伊福部昭

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伊福部 昭
基本情報
出生名 伊福部 昭
(いふくべ あきら)
生誕 (1914-05-31) 1914年5月31日
出身地 日本の旗 日本北海道釧路町
(現:釧路市
死没 (2006-02-08) 2006年2月8日(91歳没)
日本の旗 日本東京都目黒区
学歴 日本の旗 日本
北海道帝国大学農学部林学実科学校(現:北海道大学農学部森林科学科)卒業
ジャンル クラシック音楽
映画音楽
職業 作曲家
東京音楽大学名誉教授
活動期間 1935年 - 2006年
公式サイト 伊福部昭 公式サイト

伊福部 昭いふくべ あきら[出典 1]1914年大正3年〉[1][3]5月31日[4][5] - 2006年平成18年〉2月8日[3])は、日本作曲家

ほぼ独学で作曲家となった[1]。日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くの管弦楽作品や、『ゴジラ』を初めとする映画音楽のほか[出典 2]音楽教育者としても知られる[5]位階従四位北海道出身[出典 3]

来歴[編集]

1914年(大正3年)、北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男として生まれる。小学生の時、父が音更村の村長となったため、音更村に移る[8]。同地でアイヌと接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた[9]。代表作の一つ、『シンフォニア・タプカーラ』(1954年)は、アイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという[9]。また、このころから父親に『老子』の素読をさせられる[10]

1926年(大正15年)、12歳。札幌第二中学(北海道札幌西高等学校の前身)に入学。中学時代に後の音楽評論家で、生涯の親友となる三浦淳史と出会う[11]。初めは絵画に熱中し、1年上の佐藤忠良(彫刻家)らと美術サークル「めばえ会」を結成[10]。地元で展覧会も開いたという[10]。その後音楽に関心を持ち、ヴァイオリンを独学で始める[12]。さらに三浦に「音楽やるには作曲やらないと意味がない」とそそのかされ、本格的に作曲も始めた[12]

1932年(昭和7年)、18歳。北海道帝国大学北海道大学の前身)農学部林学実科学校(森林科学科)に入学[7]。文武会管絃学部のコンサートマスターとなる[13]。さらに、同オーケストラ内で最新の音楽への関心が強い同志3名(有田学、小岩武、工藤元)とともに、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成する[14]。工藤は当時札幌師範学校教諭で、大正期に函館で「アポロ音楽会」を主宰した工藤富次郎の長男であった[14][15]。ギター曲『JIN』作曲[注釈 1]。独唱曲『平安朝の秋に寄せる三つの歌』作曲[注釈 1]。このころ後の作曲家早坂文雄と出会う。

1933年(昭和8年)、19歳。アマチュアギター奏者であった次兄・勲のために、ギター曲『ノクチュルヌ』作曲[14](現在楽譜の所在不明)。さらに、三浦が文通していたスペイン在住の米国人ピアニスト、ジョージ・コープランド英語版のために『ピアノ組曲』を書き上げる[16]。これは、コープランドの「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」という旨の手紙に対して、三浦が「良い作曲家がいるので曲を送る」と返事を書いたことを受けて作曲したものであるが[16]、後年、管弦楽版、箏曲版、弦楽オーケストラ版などを編曲するなど、ライフワーク的な作品となる。なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため手紙が途絶えたという[16]

1934年(昭和9年)、20歳。次兄の勲、三浦、早坂、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーらとともに、「新音楽連盟」を結成[14]。代表は伊福部の長兄の宗夫がつとめた[14]。同年9月、「国際現代音楽祭」を開催[14]イーゴリ・ストラヴィンスキーダリウス・ミヨーマヌエル・デ・ファリャエルヴィン・シュルホフエリック・サティなど、時代の最先端をいく作品を演奏・紹介した[13][14]。また、この演奏会で伊福部はソリストとして、シュルホフの『無伴奏ヴァイオリンソナタ』を日本初演している[14]。楽譜の入手は伊福部と、当時アメリカの音楽家と文通するなど、最新の音楽事情に精通していた三浦が中心に行っており、主に丸善を通してフランスデュラン社・イギリスのチェスター社から購入していた[14]。なお、伊福部は上記の他にもヤナーチェクの『六重奏曲』の楽譜を入手していたが、当時はその価値がわからず演奏会で発表することはなかった[14]。伊福部はこのことを後年まで悔やんでいたという[14]。また、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」のメンバーとしても、札幌・旭川など道内各地で演奏旅行も行った[14]

「新音楽連盟」の演奏会は上記の一度きりであったが、20年後の1954年に当時北大生であった谷本一之(のち北海道教育大学学長)らのグループ「ノイエ・ムジーク」が、同大学の中央講堂で「新音楽連盟」の演奏会を継承するとして「現代音楽の夕」を開催している[17]。谷本は事前に先輩の伊福部らに許可を求める手紙を送ったが、伊福部からは「御役に立つなら第二回でも第三回でもご使用ください。 〜(中略)〜 選曲や、演奏の上で多少、不適当なものがあったとしても、その支障を超える気力が重要です」と激励の返信があったという[14][17]

デビュー作・日本狂詩曲[編集]

1935年(昭和10年)、21歳。大学を卒業後、北海道庁地方林課の厚岸森林事務所に勤務[7][16]。アメリカの指揮者ファビエン・セヴィツキーセルゲイ・クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る[18]

同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、ラヴェルに見てもらいたいという一心で[要出典]、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった[注釈 2]

パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、

  1. 平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと
  2. 当時としては極端な大編成である編入楽器多数の(打楽器奏者だけで9人を要する)三管編成オーケストラが要求されていたこと
  3. 北海道の厚岸町から応募してきたこと

との理由から、相当の驚きと困惑があったという[19]。とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」という意見も出たが、大木正夫の「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という意見が通り、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた[19]

結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった[出典 4]。賞金は300円であった。この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平と伊福部はともに新作曲派協会を結成することになる。同曲は翌1936年(昭和11年)、セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演された[20]。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、そのカットした部分の楽譜は現存しないため、永遠に幻となった[18]。なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている[21]

これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する[20]。日本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。チェレプニンは伊福部にニコライ・リムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』のスコアを渡し、筆写して学ぶことを勧めた。

なお、『日本狂詩曲』は、1936年に龍吟社からチェレプニン・コレクションとして楽譜が出版されている[22][23]。表紙のデザインは、美術にも関心が深かった伊福部自身が手がけた[23]。この楽譜は、日本国内では僅か9冊しか売れなかったが、海外での購入者の中には、モーリス・ラヴェルやジャン・フランチェスコ・マリピエロらの名前もあったという[22]

戦前・戦中[編集]

1937年(昭和12年)、23歳、室内管弦楽曲『土俗的三連画』を作曲し、チェレプニンに献呈する[24]

1938年(昭和13年)、24歳。以前書いた『ピアノ組曲』がヴェネツィア国際現代音楽祭入選[16]

この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった、北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。

1940年(昭和15年)、26歳。林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に嘱託として勤務[25]紀元二千六百年記念祭にて『交響舞曲 越天楽』初演[24]

1941年(昭和16年)、27歳。札幌出身の舞踊家・勇崎アイと結婚。これが後に舞踊作品の音楽を手掛けるきっかけとなる。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』作曲。

1942年(昭和17年)、28歳。兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去[26]

1943年(昭和18年)、29歳。勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲[26]。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった[26]。吹奏楽曲『古典風軍楽「吉志舞」』を作曲。

1944年(昭和19年)、30歳。管弦楽曲『兵士の序楽』を作曲。『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』[注釈 3]を作曲。『管絃楽のための音詩「寒帯林」』を作曲。

1945年(昭和20年)、31歳。宮内省帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務[27][28]。放射線による航空機用木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続けた[29]。研究成果を得ないまま終戦となったある日、突然血を吐いて倒れたが[28][30]、医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われ、「何せ生命が最も軽んぜられた時代なので、医師も無責任なものであった」と述懐している[30][注釈 4]。また、この時病臥した経験が、後に音楽に専念するきっかけとなったという[31]。航空機に伴う一切の仕事はマッカーサー上陸後、数日後に禁止となった[27]

戦後[編集]

1946年(昭和21年)、32歳。自宅で静養中、知人から映画音楽の仕事の誘いがあり、栃木県の日光・久次良町に転居[32]。その後間もなく、東京音楽学校(現東京藝術大学)学長に新任した小宮豊隆が伊福部を作曲科講師として招聘し、これを受けて就任[27][33]。独唱曲『ギリヤーク族の古き吟誦歌』作曲。

この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志黛敏郎などから大変慕われた。特に芥川は2回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。そのほかにも教育者として松村禎三矢代秋雄池野成小杉太一郎山内正石井眞木三木稔今井重幸永瀬博彦和田薫石丸基司今井聡、など多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった[要出典]

またこのころ、『管弦楽法』の執筆に取り掛かっていたが、トランクに入れていた原稿やメモを、乗っていた電車からトランクごと落としてしまった[34]。翌日探しに行ったが、原稿はほとんど散逸してしまっており、このために『管弦楽法』をまとめるのに5年はロスしたという[34]

1947年(昭和22年)、33歳。東京都世田谷区玉川等々力町に転居[35]。東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当[出典 5]。伊福部はこの作曲依頼について、「おそらく私が山林官で、山奥の生活を知っているだろうということであったのだろうと思っています」と語っている[27][36]

この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての主人公の心情を表した音楽を意図したことが認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。

バレエ曲『エゴザイダー』作曲。

同年、『交響譚詩』などの業績により、第1回北海道新聞文化賞を受賞[37]

1948年(昭和23年)、34歳。世田谷区玉川奥沢町に転居。『ヴァイオリン協奏曲』[注釈 5]。バレエ音楽『さ迷える群像』を作曲。バレエ音楽『サロメ』を作曲[注釈 6]

1949年(昭和24年)、35歳。父・利三死去。独唱曲『サハリン島土蛮の三つの揺籃歌』[注釈 7]を作曲。バレエ音楽『子供のための舞踏曲 リズム遊びのための10の小品』を作曲。バレエ音楽『憑かれたる城(バスカーナ)』を作曲。

1950年(昭和25年)、36歳。バレエ音楽『プロメテの火』を作曲。

1951年(昭和26年)、37歳。世田谷区玉川尾山町(現尾山台)に転居。『音楽入門』(要書房)を刊行。バレエ音楽『日本の太鼓「鹿踊り」』を作曲[注釈 8]

1952年(昭和27年)[要出典]、38歳。『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』がジェノヴァ国際作曲コンクール入選[要出典]

1953年(昭和28年)、39歳。東京音楽学校の音楽科講師を退任。バレエ音楽『人間釈迦』を作曲[注釈 9]。『管絃楽法』(音楽之友社)を刊行[注釈 10]。ラジオ放送による音楽劇『ヌタックカムシュペ』が文部省芸術祭賞受賞。

1954年(昭和29年)、40歳。『ゴジラ』の音楽を担当[7][38]。以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けた。

管弦楽曲『シンフォニア・タプカーラ』を作曲[注釈 11]、三浦淳史に献呈[39]

1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。この時の教え子に宝田明岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、映画の打ち上げ会や書籍などで語っている。

1956年(昭和31年)、42歳。『ヴァイオリンとピアノのための二つの性格舞曲』を作曲。毎日映画コンクール音楽賞受賞。仮面舞踏劇『ファーシャン・ジャルボー』作曲。独奏曲『アイヌの叙事詩による対話体牧歌』を作曲。

1958年(昭和33年)、44歳。合唱頌詩『オホーツクの海』を作曲[注釈 12]

1960年(昭和35年)、46歳。北海道大学合唱団委託作品、独唱曲『シレトコ半島漁夫の歌』を作曲。バレエ音楽『日本の太鼓「狐剱舞」』を作曲。

1961年(昭和36年)、47歳。合唱曲『北海道賛歌』を作曲。ピアノ協奏曲『ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」』を作曲。

1965年(昭和40年)、51歳。母・キワ死去。

1967年(昭和42年)、53歳。ギター独奏曲『古代日本旋法による蹈歌』を作曲(1990年に二十絃箏用に編曲)。

1968年(昭和43年)、54歳。『管絃楽法』(音楽之友社)の上巻増補改訂版と下巻を刊行。

1969年(昭和44年)、55歳。ギター独奏曲『箜篌歌』を作曲[注釈 13]

1970年(昭和45年)、56歳。大阪万博のパビリオン「三菱未来館・日本の自然と日本人の夢」の音楽を手がける。ギター独奏曲『ギターのためのトッカータ』を作曲[注釈 14]

1972年(昭和47年)、58歳。吹奏楽曲『ブーレスク風ロンド』を作曲[注釈 15]。バレエ音楽『日本二十六聖人』を作曲。

1973年(昭和48年)、59歳。邦楽器合奏曲『郢曲「鬢多々良」』を作曲。

1974年(昭和49年)、60歳。東京音楽大学作曲科教授就任。

1976年(昭和51年)、62歳。同大学長就任[40]。マリンバ協奏曲『オーケストラとマリンバのための「ラウダ・コンチェルタータ」』を作曲。

1979年(昭和54年)、65歳。『ヴァイオリン協奏曲第二番』を作曲。二十絃箏曲『物伝舞』を作曲。

1980年(昭和55年)、66歳。リュート独奏曲『バロック・リュートのためのファンタジア』を作曲[注釈 16]。紫綬褒章受章。芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展4 伊福部昭」が開催される[41]

1982年(昭和57年)、68歳。二十絃箏協奏曲『二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ』を作曲[40]

1983年(昭和58年)、69歳。管弦楽曲『SF交響ファンタジー』を作曲。ゴジラ30周年記念「伊福部昭SF特撮映画音楽の夕べ」が開催される。また、音楽グループ「ヒカシュー」のメンバー(当時)の井上誠によって、トリビュートアルバム『ゴジラ伝説』全3作がリリースされ、若い世代にも伊福部の名前が知られるきっかけとなった[42]

1985年(昭和60年)、71歳。『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』を作曲。東京音楽大学民俗音楽研究所所長就任。

1987年(昭和62年)、73歳。勲三等瑞宝章受章[43]

1989年(平成元年)、75歳。

1990年(平成2年)、76歳。管絃司判『鞆の音』を作曲。

1991年(平成3年)、77歳。『ゴジラVSキングギドラ』で13年ぶりに映画音楽を担当[出典 6][注釈 17]

1992年(平成4年)、78歳。独唱曲『摩周湖』を作曲。

1993年(平成5年)、79歳。交響的音画『釧路湿原』を作曲。

1994年(平成6年)、80歳。独唱曲『因幡万葉の歌五首』を作曲。

1996年(平成8年)、82歳。日本文化デザイン賞大賞受賞。

1997年(平成9年)、83歳。二十五絃箏曲『胡哦』を作曲。「伊福部昭音楽祭」(札幌交響楽団札幌コンサートホールKitara北海道文化放送北海道新聞社主催)開催[45]。『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』が55年ぶりに再演される[45]

1999年(平成11年)、85歳。二十五絃箏曲『琵琶行』を作曲。

2000年(平成12年)、86歳。独唱曲『蒼鷺』を作曲。独唱曲『聖なる泉』を作曲。妻・アイ死去。

2002年(平成14年)、88歳。「伊福部昭米寿記念演奏会」(新交響楽団紀尾井ホール)。

2003年(平成15年)、89歳。チェンバロ独奏曲『小ロマンス』を作曲。文化功労者顕彰[46]

2004年(平成16年)、90歳。「文化功労者顕彰お祝いコンサート」開催(第一生命ホール)[47]。「伊福部昭 『卆寿』を祝うバースディ・コンサート」開催(日本フィルハーモニー交響楽団サントリーホール[48]

2005年(平成17年)、91歳。11月、幼少期を過ごした北海道音更町で、「伊福部昭音楽祭 in 音更」(札幌交響楽団、高関健指揮)開催[49]。『管弦楽のための日本組曲』、『リトミカ・オスティナータ』(ピアノ:川上敦子)、『シンフォニア・タプカーラ』などが演奏される[49]

晩年[編集]

晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、年を重ねてからも大作を書く筆は衰えなかった。この時期の改作としては、野坂惠子が開発した二十絃箏や二十五絃箏などの改良楽器およびその合奏のための作品が多い。1997年(平成9年)にそれまで戦時中に失われたとされていた『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』の楽譜がNHKの資料倉庫から発見される[45]など、晩年になってから多数の初期作品が蘇演される幸運にも恵まれた。

2006年(平成18年)、前年ごろから体調を崩し始め、1月19日に腸閉塞のため東京都目黒区の病院に入院するも、2月8日夜に多臓器不全のため死去。91歳没[50][51]。葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。従四位に叙された。

遺作は結果として、2004年(平成16年)初演の二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ — バレエ・サロメに依る』である。しかし、川上敦子に献呈する予定だった『土俗的三連画』のピアノリダクション版、ならびに野坂恵子に献呈する予定だった二十五絃箏曲『ラプソディア・シャアンルルー』(「シャアンルルー」はアイヌ語十勝平野の意)は、病床において構想の段階を過ぎて、書き始める直前であったという[52][53]

伊福部の死去に対して、「日本の作曲界を牽引した功績はとても大きい」(作曲家・池辺晋一郎)、「映画音楽の大山脈をなした方でした」(映画監督・熊井啓)など、各界から追悼のコメントが寄せられた[54]

墓所は鳥取市国府町の宇倍神社にある。

没後[編集]

2007年(平成19年)、サントリーホールにて「第1回伊福部昭音楽祭」が開かれた。

2008年(平成20年)、『完本 管絃楽法』(音楽之友社)を刊行。杉並公会堂にて「第2回伊福部昭音楽祭」開催[55]。コンサートの他、シンポジウム「伊福部昭が残したもの - 未公開映像に見る伊福部昭の素顔」が開かれた[55]

2013年(平成25年)、5月2日、杉並公会堂にて「伊福部昭生誕99年 白寿コンサート」(伊福部昭生誕99・100年音楽祭実行委員会〈現・伊福部昭百年紀実行委員会〉主催)が開かれた[56]。6月1日、ミューザ川崎シンフォニーホールにて「伊福部昭 生誕100年記念プレコンサート」が開催。舞踊音楽『プロメテの火』が50年ぶりに再演された[57]

2014年(平成26年)。生誕100周年を迎えるこの年は、数多くの記念コンサート・イベントが行われた[58]。またメモリアルイヤーを記念し、多くのCDがリリースされた[59]。コンサート・イベントについて、主要なものを以下に述べる。

  • イベント
    • 7月19日から9月28日にかけて、伊福部の郷里・北海道で開催された『札幌国際芸術祭』(ゲストディレクター・坂本龍一)では、メインイベントの一つとして、北海道庁赤れんが庁舎において、「伊福部昭展」が開催された[出典 10]。また、9月23日には、伊福部の長女で陶芸家の伊福部玲を招いたトークショーと、貴重な音源を集めたレコードコンサートで構成された「トーク&レクチャー 伊福部昭レコードナイト」が開催された[75][76]
    • 9月19日から29日にかけて、パルコギャラリーXにおいて、「ゴジラ伝説と伊福部昭の世界展?GODZILLA GENERATION?」が開催された[77]

2019年(令和元年)、アメリカ映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』において、伊福部の作曲した「ゴジラのテーマ」が海を越えてアレンジ版となって使用された。

2021年(令和3年)、伊福部昭の作品資料1,243点&愛用ピアノが、遺族から東京音楽大学に寄贈された[78]

栄典[編集]

人物[編集]

  • 幼少期に西洋音楽に触れず、アジアの田舎の感性で育ったと述べている[28]。動物とも近い距離感で生活していたことから動物を愛好しており、幼少期にはヘビや鳥などを多く飼っていた[28]。『ゴジラ』の映像を最初に観たときも、怖さよりも魅力的に感じたという[28]
  • 終戦時にGHQによる戦時科学研究の検査で、使用した資材の量をトン単位で聞かれたことで桁が違うことを痛感し、日本の敗戦はテクノロジーの差であったという印象が強くなったという[28]。そのため『ゴジラ』では、現実的な人間のテクノロジーがゴジラに通用しない様が痛快であったといい、アンチ文明の思想に人並み以上の共感を覚えたと述べている[28]
  • 「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」を信条とし、「大楽必易 大礼必簡」(「すぐれた音楽は平易なもので、すぐれた礼節は簡略なものである」という意の司馬遷の言葉)を座右の銘としていた[79]。また、伊福部家の家学老子であり、これをはじめとして多くの中国古典に精通していた[53]。自宅の書斎には「無為」という諸橋轍次の書があり、いつもこの書を見てから仕事を始めた[53]
  • 政治的スタンスについては自ら明言することはなかった。2005年(平成17年)には、音楽家有志によって結成された「音楽・九条の会」の呼びかけ人として参加している[80]
  • 自身は神道を信仰していたが、神道やそれ以外も含め宗教映画も多く手がけた(『日本誕生』、『釈迦』、『人間革命』など)。『続・人間革命』は降板させられたが、これは天理教の映画『扉はひらかれた』に参加したためだといわれている。自身は「八百万の神ということで誰をやってもいいんです」と語っている。
  • タバコ[注釈 19]をこよなく愛するヘビースモーカーで、インタビューの写真・映像では、大体片手にタバコを持っている。また若いころはかなりの酒豪だったが、それでも北海道森林官のレベルで見ると強いとは言えないそうである。チョコレートなどの甘いものが好物で、仕事の際には机の引き出しに入れ、よく食べていたという。
  • 「怪獣に被せる音楽は抑え気味にしたほうがよい場合があるんですが、女優さんなんかで演技力がないと、それをカバーするために音楽の量を上げないといけないから大変です」と語っていた。1980年代後半に『題名のない音楽会』に出演した際も、司会を務める門下生の黛敏郎に、「先生は大変な毒舌家でございまして……」と紹介され、この番組の中でも、「演技者に被せる劇伴音楽のボルテージというものは、その俳優さんの演技力に反比例するもののようです」と、早速毒舌を披露していた[出典無効]。平成ゴジラシリーズの監督を務めた大河原孝夫は、伊福部の作品に対する評価は手厳しいものであったと述懐している[81]
  • 門下生である広上淳一日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して録音した4枚組みCD『伊福部昭の芸術』は、日本の現代音楽作品としては異例の売り上げを記録した。伊福部はこのことについて、「戦後日本は憧れであちこちから音楽を集めてきたが、全て切り花、根無し草で終わった。それで前から根の生えていたものを探したら、我々がいたということではないか」と述べている[82]。また、1935年に発表した『日本狂詩曲』が、45年経った1980年にようやく日本で初演され、以後度々演奏されるようになったことについては、「それだけ長い期間、演奏機会に恵まれなかったのは、やはり私の音楽が、あまり日本のクラシック音楽界から好まれていなかったことの証明だろうと思っています。近年の傾向は、ロック・ミュージックの影響で、私のリズムを強調する音楽に違和感を覚えぬ方が増えたとか、日本人の耳が私の音楽を受け入れる方向に変わってきたせいではないでしょうか?」とコメントしている[49]
  • 音楽評論家の片山杜秀は、「伊福部先生の音楽は、日本的なイメージにとどまらない大陸的でスケールの大きなものだった。北海道で生まれ育ったことも大きく影響している。北方的な自然の感性をうまく音楽にしていた」と評している[54]
  • 同じ北海道出身の作曲家・佐藤勝は、直接の師弟関係はなかったものの、北方的な力強さを持った伊福部作品に大きな憧憬を寄せ、影響を受けた[83]。1993年11月には、伊丹市立文化会館で佐藤の企画・指揮により、伊福部の特撮映画音楽を演奏する「ゴジラ生誕四十周年記念コンサート」が開催されている[84]
  • 前述の通り、音楽評論家の三浦淳史は旧制札幌二中時代からの親友で、伊福部が作曲家になるきっかけを作った人物でもある。1997年に三浦が死去した時、伊福部は「兄の勲も若いころの音楽仲間も既に亡く、自分だけが残って寂しい限りです」とその死を嘆いた[85]
  • 伊福部は同じ道東出身で、北海道の自然と風土を力強く詠った詩人・更科源蔵の作品に魅せられ、彼の第二詩集『凍原の歌』に収録された作品を基に、「オホーツクの海」(1958年)、「知床半島の漁夫の歌」(1960年)、「摩周湖」(1993年)、「蒼鷺(あおさぎ)」(2000年)の4作の歌曲を発表している[86]。林務官時代に道東を回ることが多かった伊福部にとって、知床半島は特に印象の深い地であったという[86]。「摩周湖」と「蒼鷺」は、伊福部の作品に取り組んでいるソプラノ歌手・藍川由美のために書き下ろされた[86]
  • 平成ゴジラシリーズの音楽プロデューサーを務めた岩瀬政雄によれば、伊福部は徹夜で編集作業や打ち合わせを行うこともあり、スタッフが疲れてくるとジョークを言って和ませるなどしていた[87]

語録[編集]

  • 「作曲家は氏・素性を音楽で語らねば駄目だ」[54]
  • 「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」[88]
  • 「17歳から22歳までに得たものは一生離れない」[88]
  • 「楽譜をきれいに書けない者は良い音楽が書けない」[88]
  • 「自然無為が大切だ」[88]
  • 「香水は物凄く臭いものから作られる」[88]

家族・親族[編集]

伊福部家は因幡国の古代豪族伊福部氏を先祖とする[89]本籍地鳥取県岩美郡国府町(現在は鳥取市に編入)。明治前期まで代々宇倍神社の神職を務めたとされ、昭の代で67代目。祖父・信世の代に明治維新となり、神官の世襲が廃止されたことにより父・利三は北海道に転居し、警察署長や音更村(音更町の前身)村長を務めた[8][90]

長兄の伊福部宗夫は北海学園大学建設工学科教授、次兄の伊福部勲は技術者として日本夜光塗料研究所に勤務していたが30歳で早世した(昭の「交響譚詩」第2楽章は亡き勲への追悼曲)[91][92]。工学博士で北海道大学電子研究所教授や東京大学先端科学技術研究センター教授を歴任した伊福部達は甥(長兄・宗夫の次男)[82]放送作家伊福部崇従孫である。なお、伊福部家の人物としては宗教家・文芸評論家・詩人の伊福部隆彦も知られている。

作品の特徴[編集]

シンプルなモティーフの反復・展開
これはアイヌなどの先住民族の音楽に影響されたもの。旋律はメリスマ(日本音楽でいう「こぶし」)と呼ばれる豊かな装飾を受ける。
民族的旋法の使用
作品の多くには日本の五音音階フリギア旋法、エオリア旋法に近い旋法が用いられている。
三和音の否定
これは西洋的な響きを嫌ったためで、2度、4度、5度、8度を積極的に用いている。結果、機能和声からは自由で独特な和声進行を持ち、またドローン(持続低音)的な要素が存在することが多い。
リズムの重視
西洋音楽はリズムを無視した結果袋小路に陥った、としてリズムの復権を主張した(変拍子の多用はそのあらわれか)。そこから、次のオスティナートの使用へと繋がっていく。
オスティナートの重視[6]
師匠のチェレプニンからは、「現代音楽アキレス・ポイント」であるから避けるように、と指示されたが、オスティナートこそアジアの音楽で重要な書法だ、と位置づけて創作に取り入れた。
アイヌ音楽について解説した文の中で、「反復すること其れ自体に重要な意味がある」と述べている[93]
映画音楽でも多用しており、メロディアスで観客が覚えやすい曲となっている[6]
ソナタ形式の否定
これは、日本的美意識に照らし、機械的な主題再現を嫌ったためで、主題が再現されるときでもソナタ形式での狭義の再現部は見られない。また曲には主題提示→展開→発展的終結、という構成を持つものが多い。
オーケストレーション
『日本狂詩曲』以降晩年まで変わることのなかったオーケストレーション技法は著書『管絃楽法』に凝縮されている。
マイナーな楽器・奏法の多用
伊福部は様々な楽器の音を把握していたとされ、王道な演奏にとらわれず各楽器の特性を最大限に利用した楽器編成を行っていた[6]
弟子の1人である三木稔は、「(伊福部)先生は他の作曲家があまり使っていないところを使って音作りをしてしまう。管弦楽法の内容の全て裏をいっているのに、ひどくおいしいところを使って音作りをしているように感じる」と語っている[6]

映画音楽でのエピソード[編集]

映画音楽は300本以上の作品を手掛け、日本を代表する映画音楽の作曲家の1人である[出典 11]

映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』は、監督の谷口千吉にとっても、また主演の三船敏郎にとってもデビュー作であった。その『銀嶺の果て』の打ち上げの席で、小杉義男に、「あんた、監督さんにあんなふうに口答えするなんてどういうつもりなんだ」と、論争したことをとがめられた。しかし小杉が離れたあと、志村喬がやってきて、「音楽の入れ方で監督と論争する人は初めてだ。これからも大いに頑張りなさい」と励まされた。[要出典]

1948年(昭和23年)、映画の仕事で京都に滞在していた際に、撮影所そばの小料理屋の二階で月形龍之介[注釈 20]とこたつで酒を飲んでいると、途中から入ってきた男がいた。「またもらい酒か」などと言われながらもニコニコしながら酒をおごってもらい、名前も名乗らぬままおごり酒に酔いつつ飄逸、洒脱な話題で延々大飲した。その際の俳優や映画会社への愚痴から、伊福部は「不遇な映画人」という印象を受けたという。伊福部はその男と気が合い、その後も数年間、お互いの名前も分からないままたびたび会っては酒をおごらされていた。この男こそ特技監督円谷英二で、当時、円谷は公職追放中の身であった。のちに映画『ゴジラ』の製作発表の現場で再会し、2人とも大変驚き、またお互いに初めて相手の名前を知ったという[27][1]

円谷英二は特撮のラッシュ・フィルム(編集前の現像されたばかりのフィルム)を、他人に決して見せなかったが[27][1]、特別にラッシュを見せてもらい、作曲に活かしていた[注釈 21]。これも数年間にわたる円谷へのおごり酒が背景にあり、冗談めかして「なにしろ円谷さんにはそういう“神の施し”があったもんですから」と語っている[1]。また、『サンダカン八番娼館 望郷』などでコンビを組んだ熊井啓も、「作曲家はふつう、編集ずみのフィルムを見て音楽をつけるが、伊福部さんは撮影されたフィルムを全部見ていた」と証言している[54]

座頭市』シリーズなどで仕事を共にした勝新太郎とは、「勝っちゃん」「先生」と呼び合う仲で、後に勝が舞台で座頭市を行う際、オープニングは伊福部のボレロ[注釈 22]でなければならない、と言うことで伊福部に音楽を依頼したという。

伊福部は、映画音楽では録音テストの際、必ず自ら指揮棒を振った。伊福部と映画作品でのコンビの長かった指揮者の森田吾一によると、その際、普通の倍の長さの指揮棒を使うのが常だった。また、このテストの際の指揮のテンポが次第に遅くなって、スクリーンに映写した画面といつも合わなくなるのだが、それは伊福部が音楽の響きをチェックしていたためだという。

これも森田によると、伊福部のスコアは作曲時間の短さにかかわらず、非常に細かくしっかりと書き込まれており、曲の途中に複雑な変拍子が入るのも特徴で、この変拍子を振るのはコツがいるものだった。

怪獣映画においては、楽曲のみならず怪獣の鳴き声や足音なども伊福部が手掛けている[2][6]。『ゴジラ』では、なかなか決まらず難儀していたゴジラの鳴き声の表現に、コントラバススル・ポンティチェロというきしんだ奏法の音を使用することを発案したり[注釈 23][27][95]、劇中での秘密兵器オキシジェン・デストロイヤーを水槽内で実験するシーンでは、弦楽器がグリッサンドしながら高音のきしんだトレモロを奏でた後、ピアノの低音部でトーン・クラスターを奏するなど、映画の公開された1954年(昭和29年)にはまだ現代音楽界でも認知されていなかった手法を大胆に用いたことは、世界的に見ても特筆に価するものだった[95]。さらに『空の大怪獣 ラドン』では、ピアノ内のピアノ線を直接ゴムのバチで叩いたり、『キングコングの逆襲』のメインタイトル曲では、同じくグランドピアノ内の弦を100円玉でしごくという奏法を使用している[96]。怪獣の効果音で最も苦労したものとして、『キングコング対ゴジラ』の大ダコを挙げている[出典 12]

映画監督の本多猪四郎によれば、伊福部は打ち合わせの際に映画内でどのような擬音(効果音)を用いるのか細かに尋ね、効果音と同質の音楽で相殺しないよう相反する性質の音をつけていったという[94]。平成ゴジラシリーズの監督を務めた大河原孝夫は、伊福部について演出家の意図を尊重していたといい、たとえ楽曲を用意していたシーンでも不要と判断すれば曲を外すことに異論は出さなかったという[97]

怪獣映画においては、怪獣ごとにライト・モティーフを設け、対決シーンではそれらを紡ぎあげてバトル音楽とする手法をとることが多い[38]。また、怪獣との戦いの合間に人物の会話が行われるような場合でも、カットごとに音楽を区切ることはせず、1つのシーンとして楽曲を長くつけるのも特徴である[6]

「◯◯マーチ」と通称される曲も多いようにマーチ調の楽曲も得意としているが、伊福部はマーチを書く際は軍隊行進曲にならないことを最も注意していたという[6][注釈 24]

フランケンシュタイン対地底怪獣』では、伊福部はフランケンシュタインのテーマ曲のためにバス・フルートという通常のフルートより低音の楽器を日本の映画界で初使用している。この楽器は当時日本には1本しかなかった非常に珍しいもので、音量の低さからオーケストラ演奏では稀にしか用いられないものだが、伊福部は「映画音楽しかできませんね」と、マイクロフォンを用いることで効果的な旋律を実現している[98]

伊福部による怪獣映画の楽曲では、管楽器の低音を用いることが多いため、昭和期の気の知れた演奏家たちからは「チューバやトロンボーンのギャランティは倍にしてくれ」と言われたこともあったという[99]。ゴジラシリーズの楽曲については、きれいな音ではないほうが良いこともあると語っている[40]

『ゴジラ』での「平和の祈り」など、人間の本質を表現するために合唱曲を用いることも多い[6]。一方で、本多によれば、映画『モスラ』で伊福部は「わたくしはああいう歌はダメです」といって音楽担当を辞退したという[100]。『ゴジラvsモスラ』で「モスラの歌」(古関裕而作曲)をアレンジした際は、宗教的なバックハーモニーを取り入れている[4]

伊福部は東宝作品の音楽を数多く手がけたが、黒澤明作品は、『静かなる決闘』1作のみである[101]。映像と音楽の弁証法的な融合を目指した黒澤にとって、伊福部の訴求力・完結性の高い音楽は相容れないものであったと考えられる[101]。伊福部自身も、黒澤作品における音楽の付けにくさについては後に証言している[102]。だが、音楽にも造詣の深い黒澤は、作曲家としての伊福部の能力を非常に高く評価しており、『静かなる決闘』における土俗的な音楽についても一定の評価をしていた[101]。また、伊福部の映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』(谷口千吉監督)は、黒澤が脚本を手がけ、製作にも関わっていたが、あるシーンに入れる音楽のことで伊福部と監督の谷口が対立した際、黒澤は全面的に伊福部を支持している[101]。この時は結局伊福部の主張が通った形となったが、出来上がった音楽は谷口をも十分納得させるものであった[101]

書籍『東宝特撮映画全史』での寄稿「特撮映画の音楽」で[27]、特撮映画の音楽について感ずることとして、

  • 一般映画においては納得しがたい観念的な芸術論に悩まされることが多いが、特撮映画ではこれはほぼ皆無である
  • ドラマツルギーに支配されすぎると、音楽は自律性を失いスポイルされるものだが、特撮映画にはその危険性はなく伸び伸びと作曲ができる
  • 音楽は本来、音楽以外表現できないものだが、スクリーンの映像と結合すると「効用音楽」として不思議な効果を生む

と述べ、「音楽としての自立性を失わずに、こういった効果を万全に利用できるのが特撮映画音楽の特質の一つである」と結論付けている[27][6]。同時に「今日、テクノロジイが発達しすぎたためか、映像も音楽も無機質に流れ人間性から離れる傾向があり、今一度本来の人間性にたちかえった特撮映画の復活を望む」と締めくくっている[27]。その後のインタビューでは、作り物である特撮が生きているような感じを与えることが自身が特撮を作曲する際の心構えであるといい、普通の楽曲では作り物に見えてしまうと語っている[1]

伊福部の特撮映画の作品別全長版サウンド・トラックのレコードは1980年代まで長らく発売されなかったが、これも「映画音楽は、映像と合わさって効果を生むものなので、一般音楽とは違うもの」との考えから許可を出さなかったものと述べている[要出典]

自身が担当していなかった時期のゴジラシリーズについては、作品がコミック的になっていったため自身の作風ではイメージを表現しづらいとの考えから引き受けなかったと述べている[5]。また、『ゴジラvsキングギドラ』以前に2度ゴジラ映画のオファーがあったが、体調不良を理由に断っている[1]

平成に入ってからの映画音楽では、船や汽車での別れのシーンで静かな音楽をつけていたものが、速い鉄道や飛行場ではあわず、自動車ではカーラジオの音楽を流すのが主流になるなど、時代の変化とともに映画音楽の扱いも変わってきたと述べている[103]。一方で、平成ゴジラシリーズでは観客の世代が異なっていても子供の反応は変わらず、親世代は懐かしがるため、世代間のギャップは少なく、作曲にあたって新しい手法は取り入れなかったと述べている[103]。『vsキングギドラ』では、未来人の音楽に電子音を用いることも検討したが、最終的にはアコースティックな楽曲とした[1][104]。同シリーズでは完全な新曲は少ない[38][104]。『ゴジラvsモスラ』では、伊福部はゴジラに新曲をつけることを提案したが、従来の曲を使用することを要望されたと述懐している[4]

誕生日とラヴェルの逸話[編集]

誕生日は5月31日であるが、戸籍上は3月5日となっている[105]。これは、父親が、少しでも早く学校に入れたいということで、3月5日の早生まれとして届けたからと伝えられている[105]

それとは別に3月7日が誕生日という説も広まっているが、これは冗談が定着してしまったものである[105]アメリカボストンで『日本狂想曲』の初演をする時、主催者に生年月日を提出することになった[105]。その時、友人の三浦淳史が「3月5日だって作った誕生日なのだから、いっそラヴェルと同じ3月7日と書いてしまえ」と勧め、モーリス・ラヴェルのファンであった伊福部はその通りに書いて提出したというものである[105]

そのためか「ゴジラのテーマ」は、ラヴェル『ピアノ協奏曲ト長調』第3楽章にある部分のメロディと似ているとの指摘がある。もともとゴジラのテーマは『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)』の管弦楽トゥッティ部分からの転用[要検証]であり、この曲におけるリズム細胞の構築の仕方がラヴェルのピアノ協奏曲に良く似ている。「ゴジラのテーマ」の旋律はゴジラ第1作(1954年)より前に、映画の『社長と女店員』(1948年)や『蜘蛛の街』(1950年)でも使用されている[106]

伊福部とラヴェルの出会いは、学生時代にある邸宅で催されたレコード・コンサートを三浦淳史と共に聞きに行ったことに始まる。伊福部は最後の演目にあったベートーヴェンヴァイオリンソナタ『春』を楽しみにしていたが、その直前にラヴェルの『ボレロ』が予定されていた。ボレロの初演からわずか数年後のことであり、もちろんモノラルのSPレコードである。作曲者の名前すら知らなかった伊福部はその演目表を見て訝しんでいたが、実際に聴いてみてその執拗な反復が持つあまりの迫力に圧倒され、ベートーヴェンは聞かずに会場を出た、と後に語っている。

作品一覧[編集]

管弦楽曲[編集]

  • 日本狂詩曲 (1935年、ピアノ独奏版あり)
  • 土俗的三連画 (1937年、14人の独奏者からなる室内オーケストラのための曲)
  • 交響舞曲「越天楽」 (1940年)
  • ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲 (1941年、1997年にNHKの資料庫で発見され蘇演)
  • 交響譚詩 (1943年)次兄伊福部勲の追悼曲。
  • フィリピンに贈る祝典序曲 (1944年、2台のピアノとオーケストラのための曲。初演時のタイトルは『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』。2005年に卆寿演奏会で蘇演)
  • 兵士の序楽 (1944年、1997年に蘇演)
  • 管絃楽のための音詩「寒帯林」 (1944年。新京での初演後、楽譜は長らく中国当局の管理下にあって幻の作品とされていたが、作曲者の没後、遺品の中から楽譜が発見され、2010年に蘇演された)
  • ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番) (1948年 / 1951年 / 1971年、ヴァイオリン+ピアノ版あり、ゴジラのテーマの原曲[要検証]
  • シンフォニア・タプカーラ (1954年 / 1979年)
  • ピアノと管絃楽のための「リトミカ・オスティナータ」 (1961年、2台ピアノ版あり)
  • オーケストラとマリムバのための「ラウダ・コンチェルタータ」 (1976年)
  • ヴァイオリン協奏曲第2番 (1978年、ヴァイオリン+ピアノ版あり)
  • 二十絃箏とオーケストラのための「交響的エグログ」 (1982年)
  • SF交響ファンタジー (1983年)
  • 倭太鼓とオーケストラのための「ロンド・イン・ブーレスク」 (1983年、吹奏楽版から編曲)
  • 日本の太鼓「ジャコモコ・ジャンコ」 (1984年、1951年のバレエ『日本の太鼓 鹿踊り』のための音楽を演奏会用に改作)
  • 舞踊曲「サロメ」 (1987年、1948年のバレエ『サロメ』用音楽を演奏会用に改作)
  • 交響頌偈(じゅげ)「釈迦」 (1989年、合唱と管弦楽のための作品。バレエ音楽「人間釈迦」の改作)
  • 管絃楽司伴「鞆の音」 (1990年、和楽器合奏と管弦楽のための作品)
  • 管絃楽のための「日本組曲」 (1991年、1933年の『ピアノ組曲』の管絃楽編曲)
  • 交響ファンタジー「ゴジラvsキングギドラ」 (1991年)
  • 交響的音画「釧路湿原」 (1993年、NHK制作の映像付き交響詩
  • 絃楽オーケストラのための「日本組曲」 (1998年、1933年の『ピアノ組曲』の編曲)
  • 交響組曲「わんぱく王子の大蛇(おろち)退治」 (2003年、1963年東映アニメ映画のための音楽を演奏会用にまとめる)

吹奏楽曲[編集]

  • 古典風軍樂「吉志舞(きしまい)」 (1943年)
    • 1945年8月30日、厚木海軍飛行場に降り立ったマッカーサー元帥を出迎えた際に演奏されたと当人が生前語っているが、当時の資料などから事実関係は疑問視されている[107]
    • 後に主題の一つが映画音楽に転用された。2000年に初演)
  • ブーレスク風ロンド (1972年)

器楽曲[編集]

  • JIN(1932年、ギター曲)
  • ノクチュルヌ(1933年、ギター曲)
  • ピアノ組曲 (1933年)
  • ヴァイオリンとピアノのための「二つの性格舞曲」(1956年)
  • 古代日本旋法による蹈歌(とうか) (1967年、ギター曲、二十絃箏でも演奏可)
  • 箜篌歌(くごか) (1967年、ギター曲、ハープ版・二十五絃箏版あり)
  • ギターのための「トッカータ」 (1970年、二十五絃箏版あり)
  • 郢曲「鬢多々良」(えいきょく・びんたたら) (1973年、和楽器合奏曲)
  • 物云舞(ものいうまい) (1979年、二十絃箏曲)
  • バロック・リュートのためのファンタジア (1980年、二十五絃箏版あり)
  • ヴァイオリンとピアノのためのソナタ (1985年)
  • 胡哦(こが) (1997年、二十五絃箏曲)
  • 二面の二十五絃箏による「日本組曲」 (1991年、1933年の『ピアノ組曲』の編曲)
  • 琵琶行(びわこう) (1999年、二十五絃箏曲。「白居易ノ興ニ效フ」の副題が付く)
  • 二十五絃箏甲乙奏合「交響譚詩」(2001、管弦楽の編曲版)
  • 小ロマンス(2002年、チェンバロ曲)
  • サンタマリア(2002年、チェンバロ曲)

歌曲[編集]

  • ギリヤーク族の古き吟誦歌 (1946年)
  • サハリン島先住民の三つの揺籃歌 (1949年、初演時のタイトル[要出典]は『サハリン島土民の三つの揺籃歌』}
  • アイヌの叙事詩による対話体牧歌 (1956年、独奏ティンパニの伴奏)
  • 合唱頌詩「オホーツクの海」 (1958年、更科源蔵作詞。1988年の4人編成版あり)
  • 知床半島の漁夫の歌 (1960年、更科源蔵作詞)
  • 摩周湖 (1992年、更科源蔵作詞。ヴィオラハープ、もしくはヴィオラとピアノの伴奏)
  • 因幡万葉の歌五首 (1994年、アルトフルートと二十五絃箏の伴奏)
  • 蒼鷺(あおさぎ) (2000年、更科源蔵作詞。オーボエコントラバス・ピアノの伴奏)
  • 聖なる泉 (2000年、ファゴット・ヴィオラ・ハープの伴奏。映画『モスラ対ゴジラ』の音楽の編曲)

舞台芸術のための音楽[編集]

  • バレエ音楽「イゴザイダー」 (1947年)
  • バレエ音楽「さまよえる群像」 (1948年)
  • バレエ音楽「サロメ」 (1948年)
  • バレエ音楽「憑かれたる城(バスカーナ)」 (1949年)
  • 舞踏音楽「プロメテの火」 (1950年)江口隆哉振付
  • 舞踏音楽「日本の太鼓 鹿踊り」 (1951年)江口隆哉振付
  • バレエ音楽「人間釈迦」 (1953年)
  • 劇音楽「反逆児」 (1971年)
  • バレエ音楽「日本二十六聖人」 (1972年)

映画音楽[編集]

特撮映画[編集]

ゴジラシリーズ
その他

放送のための音楽[編集]

過去作品の音楽を流用した映画・テレビ作品[編集]

ゴジラシリーズ
その他

他多数。

映画、放送以外の音楽[編集]

その他[編集]

  • 市歌
  • 町歌
  • 校歌(小学校・中学校・高校・大学)
    • 札幌市立琴似小学校校歌
    • 釧路市立湖畔小学校校歌(湖畔國民学校校歌)詞:風巻景次郎
    • 釧路市立美原小学校校歌 詞:更科源蔵
    • 鵡川小学校校歌 詞:更科源蔵
    • 福島市立平野小学校校歌 詞:清水延晴
    • 山梨県韮崎市立韮崎北西小学校校歌 詞:小池藤五郎
    • 世田谷区立玉堤小学校校歌 詞:阿部ナヲ(原作)/長田美雄(補作)
    • 北海道名寄市立名寄東中学校校歌 詞:入江好之
    • 札幌市立向陵中学校校歌 詞:飯田広太郎
    • 那智勝浦町立宇久井中学校校歌 詞:瀧川貞蔵
    • 北海道立阿寒高等学校校歌 詞:柏倉俊三
    • 札幌創成高等学校校歌 詞:清水武
    • 北海道立新得高等学校校歌 詞:阿部戸一
    • 名寄女子短期大学校歌 詞:小池栄寿
  • その他の団体(社歌・組合歌)
    • 北海道讃歌 詞:森みつ
    • 大洋紡績株式会社社歌 詞:佐藤勇介
    • 全開発の歌 詞:沢谷純一

関連書籍[編集]

著作物・寄稿文[編集]

伊福部昭インタビュー[編集]

伊福部昭についての書籍・寄稿文[編集]

  • 相良侑亮(編)『伊福部昭の宇宙』(音楽之友社、1992年)
  • 木部与巴仁『伊福部昭・音楽家の誕生』(新潮社、1997年)
    • 木部与巴仁『伊福部昭・音楽家の誕生/タプカーラの彼方へ』新編(本の風景社、2002年)
  • 木部与巴仁『伊福部昭・時代を超えた音楽』(本の風景社、2004年)
  • 木部与巴仁『伊福部昭の音楽史』(春秋社、2014年)
  • 小林淳(著)、井上誠(共編)『伊福部昭の映画音楽』(ワイズ出版、1998年。新編・映画文庫、2019年)
  • 小林淳『日本映画音楽の巨星たち(2)伊福部昭・芥川也寸志・黛敏郎』(ワイズ出版、2001年)
  • 小林淳『伊福部昭 音楽と映像の交響〈上・下〉』(ワイズ出版、2004-2005年)
  • 小林淳『ゴジラの音楽』(作品社、2010年)
  • 小林淳『伊福部昭と戦後日本映画』(アルファベータ、2014年)
  • 柴橋伴夫『生の岸辺-伊福部昭の風景(パサージュ)』(藤田印刷エクセレントブックス、2015年)
  • 『伊福部昭 ゴジラの守護神・日本作曲界の巨匠 文藝別冊』(片山杜秀責任編集、河出書房新社、2014年)
    • 大友良英「親は選べないんです――伊福部昭とあの時代の映画音楽」
    • 上野耕路「伊福部さんから教わったこと」
    • 井上道義「日本人の作曲家の中では得難い存在です」
    • あがた森魚「誰彼と連帯したい郷愁のようなもの――僕らのうちにある伊福部昭の音楽」
    • 吉松隆「管絃楽とゴジラとラヴェルの鉄人」
    • 高瀬昌弘「伊福部昭氏の想い出」
    • 伊福部達「伊福部音楽の底に流れるもの」
    • 片山杜秀「正統で異端――「三・一一」後のための伊福部昭入門」
    • 佐藤忠良「三人の約束」(再録)
    • 芥川也寸志「大分、骨が折れたようで」(再録)
    • 松村禎三「教わったこと」(再録)
    • 新藤兼人「風に乗ってきた北の匂い」(再録)
    • 本多猪四郎「伊福部さんと私」(再録)
    • 実相寺昭雄「“芸術になる”という自戒」(再録)
  • 西村雄一郎『北の前奏曲 早坂文雄と伊福部昭の青春』(音楽之友社、2023年)
  • 片山杜秀『大楽必易 わたくしの伊福部昭伝』(新潮社、2024年)
以下は論文・随想
  • 富樫康「伊福部昭」『日本の作曲家』(1956年)
  • 三浦淳史伊福部昭とメフィスト」 『音楽芸術』(1957年5月号)
  • 高瀬まり子「昭和初期の民族主義的作曲様式-伊福部昭・清瀬保二・早坂文雄の音楽語法を中心として」『音楽学』(通巻第20号、1974年)
  • 小宮多美江「研究・伊福部昭の音楽」『文化評論』(1990年3月号)
  • 黛敏郎「伊福部昭先生‐その人と音楽」 『音楽芸術』(1995年10月号)
  • 片山杜秀「伊福部昭“幻の大作”の世界初録音と映画音楽デビュー50周年記念盤」 『レコード芸術』(1997年10月号)
  • 舘野泉「56年のタイムカプセル - 伊福部の幻の曲CD化/飛び散る土俗的な生命力」 『北海道新聞』(1998年1月29日)
  • 佐藤勝、小林淳「特別対談・『伊福部昭の映画音楽』をめぐって」 『キネマ旬報』(1998年5月15日号)
  • 有馬礼子「私からみた伊福部先生の魅力」 『音楽現代』(1999年10月号)
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  • 神倉健諸岡範澄「伊福部体験と音楽について言いたい放題」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 実相寺昭雄「ゴジラという聖域」『音楽現代』(1999年10月号)
  • 吉松隆「これが伊福部サウンドの魅力の秘密だ!!」 『音楽現代』(1999年10月号)
  • 片山杜秀、河野保雄「伊福部昭の音楽」『音楽現代』(2000年8月号?10月号)
  • 上野耕路「伊福部宇宙の領域」 『SOUND VOICE』(2001年2月号)
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  • 松村禎三「伊福部昭氏を悼む - 「真の優れた音楽は平易」」 『読売新聞』(2006年2月13日夕刊)
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  • 三木稔「伊福部先生のご逝去を悼む - 作曲家としてだけではなく、日本の音楽史上例のない真の教育者」『音楽現代』2006年4月号
  • 有馬礼子「伊福部先生のこと」『音楽現代』2006年4月号
  • 八木幸三「伊福部昭と北海道 - 伊福部サウンドを継承していくのは道内音楽家の使命」『音楽現代』2006年4月号
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  • 池田康「伊福部昭の音 現代の音楽とロマンティシズム」 『洪水』(零号 2007年)
  • 池田康「インタビュー 伊福部玲子」『洪水』(零号 2007年)
  • 池田康「インタビュー 小林武史」『洪水』(零号 2007年)
  • 寮美千子天空に交響する 伊福部昭氏に捧げる/9 Feb 2006」『洪水』(零号 2007年)
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  • 南聡「『伊福部昭 綴る』 - にじみ出す強烈な個性」『北海道新聞』(2013年6月30日付朝刊書評欄)
  • 中村聖司「〈アート万華鏡〉お題は…デビュー*5*伊福部昭「日本狂詩曲」*楽譜表紙にモダンな遊び心」『北海道新聞』(2014年5月19日朝刊)
  • 片山杜秀・木部与巴仁・小林淳「生誕100年 伊福部昭の音楽と時代(3回連載)」 『北海道新聞』(2014年5月27 - 29日夕刊文化面)
  • 和田由美「『伊福部昭と戦後日本映画』 *小林淳著* - 数々の名作支えた天才性」『北海道新聞』(2014年10月5日付朝刊書評欄)

テレビ番組[編集]

テレビ出演[編集]

門下生[編集]

古弟子会[編集]

新弟子会[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 現在楽譜の所在は不明。
  2. ^ 審査員は以下の作曲家を含む。アルベール・ルーセルジャック・イベール、アンリ・ジル=マルシェックス、アレクサンデル・タンスマン、アンリ・プリュニエール、ピエール=オクターヴ・フェルー、ティボール・ハルシャニー(『伊福部昭の宇宙』32、54ページ)
  3. ^ 後に『フィリピンに贈る祝典序曲』に改題。
  4. ^ この「謎の病」を放射線障害と記述している成書もあるが、木材振動実験に伴う振動障害と過度の喫煙が原因と考えられる[30]
  5. ^ 後に『ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲』と改題。また1951年〈昭和26年〉の改訂により当初の三楽章編成のうち第二楽章を省かれる。改訂は1951年、1959年〈昭和34年〉、1971年〈昭和46年〉。
  6. ^ 1987年に演奏会用の管弦楽曲に、2002年〈平成14年〉に二十五絃箏甲乙奏合『七ツのヴェールの踊り』、2004年〈平成16年〉に二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ』へと編曲される。
  7. ^ 現在は土蛮は先住民と表記。
  8. ^ 1984年〈昭和59年〉に演奏会用に『日本の太鼓 ジャコモコ・ジャンコ』に編曲される。
  9. ^ 1989年に演奏会用に編曲。
  10. ^ 後の『管絃楽法』上下巻の上巻の増補部分を除く部分。
  11. ^ 1979年〈昭和54年〉に改訂。
  12. ^ 1988年〈昭和63年〉に独唱用に編曲。
  13. ^ 1989年にハープ独奏曲、1997年〈平成9年〉に二十五絃箏曲に編曲。
  14. ^ 1991年〈平成3年〉に二十五絃箏曲に編曲。
  15. ^ 1983年〈昭和58年〉に管弦楽曲『倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク』に編曲。
  16. ^ 1993年に二十五絃箏曲『幻哥」へ編曲。
  17. ^ 同年には、記録映画『土俗の乱声』の音楽も手掛けた[40]
  18. ^ 井上道義は伊福部作品を「血湧き肉躍る想像力の大伽藍」と評している(「“「熱狂」は響き続ける”」朝日新聞、2014年7月9日)
  19. ^ 銘柄はダンヒル・インターナショナル。
  20. ^ 東映映画『俺は用心棒』で知り合いになったという。
  21. ^ 書籍『東宝特撮映画全史』では、『ゴジラ』では特撮を抜いたフィルムを見せられ、何の手がかりもないまま作曲せざるを得なかった旨を語っている[27]
  22. ^ 座頭市のテーマ曲で伊福部はボレロのリズムを一貫して使用している。
  23. ^ 最終的に音響技師の三縄一郎と録音技師の下永尚が、テープを逆回転させるなどし、完成させる[94]
  24. ^ そのため、映画音楽評論家の西脇博光は、一般的にはマーチとして扱われているが、正確にはアレグロと呼ぶべきものだとしている[6]
  25. ^ 予告編のみ[要出典]、本編は石井歓が担当

出典[編集]

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出典(リンク)[編集]

参考文献[編集]

特撮映画関連資料[編集]

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    • 『ゴジラVSデストロイア』東宝〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.10〉、1996年1月26日。ISBN 4-924609-60-9 
    • 『GODZILLA FINAL WARS』東宝〈東宝SF特撮映画シリーズ SPECIAL EDITION〉、2005年1月25日。ISBN 4-924609-89-7 
  • 田中友幸『決定版ゴジラ入門』(第7刷)小学館〈小学館入門百科シリーズ142〉、1992年4月20日(原著1984年7月15日)。ISBN 4-09-220142-7 
  • 『ゴジラvsモスラ』構成・執筆・編集 岩畠寿明、小野浩一郎(エープロダクション)、講談社〈講談社ヒットブックス30〉、1992年12月18日。ISBN 4-06-177730-0 
  • 井上英之『検証・ゴジラ誕生―昭和29年・東宝撮影所』朝日ソノラマ、1994年。ISBN 4257033940 
  • 『平成ゴジラ大全 1984-1995』編著 白石雅彦、スーパーバイザー 富山省吾双葉社〈双葉社の大全シリーズ〉、2003年1月20日。ISBN 4-575-29505-1 
  • 『平成ゴジラ クロニクル』川北紘一 特別監修、キネマ旬報社、2009年11月30日。ISBN 978-4-87376-319-4 
  • 『ゴジラVSデストロイア コンプリーション』ホビージャパン、2017年12月9日。ISBN 978-4-7986-1581-3 

外部リンク[編集]