サントリー1万人の第九

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サントリー 1万人の第九(サントリー いちまんにんの だいく)は毎年12月の第1日曜日に大阪城ホールで行われている一般公募型による大規模な「第九」イベント。

目次

[編集] 概要

1983年(昭和58年)に大阪城公園大阪市中央区)に建設された大阪城ホールのこけら落としの一環として、また大阪城築城400年を記念したイベント「大阪築城400年まつり」の一環として、第1回公演が開催された。それまでのクラシック音楽のコンサートの常識では考えられなかった巨大規模の「第九」コンサートとなっただけに、クラシック音楽界はもとより世間からも注目を集めた。(→#第1回公演の実現まで

当初は単発イベントとしての企画だったが、公演の成功を受けて継続が決まり、現在に至っている。

[編集] 出演者構成(「第九」演奏時;ソリストを除く)

指揮者

指揮者名横のカッコ内表示は公式発表時の呼称。なお、初代指揮者の山本については、公演会場では「音楽監督・指揮」と呼ばれていた。

管弦楽
合唱
  • 1万人の第九特別合唱団
合唱団の数は約1万人。これは現在日本国内最大の規模である。なお、現在の規模になったのは第10回公演(1992年)以降のことであり、それまでは、第1回では6千数百人規模、第2回(1984年)~第9回公演(1991年)では7千人程度である。また第21回公演(2003年)までは別枠で大阪フィルハーモニー合唱団(大フィル合唱団)も参加していた。

具体的な構成等については、合唱団の構成とレッスンについての項を参照のこと。

[編集] 運営

第1回(創始時)から今日まで、毎日放送(MBS)が主催し、同じく大阪に本拠を置く洋酒・飲料水メーカー大手のサントリーが協賛するという形を貫いてきている。サントリーが単独で創始以来今日まで一貫して協賛してきているのは、様々な文化活動に理解を示しているサントリーの企業風土もさることながら、創始時に社長だった佐治敬三自身の音楽に対する造詣の深さが大きなファクターとなっている。佐治自身も亡くなるまで合唱団の一員として加わり、聴衆への歌唱指導の際にバリトン・ソロを披露することもあった。

[編集] プログラム

プログラムは2部構成。

  • 第1部:ゲストを招いてのコンサート、話題曲のオーケストラ演奏など
  • 第2部:「第九」の演奏、『蛍の光

第1部は、第1回公演時に呼び物としてのイベントが必要であるとの舞台演出スタッフの発案による。

山本が指揮を務めていた時代には、作曲家でもある山本が合唱曲の新曲を発表することもあった。第2回公演(1984年)で発表され、第3・4・12各回公演でも演奏された『友よ、大阪の夜明けを見よう』(藤本義一作詞)もその一例であるが、この曲は第1回公演後に翌年以降の継続が決まった際、何か新しいものをと模索していたときに、大阪の歌を創ろう、という主催者内部から出された提案がもとで誕生したものである(委嘱作品)。

[編集] 歴史

今日に至るまでの間に2度タイトルが変更されており(第9回と第21回)、ロゴデザインも同時に変更となっている。また、第21回以降は、ロゴデザインを毎年変更している(これにより、ロゴ内に「第○回」が表記されなくなったうえ、第24回からは、ステージ上に写真撮影の写しこみ用として張られていた西暦下2桁のフィルムも廃止された)。ここでは第1回公演から今日に至るまでを、イベント・タイトル毎に分ける形で、綴ることとした。

なお第26回公演ではロゴデザインの変更のみ行われている格好となっている。

サントリーオールド 1万人の「第九」コンサート
  • 第1回:1983年12月4日、テーマ「空に漂う1万の歌声。地を揺るがす2百の奏者。心を震わす1万5千の聴衆。歓喜はひとつの渦となる。」
  • 第2回:1984年12月2日、テーマ「喝采、リフレイン、'84」
  • 第3回:1985年12月1日、テーマ「歓喜は継承される-'85」
  • 第4回:1986年12月7日、テーマ「いま新たなる感動 '86」
  • 第5回:1987年12月6日、テーマ「'87-さあ、クライマックスへ」
  • 第6回:1988年12月4日、テーマ「'88-飛翔する歓喜」
  • 第7回:1989年12月3日、テーマ「'89-歓喜のタクト、今高く」
  • 第8回:1990年12月2日、テーマ「'90-響きあう自由と歓び」
SUNTORY 1万人の〔第九〕コンサート
  • 第9回:1991年12月1日、テーマ「響きあう、大いなる歓喜。」
  • 第10回:1992年12月6日、テーマ「そして歓喜は響き、歴史となる。」
  • 第11回:1993年12月5日、テーマ「響きあって、新楽章へ。」
  • 第12回:1994年12月4日、テーマ「響け、ここより世界の空へ。」
  • 第13回:1995年12月3日、テーマ「響きあって、あしたへ。」
  • 第14回:1996年12月1日、テーマ「響け、アジアの熱き心よ。」
  • 第15回:1997年12月7日、テーマ「時を重ね、未来に響く。」
  • 第16回:1998年12月6日、テーマ「魂が響く、時代が動く。~ベートーヴェンとガーシュインがここに出会う。」
  • 第17回:1999年12月5日、テーマ「新たに出会う、時代がある。初めて感じる、響きがある。」
  • 第18回:2000年12月3日、テーマ「21世紀に祝福を。~ようこそ歓喜が響くステージへ。」
  • 第19回:2001年12月2日、テーマ「一人一人の第九を、世界へ。」
  • 第20回:2002年12月1日、テーマ「1万人の挑戦。」
サントリー 1万人の第九
  • 第21回:2003年12月7日、テーマ「手をつなごう。時をつなごう。」
  • 第22回:2004年12月5日、テーマ「クラシック音楽の感動がある。躍動がある。」
  • 第23回:2005年12月4日、テーマ「家族がひとつになれば、きっと世界もひとつになれる。」
  • 第24回:2006年12月3日、テーマ「わたしを歌う。みんなと歌う。」
  • 第25回:2007年12月2日、テーマ「25万人の歌声をつないで、未来に贈ろう。」
  • 第26回:2008年12月7日、テーマ「歌のある星へ」

[編集] 第1回公演の実現まで

このイベントの構想が持ち上がったのは創始前年にあたる1982年(昭和57年)のことである。その構想が持ち上がった背景から第1回公演本番、そしてその後に至るまでの道筋をたどってみることにしてみたい。

背景

高度経済成長に続く安定成長期にあって着実な発展を遂げていた日本経済ではあったが、その一方で首都・東京への一極集中は戦後急速に進み、1980年代に入ってからそれは東京と地方との顕著な格差となって現れていた。このことは経済面のみならず文化・情報面においても同じことであり、めぼしい文化イベントが関西を素通りしてしまうなど、関西は取り残されている格好となっていた。こうしたことに対する危機感を背景にして、1982年4月に「大阪21世紀協会」が設立され、翌年(1983年)策定された“大阪21世紀計画”の中核推進機関としての役割を果たすことになる。この“21世紀計画”の中でメインとなったのは、この計画策定と年を同じくして大阪城の築城400周年を迎えることを記念して大阪市が企画した「大阪築城400年まつり」であり、そのメイン会場と位置づけられていたのが大阪城天守閣から北東約500mの大阪城公園内に当時建設中だった大阪城ホールであった。この新しいアリーナ形式文化施設をめぐり、様々な企画が生まれていた。

主催者サイドの動き…そして企画立案へ

「大阪21世紀協会」が設立された1982年4月、毎日放送社内では事業本部が設置され、当時同社テレビ本部長だった斎藤守慶が事業本部長に就任。

この当時、昭和50年代後半は第2次オイルショックのさなかにあり、放送メディア界は広告収入の低迷にあえいでいた。毎日放送も例外ではなく、テレビスポットの需要低迷に悩まされていた。 そのような状況下ではあったが、「大阪21世紀協会」の音頭取りによる「大阪築城400年まつり」のメイン会場でまだ建設段階にあった大阪城ホールをめぐって、立ち上げられて間もない事業本部のところにも様々な企画が寄せられていた。

それらの中の一つに、ラジオ制作部から出されていた「1万人の大合唱」というものがあり、事業本部長の齋藤がこれに注目していた。

この企画案は「とにかく1万人の人々を集めてブラスバンド付きの大合唱大会を開く」という内容のものであったが、齋藤はそこで、大阪城ホールの完成が年の暮れになること、既に「第九」が日本の年の瀬を彩る国民的行事と化していたことに気づき、そこからベートーヴェンの「第九」を1万人の大合唱付きでやるという“1万人の第九”なるアイディアを思いついた。これがきっかけとなって一視聴者参加型番組としての「1万人の第九」企画立案へとつながったわけだが、この企画立案段階ではこの後記す「大阪築城400年まつり」の一環という位置づけとして捉えていて、いわば1回限りの単発イベントとして進行していた模様である。

そしてこの年(1982年)の終わり近くに大阪21世紀協会に「大阪築城400年まつり」への参加のための企画書を提出、同協会におけるこの企画の採用決定とスポンサー選定を経て、翌年(1983年)の3月に「1万人の第九実行委員会事務局」を設置した。

なお、この企画構想の立案については、1980年頃に企画されながら頓挫してしまった大阪と上海の年末「第九」交歓演奏会構想、ブラスバンドとコーラスを集めて球場で大きなイベントを開くという構想、そして大阪城ホールの完成、という3つの要素が重なったがゆえに誕生したとの見方も存在する。

スポンサー選定

企画立案段階より、本コンサートが前代未聞の巨大規模の「第九」コンサートとなるゆえに、見込まれる予算の額も莫大なものとなることが予想された。そのためスポンサー探しは必須のものであったわけだが、「大阪築城400年まつり」の一環として開く以上、在阪企業であることが望ましいとの考えがあった。そこで、大阪市内の堂島に本拠を構え、自前で音楽賞を制定するなど、音楽文化に対する強い理解を示していることでも有名なサントリーに白羽の矢が立ち、1983年(昭和58年)の年明け早々、冠スポンサーとしての協賛を依頼、これに対してやはり音楽に対する造詣の深かった社長の佐治敬三は、これは文化の薫り高い優れた企画、と直感、申し出を快諾した、と言われている。

指揮者の人選

指揮者の人選については、企画立案段階では大阪フィルを日本有数のオーケストラに育て上げた関西音楽界の重鎮で日本指揮者協会会長の朝比奈隆の起用を想定していた。ところが実行委員会事務局のメンバーからの要請を受ける形で行われた朝比奈と当時大阪フィル理事兼運営委員長だった野口幸助の両者の話し合いの中で、このイベントにはお祭りの要素を含んでいる、として朝比奈には不向きとの考えを示していたという。そして、どちらかといえば大きなステージに向いている山本直純が適している、との結論に達し、朝比奈からの推薦等を経てその山本が指揮台に立つこととなった。ちなみに山本は当時既にテレビ番組・CMへの出演を通じて一般大衆の間でも広く知られる存在となっていた。

朝比奈の推薦を受けて、当時山本の所属していた東京の音楽事務所を訪れた実行委員会事務局のメンバーから指揮者就任の要請の話を耳にした山本は、たまたま当時彼が進行役を務めていたテレビ番組『オーケストラがやってきた』が終わった直後ということもあってか、このイベントをその番組の線に沿ったものと捉えていたそうである。

以上の経緯から、朝比奈を“「1万人の第九」生みの親”として紹介されることもあった。

報道発表…そして合唱団員募集へ

「1万人の第九実行委員会事務局」を設置してから2か月後の5月30日、大阪キャッスルホテルにて記者発表が行われ、主催者側の出席者たちと共に公演の指揮を務める山本や出演予定の宝塚スターの面々が顔を揃えた。この模様は翌日の新聞各紙にて一斉に報じられたが、産経新聞が写真入りで最も大きく取り上げている。

そしてこの記者発表の翌日から合唱団員募集が始まったわけであるが、7月15日の締め切りまでに7千通を超える応募があったと言われている。この合唱団員募集については読売系列のスポーツ紙であるスポーツ報知(報知新聞)が最も詳しく報じている。

このように、大阪キャッスルホテルでの記者発表の模様にしても、そしてその翌日から始まった合唱団員の募集にしても、もっとも大きく取り上げたのが“毎日”系列以外の新聞だったことが興味深い。

このあとレッスンクラスの開講を迎えることになるわけであるが、第1回公演当時のレッスンの受講は、今と若干異なるもので(現在のレッスン受講の仕組みについては後述を参照)、まず参加者募集を行い、その募集結果等をふまえて、レッスン会場を確保してレッスンクラスを設定、参加申込者が自らの経験・スケジュール等から最も都合のいいレッスンクラスの受講者登録を、そのクラスが開講されるレッスン会場に直接出向いて、行うというやり方であった。その他、50人以上の団体参加者を対象に、事務局から指導者を派遣する「出前レッスン」(出張レッスン)というのもあった(第20回まで継続)。

レッスン開始から本番までの道のり

レッスン開始を前にして、7月の終わりに合唱指導者たちを毎日放送のミリカホールに集めて「モデルレッスン」を実施。その狙いは、本番指揮者の山本が大フィル合唱団と高槻市民合唱団を直接指導することで、合唱指導者たちに指導法の統一と要点確認をさせることにあった。

そして8月21日より順次レッスンは開始された。コーラスグループから参加した人は別にして、個人で参加していた人のほとんどは「第九」未経験や合唱自体が未経験の人も多かった。それでいて公演では原語(ドイツ語)でかつ暗譜で歌わねばならないという主催者からの要求もあり、約3か月というレッスン期間の中で、参加者はもちろんのこと、合唱指導者でさえも苦労の連続だったと言われている。そのためもあってか、レッスンクラスによっては最終的に受講者数が5分の1にまで激減したところもあった。それでも所定のレッスンを堪え抜いてきた6千数百人が晴れて本番のステージへと進むことができた。

なお指揮者の山本自身も、このレッスン期間中、計3回レッスン会場を巡回していた。

公演会場における音響の問題

音響面についても苦労の連続だった。公演会場としてアリーナ式体育館を使うという、それまでのクラシック音楽のコンサートの常識からでは到底考えられない巨大な空間での演奏会となったために、特に会場内の残響時間の問題は切実なものだった。

一般にクラシック音楽、それもこのイベントのようにオーケストラを使った演奏に適した残響時間は2秒程度とされている。ただし、この適正な残響時間というのは、会場の容積に左右されるとも言われ、主催者サイドの音響技術陣は、大阪城ホールのような巨大な空間では3秒前後の残響時間で自然な音場が作られると考えていた。工事段階で聞かされた大阪城ホール自体の完成時初期状態における仕様上の残響時間は1.6秒だったが、舞台等の設営と聴衆の入場により、公演時点において予想される残響時間はその仕様上の残響時間を下回る「1秒以下」。ポピュラー系のコンサートならばスピーカーによる増幅で乗り切ることが可能だが、楽器等の生の音を楽しむことが前提のクラシック音楽系統のコンサートではスピーカーの増幅だけでは音が濁ってしまう。加えて巨大空間の中では、オーケストラと合唱団との距離の遠近により、客席にはバラバラに音が届いてしまうことも予想された。

そこで音響技術陣は、電気的音響技術を駆使して(スピーカーから発する音が人の耳に影響に及ぼす際の「ハース効果」を応用したそうである)、巨大空間にあってもクラシック音楽の演奏にふさわしい音環境に極力近づけるべく、毎日放送社内施設を使って実験を重ねるなど、試行錯誤を繰り返していた。それが功を奏したのか、本番の前の週の土曜日(11月26日)、完成したばかりの大阪城ホールにプロのコーラスをステージに立たせて実施した音響テストでは、バラバラに聞こえていた音を見事一つの音にまとめることに成功した。

公演本番

公演会場で行われる日程としては、現在では本番前日にリハーサル(総合リハーサル。ただし一時期、新聞紙上に掲載された合唱団員募集記事の中では「総合レッスン」と紹介されたことがあった)、当日に「ゲネプロ&本番」というパターンとなっているが、第1回公演では本番の前の週の土曜日(11月26日)にリハーサルが行われた。これは公演会場において生じる諸問題の解決等に一定の時間を確保したかったためと言われている。

その第1回公演の本番(12月4日)を迎え、指揮台に立った山本は、その場に居合わせた約7千人の聴衆に対し、私がこっち(観客席側)を向いたら一緒に立ち上がって歌うように、と合唱への参加を呼びかけた。実際に山本が振り向いたのは「第九」終楽章の中の最も有名な“練習番号M”と呼ばれる部分で、6千数百人の合唱団員に約7千人の聴衆をも巻き込んだ“1万余人の大合唱”がここに沸き起こった。

実はこれが「1万人の第九」の基本理念(コンセプト)となっていて、この“練習番号M”での「合唱団+聴衆」による総勢1万余人の大合唱は、途中指揮者交代による数回の中断があったものの、現在も続いている。

第1回公演を終えて

数々の難関を越えながらこの巨大「第九」イベントの第1回公演は成功裡に幕を下ろすことが出来たわけだが、この模様は、日本国内はもとより、アメリカや西ドイツオーストリアでも報じられた。

そして、当初1回限りの単発イベントとして企画されたこのイベントではあったが、これきりにしてほしいという本音が出てきた一方で、例えば舞台演出担当だった平野豊が公演台本の中の司会進行の台詞のところに、21世紀まで続くことを願ってやみません、などといった言葉を書き入れてみたり、終演後の記者会見で協賛社のサントリーの佐治敬三が、記者からの「いつまで続けたいのか」という問いかけに対し、即座に「21世紀まで」と答えるなど、実は継続を望む声が大勢を占めていたともいわれ、また「大阪21世紀協会」の関連行事として行われたということもあって、結局翌年以降の継続が決まり、これによって後に大阪の冬の風物詩として定着していくこととなった。

[編集] 影響

第1回公演の後、今日に至るまでの過程の中で、このイベントが関西圏の文化振興に少なからぬ影響を与えていることも事実である。

これまでにこのイベントに参加してきている多くの人々の間からクラシック音楽の愛好家が次々と生まれ育成され、そしてその中から音楽の道を志したり、オペラ舞台の裏方として働き始めるというケースも見られるようになったといわれている。

さらに職場単位で参加しているところでは、音楽愛好の域にとどまらず、職場環境の改善にもつながったというケースも見られた。

[編集] 合唱団の構成とレッスンについて

このイベントのために一般公募によって毎年結成される合唱団には「1万人の第九特別合唱団」という名称が与えられている。

合唱団員の募集は例年6月第1月曜日から開始される。

募集形態については、第20回公演までは先着順受付であったが、第17回公演で指揮者が山本直純から佐渡裕にバトンタッチして以降、以前からの合唱参加者(経験者)に加え、当時でも相当な数にのぼっていた佐渡ファンも合唱参加申込に殺到するようになり、受付開始から数日の間に満員札止めになるという事象が見られるようになった(特に女声パート、中でもアルトでその傾向が顕著に現れ、受付開始日当日のうちに満員札止めとなるケースもあった)。このため、第21回公演以降は、一定の受付期間を設けて申込を受け付けた上で抽選を実施、当選者に参加権利を与えるという、いわゆる“抽選制”に変更となった。ちなみに第24回公演分の応募総数は14,751名だった。

当選により参加権利を得た申込者は、あらかじめ主催者側が用意した所定のレッスンへの出席が求められる。ただし団体参加者に限り、一定の要件を満たせば所定のレッスン(後述の「佐渡裕特別レッスン」を除く)への出席を不要とすることができる制度がある。第20回公演以前はこれに加えて遠隔地で活動している団体を対象にした「出張レッスン」の制度もあった。

現在レッスンクラスは、大阪市内を中心に、近畿圏内の大阪・兵庫・京都・滋賀・和歌山の各府県、および東京都内に設置されている。このうち大阪市内設置分については初心者向けの「12回クラス」(第23回公演分までの呼称「初心者クラス」)と経験者向けの「6回クラス」(第23回公演分までの呼称「経験者クラス」)の2カテゴリーが設置され、第24回公演分では合計17クラス設置されている。また大阪市外設置分については「12回クラス」(第23回公演分までの呼称「初心者・経験者合同クラス」。第22回までは10回であった)が府県毎に最低1クラス設置されているが、第24回公演分からは東京都内設置分についても「12回クラス」と「6回クラス」の併存体制に移行している。

ところで、近畿圏内のうち奈良県内だけは現在レッスンクラスの設置がない。かつては地元合唱団(奈良県民第九合唱の会)への委託の形で「初心者クラス」が1クラス設置されていたが、この地元合唱団が解散したこと伴いクラス自体が消滅してしまった。現在では代わりとして「東大阪」クラス(東大阪市内に設置)が設置されている。なおこの奈良県内設置クラスについては、委託先である地元合唱団が12月下旬頃に独自に開いていた「第九」演奏会への出演義務も課されるという特別規定が存在していた(そのためこのクラスに限り、通常の参加費等に加えて地元合唱団が開く「第九」公演に関連する費用も負担する必要が生じていた)。

レッスンの受講は、応募受付期間中に主催者側が用意したレッスンクラス一覧の中から受講を希望するレッスンクラスを参加申込時に第3希望まで申告、当選通知に記載された配属クラスにて受講することになる。そして定められた回数(許容欠席回数)を超えて欠席すると出演資格を失う。さらに第21回公演からは遅刻・早退2回で欠席1回とする規定も追加されている。

また、指揮者が佐渡に交代して以降は、通常のレッスンに加えて、1回の「佐渡裕特別レッスン」(合唱参加者の間では「佐渡練」と呼ばれている)が別途設けられている。これは11月下旬頃に公演指揮者の佐渡自らが合唱参加者に直接レッスンを行うというもので、通常のレッスンと同様に出席が義務とされている。

通常レッスンに於ける「許容欠席回数」について(出演に際して)

現在は「12回クラス」で最高2回、「6回クラス」で1回限りとなっている。しかし第24回公演までは「12回クラス」(旧”初心者クラス”)で最高3回、「6回クラス」(旧”経験者クラス”)で最高2回となっていた。

[編集] 1万人の第九ユースオーケストラ

第20回以降は、関西に所在する音楽大学の学生から選抜されたメンバーによる構成される「1万人の第九ユースオーケストラ」が管弦楽を担当している。人数は、例年、120人前後。これは佐渡の意向によるもので、教導(アドバイザー)役として国内外のプロオーケストラのメンバーが加わる。

第20回から第22回までは、関西の音楽大学の学生から選抜したメンバーに加え、日本国内のプロ奏者数名と、ウィーンから招請したウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ならびにウィーン交響楽団の奏者計5名を加えていた(ただし、ウィーンからの5名は、いずれの回においても、第1部の演奏には参加しなかった)。2005年に佐渡が監督を務める兵庫芸術文化センター管弦楽団が誕生したことにあわせ、同年に開催された第23回および翌年の第24回は、兵庫芸術文化センター管弦楽団の有志が参加するようになった(この回から、ウィーンからの奏者招請は廃止された)。第25回では兵庫芸術文化センター管弦楽団のみで構成され、第26回は再び第22回以前の構成に戻っている(つまり、兵庫芸術文化センター管弦楽団からの参加はなかった)。

[編集] 放送

コンサートの模様は、例年、TBSテレビ(TBS)系列5局(JNN基幹局ネット)による全国ネット〔毎日放送(MBS)(制作局)<近畿広域圏・徳島> - 北海道放送(HBC)<北海道> - TBS<関東広域圏> - 中部日本放送(CBC)<中京広域圏>- RKB毎日放送(RKB)<福岡・佐賀>〕にてテレビ放映されている。当初は毎年12月の第二土曜日だったが、ここ数年は毎年12月23日に固定されている。

その一方で、最近では、このテレビ放映とは別に、コンサートの模様をライヴ収録したソフト類(CDDVDVHSビデオテープ)が販売されている(ただし、市場では販売されず、毎年、毎日放送が期間を定めて予約を受け付け、完成後に代引発送を行う方法での販売のみである)。

放映される内容については、テレビ放映分ではゲスト出演者に重点を置いたドキュメンタリー形式(1時間弱)となっているのに対し、予約販売される映像ソフト類ではコンサートそのものを原則としてそのまま放映している(回によってはこれにレッスン風景等をちりばめたりしている。また、著作権上の問題等から、第1部公演で演奏された一部の曲が収録されない場合もある)。

ところで、このコンサート自体、実はテレビ放映を前提に作られているともいわれており、第1回公演の際、限られた放送時間枠の中でどこに焦点を当てて制作するのかを巡って議論が重ねられ、結局コンサートの本質を追い求める形で番組制作することで決着がついたという経緯もあって、テレビ放映においては前記のドキュメンタリー形式での制作・放映が今日に至るまでの過程の中で確立したと考えることが出来る。[要出典]

[編集] 交流実績

[編集] 国内

日本国内では、主催者側の公式記録として、他地域の「第九」イベントに参加者有志を派遣した事実は存在しない。ただ各参加経験者が任意に東京の「5000人の第九」に遠征する等の動きは散見される(今は亡き名古屋の「ハート・ハーモニー合唱団」がナゴヤドームで実施したコンサートにも相当数の参加経験者が遠征した模様である)。また、参加経験者と指導者のつながりのなかで、新たに合唱団を結成した動きもある(イベント合唱団など)。

その代わり、第2回公演以降、回によるが、国内各地と中継回線を結んで会場と同時進行で公演を行った実例がある。これは放送局主催の「第九」イベントならではの取り組みということができよう。

これまでに選定されてきた中継先としては、「第九」日本初演の地として知られている徳島県鳴門市をはじめ、岩手県遠野函館鹿児島神戸などがある。

ただし、この“2元中継”による同時進行の取り組みについては、指揮者が佐渡に交代して以降、行われていない。

逆の動きとして、東京の国技館すみだ第九を歌う会が、第9・16・17各回公演と第19回公演以降の毎回、「5000人の第九」参加者有志を派遣してきている他、広島の中国放送(RCC)も第24回公演で「第九ひろしま」参加者有志を派遣してきている。

[編集] 海外

第2回公演の後、第九初演の地であるウィーンで「第九」を歌うツアーを合唱指導者の櫻井武雄と清原浩斗が中心になって企画、参加者有志を引き連れてウィーンに乗り込み、共演した現地のオーケストラの楽団員たちの舌を巻かせるほどの見事な歌唱を披露した。これが縁となり、第3回公演ではウィーン文化局の当時の局長がステージでウィーン市長からのメッセージを披露、これを受けて主催者サイドはウィーン市民による合唱団の参加をウィーン文化局とドイツの公共放送ZDF(第2ドイツテレビ)に対して要望、第6回公演にてウィーンから現地でオーディションにより組織されたウィーン市民の合唱団が来日してゲスト参加することで実現した。そして以後、第7回はドイツのボン、第8回はベルリン、第13回はオーストラリアブリスベン、そして第15回は再びウィーンから、それぞれ合唱団を迎え入れている(このうち第15回公演のみ少年合唱団(ウィーン・シューベルト少年合唱団)で、それ以外は一般の合唱団である)。また、特定の国・地域からではないが、アジアの留学生で別途合唱団を作って迎え入れたこともあった(第14回公演)。

なお、指揮者が佐渡に代わって以降は、合唱団としての交流は見られないが、佐渡自身と交流のある海外の演奏家を、ゲストとして呼んだり(第22回のミッシャ・マイスキー)、第九演奏のメンバーとしたり(第20回から第22回までの1万人の第九ユースオーケストラにおけるウィーンからの奏者招請や、第23回以降のバリトンソリストキュウ・ウォン・ハンなど)、という形での海外交流になっている。

[編集] その他

[編集] 楽譜

合唱団員向けには特別装丁による合唱用楽譜が用意されているが、これは市販されている『第九楽譜 歓喜の歌 ドイツ語版』(ショパン)をベースにして装丁されているものである。現在では実費にてレッスン会場にて販売されているが、かつては無料で配布されていた。そしてその無料配布時代には回毎に表紙を変えていた(表紙に西暦年の下2桁も刷り込まれていた)。

オーケストラ向けについては、創始当初は楽団員各自が持参したパート譜に指揮者からの指示などを書き込むといった従来の方法を採っていたのだが、当時でも国内の年末「第九」演奏は相当数に上っており、演奏回毎に書き込みしたり消したりという手間の問題等もあって、第2回公演以降は「1万人の第九」用に事務局にてパート譜を用意するようになった。

[編集] 参加費など

現在では合唱参加に際して一定の費用負担が発生しているのだが、かつては無料で合唱に参加できた。しかも、最初数年間は、参加費無料に加えて、記念品(特製グラスなど毎年異なる)の無料進呈まで行われていた。

なお、近年も、子どもたちに対してのみ無料進呈がある(協賛者であるサントリーの「キッズ・ドリーム・プロジェクト」の一環)。ただし、第22回については、総合リハーサル参加者全員に、サントリーが宣伝としてフラバン茶350mLを進呈した。

[編集] ギネスブックへの登録申請

創始当時、前代未聞の合唱団規模を誇るコンサートとなったこともあり、ギネスブックへの登録を申請する動きも見られたが、現在に至るまで、正式に登録されたという話はまだ伝わっていない。

[編集] 参考文献

  • 『ドキュメンタリー「1万人の第九」~響け!歓喜の歌声』大谷幸三 著(TBSブリタニカ
  • 『<第九>と日本人』鈴木淑弘 著(春秋社
  • 『5000人の第九物語』国技館すみだ第九を歌う会 編(隅田川文庫)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク