岡田彰布

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岡田 彰布
阪神タイガース 一軍監督 #80
生田神社豆まき神事にて(2019年2月3日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市中央区
生年月日 (1957-11-25) 1957年11月25日(66歳)
身長
体重
175 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手三塁手一塁手外野手
プロ入り 1979年 ドラフト1位
初出場 1980年4月11日
最終出場 1995年10月2日(公式戦最後)
1996年3月26日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • オリックス・ブルーウェーブ (1996 - 1997)
  • 阪神タイガース (1998 - 2008)
  • オリックス・バファローズ (2010 - 2012)
  • 阪神タイガース (2023 - )

岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府大阪市中央区出身の元プロ野球選手内野手外野手、右投右打)、監督コーチ阪神タイガース第30代監督、オリックス・バファローズ第25代監督を務め、2023年より、再び阪神タイガースの監督を務める。(詳細後述)

現在はデイリースポーツ野球評論家読売テレビ朝日放送東日本放送(本数契約として)の野球解説者を務めており、2023年シーズンより阪神タイガースの第35代監督を務める。

経歴

幼少期からタイガースと共に

大阪市中央区玉造で「大阪紙工所」という町工場を経営していた父親は阪神の有力後援者で、村山実藤本勝巳らと親交があったことから幼少時よりタイガースと縁深く育った[1]。東大阪市にある私立朝陽ヶ丘幼稚園に入園後には、当時のタイガースの正三塁手だった三宅秀史とキャッチボールし、それ以来、三宅に憧れを抱いたという[1]。岡田が後にタイガースへ入団し、背番号16を希望したのはかつて三宅が着用していた番号だったからである[2]大阪市立愛日小学校5年生で南海ホークスが運営していた少年野球チーム「リトルホークス」に入団、本格的に野球を始めた[3]。父親の町工場においても草野球チームを結成し、岡田自身も村山が着用している背番号11を付けてマウンドに上がった。また、阪神甲子園球場へタイガースの試合を見に行くことがあったが、観戦する場所はネット裏やタイガースファンの多い一塁側ではなく敵側ベンチのある三塁側で、その理由として読売ジャイアンツ長嶋茂雄を一番近くで見ることが出来る上、そこから野次を飛ばすためだったという[4]

1972年明星中学校3年生時に中学野球大阪府大会で優勝。1973年3月、村山実の引退試合が行われたが、最後のマウンドへ上がる村山のキャッチボールの相手を試合前に務めた[1][5]。同年4月、北陽高校に進学。2学年上には有田二三男(のち近鉄)と慶元秀章(のち近畿大学~クラウンライター/西武~近鉄)がいた。同年夏の第55回全国高等学校野球選手権大会に7番、あるいは2番左翼手として出場。3回戦(対宮崎県立高鍋高等学校戦)では有田がノーヒットノーランを達成。準々決勝で愛媛県立今治西高等学校と対し、2対6で敗れた。この大会で岡田は3試合で9打数3安打、打率.333を記録している[6]。3年生時の1975年にはエース兼4番打者として予選決勝まで進出するも、興國高等学校に0対2で敗れ、甲子園出場は果たせなかった。この頃、読売ジャイアンツからドラフト指名の話を受けたことがあったという[7]

岡田はプロ入りせずに早稲田大学野球部セレクションを受験、15打数14安打14本塁打(自著では10スイング中、7スイングがフェンス超えだったという[8])という驚異的な打撃力を見せて一発合格を果たす。2学年上に難波秀哉山倉和博とのバッテリーがいた。東京六大学野球リーグでは1976年秋季リーグから「7番・左翼手」でレギュラーとなり、江川卓法政大学)から3安打を放って注目を集めた。2年生からはかつて憧れていた三宅と同じ三塁手として5番を任され、1978年秋季リーグでは三冠王に輝き、4年ぶりのリーグ優勝を果たす。1979年春季リーグでは主将としてリーグ連覇に貢献し、同年の全日本大学野球選手権でも決勝に進むが、香坂英典高木豊を擁する中央大学に敗れ、準優勝に終わる。第7回・第8回日米大学野球選手権大会にも出場し、全日本の4番打者として全試合に出場した。大学同期にはエースの向田佳元捕手有賀佳弘外野手島貫省一がいた。

岡田のリーグ通算成績は88試合で309打数117安打、20本塁打、81打点・打率.379で、打点と打率はリーグ記録として現在も破られていない。また、1977年秋季から5季連続でベストナインに選出されたほか、1978年春季・対東京大学2回戦では史上2人目のサイクル安打を達成するなど、岡田は大学野球の花形選手となった。なお、岡田は4年間で指定取得単位が不足していたため、早稲田大学中退となる。

阪神入団~ブレイザーとの確執

上記のように、東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したためにプロ野球各球団の岡田獲得競争は一気に過熱、ドラフト会議の目玉となった。岡田は10月29日のプロ入り表明会見の席において希望球団を問われ、「(地元の)阪神だったら最高ですが、阪急(ブレーブス)などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名時に考えてみる。しかし、フロントがしっかりして優勝を争える球団なら行きたい[9]」「巨人西武も優勝を狙えるし、良いですね[10]」と答えた。しかし、後年のインタビューでは「僕が一人っ子だったことで母が『関西に帰ってきて欲しい』と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・近鉄南海という関西の球団ならどこでもよかった」と語っている[11]。ドラフトでは当時史上最多となる6球団が岡田を1位指名したが[12]、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得、岡田の阪神入団が決まった[13]。契約金6,000万円、年俸480万円[14][15]

1980年春季キャンプで監督のドン・ブレイザーは「オカダはまだ新人。じっくり鍛えたほうが良い」という考えで、一塁や外野の練習をさせていた[16]。岡田はブレイザーとの初対面の際に、通訳兼コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーでは最初から試合に起用することは無い」と告げられたが、岡田は「そんなん関係ないやん」という反骨心が芽生えたと著書に記している[17]。しかし当時の野手陣には三塁手に「ミスター・タイガース」掛布雅之、遊撃手として岡田が入団する前年に太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズから加入して、後に岡田の後任で阪神監督を務めることになる真弓明信、二塁手に中村勝広榊原良行と、ヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトン、一塁手に真弓が加入前まで遊撃手だった藤田平がおり、岡田の入る場所は無かった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は「なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか」と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという[18][19][20]

1980年の先発内野手は、一塁手ヒルトン、二塁手加藤博一、三塁手掛布雅之、遊撃手真弓明信の布陣でスタートした。ヒルトンはオープン戦で特大本塁打を放ったが[21]シーズン開幕直後から打撃不振に陥ったものの守備面が評価されて起用され続け、その後、掛布が負傷離脱した4月19日、20日も岡田の起用が見合わせられたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部はヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、更には妊娠中の妻が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが激しくなった。4月22日の対大洋戦前に小津正次郎球団社長がブレイザー監督と2時間会談して説得し、その日以降は岡田が三塁手で起用された[22]。ヒルトンは18試合出場、打率.197、本塁打0本の不振から抜けられずに5月10日に解雇された。阪神球団は新たにブルース・ボウクレア外野手を獲得したが、これに反対するブレイザーと球団の関係が極度に悪化し、5月15日、球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた[23][24][25]。掛布が復帰した5月17日以降は二塁手で起用され新人王に繋がったが、自らの力でチャンスを掴みたかったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールが湧いたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。また、後年、ブレイザーに親しい人物からブレイザーの「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」と著書に記している[26]

この年、オールスターゲームの第1戦において22歳7か月で代打本塁打を放ったが[27]、これは2015年の第2戦で19歳11か月だった森友哉が代打本塁打を放つまでオールスターでの代打本塁打の最年少記録だった[28]

ブレイザー監督とヒルトン退団の遠因となったこの年の岡田のポジションは、掛布雅之が故障したことで三塁手が最も多く[29]、二塁手、一塁手でも出場している。打順は前半の8番から次第に順番が繰り上がり、終盤は5番で起用された。

1981年には初めて全130試合に出場し、20本塁打を残す。ポジションは二塁手に固定された[30]。去年のルーキーイヤーから2年連続2桁本塁打を記録したが、これは後に佐藤輝明がルーキーイヤーの2021年、2022年に連続2桁本塁打を記録するまでは誰も出せなかった球団記録だった[31]

1982年安藤統男監督が就任し、初の打率3割を記録した。

1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月10日の対広島戦で右大腿二頭筋を断裂し、残りのシーズンを棒に振る[32][33]。以後、脚部の負傷に悩まされることになる[34]。岡田が離脱した二塁手に遊撃手だった真弓明信が入り、空いた遊撃手は平田勝男が入った。

1984年、5月19日対広島戦から先発に復帰した。当初二塁手を中心にランディ・バースの帰国時などに時折一塁手も守るという形だったが、後半戦は主に右翼手で起用された[35]。打撃は打率.297、本塁打15本、51打点と、故障明けとしては悪くない成績を残している。

1985年吉田義男監督が就任し、真弓と入れ替わり、再び二塁手に戻る[36]。シーズンは5番を通して活躍した[37]。4月17日、甲子園での対巨人戦で、バース・掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを打った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは大きく、「ヒットで良いという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対、スライダーしかないな!」と後に振り返っている。また、バックスクリーン3連発前日の対巨人戦でも、1-2で迎えた4回裏二死、四球で出塁した岡田は、佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に一塁から一気に本塁生還し、大量7点の猛攻へと繋げる活躍を見せている。監督の吉田義男も「あの岡田の全力疾走が大きかった」と評価した。

同年8月12日、当時の球団社長だった中埜肇日本航空123便墜落事故で死亡するという悲劇が起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きかったという。8月は打率.429・10本塁打・31打点の活躍でプロ入り初の月間MVPを受賞。更に9月15日の甲子園での対中日戦ではサヨナラ2点本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打を放ち、2試合連続サヨナラ打を記録する。最終的に選手会長兼5番打者として、バースに次ぐリーグ2位の打率.342・リーグ4位の35本塁打・リーグ5位の101打点という自己最高の好成績を残し、真弓・バース・掛布らとともに球団初の日本一に貢献した。

1986年は前年と同じく5番二塁手で開幕戦に先発出場すると、4月後半に掛布が故障離脱したのに伴い4番打者に抜擢された。5月半ばに掛布が復帰すると5番に戻るが、この年の掛布は再離脱を繰り返したため8月末以降はシーズン終了まで4番打者を務めた。9月3日に父を亡くしたが、翌9月4日の対大洋戦に出場して本塁打を放った[38]。前年よりは数字を落としたが、打率.268、本塁打26本、打点70と主軸打者に相応しい成績を残した。

1987年は打率2割5分台・本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるが、その後は3年連続20本塁打を記録した。

1988年村山実監督が就任し、開幕時は5番二塁手で、5月以降は4番二塁手で起用された。打率.267、本塁打23本、打点72と打撃成績が復調した。

1989年、掛布の引退に伴い、大学時代に守っていた三塁手にコンバートされた。6月25日の甲子園での対巨人戦、1-4で迎えた8回裏二死満塁で、ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の巨人監督・藤田元司の目の前で、敗戦投手だった村山実の仇討ちを果たした。イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメイトのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞した。

1990年から中村勝広監督が就任し、八木裕が遊撃手から三塁手にコンバートされ、岡田は二塁手に戻った。

1991年は規定打席到達では自己ワーストの打率、安打、打点に終わる。

1992年日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り、一塁にコンバートされる。シーズンでは新庄剛志亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振に陥り、先発出場は激減。4月25日の試合では代打に亀山を送られた場面もあった[39]。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた[40]

1993年、再び外野手として起用されるようになるが出場機会は前年よりさらに少なく、「体力の衰え」という理由で阪神を自由契約になる[41]

オリックス時代

1994年のキャンプイン直前に仰木彬が率いるオリックス・ブルーウェーブに入団。その会見では「これからも阪神ファンであり続ける…」と涙ながらにタイガースとの別れを惜しんだ。その直前、週刊誌上で不倫スキャンダルを暴露され、そのまま現役引退の危機に晒されるが、調査によってスキャンダル自体が自称「愛人」の女が金銭目当てにでっち上げた作り話と判明、さらには岡田が恐喝され200万円を脅し取られる被害を受けていたことが明らかとなり、警察の強制捜査に発展し、最終的にはこの女が恐喝容疑で逮捕されて一件落着となった。この際には、豊富な技術と経験を持つ岡田を諦めきれないオリックスが、リース会社が本業であることから社内に豊富なノウハウを持つ調査要員を有しており、これを動員して真相の端緒を掴み、後に恐喝事件としての刑事捜査に繋がっている[42]

1994年の春のキャンプ中、オリックスに89年1位で入団しながら伸び悩んだパンチ佐藤フジテレビプロ野球ニュース」のカメラの前で「今年、復活に賭ける男」と宣言。この年阪神から移籍した岡田を見つけると「岡田さん、一緒に写って下さい。一緒にカメラの前で、今年復活にかける、と言いましょう!」と力強く誘ったが、岡田は引きつった笑みを見せながらあからさまに嫌がり「復活って、俺はそうやが、お前、ええ時あったんか」と返した。なおも「いや、これでもお立ち台に立ったこともあるんです。今年にとにかく賭けてるんです。一緒に写りましょう!」と食い下がったが、一流選手としてのプライドが高いことで有名な岡田が呆れ返り「復活って、お前、何もないやないか」「一緒にすんなよ」とあくまで拒否。パンチにとって吉兆とはいえない現役最後のシーズンの始まりであった。オープン戦では打席に立ったときに阪神ファンからも応援される光景が観られた。

1995年、出場機会も減り、10年ぶりの優勝をオリックスで経験したのを花道に、現役引退した。日本シリーズでの出場機会はなかった。

1996年3月26日、古巣・阪神とのオープン戦が引退試合となり、岡田は試合終了後に阪神・オリックス両選手から胴上げされてグラウンドを去った[43]

現役中はスポーツ用品メーカーであるSSKのアドバイザリースタッフを務めた[44]

コーチ時代

1996年、オリックス二軍助監督兼打撃コーチに就任。

1998年、二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰。またこの頃、自動車運転免許を取得。

1999年には二軍監督兼打撃コーチとなる。ここで育成していた選手たちが後に主力選手に成長することになる。

2000年から2002年までは二軍監督(専任)。1999年と2002年にはファーム日本選手権で優勝し、2度、日本一となった。後の一軍監督退任時に思い出として「二軍で若手が育っていくのが楽しみで、それが(一軍監督時よりも)思い出に残る」と語っている。

2003年に一軍内野守備走塁コーチへ配置転換。三塁ベースコーチを担当した。三塁ベースコーチとしての状況判断は正確無比であった[45]大西崇之は現役時代に「うまいと思った三塁コーチ」について、岡田の名を挙げた[46]

第1次阪神監督時代

2003年オフ、星野仙一が健康問題のために監督を勇退したのを受け、後任として一軍監督に就任。球団史上初の大阪府出身の監督となった[1]。背番号は80 。就任時の挨拶は「期待してもらって結構です」。監督初年度の2004年井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加え伊良部秀輝のセットポジションの欠点、ジョージ・アリアスの好不調の波の激しさ、マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、さらにジェロッド・リガンの負傷やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムス安藤優也の不在による戦力低下が響いて4位に終わった。

2005年9月7日ナゴヤドーム、JFKといわれる投手起用を行うようになる[47]。中日との2ゲーム差での首位決戦において、9回表の微妙な本塁クロスプレーでアウトの判定が伏線になり(本塁憤死した走者は奇しくも中村豊)、その直後の9回裏本塁セーフの判定に激昂し、選手全員を一時引き揚げさせ抗議。その後試合は再開するも、赤星憲広の落球で一打サヨナラ負けのピンチになる。ここで監督就任後初めてマウンドへ向かい、クローザー久保田智之にかけた言葉は「もう打たれろ! 打たれてもお前は悪ないからな。オレが責任持つからもうムチャクチャほったれ(投げたれ)!」というものだった。久保田は後続の渡邉博幸タイロン・ウッズを連続三振で抑え、11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制した。

この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、たとえこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日監督の落合博満に「今日は監督で負けた」とまで言わしめた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ね、亡父の誕生日に当たる9月29日、甲子園球場での対巨人戦でリーグ優勝を達成した。

しかし、日本シリーズ千葉ロッテマリーンズに4戦4敗のストレート負けとなった。また、その際にリードされているからという理由でJFKジェフ・ウィリアムス藤川球児、久保田智之)を起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。

11月19日、甲子園球場で開催されたファン感謝デーのイベント「夢のOB交流戦」という紅白戦で、岡田は白組のプレイングマネージャーとして出場。試合の最後に「代打、オレ」で打席に立ち、サヨナラ2点本塁打を打ちMVPに輝いた。

2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動が評価され、12月12日にインド政府から「阪神の最後まで諦めない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。

2007年6月8日の対オリックス戦(甲子園球場)の8回裏、打者鳥谷敬の守備妨害を巡り球審谷博に抗議を行った際に谷の胸を突き飛ばし、現役・コーチ及び監督生活を通じて初めての退場処分を受ける。8月16日の対中日戦(京セラドーム)では、8回裏に一塁走者が二塁でアウトになったことをめぐり二塁塁審井野修に抗議して胸を突き飛ばしたため、2度目の退場となった。なお、同じシーズン中に2度退場になった監督は他にも複数いるが、阪神では岡田が初であり、セ・リーグ日本人監督でも初めてであった[48]。なお余談ではあるがその2人の審判はのちに中日落合博満監督を退場処分としている。

2008年、チームは開幕からスタートダッシュに成功し首位を独走していたが、北京オリンピック野球日本代表に主力である新井貴浩矢野輝弘・藤川球児を派遣して以後、チーム状態が空転し始め、打撃陣の不振や故障者の続出などで、一時は13ゲーム差をつけていた巨人に終盤で逆転されペナントレース優勝を逃した。この責任を取る形でこのシーズン限りでの辞任を発表した。クライマックスシリーズ第1ステージ最終戦で敗退したことでこのシリーズが最後の指揮となった。試合終了後、選手会長の赤星憲広の発案により、選手・コーチから監督を務めた年数と同じ5回胴上げされた。

阪神監督退任後

2008年11月、デイリースポーツ新聞社と客員野球評論家として契約を結び、自伝コラムを年末にかけて執筆。2009年2月1日の朝日放送虎バン」で解説者としてデビューし、日本テレビ・読売テレビ・朝日放送・サンテレビスカイ・Aを中心に在阪局でプロ野球解説者として出演した。

4月12日の巨人対阪神戦(東京ドーム)での日本テレビによる中継に招かれ、解説者としての全国デビューも果たした。特定の局の専属解説者になるのは「どこかの専属で行動を縛られるのは避けたい」という岡田本人の意思もあり、見送られた。

評論家活動とは別に、2009年シーズン開幕前に岡田は日本プロ野球機構から「調査委員会」の委員として任命され、8月にメンバーの熊﨑勝彦(元・東京地検特捜部長)、石塚久(弁護士)と顔を合わせた。[49]通常の任期は2年だが、後述のオリックス監督就任に伴い1年の任期を残して退任している。

オリックス監督時代

オリックス監督時代
(2011年8月6日 QVCマリンフィールドにて

2009年10月13日、翌シーズンからオリックス・バファローズの監督就任が発表された。契約内容は3年契約の1億円、背番号は阪神監督時代と同じ80。チーム編成、広報面などで全権を任されており実質GM兼任となる[50]。岡田自身は10月14日に就任記者会見を行った。これにより岡田は旧・ブルーウェーブ時代の球団OBとして初のオリックス・バファローズ監督となった。阪急・オリックス球団におけるOB監督は1980年シーズンの梶本隆夫以来実に30年ぶりである。

2010年3月31日、対北海道日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)で、T-岡田が勝ち越し本塁打を放ち勝利。阪神監督時代から通算400勝目を達成した。6月8日に投手コーチである星野伸之が休養に入り、後任には小林宏が就任したが小林の経験の少なさから、投手起用についても自身が決定することを明言し、投手コーチも兼任することとなった[51]。このシーズンは交流戦で優勝を飾り、T-岡田や投手の金子千尋の躍進があったが、後半に入って敗戦が増え、最終的には5位に終わった。

2011年シーズン序盤はチーム打率が2割を切るなどの極度の打撃不振に陥り一時は最下位となった。交流戦に入ると調子を取り戻し15勝7敗2分の2位と躍進したが、その後は大型連勝と連敗を繰り返し、好不調の波が激しかった。7月2日・3日に福岡ソフトバンクホークスに2日連続のサヨナラ勝ち、そして5日には東北楽天ゴールデンイーグルスにもサヨナラ勝ちを収め、阪神監督時代の2008年9月9日 - 11日に東京ヤクルトスワローズ相手に3試合連続サヨナラ勝ちして以来、2回目の3試合連続サヨナラ勝ちを達成したプロ野球史上唯一の監督となり、8月7日の対千葉ロッテマリーンズ戦で監督通算500勝を達成した。しかし、引き分けでもクライマックスシリーズ(CS)進出だった最終戦に敗れて1毛差で埼玉西武ライオンズに3位を奪われ、チームとして3年ぶりのCS進出・Aクラスを逃した。また、この年は不振に見舞われたキャプテンの後藤光尊アーロム・バルディリス、さらに中盤には4番のT-岡田といった主力選手を次々に二軍落ちさせるなど、阪神監督時代では余り見られなかった一軍と二軍との選手入れ替えを頻繁に行う采配が見受けられた。自身の幕のなかったポストシーズンには巨人の内紛について評論、サッカー日本代表が野球の陰に隠れてしまうことを憂う一面を見せた[52]

2012年は前年オフに大型補強をおこない、「優勝」を口にするほどであった[53]。しかしシーズンでは主力選手の相次ぐ故障離脱もあり開幕早々から低迷。4月に1度だけ勝率を5割に戻したことはあったものの貯金を作ることは1度もできず、パ・リーグでいち早くBクラスが確定。さらに3年契約が期間満了を迎えることを受け、9月22日に球団から契約を更新しないことを告げられ、シーズン終了をもって正式に退任することが発表された[54]。退任発表時、球団側はシーズン終了まで指揮を執らせる方針であったが、シーズン最下位が確定した翌日の9月25日、「来シーズンを見据えたスタートをいち早く切りたい」という理由で方針転換[55]。ヘッドコーチの高代延博とともに休養することを発表した[56]

オリックス監督退任後

2013年からは、デイリースポーツの野球評論家に復帰。同紙では1月から、自身の経験を基に球界の旬の話題などを独特の見解で定義付けるコラム「岡田辞典」[57]の連載を開始した。また、「そらそうよ」(『それはそうですよ』という意味の関西弁)をよく口にしていることを踏まえて、「阪神元監督OKADA流野球論 岡田彰布のそらそうよ」という連載コラムを『週刊ベースボール』で担当。朝日放送読売テレビTigers-aiを中心にプロ野球中継での解説も再開している(ラジオに関してはABCの事実上専属出演である)。

2017年からは、大学の後輩にあたる江尻慎太郎と共に、東日本放送東北楽天ゴールデンイーグルスの公式戦中継やスポーツ番組で解説を務めていた。

第2次阪神監督時代

2022年シーズン中より、同年限りでの退任を表明していた矢野燿大の後任となる阪神監督候補として名前が報じられるようになる[58]。9月下旬に阪神球団がLINEでマスコミ各社に「報道規制」を依頼したとする報道もなされたが[59]、9月27日にはサンケイスポーツが「岡田が次期監督に内定」と報じる事態となった[60]

最終的に、10月15日に阪神監督への就任が正式に発表された[61]。 

岡田の阪神監督就任により、2023年セ・リーグ監督は、全員西日本出身者となる。

選手としての特徴

打撃

相手投手の配球を読んで打つ打撃スタイルであり、現役時代の大半は初球打ちをしなかったという[62]。これは「初球は何がくるかわからない。2ストライク後なら真っすぐか決め球が来る。狙い球を絞りやすい」という考えのものであり、2ストライクに追い込まれてから打つことを得意としていた[62]。また、選球眼に長けており、三振が少なく四球の多い打者であった[62]。プロ入り後はタイトル獲得経験はないものの、打率・打点・本塁打の全てで結果を残せる選手であった[63]。また、真面目な人柄から自らの成績よりも、チーム状況に応じた打撃を心掛けていた[63]

守備

内野守備の名手であり、リーグ優勝・日本一に輝いた1985年には二塁手部門でダイヤモンドグラブ賞を受賞している[63]

監督として

監督としては堅実を重視するスタンスである。岡田は著書で「こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる」と記している[64]

藤田平からも認められており、「チームを率いる能力、素質を持ち合わせている。」と評価している[65]

メジャーリーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスに近い考え方をベースにしたチーム作りを理想とする。岡田は著書で、セイバーメトリクスに関する本を読んだことはなく、文献や理論の存在を知ったのもあとからであって、自分の実践した野球が「少し、セイバーメトリクスを使った野球に重なっていた」と記し、「セイバーメトリクスの戦略を用いている」という巷間の噂は「正しく言えば、それは間違いである」としている[66]

阪神監督就任当時少なかったバントが2008年にはリーグトップとなった。これについて「考えが変わったわけではなく、チームの陣容が変わり、チームのストロングポイントを最大限に生かせる確率を追究した結果」と説明している[67]。バントについて基本的には「アウトを何で一つやるのか」という思いが根底にあるとしながらも、状況に応じた必要性は否定していない。ただし、スクイズプレイについては打者に与えるプレッシャーの高さからサインを出さない[68]。2011年8月12日の対西武戦でのスクイズが、阪神時代を含め監督就任953試合目で初めての成功事例になった[69]

選手のコンディションや相手チームとの相性で打順を組み替えたり、先発ローテーションを崩したりすることは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。岡田は「ベンチで何もしないで、言葉も出さず、気がついたら1対0で勝っていた、そういうゲームができるチームの監督が理想」と記している[70]。2004年に金本知憲を4番に据えてから好不調にかかわらず5年間一度も動かさなかった[71]。これについては、金本が「休まず試合に出るチームの柱」という岡田の考える4番打者にふさわしい選手だからであるとしている[72]。また投手分業のJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果である。

ピンチに陥った投手などに対して、他の監督では自らマウンドに行く光景がしばしば見られるが、岡田の場合は阪神では2005年9月7日の対中日戦・2006年6月1日の対楽天戦の久保田、2006年8月31日の対中日戦・2008年7月18日の対中日戦の藤川、オリックスでは2010年8月22日の対ロッテ戦と、2011年6月15日対横浜戦・2012年7月10日の対楽天戦の岸田護に対しての7度だけである。このうちサヨナラ負けを喫したのは7度目の試合のみである(6度目は延長規定のため引き分け)。岡田は著書『頑固力』の中で「マウンドに行き、投手、もしくはバッテリーにアドバイスを送るのは監督ではなく、ピッチングコーチの仕事である。“任せる”というキーワードが監督とコーチの信頼につながるのだ」と記し、マウンドに行ったケースのうち2005年と2008年の対中日戦はいずれもペナントレースで重要な意味を持つ試合と考えていたと明かした上で、「本来こういうマウンドパフォーマンスは、私には似合わないし、決して好きな行為ではない」と述べている[73]

自身は二軍の下積み経験がほとんどないが、二軍の若手選手への思い入れは強い。阪神監督時代は試合のない日もよく二軍の阪神鳴尾浜球場で目撃されていた。「ファームからも若い選手をしっかりと育てて野球を仕込む。そして監督が、あれこれ手を尽くしてチームの結果を積み重ねていく、そういう監督業こそが面白いのである」という[74]

自らが現役時代に首位打者まであと一歩に迫りながら逃した経験から、選手起用において個人記録を重視しており、「チームの勝利が最優先であることが大原則」という条件つきながら「監督として手助けできることがあれば最大限に手を貸したつもりである」と述べている[75]。金本の連続試合フルイニング出場、鳥谷敬の連続試合出場の記録更新、坂口智隆の首位打者争いなどにも全面的に協力する姿勢を貫いていた。

2008年の終盤に「JFKを酷使した」と批判されたことについては、常に彼らの疲労度を見ながら起用していたと反論し、「彼らにとっては、その1球、1イニングが自らの年俸や評価をアップさせる生活の糧なのである」と記している[76]

日本シリーズクライマックスシリーズなどの、短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりも、シーズン当初からのチームの理想形にこだわるタイプであり、成績は芳しくない。

チームの方針としては「優勝」を目指したチーム作りであるが、シーズン中での「優勝」と明言することは避けている一面をもつ。2009年にオリックス監督に就任した際にも「優勝てよう言わないです。怖いです。そんな簡単に優勝できるとは思ってないです。」とまで発言していた。例として、2010年のオリックス監督時にチームはセ・パ交流戦優勝を狙えるポジションにいた。しかし岡田は選手へ優勝を意識させない為にあえて「優勝」という言葉を封印し、報道陣には「アレ」という言い回しを多用した。するとチームは交流戦首位に立ち、オーナーの宮内義彦に「僕も『アレ』としか言いません」とまで言わせた[77]。そしてチームが交流戦優勝を果たし、チームは記念グッズとして「アレしてもうた」の言葉が入ったシャツやタオルを販売することとなった[78]。2022年10月の阪神監督復帰就任の記者会見でも「『優勝します』とかよう言わないですけど、ずっと優勝は『アレ』しか僕は言ってなかったんで。はっきり『優勝します』とかよう言わないですけど、シーズン終わる頃には楽しみにしてもらったら僕はいいと思いますね」と発言し[79]、同月の秋季練習時には選手にも「アレ」の使用が「浸透している」と報じられた[80]

2010年のセ・パ交流戦では指名打者制を使用できないビジターゲーム12試合のうち、11試合で投手を8番に置いた。

ドラフト会議ではこれまでのところ、指名重複した場合の抽選でくじ運に恵まれていない。2008年までの阪神監督時代は髙濱卓也を引き当てたのみで通算1勝3敗と外れが先行した[81]。オリックス監督時代も、2010年に1位指名抽選をはずして[82]、史上初めて1回のドラフト会議の1位指名抽選3連敗を喫し[83]、翌2011年も1位指名が競合した高橋周平のくじをはずした[84]。阪神監督に復帰して参加した2022年も通算1勝11敗と岡田同様くじ運に恵まれていなかった巨人・原辰徳監督との直接対決の末浅野翔吾をはずしている[85]

オリックス監督時代はチームの正捕手だった日高剛のリード面を再三批判した。キャンプ段階での日高のリード面に疑問を持っていたが[86]、シーズンに入ると大量失点を繰り返したこともあり、2010年には打率はそれほど悪くなかったものの3度も二軍に降格させている。2011年以降は捕手に日高をほとんど起用しなかったが、2012年の終盤は伊藤光齋藤俊雄の2人の捕手を懲罰抹消したことで、自身が休養するまで日高を捕手として起用したが、その日高はアレッサンドロ・マエストリの来日初完投勝利、前田祐二の初先発勝利をアシストするなど好リードを見せ、起用に応えた。

野球関係者からの評価

2004年に投手コーチを務めた佐藤義則は退任する際、「頑固過ぎる、人の意見を聞かない」と苦言を呈した。

2005年の日本シリーズで阪神と対したロッテ監督のボビー・バレンタインは、シリーズ終了後、その時点の岡田を評して「10年前の私を見ているようだ」とした。

野村克也は、2006年のシーズン前に「(中日監督の)落合のが常識の野球であって、岡田のほうがよほど変わった采配をしている」と評した。野村は2008年の開幕前に刊行した著書『あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由』(角川書店)の中で、岡田がサインを出さず選手任せにしていると金本知憲から聞き「監督の仕事を放棄している」「理解に苦しむ」と記す一方、JFKのリリーフ陣を構築したことは「新しい方程式を作った」として「素直に評価しなければならない」としている。その上でこの「六回までは選手主導でやらせる」JFKや「選手任せ」は、選手個々の問題意識を高める考え方に基づく可能性があり、もしそうなら名監督となる器かもしれないが、それは今後の阪神の成績が明らかにすると書いている[87]

これに対して岡田は阪神監督退任後の著書『頑固力』の中で、野村が自分を「何を考えているのかわからない」と言っていることに、「自分では自分なりの野球に対する考え方を持っている」「サインや作戦に関しても状況に応じて作戦は立てている。当たり前のことだ」「どちらかと言えば野村さんと自分の考えは正反対なのかもしれない」と記している[88]

人物・交友関係

愛称は「オカ[89][90]、「どんでん[91]。「どんでん」はかつて味の素が販売していた「ほんだし うどんおでんだし」の略称(パッケージで強調されていた)であり、岡田が1998年から1999年に放送された同商品のCMに出演したことが由来する[91]

座右の銘は「道一筋」で、周囲の不理解や反対があっても、自分の信じた道を突き進めという意味。これは岡田の父親と親交のあった村山実が贈った「道一筋」と書かれた掛け軸が実家に飾られていたことに影響を受けたとされる。色紙にサインする時にもこの言葉を添えることが多い。第三者にこの言葉が商標登録されていて、話題になったこともあった[92]

口癖は「そらそうよ」。これに由来する「そらそーよ」という焼酎も発売され、「そら、そうよ」として自身の著書のタイトルにもなった。また、何を指しているのか分かりにくい「アレ」を多用する癖があり(前述の「優勝」を指す言い換えのようにあえて用いることもある)、阪神監督時代は、何に対して指摘されているのか分からなかった若手選手のために、当時レギュラー選手の赤星憲広が「翻訳」していたこともあった[93]。長男からは「主語を抜いていることが多い[94]」、実母からは「あの子は言葉の真ん中を抜かして話すことが多い[95]」という指摘がなされている。

現役時代に務めた日本プロ野球選手会会長時代より一貫して1リーグ8球団制の提唱者である。野球のルール、日程、ドラフトに関してセとパの意見が一致しないため1リーグ制にした上で、さらに独立リーグに将来の展望がないことから独立リーグをなくして三軍制にし、三軍は地域性を重視してすべての都道府県にプロ球団を置く構想を持っている[96]

クライマックスシリーズについては、「そこで敗れ、日本シリーズ出場ができないと、144試合もの長いシーズンを戦った努力と、過程と評価の価値を否定されることになる」として否定的である[97]。また、数球団を渡り歩く外国人選手が、年俸を高騰させて球団経営を圧迫したり若手日本人選手の働き場所を奪っているとして、外国人出場選手枠の減少(場合によってはゼロ)を、プロ野球改革の試案として示している[98]

著書ではストレス解消法として飲酒(現在は焼酎党)、カラオケ手品ニンテンドーDS脳トレを挙げている[99]。また、吉本系などのお笑い番組もリラックスするときはよく見ており、夫人が録画したビデオテープをリビングに置いてくれたこともあった[100]

小学校低学年の頃から将棋を趣味としており、2008年1月24日に日本将棋連盟からアマ三段の免状を授与された[101]。将棋を覚えたランディ・バースとは、川藤幸三とともにその相手を務めていた[102]

ルーキーの頃に、プロレスラーアブドーラ・ザ・ブッチャーが「コイツは、絶対に大物になる」と岡田に賛辞を送って以来、ブッチャーとは交友がある。岡田の後援会・岡田会は当時、ブッチャーの後援会もしていた。岡田は今でも恩を感じており、2005年の阪神のリーグ優勝の際には祝勝会にブッチャーを招待するプランもあったが、実現はしなかった[103]

サッカー日本代表監督の岡田武史とは同じ大阪市出身、同姓、早稲田大学の同級生、プロスポーツ監督と共通点も多い。また、共にタイガースファンである。武史の方が1歳上であるが、武史側は1年浪人しており、そのため彰布と同級生であり、同時期に野球部とサッカー部の主将をそれぞれ務めたものの、両者の直接的な接点はなかったが、2009年に雑誌「Sports Graphic Number[104]の「早稲田力」特集で初対面の両者による対談が行われ、以後交友を持った。また、元サッカー選手で現在サッカー解説者の長谷川治久は高校の同級生にあたり、こちらも現在でも親交がある[105]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1980 阪神 108 403 376 44 109 19 0 18 182 54 4 2 1 0 23 6 3 45 6 .290 .336 .484 .820
1981 130 524 485 70 140 23 3 20 229 76 1 0 2 4 28 3 5 43 13 .289 .331 .472 .804
1982 129 521 466 57 140 22 1 14 206 69 10 5 2 5 44 12 4 30 13 .300 .362 .442 .804
1983 79 289 246 44 71 9 0 18 134 44 7 3 1 5 36 5 1 23 3 .289 .375 .545 .920
1984 115 366 323 38 96 14 2 15 159 51 3 1 0 7 33 4 3 41 13 .297 .361 .492 .853
1985 127 532 459 80 157 24 3 35 292 101 7 3 0 6 64 3 3 41 11 .342 .421 .636 1.057
1986 129 551 474 67 127 21 0 26 226 70 11 3 0 4 70 5 3 57 14 .268 .363 .477 .840
1987 130 518 474 54 121 24 3 14 193 58 5 2 0 2 40 2 2 75 12 .255 .315 .407 .722
1988 127 524 454 65 121 22 1 23 214 72 10 5 0 5 63 6 2 75 16 .267 .355 .471 .826
1989 130 557 492 66 138 20 1 24 232 76 8 3 0 7 57 3 1 81 15 .280 .352 .472 .823
1990 130 571 486 75 129 27 0 20 216 75 7 2 0 4 74 5 7 87 12 .265 .368 .444 .812
1991 108 428 383 45 92 11 0 15 148 50 1 3 0 3 40 3 2 68 9 .240 .313 .386 .700
1992 70 212 185 9 35 11 0 2 52 19 1 0 0 3 22 1 2 48 3 .189 .278 .281 .559
1993 42 62 53 2 9 1 0 1 13 7 0 0 0 0 9 1 0 24 0 .170 .290 .245 .536
1994 オリックス 53 117 101 10 28 3 0 2 37 12 1 1 0 1 14 0 1 20 3 .277 .368 .366 .734
1995 32 46 39 3 7 0 0 0 7 2 0 0 0 0 7 0 0 9 1 .179 .304 .179 .484
通算:16年 1639 6221 5496 729 1520 251 14 247 2540 836 76 33 6 56 624 59 39 767 144 .277 .351 .462 .813

年度別監督成績

レギュラーシーズン



























2004 阪神 4位 138 66 70 2 .485 13.5 142 .273 4.08 47歳
2005 1位 146 87 54 5 .617 - 140 .274 3.24 48歳
2006 2位 146 84 58 4 .592 3.5 133 .267 3.13 49歳
2007 3位 144 74 66 4 .529 4.5 111 .255 3.56 50歳
2008 2位 144 82 59 3 .582 2.0 83 .268 3.29 51歳
2010 オリックス 5位 144 69 71 4 .493 7.5 146 .271 3.97 53歳
2011 4位 144 69 68 7 .504 20.5 76 .248 3.33 54歳
2012 6位 144 57 77 10 .425 17.5 73 .241 3.34 55歳
通算:8年 1141 581 521 39 .527 Aクラス4回、Bクラス4回

※1 2012年、9月25日より休養。監督代行は森脇浩司

※2 2012年、欠場した9試合(7勝2敗)は監督成績に含まない

ポストシーズン
年度 チーム 大会名 対戦相手 勝敗
2005 阪神 日本シリーズ 千葉ロッテマリーンズ 0勝4敗=敗退
2007 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) 0勝2敗=敗退
2008 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) 1勝2敗=敗退

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 16 (1980年 - 1993年)
  • 10 (1994年 - 1995年)
  • 85 (1996年 - 1997年)
  • 80 (1998年 - 2008年、2010年 - 2012年、2023年 - )

関連情報

出演番組

  • 逢えば涙になるけれど(1982年、ミノルフォンレコード、KA-2032)
阪神タイガースのマスコットガールだった岡田真弓(元ラブ・ウィンクスの平田和子)とデュエット
  • ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし
原辰徳高橋慶彦宇野勝遠藤一彦荒木大輔とともにコーラス参加。

著書

CM

脚注

  1. ^ a b c d “猛虎人国記(39)~大阪府(一) 大阪人唯一の阪神監督 岡田彰布”. スポーツニッポン. (2012年3月27日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002920090.html 2014年7月23日閲覧。 
  2. ^ 背番号は選手にとっては顔。初めて背負った番号をいかに価値のあるものにするか【岡田彰布のそらそうよ】”. 週刊ベースボールONLINE (2020年2月1日). 2022年7月20日閲覧。
  3. ^ 幼稚園・小学校時代については、Baseball Gate 内田雅也が行く 猛虎の地<13>玉造公園 ◇岡田少年を育てたブランコと塀 スポーツニッポン、2018年12月16日。【ミナミ語り場】阪神タイガース元監督・岡田彰布さん 旧大阪球場こそ「野球の原点」 小学4年で初めてプレーしたプロの球場
  4. ^ 宝島社『別冊宝島 プロ野球名選手読本』1998年
  5. ^ 『阪神タイガース 暗黒ダメ虎史 あのとき虎は弱かった』p.104
  6. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  7. ^ 週刊ベースボール 2020年4月27日号 連載「岡田彰布の『そらそうよ』」P.44 - 45
  8. ^ 『オリの中の虎』P159
  9. ^ 朝日新聞1979年10月30日付。
  10. ^ スポーツニッポン1979年10月30日付。その発言を受けた当日の同紙の一面見出しは「『巨人もOK』岡田」であった。
  11. ^ 2009年『阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎列伝』Vol.11
  12. ^ 『阪神タイガース 暗黒ダメ虎史 あのとき虎は弱かった』p.105
  13. ^ 【ドラフト会議物語17】岡田彰布が6球団競合で阪神。2年連続1位の木田勇は日本ハムへ【79年】
  14. ^ 【虎番疾風録第2章】(50)強運「岡田くじ」的中
  15. ^ 選手に金儲けさせてやるのも監督の責任 - 野球:週刊ベースボールONLINE
  16. ^ 【田所龍一 虎番疾風録 Vol.70】岡田「ヒルトンと勝負してダメというのなら分かるけど…」 (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト
  17. ^ 『頑固力』(角川SSC新書、2008年)p. 89
  18. ^ 『頑固力』p. 90
  19. ^ スペシャルインタビュー岡田彰布
  20. ^ 岡田彰布コラム「阪神が2位を死守した場合CSを戦う上で先発の枚数が足りないわな。ベンチの判断に注目や」 - 野球:週刊ベースボールONLINE
  21. ^ 【田所龍一 虎番疾風録 Vol.67】ブレイザー監督と報道陣“対立”のきっかけ 岡田彰布の起用めぐり「お前たちが監督をしてみろ」 (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト
  22. ^ [週刊ベースボール1980年6月2日号]
  23. ^ 昭和55年5月15日 阪神 ブレイザー監督を解任
  24. ^ 【1980年】新人・岡田彰布の起用をめぐり大混乱。阪神・ブレイザー監督、途中退団/プロ野球回顧録”. 週刊ベースボールONLINE (2020年8月20日). 2021年8月1日閲覧。
  25. ^ 【虎番疾風録第3章】(33)カミソリ、ゴキブリ、ネズミの死骸…
  26. ^ 『頑固力』p. 163
  27. ^ 1980年度オールスター・ゲーム 試合結果”. 日本野球機構. 2021年5月29日閲覧。
  28. ^ 西武森、予告初球弾 清原以来10代球宴2人目 日刊スポーツ 2015年7月19日紙面から
  29. ^ 阪神ゴールデンルーキー・岡田彰布の2万号は「そらそうよ」だったのか?【1980年8月19日】
  30. ^ 岡田彰布【後編】初の日本一へ打ち鳴らした号砲/プロ野球1980年代の名選手
  31. ^ 佐藤輝が阪神では岡田以来41年ぶりの快挙 新人から2年連続2桁本塁打”. デイリースポーツ online (2022年5月18日). 2022年5月18日閲覧。
  32. ^ <第18回>吉田さんはイメージと違う腹の据わった監督だった|野球|日刊ゲンダイDIGITAL
  33. ^ 【阪神祭り開催】阪神OBを回る旅第1弾!岡田彰布さん登場「ぶっちゃけ阪神の監督の話来てるだろ?」慶彦さんいきなりぶっこみます!【プロ野球OB】【阪神タイガース】【広島カープ】 - YouTube
  34. ^ 堅守支えた名参謀 阪神タイガース、天地を行く(2)
  35. ^ 岡田彰布をなぜブレイザー監督が使わなかったか…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<7>”. スポーツ報知 (2021年4月1日). 2021年8月1日閲覧。
  36. ^ 30年前の熱気よ、もう一度 阪神タイガース、天地を行く(1)
  37. ^ 阪神 岡田彰布氏の監督就任を正式発表 2008年以来の復帰”. デイリースポーツ online (2022年10月15日). 2022年10月15日閲覧。
  38. ^ 「オヤジ、打ったぞ!」岡田、父に捧げる涙の追悼弾(水本義政)
  39. ^ 『阪神タイガース 暗黒ダメ虎史 あのとき虎は弱かった』p.106
  40. ^ 『頑固力』pp. 110 - 111
  41. ^ 【10月18日】1993年(平5) 自分で作ってFA第1号?岡田彰布 さらば阪神タイガース
  42. ^ スポニチアネックス『野球 日めくりプロ野球10年1月 【1月28日】1994年(平6) キャンプイン4日前 岡田彰布“復帰”決定(野球)
  43. ^ (日本語) 【岡田彰布引退試合】プレイバックORIX~1996.3.26 オリックスvs.阪神~, https://www.youtube.com/watch?v=VF5zn6y5IOE 2021年9月25日閲覧。 BsTV -オリックス・バファローズ 公式 2020年8月16日
  44. ^ 【ドラフト裏話】6球団から指名された岡田さん「一番厄介だった球団は〇〇でした…」【プロ野球OB】【阪神タイガース】【広島カープ】 - YouTube
  45. ^ 岡田監督、「星野流」と決別…異質の激しさ示した
  46. ^ 1・3塁のベースコーチを入れ替えるドラゴンズの狙い…OBの大西崇之さんが語った「3塁コーチの極意」 - FUNプライムオンライン 2021年2月15日
  47. ^ 岡田次期監督なら鉄壁の虎 第2のJFK&強固なセンターライン確立か 番記者が占う心の内” (2022年10月5日). 2022年10月5日閲覧。
  48. ^ 「過去いないセ日本人監督シーズン二度」 日刊スポーツ
  49. ^ Okada, Akinobu; 岡田彰布. (2009). Ori no naka no tora : aisuru taigāsu e saigo ni hoeru. Tōkyō: Bēsubōrumagajinsha. ISBN 978-4-583-10231-3. OCLC 464746943. https://www.worldcat.org/oclc/464746943 
  50. ^ オリ監督内定岡田氏、モノ言う監督になる 日刊スポーツ 2009年10月2日
  51. ^ 非常事態に岡田監督“兼任”投手コーチ
  52. ^ 岡田監督「サッカー関係者が怒りよるよ」
  53. ^ 岡田監督「絶対はないけど絶対優勝する」 デイリースポーツ2011年12月16日
  54. ^ 岡田彰布監督任期満了のお知らせ オリックス・バファローズ 2012年9月22日
  55. ^ 独占告白 敗軍の将おおいにボヤく 岡田彰布反省------選手は「監督が怖い」といって離れていった
  56. ^ 岡田監督、高代ヘッドコーチ休養のお知らせ オリックス・バファローズ 2012年9月25日
  57. ^ 岡田彰布氏 阪神は最初の2カードをどう取っていけるかがポイント”. デイリースポーツ (2021年8月13日). 2021年8月13日閲覧。
  58. ^ “阪神次期監督・岡田彰布氏で“すんなり決定”にはならない「特殊球団」と在阪メディアの事情”. 日刊ゲンダイ. (2022年6月30日). https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/307552 2022年10月17日閲覧。 
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  60. ^ 小西斗真 (2022年9月27日). “草茂みベースボールの道白し〈阪神・岡田新監督有力〉ポスト矢野が残り3試合になるまで全く報道されなかった理由は コロナ禍のメディア統制が示す野球界の未来”. Sports Graphic Numberweb. https://number.bunshun.jp/articles/-/854745 2022年10月17日閲覧。 
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  73. ^ 『頑固力』pp. 58 - 60。この中で岡田は「自らマウンドに行って檄を飛ばしたのはこの2度のみ」と書いており、2006年の対楽天戦、対中日戦にはなぜか触れていない
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  86. ^ 独占告白 敗軍の将おおいにボヤく 岡田彰布反省------選手は「監督が怖い」といって離れていった 週刊現代 2012年11月09日
  87. ^ 『あぁ、阪神タイガース』pp. 178 - 184. 野村はこうした選手主導のやり方を「アメリカン・スタイル」と記し、メジャーの影響かもしれないと書いている。
  88. ^ 『頑固力』p. 132. 戦術面では見解が異なる二人であるが、岡田が「阪神は巨人にさえ勝てばよい」という考えに現役時代から違和感を持っていた(『頑固力』pp. 72 - 73)と記している点では、野村も『あぁ、阪神タイガース』で同様の意見を述べている。
  89. ^ 【阪神昔ばなし特別編 その32】ゲスト岡田彰布さん!! - YouTube
  90. ^ 【阪神優勝】1985年開幕投手に選ばれた親さんを襲った悲劇とは?【広島カープ達川光男さん】【慶彦ごめんなさいシリーズ】【高橋慶彦】【池田親興】 - YouTube
  91. ^ a b 「期待してもらって結構です」阪神・次期監督岡田彰布氏の“どんでん語録”がチャーミングすぎる! 優勝のカギは“通訳者”の有無か”. 週刊女性PRIME. 2022年11月8日閲覧。
  92. ^ デイリースポーツ、2005年11月18日号
  93. ^ 元阪神・赤星氏“岡田語”に冷や汗だった…「何言ってるか分からないことも」 デイリースポーツ 2013年08月06日
  94. ^ 2005年10月1日付デイリースポーツ紙面
  95. ^ 2010年6月13日付日刊スポーツ紙面
  96. ^ 岡田彰布『オリの中の虎 愛するタイガースへ最後に吠える』ベースボール・マガジン社〈ベースボール・マガジン新書〉、2009年。ISBN 978-4-583-10231-3OCLC 464746943 [要ページ番号]
  97. ^ 『頑固力』pp. 151 - 152
  98. ^ 『頑固力』pp. 153 - 154. もっとも同書の別の箇所では阪神が今後「他球団でそこそこの数字を残し、日本の野球に対応できる可能性を秘めた外国人を、獲得していくのが賢明」(p. 169)と記しており、長期的な球界改革案とは違う考えを示している。
  99. ^ 『頑固力』pp. 159 - 161
  100. ^ 『頑固力』pp. 156 - 157
  101. ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボール・マガジン社刊)2008年6月30日号20-23ページ「5年目岡田野球の変貌」
  102. ^ 『頑固力』p. 95
  103. ^ 『デイリースポーツ』2007年3月9日付「ブッチャー 旧友岡田監督に毒針エール」
  104. ^ 2009年6月4日号、通巻729号。
  105. ^ 2009年5月27日の日本対チリ戦では、彰布が会場の長居陸上競技場を訪れ、長谷川と共に武史が指揮を執る日本代表を応援した。出典:スポーツニッポン2009年5月28日付(大阪版)「阪神の前監督・岡田氏“同級生”岡田監督を応援」 [1]中日スポーツ2010年6月16日付

関連項目

外部リンク