた。
  • 高校時代に柔道部主将の時、関東大会出場を果たした。これは柔道部に対する部費が小額だったため、部費の値上げを求めたところ、生徒会を指導する教師が関東大会出場を条件にした影響が多いからである。なお高校時代、部活中プロレス技を練習したり、学園祭にて柔道部全員参加のプロレスの余興を行うほど当時からプロレス好きだった。
  • DRAGON GATE在籍時代には、毎年1月4日に行われる新日本プロレスの東京ドーム興行を、自腹で観戦していた。
  • 新日本プロレス参戦後、BEST OF THE SUPER Jr.決勝までは自身がピンフォール、タップを奪われておらず、8ヶ月間は無敗を誇っていた。
  • L.I.J加入後の決め台詞は「龍の如く駆け昇っていくぞ!」

脚注[編集]

  1. ^ a b 「六年前」鷹木信悟オフィシャルブログ「我道驀進」powerd by SPORA 2019年9月5日閲覧。
  2. ^ 「2020プロレスラー カラー写真名鑑」p.6、週刊プロレスNo.2042、2019年12月15日増刊、ベースボール・マガジン社
  3. ^ 「2014プロレスラー カラー写真名鑑」p.12、週刊プロレスNo.1714、2013年12月5日増刊、ベースボール・マガジン社
  4. ^ a b c d e ベースボールマガジン社『レスラーヒューマンストーリーII プロレスラー男の履歴書』p88-95
  5. ^ a b c d DRAGON GATE データベース> オープン・ザ・ドリーム・ゲート2014.7.17閲覧
  6. ^ a b c d DRAGON GATE データベース> オープン・ザ・ツイン・ゲート2014.7.17閲覧
  7. ^ a b c d e f 週刊プロレスEXTRA vol.9「ドラゴンゲート大百科」2013年11月5日、ベースボール・マガジン社
  8. ^ a b result2014 RAINBOW GATE 2014.7.03 東京・後楽園ホール 観衆:1,850人(超満員札止め)
  9. ^ WRESTLE KINGDOM 13 in 東京ドーム – 東京・東京ドーム – 第2試合Jrタッグ” (日本語). www.njpw.co.jp. 2019年8月27日閲覧。
  10. ^ 『週刊プロレス』NO.1997 2019年2月20日号 pp.12-13
  11. ^ 旗揚げ記念日 – 東京・大田区総合体育館 2019.3.6 –第4試合” (日本語). www.njpw.co.jp. 2019年8月27日閲覧。
  12. ^ BEST OF THE SUPER Jr.26 – 東京・両国国技館 <優勝決定戦> – 第8試合 「BEST OF THE SUPER Jr. 26」優勝決定戦” (日本語). www.njpw.co.jp. 2019年8月27日閲覧。
  13. ^ HEIWA Presents G1 CLIMAX 29 – 東京・日本武道館 2019/8/11 – 第8試合” (日本語). www.njpw.co.jp. 2019年8月27日閲覧。
  14. ^ バンドリ!Presents WRESTLE KINGDOM 14 in 東京ドーム – 東京・東京ドーム 2020/1/5 – 第0試合NEVER6” (日本語). www.njpw.co.jp. 2020年6月25日閲覧。
  15. ^ NEW YEAR DASH!! – 東京・大田区総合体育館 2020/1/6(月) – 第4試合” (日本語). www.njpw.co.jp. 2020年6月25日閲覧。
  16. ^ THE NEW BEGINNING in SAPPORO ~雪の札幌2連戦~ – 北海道・北海道立総合体育センター 北海きたえーる 2020/2/1 – 第8試合” (日本語). www.njpw.co.jp. 2020年6月25日閲覧。
  17. ^ NEW JAPAN ROAD – 東京・後楽園ホール 2020/2/20 – 第7試合 60分1本勝負 – NEVER無差別級選手権試合” (日本語). www.njpw.co.jp. 2020年6月25日閲覧。
  18. ^ NJPW WORLD Special NEW JAPAN CUP 2020 – 1回戦 2020/6/22 – 第3試合 SHOvs鷹木” (日本語). www.njpw.co.jp. 2020年6月25日閲覧。
  19. ^ 鷹木 デスペ撃破でV3!「お前らには愛しさと切なさと心強さが足りねえ」/デイリースポーツ online” (日本語). デイリースポーツ online (2020年7月26日). 2020年7月26日閲覧。
  20. ^ http://www.gaora.co.jp/dragongate/record/musicdata.html
  21. ^ お詫び 2014.7.17閲覧
  22. ^ result2014 鷹木信悟デビュー10周年記念大会“風林火山其ノ参" 2014.5.11 アイメッセ山梨 観衆:2,000人(超満員札止め)

外部リンク[編集]