高橋悦史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Cewbot (会話 | 投稿記録) による 2022年10月19日 (水) 20:37個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Bot作業依頼: 記事から「Category:日本の悪役俳優」を除去 - log)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

たかはし えつし
高橋 悦史
本名 高橋 悦史
生年月日 (1935-08-02) 1935年8月2日
没年月日 (1996-05-19) 1996年5月19日(60歳没)
出生地 日本の旗 日本大阪府岸和田市
死没地 日本の旗 日本栃木県宇都宮市
職業 俳優
ジャンル 舞台テレビドラマ映画ナレーター
活動期間 1960年 - 1996年
活動内容 1960年:NHK俳優養成所を卒業
1963年文学座研究所に入所
1964年:同所研究生になると同時にNET徳川家康』でテレビデビュー
1966年:『私、違っているかしら』で映画デビュー
1967年:文学座座員昇格
同年:『日本のいちばん長い日
1976年:『不毛地帯
1977年 - 1978年:『日本の首領』3部作
1983年:『小説吉田学校
1989年:『鬼平犯科帳
1995年:『きけ、わだつみの声 Last Friends
配偶者 (旧姓)山田 光代(元宝塚スター・鈴鹿真弓。1964年 - 1996年)
主な作品
映画
日本のいちばん長い日
戦争と人間』シリーズ
不毛地帯
日本の首領
小説吉田学校
テレビドラマ
新書太閤記
鳩子の海
必殺仕舞人
必殺仕切人
おしん
鬼平犯科帳
舞台
『牡丹灯篭』
飢餓海峡
『花の館』
『横浜物語』
『華々しき一族』
 
受賞
エランドール賞新人賞
1968年度)
第25回芸術祭賞優秀賞
『花の館』(1970年
テンプレートを表示

高橋 悦史(たかはし えつし、1935年8月2日 - 1996年5月19日)は、日本俳優

来歴・人物

宮大工の息子として大阪府岸和田市宮本町に生まれ[1]大阪府立岸和田高等学校から、1954年立教大学文学部英米文学科に入学(野際陽子は同学科の同期であり、大沢啓二は同校の3年先輩。長嶋茂雄杉浦忠も立教大の同期)。在学中から演劇に関わり、演出も手がける。1958年大学卒業後、TBSラジオ劇団養成所を経て、NHK俳優養成所に入り1960年卒業。NHKでは舞台や脇役俳優や声の吹き替え(飯沢匡脚本『ブーフーウー』の狼役等)の仕事に従事する。

1964年、本格的に新劇俳優を目指し、文学座付属演劇研究所に入り、卒業後、文学座研究生となる。1964年NET徳川家康』にテレビ初出演。1965年には、吉永小百合主演の日活映画、『私、違っているかしら』に出演し、映画デビューを果たす。

1967年岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』の青年将校役に抜擢ばってきされ、注目を浴びる。以後、岡本作品に立て続けに出演し、性格俳優として欠くべからざる存在となる。

舞台でも『花の館』で1970年芸術祭優秀賞[2]を受賞するなど活躍。

テレビドラマでは『鳩子の海』『おしん』『鬼平犯科帳』などに出演した。

1994年3月、が見つかり夏に入院、翌年には病名を公表し、闘病生活を続けつつ撮影にも臨み、闘病手記と写真も公表した。いったん退院したが、1996年4月に再発し、5月19日に栃木県宇都宮市の栃木県立がんセンターで膵臓癌のため死去した。60歳没。

著書・回想

  • 『生と死の隣合わせに』 近代映画社、1996年4月 - 再発直前に刊行。
  • 『ゆびきりげんまん ガンで逝った夫と妻の“恩愛の記”』 主婦と生活社、1996年7月 - 闘病日記と書簡、光代夫人の追悼記。

出演

※「 - 」は役名

映画

テレビドラマ

その他のテレビ番組

ラジオドラマ

CM

舞台

  • 花の館(1970年) - 足利義政
  • 沢氏の二人娘
  • おりき

脚注

  1. ^ 2011.09.23 高橋悦史の「私の歴史館」
  2. ^ 昭和45年度(第25回)芸術祭賞一覧” (PDF). 文化庁. 2018年8月6日閲覧。
  3. ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 537, 「主要特撮作品配役リスト」

参考文献

  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 

外部リンク