柴田勝久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
柴田 勝久
プロフィール
本名 柴田 勝久
誕生日 (1943-12-04) 1943年12月4日
死亡日 (2010-01-16) 2010年1月16日(66歳没)
出身地 三重県桑名市[1]
スポーツ歴 大相撲
トレーナー 豊登道春
デビュー 1966年10月12日
引退 1977年2月9日
テンプレートを表示

柴田 勝久(しばた かつひさ、1943年12月4日 - 2010年1月16日)は、日本の元大相撲力士、元プロレスラーレフェリー三重県桑名市出身[1]。大相撲時代の四股名は、三重ノ山 勝久(みえのやま かつひさ)。朝日山部屋(入門時は大鳴戸部屋)所属。柴田勝頼は実子。

来歴[編集]

大鳴戸部屋(師匠は二瀬山)に入門して、柴田の四股名で1960年7月場所に16歳で初土俵を踏む。鉄扇(てっせん)と改名して1961年5月場所には序ノ口優勝、1963年9月場所には三段目優勝を果たした。この間、大鳴戸部屋と朝日山部屋の合併に伴い新・朝日山部屋所属となり、四股名も三重ノ山と改名した。しかし1966年9月場所限りで廃業、最高位は幕下35枚目。

大相撲廃業後はプロレスへ転向、1966年に東京プロレスに入団して同年10月12日プロレスデビューした。1967年2月の東京プロレス崩壊後は、アントニオ猪木らとともに日本プロレスに移籍。その後、メキシコへ遠征し長くトップルードとして活躍する[2]も、1972年新日本プロレス旗揚げに参加。

1973年4月6日の『ワールドプロレスリング』新日本プロレス第1回放送のメインイベント(猪木&柴田vsジャン・ウィルキンス&サイクロン・ソト)に登場するなど、新日本の中堅を固める存在として活躍[2]。この頃はマスコミから「マットの眠狂四郎」と名付けられていた[2]

1977年2月9日、肩の怪我のため、小沢正志戦で現役を引退、レフェリーへ転向。厳格なレフェリーとして活躍したが、1999年6月25日に新日本プロレス「柴田勝久レフェリー引退記念興行」でレフェリーを引退した。全試合終了後の引退記念セレモニーでは、息子勝頼を激励の意を込めてボディスラムで投げた。

2005年9月11日、メインイベントで勝頼が試合を行ったビッグマウス・ラウド旗揚げ戦にレフェリーとして参加した。

その後は藤波辰爾が主宰していたドラディションのリングでレフェリーをしていた。

2010年1月16日の朝、心筋梗塞にて急逝[3]。66歳没。妻は勝頼に「倒れた」と電話で連絡。勝頼は東海道新幹線などで実家に戻る途中の車内で「ダメだったー」というメールを受けて通路で泣き崩れたという。前日には勝頼に「元気だよ」とメールをしたばかりだったという。親子の最後の対面は死亡する3か月程度前で、勝頼は高卒後に独立したせいもあってか「親子の時間を大切にすればよかった」、「お互い酒好きなのに殆ど一緒に飲まなかった」、「メールや電話が多くてあまりじっくり話をしなかった」という。その後は妻のみが実家に残され、勝頼は帰省回数を増やしたという[4]

新日旗揚げ時のエピソード[編集]

東京プロレス日本プロレスという経歴に加え、アントニオ猪木の付き人を務めたことがあったため、当時メキシコへ一緒に遠征していた北沢幹之と共に新日本プロレス旗揚げに当然参加するもの、と当初見られていた。しかし北沢が先に帰国したのに柴田が日本へ戻ってこないため、不参加濃厚、と雑誌に書かれた。その理由についても、メキシコ遠征で貯めたお金を「(新日の)重役にするから出資しろ」と、当時猪木の金庫番とされた人物に言われたため、とされた。実際、出資したかは不明であるが、旗揚げ前には帰国して参加となった。[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ a b 柴田勝久さん追悼セレモニー” (日本語). 新日本プロレスリング. 2014年10月26日閲覧。
  2. ^ a b c 流智美「あの日、あの時Vol.121 1975年5月7日 第2回ワールドリーグ公式戦 山本小鉄vs柴田勝久」、『週刊プロレス』No.1738、平成26年5月21日号(5月8日発行)、78頁、2014年。
  3. ^ 新日本で活躍 柴田勝久レフェリー急死 スポーツニッポン 2010年1月17日閲覧
  4. ^ 2016年6月5日東京新聞23面

外部リンク[編集]