ジャパニーズ・メタル

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ジャパニーズ・メタルは、1980年代に流行した音楽のジャンルで、日本人によるヘヴィメタルを指す。ジャパメタと略して呼ばれることもある。

ほぼ同様の意味で用いられる言葉として、和製ヘヴィメタルがある。

この項目では日本のヘヴィメタルシーンの歴史について解説する。

ジャパニーズメタルの歴史[編集]

1960年代[編集]

ザ・ゴールデン・カップスザ・モップス内田裕也とザ・フラワーズパワーハウスなど一部の洋楽志向のグループ・サウンズ・バンドがジミ・ヘンドリックスクリームアニマルズ等の曲をカヴァーしていた。グループ・サウンズのブームも終わりかけた頃(1960年代末)、日本ではニューロックを手掛けるバンドが急増した[要出典]

1970年代[編集]

内田裕也のプロデュースによってフラワー・トラベリン・バンドが1970年に結成。ブラック・サバスキング・クリムゾン等のコピー曲が大半だった1stアルバム『ANYWHERE』(1970年)ののち、バンドは米アトランティック・レーベルと契約を結び、オリエンタリズム溢れるハード・ロックの2nd『SATORI』(1971年)等を発表、日本のハードロック/ヘヴィメタル系バンドで初めて海外でもライブ・ツアーを行っている[1]ミッキーカーチス&サムライは1960年代後期にヨーロッパで活動[2]を行なっているが、このバンドの音楽性はサイケデリック・ロックであって、ハード・ロックではない。しかしながら、海外レーベルの契約とともに活動拠点をカナダに移したことによって日本国内での活動の空白期を作ったことや、そもそもが外来語である英語の歌詞にこだわった彼らに対して、当時の日本が演歌歌謡曲フォークソングなど日本語歌詞で情緒に訴えかける音楽が全盛だったことなど、複数の要素が絡み合い、1973年の帰国後間もなくして解散してしまう。

1970年ザ・ハプニングス・フォークニ河内内田裕也率いるザ・フラワーズからフラワー・トラベリン・バンドに移行する前の石間秀樹ジョー山中らは『クニ河内とかれのともだち』名義で、すべて日本語で構成されたアルバム「切狂言」を録音している(発売は、フラワートラベリンバンドのファーストアルバムの発売より後)。

同年、元ザ・フィンガーズ成毛滋はヴァニラ・クリームを経て、ジプシー・アイズを結成。1971年にはつのだひろ柳ジョージらと共にストロベリー・パス名義で、ジミ・ヘンドリックスやレッド・ツェッペリン、ELP等からの影響が色濃く出たハードロック/プログレ・アルバムを発表。その後、柳に代わり高中正義をベーシストに迎え入れたストロベリー・パスはフライド・エッグへと発展する。成毛は海外でロック・コンサートを観覧した折にロック・サウンドを大音量で鳴らすことの出来るPAシステムの存在を知り、PAシステムを日本国内に持ち込んだ第一人者とされている。

タレントとして活躍する鈴木ヒロミツ井上陽水の初期~中期キャリアの音楽パートナーである星勝らが在籍し、1960年代にグループ・サウンズ・バンドとして活躍したザ・モップスは、1970年代の幕開けとともにレッド・ツェッペリン風のハードロック・バンドへと移行。1971年に発表されたアルバム『御意見無用』に収録された「御意見無用(いいじゃないか)」では、ブリティッシュ・ハード・ロックと阿波踊りのリズムを掛けあわせた和のハードロックを鳴らした。

ヘヴィメタルという観点でいえば、竹田和夫率いるブルース・クリエイションが、「原爆落し」「悪魔と11人の子供達」という曲を1970年にはすでにステージで演奏しており、現在では主に海外においてヘヴィメタルのプロトタイプの1つとして認知されている。1971年には2ndアルバム『悪魔と11人の子供達』と、カルメン・マキとのコラボ・アルバム『カルメン・マキ/ブルース・クリエイション』を発表するが、このアルバムは当時知名度のあったカルメン・マキのおかげもあって好セールスを記録。その後、ブルース・クリエイションは解散するが、のちにメンバーを一部刷新したクリエイションとして再編され、ブルース・ハード・ロック・バンドとしての道を歩むこととなる。クリームのプロデューサーやマウンテンのメンバーであったフェリックス・パッパラルディにその実力が認められたことで、1976年には日・東芝EMI/米・A&Mからマウンテン直系のハード・ロック作『CREATION WITH FELIX PAPPALARDI』がリリースされ、全米20か所にも及ぶライヴ・ツアーへと繋がった。フェリックスとバンドはこの時期に日本武道館公演も敢行している。

1970年代初期の日本ではハード・ロックが人気がなかったがゆえ、日本のハード・ロック・バンドは不遇な活動を強いられたとする説[要出典]があるが、当時の海外のハード・ロック・バンドの日本での認知度を考えた時、ディープ・パープルの日本公演録音盤『MADE IN JAPAN』(1972年)や、1971年にレッド・ツェッペリンが、1973年にマウンテンが日本武道館公演を行なっている事実等を総合的に判断すると、1970年代の日本国内ではハード・ロックという音楽そのものが不人気だったわけではないことは明らかであり、単に日本のハードロックバンドの一般的な人気が無かっただけの話である。事実、1981年にデビューしたLOUDNESSがデビューコンサートのチケットが完売するまで、当時の音楽業界での認識は「日本のハードロックは売れない」とまで言われていた程であった[3]

1973年に結成、1977年にデビューしたLAZY(バンド名は、ディープ・パープルの同名曲に由来する)は、当初、事務所の営業方針でアイドル・バンドとして活動をさせられていたが、コンサート会場では海外のバンドのカヴァー(UFOTOTOなど)を演奏し、特に高崎晃のギター・プレイについては、当時現役高校生で、しかもアイドルという立場であったにもかかわらず、この時既にコアなロックファンや同業者に注目を集め、KODOMO BANDうじきつよしは金沢のイベントで過去にLAZYと共演した際にLAZYの演奏技術と音量の大きさに驚き、「実際に見たら嫌になっちゃうくらい音がでかくてね。「高崎は凄いぞ、ヤツは敵だ!」と思った(笑)」とライバル意識を持っていた過去を明かした[4]。後にBURRN!副編集長~ミュージック・ライフ編集長を務めた音楽ライターの増田勇一も学生時代に高崎の演奏技術に衝撃を受けたうちの一人で、当時LAZYが出演したNHKの歌番組『レッツゴーヤング』でマイケル・シェンカー・グループの「Armed and Ready」のカヴァーを演奏した姿を見て衝撃を受けたと述懐している[5]

この時代の他のハードロック・バンドに関しても言及すると、1970年代初期にはブルース・ヘヴィ・ロックのスピード・グルー&シンキトゥー・マッチ、プログレ・ハード・ロックのコスモス・ファクトリー暴走族の支持者が多かったハード・ロックンロールの外道等がいる。中期に入ると、カルメン・マキ&OZ、現在も現役で活動しているBOW WOW、沖縄版ディープ・パープルと言わしめた、紫と同じく沖縄のバンドでニワトリの首を切るなど残虐なパフォーマンスを行ったコンディション・グリーンらがデビューを飾り、日本のハード・ロック・シーンが少しずつ盛り上がっていく。

1970年代が終わりに近づくにつれ、ハード・ロック・ミュージシャンの多くは、ジャズ・フュージョン系のサウンドに流れていった(高中正義や、竹田和夫等)。他にも、歌謡ロックやレゲエのジョー山中、ニューミュージック系のアレンジャーとなった星勝、ブルースマンの柳ジョージトランザムを経て萩原健一のバックを務めた石間秀機、ハード・ロックのルーツの1つであるニュー・ロック(サイケ・ロック)を志向していたエイプリル・フールのメンバーだったが、その後アメリカン・ロック風のはっぴいえんどを経てテクノ・ポップ・バンドYMOに関わった細野晴臣など、1970年代の多くのハード・ロッカーが転向を見せた。

1980年代前期[編集]

80年代に入ると、ヘヴィメタルが流行を迎える[6]Sighの川嶋未来は、「80年代当時、ヘヴィメタルは確実にメインストリームに属する音楽であった。クラスメイトにもヘヴィメタル好きは複数いた」と当時を振り返っている[6]

1980年、英国でのアイアン・メイデンらを筆頭とするNWOBHMムーヴメントに感化されるようにして、アイドルグループとして活動していたLAZYが「ヘヴィ・メタル宣言」を行い、アルバム「宇宙船地球号」をリリース。しかし、そのLAZYは音楽的方向性を巡り所属事務所やメンバー間の意見の相違が表面化し1981年5月31日に解散となる。これを機に、高崎と樋口宗孝が本格的なヘヴィメタルバンド「LOUDNESS」を結成し、1981年11月にアルバム「誕生前夜」でデビュー、12月17日には浅草国際劇場でデビューコンサートを開く[7]

LAZY同様、営業面の問題から歌謡曲路線を取らされていたBOW WOWが本来のヘヴィメタルバンドに戻ることを宣言し、1982年 - 1983年には海外のロック・フェスティバルレディング・フェスティバル)に日本人アーティストとして初めて参加した[8][9][10]。この他では、のちに俳優として活躍するうじきつよし率いる子供ばんども活発なライブ活動をし、各地のイベントの常連となっていた。

ヘヴィメタル」の項目でも触れているが、この頃から音楽雑誌の「YOUNG GUITAR」と「ロッキンf」が日本のヘヴィメタルバンドの為にフェスティバル等を開いたりと積極的にヘヴィメタルシーンを盛り上げていた[11]

1983年から翌1984年にかけて、関西ではEARTHSHAKER44MAGNUMMARINORAJASX-RAYMAKE-UP、東京からもBLIZARDAROUGEなどのヘヴィメタルバンドが次々とデビューを果たす。また、この頃はビーイングがアイドル的な女性メタルシンガーを次々と売り出しており[12]、樋口宗孝のプロデュースで浜田麻里が、高崎晃のプロデュースで本城未沙子がデビュー[13]。それに続いて早川めぐみ橋本ミユキアニメソング歌手の橋本みゆきとは同姓同名の別人)等のイニシャルが「H.M.」(つまりHeavy Metal)の女性シンガーが次々とデビューを飾るが[注釈 1]、長期にわたって継続的に活動したのは浜田だけであった。

1980年代中期 -第2世代の登場・海外進出-[編集]

1984年5月27日には「GRAND METAL」が大阪城野外音楽堂で開催され、当時活躍が期待されていた若手バンドが出演した[注釈 2][14]

LOUDNESSは1983年にはアメリカ、1984年にはヨーロッパを中心にライブ活動を行い、夏には海外へのアピールとしての「DISILLUSION English Version」、ヨーロッパ公演を収めたライブビデオ「EUROBOUNDS」をリリース。翌年、1985年には米アトランティック傘下のアトコ・レーベルと契約し、同年11月9日、「THUNDER IN THE EAST」で世界デビューを果たすが、このアルバムよりプロデューサーとなったマックス・ノーマンの指示により、当時米国で勢いづいていたモトリー・クルークワイエット・ライオット等に代表されるLAメタルを意識したサウンドに変化している[15]。また、海外でのアルバムリリース前にはモトリー・クルーの前座としてツアーに動向。8月14日には前座という形ではあるが、日本人ロックバンドで初めてマディソン・スクエア・ガーデンの舞台に立っている[16]。これに続いて、BOW WOWがメンバーチェンジを機にバンド名をVOW WOWに改め、LOUDNESSと同様に海外での活動を展開してゆく。

1984 - 1985年頃になるとMötley CrüeRATT等を筆頭に世界中で盛り上がり始めたLAメタルの影響もあってか、インディーズのメタルバンドの殆ど多くにただ単にLAメタルのように派手な格好でポップなメロディを導入すればそれで受けてしまうと言う風潮が生まれる。その一方で、東京で結成されたANTHEMは当初はNWOBHMの影響を単純に受けたバンドであったが、福田洋也加入後にACCEPTMANOWARに代表されるパワーメタル的な音楽的要素を取り入れて先鋭化し[17]SABBRABELLSBlack SabbathAlice Cooperを彷彿とさせるシアトリカルかつ悪魔崇拝的なステージングとヘヴィなサウンドで、北海道から登場したFLATBACKERはヴェノムと日本のハードコア・パンクを混ぜたような過激なサウンドと放送コードギリギリの過激な歌詞で日本のヘヴィメタルシーンを盛り上げていった[18]。1984年にはインディーズながらANTHEMやSABBRABELLSを始めとした関東のバンド、SNIPERといった名古屋のバンドが集まり、オムニバスアルバム「HEAVY METAL FORCE Vol.1」を木箱入りでリリースしたりと積極的なアピールを展開する。その後、ANTHEMとFLATBACKERは1985年に、SABBLABELLSは1986年にメジャーデビューを果たす。

1985年8月にシングル「素敵にダンシング」でデビューしたSHOW-YAは、メンバー全員が女性という当時としては異例のバンドであった。初期は秋元康が楽曲を手掛けているなどいわゆる“歌謡メタル”的なテイストを多分に含んでいたが、徐々にサウンドのハードさが増していき、1989年に昭和シェル石油のCMタイアップ曲となった「限界LOVERS」が大ヒットし日本のヘヴィメタル界に新風を巻き起こす。また、SHOW-YAは1987年から年に1回の割合で女性ロッカーだけを集めたロックイベント「NAONのYAON」を開催し、女性ロッカーの地位向上に大きく貢献する。

聖飢魔IIがメジャーシーンに登場したのもこの1985年のことである。元々は早稲田大学フォークソングクラブに発祥の由来を持つバンドであり、9月にアルバム「聖飢魔II〜悪魔が来たりてヘヴィメタる」でデビューしたが、日本のバンドに対してやたら冷酷な評価をする事で有名なヘヴィメタル雑誌の「BURRN!」では0点の酷評をされた。もっとも、これについては採点者である酒井康の全く個人的な価値観に基づいたもので客観性には乏しい面があり、このアルバムの評価が0点だからと言って単純に駄作と切って捨てられる様なものではなく、BURRN!編集部の藤木昌生はこのアルバムを高く評価している。とはいえ、聖飢魔IIは酒井の0点レビューも1つのきっかけとなり既存のメタルファンよりもJ-POPファンに訴求の中心軸を置く販売戦略を選び、結果的に音楽業界で一定の成功を掴み取ってゆくこととなる。

同年10月10日、「JAPAN HEAVY METAL FESTIVAL」が東京の日比谷野外音楽堂で開催された。これには新進気鋭のANTHEM、FLATBACKER、聖飢魔II、RAJAS、ベテラン格になっていたMARINO、海外からの招待ゲストとしてスウェーデンのシルヴァー・マウンテンが出演。当時のYOUNG GUITAR誌の記事にはMARINOが登場した頃に会場が盛り下がり始め、デビューしたばかりのANTHEMやFLATBACKERなどの新しい血を求めたファンが圧倒的に多かったと記載している[19]。実際、バンドとしての全盛期を過ぎていたMARINOはこの1985年、X-RAYは翌1986年にレコード会社から契約を打ち切られ、解散の道を選ばざるを得ない状況にまで追い込まれている。

1980年代後期[編集]

1980年代後半は、LOUDNESS、VOW WOWに続いてANTHEMがLAでライブを行い、1987年にFLATBACKERが『E・Z・O』へ名前も音楽性も変えてジーン・シモンズプロデュースによるアルバム『E・Z・O』で世界デビューし、全米チャート入りを果たした[20]。同年にはVOW WOWの楽曲「DON'T LEAVE ME NOW」が全英シングルチャートのトップ100に3週チャート・インした[21]。そして、聖飢魔IIを脱退したギタリスト大橋隆志も渡米後にアメリカ人と結成した日米混成バンド「Cats In Boots」で1989年に世界デビューを果たすなど、日本発のHR/HMシーンが開花し、ひとつの頂点を極めようとしていた時期であった。

この時期、日本国内のメタルシーンは徐々に失速の兆しを見せていた。1987年、レコード会社移籍をきっかけに44MAGNUMが「ヘヴィメタルなんかもう古い」という理由で「ポストBOØWY[注釈 3] とも呼べるポップなロック路線への転換を行う[22]。だが、それまでのファンから猛反発を喰らい人気は急降下、結局はバンドそのものが方向性を見失い、1988年に打ち込みの導入に反発したドラムの宮脇“JOE”知史が脱退、その後立て直せぬままに翌1989年解散。MAKE-UPも1986年にテレビアニメ聖闘士星矢』の主題歌「ペガサス幻想」でヒットを飛ばしたものの翌年解散。その一方、この時期には元LAZYの影山ヒロノブがアニメ・特撮の主題歌を数多く手掛ける様になるなど、少なからぬメタル系ミュージシャンが自身の生活と芸能活動の維持の為に、メタル系以外への芸域の拡大を模索し始めていた。影山は1990年代以降、一部の楽曲でゴールド・ディスクを獲得したりミリオンヒットを飛ばすなど[23]、アニメソングの分野で兄貴分としてのポジションを確立しジャンルの牽引者の1人となる。ヘヴィメタル・クイーンと呼ばれた浜田麻里も1989年に「Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。」のリリースを機に脱ヘヴィメタルを宣言[注釈 4] [24]し、転じたJ-POPシーンでブレイクし、1990年代前半まで安定した人気を保つ事となる。

他方で、ANTHEMは1987年にボーカル坂本英三が脱退し後任に森川之雄が加入、またこの時期から音楽性の幅が広がっていったにも関わらず人気は鈍化傾向で、興行面という意味においての苦戦が続いていた。海外に展開していたFLATBACKER改めE・Z・Oも活動順調とは言い難く、アメリカで苦戦を続けるメンバーは、所属事務所の戦略により隈取を施した“忍者メタル”などという一種のキャラクター路線まで模索を余儀なくされていた。同じく海外進出していたLOUDNESSは1989年にボーカリスト二井原実を解雇し、アメリカ人のマイク・ヴェセーラを起用した。ボーカルが交替したLOUDNESSはアルバム「SOLDIER OF FORTUNE」をリリースする。このアルバムは日本国内のみならずアメリカ市場においてもセールス的に失敗。ヴェセーラ在籍時の全米ツアーも1度だけと苦境に立たされる事となった[25]

この1989年には、聖飢魔IIが極悪集大成盤(ベストアルバム)「WORST」を発布し、メタル系バンドとしては初めてオリコンチャートの1位を記録した。 また、メタル系バンドとして初めてNHK紅白歌合戦』に選出され「白い奇蹟」を披露したが、「白い奇蹟」はメタル・ナンバーではなくバラード・ナンバーである。 しかし、これもXなどヴィジュアル系となったバンドを除外した場合には後続が無く、現在に至るまで実質的に史上唯一のメタル系バンドの紅白出場となっている。

1980年代後期 -インディーズ・メタルブーム-[編集]

他方で、この1980年代後半の日本のロックシーンには、バンドブームイカ天ブームが起こり、そのブームは1990年代初頭まで継続した。バンド・ブームではその後に元AROUGEの橘高文彦が加入することとなる筋肉少女帯や、LAメタル系のハード・ロックンロール・バンドZIGGYらがその恩恵を受け、イカ天からは1970年代初期系和風ハードロックの人間椅子やグラム・ハード・ロックのマルコシアス・ヴァンプらが登場している。

ヘヴィメタルバンドも多分に漏れず、例えば関東ではプロージョン系[注釈 5]や鹿鳴館系[注釈 6]などと主に女性ファンから呼ばれ、どのライヴハウスも女性客で溢れ返った。

この当時、インディーズシーンの牽引役となった主なヘヴィメタルバンドとしては、REACTIONMEPHISTOPHELESDEAD ENDD'ERLANGERXCASBAHHELLENDEMENTIAJURASSIC JADEJEWELMURBASUNITEDURGH POLICETILTSNIPEROUTRAGEPRESENCEMEIN KAMPFSAVER TIGER(横須賀)等が「ロッキンf」誌で挙げられている。

この時期のジャパメタの新鋭は、モトリー・クルーなどのLAメタルからの影響を受けたバンド(REACTION、D'ERLANGER、DEAD ENDなど)がいる一方で、メタリカスレイヤー等のスラッシュ・メタルからの影響を大きく受けたタイプ(OUTRAGE、UNITEDなど)もいるが、前者はその後のヴィジュアル系へと受け継がれていった。その双方の要素を併せ持つXなどのバンドもいた。

これらのバンドで後にメジャーシーンでのデビューまで辿り着けたのはREACTION、DEAD END、X、OUTRAGE、UNITED、TILT、PRESENCEくらいで、特に大成功を収めたのはXであるが、デビュー前のXの評価はDEMENTIA、SAVER TIGERと共に「関東三大粗大ゴミバンド」という評価を受けていた。その他のメジャーデビューに至らずに終わったバンドでも、MURBASには廣瀬洋一、URGE POLICEには吉井和哉といった後に大成功を収める「THE YELLOW MONKEY」のメンバーが在籍していたり、DEMENTIAにはX - LOUDNESS - DTRの沢田泰司や現UNITEDの吉田“HALLY”良文(g)、後にハウリング・ブル・エンターテイメントを立ち上げる小杉茂(Vo、当時のステージネームはGEESS)、現TOKYO YANKEESのU・D・A(Ds)が在籍、JEWELには後にmedia youthhideのバンドに参加したKIYOSHIが在籍、MEIN KAMPFには後にCRAZEに加入する藤崎賢一やAIONIZUMIが在籍、HELLENには後に六三四Musashiに加入し、アニメの劇伴などでも活躍する高梨康治など、後年様々な音楽シーンで活躍する人物が在籍していた。またPRESENCEやJACKS'N'JOKERのベーシスト、恩田快人は後にJUDY AND MARYを結成し成功を収めている。

また、MEPHISTOPHELESは1987年に解散しているが、2001年に再結成した際にVAPよりアルバム「METAL ON METAL」でメジャーデビューしている。

Xはメジャーレーベルでのデビューを目指してテレビなどへの積極的なメディア露出を始める。その一方で、Xのリーダー・YOSHIKIは当時の「ロッキンf」や「BANDやろうぜ」等の音楽雑誌編集部に「Xがテレビに出演する理由」という内容のFAXを送り付けた。だが、Xも当初はそのキャラクター的な過激さを期待したバラエティ番組への出演が中心で、実際のところは「ちょっと過激な音楽もできるイロモノ芸人」という扱いであった。Xはもとよりメタル自体がまだ邦楽の中での歴史も浅くビッグヒットも無い、テレビ業界的には“売れ線”ではないジャンルであり、「ロック音楽の中のイロモノ」に過ぎなかったのである。

そのXがインディーズバンドとして活動していた頃、パンクスによる「メタル狩り」と呼ばれるメタルファンとメタルバンドに向けた暴力行為が横行していた時代でもあった。実際、DEAD ENDのヴォーカリストMORRIEは当時のヘヴィメタルとハードコア・パンクは仲が悪かったと述べていると同時に、「GASTUNKとDEAD END、あとはCOBRA、CITY INDIANと一緒に」ライブをしたこともあると語っている[26]。XもG.I.S.M.GAUZEMASAMIと言ったハードコア・パンク系のバンドやミュージシャンとの繋がりがあった為、パンクスと喧嘩になりそうな場合、Xと繋がりのあるバンドや関係者であると知ると丸く収まると事があり、いかに当時のXがインディーズメタル界で影響力があったかと言うことを後年、ライブハウス「目黒鹿鳴館」の関係者が明かしている[27]

その後、Xはメディア露出を地道に重ねて着実に知名度を得ていき、ソニーとの契約に成功し1989年にメジャーデビューを果たす。当初はヘヴィメタルの範疇として扱われていたが、これが後々のヴィジュアル系に繋がってゆく。

他方で、従来のメタルバンドやミュージシャンがメタル専門誌以外のメディアに露出することは少なかった。メタルに関する情報が全般的に不足気味であった間に、X(主にYOSHIKI)をはじめとするバーバラ・アキタダ、DISTOMAのハードコアユキ、BAVETYのジン・スズキらによるパフォーマンスが、音楽的な興味や知識を持たないバラエティ番組(特に「天才・たけしの元気が出るテレビ!![注釈 7][28])や女性週刊誌などで興味本位的に弄り回され、ヘヴィメタルのアイコンとされた事が原因で、それまでヘヴィメタルという言葉さえ知らなかった世間一般には、ヘヴィメタルの人たちは染髪している、ガリガリに痩せていなければならない、やたら火を吹く、凶暴なキャラクター性、などといった誤ったパブリック・イメージが定着してしまう事となった。

これ以前の1980年代中盤から、初期の聖飢魔IIをさらに過激にしたようなイメージがヘヴィメタルを示すある種の記号としてマスコミやサブカルチャーでは用いられていたが、この時期以降になると、XやさらにXの影響を色濃く受けた初期ヴィジュアル系の様な偏ったイメージをさらに誇張表現した極端なキャラクター様式がそれに混ぜ込まれ、さらにはメタルと同様にヴィジュアル系に影響を与えたパンク・ロックともない交ぜにされ、漫画やドラマでヘヴィメタルを表現する際の視覚的フォーマットとして定着してしまった。2000年代に入ってからでも、デスメタルをテーマとしたギャグ漫画ではあるが「デトロイト・メタル・シティ」がこのフォーマットを利用して作品の形成と人気獲得に成功し、映画化などメディアミックス展開もなされている。

この様な出来事から当時BURRN!編集長であった酒井康は一般層に浸透しているヘヴィメタルのイメージが「長髪、化粧、騒音、馬鹿」になっていると嘆き、安易にバラエティ番組に出演するバンド側に対し「メディア(の影響力)は怖い。出演している側がシャレと思っていても、知らない人はマジで受け止めてしまう」と危惧すると同時に「ヘヴィメタルを理解していない人達、つまり、一般メディア、マスコミ、それらに利用されているとは思わない頭の良い日本のバンド様によって一般大衆に“ヘビメタ”という言葉だけが浸透していっただけ」と痛烈な批判をしている[29]

1990年代 -冬の時代-[編集]

世界的にはグランジのブームであったが、日本に限ればXを端緒としたヴィジュアル系の全盛期の幕開けであった。SHOXXの元編集長鈴木ぽっくんと音楽ライター長澤智典の対談では、ヴィジュアル系の音楽的な要素としてポジティブパンク[注釈 8]ヘヴィメタルが挙げられている[30]。実際にポストパンクやヘヴィメタルからの影響を語っているバンドとしては、TRANS RECORDS所属のASYLUM[31]DEAD END[32]から影響を受けていた黒夢デュラン・デュラン[33]やジャパニーズ・メタル[33]から影響を受けていたLaputaザ・キュアー[34]GASTUNK[30]から影響を受けたL'Arc〜en〜CielJapan[35]AION[36]からの影響を語っているLUNA SEA[30]などがいる。他にも、音楽性でメタルの流れを汲んでいたものとして、La'cryma ChristiSIAM SHADEが市場的成功を収めた。ニューウェーヴやポストパンクを扱っていた雑誌であるFOOL'S MATEはヴィジュアル系バンドを積極的に取り扱ったが[37]、その一方でヘヴィメタル雑誌がヴィジュアル系バンドを取り扱うことはなかった。

ヴィジュアル系という言葉の起源となったともいわれる[38]Xは順風満帆とは到底言い難い活動状況に陥ってゆく。1992年、TAIJIを解雇すると同時に海外進出を企図して「海外の同名バンドとの商標問題(名称競合)の回避」という理由でバンド名をX JAPANへと改め、以降も新曲をリリースすればオリコンチャートでは必ず5位以上の上位に食い込んだものの、様々な事情によりシングルのリリースですら1年に1枚がやっとというスローペースであり、アルバムに至っては5年間もリリースできない状態に陥る。また、X JAPAN改名後も様式としてメタルバンドのフォーマットを維持し続けたものの、この頃になると「X=ヘビメタ」というイメージは消え、ヴィジュアル系の始祖として特別視される事が一般的となり、いつしかヘビメタというメタルにとっての蔑称すら聞かれなくなった。また、そのファン層の一部の熱狂ぶりゆえ、X JAPANを批判することはある意味で危険極まりない行為となり、結果的にメタルファンやメタル系音楽マスコミにとってはX JAPANに触れる事自体が一種のタブーとなった。かくして、X JAPANとそのメンバーはメタルの世界からは切り離された存在になってゆく。また、Xを解雇されたTAIJIこと沢田泰司は、上述した様にLOUDNESSへの電撃加入という形でメタルの世界に舞い戻ったものの、彼もまた著しいスランプや公私のトラブルが重なり、1990年代後半の一時期にはホームレスも同然という状態にまで転落していった。

ヴィジュアル系が流行した一方で、ジャパニーズメタルは「メタル氷河期」を迎えた。特に1990年代に入ってから、邦楽のメタルはジャンル全体として衰微傾向が顕著となり、1990年にE・Z・O、VOW WOW、DEAD END、Cats In Boots、1992年にANTHEM、1993年にBLIZARD、1994年にEARTHSHAKERと、1980年代のメタルシーンを第一線で支えたバンドが次々と解散・消滅してゆく。女性バンドSHOW-YAはすぐには解散しなかったものの、サウンドの中核であったボーカルの寺田恵子が1991年に脱退、その後は新ボーカルにアメリカ人シンガーのステファニー・ボージェスを迎えたもののセールス的に退潮傾向を食い止められず、インディーズに場を移したものの全盛期の輝きは戻らず結局1998年に解散。海外を中心に活動にしていたバンドや日本人ミュージシャンを見ても、E・Z・Oは日本への凱旋を果たせぬまま1990年に現地解散。VOWWOWはアルバム『Mountain Top』の海外での売り上げが伸びなかった事と厚見玲衣の脱退により解散、一時はアメリカで成功したかに見えた日米混成バンドのCats In Bootsもマネジメントのトラブルやメンバー間の不和が続き1990年に解散し、大橋隆志は活動の場を求めてニューヨーク、ロサンゼルスと渡り歩くも1995年帰国。

1992年、元E・Z・OのMASAKIと、元XのTAIJIこと沢田泰司がLOUDNESSに加入し、これと同時にLOUDNESSの楽曲はグルーヴ・メタルのようなスタイルに変貌した。その話題性の高さでオリコンチャート初登場2位という記録を打ち立てたが、翌年には所属事務所の契約上の問題や沢田と樋口の脱退といったトラブルが相次ぎ、第3期LOUDNESSはたった1年で幕を閉じた。

ジャパメタ・バンドの多くが解散やメンバーの脱退に見まわれ、尻すぼみになっていく状況下の1994年、EARTHSHAKERLOUDNESSBLIZARDの元メンバーによるスーパー・バンドSLYが結成されメジャー・デビューを果たしている。また、戸城憲夫新美俊宏横関敦らによるLANCE OF THRILLも同1994年にメジャー・デビュー。このSLYとLANCE OF THRILLは世界的なグランジ/オルタナティヴ・ロック・ムーヴメントに呼応するメタル・サウンドをそれぞれ展開していったバンドだが、この1990年代中盤~後半におけるOUTRAGELOUDNESSの音楽的な変貌もこのグランジ/オルタナ・ムーヴメントを意識したものであった。

メジャーシーンでどうにか生き残ったバンドとしては聖飢魔IIがいた。1990年代の同バンドはサポートメンバーによる電子楽器を多用し、ハードロックを主軸としてプログレッシブ・ロックからポルカフォークソングまで多種多様なジャンルの音楽を積極的に取り込んだ。

また、バブル景気崩壊後の急激な日本経済の縮小の中、業態再編や利益性・費用対効果の向上に追われた企業体質の変化の過程の中で、メタル系はメガヒットが出ない事などから収益性が低いジャンルと見なされ、メジャーレーベルの多くがメタルバンドに対して契約解除を行った。契約解除の理由については、契約(期間・内容)の満了・CDの売上不振・レコード会社側の経営戦略の見直しの一環・レコード会社とバンドの方向性の不一致・バンドメンバーの不祥事や性格的問題など色々と付けられていたが、いずれの理由にしたところで結局は、新旧数多くのメタルバンドがメジャーレーベルを追われ、新たな契約先を求めて音楽業界をさまよう、あるいはインディーズでの活動への転換など、苦難の道を強いられる事になってゆく。だが、メジャーレーベルから契約を解除された後、他のメジャーレーベルで新たな契約を得てメジャーシーンで活動を継続できたバンドはそれほど多くはなく、むしろこの時期に解散や活動休止に追い込まれたバンド、活動の基盤を失ったメタルミュージシャンは数多い。

この様な厳しい状況下で、1980年代のジャパメタシーンを第一線で支えたミュージシャンですら、メタル一筋では生活してゆくことすらままならなくなる者が続出した。中には生活費と音楽活動の資金・コネクションを確保・維持するため、あえてメタルの看板を外して、J-POP系やアニメ関連楽曲の作曲やプロデュース、バックバンドに活動の軸足を移し、活動範囲を拡大していった者や、専門学校などの講師ライヴハウス録音スタジオのスタッフになり、現在ではそちらが事実上の主業になっている者もいる。また、メジャーシーンから姿を消した者の中にはメタルとおよそイメージのかけ離れた世界に生活の糧を求めた者もいる。例えば、元ANTHEMの坂本英三が後述するアニメタルでブレイクするまでは会社員やタクシー運転手を主業としながら音楽活動を続けたり、商業音楽の世界に失望した元VOW WOWの人見元基が「コマーシャルな世界で歌いたくない」という理由で音楽業界から引退した後に地方公務員高校英語教師)に転職した。但し坂本は現在もソロ活動の傍ら、音楽学校の講師としても活動しており、人見も業界からは遠ざかっているが学校が夏休みや冬休み等がある時期は大谷令文らを率いてカヴァー曲を中心にライブ活動を行っている。

新進のメタルバンドについても苦難を耐え忍ぶ時代となった。元来はメタル系の音楽を志向・追求していたものでも、メジャーデビューを目指すにあたってはその販売戦略上の各方面からの要求などで路線変更に追い込まれてゆくケースや、さらには「メタルだから」という理由でライブハウスから門前払いにも等しい扱いをされるなど、演奏の場を確保する事すらままならない者さえ出てきた[注釈 9]

これらの結果、音楽性としてヘヴィメタルを前面に押し出すスタイルのバンドは影を潜め、ジャパニーズメタルバンドとして安定した活動を続けていたLOUDNESSも、1990年代の終わりまでは高崎晃以外のメンバーチェンジを繰り返しながら細々とした活動を余儀なくされる事となった。

メジャーシーンで広義の意味でのハード・ロック/メタル的なサウンドを鳴らした音楽ユニットとしてはB'zがいる。冬の1990年代にミリオンヒットを連発し、ハード・ロック・ギター・サウンドを日常的なサウンドにしたのである。

一方で、エクストリームメタルを中心としたアンダーグラウンドシーンでは、新たなムーヴメントが勃興していた。1990年に結成されたブラックメタルバンドSigh[39]、ブラックメタルの本場であるノルウェーシーンとテープトレードなどで交流を深め、1993年には1stアルバムをユーロニモスのレーベルデスライク・サイレンス・プロダクションからリリースしている[40]

デスメタルシーンでは、1980年代後半頃からスラッシュメタルのサウンドで活動していたHellchildが、デスからの影響を受け徐々にデスメタルへと移行[41]。同時期に活動していたグラインドコアバンドMULTIPLEXと共に、当時の日本のデスメタル/グラインドコアシーンを作り上げていく存在となる。他にもVoidd、BELETH、NECROPHILEなどのバンドが存在した。1990年代後半にはDEFILED、VOMIT REMNANTSなどのバンドも活躍している[42]。また、1991年にはIntestine Baalismがメロディックデスメタルバンドとして登場している[43]

1990年代後半[編集]

一時期はいつまで続くのか際限が見えなかったジャパメタの氷河期は、1996年末、誰にも想像できなかった形で一応の終焉を迎える事となった。

きっかけを作ったのはギタリストの野村義男とプロデューサーの久武頼正で、2人の軽い冗談の会話からアニメソングをヘヴィメタル様式で演奏するアニメタルが企画された事による[44]。アニメタルのボーカリストとして元ANTHEM(当時)の坂本英三を迎えようと考えた久武は早速交渉し、当時会社員生活をしていた坂本も承諾。そして1996年末にアニメタルは「さかもとえいぞう」名義のソロ活動という形でデビュー。従来ヘヴィメタルを扱っていた音楽マスコミやFMラジオのみならず、テレビなどの一般マスコミからも大きな注目を集めブレイクした。翌年にはギターに元ガーゴイル屍忌蛇、ベースにココバットTAKE-SHIT、ドラムスにガーゴイルのKATSUJIをそれぞれ起用し、SMEより、2ndシングル「This is ANIMETAL」を発表。次いで、屍忌蛇(ギター)、元JACKS'N'JOKERMASAKI(ベース)、元リアクションの梅沢康博(ドラムス)という編成で、1stアルバム『アニメタルマラソン』をリリースし、約30万枚の売上を記録し、バンド体制で活動を開始し、デビューアルバム「アニメタル・マラソン」をリリースする。

この「アニメタル・マラソン」がヘヴィメタルファンだけでなくアニメファンからの支持も得られ、また宴会芸ソングとしてカラオケについても一定規模の需要の創出に成功した。

だが、アニメタルの商業的成功は当時のメタル業界にとって非常にインパクトのある出来事であり、影響は程なくして現れた。果たして、これを見た数多くのメタルミュージシャンが一斉に追随したのである。かくて、これ以降の数年間にわたり「○○メタル」などと銘打った似たような企画型メタルバンドの乱立が続くこととなる。その中には1980年代、正統派ヘヴィメタルとしてイロモノや企画ものを嫌う言動をしていた者も少なからず混じっていたのは、当事者のみならず、その時代を知る者にとっても皮肉な光景であったというより他にない。だが、これは同時に、メタルの世界で知名度の高い正統派メタルミュージシャンでさえ正統派ヘヴィメタルの音楽一筋だけでは生活していけない者が当たり前にいた、当時のメタル氷河期の現実を如実に見せつけた光景でもあった[注釈 10]。また、このアニメソングを利用した企画盤の制作という手法はメタル分野以外からもさらなる追随者を生み出し、テクノユーロビートなど1990年代後半に市場的退潮に悩んでいたものを中心に幅広いジャンルで「アニ○○」などと銘打った企画盤CDが数多く作り出されることとなった。

また、メタルミュージシャンでもバンド解散後にスタジオミュージシャンとして活動していた者などを中心に、アニメ特撮主題歌イメージソングテレビゲームアダルトゲームの主題歌・サントラなどの作曲やプロデュース業へと本格的に進出する流れは1990年代前半からあったが、こちら側で注目を集める者が次々と現れたのもこの1990年代半ば以降のことである。彼らの進出によりそれまではあくまでアイドル歌謡子供向け音楽の延長線上的な色合いが比較的濃かったアニメ・ゲーム業界の音楽が、音楽番組などでそのまま流しても違和感の無いレベルまで洗練・先鋭化され、時として単なる劇伴や販売促進の域を超える話題性を持つものも現れる様になった。なお、このメタルミュージシャンとアニメ・ゲーム業界が繋がる流れは現在もなお続いており、1980 - 90年代のメタルミュージシャンとして知られる者の中には、現在ではこちらが事実上の活動の中心となっている者も存在する。また、ニトロプラスの様にアダルトゲームのメーカーながらも主題歌にハードなメタルの曲を使用して、メタルファンにまでその名を知られる様になったメーカーも存在している[注釈 11]。その他、この様なスタイルで現在音楽活動を行っている若手・中堅のミュージシャンの中にも、1980年代から90年代のジャパメタのフォロワーとしてのスタイルを時折見せる者が存在している。

1997年9月、X JAPANがTOSHIの脱退を理由に解散を発表、同年の大晦日の東京ドーム公演を最後に解散する。それから約半年後の1998年5月2日、Xの元メンバーでも当時最も好調な活動を見せていたはずのhideが急逝。[注釈 12]hideの告別式は築地本願寺に関係者・ファンなど約5万人が参列した大規模なものとなった(詳細はhideの項目参照)。 また、同じ時期に、1980年代のヘヴィメタルシーンをリードしたギタリストとして知られる、元BLIZARDTWINZER松川敏也が、音楽シーンから姿を消している。[注釈 13]

他方で、1998年になると、8月にバップから正統派のネオクラシカル系ヘヴィメタルバンドのConcerto Moonがデビューを飾り、5月にはコミカルな歌詞とパフォーマンスかつ本格的なメタルサウンドが特徴のSEX MACHINEGUNS東芝EMIシングル「HANABI-la大回転」、10月にはアルバム「SEX MACHINEGUN」でデビューした。

Concerto Moonは比較的コアなメタルファンにしか浸透できなかったものの、SEX MACHINEGUNSは露出するための戦略としてあえてヴィジュアル系のようなメイクをしたことの他、「みかんのうた」のようなコミカルで特徴的な歌詞などからカラオケでの需要などが大きく発生し、2000年以降「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」や「堂本兄弟」などの音楽番組にも数多く出演していた。これが奏功してメタルファン以外にも受け入れられていったが、そういったバンドの姿勢を嫌うある意味では保守的な思想のメタルファンの存在も、彼らの登場によって再び表面化する事となった。

1999年4月、メタル氷河期をメンバーチェンジもなくメジャーシーンで耐え抜いた数少ないバンドの一つである聖飢魔IIが、デビュー当時の公約どおりに同年末をもっての解散を予告し、解散前に怒涛のアルバムリリースラッシュと7月から大晦日までの長期ツアーを敢行、年末の東京ベイNKホールのライヴを最後に活動に終止符を打った。[注釈 14]

1999年の12月には、筋肉少女帯を脱退した橘高文彦SLYが活動停止となった二井原実、そして爆風スランプファンキー末吉バーベQ和佐田の4名によって結成されたX.Y.Z.→Aが1980年代から続くピュアなジャパニーズ・メタルを旗印にするデビュー・アルバムをリリースしているが、自主レーベルを立ち上げての発売であった(販売網はキング・レコードに委託)。この布陣をもってしても音楽性が「メタル」ではメジャー・レーベルとの契約は困難な、厳しい時代だったのだ。

『BURRN!』編集長である広瀬和生の証言によれば、日本市場でのBURRN!の発行部数と国内外問わずヘヴィメタルバンドのアルバムの売り上げが最も多かった時期は1997年との事である[45]

2000年代 - ベテランバンドの再結成と、オズフェスト世代の登場 -[編集]

1998年のLAZY、BOW WOW、1999年のEARTHSHAKER、2000年のLOUDNESS、2001年の44MAGNUM、ANTHEM、2005年のSHOW-YAなど、ベテラン格のバンドが次々と再結成を果たした。その他、期間限定ながら全盛期のメンバーが再集結して活動を行うバンドも、2005年の聖飢魔IIを始めとして幾つか見られている。極めつきは2007年のX JAPANの再結成であり[46]、前述のHIDEの死、TOSHIの宗教絡みのトラブルやYOSHIKIの迷走などを背景に再結成が絶対不可能なバンドとしてまず第一に名が挙がる存在であっただけに、世間の驚きは大きなものがあった。

これらの影響か、2000年代中ごろからは、既に解散しているバンドについてベスト盤発売やライブ・セッションでの元メンバーの共演・ゲスト参加などをきっかけとして、マスコミやインターネットなど様々な経由で再結成の噂が聞かれる事も多く見られている。しかし、実際には単なる流言の域から出ないものであったり、検討されても現在の活動の多忙や、現在志向している音楽との方向性の違い、解散以前に発生した人間関係の齟齬などがネックとなり主要メンバーが揃わずに企画倒れに終わるものも多い。また、再結成を果たしたものでも、全盛期を支えた重要なメンバーが不参加のまま活動するバンドや、再結成の背景としてメンバーが抱える経済的な問題や困窮などの噂がつきまとうものも往々に見られる。そもそもメタルに限らず音楽業界全般の常として、過去のバンドの解散では多くのケースで大きな内輪揉めなどが起きており、それにも関わらず再結成して活動を行うのは、メンバーの多くが解散後に経済的困窮に陥り当座の収入を求めて過去のネームバリューに頼るために妥協をせざるを得なくなったか、あるいは喧嘩別れの解散後に関係が修復できたか、このいずれかであるのが実態であるという[47]

この時代には、1990年代終盤からのKORNリンプ・ビズキットレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンらを筆頭とするアメリカのラップ・メタルや、メタル界の帝王であるオジー・オズボーンが1990年代後半から開催するオズフェストに登場していたニュー・メタルのバンドに影響を受けた新鋭バンドが、1990年代末期から2000年代にかけて続々登場している。山嵐RIZE宇頭巻らがその先陣を切り、その流れにマキシマム ザ ホルモンなどが続いていった。筋肉少女帯を脱退した大槻ケンヂNARASAKIらと結成した特撮や、樋口宗孝山下昌良横関敦らが結成したBLOOD CIRCUS、元桜っ子クラブANZA率いるHEAD PHONES PRESIDENTなども、この新しい潮流を受けて誕生したものである。この新世代は1980~1990年代のジャパニーズ・メタル・バンドとの繋がりはほぼ皆無に等しかったものの、俳優でミュージシャンの押尾学が結成したラップ・メタル/ニュー・メタル・バンドLIVの2ndアルバムにはLOUDNESS山下昌良がゲスト参加するなど、新旧メタル・アクト同士の交流も一部ではあった。

1990年代からのアニメ・ゲームなどサブカルチャーとメタル業界の関係は2000年代に入ってもさらに発展が続いている。現在ではその影響はアニメのみならず特撮作品にも幅広く浸透しており、これら分野でジャパメタ分野でベテラン・中堅格として知名度を持つボーカリストが起用されるケースがしばしば見られる。

他方では、この時期、日本国内においてもメタル氷河期以前からメジャーシーンで活動していたミュージシャンについてはその多くが中高年の域に入ってきており、その加齢と共にガンなどの大病を患っての長期療養や訃報などの情報が聞かれるようにもなってきた。とりわけ2008年11月、LAZY・LOUDNESSなどでジャパメタシーンを支え続けた功労者の1人である樋口宗孝が49歳で肝細胞癌により死去した際には、その衝撃はメタルのみならず幅広い音楽ジャンルに及んだ。

2000年代中期~後期 -若手の伸び悩み、V系メタル-[編集]

2000年代以降にデビューし、目立った活動をした主なバンド、アーティストには陰陽座GalneryusCloud Nine夜叉BLOOD STAIN CHILD等がいる。

しかし、それらの大半はセールス・興行という観点で成功とは言いがたい、あるいは一応成功しているにしても そこから伸び悩む状況に終始しているのが実情である。日本産ヘヴィメタルバンドのCDが売れず観客動員数も少ない背景として、当時のライブハウスの関係者は「バンド側が“自分達の音楽がわかってくれる人にだけ”やっている」「外の社会にそういう閉鎖的な見方でやっているから、結局自分達も閉鎖的なカテゴライズされた世界に入ってしまっている」と分析し[48]、ある大手レコード店の店長は、メタルのCDが国に関係なく売り上げが厳しいことを踏まえて、洋楽は純度の高いメタルは受け入れられているが邦楽は純度が高いと受け入れられない、陰陽座やSEX MACHINEGUNSの様な他の要素が入ったバンドは成功していると分析し「80年代のジャパメタのカッコ良かったエッセンスを受け継いでいるのはヴィジュアル系だと思うんですよね。視覚的なところ、フレージングひとつにしてもね。実際にメタルをやっている人はそこをないがしろにしているような気がします」とも語っている[49]

2006年には、1997年にヴィジュアル系バンドとしてデビューしていたがその後ヴィジュアル系から脱却したDIR EN GREYが海外進出し[50]、日本のメタルバンドとして海外では 認知されるようになったものの、海外デビュー当時は日本のメタル専門マスコミの関係者たちの間にはDIR EN GREYをメタルバンドとして認めない風潮が根強く存在しており、実際、2006年のLOUD PARK06に出演した際に音楽評論家の伊藤政則が「BURRN!」誌上で「なぜ、LOUD PARKにヴィジュアル系が出演するのか?」と批判を繰り返しているなど、日本と海外での評価が大きく分かれていた。ただし、時間を経て状況は少しずつ変わり、2011年現在は「BURRN!」でもDIR EN GREYのインタビューが普通に掲載されている。 また、2003年にメジャーデビューしたムックも2005年にドイツで開催されたメタルフェスヴァッケン・オープン・エア への出場、2008年の「Taste of Chaos」でAvenged Sevenfold,Bullet For My Valentine,Atreyu,As I Lay Dyingなどのバンドと共演を果たすなど、海外進出を行った。他にも2004年結成のラウドロックオルタナティブ・メタルメタルコア 等にダークさや美麗な歌メロを取り入れ、後にLOUDNESS44MAGNUMDEAD ENDなどの大御所と対バンをしたり、ラウドロック勢と盛んに交流をしながら全欧デビューも果たしたlynch.や同じく2004年結成でニューメタルミクスチャー色が濃くヴァッケン・オープン・エアに出場したり海外ツアーも行ったギルガメッシュ、1999年結成のインダストリアル・メタルゴシックメタルの要素が強いD'espairsRayヴァッケン・オープン・エアに出場したり実力のあるバンドが存在している。

1992年から活動を続けるドゥームメタルバンドBORISは、2005年にサザンロード・レコーズ(日本ではDiwphalanx Records)からアルバム『PINK』をリリースし、全世界で5万枚のセールスを記録[51]ピッチフォーク・メディアのTop 50 Albums of 2006では9位を獲得した[52]。また、2008年にはアルバム『Smile』の先行シングル「Statement」がビルボードのシングルチャートで初登場23位にランクイン[53]、アルバム『Smile』もビルボードのトップ・ヒートシーカーズで20位を獲得している[54]。2007年ごろからは、ポーティスヘッドフレーミング・リップスペイヴメントナイン・インチ・ネイルズらとライブで共演を果たしている[53]

2000年代後半にはVersailles、元Galneryusのメンバーが在籍するDELUHI、現「BURRN!」編集長の広瀬和生が高く評価を与えていたNoGoD等が音楽雑誌やネット上で注目を集めることとなった。サム・ダン監督のドキュメンタリー映画「グローバル・メタル」でマーティ・フリードマンがヴィジュアル系のファンとヘヴィメタルファン同士の対立の激しさを証言しているように[注釈 15]、ひと度ヴィジュアル系として認知されたバンドについてはその後に国産メタル以上に純度の高いヘヴィメタルを演奏しても認めない風潮があり、同映画でインタビューを受けたSighの川嶋未来はサム・ダンの「ヴィジュアル系がメタルではないと思う理由は?」との質問に「メタルがクールだから、それが答えだ」と答えている[注釈 16]

その他、音楽ライターの土屋京輔は上記のバンドだけでなくマキシマム・ザ・ホルモン9mm Parabellum BulletFACTのようなバンドも新世代のメタルバンドとして高く評価している。

かつてはSHOW-YAに代表された女性ボーカルのメタルバンドや女性メタル系シンガーについては、2000年代に入ってからはヘッド・フォン・プレジデントHIGH and MIGHTY COLORLIV MOONなどの若手・中堅世代が登場している。また、いとうかなこ栗林みな実中野愛子の様にそもそもアダルトゲーム主題歌やアニメソングなどのサブカルチャーの分野から表舞台に登場し、周囲のメタル系ミュージシャンからHR/HMに近い様式の楽曲の提供を数多く受けているシンガーも見られる。

2008年にはSHOW-YAを中心とした女性ロッカーのためのイベント「NAONのYAON」の復活開催が行われ、かつての出演者以外にも新たに相川七瀬長澤奈央らが出演し[55]、一時休止後の2013年には平野綾中川翔子らが出演[56]するなど、HR/HM系の内外から幅広くミュージシャン、女優、シンガーが集まり、以降も継続的に開催されている。

2010年代前半 ガールズメタルバンドの増加~海外再進出[編集]

2000年代より台頭してきたヴィジュアル系ヘヴィメタルバンドのうち、DELUHIが2011年4月1日のエイプリルフールの日に解散を宣言。2000年代後半に同人メタルシーンで注目を集めていたDragon Guardian、2010年にはガールズバンド「Aldious」、2011年には女性ドラマーにパーカッションを加えた6人組バンドEach Of The Daysが海外デビュー、また女性ボーカルを擁するLIGHT BRINGERFEEL SO BADのギタリストである倉田冬樹プロデュースのUNDER FORESTがデビューしている。変わったところではアイドルグループさくら学院重音部所属のダンスユニットで「アイドルとメタルの融合」「カワイイメタル[57]をうたった「BABYMETAL」が海外で注目を集める他、[58]BiSが「IDOL」をリリースするなど女性Voを擁したメタルバンドやグループの活躍が目立っている。 また、21世紀に於いても正統派HM/HRを貫くLIGHTNINGは、AVALONレーベルとディールを獲得している。

1996年から活動を続けてきたドゥームメタル/ストーナーロックバンドのチャーチ・オブ・ミザリーは、2011年に開催されたHellfestTuska Open Airという欧州の大規模なフェスに出演している[59]。デス・ドゥームの分野では、同じく1996年から活動を続けているCoffinsが2010年にMaryland Deathfestの出演を果たした(2008年、2014年にも出演している。)[60][61]。2013年には、大手のリラプス・レコードからアルバムをリリースし、それにあわせてヨーロッパツアーを行っている[62][63]。また、Maryland Deathfestにはブラックメタルバンドのアビゲイルも出演を決めている[64]。2014年には、1999年からチェコで開催され続けているエクストリーム・ミュージックのフェスティバルObscene Extremeがここ日本でも開催された[65]

2001年から活動を続けるパワーメタルバンド・Galneryusは2014年の7月に初のヨーロッパツアーを敢行[66]。8月にはSUMMER SONIC 2014に出演を果たした[66]。また、2011年に海外で注目を集めたBABYMETALも2014年より本格的に海外進出をし、同年7月に出演した「Sonisphere Festival 2014」で日本の一般メディアにおいても大きな注目を集めた[67]

ジャパニーズ・メタルアーティスト一覧[編集]

参考文献及び関連書籍[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ その他ビーイングは早瀬ルミナの様なイニシャル「H.R.」(つまりHard Rock)の歌手も売り出していた。
  2. ^ 出演バンドはAROUGERAJAS本城未沙子BLIZARDMAKE-UPMARINOX-RAYACTION44MAGNUMAROUGEは後に筋肉少女帯に加入する橘高文彦が在籍していたバンドであり、出演当時の橘高は18歳だった
  3. ^ 当時の44MAGNUMとBOØWYは同じ事務所(ユイ音楽工房(現ユイミュージック))に所属しており、44MAGNUMが1985年にリリースしたアルバム「FOUR FIGURES」には布袋寅泰が参加したり、解散後も宮脇知史がCOMPLEXのアルバム『ROMANTIC 1990』に参加するなどの繋がりもあった。
  4. ^ 浜田によれは、本人はその様な事は一切発言していないと否定しているが、『ザ・ベストテン』に出演した際に黒柳徹子から「脱!ヘヴィメタル宣言」と紹介されてしまった事から広まったのではないかと述懐している。
  5. ^ ライヴハウス「エクスプロージョン」を中心に活動するバンド等を意味する
  6. ^ ライヴハウス「鹿鳴館」を中心に活動するバンド等を意味する
  7. ^ 吉田豪はこの番組の「ヘヴィメタシリーズ」に関して「ヘヴィメタルをお茶の間に浸透させた番組」と評しているが、当時放送作家であったテリー伊藤はヘヴィメタルに関する知識が貧しく、パンクバンドであるザ・スターリンを「過激なパフォーマンスをするヘビメタバンド」であると2013年に吉田との対談で指摘されるまで勘違いしていた。
  8. ^ ポジティブパンクはポストパンクのサブジャンルであるゴシック・ロックの一部のシーンを指す言葉。詳しくはゴシック・ロック参照。
  9. ^ 当時のジャパメタ氷河期の厳しさを物語るものとして、SEX MACHINEGUNSのフロントマンのANCHANGの発言がある。インディーズ時代の彼らがライブハウスで売り込みに行った際に「今時ヘビメタなの?」と言われライブハウスで演奏させて貰えなかった時期があったと、メジャーシーンで活躍できる様になった後に様々なメディアで告白している。その後のSEX MACHINEGUNSは、少しでも自分達の楽曲を聴いてもらいたいが為に、あえてヴィジュアル系を踏襲した路線で活動を行ってゆく事になる。
  10. ^ アニ○○、○○メタルと言った企画に参加したミュージシャンの中には柴田直人モスラメタル)、森川之雄(まんが日本メタル話)、福田洋也(演歌メタル)と言った坂本以外の元ANTHEMのメンバーもいた。但し、坂本はアニメタル結成以前に「力王」や「黄龍の耳」等のサウンドトラックやイメージアルバムに参加していたり、柴田は『柴田直人プロジェクト』名義でコナミの「パーフェクト・セレクション・シリーズ」に参加するなど、アニメやゲーム音楽の世界での活動も経験している。
  11. ^ もっとも、ニトロプラス作品の主題歌については、ジャーマンメタル調の楽曲や荘厳なバラードなど、聞いただけではアダルトゲームの主題歌とは信じにくい、ゲームの内容が想像できないとまで言われるものが多く、ニトロプラス自体もアダルトゲーム業界の中でも一種独特のポジションにあるメーカーである。
  12. ^ さらに不運な事には、hideの葬儀の参列に向かっていた、ヴィジュアル系インディーズバンド「Deshabillz」が交通事故を起こし、そのベーシスト「美歪」が死亡するという事態も発生した。
  13. ^ 松川は1994年にhideのツアーに参加している。
  14. ^ 聖飢魔IIはそのパフォーマンスにおいて保守的なメタルファンからは解散まで一貫して批判され続けた存在であったが、その一方で、ジャパニーズ・メタル氷河期の最も厳しい時期にあってすらホール会場規模でのライヴを概ね満員にする事が可能であったという点では、希有な成功を修めたバンドであった。
  15. ^ ただし、マーティはこの映画内において「ヴィジュアル系のファンがメタリカすら知らない」、つまりはヴィジュアル系のファンは専らヴィジュアル系しか見ておらず、ジャパメタやヴィジュアル系にとっても遡ればルーツのジャンルである洋楽ヘヴィメタルへの知識や興味に乏しい点についても指摘し、苦言を呈している。
  16. ^ 川嶋はサム・ダンの映画「メタル・ヘッドバンガーズ・ジャーニー」(2005年)のDVD特典映像にて「LOUDNESS以外の日本のバンドには興味がない」とも答えていた。それから10年後の2015年にSighがリリースしたアルバム『Graveward』には日本人ギタリストであるケリー・サイモンがゲスト参加しており、日本のミュージシャンにそれほど興味を示さなかった川嶋の心境の変化が伺える

出典[編集]

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