皇太子徳仁親王妃雅子

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皇太子徳仁親王妃 雅子
小和田家
Crown Princess Masako of Japan.jpg
続柄 小和田恆第一女子
全名 雅子
身位 皇太子妃親王妃(皇太親王妃)
敬称 殿下
お印 ハマナス
出生 1963年12月9日(52歳)
日本の旗 日本 東京都港区虎の門病院
配偶者 皇太子徳仁親王
子女 敬宮愛子内親王
父親 小和田恆
母親 小和田優美子
役職 日本赤十字社名誉副総裁
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皇太子徳仁親王妃 雅子
の称号
Japan Koutaisi(son)hi Flag.svg
敬称 殿下
Her Imperial Highness(H.I.H.)

皇太子徳仁親王妃雅子(こうたいしなるひとしんのうひ まさこ、1963年昭和38年)12月9日 - )は、日本皇族皇太子徳仁親王の妃。旧名・小和田 雅子(おわだ まさこ)。身位皇太子妃親王妃皇室典範に定める敬称殿下お印ハマナス勲等(称号)は宝冠大綬章学位経済学士(Bachelor of Arts in Economics magna cum laude)(米国ハーバード大学1985年)。

住居は東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内にある東宮御所

略歴[編集]

生い立ち[編集]

1966年(昭和41年) スイスジュネーブ

1963年(昭和38年)12月9日、外務省職員小和田恆・優美子夫妻の第1子(長女)として東京都港区虎の門病院にて誕生する。父の小和田恒は外務省に勤務する官僚で、母の優美子は結婚前に航空会社のエールフランスに勤務して極東支配人の秘書を務めていた。出生時は一家で世田谷区桜上水の外務省官舎に住んでいた。[1]

父の仕事の関係で幼少期(1歳数か月から)をソビエト連邦スイス連邦で過ごす。2歳の終わりごろからソビエトのモスクワ市立ジェツキサート№1127保育園で規則正しい集団生活を送った。子供時代に自身が命名したうさぎのぬいぐるみの「よし子ちゃん」を大切にしていて[2]、海外生活の初期は慣れない集団生活と言葉が分からないことも多々あり、泣きだすこともあったが、ロシア語もすぐに上達し、妹たちにもロシア語で話し掛けたり、寝言もロシア語で言うほどだったという[3]。続いて同理由により、1968年5月から、1971年3月まで米国のニューヨーク市リバーデイルの高級住宅街ヘンリーハドソン・パークウェイで過ごし、1969年9月から1971年3月までの1年6か月間、ニューヨーク市立第81キンダガーデン入園・通学する。英語を話さない日々が4か月続いたが、“May I go to the bathroom ? ”「お手洗いに行ってもよろしいですか。」と初めて話したという[3]。同年9月市立第81パブリックスクールに入学し、この頃からピアノを習い始めた。

1971年(昭和46年)3月、目黒区立原町小学校第1学年に編入して、同年5月に、新宿区立富久小学校第2学年に編入する。[4]1972年(昭和47年)4月から、田園調布雙葉小学校に編入して卒業する。その後、同中学校に進学してソフトボール部を結成して活動していた。[5]同高校に進学するも、父の仕事の関係で、1979年7月から1985年6月までの6年間を、米国のボストン市へ移住する。1979年(昭和54年)よりマサチューセッツ州ベルモント・ハイスクールへ2年間通学する。高校では、ソフトボール部・数学クラブに所属していた。High Honor student (最優等学生)と認められ、アメリカ政府が優秀な学生に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」National Honor Society(NHS)を受賞。在学中、地元紙が年に数回掲載する「成績優秀者」の欄に常に登場していた。また、ドイツ語科において、ドイツ政府運営のドイツ総領事賞及びゲーテ・インスティトゥート賞(Goethe-Institut)などを受賞するなど、語学活動にも非常に熱心だった[6]1981年(昭和56年)、同ハイスクールを卒業する。

ハーバード大学経済学部に入学[7]。在学中は、心身障害児の運動指導[8]フランス語のサークルで活動する。国際経済学専攻、学生評議会の広報担当をする優等生だった。また、日本文化クラブ(ジャパニーズ・カルチャー・ソサイティー)にも在籍した。雅子が日本で教育を受けた期間は計9年4か月であり、海外で教育を受けた期間は計9年と、若干多く日本の教育を受けたこととなる。

独身時代[編集]

1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する。1986年(昭和61年)、帰国後となる4月に東京大学法学部に外部学士入学する。専攻は数理経済学であり、卒業論文『External Adjsutment to Inport Price Shocks : Oil in Japanese Trade』(『輸入価格ショックに対する外的調節:日本の貿易における石油』)。成績優秀な学生に贈られる「Magne Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」受賞した。1985年の卒業生は、大学全体で1681人であり、このとき「マグナ・クム・ラウデ」を受賞した学生は、全学年を合わせて55人であった。雅子のいた経済学部ではわずか3名だった。卒業論文の指導教官だったジェフリー・サックスの評価(世界的に有名な理論経済学者)「卒論のテーマは、70年代80年代オイルショック後の日本の貿易政策で、輸出を増やして石油を輸入した日本のやり方を分析した。彼女のコンピューター分析は、特に学部生としては高度なものだった。夜遅くまでコンピューターにかかりきりだった姿は忘れません」。また、指導したエズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)は「彼女は非常にプロフェッショナルな意識が強い女性で、よく勉強しました」と評している[9]

1986年(昭和61年)4月東京大学法学部三年生に学士編入するが、同年10月に外務公務員採用I種試験(外交官試験)に合格し、外務省入省が決まる。この際、女性初のキャリア官僚 スーパールーキーと話題になる。[10][11]

1987年(昭和62年)に東京大学を中退し、外務省へ入省。経済局国際機関第二課に配属された。1988年(昭和63年)から外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学。同年7月9日から11日に第16回先進国首脳会議(ヒューストンサミット)の半導体市場の開放問題担当スタッフの海部首相の通訳の一人とて小和田恆とともに米国に出張し、1991年(平成3年)3月、スウェーデン首相イングヴァール・カールソンの歓迎夕食会に通訳で出席したり、同月11日に港区外務省飯倉公館で行われた米国国務長官ジェイムズ・ベイカーと当時の外務大臣渡辺美智雄竹下登中曽根康弘の会談の通訳など、海外在住を生かした活躍を幅広くした。1990年(平成2年)6月に研修留学から帰国、7月1日付で北米二課に配属された。経済局国際機関第二課配属・OECD担当をしたのは、1年4か月、北米局北米第2課勤務は2年8か月。総計して、外務省職員の職歴は5年10か月(留学期間を省くと、外務省で仕事していたのは4年)である。

徳仁親王との馴れ初め[編集]

1986年(昭和61年)に来日したスペインのエレナ王女の歓迎レセプションに出席した時に浩宮徳仁親王と知り合う[12]。同年12月に、東宮御所で催された内輪のお茶会(年越し会)に一家(妹の礼子、節子)で招かれる。出席者は外務省関係者やハーバード大学教授・広中平祐同夫人など学者家族などと、皇太子明仁親王同妃美智子、浩宮を囲み約2時間歓談した。

1987年(昭和62年)4月上旬、日英協会のパーティーで浩宮と顔合わせをする。4月下旬、高円宮家の宮務官から「お茶会」を電話で招待された[13]。同月5日、赤坂御用地高円宮邸で茶会が催され、雅子ほか数名のお妃候補同夫妻が招かれた。当日キャンセルになった夫妻がいたというが[14]、雅子は高円宮同妃と浩宮と歓談、夕食を共にした。雅子の帰宅時間は午前1時を過ぎていたという[15]。同年10月24日、東宮御所で夜のお茶会が催され、浩宮、雅子、浩宮のご学友で、旧皇族賀陽宮家の賀陽正憲と3時間ほど歓談した。

1992年8月16日、皇太子徳仁と柳谷謙介宅にて5年ぶりの再会デートをする。平成5年の誕生日記者会見で、「警備なしという極めて無防備な状態ではあったわけですけれども、それをする価値は十分にあったという、このことに関してはそういうふうに思っています」と述べている[16][17]。「鴨場でのデート」も話題になっている。柳谷が最説得に乗り出すとともに、皇太子から連日のように電話での説得が行われており、1992年(平成4年)11月中旬、雅子自身結婚のことで悩んでいたため、外務省を体調不良を理由に10日ほど欠勤する[18]。同年12月12日に、皇太子徳仁親王からの求婚を受諾している[12]

皇太子との婚約・結婚の儀[編集]

成婚を記念して発行された500円硬貨
お印に選ばれたハマナス

1993年平成5年)1月19日皇室会議にて徳仁親王妃に内定し、記者会見を行なう。ハーバード大卒のキャリアウーマンであること等が世間の注目を受けた。同年2月をもって外務省を退職。同年4月12日納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が行なわれた。「結婚の儀」のテレビ中継の最高視聴率は77.9%(午前10時12分(JST)に記録。ビデオリサーチ・関東地区調べ、NHK総合民放を合わせた総世帯視聴率)[19]を記録した。成婚パレードには沿道に19万人の市民が集まり、テレビ中継の最高視聴率は79.2%(パレード終了直後の午後5時21分(JST)に記録。

成婚を記念して京都府より献上されたバラ「エグランタイン・マサコ」(2010年

ビデオリサーチ・関東地区調べ、NHK総合と民放を合わせた総世帯視聴率)[19](資料によっては79.9%[20])を記録した。6月17日に皇太子妃雅子の名が皇統譜に登録された。

1990年代1993年(平成5年)頃)に皇太子妃になる小和田雅子の愛車がトヨタ・カローラIIが報道され、販売台数が爆発的に増えた。

皇太子妃時代[編集]

1996年(平成8年)5月、米国のニューズウィーク誌が伝統の中で能力を発揮できないという主旨の記事を掲載する[21]。同年12月の誕生日記者会見には単独で応じ、以後2002年(平成14年)まで6回、単独会見を開いている。

1999年(平成11年)12月10日朝日新聞が朝刊一面で雅子妃の懐妊の兆候をスクープ報道する[22]。宮内庁および同東宮職は複数回に渡り、過熱報道の自粛を要請した。皇太子妃雅子は12月23日天皇誕生日一般参賀には出席したが、その後12月30日稽留流産手術を受けたと発表された。古川清東宮大夫・川口政行東宮侍医長・医師の岡井崇が記者会見を開き、懐妊が早期から大々的に報道され雅子妃に心労を与えたことを批判する一方、海外訪問[23]との因果関係については否定した[24]。また、過度の報道に対して徳仁親王は遺憾の意を表明した[25]2000年(平成12年)2月から、公務に復帰する。

2001年(平成13年)4月16日に懐妊の可能性が発表された。同年5月15日に懐妊が正式に発表された。同年12月1日に第一女子・愛子内親王が誕生。結婚から8年余りでの第一子誕生だった。

2004年(平成16年)5月、徳仁親王が訪欧を前にした記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言[26]。海外育ちで国際派と見られていた雅子妃と、伝統と慣習に厳格な宮内庁との間で不和があることをうかがわせた。この発言は人格否定発言と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。同年6月、適応障害の診断を受け病気療養に入る [27]2006年(平成18年)からは今上天皇皇后(いずれも現在)陪席のもと、御所で歴代天皇のご進講を続けている。

2006年8月17日から31日までの全14日間、オランダ王室の好意で療養のためオランダ王国へ皇太子徳仁親王、4歳(当時)であった敬宮愛子内親王とともに私的旅行をし、随行者として東宮侍医ら11名が同行した[28]。高円宮家の女王ら、秋篠宮家、三笠宮家などが私的旅行をした前例はあるが、皇族が静養を目的として私的に海外旅行することは史上初であった[29]

2010年(平成22年)3月以降、学校内に問題を抱えた愛子内親王を気遣って登下校に付き添うようになり[30]、外出の機会が一時期増加した。

2013年(平成25年)4月28日、皇太子夫妻はオランダからの招待を受け同国の公式訪問が実現し、30日アムステルダムにある新教会で国王ウィレム=アレクサンダーの即位式に出席した [31] 。海外で公務に臨んだのは夫妻でニュージーランドとオーストラリアを訪問した平成14年12月以来約11年ぶり。 同年10月12日、全国障害者スポーツ大会開会式に10年ぶりに出席した[32]2014年(平成26年)7月15日、武蔵陵墓地に12年ぶりに参拝、7月29日に伊勢神宮に20年ぶりに参拝した[33]。8月3日には全国高等学校総合体育大会に12年ぶりに出席、皇太子一家で競技を観戦した[34]。同年10月29日オランダ国王夫妻歓迎行事に出席(5年ぶり)。宮中晩餐会には11年ぶりに出席した[35]2015年(平成27年)7月2日-6日、トンガを公式訪問し、4日に国王トゥポウ6世の戴冠式に参列した。続く昼食会では、ウルカララ皇太子夫妻らトンガ王族と交流を持った。5日には予定外であったが、在留邦人らとの懇談の場に参加した。[36]

公務と体調[編集]

2000年(平成12年)7月の香淳皇后の斂葬の儀の欠席や同年8月の佐賀県行啓中止を皮切りに、徐々に体調不良を理由とした公務や祭祀への欠席が目立つようになる。2003年(平成15年)には帯状疱疹のため長期静養し、翌2004年(平成16年)7月30日に、適応障害で長期間静養している事実が公表された。以後、東宮御所における接見を除けば出席する公務はほとんど無くなり、宮中祭祀も参加していない状態にある[37]。唯一、2009年(平成21年)1月2日、「昭和天皇二十年式年祭の儀」中の「皇霊殿の儀」に、今上天皇皇后の名代として夫の徳仁親王とともに拝礼した。これは2003年(平成15年)9月23日以来5年3か月ぶりに、潔斎を経て平安装束を着用しての祭祀出席となった[38]

なお、公務の出欠の判断は病気の性質上東宮職医師団が行い、皇太子妃雅子の当日の体調により最終決定される[39]

2011年(平成23年)、4月より8月まで複数回、岩手県大船渡市などの東日本大震災の被災地慰問を行った[40]

2013年(平成25年)、復興の過程にある東日本大震災の被災地を励ますために東北三県の慰問を行った。8月20日には宮城県を訪れ、七ヶ浜町の仮設住宅を慰問した[41]。9月22日には福島県を訪れ、郡山市の仮設住宅と放射能対策の大型室内遊び場の親子たちを慰問した[42]。11月1日と2日は岩手県を訪れ、3年ぶりの泊まりがけ公務にJR盛岡駅前の出迎えは1800人に達した。釜石市の仮設住宅と津波被害から復旧した水産加工会社を慰問した[43]

産経ニュースの報道によれば、2014年以降は体調が回復傾向にあり、皇太子とともに伊勢神宮参拝やオランダ国王夫妻を迎えての宮中晩餐会などの重要な行事に出席、2015年には天皇・皇后から引き継いだ「こどもの日」関連の児童施設訪問などをこなしており、同年7月にはトンガの国王・トゥポウ6世の戴冠式への皇太子夫妻公式招待に応え、2年ぶりに国外訪問公務を果たした[44]

年譜[編集]

家系[編集]

小和田家系図

作家の神一行によれば、「雅子妃の実家の小和田家であるが、そのルーツは現在の新潟県村上市を治めていた村上藩内藤家五万石の下級武士とされる[46]。代々下横目(目付)、奥方付きお庭番などの役職につき柔術“制剛流”の達人の家柄だったというがはっきりした系譜曽祖父にあたる金吉からしかわかっていない[46]」という。『週刊現代』は金吉の父とされる雅子の高祖父を道蔵匡利(武士・三両二人扶持、享年18歳)としている[47]

雅子 父:
小和田恆
(国際司法裁判所判事・元同所長)
祖父:
小和田毅夫
(高田市教育委員長)
祖母:
小和田静
母:
小和田優美子
祖父:
江頭豊
チッソ元会長)
祖母:
江頭寿々子

栄典[編集]

日本[編集]

外国[編集]

GRE Order Redeemer 1Class.png

発言[編集]

  • 「私に対して『皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』というふうに仰ってくださいました。」 - 1993年(平成5年)1月19日、婚約内定の記者会見にて - 皇室入りを決意させたものについて
  • 「本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」 - 2002年(平成14年)4月2日、愛子内親王誕生の際の記者会見にて[49] - 愛子内親王出産の際の気持ちについて

脚注[編集]

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  1. ^ 『歴代皇后人物系統総覧』292頁
  2. ^ 『歴代皇后人物系統総覧』293頁上段
  3. ^ a b 上野緑子(幼児教育ガイダー) (2001年12月25日). “雅子さまが受けられた小和田家の教育方針”. All About. 2015年12月16日閲覧。
  4. ^ 『歴代皇后人物系統総覧』293頁中段
  5. ^ 歴代皇后人物系統総覧293頁下段
  6. ^ 諸君!』2006年10月号、文藝春秋
  7. ^ a b ラドクリフ大学の項にDuring World War II, Harvard and Radcliffe signed an agreement that allowed women to attend classes at Harvard for the first time, officially beginning joint instruction in 1943. From 1963, Radcliffe students received Harvard diplomas signed by the presidents of Radcliffe and Harvard, and joint commencement exercises began in 1970. The same year, several Harvard and Radcliffe dormitories began swapping students experimentally, and in 1972 full co-residence was instituted. The schools' departments of athletics merged shortly thereafter. In 1977, Harvard and Radcliffe signed an agreement that put undergraduate women entirely in Harvard College, maintaining for them only a nominal enrollment in Radcliffe College. In practice most of the energies of Radcliffe (which remained an autonomous institution) were devoted to its other initiatives, such as the Bunting fellowship program, rather than to female undergraduates. During this time, the Harvard undergraduate community and class was officially known as "Harvard and Radcliffe" or "Harvard-Radcliffe", and female students continued to be awarded degrees signed by both presidents, even though Radcliffe usually had little to no impact on the average undergraduate's experience at the university.とあることから、小和田雅子が大学に入学した1981年当時、すでにラドクリフ大は大学独自の入学生を募集していなかった事実があげられる
  8. ^ 『素顔の雅子さま』主婦と生活社
  9. ^ 『女性セブン別冊 皇太子さま・雅子様〜華麗平成絵巻〜』(1993年6)、小学館。
  10. ^ 1986年10月17日号「外交官に「清原級」ルーキー ハーバード出身小和田雅子さんの完全無欠」1986年12月6日 毎日新聞(夕刊)
  11. ^ 「麗しき外交官の卵」1986年10月6日 日本経済新聞(夕刊)
  12. ^ a b 1993年1月19日 毎日新聞「昨年5月に申し入れ 宮内庁長官、新事実明かす」
  13. ^ 週刊文春』2012年10月25日号「ザ・プリンセス雅子妃物語」、文藝春秋
  14. ^ 講談社『美智子さまと雅子さまの新皇室づくり』(1993年・松崎敏弥)57項
  15. ^ 講談社『美智子さま雅子さま 涙の日、深まる絆』(2012年・渡辺みどり)126項
  16. ^ 皇太子殿下お誕生日に際し(平成5年)”. 宮内庁. 2015年12月18日閲覧。
  17. ^ 光文社『FLASH』1993年1月26日号
  18. ^ 『美智子さまから雅子さまへ-プリンセスへの道』(河原敏明・1993年)
  19. ^ a b 皇太子ご成婚テレビ番組 結婚の儀・パレードの視聴率、瞬間最高80%読売新聞、1993年6月10日付東京夕刊、社会面。(インターネット・アーカイブのキャッシュ)
  20. ^ “【皇室ウイークリー特別編】お写真で振り返る皇太子ご夫妻の15年”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2008年6月8日). オリジナル2010年6月24日時点によるアーカイブ。. http://wayback.archive.org/web/20100624025958/http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080608/imp0806080824000-n1.htm 2013年10月19日閲覧。 
  21. ^ 1996年5月27日 読売新聞「「雅子妃は伝統の壁の中にこもってしまった」 米誌が特集記事」
  22. ^ 1999年12月10日 朝日新聞「雅子さま、懐妊の兆候 近く詳細な検査」
  23. ^ 12月3日 - 12月7日、ベルギー訪問(フィリップ王太子の結婚式に出席のため)なお、滞在中ヒール靴を履いたり等、妊娠を予感させる素振りは見せなかった(『週刊朝日』1999年12月24日号)
  24. ^ 『読売新聞』1999年12月31日「雅子さま流産 医師らの祈り届かず」
  25. ^ 皇太子殿下お誕生日に際し(平成12年)”. 宮内庁. 2013年10月19日閲覧。
  26. ^ デンマーク・ポルトガル・スペインご訪問に際し(平成16年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。
  27. ^ 宮内庁>広報・報道>公表事項>皇太子妃殿下のご病状に関する東宮職医師団の見解(平成22年2月5日)
  28. ^ 東京新聞 2006年8月18日朝刊
  29. ^ 小学館『女性セブン』2013年3月7号
  30. ^ 2010年12月9日 読売新聞「雅子さま47歳 体調 着実に快復」
  31. ^ 宮内庁>皇室のご活動>皇太子同妃両殿下のご日程>オランダご訪問(平成25年)
  32. ^ 日テレ24 皇太子ご夫妻、スポーツ大会開会式に出席(2013.10.12)
  33. ^ 朝日新聞デジタル 皇太子ご一家、伊勢神宮を参拝 式年遷宮受け(2014.7.29)
  34. ^ 日テレ24 愛子さま、サッカーを初観戦 高校総体(2014.8.3)
  35. ^ 朝日新聞デジタル 雅子さま11年ぶり宮中晩餐会出席(2014.10.30)
  36. ^ 日テレ24 皇太子ご夫妻 両陛下に“トンガ訪問報告”(2015.7.8)
  37. ^ 宮内庁>皇室のご活動>皇太子同妃両殿下のご日程
  38. ^ 2009年1月7日 読売新聞(東京夕刊)「昭和天皇崩御20年 両陛下、武蔵野陵を拝礼」
  39. ^ 宮内庁>広報・報道>公表事項>皇太子妃殿下のお誕生日に際しての東宮職医師団見解(平成24年12月9日)
  40. ^ “【東日本大震災】皇太子ご夫妻が避難所をご訪問”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2011年4月6日). オリジナル2011年4月10日時点によるアーカイブ。. http://wayback.archive.org/web/20110410121252/http://sankei.jp.msn.com/life/news/110406/imp11040621000002-n1.htm 2013年10月19日閲覧。 
  41. ^ 2013年8月21日 朝日新聞「皇太子ご夫妻、宮城で激励」
  42. ^ 2013年9月23日 朝日新聞「皇太子ご夫妻、福島へ」
  43. ^ 2013年11月2日 朝日新聞「皇太子ご夫妻、釜石へ」
  44. ^ 雅子さま2年ぶり外国公式訪問 宮内庁関係者「活動の幅広げ自信に」”. 産経ニュース. pp. 1-2 (2015年7月2日). 2015年7月4日閲覧。
  45. ^ 新潟文化物語 - 地域文化情報
  46. ^ a b (神 2002, p. 399)
  47. ^ 講談社『週刊現代』1993年1月30日号「小和田家の歴史」97項
  48. ^ a b c d 「小和田家系図」、『毎日グラフ臨時増刊 皇太子さま雅子さま ご成婚記念特別号』、毎日新聞社1993年6月26日、 161頁。
  49. ^ 愛子内親王殿下御誕生につき(平成14年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]