「日本将棋連盟」の版間の差分
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2012年4月13日 (金) 16:45時点における版
公益社団法人日本将棋連盟(にほんしょうぎれんめい)は、将棋の棋士活動を運営する公益社団法人である。四段以上の棋士、女流棋士および指導棋士によって組織される。ただし、全国各地に存在する日本将棋連盟支部は、連盟に認められた一般の将棋愛好家によって組織される。
通常、棋士総会で2年ごとに選出された役員、及び職員によって運営される。
目的として「将棋道の普及・発展を図り、併せて国際親善の一翼を担い、人類文化の向上に寄与すること」を謳っている。
沿革
- 1924年9月8日 - 東京で専門棋士を擁していた東京将棋倶楽部・将棋同盟社・将棋研究会の三派が合同して東京将棋連盟を結成。名誉会長に関根金次郎、会長に土居市太郎が就任。
- 1927年 - 関西の棋士も合流して日本将棋連盟となる。
- 1935年 - 初の実力制名人を決める全八段の特別リーグ(第1期名人戦)が開始するも、神田辰之助七段の参加権(八段昇段)を巡った内部対立が起こり、将棋連盟と革新協会に分裂(神田事件 )。
- 1936年 - 2団体を統一し、将棋大成会となる。神田も名人戦に参加。
- 1937年 - 第1期名人戦が終了。木村義雄が実力制の最初の名人の座に就く。
- 1947年 - 名称を日本将棋連盟として、会長に木村義雄が就任。
- 1949年7月29日 - 社団法人となる。
- 1975年 - 女流棋士の初の棋戦・第1期女流名人位戦が行われ、蛸島彰子が初代女流名人となる。
- 1987年 - 第1期竜王戦が始まる。
- 1989年 - 下部組織として女流棋士会が発足。
- 2005年 - 将棋界で俗に言われる「盤寿」にあたる創立81周年を迎え、記念のイベントなどを開催。
- 2007年 - 女流棋士の一部が「日本女子プロ将棋協会(LPSA)」として分離・独立。
- 2008年5月 - 「将棋世界」誌6月号において、米長会長が、「公益法人制度改革」[1]に伴い、「公益社団法人」の許可を目指すため、改革の必要があることを表明。
- 2009年3月30日 - 刊行物の制作・販売を同4月から毎日コミュニケーションズに委託すると発表。ただし、「将棋世界」誌と「将棋年鑑」は従来どおり将棋連盟が編集・発行を行い、販売のみ毎日コミュニケーションズにて行う[2]。
- 2009年4月1日 - 女流棋士も含む新たな「棋士会」が発足。初代会長は谷川浩司。女流棋士会は存続(ただし、女流棋士会独自の役員制度は廃止)。
- 2010年8月 - 奨励会入会試験に、中華人民共和国上海在住の中国人ツァンシンが6級に合格。外国在住者が初合格となる。
- 2010年11月12日 - 臨時総会にて、女流四段以上およびタイトル経験のある女流棋士を正会員とすることを決議[3]。
- 2011年3月4日 - 公益認定等委員会が、日本将棋連盟の公益社団法人への移行認定を答申[4]。
- 2011年4月1日 - 公益社団法人となる[5]。
棋士総会
総会は、公益社団法人である日本将棋連盟が行う。連盟の役員(理事)の改選や、連盟の制度といった重要な事項を決定する。日本将棋連盟において棋士総会に出席する「社員」は正会員(棋士、および、女流四段以上またはタイトル経験のある女流棋士[3])である。それ以外の女流棋士、および、奨励会員、指導棋士、支部会員らは連盟の正会員ではなく、棋士総会に参加する権利を持たない。
定例総会は年に1回、順位戦が開始される前の5月ごろに行われる。その他重要な議決が発生したときは、臨時総会が開かれることもある。
過去に棋士総会で決定した主な議決事項
- 1976年 - 臨時総会で名人戦の主催が朝日新聞社から毎日新聞社に移ることが承認される。
- 2005年 - 瀬川晶司のプロ編入試験を実施することが決定する。
- 2006年 - 名人戦の移管問題についての議決。毎日新聞社の条件を受けて臨時総会で毎日との契約を継続するかどうかを表決で決定する。臨時総会において、毎日側の提案を否決。
- 同年 - アマチュア選手のプロ編入制度が正式に承認される。
役員
役員の任期は2年である。公益社団法人移行に伴い、会員による選挙で選ばれた棋士及び職員からなる常勤理事と、棋士1名・女流棋士1名・外部理事からなる非常勤理事による体制となった。
現体制
(2011年5月26日から)
常勤理事
役職 | 名前 | 段位・称号 | 担当 |
---|---|---|---|
会長 | 米長邦雄 | 永世棋聖(引退) | 文化芸術振興局 |
専務理事 | 谷川浩司 | 九段(17世名人有資格者) | 渉外部 |
常務理事 | 東和男 | 七段 | 関西本部 |
常務理事 | 田中寅彦 | 九段 | 事業本部 |
理事 | 北島忠雄 | 六段 | 総務部・電子メディア部 |
理事 | 長島俊之 | 連盟事務局総務・経理部長 | 経理部 |
- 中川大輔は、普及部担当の常務理事に就任するも、12月、一身上の都合により辞任。
非常勤理事
役職 | 名前 | 職業 |
---|---|---|
理事 | 渥美雅之 | 棋道師範、杏林堂薬局会長 |
理事 | 川淵三郎 | 日本サッカー協会名誉会長 |
理事 | 小林千寿 | 囲碁棋士、日本棋院常務理事 |
理事 | 杉田亮毅 | 日本経済新聞社取締役会長 |
理事 | 島朗 | 棋士(九段) |
理事 | 谷川治恵 | 女流棋士(五段、引退) |
監事 | 大内隆美 | 構想日本政策スタッフ |
監事 | 滝誠一郎 | 棋士(七段) |
前体制
(2009年5月26日から、投票で選出された者のみ記載)
役職 | 名前 | 段位・称号 | 担当 |
---|---|---|---|
会長 | 米長邦雄 | 永世棋聖(引退) | 公益法人改革(正) |
専務理事 | 西村一義 | 九段(引退) | 総務(正)、経理(正) |
常務理事 | 淡路仁茂 | 九段 | 関西普及推進(正)、電子メディア(正)、関西総務・渉外(副) |
常務理事 | 桜井昇 | 八段(引退) | 免状(正)、普及推進(正) |
常務理事 | 青野照市 | 九段 | 渉外(正) |
理事 | 西川慶二 | 七段 | 関西総務・渉外(正)、関西公益法人改革(正)、関西普及推進(副) |
理事 | 中川大輔 | 七段 | 電子メディア(正)、広報(正) |
理事 | 上野裕和 | 五段 | 総務(副)、出版・販売(正) |
監事 | 関根茂 | 九段(引退) | |
監事 | 滝誠一郎 | 七段(フリークラス宣言者) |
戦後の歴代会長
- 1947年 - 木村義雄
- 1948年 - 渡辺東一
- 1953年 - 坂口允彦
- 1955年 - 萩原淳
- 1957年 - 加藤治郎
- 1961年 - 原田泰夫
- 1967年 - 坂口允彦
- 1969年 - 丸田祐三
- 1973年 - 加藤治郎
- 1974年 - 塚田正夫
- 1977年 - 大山康晴
- 1989年 - 二上達也
- 2003年 - 中原誠
- 2005年 - 米長邦雄
棋士会
女流棋士も含む新たな「棋士会」が2009年4月1日に発足した。
就任・交代年月日 | 名誉棋士会長 | 会長 | 副会長 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
2009年4月1日[6] | 中原誠 | 谷川浩司 | 清水市代 | 佐藤康光 | 森内俊之 | 矢内理絵子 |
2011年4月1日[7] | 中原誠 | 佐藤康光 | 矢内理絵子 | 中村修 | 井上慶太 | 村田智穂 |
2011年4月11日[8] | 佐藤康光 | 矢内理絵子 | 中村修 | 井上慶太 | 村田智穂 |
中原名誉棋士会長の任期は、70歳まで。しかし、2011年4月11日付けで名誉棋士会長を辞退。
この棋士会発足に伴い、女流棋士会独自の役員制度は廃止され、谷川治恵女流棋士会長らの役員は退任した。
谷川浩司初代会長の方針は、下記の通りである[9]。
- 技術研鑽や普及活動の在り方などについて会議で議論する
- 棋士会主導のイベントなどを開催してファンと交流を深める
本部・将棋会館
本部は3ヵ所に設けられてたが、公益社団法人発足に伴い、東海本部は、東海普及連合会と改称したため、2ヵ所となる。所在地は次の通り。
定期刊行物
- 将棋世界
- 将棋年鑑
参考資料
脚注
- ^ 2008年12月から5年間の移行期間を経て、すべての社団法人が「公益社団法人」か「一般社団法人」のいずれかに分かれることになる。
- ^ 日本将棋連盟の刊行物を制作・販売
- ^ a b 臨時総会について(日本将棋連盟)11月12日閲覧
- ^ 公益法人information
- ^ 公益社団法人日本将棋連盟としてスタート(日本将棋連盟)2011年4月1日
- ^ 新棋士会発足について(2009年4月6日、日本将棋連盟)
- ^ 「棋士会」役員変更のお知らせ(2011年4月4日、日本将棋連盟)
- ^ 「棋士会」役員変更のお知らせ(2011年4月11日、日本将棋連盟)
- ^ 新棋士会発足について(日本将棋連盟)