メリノール宣教会

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メリノール宣教会: Maryknoll Fathers、略称: M.M.)は、1912年に創設されたカトリックアメリカの海外宣教会。

メリノールの名はニューヨーク郊外のマリアの丘 (Mary knoll) から。

日本では室蘭四谷などで活動をしている。カトリック京都司教区の設立に貢献し、一時司牧をまかされていた時期もある。西陣聖ヨゼフ教会などの京都市内北部の教会を設置した。テレビやラジオを通じて、心のともしび運動など独自の宣教活動を行っていたジェームズ・ハヤット神父も同会の司祭である。

20世紀前半には中国にも宣教を活発に行い、「大連カトリック教会」はおもに日本人により建てられ、現存している。

戦後は、京都教区を中心に活躍し、その後、京都教区司祭から新設の札幌教区司教に任命された富沢師の招きで、札幌でも働くようになり、現在に至る。2011年現在は苫小牧地区などで、4名の会員と1名の準会員が活躍している。

会の設立[編集]

1911年6月29日。創立者は、ボストン大司教区司祭で司教区の信仰弘布会の担当者として、アメリカのカトリック信徒に外国宣教に関する熱意を養うために「遥かなる畑」という雑誌を出版していたウォルシュ(James Anthony Walsh, 1867-1936)と、アメリカのカトリック信徒数のいちばん少ない南部で国内宣教に専念し、カトリックの教えを普及するために「真理」という雑誌を出版していた、ノース・カロライナ州のローリ教区司祭であるプライス(Thomas Frederick Price, 1860-1919)である。 同年4月にアメリカの司教団から承認を得、6月29日(聖ペトロと聖パウロの祭日)にローマピオ10世から許可を受けた。

ウォルシュとプライスがローマから帰国し、ニューヨーク市の郊外でハドソン川を見おろす丘を見つけ、Maryknoll=「マリアの丘」と名付け、そこに神学校を設立し、神学生とブラザーの志願者を募った。

初期の宣教[編集]

1918年に創立者のプライスと3人の若い宣教師フォード(Francis X. Ford, 1892-1952)、ウォルシュ(James E. Walsh, 1891-1981)、マイヤー(Bernard F. Meyer, 1891-1975)は中国の南部へ派遣された。翌年プライスは香港で逝去。

フォードは1935年広東省嘉応の司教となり、1952年に中国の牢で殉教した。J.E.ウォルシュは1927年江門の司教となり、創立者J.A.ウォルシュが死んだ1936年から10年間総長として務め、その後中国に戻ったが、成立した共産主義政権下で牢に入れられ、12年後の1970年に解放された。マイヤーは永く中国で働き、その後カテケシスの研究者として南米の教会教理を著した。1923年に会は朝鮮平壌へ(パトリック・バーンが責任者)、1925年、満州へ(後で3代目の総長となる(レーン<Raymond A. Lane, 1894-1974>が責任者)それぞれグループを派遣した。

日本での宣教[編集]

1917年(大正6)10月 日本にはアジア視察旅行中のJ.A.ウォルシュが立ち寄り、その後も朝鮮、満州、シアトルロサンゼルスの日本人ミッションで働くために日本語を勉強した会員が数名渡来したが、会としての正式な来日は、1933年(昭和8)8月31日、ホイットロー(W.V.Whitlow)、ブリッグズ(E.F.Briggs)、ウォルシュ(J.J.Walsh)が、準備のために満州から派遣されたフェルセッカー(Harry J. Felsecker, 1905-)に迎えられ横浜に到着した日を始まりとする。

1935年(昭和10)8月、滋賀県で宣教開始。

1937年(昭和12)6月、大阪教区の一部であった京都・奈良・三重・滋賀の1府3県が京都知牧区として同会に委託、平壌知牧となっていたバーンが初代知牧に就任。

1941年(昭和16)、同神父が辞任、古屋義之司教が2代目京都知牧に就任。

戦時中

太平洋戦争の勃発で、会員は14人米国へ戻ったが、バーンは京都の高野教会に軟禁状態のまま残留。その中の数人は戦時中米国で強制収容された日系人のために働いた。また、戦争のためにアジア諸国の宣教地から排除された会員が多数いたが、会はその宣教師たちを含めて初めて中南米に派遣することに決めた。バーンは1945年8月下旬、終戦直後の日本国民の動揺を沈めるため、報道陣の依頼で米軍向け放送と日本人向け放送に活躍、その後も両者の和解調停に尽力した。

戦後

終戦と共に会員は再び来日したが、バーンは、1947年韓国への教皇庁視察官にに任命され渡韓、1949年、独立まもない韓国の初代教皇使節に任命された。1950年朝鮮戦争で捕虜となり、"死の行進"で新義州の近くで病死した。第2次世界大戦のため会の事業は大打撃を受けたが、終戦後はスタインバック(Leo J. Steinbach, 1905-)が福祉事業を行ない、また1947年、マキロップ(Michael J. McKillop, 1910-)が東京でアジア救済連盟(略称ララ)のカトリック代表者の一人として活躍、1948年には日本管区長となって京都に戻り、フェルセッカーがララのカトリック代表者となった。同年カシュミッター(William.A. Kaschmitter, 1899-1986)が東星ニューズ発刊、翌年からMissionary Bulletin(のちのJapan Missionary Bulletin)発行、1950-1955年編集長を務めた。

1946年、ティベサー(Leopold H. Tibesar, 1898-1970)が来日し、新設銀座教会に勤務、1948年、カリタス・ジャパンの会長に挙げられ、1949年、日本カトリック教区連盟(現・カトリック中央協議会)事務局長に任ぜられ、資金集めに尽力、1950年、フェルセッカーが日本管区長となり東京に本部設置した。

1951年、六番町の建物を建設。

1952年、ハヤット(James Hyatt)が良き牧者運動(YBU)開始。1954年4月、札幌教区の苫小牧地区受託。

1975年大分教区に、1978年名古屋教区小教区教会)の運営を受託開始。

小教区において

1970年代に信徒養成や小教区の活性化に力を入れ、各小教区が自立できる共同体になるという方針を採択、各小教区が「自身で」小教区共同体の方向性を決め、「自身で」小教区共同体生活の維持ができ、「自身で」福音の発展を計るという「3自」の基準を示した。

1973年、宣教司牧や信徒養成を推進するために京都教区教理センター設立。司祭が不在の場合、信徒が自身で典礼を行なうように、1975年から「集会の祭儀」導入。1980年、信徒に同じアジアの兄弟との連帯感や国際視野を育成するために、フィリピンでの体験学習プログラム開始。

霊性において

80年代に会員は、信徒の霊性の深化を計り、個人霊的指導者のグループを養成、また、東京の「心のいおり」(黙想の家)でサダナの祈りと東方教会の霊性やその祈りを日本に紹介。

教育活動[編集]

小教区活動と共に、教育分野で、会員が大学、高校、幼稚園で教え、1957年ムレット(John Murrett, 1892-1971) はビラ・マリア学生寮を設立。1965年、竜安寺学生寮。衣笠学生寮も設立された。

福祉活動[編集]

京都教区において、種々の社会福祉施設を開設: 1959年に在日韓国人・朝鮮人、被差別部落からの人が集まっている地域に、福祉事業の場としての「希望の家」設立。1967年、三重県に精神薄弱児収容施設「聖母の家」、1974年、京都府に特別養護老人ホーム「神の園」、1978年、四日市に仕事の出来る知恵遅れの青少年のための「ときわハウス」設立。

アルコール・薬物回復プログラム 1975年、ミニー(John Meaney)がアルコール依存症者回復のため日本語のAA(アルコール依存者匿名会)の「12のステップ・プログラム」を導入、大宮でハーフウエイ・ハウス設立。1978年、アルコール治療機関「MACセンター」、1983年、女性専用の「スズラン・マック」設立。1986年、ロイ(Roy Assenheimer)が薬物専門施設「ダルク・リハビリテーション・センター」設立。1992年現在、全国でマック、ダルク施設の数は14箇所。[山谷]1984年、山谷の家のない貧しい人々を支援する山友会結成、クリニック、相談室、医療や食事の配布、老人憩いの場を提供。

広報活動[編集]

社会における正義と平和を求める活動が福音宣教の不可欠な一部だという信念から、会員の一人が専門的に問題を研究、各小教区にその情報を伝え参加を呼びかける。

また、一人が専門職としてジャーナリストになり、マスコミ、ジャーナリストの分野で活躍。会は宣教師を派遣するだけではなく、宣教地での体験やその状況を本国のアメリカへ伝えるという会の方針に従って、機関誌や帰国中の宣教師の体験談などを通じてその情報を伝え、宣教地への理解を求める。

多様性[編集]

同会は、1966年、会以外の司祭が一定の期間で宣教活動に加わる制度に続き、1972年、信徒宣教者を受け入れる制度を導入、また1975年、会以外のブラザーもその制度に参加。

外部リンク[編集]

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