靖国神社
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| 靖國神社 | |
|---|---|
拝殿 |
|
| 所在地 | 東京都千代田区九段北三丁目1番1号 |
| 主祭神 | 護国の英霊 246万6532柱 |
| 社格等 | 別格官幣社 (1879-1946年)・勅祭社 |
| 創建 | 明治2年(1869年) |
| 本殿の様式 | 神明造 |
| 例祭 | 4月21日 - 23日 10月17日 - 20日 |
靖国神社(靖國神社、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区にある神社である。旧称は東京招魂社。東京の九段に鎮座する事から、単に九段あるいは九段下などと通称される事も多い。
2008年現在の宮司は、南部利昭。戦前は内務省が人事を、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が祭事を統括した[1]。
祭神は近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、戦役に就き戦没した日本の軍人・軍属であり、慰霊・顕彰・崇敬などを目的として祀っている。
単一宗教法人であり、神社本庁には加盟していない東京都知事認証の単立神社(単立宗教法人)である。
桜の名所としても知られる。 最重要の祭儀は合祀を行う例祭(旧称:招魂祭)[2] [3]
目次 |
[編集] 祭神
靖国神社本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊(死霊の美称)である。神話に登場する神や天皇などではない。計246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られている。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、日露戦争(1904-05年)後に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する [4]。
本殿での祭神の神座(しんざ、祭神・神体を安置する場所)は、当初は一座であった。戦後に、台湾神宮および台南神社に祀っていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀っていた北白川宮永久王とを遷座合祀して一座を新たに設けた。従って現在の神座は、皇族の一座とその他一般戦没者の一座の、あわせて二座である。
対象となる人物の国籍については、日本国民及び死亡時に日本国民であった(日本領であった台湾・朝鮮半島などの出身者を含む)者に限られている。
[編集] 施設の概要
- 摂末社(付属する神社):元宮(もとみや)、鎮霊社
- その他施設:遊就館(宝物遺品館)、靖国偕行文庫、など
- 創建建築設計実務者:伊東忠太
- 敷地面積:93,356平方メートル[5]
- 最寄り駅:東京地下鉄(東京メトロ)半蔵門線・東西線、東京都交通局(都営地下鉄)新宿線、「九段下駅」下車「1番出口」より徒歩1分。
[編集] 現在の社名の由来
現在の神社の名は『春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものである。靖国神社自身は、
國神社(「靖」の旁の「青」の下部が「円」、国は旧字体)と表記している。
1879年6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おのおの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食(しろしめ)すが故に靖国神社と改称(あらためとなえ)」 [6]とある。
旧社名の「招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」[7]可能性があるために廃されたという。ただし名称変更後も「招魂祭」(しょうこんのまつり)は続けられた。
[編集] 沿革
- 明治2年6月29日(新暦1869年8月6日)に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により「東京招魂社」(とうきょうしょうこんしゃ)として創建された。
- 1879年6月4日に「靖国神社」に改称。同時に別格官幣社となった。戦前においては神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていた。運営の主導権は財政をになった陸軍省が有していた 。祭主は陸・海軍武官が勤めた[8]。
- 戦後は政教分離政策の推進により宗教法人となり、日本政府との直接的な関係はないとされている。一方で1961年、遊就館(当時「宝物遺品館」)に展示するBC級戦犯の遺書や顔写真の収集について、厚生省が遺族に出品を依頼、神社に便宜を図っていたことが、2006年7月に発覚[9]。
[編集] 人事
招魂社と称された時期には神官・神職の定めは無かった。例大祭・臨時大祭には卿または将官、招魂式には将官または佐官、その他の祭祀には佐官尉官が奉仕した。1875年以降は例大祭・臨時合祀祭・招魂祭の祭主は大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が隔番で務めた。1879年の改称列格によって官員の祭主は廃され祭典は宮司が行うこととなった。同時に宮司1名、禰宜1名、主典4名が法令によって置かれ、神官の進退は内務省が、増員・増俸は内務省・大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍の3者協議となった [10]。実際の管理は主として財政を負担した陸軍省総務局が行った [11]。社司・社掌は陸軍省第1局の所属であった [12]。1887年には内閣令第4号により神官を廃して神職を置き、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が補任することとなった。1946年の官国幣社制廃止以後は自主管理となった [13]。
[編集] 歴代宮司
- 青山清:1879年(明治12年)6月16日 - 1891年(明治24年)2月6日(在職中に死去)
- 賀茂水穂:1891年(明治24年)2月17日 - 1909年(明治42年)4月28日
- 賀茂百樹:1909年(明治42年)3月29日 - 1938年(昭和13年)4月21日
- 鈴木孝雄:1938年(昭和13年)4月21日 - 1946年(昭和21年)1月17日
- 筑波藤麿:1946年(昭和21年)1月25日 - 1978年(昭和53年)3月20日(在職中に死去)
- 松平永芳:1978年(昭和53年)7月1日 - 1992年(平成4年)3月31日
- 大野俊康:1992年(平成4年)4月1日 - 1997年(平成9年)5月20日
- 湯澤貞:1997年(平成9年)5月21日 - 2004年(平成16年)9月10日
- 南部利昭:2004年(平成16年)9月11日 - (現職)
[編集] 歴代権宮司
- 高原正作:1938年(昭和13年)4月16日~1945年(昭和20年)10月3日
- 横井時常:1945年11月16日~1948年(昭和23年)6月30日
- 竹内秀太郎:1948年4月26日
- 池田良八:1948年8月31日~1979年(昭和54年)2月9日
- 藤田勝重:1979年2月9日~1982年(昭和57年)7月16日
- 鈴木忠正:1981年(昭和56年)7月16日~1984年(昭和59年)11月1日
- 神野藤重申:1984年11月1日~1989年(平成元年)11月17日
- 木山照道:1985年(昭和60年)8月1日~1990年(平成2年)11月5日
- 湯澤貞:1990年11月1日~1998年(平成9年)5月20日
- 三井勝生:1998年5月21日~現職
- 花田忠正:2001年(平成12年)~2004年(平成15年)(就退任日不明)
- 山口建史:2005年(平成16年)~現職(就任日不明)
[編集] 祭神・合祀に関する内規
靖国神社は、合祀について以下の規定がある。(2004年10月17日現在)
[編集] 合祀対象者
[編集] 軍人・軍属
- 戦地、事変地、および終戦後の各外地において、戦死、戦傷死、戦病死した者。
- 戦地、事変地、および終戦後の各外地において、公務中に受傷罹病し、内地に帰還後、療養中にその受傷罹病が原因で死亡した者。
- 満州事変以降、内地勤務において、公務中の受傷罹病が原因で死亡した者。
- サンフランシスコ講和条約の第11条にある裁判・判決によって死亡した者など[14](極東国際軍事裁判などの軍事裁判によりA級戦犯・BC級戦犯であるかないかに関わらず死刑になった者など。政府では「法務死者」、靖国神社では「昭和殉難者」と呼称している)。
- 「未帰還者に関する特別措置法」による戦時死亡宣告により、公務中の受傷罹病が原因で死亡した、とみなされた者。
[編集] 準軍属およびその他
- 軍の要請に基づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷または疾病により死亡した者。(満州開拓団員・満州開拓青年義勇隊員・沖縄県一般邦人・南方および満州開発要員・洋上魚漁監視員)
- 特別未帰還者の死没者。(ソビエト連邦・樺太・満州・中国に抑留中、死亡した者・戦時死亡宣告により死亡とみなされた者)
- 国家総動員法に基づく徴用または協力者中の死没者。(学徒・徴用工・女子挺身隊員・報国隊員・日本赤十字社救護看護婦)
- 船舶運営会の運航する船舶の乗務員で死亡した者。
- 国民義勇隊員で、その業務に従事中に死亡した者。(学域組織隊・地域組織隊・職域組織隊)
- 旧防空法により防空従事中の警防団員。
- 交換船沈没により死亡した乗員。(つまり、「阿波丸事件」のことを指す。)
- 沖縄の疎開学童死没者。(つまり、「対馬丸」のことを指す。)
- 外務省等職員。(関東局職員・朝鮮総督府職員・台湾総督府職員・樺太庁職員。)
[編集] 合祀手順
[編集] 戦前
戦前は、靖国神社への合祀は陸軍・海軍の審査で内定し、天皇の勅許を経て決定された。合祀祭に天皇が祭主として出席し[要出典]、合祀は死者・遺族にとって最大の名誉であると考えられることが多かった。
敗戦により、靖国神社は一宗教法人化、また陸海軍は廃止されたため、この合祀制度は変容した[15]。
[編集] 戦後
戦後になると合祀制度は形を改めたが、1952年当時には未合祀の戦没者が約200万人に上り、遺族や元軍人を中心に「合祀促進運動」が起こった。
これに対応するため、1956年に厚生省(当時)が定めた新しい合祀手順は次の通りである[16]。
- 厚生省引揚援護局が各都道府県に対し「靖国神社合祀事務協力」という通知を出す。
- 各都道府県は、1953年8月に成立の恩給法と戦傷病者戦没者遺族等援護法で「公務死」と認められた者を「合祀予定者」と選び、厚生省引揚援護局に提出する。
- その名簿を厚生省から靖国神社に送付する。
- 靖国神社にて、名簿により合祀する。
なお合祀に関しては、本人・遺族の意向は基本的に考慮されておらず、神社側の判断のみで行われている。このため、キリスト教・仏教信者や特に海外出身の合意対象者について、遺族が不満を抱く事例がまま見られ、中には裁判に至っているものもある。ただし、現在(1970年代以降?)の公務殉職者の遺族に対しては「合祀可否の問い合わせ」をしており、回答期限内に「拒否」の回答がない場合に限って合祀している靖国神社広報課では、戦前戦後を通して当神社の祭神合祀にあたって遺族への連絡はするが事前の合意は取らない、としている。
被祀者の遺骨・位牌などはない。まず真っ暗闇の夜に氏名、軍における所属・階級、位階、勲等などを筆書きし、「人霊」を「霊璽簿(れいじぼ)」(旧称「祭神簿」)と称される名簿に移す。次に靖国神社の御神体とされる鏡に「霊璽簿」を写し、合祀祭を行うことで「人霊」を「神霊」へと化す。このようにして「御霊(みたま)」を招来し、身分、職業、年齢、性別にかかわりなく、手厚く祀っているという(靖国神社『靖国神社の概要』)。また、祭神であるという理由から「柱(はしら)」という単位で数え、祭神である被祀者の氏名の最後に「命(みこと)」を付し、例えば「東條英機命(とうじょうひできのみこと)」の様に呼称する。
[編集] 祭神の内訳
祭神は、以下のようになっている。(2004年10月17日現在)
- 戊辰戦争・明治維新:7751柱
- 西南戦争:6971柱
- 政府軍側のみ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外。
- 台湾出兵(別名「征台の役」):1130柱
- 遊就館の靖国の神々の一覧表では、「台湾討伐」とある。
- 壬午事変:14柱[17]
- 江華島事件:2柱[18]
- 京城事変:6柱[19]
- 遊就館の「靖国の神々の一覧表」では、壬午事変、江華島事件、京城事変はなぜか一覧表にない。
- 日清戦争:1万3619柱
- 義和団事件:1256柱
- 遊就館の「靖国の神々」の一覧表では、「北清事変」とある。
- 日露戦争:8万8429柱
- 第一次世界大戦:4850柱
- 済南事件:185柱
- 霧社事件
- 中村大尉事件外19柱[20]
- 満州事変:1万7176柱
- 支那事変:19万1250柱
- 大東亜戦争:213万3915柱
- 計:246万6532柱
[編集] 幕末から明治期
- 戊辰戦争の新政府軍側の戦没者を祀ったことが靖国神社の起源だが、幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども、『維新殉難者』として合祀した。これは、合祀対象の基準を、黒船来航までさかのぼって設けたため。
- 戊辰戦争で戦った旧幕府軍の兵士や、奥羽越列藩同盟の兵士、新選組や彰義隊などの旧幕臣の戦死者は祀らない。
- ただし禁門の変で長州藩勢との戦いで戦死した会津藩兵らは、朝廷(天皇)を守護したとして祀る。
- 明治維新の功労者でも、その後に反乱を起こし、あるいは反乱に加担した西郷隆盛や江藤新平、前原一誠等は祀られていない。
- 慶応4年(1868年)2月15日に土佐の隊旗を奪ったフランス人水兵を殺害(堺事件)した土佐藩士のうち、堺の妙国寺で切腹をした11人は祀る。
- 明治期の軍人では、乃木希典、東郷平八郎、八甲田雪中行軍遭難事件の遭難者などは戦時の死没者でないため祀らない。
[編集] 女性
- 5万7千余柱を祀る。西南戦争、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争における軍病院、病院船の従軍・救護看護婦などである。沖縄戦での「ひめゆり」「白梅」等の7女学校の生徒、南樺太での真岡郵便電信局事件の女性[21]などを含む。
[編集] 学童
- 学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒。輸送船「対馬丸」で沖縄から鹿児島への学童疎開中に敵潜水艦により撃沈された小学校児童達も祀る。
[編集] 戦後の合祀
- シベリア抑留等での死者、戦争終了後に自決した者
- いわゆるA級戦犯とされ刑死した者、BC級戦犯として刑死した者。(『昭和殉難者』として祀る)
- なお戦後に殉職した自衛官、海上保安官、政府職員などに関しては祀らない(各県の護国神社では祀る場合がある)。
[編集] 鎮霊社の祭神
- 1965年7月に筑波藤麿宮司の発案で[22]、拝殿に向かって左奥に「鎮霊社」という小さな社が建てられた。嘉永6(1853)年以降の戦争・事変について、本殿においては合祀対象外となった御霊と、諸外国の戦没者の御霊の二座を祀る。毎朝神職によって御饌祭が奉仕されている。
- 靖国神社では、「鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが、御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象」[23]としており、本殿祭神とは明確に差をつけている。
[編集] 今日の靖国神社
[編集] 年中行事
毎月1, 11, 21日は月次祭。永代神楽祭は毎日(戦没者ゆかりの日)。
- 1月1日 新年祭
- 1月7日 昭和天皇武蔵野陵遥拝式
- 1月30日 孝明天皇後月輪東山陵遥拝式
- 2月11日 建国記念祭
- 2月17日 祈年祭
- 4月21日 - 23日 春季例大祭
- 4月29日 昭和祭
- 6月29日 御創立記念日祭・献詠披講式
- 7月13日 - 16日 みたままつり
- 10月17日 神宮神嘗祭遥拝式
- 10月17日 - 20日 秋季例大祭
- 11月3日 明治祭
- 11月23日 新嘗祭
- 12月23日 天皇御誕辰奉祝祭
- 12月25日 大正天皇多摩陵遥拝式・煤拂式
- 12月31日 除夜祭・大祓式
[編集] 靖国神社の1日
- 6時:拝殿にある大太鼓が21回打たれて、菊の紋章が付いた神門が開けられる。
- 8時:神職が祭神の食事を供える。
- 9時 「朝拝」:大太鼓が打たれ、全ての職員が拝殿に集合し行われる。全員で「大祓詞」を唱え、天皇が詠んだ和歌を朗詠し、英霊に拝礼する。
- 14時 「永代神楽祭」:その日が命日とされる英霊の為に巫女が神楽を奉奏する。
- 15時:神職が祭神に食事を供える。
- 19時:神社の全ての門が閉じられる。
[編集] 官国幣社職制廃止以後の組織
靖国神社は、神社本庁発足の時点より神社本庁に属していない。これは、「靖国神社は日本国の護持の神社であり、いつかは国に返すべきなので、特定の宗教法人の包括下に入るべきではない」という靖国神社・神社本庁双方の判断により、神社本庁ほかの包括宗教法人に属さない単立神社となったものである。このような経緯のため、靖国神社と神社本庁とは包括・被包括の関係にないながらも密接な協調関係を保っている。例えば神社本庁は靖国神社崇敬奉賛会の法人会員となっている。神社本庁に属さない神社であるため、宮司ほかの神職は、必ずしも神社本庁の神職の資格を持った人物である必要はない。例えば六代目の松平宮司はもともと神職ではなかった。この場合、祭式などの研修をまず受ける事になる。
[編集] 内部組織
靖国神社では2005年1月現在、総勢108人が靖国神社で働いている。
- 役職・部署
- 宮司
- 権宮司
- 祭務部
- 祭儀課
- 調査課
- 総務部
- 総務課
- 人事課
- 管理課
- 広報課
- 文庫室
- 宣徳部
- 崇敬奉賛課
- 宣徳課
- 経理部
- 経理課
- 事業課
- 遊就館部
- 史料課
- 展示課
- 社務実習生
[編集] 施設・建造物
(九段下駅方面から)
- 「靖國神社」社号標
- 大鳥居(第一鳥居)
- 1974年完成した、鋼管製の鳥居。柱の高さが約25メートル、笠木(上の横木)の長さは約34メートルあり、重量は100トン。震度7の地震や、風速80メートルの強風でも壊れないと言われている。
- さざれ石
- 大鳥居近くにある
- 赤い石
- 大鳥居近くにある
- 戦跡の石
- 旧日本軍の激戦地域から収集された石。「グアム島」「レイテ島」等がある。
- 慰霊の泉
- 戦場で水がなくて苦しんだ御霊に対し、水を捧げるために作られた記念碑。東京キワニスクラブが、1967年に奉納した。
- 大村益次郎像
- 東京招魂社(現在の靖国神社)建立に奔走し場所決定後、暗殺された大村益次郎の像。1893年に造られた日本初の西洋式銅像。戊辰戦争の際、司令官として彰義隊が立て籠る上野寛永寺を見つめていた姿を模したもの。
- 大燈籠
- 日本一の大きさの燈籠。1935年に富國徴兵保険(現在の富国生命)が奉納した。九段下駅側から右側の燈籠には、日清戦争から満州事変までの大日本帝国海軍の戦闘場面が描かれ、左側の燈籠には、同じく日清戦争から満州事変までの大日本帝国陸軍の戦闘場面が描かれている。終戦後、GHQによって撤去させられそうになったが、免れた。
- 大手水舎
- 1940年、アメリカで暮らしていた日本人が奉納したもの。
- 白鳩鳩舎
- 平和の象徴である「白鳩」を育てている。神門脇にある。
- 第二鳥居
- 神門
- 1934年に完成。扉の両方には直径1.5メートルの菊花の紋章がある。高さ6メートル。檜作りの門である。
- 斎館社務所
- 能楽堂
- 岩倉具視らにより東京・芝公園に建てられた能舞台で、1903年に靖国神社に奉納された。
- 拝殿
- 1901年に建築された。尚、普通の日の拝殿には「白色」の幕が掛かっているが、団体参拝の時や祭日は「紫色」の幕となる。
- 本殿
- 1872年に尾張の伊藤平左衛門設計の下に造られた。1989年に当時の姿に復元されたもの。
- 霊璽簿奉安殿
- 霊璽簿(御霊の名を記してある簿)を保管する場所。1972年に建てられた。
- 元宮
- 幕末期に京都で造られた小祠を、1931年に靖国神社に奉納したもの。一般参拝可能。
- 鎮霊社
- 1965年建立。靖国神社本殿に祀られていない霊と、諸外国の戦死者や戦争で亡くなった人の霊が祀られている。一般には公開されておらず、参拝もできない状態が長く続いていた[22]。2006年10月12日に拝殿脇から参道が設けられ、元宮と共に一般参拝が可能になった。靖国神社創建の本義から見て、筑波藤麿元宮司の創祀そのものに疑義があり、又、一般公開は、大野俊康元宮司の宮司通達にも反し、批判がある。
- 南門
- 軍犬慰霊像
- 戦場で死んだ軍犬の霊を慰撫するため、1992年3月に奉納された。
- 戦没馬慰霊像
- 戦場で死んだ軍馬の霊を慰撫するため、1958年に奉納された。
- 鳩魂塔
- 通信に使われた伝書鳩の霊を慰撫するため、1982年に奉納された。
- 母の像
- 戦争で父親が亡くなってから母親が子供を育ててくれたことに感謝し、1974年に建てられた。
- パール判事顕彰碑
- 極東国際軍事裁判の判事として、A級戦犯全員の無罪を主張したインドの法学者ラダ・ビノード・パールを顕彰するため、2005年に建てられたが、一部から批判もある。
- 靖国会館(旧「国防館」)
- 1階は休憩所と図書館「靖国偕行文庫」がある。
- 遊就館(博物館)
- 館名の典拠は、『荀子』より「遊必就士(遊ぶに必ず士に就く)」(遊歴する時は必ず優れた人物に交わり学ぶの意)に基づく。合祀された英霊の遺品や資料、戦争で使用された武器などを展示。収蔵品は約10万点。約5000人の遺影もある。主な収蔵品に、零戦52型(海軍零式艦上戦闘機)や人間魚雷「回天」、C56形蒸気機関車31号機など。他に、真珠湾攻撃成功の電文「トラ・トラ・トラ」や、「戦勝」祈願の血染めの日章旗、終戦時の陸軍大臣阿南惟幾の「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と記した血染めの遺書などが反戦・平和を訴えるためのものとして飾られている。
- 神池庭園
- 明治初期に造られ、1999年10月に整備・復元作業が行われた。
- 相撲場
- 春の例大祭に、全力士が奉納相撲を行う場所。近年ではプロレスの試合も催される。
- 招魂斎庭(跡)
- 招魂斎庭は例大祭に合祀を行なう時に最初に神霊を招ぎ下ろす祭壇である。その重要性にもかかわらず、役目を終つたものとして、現在そのほとんどを駐車場にしてしまったが、一部からは批判されている。
- その他
- 参道に使われている石や玉砂利は中国産である。
[編集] 神社の収入
1869年には明治天皇により1万石の社領を「永代祭粢料」として与えられたが、国の財政難のために漸次減らされた。しかし、賽銭収入だけでも1891年には136,753円であったものが、日露戦争後に急増して1910年には1,709,710円となっている。これは全国から戦死者の遺族が参詣した結果である [24]。1875年、天皇は二回目の参拝に際し100円を与えた。1876年、政府は減額して5000石にしていた社領を年7550円の現金に改め、「寄付金」と称した。1877年、西南戦争の戦没者合祀に際して天皇は参拝して1000円を与えた。1887年、青銅製の鳥居の工事にあたり、皇室は1万5千円を与えた。1901年の大改増築に際し、政府は5万2千円を「特別寄付金」として与えた(総工費は約16万円)。同年の招魂式では天皇・皇后は2千円、政府は1万5000円を与えた。 [25]以後も天皇・政府からの定収入・臨時収入があった。 現在の年間予算は20億円を越えるが、全て戦没者遺族、戦友などからの奉納金などで維持・運営されている。
これは戦前も同様であり、国家からは全ての官国幣社に与えられた名目的な補助金以外に金銭的支援はなかった[要出典]。更に、大鳥居を金属徴用されるなど国家総動員体制に組み込まれており、一般に言われるような他の神社との特別な区別はなかった[要出典]。
近年では遺族会に代表される戦争世代が亡くなり続けているのに伴って、主要な収入源である大口の寄付も減少の一途をたどり、財政難に陥っている。
靖国神社問題でマスコミから注目を浴びていることから、近年の一般参拝者は増加している。参拝者数は年間約600万人で、なかでも終戦記念日である8月15日の1日だけで20万人にのぼる。しかしながら参拝者の賽銭では限界があり、財政難を解消するほどの収益にはなっていないものとみられる[要出典]。
このほか遊就館の入館料や売店や境内にある茶店の売り上げなども貴重な収入源である。
[編集] 靖国神社が描かれた紙幣
靖国神社を描いた紙幣として、太平洋戦争中の政府紙幣がある。これは1938年以降日本政府が50銭硬貨に使われていた銀を戦略物資として温存するために、富士山を描いた昭和13年銘のある政府紙幣に置き換えていた。この紙幣では凹版印刷が用いられていた。だが1942年になって通貨需要が増大したため民間の凸版印刷株式会社に製造させたが、この時点で靖国神社を描く政府紙幣にデザインが変更された。
なお、この靖国神社を描いた紙幣は、硬貨の発行年と同様に昭和17年から昭和20年まで4つの発行年号が記載されている。また最初の昭和17年銘は凸版5色刷りの高級な印刷方法を用いていたが、最後の昭和20年銘(実際には戦後になった翌年発行)は印刷に用いる資材の枯渇のためオフセット印刷に切り替えられている。靖国神社の紙幣についてGHQから大目にみられ発行と流通が戦後も続けられたが、デザインはその後板垣退助に変更され、靖国神社の紙幣は1948年8月31日に廃止された。
[編集] 靖国神社が描かれた郵便切手
- 靖国神社を描いた郵便切手は、これまで4種類発行されている。そのうち普通切手としては、17銭切手(1943年2月21日発行)、27銭切手(1945年2月2日発行)、1円切手(1946年3月ごろ発行)の3種が発行されている。いずれも書留料金用の高額切手であったが、戦時中のため印刷が粗悪である。最後の1円切手は戦後になって発行されたが、これは戦時中に計画されたものが、製造および配給が遅れ戦後になって発行されたものである。通常、切手発行の告示は官報によって行われるが、当時の他の切手と同様に、告示を待たずに発売された。このため、公式にいつ発売されたかは現在も不明(前述の年月は最初に確認されたもの)である。また1円切手は用紙が粗悪であるうえ、目打や裏糊もなかった。これは、製造工程の簡略化というだけでなく、印刷局が戦災にあったため、機械自体が使用できない状態に追い込まれていた事情もあってのことだった。
- 7銭(発行時の封書基本料金と同額)切手は1944年6月29日に発行「靖国神社鎮座75周年」を記念して発行された記念切手であったが、戦時体制下であったため、通常の記念切手のサイズではなく、それよりも小さな普通切手サイズで発行された。なお印刷方法は戦時中としては異例のグラビア印刷であった。
- なお、靖国神社の切手は「少年航空兵」や「戦闘機飛燕」など戦意高揚のためにデザインされた他の切手とともにGHQによって「超国家主義的かつ軍国主義的」と判断され1947年に既に在庫が無かった7銭記念切手を除く3種が通称「追放切手」として使用禁止処分がとられた。
[編集] 正式参拝
正式参拝は神道の作法で行われるのが正しい。参集所から参入し、手水を取り、修祓(しゅばつ)を受けて本殿に昇り、玉串を奉げる。その後、二礼二拍手一礼し、退出の時に、御神酒を受け取る。社頭参拝は、鳥居をくぐり、手水を取り、拝殿前で二礼二拍手一礼をする。
なお、首相が参拝する時には、日本国憲法第20条で規定された政教分離(特定の宗教の流儀を実行すると国家がその宗教に援助を与えているとみなされるおそれがある)に配慮して、本殿に昇殿はしてもお祓いも受けず、二礼二拍手一礼も行わない場合がある。
[編集] 桜の名所
1870年開始の靖国神社競馬場(1898年廃止)の周囲に数十本の桜が植えられた [26]。現在では境内は東京都内でも有数の桜の名所となった。そのため毎年3月下旬から4月上旬にかけて多くの花見客で混雑し、屋台も多数出店されている。このように桜が境内に多く植えられるのは、散華した兵士を象徴であるとの指摘もある。
気象庁は境内にある3本のソメイヨシノを、東京都で桜の開花日を決定する標準木として指定している。そのため東京都の“桜の開花宣言”はこの標準木が咲いた時に行われている。
[編集] 歴史
[編集] 年表
<>内は関連事項。
- 1862年(文久2年)12月:<京都東山の神道葬祭場霊明社(現、霊山)で殉難志士の神葬祭(招魂祭)が初めて有志によって行なわれる。祭神は菊理媛神など3神。>
- 1868年(慶応4年/明治元年)1月:<戊辰戦争。1869年5月まで>
- 1868年(慶応4年/明治元年)閏4月20日:東海道先鋒総督府達で、死傷者の一覧作成を命じる
- 1868年(慶応4年/明治元年)閏4月28日:東海道先鋒総督府達で、招魂祭を行うことを示す
- 1868年(慶応4年/明治元年)5月10日:<太政官布告で、京都東山に戦死者を祭ること(のちの霊山護国神社)を示す>
- 1868年(慶応4年/明治元年)5月28日:<行政官達で、戦死者の一覧を神祇官に提出することを命じる>
- 1868年(慶応4年/明治元年)6月2日:招魂祭。江戸城西丸大広間にて。
- 1868年(慶応4年/明治元年)7月8日:<神祇官達で、招魂祭を行うことを示す>
- 1868年(慶応4年/明治元年)7月10日 - 11日:<招魂祭。京都の川東操錬場>
- 1869年(明治2年)6月12日:軍務官達で、東京招魂社を建てることを示す。
- 1869年(明治2年)6月29日:東京招魂社、創建。明治天皇は1万石の社領を「永代祭粢料」として与う。
- 1869年(明治2年)6月:第1回合祀祭。(新規合祀:3588柱)
- 1870年:競馬開始。
- 1872年(明治5年)5月10日:本殿、造営。
- 1874年(明治7年)2月:<台湾出兵>
- 1874年(明治7年):明治天皇の参拝。以後、天皇の参拝は1975年まで断続的に行われる。
- 1874年(明治7年)8月:第2回合祀祭(新規合祀:192柱)
- 1874年(明治7年)11月:第3回合祀祭(新規合祀:16柱)
- 1875年(明治8年)2月22日:臨時祭
- 1875年(明治8年)2月:第4回合祀祭(新規合祀:12柱)
- 1875年(明治8年)7月:第5回合祀祭(新規合祀:1柱)
- 1876年(明治9年)1月:第6回合祀祭(新規合祀:1柱)
- 1877年(明治10年)1月:第7回合祀祭(新規合祀:131柱)
- 1877年(明治10年)2月:<西南戦争>
- 1877年(明治10年)11月14日:臨時祭
- 1877年(明治10年)11月:第8回合祀祭(新規合祀:6505柱)
- 1878年(明治11年)7月:第9回合祀祭(新規合祀:160柱)
- 1878年(明治11年)11月:第10回合祀祭(新規合祀:4柱)
- 1879年(明治12年)6月4日:別格官幣社に列格。靖国神社に改称。(太政官達)
- 1879年(明治12年)6月:第11回合祀祭(新規合祀:266柱)
- 1882年(明治15年)2月 : 遊就館(世界最古の軍事博物館)、開館。
- 1882年(明治15年)11月:第12回合祀祭(新規合祀:12柱)
- 1883年(明治16年)5月:第13回合祀祭(新規合祀:80柱)
- 1884年(明治17年)11月:第14回合祀祭(新規合祀:47柱)
- 1885年(明治18年)5月:第15回合祀祭(新規合祀:6柱)
- 1888年(明治21年)5月:第16回合祀祭(新規合祀:607柱)
- 1888年(明治21年)11月:第17回合祀祭(新規合祀:18柱)
- 1889年(明治22年)5月:第18回合祀祭(新規合祀:1460柱)
- 1889年(明治22年)11月:第19回合祀祭(新規合祀:61柱)
- 1891年(明治24年)11月:第20回合祀祭(新規合祀:1272柱)
- 1893年(明治26年)11月:第21回合祀祭(新規合祀:80柱)
- 1894年(明治27年)8月:<日清戦争。翌年4月まで>
- 1895年(明治28年)11月17日:臨時大祭
- 1895年(明治28年)11月:第22回合祀祭(新規合祀:1496柱)
- 1896年(明治29年)5月6日:臨時大祭
- 1896年(明治29年)5月:第23回合祀祭(新規合祀:143柱)
- 1896年(明治29年)11月:第24回合祀祭(新規合祀:97柱)
- 1898年(明治31年)11月5日:臨時大祭
- 1898年(明治31年)11月:第25回合祀祭(新規合祀:1万1383柱)
- 1898年(明治31年):競馬場廃止。
- 1899年(明治32年)5月:第26回合祀祭(新規合祀:340柱)
- 1899年(明治32年)11月:第27回合祀祭(新規合祀:83柱)
- 1900年(明治33年)5月:第28回合祀祭(新規合祀:35柱)
- 1900年(明治33年)5月:<義和団事変。9月まで>
- 1901年(明治34年)10月31日:臨時大祭
- 1901年(明治34年)10月:拝殿、造営。
- 1901年(明治34年)11月:第29回合祀祭(新規合祀:1282柱)
- 1904年(明治37年)2月:<日露戦争。翌年9月まで>
- 1904年(明治37年)5月:第30回合祀祭(新規合祀:89柱)
- 1905年(明治38年)5月3日:臨時大祭
- 1905年(明治38年)5月:第31回合祀祭(新規合祀:3万883柱)
- 1906年(明治39)5月2日 : 臨時大祭
- 1906年(明治39年)5月:第32回合祀祭(新規合祀:2万9960柱)
- 1907年(明治40年)5月3日:臨時大祭
- 1907年(明治40年)5月:第33回合祀祭(新規合祀:2万4657柱)
- 1908年(明治41年)5月5日:臨時大祭
- 1908年(明治41年)5月:第34回合祀祭(新規合祀:1943柱)
- 1909年(明治42年)5月5日:臨時大祭
- 1909年(明治42年)5月:第35回合祀祭(新規合祀:817柱)
- 1910年(明治43年)5月5日:臨時大祭
- 1910年(明治43年)5月:第36回合祀祭(新規合祀:141柱)
- 1911年(明治44年)5月5日:臨時大祭
- 1911年(明治44年)5月:第37回合祀祭(新規合祀:631柱、計:11万8499柱)
- 1914年(大正3年)7月:<第一次世界大戦。1918年11月まで>
- 1919年(大正8年)5月:鎮座五十年記念祭
- 1923年(大正12年)9月:<関東大震災>
- 1931年(昭和6年)3月:福羽家の招魂祠を元宮として境内に移動。
- 1938年(昭和13年)4月:新招魂斎庭、造営。
- 1937年(昭和12年)7月7日:<日中戦争。1945年まで>
- 1941年(昭和16年)12月8日:<太平洋戦争。1945年まで>
- 1945年(昭和20年)8月15日:<敗戦の詔、日本軍無条件降伏>
- 1945年(昭和20年)10月:GHQ、靖国神社存続を決定。
- 1945年(昭和20年)11月19日:臨時大招魂祭
- 1945年(昭和20年)12月:神道指令
- 1946年(昭和21年)5月1日:第67回合祀祭(新規合祀:2万6969柱)
- 1946年(昭和21)9月 : 宗教法人に登記。
- 1947年(昭和22年):合祀祭(新規合祀:5万9337柱)
- 1947年(昭和22年)7月13日:初のみたま祭。
- 1951年(昭和26年)10月18日:戦後初の例大祭。
- 1952年(昭和27年)4月28日:<サンフランシスコ講和条約発効>
- 1955年(昭和30年)8月14日:終戦時自決者540柱の慰霊祭
- 1955年(昭和30年)10月17日:臨時大祭。
- 1956年(昭和31年):合祀祭(新規合祀:11万2609柱)
- 1957年(昭和32年):合祀祭(新規合祀:47万10柱)
- 1958年(昭和33年):合祀祭(新規合祀:21万7536柱)
- 1959年(昭和34年)4月8日:臨時大祭。
- 1959年(昭和34年)4月:合祀祭(新規合祀:346柱)※BC級軍事裁判刑死者
- 1959年(昭和34年)10月4日:合祀祭(北白川宮能久親王・北白川宮永久王)
- 1959年(昭和34年)10月:合祀祭(新規合祀:479柱)※BC級軍事裁判刑死者
- 1959年(昭和34年)11月5日:創立90周年記念大祭
- 1960年(昭和35年)8月15日:アジア・太平洋戦争殉国者顕彰慰霊祭
- 1964年(昭和39年)8月15日:政府主催の全国戦没者追悼式が行われる。(翌年より、日本武道館で開催)
- 1965年(昭和40年)7月:鎮霊社を境内に建立
- 1965年(昭和40年)10月19日:臨時大祭。
- 1969年(昭和44年)10月19日:創立100周年記念大祭
- 1972年(昭和47年)3月13日:霊璽簿奉安殿、造営。
- 1975年(昭和50年)11月21日:天皇による最後の参拝。
- 1976年(昭和51年)6月22日:「英霊にこたえる会」結成。
- 1978年(昭和53年)10月17日:合祀祭(新規合祀:14柱)※極東国際軍事裁判刑死者および関連死亡者。この年より靖国神社は「昭和殉難者」との呼称を用いる。
- 1980年(昭和55年)11月16日:靖国神社奉賛会、設立。
- 1985年(昭和60年)9月:日露戦役80年慰霊顕彰祭
- 1989年(平成元年)1月:創立120年記念大祭
- 1998年(平成10年)12月:靖国神社奉賛会、解散。靖国神社崇敬奉賛会に再組織。
- 2001年(平成13年)7月18日:同日付の朝日新聞が「大韓民国政府が、靖国神社に合祀されている朝鮮人の位牌の返還を求めている。」と報じた。※しかし、靖国神社にあるのは「霊璽簿」(旧称「祭神簿」。英霊の籠もるもの。)であり、「位牌」は存在しない。
- 2002年(平成14年)7月13日:現在の「遊就館」、落成。
- 2004年(平成16年)9月:新参集殿、落成。
- 2005年(平成17年)1月5日:2004年9月よりウェブサイトが攻撃を受けていると神社が発表した。この攻撃は中華人民共和国ドメインから行われたもので、首相の靖国神社参拝等に反発した中華人民共和国人のネット利用者による行為と考えられている。
- 2005年(平成17年)6月4日:「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」を政府が韓国へ返還する方向で検討に入った、というニュースが報道される。
- 2005年(平成17年)6月14日:靖国神社に合祀されている中華民国人の遺族ら約50人が、魂を取り戻すための伝統儀式を行うため訪問。神社側は拒否しなかったが、儀式に反対する政治団体の街宣車による抗議行動などのため、遺族らは警察の要請を受け中止した。
- 2006年(平成18年)10月12日:元宮と鎮霊社の一般参拝を再開。(午前9時~午後4時まで)
- 2007年(平成19年)7月13日:国会議員が奉納した「みたままつり」の提灯のうち、参議院選挙比例代表の立候補者のものについて、「選挙区が全国であり、公職選挙法に抵触するおそれがある」として撤去することとなった[27]。
[編集] 国家管理をめぐる動き
靖国神社を国家管理に戻そうとする、「国家護持運動」が過去にはあった。これは政教分離を定めた日本国憲法に反するために様々な案が検討された。日本遺族会会長は「国家護持」のためには法案は靖国神社の非宗教化を約束したものでなければならないと諦め、態度を変えて非宗教化案に応じた。1969年1月20日、これに憤慨した大東塾の者が会談中に日本遺族会会長に暴行を加えた(懲役3月・執行猶予2年)。当時の大東塾塾頭は会談を斡旋した吉橋公安調査庁長官に義理を立て、手の指を一本切った。 [28]
自由民主党は、1969年6月30日に国家管理化を目指す「靖国神社法案」を国会に提出したが、55年体制下の保革対立の中で廃案となった。以後、1973年まで5回同法案を提出したが、審議未了により廃案となった。1974年には自由民主党の強行採決によって衆議院を通過した[29]が、参議院で廃案となった[30]。国家管理反対論者からはこれにより参議院は改めて「良識の府」と評価された[31]。これを受けて自由民主党内で浮上したのが閣僚の参拝である[32]。(これは