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引退後は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の野球解説者に就任。1994年からは『[[スポーツうるぐす]]』のMCとなる。2010年現在、スポーツキャスターとして、『[[Going!Sports&News]]』や[[元気を日本に 日本プロ野球|ナイター中継]]の解説を担当している。[[ワイン]]好きで[[ワインタレント]]として知られる。[[名誉ソムリエ]]の資格も持っている。遠縁に元タレント・俳優の[[江川有未]]がいる。 |
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2010年4月16日 (金) 01:40時点における版
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基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県小山市 |
生年月日 | 1955年5月25日(69歳) |
身長 体重 |
183 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1978年 ドラフト1位 |
初出場 | 1979年6月2日 |
最終出場 | 1987年10月28日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
|
江川 卓(えがわ すぐる、1955年5月25日 - )は、元プロ野球選手、野球解説者。
経歴
学生時代
福島県いわき市生まれ、静岡県磐田郡佐久間町(現:浜松市天竜区)に在住の後、栃木県小山市育ち。作新学院高等学校(当時は作新学院高等部)のエースとして、高めのバックスピンが良くかかった直球と良く曲がるカーブを武器にノーヒットノーラン9回・完全試合2回、春の甲子園における大会通算最多奪三振記録などの数々の記録を残して、その高校生離れした投球と耳の大きな顔が漫画「怪物くん」の主人公に似ていることから「怪物くん」と呼ばれ、日本中の注目を浴びた。特に1973年の第55回全国高等学校野球選手権大会予選栃木県大会において、5試合44回を投げ被安打2、75奪三振という超人的な記録を打ち立てる。高校野球では江川の時代以後、金属バットが導入されており、江川の高校時代の記録は以降の投手(たとえば横浜高校時代の松坂大輔など)とは単純比較できないという意見もあるが、今でも江川を高校野球史上最高の投手に挙げる人は多く、その投球は語り草になっている。
江川の球速は、高校時代にすでにピークを迎えていたとも言われ、当時スピードガンはまだなかったが、150km/hを超えていたのではないかと推定されている。その球威は「本気で投げると捕手が球を捕れなかった・・・」「打者がファウルするだけで歓声が沸いた・・・」などの伝説を生んでいる。ちなみに高校時代バッテリーを組んだ捕手は小倉偉民(05年-09年に衆議院議員)。また、高校時代の江川が投じるきれいにスピンがかかった球筋は、数字以上の速さを感じさせていた。スピンが多くかかっているのは、なるべく球離れを遅くしてスピンをかけるように本人が努力したため。ただし、投手としては指が短めだったこともその理由である。指が短めだったことは、スピンをかけるには有利だったが、フォークボールなどの変化球を投げるのには適さなかった。そのため、変化球はカーブしか投げられなかった。基本的には速球投手である。
入学時よりその評価は高く、周囲からの期待も大きかった。高校1年時は春夏ともに甲子園への出場はなかった。そのため、当時の野球部監督[1]が更迭されたという[2]。また、全国各地で招待試合が組まれ、そこでの登板回数の多さが、後に肩を痛める遠因となったとされる。
1973年秋、阪急ブレーブスからドラフト1位指名を受けるが入団を拒否。慶應義塾大学法学部政治学科への進学を目指すが受験に失敗した。ちなみに江川が慶應受験に失敗したという情報がテレビニュース番組の速報として流れるなど、当時としては大きな話題になった。慶應受験は野球部セレクションのため「簡単な作文と面接のみだったが、作文でのミスで不合格になった」という都市伝説がささやかれた。なお実際には試験は通常の筆記試験で、江川本人は「日本史で、過去の出題傾向から明治以降を完全に捨ててかかったら、その年に限って近代史の問題が多く出題された」ことの影響が大きかったと分析している[3]。また「江川を入学させると裏口入学だと騒がれる」という思惑から「例年なら野球部セレクションによる加点があるはずが、この年に限って加点が行われなかった」という説もあり、実際この年は堀場英孝など慶應志望の他の選手の中にも不合格者が相次いだ[4]。
慶應受験に失敗した江川は、やむを得ず法政大学第二法学部法律学科へ進み、1年時に東京六大学野球連盟史上最年少ベストナインを受賞するなど主戦投手として活躍。1976年から1977年の法大4連覇(4回とも対戦校すべてから勝ち点を奪う完全優勝)にエース、ときには5番打者として貢献した。通算47勝は山中正竹の48勝に次ぐ史上2位、完封数17はリーグ記録、ベストナインにも6度選ばれた。奪三振数(443個)も2002年に当時早稲田大学4年だった和田毅に更新されるまでは歴代最多だった。
法大4年生の1977年秋のドラフト会議ではクラウンライターライオンズからドラフト1位指名を受けるが、入団を拒否。江川は当時福岡を本拠地としていたクラウンライターに対し、福岡は遠隔地という理由で断った。この時のことを後に江川は「巨人がだめでも巨人と対戦でき、そして当時交際中だった(のちの)夫人が東京在住だったため遠距離交際を避けられる、在京セリーグ球団からの指名なら入団していただろう」と振り返っている[5]。
大学卒業後は作新学院職員としてアメリカ留学。南カリフォルニア大学で投げて2勝2敗。
プロ選手時代
1978年ドラフト会議の2日前に帰国し、ドラフト会議前日に巨人と電撃契約した(空白の一日事件)。セントラル・リーグ事務局は即時にこの契約を無効として江川の選手登録を却下したが、それに抗議した巨人はドラフト会議をボイコットした。ドラフト会議では巨人の抜け駆け契約に抗議する形で南海ホークス、近鉄バファローズ、ロッテオリオンズ、阪神タイガースの4球団が江川を1位指名し、阪神タイガースが江川との交渉権を獲得。巨人は、全12球団が出席していないドラフト会議は無効であると主張して、江川の阪神の交渉権を認めなかった。なお、日本プロ野球において3回ドラフト1位指名を受けたのは江川だけである。この問題はこじれにこじれたが、最終的に金子鋭コミッショナーの「強い要望」により1979年1月にドラフトで指名した阪神に入団した上で、小林繁投手を相手とする交換トレードで巨人に移籍することとなった。この事件により江川は一躍悪役に祭り上げられ、マスコミは大挙して江川を批判すると同時に、小林を悲劇のヒーローとして報道した(江川事件)。この経緯から、「エガワる」(周囲をかえりみず強引に自分の意見を押し通すこと)という言葉が流行語にまでなった。
ジャイアンツ入団時に背番号19を提示されるも、さすがに小林繁の付けていた背番号なので拒否。昭和30年生まれにちなみ空いていた背番号30を付ける。なお、阪神時代の背番号は3である。これはたまたま3番が欠番だったからということもあるが、巨人移籍後は(永久欠番のため)使用できない番号を故意に付けさせた阪神側のせめてもの抵抗とも受け取れる。ただし、引退時は引退記念登板(巨人対阪神のオープン戦)でライバルであった掛布雅之を打席に立たせるなど、阪神サイドも一定の配慮を見せている。
巨人は一連の騒動について全面的に謝罪し、公式戦開幕から5月31日までの約2ヶ月間、江川の出場を自粛させることとした(誤って伝えられることが多いが、あくまで自粛であり出場停止ではない)。デビュー戦となった1979年6月2日の対阪神戦では被本塁打3本、また同月のプロ初勝利となった対広島戦では鼻血出血というハプニングで途中交代したが、その後は活躍を見せた。1981年には20勝6敗、防御率2.29、奪三振221で最多勝、最高勝率、最優秀防御率、最多奪三振、最多完封と言う投手五冠に輝いた。MVPにも選出されたものの、沢村賞は同僚の西本聖が受賞となった(当時の沢村賞はプロ野球担当の新聞記者による投票で決定されたが、現在は歴代の沢村賞受賞者による選考会で選出される)。
1981年の日本シリーズ第6戦で、最後の打者の飛球がマウンド上に上がった際に、普段どおり代わって捕球しようとする野手を制してウィニングボールを捕ったことを思い出としている。
1984年のオールスターゲーム第3戦では8連続奪三振を記録(このとき対戦した落合博満は「球は現役投手で一番速い。なぜこれほどの投手が打たれるのかわからない」と述懐している)。1985年には王貞治の年間本塁打記録55本に迫る阪神のランディ・バースに対し、他の巨人の投手が敬遠をする中で真っ向勝負をしている(ちなみに翌1986年にも7試合連続本塁打の日本タイ記録が掛かったバースに真っ向勝負を挑んでいるが、最終打席で本塁打を許した)。1987年対広島戦で小早川毅彦選手から打たれたサヨナラ本塁打をきっかけに現役を引退した。
引退会見では、長年傷めていた右肩の故障が限界に達し、優勝のかかった広島戦を前にして治療を受けていた鍼灸医から、患部である肩胛骨の裏側に針を打てば即効性があり一時的に力は回復するが投手生命を縮めるという、いわゆる「禁断のツボ」にハリを打ったと語り、引退記者会見に出席した多くのスポーツ記者が、涙をにじませて語る江川の姿にもらい泣きした。しかし鍼灸関係者から、鍼灸治療でそのような危険な治療方法があるかのような誤解と不安を与えたとの不満と抗議が起こり、またそのようなツボが肩胛骨の裏にあるという事実も確認できなかったため、治療をした鍼灸医の姓名を明らかにするように、鍼灸医の団体から正式な抗議を受けた。
この件に関しては、江川サイドから文章で謝罪することで一応の決着が計られたが、鍼灸医団体からの抗議自体が大手のマスコミではほとんど報じられなかった。後に江川は、引退記者会見でテンションが高まったあまり、思わず口をついた作り話であることを認めた。
現役引退後
引退後は日本テレビの野球解説者に就任。1994年からは『スポーツうるぐす』のMCとなる。2010年現在、スポーツキャスターとして、『Going!Sports&News』やナイター中継の解説を担当している。ワイン好きでワインタレントとして知られる。名誉ソムリエの資格も持っている。遠縁に元タレント・俳優の江川有未がいる。
スポーツうるぐすではGIシーズンになると競馬の予想を杉本清(以前は高橋源一郎)と行なっているが、あまり当たらない(対象レースのほとんどで予想を外した年もあった)。
人物
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
アマチュア時代
- サトウハチローは、1973年の夏の甲子園・対千葉県立銚子商業高等学校戦で、雨の中延長戦で押し出し四球により敗れた江川の姿を見て、江川に「雨に散った江川投手」という詩を贈っている。この詩の中でサトウは、自分は雨を愛したがこれからは雨に関する詩を作るのをやめるとうたった。サトウが亡くなる3ヶ月ほど前のことである。
- 大学時代、現在の夫人と交際していた時にデートと東京六大学の試合の登板予定が重なると、待ち合わせ時間として「試合開始から何時間後」というように時間を指定していたという。夫人によれば、指定した待ち合わせ時間に遅れることはほとんどなく、逆に試合の進行が早すぎると、わざと遊び球を投げて時間調整をしていたほどであった[6]。
- 南カリフォルニア大留学当時、クリス・スミス(のちヤクルト)がルームメイトで、江川にとって英語の先生役でもあった。スミスが部屋にガールフレンドを連れ込むことがしばしばあり、江川はその都度一人で外出する羽目になったという[7]。
現役時代
- あまり知られていないが、現役時代は100m走のタイムが11秒1という球界有数の俊足の持ち主であった。
- 沢村賞を取った西本聖をライバル視し、投球練習の際にお互いに意地になって330球以上も投球したという逸話がある。引退後はライバルであったことを忘れ、お互いに親交を深めている。
- 1979年阪神戦でデビューし、3本塁打を打たれ敗戦投手になった。しかし、その後は阪神キラーになり、阪神戦通算36勝(18敗)を挙げた。これは通算135勝の1/4強を占める。逆に小林繁は阪神に移籍した1979年こそ巨人戦8勝0敗と意地を見せたが、その後引退までの4シーズンで巨人戦5勝15敗と対照的な結果になった。
- 打撃の優れた投手としても知られているが、最初はさすがにプロのボールについていけなかったのか、初安打はデビューから36打席目だった。
- 入団2年目の阪神戦での小林繁との初対決では、打撃でも決勝タームリーヒットを放つなど活躍し、勝利投手となっている。後に、プロ野球でやっていく中で絶対に負けられない試合は数試合しかないだろうがその中の一つがその試合だと思って試合に臨んだと懐述している。
- 本塁打を打たれた際、マウンド上で両手を腰に当てながら首を捻るシーンがよく見られた。被本塁打が多く、「一発病」と言われた投手の一人。
- 与死球が極めて少ない。これは高校時代、自らが頭部死球を受けた経験から厳しく内角を攻めることにためらいを見せたためと言われている。
- 与四球も少ない。江川の場合、豪速球で圧倒できた全盛期の与四球が非常に少ないのが目立っている。
- 1984年のオールスターでは8者連続奪三振を達成した。しかし9人目に迎えた打者・大石大二郎にカーブを投げて当てられてしまい、二塁ゴロとなり9者連続はならなかった。このことに関して、江川自身は「新記録の10者連続を狙うために、9人目に振り逃げさせようとしてカーブを投げた(ストレートのサインでカーブを投げると捕手が後逸する可能性が高いため)」と後になって主張している。しかし、実際にはカーブのサインどおりに投げており、8奪三振のうち4つはカーブで三振を取っている。
- カーブ以外有効な変化球を持たなかった江川は、プロ入り以後は投球術で打ち取るテクニックを覚えている。「相手の腰を引かせるスライダー系のボール」コシヒカリが話題になり、本当にコシヒカリが贈られてきたエピソードがある。このことに味をしめた江川は、今度はメロンを貰おうと「相手のマスク(顔)をメロメロにしてしまう顔の前を通すボール」マスクメロンを開発している。また、現在多くのプロ野球投手が使用している、スライダー回転だがカーブの軌道で曲がる変化球「スラーブ」も、江川が元祖である[要出典]。2010年3月14日放送の「SUPERうるぐす」ではコントロールがよく、ストレートのスピードとコースを投げ分けることができたので、カーブ以外の変化球を使わなかったと語った。
- 阪神のランディ・バースが55本塁打や7試合連続本塁打など王貞治の記録に迫ったとき、逃げ腰の巨人投手陣の中にあって勝負を挑んだのは既述のとおりだが、バースが2年連続三冠王を獲得した1985年と1986年において、1985年は被本塁打0、1986年の被本塁打も7試合連続となった本塁打と連続試合打点記録更新中の最後の試合(13試合目)で打たれた2本だけであった。江川の引退時、バースは江川を「日本、アメリカを通じて今まで対戦した中で最高の投手」と讃えている。
- 現役引退は1987年の春頃に既に考えていたとのことで、5月には夫人に同年限りで引退する考えを打ち明けている[8]。また8月に次年度の球団カレンダー用の写真撮影が行われた際には、カメラマンから桑田真澄との2ショットを依頼されたのに対し、後に写真の差し替えで桑田に迷惑をかける可能性を考慮して、2ショットを拒否した[9]。
その他・人物
- 卓という名前は、父の趣味である麻雀の麻雀卓に由来する。弟の名前も同様に麻雀牌に由来している。
- 幼い頃に父に背負われて散歩に出かけた際、背負われたまま崖の下を覗かされたことで、極度の高所恐怖症になる。そのため妻が元客室乗務員でありながら飛行機嫌いであり、国内の移動はどんなに時間がかかってもいつも電車などを用いている(妻との馴れ初めは、江川が米国開催の日米大学野球選手権大会に出場するため、やむを得ず飛行機に乗っていて青くなっているところを、客室乗務員だった妻が親切にしてくれたことである)。かつて巨人の北海道遠征の取材で東京→盛岡→青森→函館→札幌と1日かけて陸路を乗り継ぎながら出かけたほか、宮崎キャンプの取材でも東京→博多→新八代→鹿児島中央と乗り継ぎ、車で宮崎入りするなど、時間を無駄にしてまで電車移動にこだわっている。松山でのオールスターゲームを取材した時でも、松山→岡山→東京と乗り継いで帰京したために、翌朝の『ザ・サンデー』のエンディングで江川は既に松山を発ったとのフリップが出ていた(同行した女子アナは松山市内でゆっくり買い物をした後に飛行機で帰京し、江川より先に東京に到着した)。名球会のハワイでの取材時に長嶋茂雄から「江川さん、よく飛行機乗れましたね」と言われたほどである。飛行機嫌いの一因に、現役時代に発生した日本航空123便墜落事故も影響していると言われている。この事故で同じ球界関係者である中埜肇・元阪神タイガース球団社長も犠牲になっていたため、球界全体にも大きな衝撃を与えていた。
- 現役時代から財テクに精を出し、不動産投機で大失敗し多額の借金を背負う。「投げる不動産王」とも呼ばれた。プロ入り直後には契約金を使って土地を購入したところ、予定納税のことをすっかり失念していたため資金繰りに窮し、結局土地を手放さざるを得なくなった[10]など、投資に関する失敗談も多い。この他、一時は第一不動産(後のエフ・アール・イー、2007年1月に破産)や、東京ベイホテル東急の運営会社の役員にも名前を連ねていた[11]。なお、同様の呼び名は桑田真澄にもあったが、こちらは本人が直接作った借金ではない。
- 財テクの一方で、本人曰く「成金趣味」に結構な金額を費やしている。一時はワインにはまっていたほか、ゴルフ好きが昂じて純銀パターを特注で作らせたこともある[12]。それらの贅沢には「ストレス発散」の意味合いもあったという。
- 食べ物に対するこだわりが極めて強く、日本テレビ『人生が変わる1分間の深イイ話』の「旨イイスペシャル」では島田紳助以上の辛口ぶりで、「旨イイ」の判定をした料理は7品中わずか1品のみだった。
- 現役引退の年、自宅に近い横浜市緑区霧が丘に喫茶店「きりんこ」を開店した。元々は巨人でバッティング投手をしていた同僚が転職を考えているという話を聞き、その支援目的で当時近所に住んでいた黒澤久雄・羽川豊らと共同で出資したのがオープンのきっかけだという[13]。しかし、住宅地で回りにほとんど店が無いこと、すぐ隣に老舗の喫茶店があったことなどから、数年で閉店。現在は駐車場となっており、建物の遺構の一部が駐車場の壁として残っている。
- 現役引退年の巨人軍の納会で「巨人軍選手会は永遠に不滅です」と最後の挨拶を行った。
- 幾度となく巨人の監督候補に名前が挙がるものの本人はそのたびに就任話を否定しているが、自身のテレビ番組でも巨人の監督が代わるニュースが大きく取り上げられる際は、他の出演者から「狙っていたんでしょ?」と声をかけられ、それらしいコメントを繰り返している。
- 劇場アニメ「耳をすませば」にプロ野球解説者としてゲスト出演している。ちなみに実況アナウンサーは小川光明。
- 2007年、京都・伏見の大手日本酒メーカー「黄桜」のCMで「空白の一日事件」のライバル、小林繁と"初共演"を果たす。同年10月11日からこのCMの放映が開始された。
- ゆでたまご原作のプロレス漫画『キン肉マン』の主人公「キン肉スグル」の名前は江川にちなんだものだといわれている。また、兄の「キン肉アタル(=キン肉マン・ソルジャー)」の名前は江川の実弟、中(あたる)からとみられる。
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979 | 巨人 | 27 | 23 | 7 | 2 | 1 | 9 | 10 | 0 | -- | .474 | 653 | 161.0 | 132 | 22 | 50 | 3 | 0 | 138 | 0 | 1 | 57 | 50 | 2.80 | 1.13 |
1980 | 34 | 34 | 18 | 5 | 2 | 16 | 12 | 0 | -- | .571 | 1055 | 261.1 | 226 | 34 | 60 | 5 | 2 | 219 | 0 | 0 | 88 | 72 | 2.48 | 1.09 | |
1981 | 31 | 30 | 20 | 7 | 3 | 20 | 6 | 0 | -- | .769 | 931 | 240.1 | 187 | 27 | 38 | 2 | 4 | 221 | 0 | 1 | 68 | 61 | 2.29 | 0.94 | |
1982 | 31 | 31 | 24 | 6 | 10 | 19 | 12 | 0 | -- | .613 | 994 | 263.1 | 200 | 36 | 24 | 2 | 3 | 196 | 0 | 0 | 77 | 69 | 2.36 | 0.85 | |
1983 | 33 | 29 | 10 | 2 | 2 | 16 | 9 | 3 | -- | .640 | 883 | 217.2 | 187 | 27 | 59 | 5 | 2 | 131 | 1 | 0 | 83 | 79 | 3.27 | 1.13 | |
1984 | 28 | 28 | 13 | 3 | 2 | 15 | 5 | 0 | -- | .750 | 782 | 186.0 | 186 | 20 | 58 | 4 | 3 | 112 | 0 | 0 | 80 | 72 | 3.48 | 1.31 | |
1985 | 30 | 26 | 3 | 1 | 0 | 11 | 7 | 0 | -- | .611 | 735 | 167.0 | 188 | 34 | 56 | 2 | 3 | 117 | 1 | 0 | 102 | 98 | 5.28 | 1.46 | |
1986 | 26 | 26 | 8 | 1 | 2 | 16 | 6 | 0 | -- | .727 | 791 | 194.0 | 172 | 27 | 49 | 4 | 4 | 119 | 1 | 1 | 64 | 58 | 2.69 | 1.14 | |
1987 | 26 | 25 | 7 | 0 | 1 | 13 | 5 | 0 | -- | .722 | 685 | 166.2 | 150 | 26 | 49 | 6 | 2 | 113 | 1 | 0 | 71 | 65 | 3.51 | 1.19 | |
通算:9年 | 266 | 252 | 110 | 27 | 23 | 135 | 72 | 3 | -- | .652 | 7509 | 1857.1 | 1628 | 253 | 443 | 33 | 23 | 1366 | 4 | 3 | 690 | 624 | 3.02 | 1.12 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別打撃成績
年度 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二打 | 三打 | 本打 | 塁打 | 打点 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 三振 | 併殺 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979 | 27 | 55 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 3 | 0 | 1 | 28 | 2 | .055 |
1980 | 34 | 83 | 4 | 11 | 1 | 0 | 3 | 21 | 6 | 6 | 1 | 3 | 44 | 2 | .133 |
1981 | 31 | 80 | 3 | 14 | 3 | 0 | 1 | 20 | 8 | 7 | 3 | 1 | 37 | 2 | .175 |
1982 | 31 | 91 | 8 | 16 | 2 | 1 | 3 | 29 | 6 | 9 | 0 | 0 | 32 | 3 | .176 |
1983 | 33 | 77 | 7 | 22 | 3 | 0 | 3 | 34 | 13 | 5 | 0 | 3 | 21 | 2 | .286 |
1984 | 28 | 58 | 5 | 12 | 1 | 0 | 1 | 16 | 2 | 10 | 0 | 4 | 18 | 1 | .207 |
1985 | 32 | 56 | 5 | 15 | 3 | 0 | 1 | 21 | 5 | 10 | 0 | 5 | 24 | 0 | .268 |
1986 | 27 | 65 | 5 | 11 | 2 | 0 | 0 | 13 | 1 | 7 | 0 | 2 | 23 | 2 | .169 |
1987 | 29 | 60 | 6 | 13 | 2 | 0 | 1 | 18 | 5 | 2 | 0 | 2 | 19 | 1 | .217 |
通算 | 272 | 625 | 45 | 117 | 17 | 1 | 13 | 175 | 47 | 59 | 4 | 21 | 246 | 15 | .187 |
タイトル・表彰・記録
- 最多勝利:2回(1980年 - 1981年)
- 最優秀防御率:1回(1981年)
- 最優秀投手:2回(1980年 - 1981年)
- 最高勝率:2回(1981年、1984年) ※当時はタイトルではない
- 最多奪三振:3回(1980年 - 1982年) ※当時はタイトルではない
- MVP:1回(1981年)
- ベストナイン:2回(1980年 - 1981年)
- オールスターゲーム選出:8回(1980年 - 1987年)
- 投手五冠王(1981年、プロ野球史上6人目)
- シーズン10無四死球試合(1982年、セ・リーグ記録)
- 100勝到達最速(1985年当時、ドラフト制導入以降)
- 初登板 1979年6月2日阪神戦(後楽園)
- 初勝利 1979年6月17日広島戦(後楽園)
- 初セーブ 1983年7月29日広島戦(広島)
背番号
- 3 (1979年) - 阪神タイガース
- 30 (1979年 - 1987年) - 読売ジャイアンツ
著書
- 『マウンドの心理学』(2001/07 ザ・マサダ) ISBN 4883970701
- 『江川流マウンドの心理学―野球の面白さ100倍!駆け引きバイブル』(2003/09 廣済堂出版) ISBN 4331653420
関係文献
- 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 p.62~ 1981年のシーズン、西本とのライバル関係等
テレビ・ラジオ
CM
- 熱海後楽園ホテル
- 大正製薬 - 「メンフラハップ」(同郷の松鶴家千代若と共演)
- 不二家 ‐ 「不二家ネクター」・「ザ・ニューヨーク」(チョコレートアソート)・「不二家ピーナッツチョコレート」
- 黄桜(小林繁と共演、2007年10月 - )
脚注
- ^ 江川入学直前の1971年センバツで指揮を執った。江川の高校時代の練習風景を語るときの「徹底的に走り込まされ、水も飲ませてくれなかったほど厳しい」監督はこの人。
- ^ 岡邦行『巨人の星への道―父子鷹、江川と原の真実』
- ^ 「たかが江川されど江川」(江川卓著、新潮文庫、1991年)pp.60 - 61
- ^ 「たかが江川されど江川」pp.56 - 58
- ^ 「たかが江川されど江川」pp.79 - 80
- ^ 「たかが江川されど江川」pp.62 - 63
- ^ 本宮ひろ志「実録たかされ」
- ^ 「たかが江川されど江川」pp.160 - 161
- ^ 「たかが江川されど江川」pp.214 - 216。なおこの話にはオチがあり、引退記者会見後では写真の差し替えが間に合わず、結局江川の写真はそのままカレンダーに使われた。そのカレンダーは当時過去最高の売上を記録したという。
- ^ 「たかが江川されど江川」pp.227 - 228
- ^ 「たかが江川されど江川」p.238、p.245
- ^ 「たかが江川されど江川」pp.219 - 220によれば、当初は純金パターを作らせるつもりだったが、業者から「純金だと重過ぎて振れない」と言われ純銀になったという。なお実際には純銀でも重過ぎたため、後に一部をくり抜いてロウを埋める改造を加えたとのこと。
- ^ 「たかが江川されど江川」pp.233 - 234