槙原寛己

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槙原 寛己
MBSラジオ『亀山つとむのスポーツマンデー!』公開録音にて
(2018年12月22日阪神競馬場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県半田市
生年月日 (1963-08-11) 1963年8月11日(60歳)
身長
体重
187 cm
94 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1981年 ドラフト1位
初出場 1983年4月16日
最終出場 2001年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

槙原 寛己(まきはら ひろみ、1963年8月11日 - )は、愛知県半田市出身の元プロ野球選手投手)、野球解説者野球評論家タレント血液型B型

斎藤雅樹桑田真澄とともに1990年代読売ジャイアンツを支えた先発3本柱の一人。愛称は「マッキー」「マキさん」「ミスター・パーフェクト」など。所属事務所はノースプロダクションオールラウンド

1994年5月18日、史上15人目の完全試合福岡ドームで達成しており、日本プロ野球における平成唯一の完全試合達成者である。

経歴

大府高校在学時から同期の工藤公康名古屋電気高校西武6位指名)・浜田一夫愛知高等学校中日2位指名)とともに愛知三羽烏と呼ばれ[1]剛速球投手として有名だった。1981年第53回選抜高等学校野球大会に出場、ストレートが当時の甲子園最速記録となる147km/hをマークする。工藤、浜田と同年のドラフトの目玉の一人と注目されるが「子供の頃からファンだった巨人か地元球団の中日以外の指名なら社会人野球に進みます」と逆指名宣言をしていた[2]事もあり、ドラフトで読売ジャイアンツに1位指名され入団。入団1年目は二軍での体作りに専念したため登板機会が無かったが、翌1983年に一軍初登板にして初完封を達成するなどの活躍を見せて12勝1セーブ(9敗)の成績を挙げ、新人王に選出された。同年代の若手選手として活躍した駒田徳広吉村禎章らとともに背番号にちなんで50番トリオと呼ばれた。デビュー年と1984年、ストレートの最高球速がボール球ながら155km/hと当時の日本最速スピードを記録。翌年に西武ライオンズに入団した郭泰源が156km/hを出し更新されるが、1984年にマークした155km/hは終速表示であったため「日本人で最初に160km/hをマークするのは槙原では」とさえ言われていた[3]1986年後半から球種をスライダーをメインにし、1992年頃からは走者がいなくてもセットポジションから投げる投球スタイルに変更。150km/hを超えるストレートはあまり見られなくなる反面、与四球率は大幅に改善され、フォークボール、まれにスローカーブも交えながら、引退まで三振の取れる本格派として活躍した。もっとも、送りバントを含めたバッティングおよびフィールディングは非常に苦手であり、同郷で仲の良かった元チームメイトの後藤孝志から「槙原さんはバントがうまかったら200勝していた」と言われている(走者を送れないため結果的に味方からの援護が少なくなることから)[4]

1985年4月17日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で佐野元国とバッテリーを組み、クリーンナップであるランディ・バース掛布雅之岡田彰布に3者連続でバックスクリーンへの本塁打バックスクリーン3連発)を喫した。ただし、阪神戦は通算38勝10敗とかなり相性は良かった。またその2か月後の6月28日の対阪神戦では、巨人軍5000号本塁打を放った(自身プロ生活で唯一の本塁打)。ところが、同年7月14日の対阪神戦の1回表にスネに当たった打球を捕りにいくときに転んで、左股関節骨折の重傷を負い(試合は降雨ノーゲーム)[5]、その後のシーズンを棒に振る(一軍復帰は翌1986年5月となった[6])。

1989年は、開幕から先発ローテーションで活躍しながら、重要な場面では抑えで登場するなどフル回転し、オールスターゲーム前までに12勝3敗4S・防御率1.75という活躍ぶりだったが、オールスターゲーム明け直後の広島戦でバント処理をした際に左足半月板を損傷し、その後のシーズンを棒に振る。日本シリーズでもリリーフで1試合投げたのみだった。

1990年も、前年の怪我が尾を引いていた。4月に2勝したものの、その後は打ち込まれる試合が続き、5月末に不調による再調整と足に打球を受けた治療を理由に二軍落ちした。夏に復帰し、それから調子をあげたが、最終登板で敗戦投手となり9勝止まり。シーズン序盤の不調の影響で4年ぶりに規定投球回に到達できなかった。この年の巨人は投手5人が10勝以上だったが、後述の日本シリーズでは終盤の好調さを買われた槙原が第1戦に先発。しかし流れを西武に引き寄せる3ランを打たれ、負け投手に。流れに乗れなかったチームは日本シリーズ初の初戦からの4連敗を喫してしまう。

1991年のオールスターゲーム(2試合制)では、第1戦で先発したため、第2戦では登板予定がなかった。しかし、第2戦(広島市民球場)が延長戦に突入し、他チームの選手を無理に引っ張ることのできなかった全セ監督・藤田元司は槙原を登板させたが(控えに巨人の投手は槙原しかいなかった)、槙原はビジターのゲームと勘違いしていたため、ホームのユニフォームを忘れてしまい、ユニフォームと同じデザインのTシャツで投げるはめになった。これを最後にNPBのオールスターは、延長戦なし・9回打ち切りとなっている。

巨人では斎藤雅樹桑田真澄とともに「三本柱」と呼ばれるほどの投手であり、1993年には斎藤、桑田が軒並み調子を落とす中で孤軍奮闘し、13勝、防御率2.28の好成績をマークする。しかし斎藤、桑田の2人が年間200イニング以上をコンスタントに投げて年間を通じて活躍するのに対して、槇原は二人に比べて年間200イニングを超えたのは1988年の1度のみであった。また、槙原はなかなか打線の援護に恵まれず、シーズンの勝利数も1993年の13勝が最高であり、主要な投手タイトルを獲得できず、常に先発3番手と見られていた。加えて、1986年の優勝争いの終盤、10月7日の対ヤクルトスワローズ戦でマーク・ブロハードに逆転の決勝2ランを浴びたり、1990年日本シリーズ第1戦1回表にオレステス・デストラーデに先制3ランを打たれたり、1994年の優勝争いにおいても、9月20日の対広島東洋カープ戦で2点リードでリリーフして逆転負け、10月6日ヤクルト戦で1点リードの7回裏二死1・3塁でリリーフして広沢克己に同点タイムリーと秦真司に勝ち越し3ランで1死も取れずに逆転負け、翌々日の10.8決戦では先発して1回0/3でノックアウトなど、「ここ一番に弱い」というイメージが定着していた。

1994年5月18日に福岡ドームで行われた対広島戦で平成初の完全試合を達成(槙原寛己の完全試合[7][8][9]。この時の槙原を最後に日本プロ野球では完全試合達成者は途絶えており、平成唯一および20世紀最後の達成者になった。現役引退後には「ミスター・パーフェクト」として紹介されることも多い。完全試合達成は引退会見の際に記者からの質問で「一番思い出に残っている試合はどれですか?」と聞かれた際、「そりゃ、あれですよ。あれしかないですよ」と答えた程で、本人にとってプロ野球人生の中で最高の思い出となっている。なお、三本柱の斎藤・桑田は現役時代完全試合及びノーヒットノーランは達成していない。

また、同年の西武ライオンズとの日本シリーズでは2勝0敗・防御率0.50と、今までの勝負弱いイメージを払拭する活躍でシリーズMVPも獲得した。

1998年、開幕から出遅れ4月半ばにシーズン初登板となり5月の頭にシーズン初勝利が通算150勝目の記録となった。しかし初登板から不調な投球が目立ったものの、5月16日の対ヤクルト戦の延長戦でチームは勝ち越したがリリーフ投手を使い切りベンチ入りしていたこともあり登板すると無失点で抑え6年ぶりのセーブを記録。この登板を境に調子を取り戻し次の試合ではシーズン初完封し更に三連勝をマーク(通算では四連勝)。しかしその頃チームがストッパー不在に苦しみ6月末からストレートフォークスライダーのキレを買われて、ストッパーに転向。リリーフでの成績は2勝2敗18S防御率2.93(先発での成績は4勝2敗防御率4.71)を記録し、27試合の登板で無失点で抑えたのは23試合ありセーブ機会での失敗による敗戦は一度だけだったが、全国中継が多いチームの宿命からか少しの失敗だけで一部マスコミ等では「ダメ魔神」(さらに犬顔だったことから「犬魔神」とも)と書かれた。これは当時横浜ベイスターズのリリーフエースだった佐々木主浩の「ハマの大魔神」のあだ名をもじったものである。このフレーズは、自虐ネタの達人である槙原が自ら売り込んだほど。契約更改では来季もリリーフでの登板が濃厚で「200勝は諦めます」と記者会見で発表した。

1999年6月12日の対阪神戦(甲子園)では、12回裏同点1死1・3塁の場面で打者の新庄剛志敬遠しようとしたが、新庄に敬遠球を打たれサヨナラ負けした。なお、槙原にとってはこれが現役最後の敬遠であった[10]。年間ではプロ入り初の全試合リリーフ登板をしたが、シーズン終盤に不振の投球でストッパーの座は桑田に代わった。

2000年も開幕から引き続きストッパーとしてシーズンを迎えたが敗戦投手にはならないものの投球内容が悪く、7月15日の対ヤクルト13回戦の9回に登板するも1死も取れないまま降板し更に足を負傷、チームは逆転負けをした。神宮球場は観客前を通らないと球場の外に行けないため車椅子で移動したがファンから罵声を浴びる形で球場を後にする羽目になった。その後シーズン終盤に一軍復帰し福岡ダイエーホークスとの日本シリーズ第1戦に同点の9回にリリーフ登板するも、メルビン・ニエベスに決勝ホームランを打たれ負け投手に。故障後に日本シリーズに合わせ無理に体を作ったことで、それまで一度も怪我が無かった肩を負傷、直球が130km/h台に落ち込む。

2001年、肩の怪我からの再起を目指したが一向に回復せず、このシーズンの一軍での登板は引退試合の1試合の登板に留まり、現役引退。引退試合は9月30日の横浜戦で、この試合では槙原から同年引退が決まっていた斎藤雅樹にリレーされ、二人の球を受けたのはやはり同年引退が決まっていた村田真一だった。

現在はTBSテレビスポーツニッポンの評論家を務める。2017年までは、TBSラジオの野球解説者でもあった。

人物

現役時代

  • 弱視視力が非常に悪かった。コンタクトをつけても矯正が難しく、捕手のサインがよく見えなかった。急な登板でコンタクトレンズをつける時間がなく、誰がグラウンドに立っているかも判別できない状態で投球したこともある。
  • 1984年日米野球にて、槙原はボルチモア・オリオールズの主砲エディ・マレーと対決し、マレーに超特大の場外ホームランを被弾するが、後に自分が完璧に投げて、それでも打たれたホームランだったと述懐している。
  • バース・掛布・岡田の3連続被弾、新庄の敬遠球サヨナラ安打は今でも語り草の一つになっているが、実際は阪神戦にはめっぽう強く、対阪神戦38勝10敗10完封の好成績を残している。阪神以外の4球団との通算対戦成績は121勝118敗と、勝率.506でしかないが、対阪神戦での勝率(.792)が際立っている。プロ初登板での初勝利・初完封も阪神戦である上に、初安打も同試合の2打席目で記録したもので、1985年6月28日対阪神戦(甲子園)で放った球団5000号ホームランは、槙原が現役時代に唯一打ったホームランである。
  • 若手時代からそのストレートの速さについては言われていたが、かつて巨人のエースだった西本聖は「歴代見たピッチャーの中で文句無しにマキが一番球が速い。デビュー当時は江川さんより上だと思った」と槙原のストレートを評している。槙原が一軍に昇格した1983年の春季キャンプでは、ホテルで同室となったがその際「俺は君より速いボールを投げるピッチャーはこれまで見た事がない。俺に君のストレートがあれば年間30勝だって出来る」と槙原を励ましたという。また、2001年9月30日の現役引退セレモニーでも原辰徳 (当時はヘッドコーチ)から「槙原君、 1軍のマウンドで初めて投げた時 150kmのストレート 忘れません」と賛辞を贈られているほどである。
  • また、「スピードガンの申し子」と言われた中日ドラゴンズの速球投手である小松辰雄と共に、タカラ(現タカラトミー)から発売された球速が表示される「速球王」というボールの玩具のCMに出演した事もある。
  • 槙原の持ち球であるスライダーは、チームメートであった篠塚和典二塁手)から教わったとのこと(講演会にて本人談)。本人曰く、1985年に股関節を骨折して2ヶ月ほど戦線を離脱。戦列復帰後に何か新しいことに取り組もうと模索していた際、全体練習にて遊び感覚でピッチング練習をしていた篠塚が、キレのよいスライダーを投げているのを発見。すぐに投げ方を教わって試してみたところ、これが見事に成功。以後、直球とフォークに加わる自身の新しい武器になったという。
  • 1993年この年自己最高の13勝を挙げチーム最多勝であったが、FAの権利を取得したにも関わらず、シーズン終了まで何の対応もしてこない球団フロントに不信感を持ち[11]シーズンオフにはこの年から導入されたFA宣言をしたものの、巨人に残留。この際の引き止めに、長嶋監督が17本のバラを持って自宅に訪れたのは有名な話だが、実際は20本だったらしい[12]
  • 1990年の日本シリーズ第1戦に先発した際、西武のオレステス・デストラーデに3ランを浴び、これがシリーズの流れを決めたといわれている(西武サイドは槙原がカウントノースリーからは、ど真ん中ストレートしか投げないことを把握していた)。当時の西武の監督の森祇晶は巨人と対戦する上で槙原を「最も嫌な投手」としていただけに大きな勝利だったようで、この年は西武の無傷の4連勝で日本一となった。しかし、1994年の日本シリーズで第1戦は大勝で取ったものの、第2戦と優勝決定の第6戦で槙原に抑え込まれ、2勝4敗で西武が敗退する。また、森が西武の監督時に巨人との日本シリーズ(1987年1990年1994年)で完封負けを喫したのは槙原だけである。日本シリーズでは、槙原は森西武に対して通算3勝1敗としており、その3勝も、うち2勝は完封、1勝は内野ゴロの間の1失点による完投と、槙原が一人で投げ抜いた勝利と内容が良い。森にとって「最も嫌な投手」であることに変わりはなかった。2001年引退試合(同年一軍公式戦初登板)では、森が監督就任1年目の横浜・谷繁元信から巨人軍史上最多の通算2111個目の奪三振を記録した。
  • 1994年5月18日の巨人-広島戦(福岡ドーム)における完全試合達成は、前々日の門限破りで外出禁止1ヶ月を言い渡されたため、好投してこれを解こうと奮起した結果であるとシーズンオフに大久保博元と「おしゃれカンケイ」に出演した際に話している[13]。ちなみに同試合で広島の両主砲、江藤智前田智徳はともに欠場であった[14]。余談だが、1950年6月28日に藤本英雄(巨人)が日本球界初の完全試合を達成しており、達成当時は背番号17を付けていた。槙原も達成当時は背番号17であることで、読売ジャイアンツの背番号17から完全試合達成者が実に2人も輩出されることとなった。
  • 1995年オフにレーシック手術を受けたが、最初の手術で左目に痛みが出て物が二重に見えるようになってしまい、翌シーズン直前に新しいコンタクトレンズを用意し、シーズン終了後再手術をすることとなった[15]
  • バース・掛布・岡田の3連続被弾から、11年経った1996年6月19日には、ナゴヤ球場において中日の音重鎮山崎武司大豊泰昭に、3連続被弾をまたも浴びた。
  • 1996年7月、胸の痛みを訴えて入院。肺気胸と診断された。その前日に球団トレーナーが行った鍼治療で電気針を深く打ちすぎたのが原因で、槙原は鍼が原因との自覚を持ちながら、トレーナーを庇うため表沙汰にはしなかったが、球団側が槙原の名誉のために事実を公表。治療を行ったトレーナーを減俸にするなどの処分を行い、槙原には公傷を認めた。槙原は「起きたことは仕方がないので、早くリハビリをして復帰の準備をしたい」などとコメントした。
  • 本人が記憶に残っている試合は、「一番嬉しかった」のが完全試合、「一番悔しかった」のは阪神戦での3連続被弾ではなく、1986年終盤にヤクルト戦でマーク・ブロハードに逆転ホームランを打たれた試合だという[11]。この年巨人は広島と僅差の優勝争いをしていたが、結果としてこの敗戦でゲーム差無しの2位で優勝を逃してしまった。
  • 昭和末期~平成初期、広島戦では、槙原と大野豊との投手戦が数多く繰り広げられた。両者の対戦では「1点失えば負け」の息詰まる投手戦となることが多く、これを懐かしむ巨人ファン、広島ファンも多い。大野は自著で「槙原君との投げ合いはいつも燃えた。『1点でも取られたら終わりだ』と思って投げていた」と語っている[16]
  • 1998年7月15日の横浜戦。3点リードの8回に登板。1点を失い、なおもランナー・一塁のピンチも佐伯貴弘をライトフライに打ち取りチェンジかと思われたがボークが宣告され打ち直しになってしまう。直後に同点2ランを打たれ、続投した9回にサヨナラ負けを喫する。[17]

引退後

  • 現役時代に最も苦手としていた打者として、ヤクルトの古田敦也の名前を挙げている。本人曰く「ボール球も打つわ、(対策を練って)裏をかいたつもりが打たれるわで顔を見るのも嫌だった」とのこと。逆に中日時代の落合博満は、槙原の顔を見るのも嫌なぐらい苦手にしており、セーフティーバントを試みたこともあったという[18]
    • 古田は引退後に「槙原さんは変化球を投げる際に独特の癖があり、特にフォークボールを投げる際はグローブの中でグッと握り直す癖があった」と当時の事情を明かしている。広澤克実も同様の証言をしており、「癖を見抜いても必ず打てるわけではないが対戦する側としては楽。当時ヤクルトの選手はみんな知っており、他のチームでも有名だと聞いた」と解説した。
  • 上記の通り近視で視力が非常に悪く、コンタクトレンズをつけても視力は0.5ほどだという。引退後「実はプロ生活20年で捕手のサインが一度も見えなかった」と告白している[19]
  • 阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」をひどく嫌っていた時期がある。槙原が引退後『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に出演した際に事情を詳しく語っており、飲食店などで「六甲おろし」のカラオケが流れると、決まって1985年の阪神戦におけるバックスクリーン3連発の際にうなだれる自分の姿が画面に大映しにされ、「いつまで笑い者にしたら気が済むんだ」と憤慨していたという。しかしある時期を境に「あれだけのクリーンナップに真っ向勝負した投手は俺だけだ」と誇りに思うようになり、引退後は講演の席などで「バックスクリーン3連発を打たれた槙原です」と笑いを取るネタにする余裕も出来たと述べている。
  • 同学年である野球解説者の金村義明1981年夏の甲子園優勝投手。兵庫・報徳学園高校出身)は、「夏には工藤のいた名古屋電気も破って優勝出来たけれど、その直前の春のセンバツで槙原の大府高校に負けて、投手をあきらめる決心が付いた」と語っている。
  • 2004年Jスポにおいて「巨人が優勝しなかったら増毛する」と口約し、シーズンオフ企画で一回だけであるがアフロヘアーのかつらを被り出演した。
  • 2004年5月には、愛知県碧南市内で発生した強盗傷害事件で実兄が現行犯逮捕された為、出演した番組内にて謝罪する形に至った。
  • 2007年オフは巨人の臨時ピッチングコーチとしてキャンプに参加した。
  • 花火が大好き。着火しようとしていたら花火が急に引火し、勢いよく散った火花が槙原の右手親指に接触し、大きな水ぶくれができた。その翌日(1988年7月20日・対阪神戦)は先発登板日だったため、黙って登板した。8回に水ぶくれが破れたが、事実を知らない解説者が「血が出ながらも頑張っている」といい、槙原は本当のことも言えず、耐えながら投げ続けた(2008年12月15日放送の『Jスポ』で山本昌との対談「すべらない話」より)。
  • 元木大介は自著において冗談交じりに「義兄弟の盃を交した仲」と語り「面倒見のいい人だった」と槙原を評している。特に新人や、他球団から移籍した選手をよく食事や、飲みに誘ったと書かれてある[20]
  • 競馬が大好きで、2008年有馬記念のトークイベントに出席したり、TCK東京競馬場でも度々目撃されている。広島から巨人に移籍した川口和久東スポのコラムで、槙原に1996年の日本ダービーに招待してもらったことを「今でも恩義に感じている」とコメントしている。
  • 関口宏の東京フレンドパークII2009年の正月特番で野球チームの主将として登場。同番組の最多出場(6回)を決めた。
  • 2010年1月1日の着信御礼!ケータイ大喜利お正月スペシャルに、回答読み上げゲストとして出演。「正月の同窓会での様子」を題材にしたお題で、視聴者から寄せられた回答を読み上げた。今田耕司ら司会陣、里田まい次長課長などのゲスト、さらにスタジオ内に集まった多数の大喜利ファンを笑わせる作品が続出し、その日の「ゲスト賞」「最優秀作品賞」も全てこのお題から選ばれた[21]
  • 2016年5月22日に放送された珍種目No.1は誰だ!? ピラミッド・ダービーの「歌声見極めダービー」で、「ニセモノのマキハラ」として、姓が同じ槇原敬之のヒット曲『どんなときも。』を歌唱した。だが、正体を明かさない状態で流された槙原の歌声は音程が外れ気味だったため、司会の設楽統や解答者たちに笑われた上、すぐにニセモノだと見抜かれてしまった。正体が明かされた後には、槙原の歌声に合わせてバックスクリーン3連発の映像も流され、設楽に「バックスクリーン3連発の映像と歌がよく似合ってましたね」とコメントされていた。
  • 金遣いは荒く、現役時代は少なくとも20億は稼いだが、引退後にテレビ出演した時には、その多くを使い果たしたことを告白している。また、株取引にも金を多く費やしており、夫人は不満をもっている事を述べている[22]
  • 2019年4月30日、平成最後の日で平成最後の試合となった巨人-中日3回戦(東京ドーム)前に、槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の“平成の3本柱”がマウンドに立ち、「10・8決戦」のリレー形式での始球式を行った。捕手は村田真一が務めた。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1983 巨人 31 25 9 3 0 12 9 1 -- .571 764 184.0 165 19 66 2 6 124 1 1 83 75 3.67 1.26
1984 27 24 5 2 0 8 9 0 -- .471 646 145.2 143 20 72 3 4 114 6 0 83 76 4.70 1.48
1985 14 13 5 1 0 4 7 0 -- .364 406 92.1 94 10 46 2 1 57 3 1 43 41 4.00 1.52
1986 22 15 6 3 2 9 6 0 -- .600 453 114.0 88 8 29 4 1 125 1 0 32 29 2.29 1.03
1987 21 21 5 2 1 10 6 0 -- .625 582 140.1 132 12 38 4 1 132 4 0 56 53 3.40 1.21
1988 27 27 11 4 1 10 13 0 -- .435 843 208.2 170 11 43 8 7 187 6 0 63 50 2.16 1.02
1989 21 17 14 4 0 12 4 4 -- .750 592 150.2 113 6 33 4 2 141 4 1 34 30 1.79 0.97
1990 17 15 6 0 1 9 5 0 -- .643 440 102.1 107 7 32 0 3 87 2 0 48 45 3.96 1.36
1991 25 25 11 2 0 9 12 0 -- .429 781 186.0 176 20 59 0 10 152 7 3 76 70 3.39 1.26
1992 29 26 12 2 0 12 13 1 -- .480 858 196.0 192 21 80 4 5 159 4 0 88 78 3.58 1.39
1993 28 24 5 3 0 13 5 0 -- .722 715 173.2 149 17 53 1 4 175 12 0 54 44 2.28 1.16
1994 29 26 7 4 1 12 8 0 -- .600 762 185.0 169 12 49 6 7 153 5 2 62 58 2.82 1.18
1995 26 25 8 2 1 11 8 0 -- .579 768 190.2 167 22 44 9 3 145 4 0 67 61 2.88 1.11
1996 18 18 4 1 0 6 6 0 -- .500 519 122.1 113 18 53 3 1 92 7 0 57 56 4.12 1.36
1997 25 24 4 1 1 12 9 0 -- .571 614 150.2 140 23 36 3 2 115 2 2 62 58 3.46 1.17
1998 36 9 1 1 1 6 4 18 -- .600 332 81.1 67 12 23 0 2 77 0 3 39 36 3.98 1.11
1999 45 0 0 0 0 4 3 23 -- .571 178 41.1 40 4 11 3 1 55 4 1 14 13 2.83 1.23
2000 21 0 0 0 0 0 1 9 -- .000 81 19.2 15 1 6 1 1 20 3 0 9 9 4.12 1.09
2001 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 1 0.1 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0.00 0.00
通算:19年 463 334 113 35 9 159 128 56 -- .554 10335 2485.0 2240 243 773 57 61 2111 75 14 970 882 3.19 1.21
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000投球回:1989年6月27日、対広島東洋カープ10回戦(広島市民球場
  • 1000奪三振:1991年6月16日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(北九州市民球場)、3回表に宮里太から ※史上82人目
  • 1500投球回:1992年9月1日、対ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場) ※史上133人目
  • 100勝:1993年7月13日、対広島東洋カープ14回戦(札幌市円山球場)、先発登板で8回無失点 ※史上107人目
  • 1500奪三振:1994年5月31日、対中日ドラゴンズ7回戦(東京ドーム)、5回表に仁村徹から ※史上36人目
  • 2000投球回:1995年7月31日、対ヤクルトスワローズ18回戦(明治神宮野球場) ※史上72人目
  • 2000奪三振:1998年6月18日、対中日ドラゴンズ14回戦(東京ドーム)、1回表に井上一樹から ※史上15人目
  • 150勝:1998年5月5日、対横浜ベイスターズ4回戦(東京ドーム)、先発登板で7回2/3を3失点 ※史上42人目
その他の記録
  • 完全試合:1994年5月18日、対広島東洋カープ7回戦(福岡ドーム) ※史上15人目
  • 初本塁打:1985年6月28日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、7回表に工藤一彦から
  • 通算ボーク数:14 ※セ・リーグ記録
  • オールスターゲーム出場:6回 (1988年、1989年、1991年、1992年、1994年、1999年) ※全て監督推薦選出

背番号

  • 54 (1982年 - 1986年)
  • 17 (1987年 - 2001年)

関連情報

出演番組

CM

著書

脚注

  1. ^ 『'85プロ野球 12球団全選手百科名鑑』 第9巻第3号(通算:第88号、1985年3月号)、日本スポーツ出版社、1985年3月31日、37頁。 
  2. ^ 戸郷も続くか…高卒2年目に大ブレークを果たした巨人のスター投手とは
  3. ^ 『永久保存版・日本プロ野球名投手100人』槙原寛己の項目(1989年、ベースボール・マガジン社
  4. ^ “G魂”注入!?元巨人選手 東海大臨時コーチに
  5. ^ 読売新聞1985年7月15日朝刊19面、同18日朝刊17面
  6. ^ 読売新聞1986年5月4日17面
  7. ^ この試合は、巨人軍公式戦通算7000試合目と節目の試合であった。
  8. ^ 日本プロ野球では、人工芝球場初、ドーム型球場初の完全試合であり、完全試合がテレビで全国に生中継されたのも初めてのことだった。
  9. ^ その功績を称えて他球団の選手で唯一、「暖手の広場」に手形が設けられている。
  10. ^ 新庄のサヨナラ敬遠打は「絶対にベースを踏んでいた」と槙原│NEWSポストセブン2015年8月23日閲覧。
  11. ^ a b 『パーフェクトとKOのあいだ - ここ一番の投球心理』(光文社
  12. ^ スポニチFLASH photo & blog スポニチBlog 槙原寛己のベースボール見聞録|上原、今年はその身をチームに捧げてよ!
  13. ^ ジャイアンツ広場 動画 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
  14. ^ 槙原の完全試合について記者からコメントを求められた前田は、「槙原さんに言うとってください、『ワシと(前田と同じく怪我で欠場していた)江藤さんのいないカープを抑えて、そんなにうれしいですか』と」と答え、悔しさを滲ませた。そして同年7月9日の同カード(広島市民)で槙原からバックスクリーンへ本塁打を放った際は「完全試合以来、槙原さんが出てくると(気持ちが)熱くなった。明らかに普通とは違った緊張感がありました。そうした逆境が僕を燃えさせるんです」と語っている。
  15. ^ 週刊プレイボーイ』2009/06/15号(集英社
  16. ^ 大野豊自伝『全力投球:我が選んだ道に悔いはなし』(2001年、宝島社ISBN 4796621237
  17. ^ 著書 パーフェクトとKOのあいだ
  18. ^ 落合博満自伝『勝負の方程式』(小学館 1994年6月 ISBN 4093871213
  19. ^ 元巨人・槙原氏が告白 “プロ生活20年間ずっと・・・・・・”[リンク切れ]
  20. ^ 『クセ者:元木大介自伝』(双葉社、2006年3月、ISBN 4575298794
  21. ^ この日は、毎年正月に来る阿藤快がスケジュールの都合で出演出来ず、槙原と山下真司に出演依頼が来たという。そのため、毎年恒例の正月の家族旅行を延期させ、さらに「大好きな酒も我慢して来た」とコメントした。
  22. ^ 元巨人軍夫婦 引退後の人生SP

関連項目

外部リンク