田淵幸一
東北楽天ゴールデンイーグルス コーチ #88 | |
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![]() 2011年8月30日、こまちスタジアムにて | |
基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 東京都豊島区 |
生年月日 | 1946年9月24日(77歳) |
身長 体重 |
186 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手、一塁手、指名打者 |
プロ入り | 1968年 ドラフト1位 |
初出場 | 1969年4月12日 |
最終出場 | 1984年9月29日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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田淵 幸一(たぶち こういち、1946年9月24日 - )は、東京都豊島区出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)、プロ野球指導者(監督、コーチ)、野球解説者、阪神タイガースOB会会長(第6代)。
株式会社タブチエンタープライズ所属(生島企画室にも業務提携で在籍)。ニックネームは「ブチ」「ブッちゃん」「タブタ」「オッサン(東尾修が使用)」。3代目ミスタータイガースとも称される。
現役時代は阪神タイガースの主砲として活躍し、1979年に移籍した西武ライオンズではチームの2年連続リーグ優勝・日本一に貢献した。引退後はダイエー・ホークスの監督、阪神タイガースのコーチを歴任。北京オリンピック野球日本代表ヘッド兼打撃コーチも務めた。TBS・スポーツニッポンの解説者(TBS解説でのキャッチフレーズは「天才ホームランアーチスト」)を経て、2011年より東北楽天ゴールデンイーグルスのヘッド兼打撃コーチ。同年6月5日よりヘッドコーチ専任。
経歴
プロ入り前
会社を経営していた裕福な家庭で生まれ育った。両親と姉の4人家族。豊島区立高田中学校在学中に野球を始め、2年生から5番を打つ。法政大学第一高等学校で捕手となり、4番を打った。3年生時の1964年には夏の甲子園の東京都大会準々決勝まで進んだ。
法政大学経済学部に進学し、1年生の春から東京六大学野球リーグに出場。山本浩二・富田勝と共に「法政三羽烏」と呼ばれ、3年生の春にそれまでの本塁打リーグ通算記録(8本)を早々と更新、通算で22本塁打まで伸ばし、1997年に高橋由伸に破られるまでリーグ記録だった。
1968年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。ドラフト会議前には巨人の指名が確実視され本人もそれを望んでいたとされたが、山本浩二[1]や関西出身の富田を指名すると噂されていた阪神が、「在京ならまだしも関西球団はちょっと…」[1]という田淵を1位指名した。ドラフト前に巨人関係者と会食し、「君には背番号2を用意している」と言われ感激したが、ドラフト指名がこのような結果になってしまい、落胆した[2]。一方、諦めきれない巨人側も、田淵を一度阪神に入団させ後に巨人へ移籍させる「三角トレード」を提案、また密かに田淵との会談を画策したが、阪神側はトレードを拒否。巨人入りが絶望的となり田淵は阪神と契約した[1]。
ドラフト指名後の記者会見で、母親が田淵を「ぼくちゃん」と呼んでいることが発覚して記者たちの度肝を抜いた。大阪へ出発する東京駅では、号泣する母親に記者たちが「まるで出征兵士やな」と失笑を買った。
プロ入り後
阪神入団後は強肩、強打の捕手として1年目からレギュラーに定着。22本塁打を放ち、捕手として初めての新人王を受賞した。しかし、2年目の1970年8月26日の対広島戦で、外木場義郎から左こめかみに死球を受け昏倒。耳からは血が流れており、すぐさま救急車で病院に搬送された[3]。この怪我は「田淵の体質がこれで全て変わってしまった」と言われる程大きなもので、翌年まで尾を引いた。この頃、打撃フォームを一本足打法にしてから飛距離が伸び始め、1972年には34本塁打を記録した。江夏豊とのコンビは「黄金バッテリー」と呼ばれた。しかし、入団当時「もやし」「キリン」のあだ名をつけられるほどやせていた体型が、この頃から急に太りだした。
1973年4月から5月にかけて、巨人を相手に同一カード7打数連続本塁打という記録を作った(4月26日、後楽園球場で6回に関本四十四から左翼席へ3号、8回に菅原勝矢から左翼席へ4号2ラン、9回にも同じ菅原から5号3ラン。続く5月9日に阪神甲子園球場で2回に高橋善正から左翼席へ9号ソロ。次の打席では死球に終わったものの、7回には高橋から左翼席へ10号2ラン、9回にも高橋からセンターへ11号ソロ。翌10日には1回に高橋一三から左翼席へ12号2ラン)。
同年9月9日の対ヤクルト25回戦で、ヤクルトの安田猛が続けていた連続イニング無四死球のプロ野球新記録の更新を81で止める。安田は7月17日の対阪神15回戦、8回表1死二塁で田淵を敬遠で歩かせたのを最後にその試合の9回から無四死球を続け、1950年の白木義一郎の74を破って記録を更新していたが、この試合、2-2の9回2死二塁で田淵を敬遠したことによりその記録が止まった。
1974年に父親が死去。当日、知らせの電報を受け取りながら、監督・金田正泰の「試合を気にせんと帰ったれ」の言葉を振り切って出場し、平松政次から本塁打を2発放った。
1975年には王貞治の14年連続本塁打王を阻止する43本塁打を打ち、初タイトルを獲得した[4]。この前年、田淵は自己最多の45本塁打(自身初のシーズン40本塁打)を放ちながらも4本差で本塁打王を逃していたが、1975年は怪我で出遅れた王を尻目に開幕から打ちまくり、最終的に王に10本差をつけてタイトルを獲得した。しかし、翌年には再び王に本塁打王のタイトルを奪還され、無冠に終わっている。
1978年オフ、堤義明を総帥とする西武グループによる買収で福岡市から埼玉県所沢市へ移転した西武ライオンズにトレードされる。阪神から田淵・古沢憲司の2人、クラウンから真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史の4人という大型トレードであった。
このトレードは深夜に呼び出されて通告されるという異例のものであったが、球団側の「今度行く西武の根本監督は良い監督だから、行ってよく勉強して来い」という説得に対し、「じゃあ、(阪神の)ブレイザー監督は良い監督ではないんですか?」と言い返した。トレード自体は田淵がテレビのインタビューで不満をぶちまけるなどすったもんだの末に決着した。
西武で体を鍛え直し、1980年に一塁手に転向、指名打者でも活躍した。5年ぶりとなる40本塁打以上(43本塁打)を記録(西武球団史上初の40本塁打でもある)。1982年・1983年には阪神時代に成しえなかったリーグ優勝と日本一も経験した。1984年限りで現役引退。
引退後
引退後の1985年から5年間、TBSの解説者を務める。1987年オフに吉田義男監督が退任。後を継いだ村山実新監督からヘッド兼打撃コーチ就任を依頼されたが、過去にトレードに出された際の球団の不手際もあり、復帰を断った[5](村山の希望とは裏腹に阪神球団は田淵の復帰を望んでいなかった)。
1990年に杉浦忠の後任として福岡ダイエーホークスの監督に就任。就任当初は地元・福岡市のある市議会議員が「市を挙げて、市長が先頭に立ってダイエーを応援しよう」と主張し、議員・市民にも同調者は多かった。しかし、1990年は当時史上ワーストのチーム防御率で最下位に終わる。そのため、その議員に「こんなに弱いようでは田淵監督を証人喚問しなければならない」とまで発言された。同年オフには「広島の長嶋と長内がトレードに出されるみたいだ」とセレクション会議の内容を漏らしてしまい減俸処分を受けた。結局Aクラス入りすらできず、成績不振のため1992年限りで退任。1993年から2001年までは、再びTBSの解説者を務める。
2002年、親友である星野仙一の監督就任に伴い古巣・阪神のチーフ打撃コーチに就任。翌2003年のリーグ優勝に大きく貢献する。「うねり打法」と称した打撃理論で濱中おさむ・関本健太郎などを育成する。その反面、成績が奮わない選手や見込みがない選手に対しては早々に見限る事もあり、シビアな側面もあった。デリック・ホワイトの成績不振に対しては「もう(あいつに)直接教える事はない。後は本人次第で頑張ってもらうだけだから」と「戦力外」の烙印を押し、後にホワイトの解雇につながった[6]。
田淵のような専任コーチ経験のない監督経験者が、監督退任後にヘッドコーチ以外のコーチに就いた例は、中西太、杉下茂など兼任監督だったケースが大半で、田淵のケースは珍しい例である[7]。田淵自身は、星野の下でコーチを務めていた頃から「俺は監督に向いていない、せいぜいヘッドコーチまでだ」とたびたび周囲に漏らしていた。2003年オフ、星野が健康上の理由から監督を勇退した際には、「俺は監督と一蓮托生」と自身も退団した。
2004年、三たびTBS解説者として復帰。TBS時代は、いずれもスポーツニッポン評論家との兼務である。2007年1月29日、星野が北京五輪日本代表監督に就任、再び星野の下でヘッド兼打撃コーチとなる。この時、星野からコーチ就任を依頼された際の言葉は「行くぞ」だけであった。結果は振るわず4位に終わった。
2009年秋、阪神タイガースOB会の第6代会長に就任した。2011年からは星野が監督に就任した東北楽天ゴールデンイーグルスのヘッド兼打撃コーチに就任(星野が球団に田淵のコーチ招聘を要請)。阪神、北京五輪日本代表に続き、楽天でも星野をサポートすることになった。しかし、チームの極度の打撃不振から6月5日付で打撃コーチ職を解任され、ヘッドコーチ専任となった[8]。
プレースタイル
打撃
飛距離の長さ、大きく美しい放物線を描くホームランの軌道から「ホームラン・アーチスト」(“アーティスト”とホームランを示す“アーチ”を合わせた造語)と呼ばれていた。特に外角球に強かったが、この長打力には田淵の左腕が右腕より3cmあまり長かったことも影響したとされる。これを発見したのは、新人時代に田淵のスーツを仕立てた洋服屋であった。逆に晩年は、この腕の長さが原因で思うような打撃ができなかったという[9]。
打席ではあくまで冷静で、毎年多くの四球を選ぶ選球眼も武器の一つ。通算本塁打474本は歴代10位(2009年シーズン終了現在)の記録であるが、田淵の特筆すべき点として、本塁打1本を打つのに要する打数の少なさが挙げられる。2009年シーズン終了時点で通算300本塁打を記録した選手は35人いるが、田淵の本塁打率(打数を本塁打で割った数字=本塁打1本を打つのに要する打数)は王貞治、アレックス・カブレラに次いで3番目に少ない。
- 300本塁打以上で本塁打率が15以下の選手(2009年シーズン終了現在)
名前 | 本塁打 | 本塁打率 |
---|---|---|
王貞治 | 868 | 10.66 |
アレックス・カブレラ | 322 | 11.68 |
田淵幸一 | 474 | 12.41 |
タフィ・ローズ | 464 | 13.52 |
松井秀喜 | 332 | 13.77 |
長池徳士 | 338 | 14.41 |
清原和博 | 525 | 14.88 |
落合博満 | 510 | 14.95 |
特に1983年には、故障で82試合しか出場していないにも拘らず30本塁打を打っており、プロ野球では初めて「規定打席に未到達で30本塁打」を記録した選手となった。この記録は2009年シーズン終了時点で田淵を含めて5人が記録しているが、田淵以外はいずれも外国人選手によるものである。
デビューは対大洋戦での江夏豊の代打。平松政次と対戦し、シュートに手が出ず三振だった。これ以後シュートを極端に意識するようになり、若い頃の田淵はホームランを打つと球種が何であろうと取材には「打ったのはシュート」と答えていた。取材したスポーツ記者はこれだけで記事を書かなければならず苦労したという。なお、デビュー戦ではグリップの位置が高かったが、翌日からは下げるように改めた。そのためか、1試合2本塁打という好結果につながった。
対巨人戦に強い打者であり、巨人がV9を達成した1973年には、シーズン37本塁打のうち16本を巨人戦で放っている。また同シーズンには1試合3本塁打を2度記録しているが、2度とも巨人戦である。また、巨人戦で5試合連続で9本塁打、7打数連続本塁打(前述)を記録。優勝争いをしていた10月10日の巨人戦では2-5の劣勢をひっくり返す逆転満塁本塁打を放った。これは田淵にとってプロ入り初の満塁本塁打だったが、田淵の記憶によればプロのみならず「野球人生初」だという。しかし、翌日の巨人戦は一度は7-0とリードしながら江夏がKOされ、10-10の引き分け。残り3試合でマジック1だったにもかかわらず広島、中日に連敗、巨人との最終決戦(10月22日、甲子園)にも敗れ、優勝はならなかった。後に本人も「このとき優勝していれば自分の野球人生は変わっていた」と語っている。
打撃に対する姿勢も天才肌だったようである。西武時代に同僚だった野村克也が、大鏡の前で素振りもせずただ構えをチェックしている田淵を見つけ、何をしているのかと聞くと「僕は構えさえ決まれば打てるんです」と答えた。野村は「構えは確かに大事だが、いい構えだけでさあ何でも来いというのは田淵だけや」と呆れたという[10]。
いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』では、極めて短足で「ドタドタ」と重そうに走る様子が描かれ、「滅多にないことの例え」として「タブラン」(田淵のランニングホームランの略)という言葉が出てくるが、星野仙一によれば法大時代の田淵は俊足であった。長嶋茂雄の六大学記録に迫っていた時、ランニングホームランで達成しそうになり「失礼だ」という理由で三塁で止まったこともある。プロ生活ではランニングホームランは一度もなく、盗塁も18個しか記録していないが、これは肥満以上に度重なる怪我の影響が大きい。また、球界屈指の長足でもあったが、それゆえにバッティングフォームの重心が高く、確実性に欠けるとの指摘もされていた。
現役時代は三振は少なく、1シーズンに100以上の三振を記録したことは一度もない。公式戦における犠打はゼロである[11]。
通算400本塁打以上を放ちながら、2,000本安打に到達しなかった唯一の日本人選手である。 阪神時代と西武時代に1回ずつ4者連続本塁打に絡んだ。
守備
若い頃は巨体ながら捕手としての動きは俊敏で、大学時代には俊足の高田繁との対決が見せ場であった。プロ入りしてからもボールを受けてから二塁に投げるまでの速さはトップクラスで、加えて強肩でもあり、20代の頃は盗塁阻止率4割以上を記録している。
しかし、既述の外木場から受けた死球の影響により聴力の低下や体質変化(肥満)のためにプレーが緩慢になっていったと言われる。よく挙げられるのは、阪神時代に何でもないキャッチャーフライを見失い、落球したというプレーである。また、当時の阪神には辻佳紀・辻恭彦など守備の得意な捕手がいたこともあり、怪我をして以降は一塁や外野でも出場、西武に移籍後は主に指名打者として出場していた。江夏豊によると、田淵が捕手として大成できなかった要因は大雑把な神経にあるという。
その他
一般に曲者揃いとされる捕手の中では珍しい、非常に大らかな好人物である。江夏豊もその人間性について「ブチほど純粋で裏表のない人間はいない」と述べている。目が合って一言でも挨拶してしまうと途端に相手が敵とは思えなくなり、まともな勝負ができなくなってしまうため、試合前に対戦相手の選手とできるだけ目を合わせないようにしていた[12]、「当たると痛い」のでインコースギリギリに投げて打者を威嚇するようなサインは絶対に出さなかった(江本孟紀による)、コーチに「サインが盗まれているから隠せ」と言われても「そんなこすっからいことする人いません」と取り合わなかったなど、人の良さを示す逸話は枚挙に暇がない。また、サイン盗みは卑怯なやり方として絶対に使おうとせず、正々堂々と勝負することを常としていた。
10対0の大差で勝っている試合で、相手チームの選手に懇願され球種を「ストレートだ」と教え、打たれてしまったことがある。その選手は成績が悪く、代打起用でここ一番目立たねばならず「ミルク代を稼がせてください」と必死に打席で頼んだという。妻と子供を抱えているのを知っていて、つい教えてしまった。しかし「ストレートと知っていて打てるわけじゃないから、本人がそれだけの人だった」とも語っている(2008年1月17日放送のNHKラジオ「わが人生に乾杯」で本人談)。
『がんばれ!!タブチくん!!』
1977年から、入団当時に比べ太ってしまった田淵をモチーフとした漫画『がんばれ!!タブチくん!!』(いしいひさいち作)が連載され、単行本がベストセラーになった。漫画の中ではタブチの良きパートナーとしてヤクルトの安田猛や大矢明彦、また当時ヤクルトの監督で後に西武の監督に就任する広岡達朗もキャラクターとして登場[13]、1979年には映画にもなった。
『がんばれ!!タブチくん!!』に出てくる夫人・ミヨコは、前夫人がモデルである。田淵本人は最初知らなかったが、家庭内のネタは前夫人が情報源であったことをテレビ番組内で語っている。自身をネタにされているにもかかわらず田淵自身この漫画の大ファンで、いつも読んでは大笑いしていたという。
また、タレントのダンカンが江夏から直接聞いた話として、劇場アニメ化された際に江夏と2人で鑑賞に行った際、「自分をモデルにした映画だと言うから観に来てみたら、お客さんが全然入っていないじゃないか!」と内容ではなく観客の入りの少なさを怒っていたという。この言葉に江夏は「ま、昼間やから仕方ないやろ。夜やったら満席やで」と慰めたという(DVD-BOX同梱の解説書より)。
現夫人は野球にはまったく興味がなく、この漫画で田淵の存在を初めて知った。その結果として彼女と結婚できたので、田淵自身は「この漫画には不満などなく、むしろ感謝している」と、後年テレビ番組内で語っている。
背番号22
阪神、西武時代を通じて背番号22を着けた(主将となった1968年に「10」をつけた以外、法大時代にも着けていた)。田淵は22という数字に縁があり、大学での通算本塁打数、ルーキーイヤーの本塁打数がいずれも22本である。
田淵が西武に移った後の1983年、阪神は田淵の移籍以来その功績を讃えて空き番にしていた背番号22を、法大出身の木戸克彦捕手に与えた。その後、関川浩一(21から変更)、中谷仁(その後66に変更)までは捕手が続いたが、喜田剛(外野手だが大学時代は捕手、その後55に変更)、マイク・キンケード(内野手だが米国で捕手経験あり)と捕手を経験した野手が続き、2005年からは投手の藤川球児の番号となった。
西武では田淵以後の22は捕手が多く、捕手以外は行沢久隆(内野手・現役最終年の1988年のみ)、清水義之(内野手)、岡本篤志(投手・2012年に59から変更)の3人のみである。外野に専念してレギュラーとして定着する以前の和田一浩(その後5に変更)も捕手との兼任で22を着けていた。
なお、西武の前身である西鉄―太平洋クラブ―クラウンライター時代は、捕手は1950年の笠石徳五郎と1951年の後藤宏之の2人だけで、投手が着けていた時期もあり、主力では玉造陽二(外野手、その後17に変更)、東田正義(外野手)や吉岡悟(内野手、田淵に22を譲った後は8)などが着けていた。また、後にプロゴルファーとなった尾崎将司(投手→内野手)も着けていた。
家族・交友関係
夫人は元女優のジャネット八田(八田有加)である。いわゆるできちゃった結婚であり、田淵は当時バツイチで年齢も35歳であったため話題を呼んだ。二人の間に2男があり、長男はフジテレビアナウンサーの田淵裕章(たぶち ゆうしょう)。
江本孟紀は法政大学の1学年後輩で、江本の阪神移籍後は学生時代以来のバッテリーを組んだ。古沢憲司を含む3人でよく一緒に行動し、田淵が西武へのトレードを伝えられるために呼び出された日にも3人でゴルフをし、場所を変えて球団の再建策を話し合っていたという。
星野仙一、山本浩二とは親友である。もともと大学時代、広島の田舎から出てきた山本に田淵が東京を案内したのがきっかけ。この2人と富田の三羽烏があまりに仲がいいので、星野が嫉妬して割って入ってきた[14]。現役時代、広島遠征時には、敵味方に分かれているにもかかわらず山本と一緒に食事をしたり、山本の家に遊びに行ったりしていたという。
田淵自身は公私混同を避ける為、阪神コーチ時代は星野との友達関係を捨てて一線を画した。しかし、星野を取り上げた日本テレビ系列「スーパーテレビ」では、3人の会食・裏話も飛び出す談笑が放送されており、この中では完全に友達関係であった。阪神コーチ退任時の会見では「ようやくこれからは前みたいに『仙ちゃん』と呼んで、普通に話ができるよ」と発言した。
西武時代チームメイトだった東尾修も親友。東尾は田淵より4歳年下であるが同期入団なので、東尾は田淵のことを親しみを込めて「オッサン」と呼ぶ。
『がんばれ!!タブチくん!!』がアニメ映画化された際に主人公・タブチの声を演じた西田敏行とは、西田自身が阪神ファンであることもあって親交を深め、その縁で西田が「局長」を務める朝日放送の「探偵!ナイトスクープ」に田淵も番組顧問として不定期に出演している。田淵に映画『釣りバカ日誌』への出演を依頼したこともあるが、実現しないままシリーズが終了した。
アクシデント
以下に記す通り、田淵は、毎年のように大きな怪我や病気に見舞われていた。
- 1969年:左肘打撲
- 1970年:腰痛、右足首捻挫、左側頭部死球(前述。この影響で左耳が難聴である)
- 1971年:急性腎臓炎、左手首・左足打撲
- 1972年:左手首打撲、頭部打撲
- 1973年:急性腰筋痛(3回)
- 1974年:左手関節挫傷、左前腕打撲、右肘関節挫傷
- 1975年:右足挫傷
- 1976年:右膝打撲、左側頭部打撲
- 1977年:左肘痛、右手親指骨折
- 1978年:腰痛
- 1979年:アキレス腱痛
- 1980年:前頭部打撲、右膝打撲
- 1981年:右膝打撲(2回)
- 1983年:左手尺骨下端骨折
- 1984年:花粉症(本人曰く、「花粉症が騒がれる以前(1970年代以前)から春先は風邪のような症状があって、春の田淵は調子が悪いと言われていた」)
怪我のせいでタイトルを棒に振ったシーズンも多く、また、腎臓炎治療の際の投薬治療が原因で肥満するようになったと言われる。全試合出場は1975年、1976年の2度しか記録できなかった。王の連続シーズン本塁打王をストップしたのは田淵だが、王は田淵について「瞬間的爆発力という点ではすごかったと思うけど、何しろ怪我が多かったからね。(タイトル争いの上では)怪我らしい怪我をほとんどしない山本浩二や衣笠のほうが不気味だったね。」と語っている[15]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1969 | 阪神 | 117 | 412 | 359 | 47 | 81 | 15 | 1 | 22 | 164 | 56 | 1 | 6 | 0 | 2 | 42 | 1 | 9 | 98 | 12 | .226 | .320 | .457 | .777 |
1970 | 89 | 355 | 316 | 40 | 77 | 11 | 0 | 21 | 151 | 40 | 1 | 2 | 0 | 0 | 32 | 3 | 7 | 74 | 6 | .244 | .327 | .478 | .805 | |
1971 | 80 | 329 | 276 | 34 | 63 | 5 | 0 | 18 | 122 | 45 | 2 | 2 | 0 | 2 | 45 | 3 | 6 | 68 | 8 | .228 | .347 | .442 | .789 | |
1972 | 128 | 533 | 469 | 71 | 121 | 16 | 2 | 34 | 243 | 82 | 2 | 1 | 0 | 3 | 55 | 14 | 6 | 91 | 12 | .258 | .341 | .518 | .860 | |
1973 | 119 | 499 | 398 | 77 | 102 | 6 | 0 | 37 | 219 | 90 | 0 | 2 | 0 | 7 | 85 | 24 | 9 | 69 | 16 | .256 | .393 | .550 | .943 | |
1974 | 129 | 529 | 407 | 83 | 113 | 14 | 0 | 45 | 262 | 95 | 2 | 2 | 0 | 4 | 102 | 28 | 16 | 67 | 13 | .278 | .437 | .644 | 1.080 | |
1975 | 130 | 531 | 426 | 79 | 129 | 14 | 4 | 43 | 280 | 90 | 2 | 2 | 0 | 2 | 88 | 25 | 15 | 64 | 18 | .303 | .437 | .657 | 1.094 | |
1976 | 130 | 515 | 440 | 82 | 122 | 14 | 0 | 39 | 253 | 89 | 1 | 0 | 0 | 2 | 65 | 8 | 8 | 56 | 12 | .277 | .379 | .575 | .954 | |
1977 | 102 | 381 | 341 | 48 | 89 | 11 | 0 | 23 | 169 | 59 | 2 | 0 | 0 | 2 | 32 | 4 | 6 | 40 | 11 | .261 | .333 | .496 | .829 | |
1978 | 117 | 467 | 413 | 64 | 119 | 8 | 0 | 38 | 241 | 89 | 1 | 2 | 0 | 2 | 44 | 5 | 8 | 50 | 9 | .288 | .366 | .584 | .950 | |
1979 | 西武 | 107 | 429 | 382 | 59 | 100 | 14 | 2 | 27 | 199 | 69 | 0 | 1 | 0 | 4 | 33 | 1 | 10 | 54 | 9 | .262 | .333 | .521 | .854 |
1980 | 123 | 507 | 440 | 75 | 117 | 9 | 1 | 43 | 257 | 97 | 3 | 3 | 0 | 5 | 49 | 3 | 13 | 79 | 13 | .266 | .353 | .584 | .937 | |
1981 | 86 | 330 | 283 | 31 | 70 | 3 | 1 | 15 | 120 | 49 | 0 | 0 | 0 | 3 | 40 | 2 | 4 | 39 | 11 | .247 | .345 | .424 | .769 | |
1982 | 114 | 386 | 340 | 43 | 74 | 8 | 0 | 25 | 157 | 59 | 0 | 1 | 0 | 3 | 40 | 1 | 3 | 51 | 6 | .218 | .303 | .462 | .765 | |
1983 | 82 | 349 | 300 | 56 | 88 | 11 | 0 | 30 | 189 | 71 | 1 | 0 | 0 | 1 | 43 | 2 | 5 | 31 | 5 | .293 | .390 | .630 | 1.020 | |
1984 | 86 | 323 | 291 | 20 | 67 | 8 | 1 | 14 | 119 | 55 | 0 | 0 | 0 | 1 | 28 | 1 | 3 | 41 | 15 | .230 | .303 | .409 | .712 | |
通算:16年 | 1739 | 6875 | 5881 | 909 | 1532 | 167 | 12 | 474 | 3145 | 1135 | 18 | 24 | 0 | 43 | 823 | 125 | 128 | 972 | 176 | .260 | .361 | .535 | .896 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績
年度 | 試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 |
---|---|---|---|---|---|
1969 | 82 | 58 | 27 | 31 | .534 |
1970 | 88 | 67 | 30 | 37 | .552 |
1971 | 1 | 0 | 0 | 0 | - |
1972 | 114 | 109 | 50 | 59 | .541 |
1973 | 114 | 79 | 38 | 41 | .519 |
1974 | 123 | 96 | 60 | 36 | .375 |
1975 | 128 | 109 | 65 | 44 | .376 |
1976 | 118 | 74 | 46 | 28 | .378 |
1977 | 71 | 65 | 49 | 16 | .246 |
1978 | 79 | 65 | 44 | 21 | .323 |
1979 | 25 | 45 | 34 | 11 | .244 |
1984 | 1 | 0 | 0 | 0 | - |
通算 | 944 | 767 | 443 | 324 | .422 |
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990年 | ダイエー | 6位 | 130 | 41 | 85 | 4 | .325 | 40.0 | 116 | .251 | 5.56 | 44歳 |
1991年 | 5位 | 130 | 53 | 73 | 4 | .421 | 29.0 | 152 | .253 | 4.74 | 45歳 | |
1992年 | 4位 | 130 | 57 | 72 | 1 | .442 | 24.0 | 139 | .258 | 4.60 | 46歳 | |
通算:3年 | 390 | 151 | 230 | 9 | .396 | Bクラス3回 |
- ※1990年から1996年までは130試合制
タイトル
- 本塁打王:1回 (1975年)
表彰
- 新人王(1969年)
- ベストナイン:5回 (1972年 - 1976年)
- ダイヤモンドグラブ賞:2回 (1973年 - 1974年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1983年)
- パ・リーグプレーオフ優秀選手賞:1回 (1982年)
- 月間MVP:2回 (1975年4月、1983年5月)
- 正力松太郎賞:1回 (1983年)
記録
- 初打席:1969年4月12日、対大洋ホエールズ1回戦(阪神甲子園球場)、9回ウラ江夏豊の代打
- オールスターゲーム出場:11回 (1969年 - 1976年、1978年 - 1979年、1984年)
- 4打数連続本塁打(1973年5月9日 - 5月10日)
- 13打席連続出塁(1974年8月6日 - 8月8日)
背番号
- 22 (1969年 - 1984年)
- 81 (1990年 - 1992年)
- 88 (2002年 - 2003年、2011年 - )
関連情報
歌
- 六つの星(1976年5月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
出演
- 野球中継(テレビ)
- 野球中継(ラジオ)
- TBSラジオ エキサイトベースボール
- MBSタイガースナイター(MBSがJRN担当となる月・金曜ゲスト)
- ABCフレッシュアップベースボール(ABCがJRN担当となる火~木・土・日曜ゲスト)
- RCCカープナイター・カープデーゲーム中継(RCCが原則としてJRN受けとなる月・火・土・日曜の『巨人/横浜/西武/ロッテ vs.広島』のTBSラジオからの裏送り。RCC以外への裏送り中継への出演は少なかった)
- バラエティなど
出演映画
脚注
- ^ a b c 【11月12日】1968年(昭43) 田淵、山田、東尾…史上最強のドラ1組は交渉も難航
- ^ 田淵幸一の歴史
- ^ この事態に衝撃を受けた球界は、以後耳つきヘルメットを使用することになった。
- ^ 現在に至るまで捕手としては最後の本塁打王獲得者
- ^ 阪神の馬鹿力・ミリオンムックより
- ^ ただし、「ホワイトに骨折が判明し、試合に出られる状態ではないのにベンチに入って声を出していた姿に感激して、おそらく解雇になるだろうホワイトの幸運を祈った」と自著に記している。
- ^ 田淵以前の例として、阪神などの監督を歴任後に西鉄ライオンズの投手コーチを務めた石本秀一がいるが、石本はプロ野球での選手経験がない点が田淵とは異なる。
- ^ コーチ人事について2011年6月5日 東北楽天ゴールデンイーグルス・オフィシャルサイト
- ^ 近藤唯之『引退 そのドラマ』新潮文庫
- ^ Sports Graphic Number・編『豪打列伝』文藝春秋社・文春文庫ビジュアル版
- ^ 一度だけ試みたが失敗し、その打席で本塁打を打ったため。足が遅いため併殺打になると監督たちが考え、犠打のサインを出さなかった可能性がある(2008年1月17日放送のNHKラジオ「わが人生に乾杯」で本人談)。
- ^ ホームランだけが人生だ―プロ野球ファンに捧げる豪打一発(カッパ・ノベルス - ノンフィクションシリーズ) ISBN-13: 978-4334025229
- ^ タブチを含むこの漫画の主要キャラクターの多くは、スターシステムで以降のいしいひさいちの漫画に登場している(例えば『ののちゃん』の体育教師タブチ)。
- ^ 1989年正月に朝日放送で放映された「新春ビッグ放談」ではこの3人による対談が行われた。
- ^ 文春ビジュアル文庫「豪打列伝2」山本浩二の項より