イエロー・マジック・オーケストラ

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イエロー・マジック・オーケストラ
(左から順に)坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣
(左から順に)坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣
基本情報
別名 ポリフォニックス
トリオ・ザ・テクノ
YMO
スケッチ・ショウ+坂本龍一
ヒューマン・オーディオ・スポンジ
HASYMO
出身地 日本の旗 日本 東京都
ジャンル テクノポップ
ニュー・ウェイヴ
アンビエント
活動期間 1978年 - 1983年
1993年
2007年 -
レーベル アルファレコード
(1978年 - 1983年)
東芝EMI/イーストワールド
(1993年)
エイベックス/commmons
(2007年 - )
共同作業者 松武秀樹矢野顕子GOH HOTODA
影響 ビートルズ
ロキシー・ミュージック
冨田勲
ブライアン・イーノ
ジョルジオ・モロダー
テレックス
クラフトワーク
ディーヴォ
ムーンライダーズ
プラスチックス
ウルトラヴォックス
XTC
トーキング・ヘッズ
公式サイト ymo.org
メンバー
細野晴臣ベース
高橋幸宏 (ヴォーカル、ドラムス
坂本龍一キーボード

イエロー・マジック・オーケストラ(Yellow Magic Orchestra)は、1978年に結成された日本の音楽グループYMO(ワイ・エム・オー)と略称される。

目次

[編集] メンバー

細野晴臣ベース
エイプリル・フールはっぴいえんどティン・パン・アレーを経て、YMOを結成。YMOのリーダー・プロデューサーであり、シンセサイザーとコンピュータを用いるYMOの音楽スタイルを打ち出した。宗教民俗学など神秘主義的な趣味があり、それらもYMOに影響を与えている。ライヴではほぼベーシストに徹し、曲によってはシンセサイザーをベース代わりに演奏していた。YMO散開後は特にアンビエントエレクトロニカ等のジャンルを取り入れている。
高橋幸宏ドラムスヴォーカル
サディスティック・ミカ・バンドサディスティックスを経てYMOに参加。YMOをきっかけに機械のビートと同期して初めてドラムを演奏したドラマーである。また、ライヴではドラムを叩きながら自らヴォーカルをとるという異色なスタイルで演奏していた。ファッション・デザインの技能を生かしてYMOではステージ衣装のデザインを手掛けた。YMO散開後はソロ活動とともに、様々なミュージシャンとのコラボレーションプロデュース業を展開している。音楽の方向性の相違などで険悪になりがちだった細野と坂本の間を取り持つ立場でもあった。サディスティック・ミカ・バンド時代、ロキシー・ミュージックの前座としてロンドンでライヴを行った事があった為、結成当時メンバーで唯一海外でのライヴ経験を有していた。
坂本龍一キーボード
スタジオミュージシャンとして(大滝詠一山下達郎のアルバムに参加)活動した後、YMOに参加。YMOでは松武秀樹とともにレコーディングにおいて楽曲を構築する重要な役割を果たし、またライヴでは楽曲のアレンジを一手に引き受けた。YMO散開後は映画音楽で成功するなどソロ活動を展開している。彼の「教授」という愛称の名づけ親は高橋である。ちなみに、YMO初期の頃は漫画の「あぶさん」に似ていた事から「あぶ」と呼ばれていた。

担当パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、TV番組では上記以外のパートを担当することもあった。 YMOは、元々はコンセプトバンドとして構想されたものであり、細野はメンバーの人員構成は流動的にする考えを持っていた[1]が、ライヴなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自体は最初から最後までこの三人であった。

[編集] 概要

Yellow Magic Orchestra (イエロー・マジック・オーケストラ)という名称は、細野が70年代後半に提唱していたコンセプトである「イエローマジック」から来ている。これは白魔術(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも黒魔術(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)のどちらでもない黄色人種独自の音楽を作り上げるとして、魔術の色を人種の色にかけて提唱したのが「黄色魔術」(イエローマジック)である。細野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン・パン・アレーの曲「イエロー・マジック・カーニヴァル」、細野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。

1980年代初頭に巻き起こったテクノ / ニュー・ウェイヴムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結成されてから1983年に「散開」(解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米国等でのレコードリリース、及びコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結成)しており、また2007年にも再々結成している。

当時、シンセサイザーやコンピュータを駆使した音楽としては既にドイツクラフトワークが有名であったが、それらの技術を用いた音楽はまだ珍しい時代であった。そんな中で現れたYMOの音楽は、日本において当時の若い世代を中心に熱狂的に受け入れられた。そのため、YMO結成、そしてクラフトワークの「人間解体」発売、また同じくシンセサイザーを多用したディーヴォの「頽廃的美学論」の発売がなされた1978年を「テクノ元年」と呼ぶ者も存在する[要出典]。また英米・英語圏の音楽界に対しても少なからぬ音楽的影響力を残しており、例えば「U・T」(アルバム『BGM』収録)はトランス・テクノ、「RIOT IN LAGOS」(坂本龍一のソロ楽曲『B-2 UNIT』が、1980年の第2回ワールド・ツアーのオープニングで演奏された)は、ヒップホップのそれぞれ始祖であると、後に英米で評されている[要出典]

YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが着用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣装であったが、その形状が中華人民共和国人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、当時の若者の間でも流行した「テクノカット」(本多三記夫考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげ無し)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認知されている。

ライブにおいてヴォコーダーヴォイスで挨拶する事でも有名。いくつかのライブ盤でそのヴォコーダーヴォボイスによる挨拶を聞く事が出来る。

[編集] 来歴

[編集] 結成 - ワールド・ツアー

YMO結成以前、細野は、ドラマー林立夫シンガーのマナと共に自身の「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーするというユニットを構想していた。だがこれは実現せず(その後マナは、ソロで「イエロー・マジック・カーニヴァル」をカヴァーしている)、続いて細野は林と佐藤博のユニットでマーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をカヴァーすることを構想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現しなかった。

1978年2月19日に行われた細野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム・ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一高橋幸宏の2人と、初めて3人で顔を合わせることとなった。

それまでにも坂本と細野は1975年大滝詠一の「福生ストラット Part II」の録音時に顔合わせをしており、1976年には細野がTIN PAN ALLEYのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。一方、高橋と細野は学生時代から旧知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック・ミカ・バンドが1975年の「ジャパン・ロック・フェスティヴァル」に出演した際、小原礼の代役で細野が演奏した事が一度あっただけだった[2]

その日細野が2人を自宅に招き、3人はこたつを囲んだ状態で、焼きおにぎりを食べながら(おかかおにぎりやみかんという説もある)話し合いを行った。細野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ2人は賛同、YMOが結成される。このとき細野は2人に「マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400万枚売る」という自身のメモが書かれたノートを見せている。

メンバーが決まった後も、結成当初は横尾忠則をYMOのメンバーに加える構想があった。しかし実際、細野は横尾に対し記者会見にくるよう伝えていたが、横尾はその日なぜか「行きたくなかった」とキャンセル。最初期YMOのトレードマークであるタキシードも4着用意されていたが、結局、横尾がメンバーに加わることはなかった。

後に、結成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることとなる。

YMO結成後もしばらくは、メンバーは並行する形で別の音楽活動を行っていた。坂本と渡辺香津美の双頭バンド「KYLYN」、坂本のベーシスト2人、ドラマー2人など各パート2人体制により格闘技形式で演奏を行うコンセプト「カクトウギ・セッション」がそれである(これらには高橋、矢野顕子も参加)。また高橋は1979年6月までサディスティックスに在籍していた。初期には東京、新宿のジャズ・フュージョン系ライブハウス「六本木ピット・イン」などでYMO名義以外でも矢野顕子のライヴにゲスト出演を行ったり、上記のKYLYN、カクトウギ・セッションなどに3人が参加し、YMOの曲も演奏していた。坂本の「千のナイフ発売記念ライヴ」にも3人が参加している。

1978年9月、松武秀樹をサポート・メンバーとしてYMO、初となるライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。

1978年11月25日、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をアルファレコードより発売。アルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、12月3日 - 10日に紀伊國屋ホールで行われたライヴが来日していた副社長のトミー・リピューマの目に留まったことで、全米でデビューが決定すると語られてきたが、後に「ライヴ・アット・紀伊国屋ホール1978」(12月10日分収録)のライナーノーツの中で、全米デビューはそれより前に決まっていたと明かされている。

1979年5月30日、デビュー・アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスし(トミーの意向による)たアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ(米国盤)』をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン・レコードから発売。リミックスは、エンジニアのアル・シュミットと細野が共同で行った[1]。この米国盤は7月25日に日本でも発売された(日本ではオリコン・チャート最高20位)。日本盤との大きな違いとして、坂本のインスト曲「東風」が挙げられ、「Yellow Magic」にタイトル変更されている上、吉田美奈子のヴォーカルが加えられている。1979年8月2日 - 8月4日には、ロサンゼルスのグリークシアターでチューブスの前座を行い(海外での初公演)、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。8月6日にはマダム・ウォンにて単独ライヴも行い、この頃から徐々にその存在が注目されはじめる。

9月25日、2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発売(このとき、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。オリコン・チャートの最高1位にランクインし、セールスはトータルで100万枚を越え、その名を老若男女に広く浸透させることとなった。同アルバム収録の「テクノポリス」「ライディーン」は、YMOのパブリック・イメージとなる。10月には初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」をイギリスロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売る事なく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。帰国する頃には日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に「逆輸入」された形となった。海外でライブツアーをやるアーテイストの殆どが国内でヒットを出し、人気者になってから行うが、YMOは国内でヒットする前に行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と予見しての事だったが、実際はその予見が的中した。ワールドツアーを行う前の「イエロー・マジック・オーケストラ 」発売時はまだ日本の音楽評論家でYMOの音楽について語れる人はおらず、YMOの音楽は早過ぎたとまで言われている。その証拠に「イエロー・マジック・オーケストラ 」の帯には「2001年からの音楽」と書かれている。

この第1回ワールド・ツアーの模様は、翌年2月発売の3枚目のアルバム『パブリック・プレッシャー』に収録された。このアルバムにおいてサポート・ギタリスト渡辺香津美ギター・チャンネルは、渡辺が所属していた日本コロムビアの意向で全編がカットされてしまい、その代わりに、坂本のシンセサイザーが後から録音された(後にこれは『フェイカー・ホリック』などいくつかのライヴ盤で復活する)。この事がむしろアルバム自体の仕上がりを「テクノ」風にさせており、YMOのスタイルを方向付けさせ、ファンを増殖させた事は誠に皮肉な事であり、後になって実況録音的『フェイカー・ホリック』を聴いたファンの多くは、やはり疑似ライブとも言える『パブリック・プレッシャー』の方を支持したのは特筆すべき事である。

こうしてYMOの日本国内での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、当時の小学生にまで広がっていた。若者がテクノカットをまね、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど、YMOの影響は社会現象にまでなった。1980年3月からは初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」が行われる。4月には、小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツスネークマンショーらとともに出演。6月には、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』を発表。これは当初10万枚の限定盤として売り出される予定であったが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8ヶ国、19公演で行われ、アメリカ、ロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4連続公演で締めくくられた。

その後は、ワールドツアーをやめている。これは「おもいっきりイイ!テレビ」の「きょうは何の日?」で取り上げられた際のインタビューで細野が「レコーディングが大好きなんですよ レコードが大好きだから ライブに興味がなかったんですけど」と言い、高橋も「僕もレコーディングの方が全然いいですね」と言う。更に坂本は「3人共そうなんですけど 新しい物が好きなのね だから新しい音楽を作るのはやはり スタジオの中で作ってるんで ステージ上って言うのは勿論新しい事も出来ますけど やはり九割がた もう出来た物の繰り返しでしょ だから そんなに面白くないんですよ」と言っている。

YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(1993年の「再生」時の高橋の発言[要出典]より)。YMOと活動時期を同じくした人気バンド・ゴダイゴミッキー吉野もまた、「YMOの欧米進出と言っても実態は日本国内向けのパブリシティ狙い。海外でのレコード売上ならうちのほうが上」と後に発言している[要出典][3]

[編集] 『BGM』 - 『TECHNODELIC』

1981年はYMOの大きな転換期であった。3月、アルバム『BGM』を発表。このアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまでのポップ指向のスタイルから一転、暗く重いヨーロッパ志向のエレクトリックミュージックを展開した。歌詞もそれまでのクリス・モスデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であるとメンバーは語っており、また「U・T」が後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、YMO自身のみならず世界にも影響を与えたアルバムである。

音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、いずれも評論家から非常に高い評価を獲得している。しかし一方で、いわゆる「RYDEEN」「TECHNOPOLIS」的なサウンドを期待していた大多数のファンから猛反発を買うものとなり、セールス面では下降線を辿った。 また、このアルバムの発売に対し、細野は「何をやっても売れちゃう。こんな面白い状況は二度と来ない。だったら遊んじゃおう」と発言している。

同年11月には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『テクノデリック』を発表。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属、人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになる最初期のアルバムである。

それらのアルバムの発表に続いて、2度目の国内ツアー「ウィンター・ライヴ1981」が11月24日の宮城県民会館公演から始まる。『BGM』『テクノデリック』からの楽曲を中心に演奏されたこのツアーでは、楽曲の再現性に問題があったため、YMOのステージとしては初めてマルチトラックレコーダーが使用された。 演奏スタイルも高橋のドラムスタイルはスタンディングでサンプリング・トリガーのLMD-649を叩き、楽曲によっては坂本がギター、ドラムスを、高橋がキーボード等の担当変更や細野の生ベースの比重増など変化に富んでいた。サポートも松武秀樹一人の3人+1の最小構成の4人であった。 またこの時期から、メンバーはソロ活動や他アーティストとの活動を盛んに行うようになっていった。「ウィンター・ライヴ」を最後に、翌年にはYMOとしての音楽活動はいったん休止状態となる。 また、グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ・エム・オー)という記号化された略称が一般に定着した[4]。散開後は、登録商標の問題でこの「YMO」表記ができなくなっており、「イエロー・マジック・オーケストラ」表記が主流である。

雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が細野晴臣というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」[5]と坂本が語ったように、坂本と細野の間での路線対立じみた緊張感などが発生しており、メンバー間では、1981年末でYMOとしての活動にピリオドを打つという考えがあったようである。しかしながら、ビジネス面での要求から解散は先延ばしにされた。

[編集] 『君に、胸キュン。』 - そして「散開」へ

翌年、1982年はYMOとしての実質的な音楽活動は行われなかった。、各メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。細野は「はっぴいえんど」での盟友松本隆と共に松田聖子への樂曲提供を行い、また高橋と共に「¥EN」(YEN) レーベルを設立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。

坂本は郷ひろみ前川清などのプロデュースを行い、また、忌野清志郎と共にシングル「い・け・な・いルージュマジック」をリリース、そして映画『戦場のメリークリスマス』の撮影に俳優として参加、また、自身としては初となる映画音楽を担当する。

高橋は「高橋幸宏TOUR1982」を6月から行う。YMOとしては「ミュージックフェア」や「オレたちひょうきん族」に出演したり、当時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ・ザ・テクノ」の名で出演して漫才を披露している。

翌年、1983年3月、カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン。」でYMOとしての音楽活動を本格的に再開。この曲以降、今度は自らに歌謡曲というレッテルを貼り、ポピュラー志向の日本語ロックを展開した。この曲でオリコン・チャート1位を狙うと宣言するも、皮肉にも細野の作曲 / 編曲による松田聖子の「天国のキッス」に阻まれ、2位に終わる(しかしYMOのシングルとしては最大の売上枚数を記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム『浮気なぼくら』を発表。またしてもそのイメージを大きく転換させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは、既存の歌謡曲の枠を超えた緻密なサウンドで構成された先鋭的な作品であった。7月には『浮気なぼくら』の楽曲のヴォーカル部分をシンセのメロディに置き換えたリミックス盤『浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表され、このアルバムに収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。この時期はメンバー全員が年齢が30代に入っていたこともあり、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「オジサンアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらに振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。

当時高橋が担当する「オールナイトニッポン」に劇団スーパー・エキセントリック・シアター (S.E.T.) がレギュラー出演していたことから、かつての『増殖』のようにS.E.T.のコントを交えたアルバムを制作する案が高橋から持ちかけられ、解散記念としてアルバム『サーヴィス』が制作されることとなった(ラストアルバムである『サーヴィス』を含む後期の作品は、細野曰く「オマケ」であり、彼は『浮気なぼくら』が実質的なラストアルバムであるとしている[要出典])。10月には「オールナイトニッポン」に3人が出演し、「散開」(解散)が表明された。

11月23日から12月19日にかけて解散前の最後のツアーである「1983 YMOジャパンツアー」が全国6会場で行われる。アルバム『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売された。12月22日には日本武道館で入場者無料の特別公演を行う。12月12日、13日の日本武道館公演を収録した2枚組アルバム『アフター・サーヴィス』は、翌1984年2月21日に発売された。また4月には、アルバムと同じ収録日の日本武道館公演を素材として制作された映画『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』が公開される。

[編集] 「再生」

散開後も幾度となく再結成の噂がささやかれ、実際に周囲からのオファーもあったものの、それらは細野がすべて断っていた。しかし、散開からおよそ10年を経た1993年2月、YMO「再生」(再結成)が発表され、4月1日にはメンバー3人揃っての記者会見において、新しいアルバムの発表と東京ドームでのコンサートの実施が公表された[footnote 1]。YMO再生は、新聞が社会面で、NHK及び民放がニュースでそれぞれ報道するなど、社会的にも大きく取り上げられ、便乗して過去のライブ映像や、過去のYMOの曲のリミックスアルバムなどが商品化された。

再生時の記者会見は、巨大なベッドに三人が寝ころんで行われ、3人がベッドから出たら3人は手錠で繋がれているというものだった。口上と総合司会は当時のお笑い番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」のキャラクターであるオジンガーZが行った。ちなみにこの会場に、当時放映されていた「進め!電波少年」の松村邦洋松本明子が芸能レポーターとして紛れ込んでおり、「YMO再生! この機会にいろいろお願いしておきたい!」と題する企画で「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた[footnote 2]。松村はこの時に「メリークリスマス、ミスターローレンス」とビートたけしの物まねをメンバーの前で行っており、「似ているね」と言われて嬉しかったと番組内で語っている。

5月26日、アルバム『テクノドン』を発表。ミキシングには坂本がニューヨークで知り合ったマドンナ等との仕事で知られた日本人エンジニアGOH HOTODAが参加、後述の再生公演にも4人目のメンバーとして出演した。先行シングルはエルヴィス・プレスリーのカヴァー曲「ポケットが虹でいっぱい」。6月10、11日には、東京ドームにて公演が行われた。前座はジ・オーブが務めた。このライヴでは過去の曲も数曲、斬新なアレンジが施されて演奏されたものの、昔のヒットパレードに終始することは全くなく、あくまで『テクノドン』からの曲を中心に構成された。8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『テクノドン・ライヴ』が東芝EMIから発売。以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。再生時の記者会見ではワールド・ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作したいと発言していたが、結局YMOとしてそれらの活動が行われることはなかった(後年インタビューにて、「再生」は本意ではなかったと3人とも口を揃えて語っている[6])。

しかし、細野・高橋・坂本の3人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企画、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。

[編集] 2000年代

2001年1月23日NHK-BS2で放送された細野晴臣デビュー30周年記念特番「細野晴臣 イエローマジックショー」にて3人が共演。3人が老人に扮して浴衣を着て演奏するというユーモラスな趣向で、同期なし、シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏した。照れ隠しでどてらを着て演奏していたところから、この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。

同年 4月25日TBSによる地雷撲滅キャンペーン「地雷ZERO」の一環として、坂本を中心としたスペシャルグループ「N.M.L. (NO MORE LANDMINE)」によるチャリティソング「ZERO LANDMINE」が発売された。N.M.L.は坂本の呼びかけで集まった国内外のミュージシャンで構成され、デヴィッド・シルヴィアンクラフトワークなど、YMO時代から坂本と親交のあるミュージシャンも参加した上、細野がベース、高橋がドラムで参加している。4月30日には、TBS50周年特別企画番組「地雷ZERO 21世紀最初の祈り」が放送され、番組内でN.M.L.による「ZERO LANDMINE」の生演奏が行われた(細野と高橋も参加)。

2002年、細野と高橋がエレクトロニカユニット「スケッチ・ショウ」を結成。アルバムには坂本も参加したほか、ライヴ「WILD SKETCH SHOW」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立ち、ライヴでは新たなアレンジとなった「キュー」や「中国女」、細野と高橋のみで演奏した「ジャム」と、YMOのナンバーも数曲が演奏された(スケッチ・ショウ初披露の際にも細野・高橋・坂本の3人でメディアへの露出があった)。

スケッチ・ショウ以降、3人での音楽活動が活発化する。2004年6月18日、次世代ミュージックとマルチメディア・アートの国際フェスティバル「sonar festival 2004」がスペインのバルセロナにて開催され、3人はYMOではなく「ヒューマン・オーディオ・スポンジ (Human Audio Sponge=HAS)」(「スケッチ・ショウ + 坂本龍一」という位置づけ)を名乗り、1993年の再生ライヴ以来11年ぶりにユニット(バンド)としてステージに立った。この「sonar」の衛星イベントとして、10月9日10月10日、「sonarsound tokyo 2004」が恵比寿ガーデンプレイスにて開催され、再びHASとしてライヴを行った。いずれも演奏スタイルはYMOとは違い、それぞれのブースにマッキントッシュを配置したエレクトロニカのスタイルであった。演奏された曲目もスケッチ・ショウのレパートリーが中心で、「ジャム」と「ライオット・イン・ラゴス」が演奏された以外は、YMO時代の曲は演奏されなかった。

1993年の「再生」以降、3人は長い間、もう一度YMOとして音楽活動をすることに対し、一貫して否定的な姿勢を取ってきた。HASとして活動する際も、それはあくまでYMOとは別のものであるとしてきた。

しかしながら、2007年2月3日キリンラガービールのテレビCM企画において、ついに「YMO」名義が復活する。CMには3人が揃って出演し、さらに、CMのために「ライディーン」を新たなアレンジで録音した「RYDEEN 79/07」が使用された。同曲はCM公開とともにインターネット配信が開始され、iTunes Storeをはじめとする数々の配信サイトにおいて、ダウンロード数1位を記録した(ネット配信時の名義は「YMO」の略称ではなくカタカナ表記の「イエロー・マジック・オーケストラ」)。CM出演にともなって、3人一緒の写真がデザイン(2種類)されているラガービール6缶パックが限定発売された。

3月21日にはベストアルバム『YMO GO HOME!』とライヴアルバム『ONE MORE YMO』がソニー・ミュージックダイレクトより再発売。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『UC YMO』の初回盤が復刻発売された。

その後5月19日、「Smile Together Project」の一環としてHAS名義でのライヴをパシフィコ横浜国立大ホールにて行った。このライヴでは「RYDEEN 79/07」をはじめ、「以心電信」、「音楽」、「キュー」といったYMOのナンバーも演奏され、さらに映画『EX MACHINA』のテーマ曲となる3人の新曲「レスキュー」も披露された。このライヴは、チケット売り上げが全額「財団法人がんの子どもを守る会」の活動資金となるチャリティライヴであった。

一方でアップルジャパンのウェブサイトにおけるSpecial Interviewの中で、坂本が『歳を重ねて気持ちが緩くなり、自分たちでも(HASとYMOの)境界線がわからなくなってきている』ので、「HASと書いてYMOと読んでくれ」と発言した(ただし「そう読みたい人は読んじゃっていいよ」という言葉を後に付け加えている)。

そして7月7日、世界8カ国9都市で同日開催されたコンサート「ライブ・アース」には、ついに「Yellow Magic Orchestra」の名義(略称は使用されていない)で出演。会場は京都市東寺の特設ステージで、出演5組のトリを飾る形となった[7]8月22日には新曲「レスキュー」と「RYDEEN 79/07」を収録したシングルCDを、エイベックス内の坂本が主宰するレーベルcommmonsから発売。名義は「レスキュー」が「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた「HASYMO(ハシモ)」、「RYDEEN 79/07」が「Yellow Magic Orchestra」。YMO名義のCD発売は1993年の「テクノドン・ライヴ」以来。

2008年6月15日、28年ぶりとなるロンドン公演がロイヤル・フェスティバル・ホールで行われた。また、同週の6月19日にはスペインのヒホン市の Laboral Ciudad de la Culturaでも公演した。今回のセットリストは前年行われた横浜ライヴのものをほぼ踏襲しているが、スペインではロンドンで演奏された「SPORTSMEN」「FLY ME TO THE RIVER」が省略されたほか、各公演で若干曲順が異なっている。この公演で特筆すべきは世界初披露された新曲「The City of Light / Tokyo Town Pages」と、ダライ・ラマ14世のヴィジュアル・メッセージとともに演奏された坂本のソロ曲「TIBETAN DANCE」であった。

2009年。docomoのN-04Aにオリジナルコンテンツとして「good morning,good night」フルチューンと14種の効果音を提供した。この音源はここでしか確認が出来ない。(HASYMO名義)

8月9日、東京・夢の島で開催された夏フェス「WORLD HAPPINESS 2009」に出演(なお、前年の同イベントにはHASYMO名義で出演している)。高橋はエレクトロニカスタイルを採らず全編ドラムを叩き、ビートルズのカバー「ハロー・グッドバイ」に始まって1980年以来の「千のナイフ」、テクノドンライブ以来の「ファイヤークラッカー」を含む全10曲を演奏した。当日のライブサポートメンバーは小山田圭吾高田漣権藤知彦であった。

[編集] 2010年 - 現在

2010年4月に発売された “音楽の事典”「commmons: schola vol.5 Yukihiro Takahashi & Haruomi Hosono Selections: Drums & Bass」において、前年録音したビートルズの「ハロー・グッバイ」と、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「Thank You For Talkin' To Me Africa」を収録。坂本によれば、本作において紹介すべき当該の2曲が権利関係によって収録できなかったために自分たちで演奏したとのこと。レコーディングはクリックを使用しない生演奏で行われている。なお、後者のボーカルはクリスタル・ケイが担当した。これとリンクして、NHK教育テレビの番組「スコラ 坂本龍一音楽の学校」の「ドラムス & ベース編」に三人で出演すると共に、小山田圭吾権藤知彦と共に「千のナイフ」「ハロー・グッパイ」「Thank You For Talkin' To Me Africa(ボーカル無し)」の演奏を披露した。

2010年も引き続き夏フェス「WORLD HAPPINESS 2010」に参加。また秋からは江崎グリコポッキー」のCMに出演、BGMには「ライディーン」が使用された。

なお、2011年6月26日(日)19:00よりアメリカ、ハリウッドの野外音楽堂「ハリウッド・ボウル」にて、1980年以来実に31年ぶりのアメリカ公演がチボ・マットを伴って「BIG IN JAPAN」と題されて行われた。翌日には「Yellow Magic Orchestra“LIVE in California”というタイトルでThe Warfieldで演奏を行った。

帰国後の7/31には「FUJI ROCK FESTIVAL」に、8/7には4回目になる「WORLD HAPPINESS 2011」に参加をし、名義は異なるがこの3人での新曲「FIREBIRD」が2年振りに発表された(docomo携帯のN-04Aに収録された着信メロディ「good morninng,good night」は2009/1/23に発売)。

その間には、11/4にNHK総合で放送されたYMO初のスタジオLIVEが、NHK放送センター101スタジオにて8/5に収録された。又、そこでは「どてら姿YMO」ならぬ「ゆかた姿YMO」の姿も披露された。

[編集] 技術面から見るYMO

[編集] 積極的な電子技術の採用

YMOはシンセサイザーのサウンド、そして電子機器による自動演奏を大々的に音楽に取り入れた先駆者的グループである。また、それまでミュージシャンの手弾きによる生演奏が常識だったライヴにおいて自動演奏を取り入れた点でも革新的だった。それまでのシンセサイザーは効果音製作や、既存の楽器の代用として使用されており、シンセサイザーや自動演奏でしか作れない曲を制作しようとした者はまだ少なかったからである。

YMO結成当時、クリック音に合わせて演奏できるミュージシャンは数少ない時代だった。細野、坂本、高橋はクリックとの同期に違和感を持たない演奏家であったうえに、音楽・音色に対する探求心も強く、新たな技術を積極的に受け入れる傾向が強かった。そのためローランドから、当時まだ試作段階であったにもかかわらず、ヴォコーダー「VP-330」を使ってほしいと依頼されたことがあった[要出典]

YMOのシンセサイザーと自動演奏は切っても切れない関係にあり、これらはプログラマーの松武秀樹の存在が大きい。レコーディングやライヴでの音楽データのシーケンサーへの打ち込み、自動演奏は松武が一手に引き受けていた。

[編集] 主な演奏機材

YMOが使っていた演奏機材で代表的なものを挙げる。 極初期にはメンバーの私物の機材も使用したが、ほとんどは松武秀樹の会社である有限会社MACからのリース品であった。

[編集] 初期

  • モーグ III-c松武秀樹が使用していた大型モジュラー・シンセサイザー、通称「タンス」。付属のアナログシーケンサーで簡単なフレーズの演奏も行った)
  • ポリモーグ(主にライブで使用)
  • コルグ VC-10(ヴォコーダー、文字通りヴォコーダーとして多用されたが、「CASTALIA」ではヴォコーダーとしてではなく同機に供えられていたアンサンブル機能を用いてメロディー演奏を行っている。)
  • ローランド VP-330(ヴォコーダー)
  • アープ・オデッセイ(ベースやリードで多用。坂本はYMO結成前はアープ・オデッセイの名手[8]として知られており、「東風」PVでは坂本の個人所有物(MkI、白パネル・名前入り)も見られる。初期から第1回ワールドツアーでは「千のナイフ」などで、坂本がソロパートで使用しているのが目立つほか、第二回ワールドツアーまで細野がシンセベースで使用していた。2007年のキリンラガービールのテレビCMにおいても細野がシンセベースとして弾いている。細野使用のモデルは現在、当時自身の会社でYMOにシンセを貸出していたプログラマーの松武秀樹が所有)
  • コルグ PS-3100(細野の個人所有物で、ライディーンの馬の駆けて行くSEは、これで作ったと言う。)
  • シーケンシャル・サーキット プロフェット5(YMOの使用シンセの代表。)
  • ポラード シンドラム Model 477(シンセドラム。高橋が効果音的に使用)
  • ULT-SOUND(東洋楽器) DS-4・DS-4 Custom(シンセドラム)
  • E-MU カスタム・モジュール(大型モジュラー・シンセサイザー。第2回ワールド・ツアー以降で使用)
  • BIAS(イシバシ楽器) BS-1・BS-2(ドラムのリムに取り付けるタイプのシンセドラム。高橋のオーダーにより、BS-1の音色にホワイト・ノイズが追加されたタイプがBS-2。)
  • オーバーハイム 8ヴォイス(サポートキーボーディストであった矢野顕子が使用)
  • モーグ Multimoog(細野がシンセベースとして使用。メモリーを持たないアープ・オデッセイと交互に使われた。)
  • ローランド JUPITER-4
  • EMS VCS3(主にSE等で使われた)
  • モーグ 16 Channel Vocoder(ヴォコーダー。「テクノポリス 2000-20」でのみ使用)
  • モーグ mini moog(東風のパパパーと言う合いの手の音でしか使用されていない。)

[編集] 中期

  • シーケンシャル・サーキット プロフェット5
  • ローランド TR-808(リズムマシン。当時の細野のお気に入りの機材であった)
  • ローランド JUPITER-8(これで「MASS」や「邂逅」のアルペジオパターンが演奏されていた)
  • E-MU カスタム・モジュール
  • LMD-649サンプラー
  • E-MU イミュレーターI(サンプラー。ウィンター・ライヴ1981以降で使用)

[編集] 後期

  • シーケンシャル・サーキット プロフェット5
  • ローランド JUPITER-8
  • リン・ドラム LM-1 / LM-2(ドラムマシン
  • シモンズ SDS-5(エレクトロニックドラム。ただし散開ライヴのシモンズはバスドラム・スネアのパットはシモンズの音源でなく、リン・ドラムの音源に接続されていた。)
  • シーケンシャル・サーキット プロフェットT8(散開ライヴでのみ使用された)

技術の発展に伴い、デジタルシンセサイザーも使用された。

後期はシンセサイザーのリース元がMACから別の会社に変更された。

[編集] 再生

  • コルグ M1
  • アープ・オデッセイ
  • ローランド JUPITER-8
  • E-MU VINTAGE KEYS
  • コルグ 01/WproX

[編集] 2007年からの再活動

[編集] サンプリング

テクノデリック』の項目を参照。

[編集] 自動演奏

坂本は、正確な演奏ができる技術を持っており、例えば、自動演奏に聞こえる「テクノポリス」のシーケンスパターンや、「ライディーン」のメロディは手弾きである[9]

初期は、シーケンサーMC-8を松武秀樹がコントロールしていた。コンピュータに入力するためには、演奏を一旦楽譜に直す必要があり、その作業を坂本が行ったが、その際に坂本はある程度自由にアレンジを行うことになった。そのためロック、ポップスの土台にクラシックの流れを汲む複雑で作りこまれた編曲が行われた。これは細野らメンバー自身が外部鍵盤によるリアルタイム入力ができるシーケンサーMC-4が登場する『BGM』の直前まで続いた。

アルバム『浮気なぼくら』からは、YMOメンバー自らがシーケンサーを利用することとなり、それまで全面的に協力していた松武秀樹が制作から外れている。

[編集] ドラム

  • YMOでのドラムは主に高橋幸宏が担当した。YMOのドラム演奏には以下のような特徴がある。
    • シンバルを使わない(ほぼすべてのスタジオレコーディング音源に共通)しかし、後期には要所要所にてクラッシュ・シンバルが効果的に使用されている。(シャドウズ・オン・ザ・グラウンド、パースペクティブ他)
    • フィルインにはタムを多用せずに、ほとんどスネアを使う
    • ライブ演奏にて、8ビートリズムの曲でさえもハイハットの16分音符の刻みを高速で右手のみで行う。
  • YMO結成当時、ドラムの録音はスネア・バスドラムハイハットなどをすべて同時に録音するのが一般的であったが、YMOでは各パートを別々のトラックに録音していた。そのため、当時のエンジニアや関係者によると、YMOの録音は「時間がかかって仕方がない」という印象を持っていたとのこと。また、たとえばハイハットだけ録音する際には、ハイハット以外のドラムセットには毛布をグルグル巻きにして音が出ないようにして他のドラムセットも叩くなどグルーヴ感が出るように工夫することもあった。
  • 初期のアルバムでは生ドラムの音色をそのまま使用していた。当時のアルファレコードスタジオの壁には石が埋め込まれており、特殊な残響による硬質なドラムの音色が特徴である。
  • 初期から80年のワールドツアー時まで、ライヴではタムの代わりにシンセドラムを効果音的に多用した。シンセドラムのパッド1つにつき出る音は一つのため、ツアーを経るごとにシンセドラムの数は増えていった。しかし81年のウィンター・ライヴからは使用しなくなる。
  • 80年のワールドツアー時にはチューニングの異なるスネアを2台用意し、両方にBIAS BS-2(石橋楽器のオリジナル・ブランド)を取り付け、さらにそのうち1台にバーカスベリーのピックアップを取り付けてE-MU カスタム・モジュールに接続し、ノイズを付加させた音を出していた。しかしトリガーの調子によってノイズは出たり出なかったりした。
  • アルバム『BGM』の「U・T」では、ノイズゲート機材「Kepex」を使ったゲートエコーを利用している。具体的には、ドラム音にロングエコー(鉄板エコー・リバーブ)をかけ、余韻の部分を強制的に切ることで、人工的な効果を出すというもの。この手法は、前年に「開け心-磁性紀-」や高橋のソロアルバム『音楽殺人』の「THE CORE OF EDEN」で使用されていた。
  • また、アルバム『BGM』からは、ローランドリズムマシンTR-808」を取り入れた。前年末に行われた武道館公演での「千のナイフ」のイントロで使われたのが最初。
  • アルバム『テクノデリック』以降では、手作りのサンプラー「LMD-649」を使い、サンプリング音源によるドラムを実現している。サンプリングの音源はドラム缶やドアのノブを叩いた音、工事現場の音、人のなどを採用している。直後のウィンター・ライヴではLMD-649をトリガー・ボックスに接続し、手やドラムスティックで叩いて使用した。しかし高橋も回想しているように、振動に弱いため、ちょっとした振動で音が出てしまうという難点も抱えていた[10]
  • アルバム『浮気なぼくら』では一転して「リン・ドラム」を使うなど、技術の発展に同期した音作りをしている。1983年の散開ライヴでは、シモンズのエレクトロニック・ドラムをトリガーにしてリン・ドラムを鳴らすなど、高度なテクニックを駆使していた。
  • ドラムの自動演奏が実現できる環境になったとしても、人間特有の「ノリ」を完全に実現できないため、あえて人が叩くドラムを利用していたこともある。
  • 散開ライヴにおいて、ドラムを叩きながら歌うのは体力が持たなくなってきたということもあり、歌うことに専念したいと考えた高橋は、基本的に簡単なパーカッションと単音のシンセ音を担当するのみでヴォーカルに徹し、ドラムは「東風」「ビハインド・ザ・マスク」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」「ファイアークラッカー」「テクノポリス〜ライディーン」といった初期の曲を中心としたライヴ序盤と終盤の曲で叩いたのみ。そのためドラムスにはABCを脱退したデヴィッド・パーマーがサポートメンバーとして参加した[footnote 3]
  • 散開ライヴでは前後移動できるドラムセットの台座下にパーカッションセットとシンセのある演説台型演奏ブースがステージの床付近に下げられた状態であり、「中国女」のラスト時に、デヴィッドが演奏しているドラムセットが台座ごと後方に下がり、演奏ブースが昇ってくるのが確認できる。

[編集] ライヴ

アルバムでは自動演奏を多用していたYMOではあるが、初期のライヴでは、メンバー+ギター+サポートキーボード(初期にはパーカッションも存在)の形式による生演奏が主体であった。当時のシーケンサー(ローランド MC-8)のフレーズの同時出力数に限界があり、アルバム曲の再現に限界があったため(アルバム曲は多重録音である)のほか、熱に弱く動作が不安定だったこと、データの読み込みに時間がかかることなど、機材的な問題によるところが大きい。この形式は1980年の第2回ワールド・ツアー「YELLOW MAGIC ORCHSTRA WORLD TOUR '80」まで続いた。このツアーからMC-8もステージ演奏に適応するため、CPU関係にファンが追加される改良が加えられ、安定性が高くなっている(加えて演奏中には扇風機を使用)。また、当時のシンセサイザーは熱などにより音程が不安定になることが多かった。

1981年に行われた「ウィンター・ライヴ1981」では、メンバー+松武秀樹のスタイルとなった。このライヴではシーケンサーにMC-4が使われ、各メンバーがプロフェット5、イミュレーターを使用したものに変わり、構成が簡素になったことで機材数が減った。このとき、イミュレーターはMC-4に接続されておらず(シーケンサー接続のためのCV / ゲート端子がまだ付いていなかった)、いくつかのファクトリーサンプルを手で弾いただけであった。また、一部の演奏では先述の通り楽曲の再現性に問題があったことからMTRが使用されることもあった。このライヴでは坂本はギターやドラムも演奏している。

散開ライヴでは、シーケンサーは使われず、ほとんどのトラックがMTRで演奏されている。ただし、先述のようにシモンズのドラム音とリン・ドラムの音を混ぜるなど斬新な試みも引き続き行われた。

1993年の再生ライヴでは、細部までシーケンサーとアナログシンセを使って演奏された。1998年の高橋へのインタビュー[11]では、高橋は「東京ドームグラウンド下には大きな発電機があり、マッキントッシュ(シーケンサーとして使用)が止まってしまう恐れがあった。その為、事前に録音したシーケンサの音を予備で(シーケンサーが止まってもいいように、つまりは前述の散開ライヴと同じことができるように)同期して再生していた」と語っている。なお、「ポケットが虹でいっぱい」のみはテープ演奏であったが、ステージ上にオープンリールMTRを上げて、再生ボタンを押す前に手でテープを動かすことで音を出し、カラオケ演奏であることをわざわざ強調する演出を行った。このようなユーモアのセンスもYMOの持ち味であった。

[編集] 同期演奏とそのためのヘッドフォン

[編集] 同期演奏とクリック音

  • YMOはライヴでヘッドフォンを装着して演奏するという、当時としては画期的な方法をとっていた。これは、自動演奏とメンバーの演奏を同期するためのガイドとなるクリック音を聞くためであった。このクリック音は、モーグIII-cのステップシーケンサーを使って演奏させていた。
  • クリック音は、松武がコントロールするシンセサイザーのフィルター発振音で、レゾナンスを上げていったときの自己発振音を使っている。
    • 音は「キッコッコッコッカッコッコッコッ」や「ピッポッポッポッパッポッポッポ」と聞こえる。
    • アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ (US版)』に収録されている「東風」イントロ部分を注意深く聞いていると「キッコ、キッコ」という音がかすかに聞こえるのがわかる。
    • 1980年11月のロサンゼルスA&Mスタジオ公演の「ALL YOU NEED IS LOVE」-「テクノポリス」での曲の合間を注意深く聞くと「キコカコ音」を聞くことができる。同公演のTV放送では同部分と「東風」が始まる前とでかなりの音量で聞こえていた。

[編集] ヘッドフォン

  • ヘッドフォンを装着すると、通常のライヴでは聞こえてくる各メンバーの演奏の音が聞こえない。そのため、メンバーの出している音をPAから送り返す場合に、モニタースピーカーへ送らずキューボックスという簡易ミキサーへ送り、クリック音と混ぜて聞いていた。
    • このキューボックスは、グリークシアター公演の直前に数日間徹夜して作られ、当時としては最新の回路やパーツを使っていたため、一般のものにくらべてとても高音質であった。1台10万円程度かかっていたといわれる[要出典]
  • ヘッドフォンはビクターのHP-550がよく使われ、シュアーのSM-10Aヘッドセットマイクとのコンビネーションは、トレードマークになる。
  • 初期のライヴで矢野顕子が使用していたのはゼンハイザーのHD414である。これは他のメンバーが使用している場合もあり、また、東風のPVでもメンバー3人が使用しているのが確認できる。
  • アルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に収められている「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」ではヘッドフォンをマイク代わりに使用している部分がある。
  • ヘッドフォン装着により観客の拍手や歓声なども聞こえなくなるため、演奏の無い部分や曲間などでヘッドフォンをずらして観客の反応を確かめていた。

[編集] ライヴでの同期演奏

  • YMOの初期のライヴでは、実際にクリック音を聞きながら演奏していた曲は半分くらいであった。第1次-2次ワールド・ツアー時の「コズミック・サーフィン」や「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」、「ラジオ・ジャンク」、「デイ・トリッパー」、「中国女」、「千のナイフ」等は、後の高橋のコメント[要出典]などから、普通のバンドのようにドラムに合わせて演奏していたと推察される。しかし高橋はラジオ番組[要出典]でのインタビューで「演奏曲の始まりでMC-8からのクリック音を待っていたが、トラブルが起きてなかなか聞こえて来ないので、シーケンサーを使わず演奏したケースもあった」と答えている。ライヴにおいてどの曲目がシーケンサーを最初から使用しなかったのかは、明らかになっていない。
  • シーケンサーに1曲のデータをロードするのに1曲分の時間がかかっていた。当初シーケンサーを使う曲の次にはクリック音を使わない曲を配置し、シーケンサー未使用曲を演奏している間に次の曲のデータをロードする工夫をしていた。
  • 第2回ワールドツアーからは、モーグ・III-CのほかE-MUのモジュラーシステムも登場し、予備機を含め3台のMC-8を導入して、シーケンサーを使用した演奏を続けて行うことができるようになった(交互交互の自動演奏では2台のMC-8で充分だが、松武は1台のMC-8を演奏中、2台のMC-8で次曲の同じデータを同時にロードし、ロードエラーに備えていた)。この当時ソニーのカセットデンスケをデータ・ストア(記憶装置)として利用していた[12]
  • 初期のシーケンサー・MC-8は熱に弱く、ライヴ演奏中にデータがすべて失われたりするなどのトラブルが多かった。そういうケースに遭遇した場合、曲順を変更したり、当時のギター担当であった渡辺香津美がその場でカッティング演奏を行い、メンバーもそれに合わせて演奏して臨機応変に対応していた[footnote 4]。こういう状況であわてふためくことがないのはYMOメンバーとサポートメンバーに高度な演奏技術があったことを示している。しかしメンバーへの精神的負担は大きく、細野は年月が経ってからも「ステージに立っても演奏できない」という夢を見るほどだったという。
  • 初の衛星中継となった1980年11月のロサンゼルスでのライヴでは、最初の「ライオット・イン・ラゴス」で松武が機材のスイッチを入れる順序を間違えたため、クリック音がMC-8の演奏と16分音符1個分ずれて送出されてしまい、高橋が後方の松武に向かって首を横に振るシーンが見られる。この時は、MC-8演奏のパートをイントロの8小節演奏後あたりでカットして、クリックのみで演奏を行っていた。シーケンス自体は止めていないので、間奏後のBパート部分で小出しに音を出していた。
  • 散開ライヴでは坂本が曲の始まる2小節前から体をリズムに合わせ始めるシーンが見られ、クリック音に演奏を同期させる様子がわかる。(この時はすべてMTR)

[編集] 影響

  • 1990年代以降に活躍する日本人ミュージシャンの中に、YMOの音楽に影響を受けたと自称するミュージシャンが数多く現れた。彼らは「YMOチルドレン」と呼ばれることがある[要出典]。その代表的アーティストは槇原敬之宮沢和史THE BOOM)、高野寛テイ・トウワ電気グルーヴ石野卓球)、砂原良徳SUGIZOLUNA SEAX JAPAN)など。
  • ゲームクリエイターの飯野賢治は「坂本からは思想を、高橋からはファッションを、細野からは音楽を学んだ。」という意味のことを自著『ゲーム』に記している。
  • ジェニファー・ロペスのシングル「I'm real」はファイアークラッカーをサンプリングし、全米ナンバーワンを獲得した。
  • 漫画「ディスコミュニケーション」-作者の植芝理一がYMOファンであり、主人公にYMOの曲を演奏させたり、扉絵では同漫画のキャラクターでトランス・アトランティック・ツアーのメンバーを表現したり、主人公にFROM TOKIO TO TOKYOのユニフォームを着せるなど数多くのYMOネタが見られる。
  • 筋肉少女帯「仏陀L」のジャケットは「増殖」のパロディーであると、大槻ケンヂが自著「リンダリンダラバーソウル」で語っている。
  • 初音ミクのイメージアルバム「Hatsune Miku Orchestra」にて、YMOの各楽曲がカヴァーされている。ジャケットは、アルバム「Yellow Magic Orchestra(US版)」のパロディ。
  • シャフト制作で新房昭之監督のアニメにはYMOのパロディなどが多い。
    • さよなら絶望先生」の劇中にて顔に「坂本」「高橋」「細野」と書かれた明らかにYMOの三人を意識したパロディなどが登場している。
    • ひだまりスケッチ×365」のアルバム「ひだまりラジオ×365 特別編 〜いぇすっ! アスミス!!〜」のジャケットは「SOLID STATE SURVIVOR」のパロディとなっている。
    • まりあ†ほりっく」のエンディングでは天の妃少女合唱団によって「君に、胸キュン。」がカヴァーされている。また、このシングルCDのジャケットは同曲のシングル版ジャケットのパロディーとなっている。
  • 山下達郎など、YMOに対抗してテクノを積極的には取り入れず、あえてアコースティック路線を続けたアーティストもいた。ただし、山下はYMOのメンバーとの交遊はあり、共に楽曲制作も行ったことがある。
  • 漫画「はるみねーしょん」のキャラクターの名前が、YMOのメンバーの名前と酷似している。
  • 精神科医の香山リカもYMOに影響を受けた事を雑誌にて公言している。

[編集] ライヴサポートメンバー

ここでの「初期」とは、第1回ワールドツアー(ライヴ様式での区分け上、グリークシアターのチューブス前座を含む)以前のライヴを指す。

  • 矢野顕子 / キーボード&バック・ヴォーカル(第1回ワールドツアー第2回ワールドツアー
    • 矢野自身の曲「在広東少年」ではメインヴォーカルを務める。ワールドツアーでは通訳や現地メディアに応対する役割も果たした。1978年の自身のライヴにはYMOの3人がゲストとして参加した。その際には矢野が作詞した東風を披露している。
  • 渡辺香津美 / ギター(初期 - 第1回ワールドツアー)
    • 紀伊国屋ホールのライヴでは自身のバンドのメンバーが参加した。
  • 大村憲司 / ギター&バック・ヴォーカル(テクノポリス2000-20、写楽祭、第2回ワールドツアー)
    • 第2回ワールドツアーでは自身の曲「MAPS」のメインヴォーカルを務めた。テクノポリス2000-20は、感冒性内耳炎になったため一時的にメンバーから外れたが、復帰時には鮎川誠とのダブルギターを披露(写楽祭でも鮎川とのダブルギターを披露している)。
  • 松武秀樹 / プログラミング・SE(初期 - ウィンター・ライヴ1981
  • 矢野誠 / キーボード(初期)
  • 林立夫 / パーカッション(1978・芝郵便貯金ホールでのライヴのみ参加)
  • 橋本一子 / キーボード&バック・ヴォーカル(テクノポリス2000-20)
    • 矢野顕子産休のため。
  • 藤本敦夫 / ギター&バック・ヴォーカル(テクノポリス2000-20、1980年4月4日、4月7日)
  • 鮎川誠 / ギター(初期、テクノポリス2000-20、1980年4月5日、4月9日〜15日)、写楽祭)
    • 1978年12月に東京、六本木のライヴハウス「六本木ピットイン」で、行われたライヴにも参加。DEVOローリング・ストーンズ両ヴァージョンのカヴァー「サティスファクション」の演奏ではメインヴォーカルを務めた。また、第1回ワールドツアー後の中野サンプラザ公演や第2回ワールドツアー後の武道館公演の前座は、彼のバンドであるシーナ&ザ・ロケッツが行った。
  • 藤井丈司 / ギター(テクノポリス2000-20、1980年4月1日)
    • 当時の本業はYMOの所属事務所であったヨロシタ・ミュージックのスタッフで、本来は、ドラマー兼プログラマー。急遽登板することになったが渡辺・大村とは異なり、簡単なコードしか弾けなかったため、坂本がソロパートを増やすことで対処した。
  • 立花ハジメ / サックス(ウィンター・ライヴ1981 東京、新宿のディスコ「ツバキハウス」でのライヴのみ参加)
  • 梅林茂 / ギター(ウィンター・ライヴ1981 東京、新宿のディスコ「ツバキハウス」でのライヴのみ参加)
  • デヴィッド・パーマー / ドラム(散開ライヴ)
    • 高橋の要請により参加したが、当時所属していたABCのスケジュールと重なってしまったため、ABCを脱退して参加した。
  • GOH HOTODA / プログラミング・SE(1993・再生ライヴ)
  • クリスチャン・フェネス / ギター・エレクトロニクス(2008・ロンドン&ヒホン、2011・WORLD HAPPINESS:FUJI ROCK FESTIVAL
  • 小山田圭吾 / ギター(2009&2010&2011・WORLD HAPPINESS、2011・FUJI ROCK FESTIVAL)
  • 高田漣 / スティールギター(2008・ロンドン&ヒホン、2009&2010・WORLD HAPPINESS)
  • 権藤知彦 / ユーフォニアムフリューゲルホルン・コンピュータオペレーティング(2008・ロンドン&ヒホン、2009&2010&2011・WORLD HAPPINESS、2011・FUJI ROCK FESTIVAL)
    • 権藤はHAS以降、長期にわたってコンピュータオペレーティングを担当している。

レコーディング参加メンバーは各アルバムの項を参照

[編集] 作品

[編集] シングル

以下は「イエロー・マジック・オーケストラ」もしくは「YMO」名義の物で、「HASYMO」名義の物は除いている。

[編集] オリジナル・アルバム

[編集] ライヴ・アルバム

[編集] ベスト・アルバム

[編集] リミックス・アルバム

  • 浮気なぼくら (インストゥルメンタル) - NAUGHTY BOYS (INSTRUMENTAL) (Alfa YLR-20002、1983年7月27日)
  • YMO MEGA MIX (Alfa ALR-18002)
  • YMO・イン・ザ・ナンティーズ・ピート・ロリマー・リミックス - YMO IN THE '90S THE PETE LORIMER REMIX (Alfa ALCA-81)
  • ハイテック・ノークライム - HI-TECH / NO CRIME (Alfa ALCA-323)
  • NEO TECHNOPOLIS……繁殖 (avex AVCD-11093)
  • YMO versus THE HUMAN LEAGUE (Alfa ALCA-475)
  • WHO'S YMO (Alfa ALCA-533)
  • TECHNODON REMIXES I(東芝EMI TOCT-8050)
  • TECHNODON REMIXES II(東芝EMI TOCT-8070)
  • YMO HI-TECH / U.S.CRIME (Alfa ALCA-527)
  • YMO REMIXES TECHNOPOLIS 2000-01(ビクター VICL-60483)
  • YMO REMIXES TECHNOPOLIS 2000-00(ビクター VICL-60653)
  • YMO REMIXES TECHNOPOLIS 99-00(ビクター VICL-60653)
  • YMO REMIXES 99-00 THE BEST COMPLETE EDITION(ビクター VICL63289)
  • RAVE TECHNOPOLIS TOKYO / MEGA RAVE PROJECT (SONY RECORD SRCL2581)
  • YMO TRANCE (UNIVERSAL UPCH1190)
  • YMO EN-TRANCE (SCDC00456)
  • YMOのカバ (Alfa ALCA489)
  • 続YMOのカバ (Alfa ALCA532)

[編集] ビデオ・LD

  • Y・M・O
  • COMPUTER GAME
  • ウィンター・ライヴ'81(1983年)
  • A Y.M.O. FILM PROPAGANDA(1984年)
  • YELLOW MAGIC ORCHESTRA(1985年)
  • ハラー(1992年)
  • HI-TECH VIDEO CRIME(1992年)
  • Y.M.O.伝説 1983散開コンサート at 武道館(1993年)
  • ライヴ・アット・武道館1980(1993年)
  • TECHNODON IN TOKYO DOME(1993年)
  • TV-YMO(1993年)
  • COMPLETE HURRAH(1999年)
  • CLIPS HISTORY OF YMO(1999年)
  • YMO 1979 TRANS ATLANTIC TOUR(2000年)

[編集] DVD

  • YMO Giga Clips(1998年)
  • YMO Giga Live(1998年)
  • YMO Giga Capsule(1999年)
  • YMO-WINTER-LIVE-1981(1999年)
  • CLIPS HISTORY OF YMO(2000年)
  • COMPLETE HURRAH(2000年)
  • YMO 1979 TRANS ATLANTIC TOUR(2000年)
  • A Y.M.O. FILM PROPAGANDA(2001年/2011年再発)
  • Visual YMO : the Best(2003年)
  • LONDON YMO / POSTYMO(2009年)
  • TECHNODON LIVE 1993 TOKYO DOME(2011年)

[編集] 提供曲・編曲

  • 天然の美(1979年、キング) - 近田春夫 YMO名義で数曲の編曲
  • MARIA(1979年、アルファ) - 朝比奈マリア 「おんなともだち」編曲
  • チャンネル・グー(1980年、アルファ) - シーナ&ザ・ロケッツ 「浮かびのピーチ・ガール」作・編曲。
  • 春咲小紅(1981年、ジャパン) - 矢野顕子のシングル ymoymo名義で編曲。
  • 鏡の中の十月(1983年、アルファ / YEN) - 小池玉緒のシングル 両面作・編曲

[編集] 参加作品

1979年
1980年
1981年
  • 矢野顕子
  • 大村憲司
    • 春がいっぱい (アルファ) - 第2回ワールドツアーで発表されていた「Maps」を収録。
1982年
1983年
1984年

[編集] YMOのカヴァー曲を収録したアルバム

[編集] その他

COSMIC SURFIN
1978年にCBSソニーからリリースされた「Pacific」からのシングルカット。アルバムの調和を崩す様なジャーマンディスコ調の本作をYMO結成前にポリフォニックス名義でリリース。本音源は今も「Pacific」にて聴く事が出来る。
YEN YEARS
1996年12月。オムニバス・アルバム「YEN BOX Vol.II」の18枚中の1枚目。「PROPAGANDA」のオリジナル・ヴァージョンは、これにしか収録されていない。また、珍しいカラオケ・ヴァージョン曲も多数収録。
その他には、YEN Box Vol.1のBonus Discに「君に、胸キュン。(Original Karaoke Version)」、「WILD AMBITIONS (TV size Edit type B)」、「以心電信 (CF 60 Sec. Version)」、「鏡の中の10月 (Original Karaoke Version)」が、YEN Box Vol.2のBonus Disc:Maleに「君に、胸キュン。〜過激な淑女〜以心電信のメドレー」が、Bonus Disc:Femaleに小池玉緒 featuring YMOの「Sexanova」(未発表)が。
※「君に、胸キュン。(Original Karaoke Version)」は、どちらも高橋のコーラスパートが部分的に入っており純粋なインスト・ヴァージョンではない。
YEN RECORDS HISTORY SINGLES+α
'1988年11月(91年9月に再発売)。細野がアルファレコード内に立ち上げたレーベル「YEN RECORDS」設立から発売されたシングルを発売順にA・B面共に収めたオムニバス・アルバムで、YMOの楽曲は「君に、胸キュン。」以降のYEN RECORDSから出されたシングルをA・B面収録している。特筆すべきは、「以心電信」がシングルバージョンで収録されている事である。「テクノポリス」のシングルバージョン違い、「以心電信」のシングルバージョンは殆どCD化されておらず、YMOのベスト盤のは全てアルバムバージョンで収録されている。
YMO Selfservice
1998年。結成20周年記念2枚組CD-ROM。12のアルバムの楽曲すべてがMP3形式で収録されている。ただし、データ・レートが低いため音質はあまりよくない。その他、プロモーション・ビデオ、関係者インタビューのビデオ、シンセサイザーの音色、アルバムのデータ、未発表ライヴ音源(1981年、ウインター・ライヴより)などが収録されている。進行役には、畠山桃内として伊武雅刀が参加。シングルCDが添付されており、2曲のライヴ音源(「RYDEEN」、「BEHIND THE MASK」共にチャップリン・メモリアル・スタジオ公演)が収録されている。
翌年1999年に、DVD「YMO GIGA CAPSULE」にDVD-ROMとして上記のコンテンツが再録された。その際、「ウインター・ライヴ」からの未発表音源が一部追加されている。
InDo 1978 / Pre YMO
2000年。原曲は未発表曲「InDo」(仮タイトル)で、1978年にYMOのプリプロダクション用トラックとして収録されたもの。高橋幸宏のドラム・パートまでレコーディングされたものの、最終的にお蔵入りとなった。その後、発見されたマルチ・トラック・テープを、細野がミックスを施し(本人曰く「きれいにしてあげて」)、「Pre YMO」名義で発表。細野自身を含むアーティスト陣の2000年版リミックスとともに、ミニアルバム『InDo 1978』に収録された。
増長 (ALCA 5250) / YMO&爆笑問題長井秀和
「増殖」のパロディCD(内容的にはYMOではなくスネークマン・ショーのカヴァー)。
その他のレア音源・未収録曲
発表済みのレア音源としては、「鏡の中の十月(デモVer. / オリジナルカラオケVer.)」、「以心電信(モノラル歌詞違いVer.)」、「過激な淑女(デモVer.)」、「SIMOON(デモVer.)」などがある。
ライヴのみで発表されたタイトル不明な曲は幾つかあるが、有名なのはテクノポリス2000-20のオープニング曲(坂本龍一のアルバム『左うでの夢』収録の「Venezia」と似ている)と、ウィンター・ライヴでの通称「LOOP」などがある。
YMO名義のライヴ・アルバムにのみ音源が存在し、YMO名義のスタジオ収録したアルバムに音源が存在しない曲が幾つかある。例えば、「PLASTIC BAMBOO」「riot in Lagos」(原曲:坂本龍一)、「THE CORE OF EDEN」(原曲:高橋幸宏)、「在広東少年」(原曲:矢野顕子。但し初出はKYLYN BAND)、「maps」(原曲:大村憲司)、「ROCKET FACTORY」 「RADIO JUNK」(原曲:SHEENA & THE ROCKETS)、「all you need is love」(原曲:ザ・ビートルズ)など。これらの曲はビートルズのカヴァーを除けばYMOの3人のソロ曲、またはYMOの3人が製作に参加した曲である。「all you need is love」は第2回ワールドツアーのチャップリン・メモリアル・スタジオ公演で、日本への衛星中継が行われることと、ビートルズが原曲を衛星中継で披露したことをからめた洒落であった。YMOの演奏では曲冒頭はアメリカ国歌となっている。
「在広東少年」は「お前は歌う、私に向かって歌う、つんぼの私に」という歌詞があり、ライヴでも歌われていたが、日本で公開された映像・ライヴアルバムなどでは「つんぼ」の部分は音声加工によって消されていたり、ライヴによっては最初から「耳の壊れた」「耳の聞こえない」と歌詞を変更したヴァージョンが歌われていた。

[編集] 出演

[編集] 映画

[編集] テレビ番組

(ALFA [SUTDIO A]にて収録/YMO アルバム[BGM]レコ−ディング風景放映)

[編集] ラジオ

  • マガジンGORO[それ行け・スネークマン!] 1978年 10月4日 TBSラジオ コーナー〈スネークマン ホットライン・ニュース〉 ゲスト: 細野晴臣(電話インタビュー出演)
  • [FM25時・サウンド・カーニヴァル=シンセサイザーランド 〜公開録音から〜] 1978年 10月26日11月2日 FM東京('78. 10/18 東京郵便貯金ホール SYNTHESIZER LAND【YAMAHA SOUND CARNIVAL】にて収録)
  • [特別番組 新春オールナイト・コンサート -フュージョン・ライヴ '79-] 1978年 12月31日 FM東京('78. 12/8〜10 東京 紀伊國屋ホール We Believe in Music [ALFA FUSION FESTIVAL'78]にて収録)
  • [ライヴ・フロム・ザ・ボトムライン 〜イエロー・マジック・オーケストラ〜] 1979年 12月31日 - 1980年 1月4日 FM東京('79. 11/06 New York [THE BOTTOM LINE]【YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR】にて収録)
  • [ファンタジー・ポップス・スペシャル 〜イエロー・マジック・オーケストラ・ニューヨーク・ボトムライン・ライヴ〜] 1980年 1月5日 FM東京('79. 11/06 New York [THE BOTTOM LINE]【YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR】にて収録)
  • クラウン・レーベル[鈴木茂のミュージックシャンバラ] -増殖 特集- 1980年 6月3日 ラジオ関東
  • マガジンGORO[それ行け・スネークマン!] -増殖 特集- 1980年 6月5日 TBSラジオ
  • [THE MUSIC NETWORK] -"増殖"特集- 1980年 6月9日 FM大阪 ゲスト: YELLOW MAGIC ORCHESTRA -細野晴臣-
  • フジカセット[セレクテッドアーティスト'80・スペシャル] 1980年 6月9日6月16日 FM東京('80. 05/07 東京厚生年金会館 フジカセット・セレクテッドアーティスト'80・スペシャル 公開録音【Yellow Magic Orchestra on stage】にて収録)
  • 特集・サウンド・オブ・ポップス [日本のトップ・アーティスト イエロー・マジック・オーケストラ] 1980年 8月18日-8月22日 NHK-FM
  • [THE MUSIC NETWORK presens[Radio Paranoia] -増殖 特集- 1980年 6月9日 FM大阪 コーナー〈Radio Party〉細野晴臣、高橋幸宏(ALFA [SUTDIO A]からの電話インタビュー出演)
  • [THE MUSIC NETWORK presents Radio Paranoia] 1980年 12月25日 FM大阪 細野晴臣、高橋幸宏(コメント出演)
  • [特集 イエロー・マジック・オーケストラ・ライヴ] 1980年 12月29日 NHK-FM('80. 12/26 東京 日本武道館【YELLOW MAGIC ORCHESTRA WORLD TOUR '80 FROM TOKIO TO TOKYO】にて収録)

[編集] CM

[編集] 脚注

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  1. ^ この時点で「YMO」という名称は商標登録されており、使用できなかったため、再生時のグループ名は「YMO」の3文字の上に「×」を描いたものが採用された。読みは「ノットYMO」。2007年に活動した際にはKIRINのCMのみ「YMO」の商標を使用。
  2. ^ YMO方の回答は「関係者と相談します」であった。他にも「映画『進め! 電波少年』の音楽を作って欲しい!」というお願いも用意していたが、指名されることなく終了した。
  3. ^ この手法は高橋が自身のソロツアーで確立した手法であり、2007年のHASのライヴでも行われた。
  4. ^ 復旧するまでに時間を要することもあり、そのため海外では「曲が長い」という評価もあった。

[編集] 出典

  1. ^ a b 『イエロー・マジック・オーケストラ』アスペクト、2007年
  2. ^ レコード・コレクターズ 2003年2月号
  3. ^ ゴダイゴはTVドラマ『西遊記』『水滸伝』の主題歌を担当しており、世界各地で何度も放映されたおかげでレコードも含めて印税収入が大きかった。
  4. ^ 『BGM』のジャケット等に「YMO」と表記されている。それ以前は略す場合「Y.M.O.」と、ピリオドを付けて表記するのが一般的だった。
  5. ^ ロッキンf 1981年5月号
  6. ^ NHK プレミアム10「YMOからHASへ -坂本龍一+高橋幸宏+細野晴臣 音楽の旅-」
  7. ^ 演奏されたのは「以心電信」「レスキュー」「War & Peace」「RYDEEN 79/07」の4曲。
  8. ^ NIAGARA TRIANGLE Vol.11995年盤のライナーノーツで大滝詠一は「誰もがARPの音を出すのに苦労していたのを後に「教授」と呼ばれる坂本が弾いている所にYMOの萌芽が見られた。」と回顧している
  9. ^ サウンド&レコーディング・マガジン 1999年11月号
  10. ^ 『ONE MORE YMO』ライナーノーツ掲載の高橋による曲解説
  11. ^ 『コンパクトYMO』徳間書店、1998年 ISBN 4-19-860831-8
  12. ^ 1980年12月 FROM TOKYO TO TOKYO 武道館ライヴ・パンフレット ※カセットデンスケ、2台のローランドMC-8、モーグ・III-CとE-MU・システムシンセサイザーが配置されたシステム構成図が載っている。
  13. ^ このほか高橋の譜面台上の曲順表には「即興」、「The City of Light」、「体操」、「千のナイフ」、「キュー」も書かれており、同年6月のハリウッド・ボウル公演や7月のフジロックフェスティバルとほぼ同じプログラムである事が判る。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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