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ハルク・ホーガン

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テリー・ボレアから転送)
ハルク・ホーガン
ハルク・ホーガンの画像
WWF世界ヘビー級王者時代(1985年)

署名
プロフィール
リングネーム ハルク・ホーガン
ハリウッド・ホーガン
ミスター・アメリカ
テリー "ザ・ハルク" ボールダー
スターリング・ゴールデン
ハルク・マシーン
スーパー・デストロイヤー
本名 テリー・ユージーン・ボレア
ニックネーム インクレディブル(Incredible)
インモータル(Immortal)
ハルクスター(Hulkster)
ハリウッド(Hollywood)
リアル・アメリカン(Real American)
超人
現代のネプチューン
身長 201cm[1][2]
体重 137kg(全盛時)[2]
誕生日 (1953-08-11) 1953年8月11日(71歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フロリダ州の旗 フロリダ州
ヒルズボロ郡タンパ
スポーツ歴 パワーリフティング
トレーナー ヒロ・マツダ
デビュー 1979年12月17日
引退 2012年1月27日
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ハルク・ホーガンHulk Hogan、本名:Terry Eugene Bollea1953年8月11日 - )は、アメリカプロレスラージョージア州オーガスタ生まれ、フロリダ州タンパ出身。

長女は歌手のブルック・ホーガン。甥は元プロレスラーのホーレス・ホーガン英語版

来歴

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自著によると少年時代のホーガンは圧倒的な体格を生かし、野球のリトルリーグでは強打者として活躍していたが、太りすぎており足が遅く、他のスポーツは苦手であったという[3]。高校時代にボディビルディングで体を鍛える一方、南フロリダ大学時代から「ラッカス(Ruckus)」というロックバンドのベーシストで活動した。

もともとプロレスファンだったホーガンはスーパースター・ビリー・グラハムに憧れ、自身の巨体とロックバンド時代に培った観客とのやり取りの才覚を活かすべく、プロレスラーになることを決意。ビリー・グラハムには弟子入りを断られるも、NWAフロリダ地区(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)のプロモーターだったエディ・グラハムの息子マイク・グラハムを介してヒロ・マツダのトレーニングを受ける[4]。レスラーになるのをあきらめさせるためマツダから厳しいシゴキを受けて足を折られたこともあったが[5][注 1]1977年8月に覆面レスラースーパー・デストロイヤーThe Super Destroyer)として、ブライアン・ブレアーを相手にデビューを果たした[6]

以後、テリー・ボールダーTerry Boulder)、スターリング・ゴールデンSterling Golden)などのリングネームを用い、ビリー・グラハムの影響下にある筋肉派の新鋭選手として、アラバマサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングテネシーコンチネンタル・レスリング・アソシエーションジョージアジョージア・チャンピオンシップ・レスリングなど、南部の各プロモーションをベビーフェイスのポジションで転戦[2]。アラバマでは1979年6月にオックス・ベーカーから南部版のNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取[7]、12月にはディック・スレーターを破り同王座の北部版も獲得している[8]。5月から7月にかけてはモービルおよびドーサンにて、当時ハーリー・レイスが保持していたNWA世界ヘビー級王座に度々挑戦した[9]。テネシーでは同年5月21日、メンフィスのミッドサウス・コロシアムで同地区の英雄的存在だったジェリー・ローラーとタッグを組み[10]、ジョージアでは10月19日にアトランタオムニ・コロシアムスタン・ハンセンと対戦した[11]

同時期、テレビドラマ超人ハルク』主演のルー・フェリグノと同じカメラに収まる機会があり、トップ・ボディビルダーのフェリグノより巨大な肉体が評判となる[12]。これを機に、超人ハルクにあやかりザ・ハルクThe Hulk)をニックネームに用いるようになった[12]。一時はプロレス界を離れ港湾労働者に転じていたこともあったが[13]テリー・ファンクジャック・ブリスコジェリー・ブリスコらの勧めで復帰を果たし、WWF入りのきっかけをつかむ[14]

WWF時代初期

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右はマネージャー "クラッシー" フレッド・ブラッシー(1980年)

1979年12月、WWF(現:WWE)に初登場。ビンス・マクマホン・シニアの提案でハルク・ホーガンHulk Hogan)とリングネームを改め[15]フレッド・ブラッシーマネージャーに迎え、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにおけるデビュー戦でテッド・デビアスから勝利を収める[16]

以後、アンドレ・ザ・ジャイアントの巨体に対抗できる超大型のヒールとしてトップ戦線で活躍。ゴリラ・モンスーンティト・サンタナドミニク・デヌーチレネ・グレイジョニー・ロッズホセ・エストラーダイワン・プトスキーパット・パターソンらを相手にデビュー戦から20数連勝という戦績を残したことから「マディソン・スクエア・ガーデンの奇跡」と評され、その名を全米に知らしめた。

1980年ボブ・バックランドWWFヘビー級王座にもフィラデルフィアアレンタウンなどで再三挑戦[17][18]、8月9日にシェイ・スタジアムで開催されたビッグイベント『ショーダウン・アット・シェイ』ではアンドレとのシングルマッチが組まれた[17]

新日本プロレス時代

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アントニオ猪木とのタッグチームでMSGタッグ・リーグ戦に優勝(1982年)

1980年から1983年にかけて、日本では当時WWFと提携していた新日本プロレスを主戦場とする。初来日は1980年5月の『第3回MSGシリーズ』。アメリカでのスケジュールの都合のためリーグ戦には参加せず、初来日ながらシリーズ後半戦への特別参加という扱いで、ストロング小林から勝利を収め、アントニオ猪木とのシングルマッチもテレビ中継で組まれた[19]。当時は1955年生まれと称しており、金色のマントをまとい背中には黒い剛毛を生やしていた。

2度目の来日となる1980年10月には、タイガー・ジェット・シンに次ぐ外国人陣営の準エース格として、猪木が保持していたNWFヘビー級王座に挑戦[20]スタン・ハンセンのタッグパートナーとしても活躍し、同年11月開幕の『第1回MSGタッグ・リーグ戦』では猪木&ボブ・バックランドのチームと決勝を争った[21]

1981年には、アブドーラ・ザ・ブッチャーを新日本プロレスに引き抜かれた全日本プロレスと『全日本プロレス中継』の放映局であった日本テレビによる外国人引き抜き工作のターゲットにされたことがあり、同年9月には全日本プロレスへの移籍が一旦発表された。実際に同年5月にボビー・ダンカン経由テリー・ファンクの仲介で契約書を交わす段階にまで至った。しかしホーガンはそれを新日本に見せ、ギャラ吊り上げの交渉に使ったためご破算となったといわれている。和田京平によれば、その後テリーは引き抜きのターゲットをホーガンからハンセンに変更したという[22]。その行動に怒ったテリーは京王プラザホテルでホーガンを殴り倒したとされているが、テリーは自著で否定している。

ハンセンが全日本プロレスに移籍した後の1982年には、ウエスタン・ラリアットを模したアックスボンバー(右腕をL字型に曲げ、ラリアットのように肘を相手に叩きつける技)をフィニッシャーに使用。出演映画『ロッキー3』の公開もあって本国同様に日本でも大ブレイクし、ハンセンに代わる新日本の看板外国人選手となる。外国人ベビーフェイスとして日本人陣営にも加わり、猪木とのタッグやブッチャーとの対戦も実現した[23]坂口征二とのタッグチームでは、キラー・カーン&ブラックジャック・マリガンとの日米混合のスーパーヘビー級タッグマッチも行われた[24]

1983年に開催された『IWGP決勝リーグ戦』にはアメリカ代表として参加し、6月2日に蔵前国技館で行われた決勝戦では猪木をアックスボンバーでKOして優勝を果たした[25]

1981年から始めた右手人差し指を高々と上げ「イチバァーン!」と叫ぶ決めポーズも話題になり、リングコスチュームも黒のショートパンツに白字で「一番」と書いたものにする。「一番」と書かれたタンクトップやTシャツ、ハッピも発売された。以降 "ICHIBAN" はNo.1を意味する語としてアメリカでも有名な日本語の1つとなった[26]

AWA時代

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右はジム・ブランゼル(1983年)

1981年からはアメリカでの主戦場をAWAに移し、本国アメリカでもベビーフェイスとして大ブレイクを果たす。しかし、AWA世界王者ニック・ボックウィンクルを相手に何度となく「幻の勝利」を挙げたにもかかわらず、AWAの主宰者だったバーン・ガニアは他のスポーツの実績もなく、単純なパワーファイターのホーガンの商品価値を過小評価しAWA世界ヘビー級王座を与えなかった。

世界王座戴冠は果たせなかったものの、同じくスーパースター・ビリー・グラハムに憧れたジェシー・ベンチュラとの抗争や、超巨漢選手ジェリー・ブラックウェルとのボディスラム・マッチなどでも人気を博す[27]。また、WWFや新日本プロレスでの旧敵であるアンドレ・ザ・ジャイアントともタッグを組み、悪党マネージャーのボビー・ヒーナン率いるファミリー(ボックウィンクル、ケン・パテラボビー・ダンカンアドリアン・アドニスミスター・サイトーなど)と軍団抗争を展開した[28][29]

同時期、ホーガンの知名度を更に向上させたのが、1982年公開のアメリカ映画『ロッキー3』への出演である[30]。ホーガンはプロボクサーのロッキー(シルヴェスター・スタローン)と戦う敵役のプロレスラー「サンダーリップスThunderlips)」としてプロレス界以外でもネームバリューを高めた[注 2]

WWF時代

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1983年12月、シニアの後継者となるビンス・マクマホン・ジュニアにWWF全米進出計画のエースとして白羽の矢を立てられ、日本滞在中にWWFと専属契約を交わす(AWAのバーン・ガニアは、この突然の引き抜き事件に激怒したという)。1984年1月23日、MSGにおいて当時の王者であったアイアン・シークを下しWWF世界ヘビー級王座初戴冠[32][33]。2月10日にはNWAの総本山だったセントルイスキール・オーディトリアムにて、マスクド・スーパースターを相手に初防衛に成功[34]。以降、同年より開始された全米侵攻サーキットにおいて、ポール・オーンドーフビッグ・ジョン・スタッドデビッド・シュルツロディ・パイパーカウボーイ・ボブ・オートンニコライ・ボルコフグレッグ・バレンタインなどの強豪との防衛戦が各地で行われた[35]

シンディ・ローパーらと共にMTVに出演するようになると、その圧倒的なカリスマ性と単純だが分かり易い試合でプロレスファン以外の層にまで人気が爆発していった。1985年3月31日にレッスルマニア第1回大会が開催されて以降は社会現象と呼べるほどの国民的人気を獲得した。このレッスルマニアという名称自体「レッスル」とハルクファンの「ハルカマニアHulkamania)」を足したホーガンのための大会だった。

新日本プロレスへの来日も続け、1985年6月11日には東京都体育館において、ダニー・ホッジをレフェリーに迎えて藤波辰巳を相手にWWF王座を防衛[36]。6月13日には愛知県体育館にて猪木とIWGP選手権を争ったが[37]、同年10月に新日本プロレスとWWFとの提携が解消されたため、しばらく来日は途絶えることとなった。

以降もWWF世界王者として活躍し、カマラキングコング・バンディなどの巨漢ヒールから元NWA世界王者のテリー・ファンクハーリー・レイスまでを挑戦者に迎えてタイトルを防衛[38][39]。人気絶頂期に行われたアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決(1987年3月29日、レッスルマニアIII)では9万3173人という観客動員数を記録している[39]。タッグ戦線では、フェイスターンした旧敵のパイパー、オーンドーフ、ドン・ムラコらと共闘することもあった[38][39]

雑誌 "Wrestling's Main Event" より(1987年)

1988年2月5日の "WWF The Main Event" におけるアンドレとの防衛戦において、3カウント前に肩を上げたもののフォール負けを取られてタイトルを失うが、その後も人気は衰えず、同年3月27日のレッスルマニアIVでの新WWF世界王者決定戦では、前年にフェイスターンしていたランディ・サベージの王座戴冠をアシストした[2]。以後、サベージと「メガ・パワーズThe Mega-Powers)」なるタッグチームを結成し、アンドレ&テッド・デビアスのメガ・バックスやビッグ・ボスマン&アキームのツイン・タワーズなどと抗争するが仲間割れ。1989年4月2日のレッスルマニアVにおいて、再びヒールとなったサベージを破り、WWF世界王者に返り咲いた[2][32]

レスラーとしての活動と並行して、さまざまな低予算映画に主演して俳優としても活躍。1989年6月公開の映画『No Holds Barred』での敵役ゼウス英語版とは、同年のサマースラム'89サバイバー・シリーズ'89においてもタッグマッチで対戦した[2]

1990年4月1日、レッスルマニアVIにおいてアルティメット・ウォリアーに敗れ、再び王座から陥落[32]。同月13日、東京ドームで開催された『日米レスリングサミット』への出場で久々に来日、スタン・ハンセンとのシングルマッチで勝利を収めた[40]

その後、アースクェイクとの抗争を経て、1991年3月24日のレッスルマニアVIIにおいてサージェント・スローターを破りWWF世界王者に再び返り咲く[32]。翌週の3月31日、当時のWWFの日本での提携先だったSWSの東京ドーム大会に来日、天龍源一郎と組んでロード・ウォリアーズホーク&アニマル)と対戦した[41]。翌4月1日の神戸ワールド記念ホール大会では谷津嘉章を相手に、新日本プロレス参戦時以来となる日本でのWWF王座防衛戦を行った[42]

同年11月27日、サバイバー・シリーズ'91においてジ・アンダーテイカーに敗れ王座から陥落[32]。12月3日のリターンマッチで一度は奪還に成功するも、両試合ともリック・フレアーの干渉による不透明決着だったため王座は剥奪される[2][32]。12月12日にはSWSの東京ドーム大会に再来日して天龍とシングルマッチで対戦したが、試合はノンタイトル戦となった[43]。以降、フレアーやアンダーテイカーと抗争するが、同時期のステロイドスキャンダルの影響もあり、1992年4月5日のレッスルマニアVIIIでのシッド・ジャスティス戦の後、しばらくリングを離れることとなった[2]

1993年3月に復帰後、4月4日開催のレッスルマニアIXにおいて、ブルータス・ビーフケーキと組んでデビアス&IRSのマネー・インクが保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦[44]。同大会のメインイベントではヨコズナブレット・ハートを下して新WWF世界王者となったが、試合後にハートを介抱するホーガンをヨコズナのマネージャーのミスター・フジが挑発、ヨコズナ対ホーガンのタイトルマッチが急遽行われ、これに勝利したホーガンが約1年半ぶりに王座に返り咲いた[2][32]

しかし、同年6月13日のキング・オブ・ザ・リング'93において再びヨコズナにタイトルを明け渡し、俳優への本格的な転向による引退を理由にWWFを退団した[2]。契約問題やステロイド裁判の影響でWWFとの間に亀裂が生じたともされるが、ホーガン自身は自著において、退団は3月に復帰した時点から合意の上であり「団体との間に確執はなかった」と記述している[45]

新日本プロレス再来日

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WWF時代末期の1993年5月3日、8年ぶりに新日本マットに登場。福岡ドームグレート・ムタと対戦した。この時、新日本プロレスはWCWと提携を結んでおり、現役WWF世界ヘビー級王者であったホーガンの出場は考えられないことであった。また、ムタも当時はIWGPヘビー級王者であったため、日米のトップ対決としても注目された。同年9月23日には、横浜アリーナでムタと組み、ヘルレイザーズと対戦している。翌年1月には藤波辰爾とも対戦した。

WCW時代

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連続テレビドラマを制作・主演していた1994年、同じディズニー・ワールド内でTVマッチを収録していたWCWと契約した。WWF時代と同じくベビーフェイスのポジションで活動し、PPV興行の切り札としてリック・フレアーとのWCW世界ヘビー級王座戦も行われたが、WWFを凌駕するほどの起爆剤とはならず、ホーガン本人も新たなキャラクターを求めた。1996年7月、ヒールに電撃転向し、同じくWWFから移籍してきたケビン・ナッシュスコット・ホールと共にnWoを結成、コスチュームのテーマカラーもレッド&イエローから黒ずくめに一新し、ハリウッド・ハルク・ホーガンHollywood Hulk Hogan)を名乗った。詳しくは「マンデー・ナイト・ウォーズ」を参照。

これによってホーガンは選手としてのキャリアのリセットにも成功し、またnWoの大ヒットでWCWはWWFの人気を上回るようになっていく。ヒールサイドの主役として活躍し、WCW世界ヘビー級王座も何度となく獲得。1998年にはビル・ゴールドバーグとの超人対決が実現した。nWo解散後は他のベテラン選手たちとともにミリオネアーズ・クラブなるユニットを結成したりもしたが、家族と過ごす時間が欲しいとの理由から2001年のWCW崩壊を前に離脱した。

かつてのレッド&イエローのコスチュームでジミー・ハートの旗揚げした新団体XWFのTVテーピングにも参加したが、同団体もほどなく活動を停止した。

WWE復帰

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リングインした際のパフォーマンス(2004年8月)

2002年2月、ビンス・マクマホンの刺客nWoの一員としてヒールに戻りWWF(現:WWE)に復帰する。WrestleMania X8で8年ぶりのレッスルマニア再登場を果たし当時の主役ザ・ロックとの頂上決戦が実現。WWE側は「悪の枢軸」nWo軍総帥ホーガンを絶対的ベビーフェイスのロックが迎え撃つというアングルを構成したものの、入場シーンからホーガンへの爆発的声援一色となり、ロックの方がブーイングを浴びる結果となった。この試合は「ICONvsICON」という試合タイトルに相応しい重厚な名勝負となり、ホーガンのハルクアップ、3パンチ、ビッグブート、レッグドロップというフィニッシュ・ムーヴをロックがキックアウトしたシーンは大歓声を浴びた。最後はロックがロック・ボトム2連発からピープルズ・エルボーでフォール勝ちを収めた。試合後ホーガンはnWoのメンバーであったホールとナッシュに裏切られ、暴行を受けるが、直後ロックが助けに現れ、共に迎え撃った。ホーガンはロックに握手を求め、翌日からnWoを脱退し、ベビーフェイスに戻った。

同年7月4日の独立記念日には、エッジとのタッグで自身初のWWE世界タッグ王座を獲得。ブロック・レスナーとの対戦の後、一時団体を離脱するが、復帰した冬頃からSmackDown!にてビンスとの対決アングルが組まれ、WrestleMania XIXで対決し勝利する[注 3]

2003年5月には覆面レスラーミスター・アメリカMr. America)に扮するも、その後ストーリーに不満を抱き同年6月にWWEを離脱した。同年10月13日、新日本プロレス『ULTIMATE CRUSH』にワンマッチのみ参戦、蝶野正洋とシングルマッチを行った。

2005年4月、WWE殿堂入り(プレゼンターはシルヴェスター・スタローン)。またWrestleMania 21にてWWE再登場を果たした。7月にはRAWに正式に復帰して選手登録もされ、ショーン・マイケルズと抗争を繰り広げた。両者の戦いはサマースラムで決着。

2006年サマースラムではランディ・オートンと対戦し勝利。次回の試合は2007年WrestleMania 23でのストーン・コールド・スティーブ・オースチンとの夢の対決、あるいはアンドレ・ザ・ジャイアント戦20周年を記念したビッグ・ショーとの対戦が噂されていたが、実現しなかった。

TNA参戦

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2007年4月、PMG Clash of Legendsに単発出場。その後は2009年10月27日、TNAと契約した。その直前にはエリック・ビショフらとともに新団体「ハルカマニア」設立を発表、同年11月にオーストラリアで旗揚げ興行を開催した。

WWE再復帰からの解雇、3度目の復帰

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ハルクホーガン
左はジミー・ハート

2014年2月24日、次のレッスルマニアのホストとしてWWEに復帰、公式サイトにも所属レスラーとして掲載された。しかし、2015年7月24日にWWEはホーガンを解雇したと発表した。8年前に録音された彼の会話の中で、人種差別発言を行ったこと[注 4]がその理由としている。WWEは声明の中で「従業員もレスラーも、世界中のファンも多様であるように、あらゆる出自の人々を受け入れ賞賛してきたのがWWE。テリー・ボレアとの契約は終わりだ」と表明、関連商品もすべて発売停止となった[46]

しかし、2018年7月、WWEは突如、ホーガンをWWE殿堂に再び登録した。ホーガン本人は、その日に行われたPPV『エクストリーム・ルールズ』の舞台裏にて団体関係者らと対面し、過去の件について謝罪したと報じられた。そして11月2日、リヤドで公演された『クラウン・ジュエル』にホーガンが登場。マイクパフォーマンスだけであったが、大いに観客を沸かせ、元気な姿を見せた[47]

2019年4月6日、ニューヨーク州ブルックリンバークレイズ・センターにおいて、WWE殿堂に迎えられたブルータス・ビーフケーキのインダクターを務めた[48]。同年はマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションのドキュメンタリー映画 "Mad Dog & The Butcher" にも出演した[49]

同年12月、nWoとして2020年度のWWE殿堂入りした[50]

ミスター・アメリカ

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ホーガンは2002年5月にWWEに復帰するが、その翌年、ビンス・マクマホンによって出場停止にされてしまう。しかし、そのときにスマックダウンを救うためにひとりのマスクマンがさっそうと登場した。彼こそがミスター・アメリカである。星条旗風のロングタイツ、そして中央に星をあしらったブルーのマスクが特徴的であった。

当初、ひげの生え方やビルドアップされた筋肉、白いリストバンドをしていることなどから、その正体はハルク・ホーガンではないかと騒がれた。しかし、ビンス・マクマホンの手によって嘘発見器にかけられた際、「あなたはハルク・ホーガンですか?」との質問にネガティブの結果が出ていることからも、この噂は否定されている。なお、この際ビンス自ら嘘発見器にかかり、嘘発見器が故障していないことを証明している。

本人は「ハルク・ホーガンに憧れ、トレーニングをして十分なビタミンを摂取してこの身体を手に入れた」と語っている。なお、ハルク・ホーガンがWWEから離脱すると同時にミスター・アメリカも姿をくらませている。そしてビンス・マクマホンが「ミスター・アメリカはハルク・ホーガンだったので解雇した」と番組で述べ、実際に素顔を見せている映像[注 5]を流したことで、ミスター・アメリカが登場するストーリーは終了している。

家族

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来日した2003年10月12日に東京ドームホテルで記者会見が開かれ、その中で新日本とIWGPに対する熱い思いを語ったが、最近は新日本とWWEの関係が断絶されたことから、IWGPヘビー級王座への挑戦はおろか来日すらほとんどしなくなった。しかし2007年5月9日、娘のブルック・ホーガンインディーズレーベルから歌手デビューしている)の日本デビューのプロモートのために久々に来日した。フジテレビの「魁!音楽番付」で試合以外では久し振りに日本のテレビ番組に登場した。さらには2007年5月10日親子でGyaOのお昼の生放送番組に緊急生出演し、5月11日には笑っていいとも!にも生出演した。

2005年から2007年にかけて、人気リアリティ番組Hogan Knows Best』に出演しており、ホーガン本人はもちろん、妻のリンダ、娘のブルック、そして長男のニックを含めたホーガン一家の素顔が垣間見られる。左手薬指に結婚指輪のタトゥーを彫り、愛妻家として知られるホーガンだったが、2008年、娘のブルックの友人であるクリスティアーヌ・プランテがホーガンとの長年の不倫関係を告白した。妻のリンダとは離婚し、ブルックとクリスティアーヌの友情も崩壊した。離婚裁判により、妻のリンダにほとんどの財産を奪われることとなる。

2022年2月28日、2010年に結婚したジェニファー・マクダニエルとの離婚を正式発表した。これで自身2度目の離婚となった。直近では新しい恋人とされる女性と一緒に行動を取っている写真や動画がホーガンのSNSに投稿されていた。なおTMZによると、ホーガンは2021年10月に離婚をしたと伝えている[51]

得意技

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ランニング・レッグ・ドロップ

フィニッシュ・ホールド

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アックスボンバー(日本での必殺技)
ホーガンの初期のパートナーであったスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットを参考にして編み出した「腕をL字型に立てたまま相手の顔面に叩き込むエルボー」。古舘伊知郎は海神ネプチューンの武器である「三つ又の槍」に擬えた。アメリカでこの技は「フォーアーム(4アーム)」と呼ばれエルボー技の分類で一般的な技の為、WWEではつなぎ技としてのみ使用されており、実況・解説では単に「エルボー」とされてしまう場合がある。開発段階はホーガン・ハンマーと呼ばれており、そのまま継続して称するマスコミもあった。
アックスボンバーはラリアットに似ているので、使用に際してはラリアットを必殺技とするスタン・ハンセンに許可を取らないといけなかったが「スタンのラリアットは真っすぐ伸ばしてやるが、アックスボンバーは腕を曲げてやるので、違うんだ」と説明すると、ハンセンは「オマエが使うならいい」とすぐにOKを出してくれた[52]
日米レスリングサミットでハンセンと対戦が決まった際のTVコメントでは「アックスボンバー一番、ウエスタン・ラリアット二番」とアピールしている。
この技で猪木を有名な「舌出し失神状態」に追い込み、日本人では他にも、長州、藤波、天龍、ムタ、蝶野らを沈めた。
ランニング・レッグ・ドロップ(アメリカでの必殺技)
ビッグ・ブーツで仕留めた後、御馴染みのポーズをファンに披露してから、ロープのリバウンドを利用して走り、仰向けになった相手の喉にレッグドロップを決行する。「ハルクスター・レッグドロップ」とも。
カリフォルニア・クラッシュ
アックスボンバーを開発する以前のフィニッシュ・ホールド。

打撃技

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ナックルパート
ビッグ・ブーツ
正対する相手の顔面を足の裏で蹴り、ダウンさせる技。大抵、ロープの反動を使って、自身・相手が走っている状態で使用する。ランニング・レッグ・ドロップへの繋ぎ技。
ジャンピング・ハイ・ニー

投げ技

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バーティカル・スープレックス
スーパープレックス
ベリー・トゥー・バック・スープレックス
抱え上げ式バックドロップを使用。

組み技

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ハルク・アップ
ピンチに陥った際、ファンの声援を受けて全身を小刻みに震わせつつ自身の戦意を高揚させるムーブ。この状態はほぼ無敵ということになっており、相手にパンチで殴られるとさらに興奮し、一方の相手は殴っても効かないことから萎縮することになる。
ハルク・アップコンビネーション
これはアメリカにおけるホーガンのフィニッシュ・ムーヴである。
  1. 劣勢から、ハルクアップで敵の攻撃を耐えしのぐ。
  2. 相手のパンチを受け止める。
  3. すかさず「You!!」と腕を伸ばし相手を指差してから、一本指を左右に振り「効いてないぞ」とアピールする。
  4. 再び殴りかかってくる相手のパンチを受け止め、カウンターで相手の頭に2、3発ナックルパートを浴びせる。
  5. 相手をロープに振ってからビッグ・ブートまたはアックスボンバーでリング中央で仰向きに倒す。
  6. ファンの声援を浴びてランニング・レッグ・ドロップ
ネック・ハンギング・ツリー
1980年代初頭のヒール期に使用。
タイガースピン
ヘッドロックから体を反転させてカニ挟みへ移行する技で序盤から中盤で使用。ホーガンが新日本の外国人エースだった頃と同時期にジュニアヘビー級で活躍していた初代タイガーマスクの技をアメリカへ持ち帰ったもので、ヘビー級のホーガンは回転速度がなだらかで回転数が少ないのが特徴。

締め技

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ヘッドロック

獲得タイトル

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WWE殿堂式典にて
NWASECW
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(北部版):1回[8]
  • NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(南部版):2回[7]
WWF / WWE
WCW
新日本プロレス
プロレス大賞
  • 1983年度プロレス大賞 最優秀外人賞
  • 1991年度プロレス大賞 年間最高試合賞(12月12日・東京ドーム 、天龍源一郎 vs ハルク・ホーガン)

入場曲

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エアギターをしながら入場する。

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  • 一番 : ミニ・アルバム(12インチLP)(1983年)

CharのバンドPINK CLOUDによる演奏と自身の歌とBass演奏(共演)

テレビドラマ

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  • 特攻野郎Aチーム 必殺! 最後の大血戦(1985年、アメリカ) - 本人役で出演。このエピソードの中ではミーン・ジーン・オーカランドがインタビュアーとして出演していたり、WWF(当時)のロゴが出てくるなど本人役である。ただしベトナム戦争に参加した過去があるというフィクション設定がある。
  • 炎のテキサス・レンジャー シーズン8、第192話、ブルー・エンジェルズ(2001年、アメリカ) - ギャングが幅を利かせる荒廃した地域の再生に賭けているブーマー・ナイトという少年バスケットボールチームのコーチ役で出演。顔見せ程度の出演ではなく、非暴力を貫く重圧な芝居で全編に渡りストーリーのキーとなる重要な役を演じた。このチャック・ノリスとハルク・ホーガンの競演は、全米で1030万人もの視聴者を獲得した。

映画

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ゲーム

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ハルク・ホーガンをモデルとした架空の人物とキャラクター

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  • キン肉マン』の登場人物のネプチューンマンのモデルの一人である。いずれもホーガンがモデルとなった読者投稿キャラ「イチバンマスク」と「ハルクマシーン」が合成され、ホーガンのあだ名ネプチューンにちなんでネプチューンマンとなった[53]
  • 1984年から1989年まで月刊『コミックボンボン』(講談社)にてホーガンをモデルにしたギャグ漫画、『やっぱ!アホーガンよ』(作・画:柴山みのる)が連載されていた。当初はプロレスをモチーフにしていたが、後にお下劣ギャグ漫画に方向転換した。
  • ひすゎしの原作マンガ『CAN☆キャンえぶりでい』の主人公キャンの居候先の父でプロレスラーの伏魔春句(ハルク・トーサン)のモデルである。
  • カンニンGOOD』にてホーガンをモデルにした悪徳教師の丸九砲丸先生が登場している。
  • ADK対戦型格闘ゲームワールドヒーローズ』シリーズに登場するプロレスラー、マッスルパワー(クリス・ハンガー)はホーガンをモチーフにして作られた。当初はホーガンによく似ていたが、後に肖像権問題対策の為、顔が変わっている。
  • SNKベルトスクロールアクションゲームバーニングファイト』のステージ2の中ボス、トム・アンダーソンは登場時に「イチバーン!」と叫び、アックスボンバーを繰り出してくる。
  • スクウェアより発売されたスーパーファミコン用ゲーム『ライブ・ア・ライブ』の現代編に登場するマックス・モーガンは、ホーガンをモデルとしている。
  • ソーシャルゲーム『グランブルーファンタジー』に登場(課金ガチャ排出)するカジノ闘士・ファスティバは容姿が酷似しており、「ラブマックス・ボンバー」というラリアット風の奥義を用いる。アックス・ボンバーによく似たポーズのグラフィックも用意されている。
  • バンパイヤンキッズ』に登場するナンチャッテ伯爵の父親はホーガンをモデルとしている。
  • 浦沢直樹の漫画『20世紀少年』の登場人物の一人・オッチョ(落合長治)がハルク・ホーガン(またその元ネタの超人ハルク)呼ばわりされている場面がある。

その他

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  • 20代前半から髪が薄く、当初バンダナは「ハゲ隠し」だったが次第に、それがファッションとなっていった。
  • 日本とアメリカでファイトスタイルを巧みに使い分けている。特に日本で試合をする際は意識的にグラウンドや密着技を多用し、腕ひしぎ逆十字固めなども使用し独特の入り方をみせる。これは、ホーガンが新日本の常連外国人だったころの名残であると思われている。この器用さがホーガンをトップスターにした要因の1つだと言われている。初来日の頃はまだまだ荒削りであったが、新日本プロレスで揉まれるうちにレスリング技術や試合運びが良くなったという[26]
  • ホーガンと行動を共にしていたレスラーのブルータス・ビーフケーキはホーガンの弟とされていたが実際は血縁関係はなく、少年時代からの幼馴染である[注 6]
  • 現役のプロレスラーの多くがホーガンのファンであるらしいが、見た目重視のスタイルからレスリングの技術をセールスポイントにするプロレスラーの中には、ジレンマを感じる者も少なくないらしい。特に全盛期のライバル、ランディ・サベージポール・オーンドーフのホーガン嫌いは有名である。
  • 1986年、WWFで日本からの輸入の形で活躍していたマシーン軍団(ジャイアント・マシーン=アンドレ・ザ・ジャイアント、スーパー・マシーン=マスクド・スーパースター、ビッグ・マシーン=ブラックジャック・マリガン)に加入し、ハルク・マシーンHulk Machine)としてMSG定期戦に出場したことがある[54][55]。後のミスター・アメリカと同様、正体は一目瞭然のファンを楽しませる演出だった。
  • 1990年末から1992年にかけては日立エアコンビッグフロー」「白くまくん」のCMに登場し、一週間の歌を歌ったり「ホソナガおじさん」として登場、雲龍型の土俵入りを真似たパフォーマンスを行ったり「ホーソーナガー!」と絶叫するなどした。ホソナガおじさんについては、後半のCMではCMソングも作られている。
  • エレクトリックベースのテクニックもなかなかの物だという。
  • アラン・ファンク英語版がホーガンの容姿・ファイトスタイルを真似たオマージュレスラーだが、ホーガンと比べかなり小柄である。
  • ステロイド剤の使用を認めている[56]
  • 2012年、プライベートでのセックスシーンがインターネット上に流出するというスキャンダルに見舞われる。性交相手の女性とその元夫でホーガンとも交友関係にあった男が共謀し盗撮、ゴシップサイト『ゴーカー』に売り渡し、ゴーカーが流出させたとされる。ホーガンは2人とゴーカーに対して1億ドル(約79億円)の損害賠償を求める訴訟を起こした。結果はホーガンの全面勝訴となり、2016年3月18日に裁判所はゴーカーに対し1億4000万ドル(約143億7500万円)の支払いを命じた[57]
  • TNAやWCWで進行に深く関わって自身を常にストーリーラインの中心に置きたがり、親族や友人を縁故出演させるなど公私を混同した行動をとり、強力なトップダウン式の権力構造を持つWWEではたびたび起用法を巡ってビンスと衝突して離脱と復帰を繰り返すといった多くのスターレスラーの例に漏れずエゴイスティックな面もたびたび指摘されている。
  • スタン・ハンセンが新日本のトップとして君臨していた時はギャラはハンセンの方が新日本の選手の中で一番であったが、それから1年半した頃、新間寿はホーガンのギャラをハンセンと同じにした。そのことを新間がハンセンに伝えると、ハンセンは「オマエはフェアだ。よくそれを俺に教えてくれた。ありがとう」と感謝の言葉を述べた。ハンセンがホーガンを認めていたことを表すエピソードである[26]
  • 1980年代、アンドレ・ザ・ジャイアントとは冷戦状態であるという説がまことしやかに信じられていたが、ミスター高橋によるとそれは虚説であるという。2人は1982年6月18日に蔵前国技館でシングルマッチを行っており、ホーガンがベアハッグでアンドレの巨体を宙に浮かせた。アンドレの胴を両手で締めることができる選手はそういないが、これはアンドレがホーガンに一定の信頼を置いていた証拠である。ただ、気さくにファンサービスを行うホーガンに対してアンドレはファンとの距離を不用意に縮めたがらない人物であり、プロレス哲学は正反対であった[58]
  • 2024年現在、政治的には共和党支持者である。同年7月18日には、同年のアメリカ大統領選挙に向けた共和党全国大会(4日目)の会場に登場。壇上でシャツを破くアピールを行いながら、ドナルド・トランプへの支持を呼びかけた[59]

参考文献

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  • ハルク・ホーガン&マイケル・ジャン・フリードマン『ハリウッド・ハルク・ホーガン - ハルク・ホーガン自伝』エンターブレイン、2003年。ISBN 4757714483 

脚注

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注釈

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  1. ^ 漫画『プロレススーパースター列伝』ではマツダのコーチを受けていたさいに、力だけの試合に頼ろうとするホーガンを諭すために肩を脱臼させたとあるが、それはフィクションであり、実際は前述通りシゴキを受けて足を骨折させられている。
  2. ^ 本人によれば、1980年のWWF離脱の理由はビンス・マクマホン・シニアがこの出演を認めなかったからだという[26][31]
  3. ^ このアングルは単なる虚構ではなく、実際に二人の間には多くの確執があった。WWFを一時期倒産寸前にまで追い込んだのは他ならぬホーガン率いるnWo人気であったし、ステロイド流通疑惑を巡る裁判の際ホーガンは法廷でビンスに対して不利な証言を行っている。
  4. ^ 娘がアフリカ系の男性と交際していることに激怒、思わず「ニガー」と連呼した。
  5. ^ テレビ放送終了後に来場したファンへのサービスとしてマスクを外していた。また、ギミックと関係なく実際にトラブルで解雇された。
  6. ^ ルーキー時代に兄弟タッグとして活動していたため、この誤解が生じたと考えられる。また、ビーフケーキが「エド・レスリー」の名で新日本プロレスに初来日した際には、会場売りのパンフレットに掲載されたプロフィールにも「ハルク・ホーガンの弟」という記載があった。

出典

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  1. ^ Hulk Hogan's Bio”. WWE.com. 2015年7月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月12日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j Hulk Hogan's Profile”. Online World of Wrestling. 2012年3月12日閲覧。
  3. ^ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P13。
  4. ^ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P28。
  5. ^ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P30。
  6. ^ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P38。
  7. ^ a b NWA Southeastern Heavyweight Title: Southern Division”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月30日閲覧。
  8. ^ a b NWA Southeastern Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月30日閲覧。
  9. ^ The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1979”. Wrestling-Titles.com. 2015年7月26日閲覧。
  10. ^ CWA at Memphis 1979/05/21”. Wrestlingdata.com. 2014年9月12日閲覧。
  11. ^ GCW at Atlanta 1979/10/19”. Wrestlingdata.com. 2014年9月12日閲覧。
  12. ^ a b 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P51。
  13. ^ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P54。
  14. ^ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P57-59。
  15. ^ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P66。
  16. ^ WWE Yearly Results 1979”. The History of WWE. 2012年4月30日閲覧。
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  18. ^ 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.66
  19. ^ NJPW 1980 The 3rd Madison Square Garden Series”. Puroresu.com. 2016年7月4日閲覧。
  20. ^ NJPW 1980 Toukon Series”. Puroresu.com. 2016年7月4日閲覧。
  21. ^ NJPW 1980 The 1st Madison Square Garden Tag Team League”. Puroresu.com. 2016年7月4日閲覧。
  22. ^ ハンセンがいきなり全日本のリングに。ホーガンの移籍ドタキャンで結成されたブロディとの「最強タッグ」Web Sportiva 2021年9月17日
  23. ^ NJPW 1982 Big Fight Series”. Puroresu.com. 2016年7月4日閲覧。
  24. ^ The NJPW matches fought by Hulk Hogan in 1983”. Wrestlingdata.com. 2021年5月1日閲覧。
  25. ^ 【猪木さん死去】坂口征二戦“黄金コンビ”初のシングル対決ほか/名勝負ベスト30&番外編”. 日刊スポーツ (2022年10月1日). 2022年12月10日閲覧。
  26. ^ a b c d 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p84-85
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  30. ^ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P99。
  31. ^ 『ハリウッド・ハルク・ホーガン』、P88-89
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  53. ^ ゆでたまご「死の制裁!!の巻」『キン肉マン 第18巻』集英社〈ジャンプ・コミックス〉、1984年12月15日、ISBN 978-4-08-851148-1、114-126頁。
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  55. ^ Machines”. Online World of Wrestling. 2022年4月7日閲覧。
  56. ^ 『USAスポーツ狂騒曲 アメリカは今日もステロイドを打つ』 序章 町山智浩 ISBN 9784087805161
  57. ^ ハルク・ホーガンの情事流したゴシップメディアが巨額賠償金払えず倒産…記事拡散させたSNSの責任は?産経ニュース 2016-03-21閲覧
  58. ^ ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。ISBN 9784800289216 pp.46-47
  59. ^ ハルク・ホーガン氏、「英雄」トランプ氏支持表明”. AFP (2024年7月19日). 2024年7月19日閲覧。

外部リンク

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