超高層のあけぼの

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超高層のあけぼの
Kasumigaseki Building.jpg
映画の主題である霞が関ビルディング
監督 関川秀雄
脚本 岩佐氏寿
工藤栄一
原作 菊島隆三
出演者 池部良
木村功
丹波哲郎
平幹二朗
佐久間良子
新珠三千代
田村正和
佐野周二
音楽 伊福部昭
撮影 仲沢半次郎
編集 長沢嘉樹
製作会社 日本技術映画社(現・Kプロビジョン
配給 東映
公開 日本の旗 1969年5月14日
上映時間 160分
製作国 日本の旗 日本
言語  日本語
配給収入 3億6000万円[1]
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超高層のあけぼの』(ちょうそうこうのあけぼの、英題:Skyscrapers)は、当時日本最高層のビルであった霞が関ビルディングの建設を描いた1969年日本映画企業PR映画[2]。制作は霞が関ビルの施工者である鹿島建設傘下の「日本技術映画社」(現・Kプロビジョン)。東映が出演者、スタッフ、撮影所、配給などを全面協力[3]関川秀雄監督の最後の劇映画となる[3]

1969年度邦画興行ランキング2位、文部省特選、科学技術庁推薦、優秀映画鑑賞会推薦[4]

ストーリー[編集]

物語は関東大震災直後に始まる。東京帝国大学の学生・古川(モデルは後に鹿島建設副社長となった武藤清)は多くの建物が崩壊する中残された上野・寛永寺五重塔が倒壊を免れた事に感銘を受け、以降「耐震建築」を学ぶ。

それから約40年。古川は東京大学工学部教授となり、耐震建設における世界的権威となった。そんな彼に鹿島建設の会長が面会を求める。高度成長時にあって年々人口が増大する東京の都市問題を解決するには「超高層ビル」しかないという会長は古川に耐震性に優れたビルの設計を依頼、古川もこれを承諾し鹿島スタッフと共同で設計することとなる。

H字鋼」など様々な新技術を取り入れ、霞が関ビルは1968年の完成に向けて徐々にその全貌を明らかにしていく。そこには、現場に携わった多くの人々の苦労が込められていた。

スタッフ[編集]

キャスト[編集]

※映画本編クレジット順

製作[編集]

映画製作の発案は鹿島守之助鹿島建設会長[5]1968年三船プロ石原プロ製作による『黒部の太陽』に関西電力間組とともに製作に協力した鹿島が、同作の大当たりを見て、「映画は斜陽といわれるが一度当たれば数百万人もの動員力を持つ映画、どうせやるならわが社一社で」と製作を決めた[6]。製作費2億円は鹿島建設が全額出資[2][6]。制作は同社傘下の「日本技術映画社」であるが、劇場建設で取引が多い東映が出演者、スタッフ、撮影所、配給などを全面協力した[3][6]

タイトルは『建築明治百年』(1968年6月)[6]→『ああ36階』(1968年10月)[2]→『超高層のあけぼの』と変遷があった。関東大震災から霞が関ビル完成までを描く年代記風ドラマを構想した[6]。監督は最初は深作欣二内田吐夢が挙がり[6]、1968年10月時点では監督は内田を予定していた[2]。出演者は鶴田浩二高倉健も挙がり、新劇、テレビの人気タレントを総動員するという斜陽といわれた同時の映画界では考えられないような鹿島映画のお大尽ぶりで[2]、「日本技術映画社」の葉山富郎プロデューサーが「第二作も製作を予定している」と発表し、映画五社にとってとんだ強敵の参入と見られた[6]。当初は1968年10月クランクイン、12月完成と発表されたが[6]、実際は1968年7月から製作がスタートし、完成は1969年4月下旬であった[3]

宣伝費[編集]

本作に懸けた鹿島建設の熱の入れ方は前代未聞で[7]、過去最高額といわれた宣伝費1億円を投入[7]。宣伝費だけで映画が1本作れる勘定[7]。邦画五社の社長でも撮影所を訪ねることは一年に一回あるかないかであったが、鹿島会長は撮影中の東映東京撮影所を三ヶ月間に三回も視察[7]。政財界招待試写会丸の内東映経団連ホール国会議員会館と三回も実施し[7]、議員会館では自民党議員を招待[7]。1969年5月6日に丸の内東映で開催された社長招待試写会では、招待状を出していた佐藤栄作首相は欠席したものの[7]木内四郎科学技術庁長官をはじめ、各界知名士が多数来場した[3][7]。同劇場の前で鹿島会長が来賓一人一人に挨拶。前売り券150万枚は鹿島建設が購入[7]。工事現場の労務者有給休暇扱いで映画を観るように命令された[7]。その他、ポスターから飛行機を使ったビラなど、ありとあらゆる手段でキャンペーンを張り、「映画会社の社長もあれだけの情熱を持って映画作りに当たれば、もっといいものが出来るし、ヒットするはず」と映画関係者を唸らせた[7]

鹿島建設の支店は当時全国8店、出張所・作業所は1000ヵ所[5]。家族出入り業者にキップを売れば十分にさばけたとされる[5]。鹿島会長は1965年の参議院選挙で100万票、女婿の鹿島建設専務・平泉渉も47万票を獲得しており[5]、動員力は立証済み。山奥の場合はトラックで労務者を町の劇場まで運ばせた[7]

興行[編集]

当時の映画館の一般入場券は380円で[5]、前売150万枚なら5億7000万円[5]。映画興行の常識では、観客数は前売券発売数の三倍といわれたため、興行収入15億円と予想された[2]。興行者の取り分は約半分とされ[2]、製作費を差し引いても東映の取り分は6億円ともいわれたが[2]、実際の動員数は不明。当時の東映の稼ぎ頭は鶴田と高倉だったが、配収が2億円に達する作品は滅多になかった[2]

丸の内東映では44日間の長期興行を行った[3]

エピソード[編集]

  • ジャパンタイムズのMark Schillingによると、鹿島は170万枚の前売券を鹿島の従業員に昼食を販売したラーメン業者とサブコンに押しつけたという[8]
  • 鹿島守之助会長は、映画が気になって仕方がなく、「東映とは、どんな映画をやっとる会社だね」と東映の映画館に出かけた[5]。ちょうど掛かっていたのが『妾二十一人 ど助平一代[5][9]。同作は浅草すき焼き店「いろは」をモデルにした小幡欣治原作による『あかさたな』という原題の艶笑喜劇の映画化であったが[10][11][12][13]、当時の東映企画本部長岡田茂(のち、同社社長)が「『あかさたな』では客は来ない」と題名を変更したもので[11]、岡田命名によるタイトルの中でも最も酷いものの一つとされ[11][12]、改題を伝えると主演の佐久間良子は号泣[10][11]。佐久間に東映退社を決意させる切っ掛けとなったいわくつきの映画で[10][11]、鹿島会長もタイトルに絶句[5]。その上、観客もまばらで、危機感を持った鹿島会長が前売券150万枚を自社で引き受けることに決めた[5]
  • 『月刊平凡』1969年6月号の本作撮影の様子を取り上げた記事に「東宝新珠三千代といえば、デビューが東映の作品。10年ぶりの古巣へ帰っての映画。共演の佐久間良子さんと昔をなつかしみながら、『故郷へ帰って来たみたい』とハリキッていました」という記事が載る[14]。新珠の映画デビュー作は『平安群盗伝 袴だれ保輔』(1951年、東宝)とされている。

出典[編集]

  1. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)260頁
  2. ^ a b c d e f g h i 「〔ルックげいのう〕 前売二百五十万枚約束した鹿島会長」、『週刊現代』1969年6月27日号、講談社、 32頁。
  3. ^ a b c d e f クロニクルⅡ 1992, p. 48.
  4. ^ DVDソフト宣伝ポスターより
  5. ^ a b c d e f g h i j 「〔タウン〕 前売百五十万と鹿島の組織票」、『週刊新潮』1969年5月10日号、新潮社、 15頁。
  6. ^ a b c d e f g h 「〔ルックげいのう〕 映画製作に乗り出した鹿島建設」、『週刊現代』1968年6月27日号、講談社、 31頁。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 「〔ルックげいのう〕 史上最高一億の宣伝費を使った鹿島」、『週刊現代』1969年5月22日号、講談社、 32頁。
  8. ^ Schilling, Mark 「Airplane flick tells only half the storyジャパンタイムズ 2008年11月14日 (金)、2010年2月19日閲覧
  9. ^ 妾二十一人 ど助平一代”. 日本映画製作者連盟. 2018年10月7日閲覧。
  10. ^ a b c “(私の履歴書佐久間良子(14) 出演取りやめ、歯車狂う東映の路線とのズレ広がる”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 40. (2012年2月15日) 東映カレンダー on Twitter: "2012年2月15日の日本経済新聞
  11. ^ a b c d e 内藤誠 『監督ばか』 彩流社〈フィギュール彩(16)〉、2014年、62-63頁。ISBN 978-4-7791-7016-4【レポート】内藤誠レトロスペクティブはココだけバナシの宝庫!? 映画『明日泣く』最新情報(Internet Archive)
  12. ^ a b 初山有恒「エロとヤクザと観客 ―東映独走のかげにー」、『朝日ジャーナル』、朝日新聞社、1969年3月30日号、 23 - 26頁。
  13. ^ 押川義行「今月の邦画から やくざ映画の袋小路」、『映画芸術』、映画芸術社、1969年5月号、 79頁。「トピックコーナー 女性路線スタート」、『映画情報』、国際情報社、1968年9月号、 67頁。
  14. ^ 「GOSSIP&SNAP 久しぶりの東映スタジオ」、『月刊平凡』1969年6月号、平凡出版、 240頁。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]