九七式中戦車
上段:元・戦車第9連隊所属の九七式中戦車(57mm砲搭載型)
下段:元・戦車第26連隊所属の九七式中戦車(47mm砲搭載型、新砲塔チハ) |
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| 性能諸元 | |
|---|---|
| 全長 | 5.55 m |
| 車体長 | 5.52 m |
| 全幅 | 2.33 m |
| 全高 | 2.23 m |
| 重量 | 自重14.3t 全備重量15.0t(57mm砲搭載型) 自重14.8t 全備重量15.8t(47mm砲搭載型、新砲塔)[1] |
| 懸架方式 | 独立懸架および シーソー式連動懸架 |
| 速度 | 38 km/h |
| 行動距離 | 210 km |
| 主砲 | 九七式五糎七戦車砲(口径57mm、18.4口径) ないし 一式四十七粍戦車砲(口径47mm、48口径) |
| 副武装 | 九七式車載重機関銃(口径7.7mm)×2 |
| 装甲 | 前面25 mm、側面25 mm~20 mm 後面20mm、上面10mm、底面8mm。防盾50㎜。 |
| エンジン | 三菱SA一二二〇〇VD 空冷V型12気筒ディーゼル 150 hp/1,500 rpm 170 hp/2,000 rpm 排気量21,700cc |
| 乗員 | 4 名 |
九七式中戦車 チハ(きゅうななしきちゅうせんしゃ -)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦車。八九式中戦車の後継中戦車として1930年代中頃に開発・採用された。開発は三菱重工業。
1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけて総計2,123輌が生産され、九五式軽戦車 ハ号とともに第二次大戦における日本軍の主力戦車として運用された。
目次 |
概要 [編集]
各国陸軍が採用する戦車の多くがガソリンエンジンだった時代に、空冷ディーゼルエンジンを搭載していることが大きな特徴である。ディーゼルエンジンは燃料に揮発性の高いガソリンでなく軽油を使用するため、爆発的な火災発生の危険が少なく、また高いオクタン価のガソリンの入手に制限があるなど燃料事情が悪い当時としては、ガソリンを必要としないことは調達・補給の上で非常に有利であった。さらに空冷方式の採用については、想定戦場である満州において「水冷する方式は冷却水の補充や凍結による故障の心配があるので、空冷式を採用することができれば理想的である」[2]と見做され、また、冷却よりもエンジン起動時の保温のほうがむしろ課題であったという経緯があった。しかし空冷ディーゼル方式でガソリンエンジンと同等の出力を得るには大型化せざるを得ず、車体全体に対する機関部の占有率がその分大きくなる欠点もあった。
車体前方右寄りに砲塔が設置され、主砲として九七式五糎七戦車砲(口径57mm)を、機関銃は九七式車載重機関銃(口径7.7mm)を砲塔後部と車体前方に搭載した。本車の出現当時の外国製戦車(初期のIII号戦車やBT-5など)と比較して装甲厚や主砲口径などは同程度であるが、もともと対戦車戦闘能力を主眼にした設計ではなく、その想定した敵は37mm級の対戦車砲や歩兵砲、機関銃を装備した歩兵及び陣地であり、その後の重装甲・重武装化した新型戦車には対応することが難しかった。主砲である九七式五糎七戦車砲は、八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲の改良型で、同砲と弾薬筒は共通である[3]。戦訓により不備とされた面の多くが改良されたが、榴弾威力及び装甲貫通力の面で威力向上は考慮されなかった[4]。通常交戦距離で九四式三十七粍砲の射撃に耐えられることを基準とした装甲(最大25mm)は計画策定時は十分と看做されたものであった[5]が、日中戦争(支那事変)における中国国民党軍が装備したPaK 35/36やソ連軍の19-K 45mm対戦車砲によって、容易に貫通撃破されてしまった。このように太平洋戦争(大東亜戦争)以前の敵対戦車砲・戦車との戦いで問題点が指摘されながら、防御力に関しては十分な改善は行われなかった。
とはいえ、日中戦争における中国国民党軍やゲリラは対戦車砲や戦車、野砲や山砲など強力な対戦車兵器の保有数が極めて少なく、これらの敵に対して本車など日本軍の戦車・装甲車は有効な兵器であった。また、太平洋戦争緒戦の各南方作戦では、マレー作戦を筆頭に自動車化歩兵・砲兵・工兵・航空部隊との協同戦である電撃戦が行われ、イギリス軍、イギリス・インド軍(英印軍)が強力な装甲戦闘車両を数多く保有していなかったこともあり活躍している。
特にマレー作戦においては、上陸した第5師団の先頭を進軍する捜索第5連隊(連隊長佐伯静雄陸軍中佐、九七式軽装甲車 テケ8両を主力装備とする機械化部隊。本作戦ではさらに砲兵・工兵隊が付随し「佐伯挺進隊」を構成)および、同連隊長の指揮下に入った戦車第1連隊第3中隊(九七式中戦車10両、九五式軽戦車2両装備)からなる「特別挺進隊」(兵力600人程)が、英印軍2個旅団(兵力約6,400人・火砲60門・装甲車90両等)が守備し鉄条網や地雷が張り巡らされ、「小マジノ線」とも謳われたイギリス軍の強力な国境陣地であるジットラ・ラインを1日で突破・制圧(マレー作戦#ジットラ・ライン突破)、また、約1ヶ月後の1942年(昭和17年)1月6日のスリム・リバーの戦いにおいて、戦車第6連隊第4中隊(中隊長島田豊作陸軍大尉、九七式中戦車12両装備)と随伴歩兵・工兵100人余りがトロラク、スリム・リバー、スリムの各陣地を夜襲し、これら全縦深を1日で突破。さらに戦車の機動力を生かした電撃戦を行い先述の各市街を占領するとともに、イギリス軍司令部を攻撃・スリム市街に進出した事で後方の英印軍1個師団の退路を絶つ事に成功。またスリムでは鉄橋を無傷で確保し、島田戦車隊の後を追って進出してきた第5師団と同地にて合流した。これによって、イギリス軍による要衝クアラルンプール(スリム南方に位置)の防衛計画は崩壊、1月11日には同地に日本軍が突入し翌12日に占領。これによってマレー半島のほぼ全土を日本軍が制圧し、イギリス軍はシンガポールに撤退した(シンガポールの戦い)。
しかし、歩兵直協が本来の目的であるため対戦車戦では本車は不利であり、ビルマ攻略戦における局地戦で対峙したM3軽戦車との戦車戦では苦戦を強いられた。一方、1937年には既に主砲を対戦車攻撃能力に優れた物に換装する改良計画があり、一式四十七粍戦車砲(口径47mm)に換装した車両(俗称・通称「九七式中戦車改」「新砲塔チハ」)が開発され、1942年(昭和17年)中期には実戦投入された。以降、九七式五糎七戦車砲搭載型に代わり一式四十七粍戦車砲搭載型の量産が進められ、M3軽戦車には対抗できるようになったものの、戦争中盤からアメリカ軍は75mm砲を装備したM4中戦車を投入したため、その後の対戦車戦では苦戦を強いられた。
占守島の戦いでは戦車第11連隊の主力として、連隊長池田末男大佐が戦死するなど大きな損害を受けながらも、ソ連軍相手に善戦した。
歩兵戦車としては、登場時は列強の戦車と比べても標準的な性能であったが、資金難・生産力・輸送手段・運用課題等の問題に重ね、第二次大戦においては航空戦力の増備に重点が置かれたことなどから後継車輌に恵まれず、本車が旧式化した後も使い続けざるを得なくなり、また想定していなかった対戦車戦にも用いられたことで苦戦を強いられた戦車である。本車の場合のみならず、アメリカ・イギリスと比較して資源が不足し技術力に劣り、自動車産業の発展に出遅れていた当時の日本では、自動車生産力の弱点が後の兵器開発に深く影響を及ぼす事になった。
開発 [編集]
1936年(昭和11年)、帝国陸軍において歩兵の直接支援のための戦車(歩兵戦車)として開発が開始された。新型中戦車の開発に当たっては速度性能、防御性能の向上が求められたが、当時の道路状況、架橋資材その他の状況から車輌重量増が最大のネックとなった。重量増を忍び性能の充実を求める声と、防御・速度性能を忍んでも重量の逓減を優先する意見の双方があり、双方のコンセプトに沿った車輌を試作し比較試験することとなった[6]。主砲についてはどちらも八九式中戦車の主砲と同等とされた。
陸軍技術本部は、前者を甲案(後のチハ車。予定重量13.5トン)、後者を乙案(後のチニ車、予定重量10トン)として設計を開始した。甲案は砲塔に2人が配置され、八九式中戦車と同じく車載機関銃は2挺とされた。戦闘室(ターレットリング径)に余裕を持たせて将来の火砲の大口径化に考慮したとする説がある[7]が、完成したチハ車の砲塔自体の容積は八九式中戦車とほぼ同等であり、戦闘室容積も同様である。対して乙案は砲塔も1人用に小型化され砲塔の機関銃は省略、車載機関銃は車体前面の1挺のみとされた。
設計案の検討時点では、参謀本部側は甲案の12t程度への軽量化を要求したものの、技術本部からの不可能との回答を得て、性能差を忍び乙案を大量配備する方針に転換した。性能差は配備数の増加で補えるという意図であるが、同時に甲案の開発継続も要望してもいる[8]。これに対して陸軍戦車学校側は2人用砲塔の甲案が絶対的に優位としていた。装甲・速度性能に関しては乙案でも許容可能だが、戦闘力発揮のためには2人用砲塔が必須との主張であった。一方、新戦車の開発は急がれており、結果的に妥協点を見出せないまま双方を試作して検討する形になってしまう。この混乱が後の試製九八式中戦車の開発の一因とされる[9]。
1937年6月にチハ試作車2輌が三菱重工により完成した。チニ試作車は1輌が陸軍造兵廠大阪工廠により試作された。チハ試作車は予定重量13.5tに収まったが戦車学校の追加修正を加えた結果、最終的に重量は15tとなった。チニ試作車は予定重量以下の9.8tに収まった。 チニ車とチハ車の試験の結果はどちらもおおむね良好とされたが、最終的にはチハ車が制式採用され、チニ車は試作のみで中止されることになった。比較的高価、かつ大重量な本車がチニ車を抑えて採用されたのは日中戦争により軍事予算全般に余裕ができたのも一因とされる。
名称 [編集]
「チハ」とは「3番目(イ、ロ、ハ)に開発された中戦車(チ)」である事を表すコードネーム(計画名称・秘匿名称)である。このカタカナ2文字の命名法は本車の開発時から適用されたものであり、八九式中戦車にもさかのぼって命名されている(甲型「チイ」、乙型「チロ」)。そのため「チハ車(ちはしゃ)」とも表記・呼称された。
また、帝国陸軍の軍隊符号で中戦車は「MTK」(軽戦車「LTK」、重戦車「STK」等)であるため、陸軍内部における文書等一次資料においては「97MTK」や「97式MTK」といった表記も使用されている。
47mm砲搭載型の名称は定かではなく、主な呼称としては、終戦後の連合軍への兵器引渡し時に便宜上付けられたものである「新砲塔」・「新砲塔チハ」や、配備部隊で機甲兵によって呼称されていた「四十七粍(よんじゅうななみり)」といったものがある[10]。軍内部の一次資料では「97MTK(47)」・「97MTK/47」などと表記される事もあった。なお、「九七式中戦車改」・「チハ改」などは戦後に生まれた俗称・造語である。
新砲塔 [編集]
対戦車戦闘力を上げるため、貫徹力が不十分だった九七式五糎七戦車砲を、貫徹力を重視した一式四十七粍戦車砲に換装した改良型。便宜上、本稿では47mm砲搭載型を「新砲塔チハ」と表記する。
従来の日本軍戦車は、歩兵支援重視の考え方から榴弾威力が高くかつ軽量な短砲身の戦車砲を装備していた。戦車の目的は陣地突破、火点制圧、追撃といった歩兵支援であり、対戦車戦闘は歩兵連隊や独立速射砲大隊・中隊などに配備されている連隊砲・対戦車砲(速射砲)が行うものとされていたためである。しかし数次に亙る日ソ国境紛争(ノモンハン事件等)の際、長砲身45mm砲を装備したソ連軍戦車・装甲車との戦闘を経験し、戦車にあっても対戦車性能の向上が望まれた。
ノモンハン事件では主力対戦車砲である九四式三十七粍砲が相応の戦果を挙げ、比較的装甲貫徹力が高い九四式三十七粍戦車砲を装備した九五式軽戦車も敵軽戦車・装甲車の撃破を記録した。この戦訓を生かして1939年(昭和14年)から新型戦車砲の開発が始まり、これを搭載できる新型砲塔の開発も始められた。戦車砲は1942年4月に一式四十七粍戦車砲として制式化された[11]。なお、57mm長加農の採用も検討されていたが、一式機動四十七粍砲との弾薬筒共通の便宜のため断念している[12][13][14]。九七式中戦車の車体には設計余裕があり、旧砲塔より大型化した新砲塔も無理なく採用できた。
また1941年(昭和16年)春には九七式中戦車の砲塔を四一式山砲を元に開発された九九式七糎半戦車砲搭載の大型砲塔に換装した試製一式砲戦車(試製二式砲戦車とも呼称される)が試作され、同年より試験が行われていた。この試作車は後の二式砲戦車 ホイの前身となる。
新砲塔チハで換装されたのは砲塔及び主砲だけであり、車体(装甲厚・機関出力等)はそのままであった(戦車第2師団に配備された一部の車両など、現地改造の追加装甲として要部を50mmに強化したものは存在した)。なお、前面装甲厚50mmの一式中戦車の砲塔を九七式中戦車の車体に搭載した車両も、数は不明であるが製作された模様(現存車輌の項目を参照)。
新砲塔チハの初陣は太平洋戦争緒戦の1942年4月7日、フィリピン攻略戦における追撃戦であり、戦車第7連隊に編入された松岡隊が同連隊第3中隊、爆撃機と共にアメリカ極東陸軍(米比軍)のM3軽戦車を3両撃破している。以降、新砲塔チハは旧砲塔車から改編ないし協同運用されることになり、概ね1943年(昭和18年)以降の帝国陸軍主力中戦車となったが、アメリカ軍は大戦中後期には従来のM3軽戦車・M3中戦車に代えて長砲身75mm砲を搭載し重装甲なM4中戦車を太平洋戦線にも投入したため、新砲塔チハは再び劣勢に立たされた[15]。
防御力 [編集]
本車の前面装甲は浸炭処理された表面硬化鋼を使用し厚さは25mmである。側面は25mmから20mm、後面20mm、上面10mm、底面8mm、防盾50㎜[16]。25mmという厚みは、口径37mm程度の軽便な火砲の近距離からの射撃に耐えるものとするため、九四式三十七粍砲を使用した試験を経て決定されたものであり、この際には150mの距離からの射撃にも耐えて合格とされた。しかし本車の採用後、中国軍から鹵獲した九四式三十七粍砲よりも貫通威力の高い37mm対戦車砲を使用した射撃試験の際には射距離300mで貫通されている。
本車の組み立ては、砲塔と車体がリベット留め、車体底板と側板に溶接が用いられた。車体形状を構築するフレームにリベットで装甲を接合した車体は被弾時に鋲がちぎれて飛び、乗員を殺傷することが問題視されていた。そのため、九七式の後継である一式中戦車 チヘでは溶接構造に変更している。
1945年(昭和20年)7月に発行されたアメリカ軍の情報報告書には、鹵獲・調査された新砲塔チハに対する保有各種火器による射撃試験結果が掲載されている[17]。 それによると、37mm対戦車砲(M3 37mm砲と思われる)ではAP弾を使用した場合、射距離100yd(約91.4m)において通常角度(戦車正面の正対角度と思われる)から45度まで、いずれの角度から射撃した場合においても、あらゆる装甲箇所を貫通させる事が可能であるが、射距離350yd(約320m)では通常角度からの射撃の場合のみ貫通することが可能であるとしている。 また口径12.7mmのM2 重機関銃では近距離である射距離100yd(約91.4m)において、あらゆる装甲箇所を貫通させる事は出来ず、射距離50yd(約45.7m)においては、一番装甲の薄い箇所である車体側面下部の懸架装置周辺、砲塔後部機関銃ボールマウント部分、及び車体後面下部で35%が貫通したとしている。また新砲塔チハ正面部分の装甲は、射距離35yd(約32m)からでは車体機関銃ボールマウント部分以外は貫通しなかったとしている。この報告書では結論として、新砲塔チハに対しては37mm対戦車砲では射距離350yd(約320m)以内、M2重機関銃では射距離50yd(約45.7m)以内での射撃が有効であるとしている。
よって、九七式中戦車(57mm砲搭載型も新砲塔チハと砲塔以外の装甲厚は変わらない)に対しては、当時の日本軍の交戦国が使用していた軍用小銃弾[18]の威力では、最も薄い装甲箇所であっても貫通する可能性は低かった。
攻撃力 [編集]
57mm砲搭載型 [編集]
詳細は「九七式五糎七戦車砲」を参照
本車には主砲として九七式五糎七戦車砲が搭載された。この砲は八九式中戦車に搭載された九〇式五糎七戦車砲の改良型で、砲そのものの性能は同等であるが機能及び抗堪性を向上させている[19]。尚、「発射装薬の改善と砲尾部の改修により初速が350m/sから420m/sとなった」という記述が散見されるが、仮制式制定段階での砲としての性能は九〇式五糎七戦車砲と同一である[20]。発射速度は標準10発毎分であるが熟練した戦車兵は15発を発砲した。
砲塔内は2名で、砲塔左側に砲手兼装填手が、砲塔右側に車長が位置した。
本砲の砲本体重量は107kg、砲架は47kgである。九〇式榴弾の弾薬筒重量は2.91kg、九二式徹甲弾で3.13kg、1942年中頃以降に登場した新型の一式撤甲弾で3.25kgであった。砲架に付属されている肩付け用の器具で砲手に担がれる形で指向照準され、俯角・仰角操作、防盾旋回範囲での左右への指向は人力による。砲塔はハンドル操作のギアによって旋回する。この方式は日本では九〇式五糎七戦車砲から採用され、以後各種戦車砲に採用された。
肩付け式の砲の長所は目標への追従性が高く、行進射(動きながらの射撃)が可能な点であった。帝国陸軍の戦車兵(機甲兵)は低速の行進射、機動・停止・機動の合間に行う躍進射を徹底して訓練し、動目標に対しても非常に高い命中率を発揮した。熟練度の一例をあげるならば、八九式中戦車の搭載した九〇式五十七粍戦車砲の半数必中界は、距離500m、行進射、中程度の技量という条件下で、上下155cm、左右83cmであった。日本軍戦車隊が交戦距離と想定していたのは500m程度の近距離であるにせよ、スタビライザーと火器管制のない戦車で行進射を行い得たのは戦車兵の熟練度を示すものである。 砲本体、弾薬などを一人で操作できうる程度の軽量の兵装にすることで、砲手が照準操作しつつ片手で砲弾を装填することが可能となり、砲手一人でも速射が可能な点も肩付け式の利点である。なお、M3軽戦車の戦車砲も肩付け式の砲であった。
本砲の榴弾威力は、九〇式榴弾の場合で弾頭炸薬量250g、九二式徹甲弾でも弾頭炸薬量103gと多く、徹甲弾であっても榴弾威力を重視した設計となっていた。これらは同時期採用された九一式手榴弾(炸薬量65g)の2倍弱~4倍強程度の炸薬量であった。
装甲貫徹能力は九〇式五糎七戦車砲と同程度であり、射距離300mで26mm、500mで23mm、1000mで20mm程度である[21]。対戦車戦闘は想定していない砲であり、あくまでも軟目標やトーチカ銃座破壊のための砲であった。1942年4月、ビルマのラングーンにて鹵獲M3軽戦車に対する射撃試験を実施したところ、側面でさえ距離200mから100mでも貫通はできず、3両から5両が集中射撃を加えたところようやく装甲板が裂けた、という程度の威力しかもっていなかった。
47mm砲搭載型 [編集]
新砲塔チハには一式四十七粍戦車砲が搭載された。この砲も肩付け式を踏襲しているが、重量増により俯仰にはハンドルを用いた。
砲塔内は2名で、砲塔左側に砲手が、砲塔右側に車長兼装填手が位置した。
装甲貫徹能力の数値は射撃対象の装甲板や実施した年代など試験条件により異なるが、一式四十七粍戦車砲とほぼ同威力の一式機動四十七粍砲では、一式徹甲弾(徹甲榴弾相当)を使用した場合は、弾着角90度で以下の装甲板を貫徹出来た。
- 1,500mで45mm(第一種防弾鋼板)/20mm(第二種防弾鋼板)
- 1,000mで50mm(第一種防弾鋼板)/30mm(第二種防弾鋼板)
- 500mで65mm(第一種防弾鋼板)/40mm(第二種防弾鋼板)
- 200mで65mm(第一種防弾鋼板)/50mm(第二種防弾鋼板)
試製徹甲弾であるタングステン鋼蚤形弾(後に少数生産された「特甲」弾の基になったと思われる試製徹甲弾)を使用した場合、弾着角90度で以下の装甲板を貫徹出来た[22]。
- 1,500mで45mm(第一種防弾鋼板)/25mm(第二種防弾鋼板)
- 1,000mで55mm(第一種防弾鋼板)/30mm(第二種防弾鋼板)
- 500mで70mm(第一種防弾鋼板)/45mm(第二種防弾鋼板)
- 200mで80mm(第一種防弾鋼板)/55mm(第二種防弾鋼板)
したがってM4中戦車の車体側面・後面(装甲厚約38mm)やM3軽戦車の正面装甲に正撃に近い形で当たれば射距離1000m以内ならば貫通出来た。アメリカ軍の情報報告書においては、一式四十七粍戦車砲によりM4A3の装甲を射距離500yd(約457.2m)以上から貫通することが可能(貫通可能な装甲箇所は記述されておらず不明)と記述され、実戦では一式四十七粍戦車砲による約30度の角度からの射撃(射距離150~200yd:約137.1~182.8m)によりM4中戦車の装甲は6発中5発が貫通(命中箇所不明)したとの報告の記述がある[17]。また同報告書には、最近の戦闘報告から47mm砲弾の品質が以前より改善されたことを示している、との記述がある。
また、1945年8月のアメリカ旧陸軍省の情報資料によれば鹵獲された一式四十七粍戦車砲の射撃試験において 射距離500yd(約457.2m)において3.25in(約82mm)の垂直装甲を貫通した事例が記載されている[23]。 貫通威力が近似すると思われる(弾薬筒が共用であり初速の差が約20m/s程度)一式機動四十七粍砲の装甲貫通値については以下のように記載されている。
| 射距離 | 垂直した装甲板に対する貫通値 | 垂直から30度傾斜した装甲板に対する貫通値 |
|---|---|---|
| 250yd(約228.6m) | 3.0in(約76mm) | 2.25in(約57mm) |
| 500yd(約457.2m) | 2.75in (約70mm) | 2.0in(約51mm) |
| 1,000yd(約914.4m) | 2.0in(約51mm) | 1.4in(約36mm) |
| 1,500yd(約1371.6m) | 1.6in(約41mm) | 1.2in(約30mm) |
陸上自衛隊幹部学校戦史教官室の所蔵資料である近衛第三師団の調整資料「現有対戦車兵器資材効力概見表」によると四七TA(47mm速射砲)の徹甲弾は、射距離500m/貫通鋼板厚75mmとなっており(射撃対象の防弾鋼板の種類や徹甲弾の弾種は記載されず不明)、M4中戦車の車体側面:射距離1500m、砲塔側面:射距離800m、車体前面:射距離400mで貫通、となっている[25]。
一式四十七粍砲用のW-Cr鋼(タングステンクローム鋼)製の徹甲弾は「特甲」と呼称され、大戦後半に少数製造された[26]。なお、ニッケルクローム鋼製の弾丸を「特乙」と呼んだが、こちらは実際に製造されたかどうか不明である[27]。なお一式徹甲弾より新型である四式徹甲弾は、終戦時に完成品が約5,000発、半途品が約30,000発存在していた。[28]。
本砲の射撃速度は毎分10発を射撃可能で、行進射の半数必中界は射程500mで上下92cm、左右75cmであった。
機動力 [編集]
エンジンは三菱ザウラー式SA一二二〇〇VD(チハ機とも呼ばれる)空冷ディーゼルが用いられた。これは、九五式軽戦車に搭載されたA六一二〇VDe(空冷直列6気筒)をV型12気筒化し、スイスのザウラー(Saurer)社[29]の技術を導入した物で、複渦流式DI(ダイレクト・インジェクション)、ボア X ストローク=120mm X 160mm、4ストローク、最大出力は170馬力/2,000回転(定格150馬力)、重量は1.2t、さらに変速機と操行装置の重量を加えると全部で2.5tにもなった。V型エンジンにしたことで高さは抑えられたが、大重量大容積の割に出力が低いエンジンであった[30]。また燃料噴射装置の出来が悪くトラブルが多発し、騒音や排煙もひどかった。一二二〇〇とは12気筒200馬力の意味である。
量産体制も整っていたとはいえず、三菱の他に日立製作所など複数メーカーに製造が分担された結果、制作されたエンジンは細部の仕様・部品が異なるという事態が生じた。異なる燃料噴射ポンプ(三菱製エンジンは三菱製かボッシュ製、日立製エンジンは日立製の燃料噴射ポンプを使用)が取り付けられていると互換性は無く、損傷戦車の使えるパーツをつなぎ合わせての再生が望めない。これらは補給、補充が不足がちな日本軍にとって大きな問題になった。また戦況により十分な試験研究がなされないまま制式化され、信頼性を十分に持たせることができなかった。
1941年7月に陸軍技術本部が調整した「試作兵器発注現況調書」によれば、試作兵器として九七式中戦車に統制エンジン(統制型一〇〇式発動機)を搭載する改修を行う記述がある。この改修車輌の希望完成年月は1941年8月となっている[31]。なお統制エンジンは九七式中戦車を流用した装甲工作車セリに既に搭載されていた。
1942年5月6日、戦車第7連隊に編入された新砲塔チハがフィリピン攻略戦に従軍、海岸から上陸を試みたが、海岸前面は45度以上の傾斜で容易に登坂ができなかった。砲爆撃の崩れを利用したものの前進は難航、工兵隊が障害物を爆破したが失敗した。鹵獲したM3軽戦車で登坂を試みたところ成功したため、M3の牽引によって新砲塔チハを引き上げるという事態になった。
戦車第1連隊、戦車第6連隊は緒戦のマレー作戦において長駆進撃を行い、1,100kmを58日で移動。また、1944年(昭和19年)後半に行われた大陸打通作戦では、戦車第3師団が1,400kmを30日で移動している。これは255両が参加、うち行動不能車両は約30%に達した。第1装軌車修理隊はこれらの戦車の回収と修理に活躍した。行動不能に陥った理由は、それ以前の作戦で酷使された車両を作戦に投入していること、部品の融通がきかないことなどがあげられる。しかし、機械的信頼性に関しては優れない点もあったものの、作戦を達成した事実は乗員、整備員の連携や技量の高さを示している。
無線 [編集]
戦車の組織運用に重要な装備として無線がある。当時の戦車では指揮官車しか装備していないことも多かったが、九七式中戦車は当初から無線装置を標準装備とした。57mm砲搭載型では砲塔の上面についている環状のものがアンテナであり(通称「鉢巻アンテナ」)、新砲塔チハでは位置が変更され車体から伸びる直立式アンテナとなった。 また指揮用に、主砲を37mm砲に換装したシキ車が存在する。
旧軍の車載無線機は大きく分けると九四式、九六式、三式無線機などがあるが1930年代中頃に採用された九四式無線機以降の無線機の音声通話に関しては、基本的に無線手は、首に咽喉送話器(咽頭マイク)をベルトで巻きつけるか送話器(マイク)を口に当てて送話を行ない、耳にあてた受話器(ヘッドセット)で受話を行なった。
戦後 [編集]
終戦時の時点で九七式中戦車は、日本本土の各部隊に短57mm砲搭載型が74輛前後、47mm砲搭載型が418輛前後、南方軍には31輛前後(搭載砲不明)が残存していたと思われる[32]。その他、関東軍・支那派遣軍における残存数は不明である。
終戦後には大陸において日本軍の装備の多くが共産党軍や国民政府軍に接収され、九七式中戦車も両軍で使用された。そして国共内戦でも使用され、共産党軍のものは国民党軍相手に戦果を挙げている(「功臣号」)。
日本国内では、砲塔や武装を撤去し障害物撤去用のドーザーを取り付けたブルドーザー(「更正戦車」)が相当数作られ全国で使用された。中でもその改造装甲車両が治安維持を名目に警察に配備され、東宝争議などに出動、東京都では1949年(昭和24年)の大雪の時にも出動している他、北海道では長く使用されていた。
その他、本車車体を利用して作られたクレーン車が昭和34~35年頃まで横浜港で使用されていた。
現存車輌 [編集]
日本国内に現存する九七式中戦車の実車は、戦後サイパン島より還送された戦車第9連隊所属の実車が靖国神社の遊就館[33]および、静岡県富士宮市の若獅子神社(陸軍少年戦車兵学校跡地)に展示されている。また、2005年に神奈川県三浦市の雨崎海岸の土中より車台部分の残骸が発見された[34]。
新砲塔チハの実車は、アメリカメリーランド州のアバディーン性能試験場陸軍兵器博物館に硫黄島の戦いでほぼ無傷で鹵獲された戦車第26連隊の1輌、中国・北京市の中国人民革命軍事博物館に国共内戦でも使用された保存状態良好の1輌(「功臣号」)、オーストラリアのRAAC戦車博物館の1両、ロシアのクビンカ軍事博物館の1両など比較的多くの車両がそれぞれ保存・展示されている。
アメリカのRopkey Armor Museumには、一式中戦車の砲塔(世界で唯一現存する物と思われる)を、九七式中戦車の車体に搭載した車両が展示されている。[35]。
他、占守島などいくつかの旧戦場において擱座・廃棄された状態の車輌が存在し、サイパン島には修復されていない数輌が展示されている。
派生型・発展型 [編集]
九七式中戦車は一貫して第二次大戦時の帝国陸軍主力中戦車であったため、極めて多数の派生型・発展型および後続型が存在する。これは後続の新規設計車両(四式中戦車 チト・五式中戦車 チリ)の開発と生産の遅れから本車を流用せざるを得なかった反面、車体設計自体に余裕があったことも一因である。
指揮戦車 シキ [編集]
九七式中戦車の前期型をベースに、非武装の砲塔に観測機器を積み込んだ指揮車輌。車体前面の九七式車載重機関銃に替えて、九四式三十七粍戦車砲を装備。車体上部の高さがベースとなったチハ車より低くなっている。
一式砲戦車 ホニI / 一式七糎半自走砲 ホニI [編集]
詳細は「一式砲戦車」を参照
九七式中戦車の車体をベースに、主砲に九〇式野砲(口径75mm)を搭載するオープントップの戦闘室に換装し、車体と戦闘室前面の装甲を強化した砲戦車 / 自走砲(対戦車自走砲)。
一式十糎自走砲 ホニII [編集]
詳細は「一式十糎自走砲」を参照
九七式中戦車の車体をベースに、主砲に九一式十糎榴弾砲(口径105mm)を搭載するオープントップの戦闘室に換装した自走砲。
二式砲戦車 ホイ [編集]
詳細は「二式砲戦車」を参照
一式中戦車の車体をベースに、主砲に九九式七糎半戦車砲(口径75mm)を搭載する新設計砲塔に換装した砲戦車。
三式砲戦車 ホニIII [編集]
詳細は「三式砲戦車」を参照
九七式中戦車の車体をベースに、主砲に三式七糎半戦車砲II型(口径75mm)を搭載する密閉戦闘室に換装した砲戦車。
四式十五糎自走砲 ホロ [編集]
詳細は「四式十五糎自走砲」を参照
九七式中戦車の車体をベースに、主砲に三八式十五糎榴弾砲(口径149.1mm)を搭載するオープントップの戦闘室に換装した自走砲。
試製五式十五糎自走砲 ホチ [編集]
詳細は「試製五式十五糎自走砲」を参照
九七式中戦車の車体をベースに、主砲に九六式十五糎榴弾砲(口径149.1mm)を搭載するオープントップの戦闘室に換装した自走砲。試作車。
試製対空戦車 タハ [編集]
詳細は「試製対空戦車 タハ」を参照
一式中戦車の車体をベースに、主砲に一式三十七粍高射機関砲(口径37mm)を搭載するオープントップの戦闘室に換装した対空戦車(対空自走砲。試作車。
短十二糎自走砲 [編集]
詳細は「短十二糎自走砲」を参照
九七式中戦車(新砲塔チハ)をベースに、主砲を短十二糎砲(口径120mm)に換装した自走砲。砲戦車ともされる。海軍の改造車輌。
短二十糎自走砲 [編集]
詳細は「短二十糎砲」を参照
九七式中戦車の車体に、短二十糎砲を搭載した自走砲。陸軍の計画車輌。完成車輌無し。
十二糎自走砲/長十二糎自走砲 [編集]
詳細は「海軍十二糎自走砲」を参照
九七式中戦車の車体に、十年式十二糎高角砲(口径120mm)を搭載した自走砲。海軍の改造車輌。試作車。
特三式内火艇 カチ [編集]
詳細は「特三式内火艇」を参照
一式中戦車の車体をベースとした水陸両用戦車。陸軍が開発に協力した海軍の改造車輌。
装甲工作車 セリ [編集]
詳細は「装甲工作車」を参照
九七式中戦車の車体をベースとした装甲回収車。試作車。
伐開機 ホK / 伐掃機 [編集]
詳細は「伐開機」を参照
九七式中戦車の車体をベースとした特種工兵車両。
超壕機 TG [編集]
詳細は「超壕機 TG」を参照
九七式中戦車の車体をベースとした特種工兵車両。試作車。
後継型 [編集]
一式中戦車 チヘ [編集]
詳細は「一式中戦車」を参照
九七式中戦車(新砲塔チハ)をベースに、車体の装甲の強化・溶接と平面ボルトの多用・高出力エンジンの換装等を行い、防御力と機動力を強化した後継中戦車。
三式中戦車 チヌ [編集]
詳細は「三式中戦車」を参照
一式中戦車の車体をベースに、主砲に三式七糎半戦車砲II型(口径75mm)を搭載する新設計砲塔に換装し、攻撃力をさらに強化した中戦車。
脚注 [編集]
- ^ 『機甲入門』p569
- ^ 原典:原乙未生、栄森伝治 共著『日本の戦車 下』出版共同社 1961年 28ページ。『日本陸軍の戦車』ストライクアンドタクティカルマガジン2010年11月号別冊 2010年10月13日第7巻第9号(通算48号) 株式会社カマド 36ページ、に部分収載。
- ^ 佐山二郎『日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他』272-273頁。
- ^ 「九七式5糎戦車砲仮制式制定の件」
- ^ 昭和11年6月27日の第14回陸軍軍需審議会委員会において、25mm厚装甲の対戦車砲に対しての防禦能力について問われた陸軍技術本部第一部長林少将(当時)は、37mm級対戦車砲に対し「200米の距離から射ったのは皆跳ね返します」と答弁している。但しその後に「200米以上の距離から軽装薬で射ったものは皆跳ね返します」とも答え直している。「陸軍軍需審議会に於いて審議の件」14頁。
- ^ 当時の各種資材は車両の全備重量12t程度を想定して整備されている、という趣旨の発言がなされている。「陸軍軍需審議会に於いて審議の件」参照。
- ^ 『機甲入門』p170。またp167には原乙未生陸軍中将の回想録として「(九七式中戦車の)砲塔中径を大きくし、将来威力が大きい砲に換装することができるよう設計した」とある。
- ^ なお、陸軍省は一貫して軽量戦車の開発を要望している。現在の各種資材が12tを上限としているから、という理由であった。「陸軍軍需審議会に於いて審議の件」参照。
- ^ 石田鎌蔵「『三式チヌ』誕生への道程」。「丸」2012年12月号掲載
- ^ このほか、在来の57mm砲搭載型と特に区別せずまとめて単に九七式中戦車と呼ばれていたともされる。
- ^ M3軽戦車に対しては、射距離が800mと1,000mの射撃試験でそれぞれ9発中6発と6発中3発貫通の成績を残した。
- ^ 原乙未生『機械化兵器開発史』P54
- ^ 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」p347によれば、この57mm砲は砲身長49口径、初速830m/sであった。
- ^ 『機甲入門』p551、p552。1941年7月に陸軍技術本部が調整した「試作兵器発注現況調書」によれば、試作兵器として、九七式式中戦車の砲塔改修及び「57mm砲中」を搭載する改修を行う記述がある。この改修車輌の希望完成年月は1941年7月となっている。
- ^ 戦争末期には、車体に爆薬を装着しM4中戦車に体当たりする特攻まで行われた(戦車特攻)。
- ^ 『日本陸軍の戦車』ストライクアンドタクティカルマガジン2010年11月号別冊 2010年10月13日第7巻第9号(通算48号) 156ページ、株式会社カマド
- ^ a b 「"The Most Effective Jap Tank" from Intelligence Bulletin, July 1945」 http://www.lonesentry.com/articles/jp_type97_tank/index.html
- ^ 徹甲弾など特殊な弾薬を除く。アメリカの.30-06弾など当時の7.7mm級小銃弾の威力は、M2重機関銃の12.7mm×99弾と比較した場合、ジュール換算で約20~30%前後の銃口威力しかない。
- ^ 「九七式5糎戦車砲仮制式制定の件」6頁
- ^ 「九〇式5糎戦車砲仮制式制定の件」。
爾後改善されたという報告も見当たらない。また1945年に編纂された「陸戦兵器要目表」では両者は完全に同一のものとして扱われており、各種砲弾の初速についても旧来のままとなっている。以上のように今のところ公開された一次資料中では初速420m/sという数字は発見できない。但し制式後に、抗堪性が向上した九七式戦車砲では使用できるが九〇式戦車砲では使用できない新型徹甲弾等の採用で(その弾を使用する限りにおいては)初速が向上した可能性はあり、新資料の公開が待たれる。 - ^ 佐山二郎「機甲入門」p529
- ^ 「試製一式機動四十七粍砲研究報告」アジア歴史資料センター A03032093000による
- ^ "Japanese Tank and AntiTank Warfare" http://usacac.army.mil/cac2/cgsc/carl/wwIIspec/number34.pdf
- ^ "Japanese Tank and AntiTank Warfare"の記載諸元より
- ^ 白井明雄 『日本陸軍「戦訓」の研究』 94頁、107頁
- ^ 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」169頁。
- ^ 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」169頁。ニッケルクローム鋼製の弾丸を特乙と呼称する旨は記載されているが、特甲が製造配備されたと述べられているのに対して、特乙について製造されたかどうかの言及はない。
- ^ 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」169頁。
- ^ スイスのトゥールガウ州アルボンに1982年まで存在した、トラック、バス、トラクター、軍用車輌などの車輌製造会社。なお、ドイツのザウエル(ザウアー、Sauer)社とは別会社。
- ^ これは現在の汎用ディーゼルエンジンでは重量500kg前後・4~6気筒・排気量6~8L程度のものに相当する出力である。九七式及び一式中戦車はいずれも12気筒・排気量21.6Lであった。
- ^ 『機甲入門』p551、p552
- ^ 『機甲入門』p114、p560、p561。本土の47mm砲搭載型が418輛前後という数字は一式中戦車の生産数を170輛とした場合であり、両車合計では588輛前後が残存していたと思われる。また砲戦車の生産遅延対策として短57mm砲搭載型が配備されていた事例も多く、短57mm砲搭載型に関しては74輛よりも残存数は多いと思われる。短57mm砲搭載型の車体を自走砲や砲戦車に転用された事例も多いと思われる。
- ^ この遊就館の車両が日本に還送されるまでの経緯については、下田四郎著『慟哭のキャタピラ』に詳しい。
- ^ その後発掘され、那須戦争博物館に移送された。
- ^ Ropkey Armor Museum公式サイトギャラリー http://www.ropkeyarmormuseum.com/gallery052005_1.htm
参考文献 [編集]
- 陸軍技術本部長 久村種樹「九七式5糎戦車砲仮制式制定の件(大日記甲輯昭和13年)」アジア歴史資料センター(JACAR)、Ref.C01001641400。
- 陸軍軍需審議会長 梅津美治郎「陸軍軍需審議会に於いて審議の件」アジア歴史資料センター、Ref.C01004239300。
- 館山海軍砲術学校研究部「陸戦兵器要目表(陸戦参考-第1号・陸戦兵器要目表)」アジア歴史資料センター、Ref.A03032103400。
- 島田豊作『サムライ戦車隊長 島田戦車隊奮戦す』(光人社、1984年)
マレー半島攻略戦に投入された九七式中戦車部隊指揮官の手記。 - 「戦車戦入門 <日本篇>」(木俣滋朗著 光人社NF文庫)
- 「激闘戦車戦」(土門周平/入江忠国著 光人社NF文庫)
- 樋口隆晴「機甲部隊の運用」『陸軍機甲部隊』歴史群像太平洋戦史シリーズ25、学習研究社、2000年
- 佐山二郎「日本陸軍の火砲(5)」『日本陸軍の戦車砲と自走砲』グランドパワー10月号、ガリレオ出版、2008年
- 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」 ISBN 978-4-7698-2697-2 光人社NF文庫、2011年
- 真出好一「日本軍中戦車(1)」『日本軍中戦車(1)』グランドパワー4月号、ガリレオ出版、2004年
- 真出好一「日本軍中戦車(2)」『日本軍中戦車(2)』グランドパワー5月号、ガリレオ出版、2004年
- 佐山二郎『機甲入門』光人社、2002年。
- 白井明雄 『日本陸軍「戦訓」の研究』 芙蓉書房出版 2003年
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- 九七式5糎戦車砲仮制式制定の件(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
- 陸戦兵器要目表(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
- Ropkey Armor Museum Ropkey Armor Museum公式サイト
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