大谷晋二郎

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大谷 晋二郎
大谷 晋二郎の画像
プロフィール
リングネーム 大谷 晋二郎
本名 大谷 晋二郎
ニックネーム 炎の戦士
身長 181cm
体重 97kg
誕生日 (1972-07-21) 1972年7月21日(46歳)
出身地 山口県山口市
所属 プロレスリングZERO1
スポーツ歴 レスリング
トレーナー アニマル浜口
馳浩
佐々木健介
デビュー 1992年6月25日
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大谷 晋二郎(おおたに しんじろう、1972年7月21日 - )は、日本プロレスラー

性格や戦いぶりから「日本一熱いプロレスラー」と言われている。

来歴[編集]

幼少期の大谷にとってプロレス=新日本プロレスであった。新日が故郷の山口県に来るのは年に2回しかなく、その2回を心待ちにしていた。中学時代か高校時代に、新日の試合で汚いヤジを飛ばしていた客を外に連れ出し、「プロレスをバカにするなら出て行ってくれ!」と怒りをあらわにしたことがある。それ以来心無いヤジを飛ばした客を叱る観客として新日の営業から認知され、「おう、来たな!頼むぞ!」と中村裕之に叱り役として期待する声を掛けられたこともあった。新日でも好きなレスラーは木村健悟であった。藤波辰爾の方が木村より人気であった中、限定250着ずつの限定販売であった藤波と木村のIWGPタッグ王座奪取記念ジャンパーの内木村の方を応募し、抽選に当選した。ある時、スーパーののぼりを盗んで布を改造して新日本プロレスを応援するのぼりに作り変えた。同じく追っかけ時代、ホテルのフロントに侵入して警備員につまみ出されようとする中、アントニオ猪木に声を掛けたら猪木に微笑み返してもらった。猪木は警備員に大谷を開放するように指示し、大谷が持っていた闘魂ハチマキにサインをした。大谷はその時、猪木に新日本プロレスに入門することを誓った[1]

山口県鴻城高等学校時代にレスリングで国体・インターハイともにベスト16の実績を残した。卒業後はアニマル浜口ジムに入門。1992年2月に新日本プロレスに入門。両親に猛反対されたため、貯金したお年玉5、6万円を持って家出同然の形で上京した。母は最後まで猛反対であったが父は後に軟化して3年だけ仕送りを送ることにした。不動産店が強気であった当時は保証人を立てるつもりが無かった大谷にとって住居探しも一苦労であり、1軒だけ家賃2万4000円で4畳半のアパートが見つかったという。そのアパートは共同便所から大便の放出音が丸聞こえであり、静かに歩かないと畳が抜けるなど、劣悪そのものの環境であった。布団も無いので安い毛布を買い、拾った雑誌に手拭いを巻いて枕にした。アニマル浜口ジムに入門しようと思ったのは、当時それしかプロレス道場を知らなかったためである。アニマル浜口と面接を行い、途中で何も口を挟んでもらえなくなったので入門の見込みが無くなったと思い話を切り上げようとしたが、浜口から「何時間かかってもいいから話しなさい」と言われ、最後は感涙しながら話した。大谷は後に、一人で上京して心細かった自分が誰かに話を聞いてほしかったのを浜口は察したのだろうと振り返っている。浜口からの紹介で酒屋のアルバイトを行い、アルバイトの度に大量の賄いで腹を満たした。同年6月25日の福島市体育館にて山本広吉(現・天山広吉)戦でデビューを果たした[1]

デビュー前、父は入門に大反対していた母と妹の3人で、九州巡業の際に応援に来てくれた。入門後に電話をかけてもそっけない返事しかくれなかった母は最初会場でそっぽを向いていたが、メインイベントで先輩のガウンを受け取って控室に戻る時、母は涙をこらえながら拍手をしていた。それ以来実家にいる母に電話をすると、母の口調は自身を心配するものに変わった[1]

大谷の若手時代の新日では酒は絶対に断れず、山本小鉄は「練習後にビールを飲んで身体を大きくしろ!」とビールをプロテイン代わりと考えていた。といっても、新日の新弟子時代は雑用に追われていたためあまり飲んだ記憶が無く、巡業に行ったらコインランドリーを探し回って洗濯をしていた。時には夜中に民家に行って洗濯機を貸してもらったり、場合によってはホテルのボイラー室を開けてもらって洗濯物を乾燥させた。新弟子当時は洗濯機が全自動ではなく洗濯と脱水が分かれた二層式であったため、洗濯中も目が離せなかった。洗濯物が盗まれたら大変なので若手2人が交代で洗濯物を見張るのが常であった。待っている間ボロボロになった4週間遅れの『週刊少年ジャンプ』を呼んだのは本人の思い出である。前述の通りプロレス界への入り口となってくれた浜口は大谷に目を掛けており、「プロレス界の宝」とまで期待していた。浜口からは日記帳を渡され、どんなに疲れていても毎日一言で良いので記入するように指導された。その日記帳については「殆ど先輩の悪口ばっかり」と後に本人が2019年のインタビューで苦笑していた。若手時代は橋本真也の付き人を2年間務めた。2019年に行われた玉袋筋太郎との対談では付き人時代の苦労を玉袋に「懲役20年」と喩えられ、労をねぎらわれた。アントニオ猪木は新弟子にとって封建時代における天皇のような存在なので、若手時代は自分から口を聞くことも許されなかった[1]

デビュー間もない頃から伸びのあるドロップキックとキレのあるジャーマン・スープレックスと十八番である顔面ウォッシュ、そして何よりも先輩レスラーに臆することなく向かっていき、実力では全く歯が立たない大先輩の獣神サンダー・ライガーにもケンカ腰で向かっていく姿勢を見せ、徐々に注目を集める。

1997年には第5代のジュニア7冠を獲得し、同時にIWGPジュニア初戴冠を果たした。

2000年に海外遠征をし、カナダカルガリーで肉体改造後、オールスタープロ認定インターコンチネンタル王座を獲得し、ヘビー級タイトル初戴冠を果たした。

2001年の帰国直後はヘビー級に本格的に転向、凱旋試合となった東京ドーム大会ではカルガリーで習得したコブラホールドで獣神サンダー・ライガーを失神させ勝利を収めた。以降武藤敬司と行動を共にするが、同年すぐに新日本を離脱し、橋本真也高岩竜一と共にZERO-ONEを旗揚げ(旗揚げ戦は村上一成に敗北)。2019年の玉袋筋太郎との対談では「海外遠征中で自分が日本にいなかった中、橋本さんが『大谷も参戦することが決定事項になっている』と自分の知らないところで記者に触れ回った」と、これが愛着のある新日を9年で離れた理由だと明かした。自分の名前を勝手に使った橋本からは帰国後に詫びを入れてもらったが、その際に一番参加してほしいレスラーこそが大谷だと告げられ、その殺し文句に大谷は感激した。橋本は、もし新日でやり残したことがあるならZERO-ONEの移籍は撤回してもよいと、あくまで大谷本人の意思を尊重したが、大谷は新日を解雇されて孤独だった橋本を案じて橋本と行動を共にすることとした。新日を離れる際に会社と話を付けたが、長州からは大谷が新日を離れる際に、プロレス界は狭い世界だから新日を離れたとしても交流の扉を閉ざさないようにすべきだと助言された[1]

同年10月にNOAHのGHCタッグトーナメントに大森隆男とのタッグで参戦するも2回戦で三沢光晴組に敗北。ZERO-ONEでは元FMW田中将斗と共に「炎武連夢(エンブレム)」を結成し、2002年にはプロレス大賞の最優秀タッグ賞を受賞した。同年には田中とのタッグでROHへも参戦している。また、年に一度「火祭り」リーグ戦を主催している。

2005年にはZERO1-MAXを発足、代表となり、「一所懸命」(「一生懸命」とは異なる)を社是として掲げる。

ZERO1-MAXとDSEが共に興業を展開するハッスルにも参加。ハッスル軍に所属し、当初は大谷晋二郎としての参加であったが、キャプテンこと小川直也から「ハッスルあちち」と命名される。初めは大谷自身も戸惑いを見せたが、その後は本人もいたくお気に入りでリング上で自ら「あちち〜」と叫びながら技をかける様子も見られる。

以前からモンスターKこと川田利明に「お前だんだん江頭2:50に似てきたぞ」と言われていたことから、2005年12月25日のハッスルハウス・クリスマススペシャルに於いて、サプライズゲストで登場した江頭と初対面を果たした。

その後、2007年のハッスルシリーズで高田総統によって洗脳され、高田モンスター軍に転向。以降は「ファイヤーモンスターACHICHI」のリングネームで戦っている。そして現在は、「ハッスル24」でインリン様のイン乳をTAJIRIから奪ってそれを飲んだため、高田モンスター軍の大谷晋二郎となっている。

2006年1月4日かつてのライバル・金本浩二にシングルで圧勝。1月22日後楽園ホールにてスティーブ・コリノを破りAWA世界ヘビー級王座を奪取するも、4月1日大森隆男に奪われた。7月20日火祭り開幕戦で怨敵・村上和成と5年振りに対戦した。

2007年、AWA世界ヘビー級選手権にて王者・大森に挑戦するも、アックスボンバーにて失神。そのまま病院へ搬送され脳震盪・頭部打撲と診断された。

2008年、ZERO1-MAXの運営会社であるファースト・オン・ステージの社長に就任。蝶野正洋の主催するイベントPREMIUMのワンナイトタッグトーナメントでは天山と組み優勝。リング上のマイクで新日本所属時代から常に希望していたG1 CLIMAXへの出陣を表明。

初出場となったG1 CLIMAXでは中西学井上亘真壁刀義に勝利。小島聡と引き分け。ジャイアント・バーナード棚橋弘至に敗れ予選敗退に終わったが、常に会場をヒートアップさせ熱い試合を提供したことが称えられて、週刊プロレス賞とファイティングTVサムライ賞を獲得した。

2008年8月29日、永田裕志と9年ぶりの一騎討ちが実現したがバックドロップホールドでフォール負け。

2009年2月27日には永田裕志の持つ世界ヘビー級王座へ挑戦し世界ヘビー級王座を獲得したが、その後の靖国神社大会で崔領二に敗戦し防衛に失敗した。

2015年9月、99kgまで減量し、15年ぶりにジュニアに復帰[2]。高岩竜一と組み菅原拓也&“brother”YASSHIを下しNWAインターナショナルライトタッグ王座となり、10月には田中稔を下しインターナショナルジュニアヘビー級王座となる。

「火祭り」の開催を提唱[編集]

2001年のZERO-ONE旗揚げに参加しているが、大谷にすれば橋本に歩調を合わせた訳ではなく「新日本で出来なかったことを新団体で実現する」ためである。その1つが「火祭り」の開催であった。「真に熱い奴、プロレスに熱い奴を決めようじゃないか。熱い奴ここに集まれ」との大谷の呼びかけに、団体の内外問わず選手が集まり、毎年1度、真夏(7月末から8月初旬までの約5日間、2001年の第1回大会のみ9月初旬から中旬まで)にリーグ戦が開催される。

その年の火祭りを制した者には“火祭り刀”が与えられる。大谷は過去3度制覇しており、制覇した年はその火祭り刀を自分の試合のリングインの際に携える。

人物[編集]

プロレスに対して非常に熱い思いと強い誇りを持っており、プロレスを馬鹿にする・否定する人間を徹底的に嫌う。ニックネームも以前の感情・ハイボルテージ、第1回火祭りを制してからの炎の刃、ハッスルにおけるハッスルあちちと彼の熱さを表現したものばかりである(ギミックだが、ハッスルの実況担当の矢野武からは「彼の体温の平熱は43度です」と紹介される)。

そのため学生プロレスやインディー団体を下に見ていた(新日本プロレス自体がそういう気風であるというのもあるが)時期があった。1994年にみちのくプロレスが新日本プロレスのリングに上がった時は、学生プロレス出身のテリー・ボーイ(現:MEN'Sテイオー)が所属していたこともあり、「プロレスをなめるな!」と敵意むき出しだった。

しかし激戦を繰り広げるうちに次第に評価するようになり、TAKAみちのくとのタッグで抜群のコンビネーションを見せたことや、そのみちのくプロレスに単身参戦し小さい規模ながら地道に地方興行を続ける姿勢に感銘を受け、インディー団体を馬鹿にしていたことを報道陣の前で土下座して詫びている。

また「熱さ」を前面に出す反面、大谷が教育係を務めた真壁刀義によると、後輩に対して「無理を言わない。」「理に適ったことを言う。」といった理知的な一面を併せ持つ。そんな大谷を真壁は尊敬してやまないという。

2003年6月14日、大谷の実母が不慮の交通事故で死去したその日も、当日の興業を終えてから病院に向かっている。晩年の母は母自身を連帯保証人に頼んだ人から失踪されたことから金に困り大谷に無心するようになったが、段々当たり前のように金を求めるので大谷の金銭事情も余裕が無くなり、ついに大谷は「もういいかげんにしてくれ!この疫病神!」と突き放した。これが大谷の母への最後の言葉であり、大谷は母にひどいことを言った罪を一生背負うのだと後悔していた[1]

オーストラリアへの格闘技修行の費用を家族に捻出してもらったことは本人にとっては恥であった。上京の際もそもそもお年玉の5、6万円だけで家を出るつもりであったが、父から子供を心配する親の気持ちを分かるように諭され、仕送りを受け取ることにした[1]

自分のコールの際に、片膝を付き、両手で持った火祭り刀を左側にスライドさせ、自分の顔の前で地面に水平になるように持っていく、という決めポーズがある。だが火祭り刀はその年の火祭り覇者の手に渡るため、火祭りを制覇できなかった年は、刀の代わりに会場にいる大谷の親衛隊のをリングインの時に拝借し、その幟で決めポーズを行う。

口癖は「プロレスの教科書○○ページに〜〜と書いてある」。内容はプロレスに関するものはもちろん、新潟の子どもへの応援メッセージ(新潟県中越地震が発生した際のもの)、辛さを乗り越えプロレス界のトップとなることを誓う(大谷の母が交通事故のため死去した際のもの)など様々。

いまや大谷の試合に欠かせない、試合中の「しゃべり」だが、若手時代はこれのせいで人気が出ず、ファンがつかなかったらしい(大谷曰く、「感情が高まると自然に出てしまう」)。

2002年7月、第2回火祭りAブロック公式戦の対金村キンタロー戦において、金村が開始ゴング前から場外で先制攻撃を行い、両者がリングインした時にゴングが鳴り、その瞬間に大谷がドラゴン・スープレックスを放ちそのままフォール勝ちとなった。試合時間は何と3秒で、プロレス史上に残る最短試合記録を更新した。このことは翌日発行の東京スポーツ誌の一面を飾った。

2007年からは子供のいじめ問題について、プロレスを武器になくしていこうと取り組んでいる。また、試合後にはお客さんに握手、写真撮影、サインをするなどファンサービスにも取り組んでいる。

2009年に「雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!」(テレビ朝日)の企画「俺たちのゴールデンプロレス」内で、ZERO1の「チャリティープロレス」興行が紹介された。栃木県の田舎でプロレスを見たことのない小学生とその両親らを、小学校校庭の特設リングで行う試合に無料で招待しようという企画で、試合の前日に大谷が当地の小学生の家に泊めて貰う様子も密着取材された。雨上がり決死隊やスタジオゲストも感銘を受け、同番組からブレイクしたプロレスラーとして越中詩郎と共に大谷も名前が挙げられる。

近年頭髪の後退が進んでおり、負担を和らげるためか、染めていた髪を黒に戻している。

以前から「好きな芸能人は?」の質問には「田所麻美」と答えている。これは大谷が好きな女優七瀬なつみ昼ドラの「ぽっかぽか」で演じた主演の名前である。

2011年3月6日 初の自伝『何度でも立ち上がれ-僕の人生、起き上がりこぼし』(キーステージ21ソーシャルブックス)を出版。 少年時代のプロレスとの出会い、アントニオ猪木との出会いから、家族とのエピソード、最近の社会的活動に至るまで、大谷の半生と思いを書き綴っている。

独身時代には毎年目標を「結婚する」としていたが、2013年7月10日、6歳年下の一般女性と結婚した[3]

車に乗る際はラジオを聞いており、特にNACK5を聞いている。「Fresh Up 9」でプロレスの話題が出た際にリスナーとしてメールを送り、その後ゲストとして出演する、大谷の結婚式で「Fresh Up 9」パーソナリティの仁井聡子が司会を務めるなどの交流がある。

タイトル歴[編集]

新日本プロレス
ZERO1-MAX
WAR
NWA
UWA
WCW
AWAスーパースターズ・オブ・レスリング
リアルジャパンプロレス
プロレス大賞
  • 2002年度プロレス大賞 最優秀タッグ賞(&田中将斗
その他
  • オールスタープロモーションズ認定インターコンチネンタル王座

以下は第2代ジュニア7冠王座として戴冠。

得意技[編集]

コブラホールド
胴締め式コブラクラッチホールド。
コブラホールドは2001年初頭の大谷がヘビー級に転向し、武藤敬司と新ユニット"BATT"を結成しようとしていた頃に開発した技。胴締めと並行して使用することが多い。
キングコブラホールド
相手をうつぶせ状態にしてサイドからコブラホールドをかける技。体勢的にはクロスフェイスに似ているが、技の効果としてはキャメルクラッチに近い。
ドラゴン・スープレックス・ホールド
新日本所属時代から使用していた大谷最大の必殺技。大谷の身体の柔らかさもあって、フォームも美しい。ヘビー級へ転向してからは投げっ放し式が多い。新日本時代には1998年のウルティモ・ドラゴン戦でセカンドロープから雪崩式や、2000年のライガー戦でエプロンから断崖式で放とうとしたが、いずれも相手が強烈に嫌がったため失敗している。しかし雪崩式は2005年の火祭りでの田中将人戦でトップロープから繰り出す事に成功している。
ジャーマン・スープレックス
若手時代のフェイバリットムーブであり、非常に高速で繰り出す。稀にエプロンで繰り出す事もある。
ジャンピングパワーボム
大谷の場合着地した際相手の足を両腕でロックするシットダウン式を使用する。最近では片手で相手の脚を抑えてフォールすることもある。スパイラルボムを開発してからは使用度が減った。稀にランニング式で仕掛ける事もある。
スパイラルボム
パワーボムの状態から一時静止し、グルグルとらせんを描く様にして開脚式で落とす技。フォールを取った場合は記録上エビ固めと記録される。披露した当初は旋回式ライガーボムとも言われた。新日本ジュニア時代、獣神サンダー・ライガーがランニング式ライガーボムやジャンピング式ライガーボムをやったことにヒントを得たという。実戦投入の前の練習は、イメージトレーニングしながら後輩に何度かかけた程度である[4]
顔面かきむしり
コーナーポストに相手を追い込んで使用したり、グラウンドに倒れている相手に対して使用したりしている。
ワイルドボム・ホイップ
2000年のベスト・オブ・ザ・スーパージュニア時に多用していた技。
フェース・バスター
2000年のベスト・オブ・スーパー・ジュニアの田中稔戦で繰り出した技。しかしサムライTVで高木三四郎が同じ技を使っているのを見てしまったため、大谷は「真似してると思われるからもう使わない」と発言している[5]
スワンダイブ式ニールキック、スワンダイブ式ミサイルキック、スワンダイブ式ニー・ドロップ
新日本ジュニア時代は頻繁に使用していたが、最近は大一番でしか使用していない。ニールキックは横回転式と前方回転式の2種類を使用。また、ミサイルキックのフォームは一級品であり、多くのレスラーの中で大谷の物が一番綺麗に決まると言われている。エディ・ゲレロから影響を受けて使い始める。現在ジュニアを始めとして多くのレスラーがこの「スワンダイブ式」を使用するが、大谷が元祖である。
なお、「スワンダイブ式」の呼称はワールドプロレスリング実況の辻義就による命名である。
スワンダイブ式飛びつきDDT
ワイルド・ペガサスを下してWCWクルーザー級王座を獲得した際に初公開した超がつくほどの危険技。危険度が高く受け手を選ぶ技である為、新日本ジュニア時代にもほとんど使用されていない隠し技。
スワンダイブ式回転エビ固め、スワンダイブ式ボディプレス
新日本時代に稀に見せていた技。
スワンダイブ式プランチャー
場外の相手にスワンダイブ式で見舞うプランチャー。
ミサイルキック
タッグの時、パートナーがピンチになった時によく使う。
ローリングソバット
大谷の場合、高さもありフォームもとてもきれいである。
ウラカン・ラナ
新日本ジュニア時代に使用していた。時折思い出したように切り返しで使用。
雪崩式フランケンシュタイナー
こちらも新日本ジュニア時代に使用。やはりたまに思い出したように使用する。
顔面ウォッシュ
相手をコーナーにもたれかかるようにダウンさせ、靴の側面で相手の顔をこする挑発技。週刊ゴング誌の金沢克彦により命名される。大谷の試合で欠かせない技だが、逆にやり返されることもある。また、本人の意図するところではないが、意外とダメージも大きいようで、側頭部や耳などを負傷するケースもある。大谷とライバル関係にあった金本浩二TAKAみちのくも使用する。元々は金本が発案し、高岩竜一によって顔面ウォッシングと命名されていた。
一度行った後、観客の『もう一回!』コールの後繰り返すのが恒例で、その際にマリオのジャンプのようなフォームから助走をみせるため「マリオジャンプ」、「マリオステップ」などと呼ばれる。
稲妻レッグラリアット
カウンターで、相手の顔面を狙って仕掛ける。
水面蹴り、袈裟斬りチョップ
恩師にあたる橋本も得意としていた技。橋本の死後から使用するようになり、現在は自身が劣勢の時に流れを変えるために使用することが多い。

入場曲[編集]

Measure up
新人時代のテーマ曲。
キャッチ・ザ・レインボー 〜流星〜
新日本ジュニア当時のテーマ曲。
Loop Force
2000年頃から使用したテーマ曲。
Believe S-Road
ヘビー級に転向して以降のテーマ曲。現在も使用中。曲名の意味は「信じる シンジロード(晋二郎)」と言う意味らしい。
GOLDFINGER '99(郷ひろみ
ハッスルあちちとなった後、「あちち」ということでこの曲が使われた。HG参戦後は元の曲を使用している。

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 東邦出版『KAMINOGE』vol.85 pp.122-145
  2. ^ ゼロワン・大谷 本気のジュニア再転向 - 東スポweb
  3. ^ ゼロワンの40歳大谷晋二郎が結婚”. 日刊スポーツ (2013年7月13日). 2014年5月13日閲覧。
  4. ^ 週刊プロレス2017年9月13日号pp.44.
  5. ^ VHS 闘魂Vスペシャルvol.65のゲスト解説時の「大谷VS田中」戦のラスト部分で言っている。