由井正雪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

由井 正雪(ゆい しょうせつ/まさゆき、慶長10年(1605年) - 慶安4年7月26日1651年9月10日))は、江戸時代前期の日本軍学者慶安の変(由井正雪の乱)の首謀者である。名字油井遊井湯井由比油比と表記される場合もある。

生涯[編集]

慶長10年(1605年)、駿河国由比(現在の静岡県静岡市清水区由比)において紺屋の子として生まれた。なお、『姓氏』(丹羽基二著、樋口清之監修)には、坂東平氏三浦氏庶家とある。出身地については駿府宮ケ崎町との説もある。

17歳で江戸の親類のもとに奉公へ出た。楠木正成の子孫を称する楠木正虎の子である軍学者の楠木正辰(楠木不伝)の弟子となり、才をみこまれてその娘と結婚し婿養子となった。

「楠木正雪」あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏越智姓)から「由井民部之助橘正雪」(ゆいかきべのすけたちばなのしょうせつ/まさゆき)と名のり、神田連雀町の長屋において楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」を開いた。塾名は、中国の名軍師である張良諸葛亮孔明に由来している。道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱え、その中には諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた。

慶安の変[編集]

慶安4年(1651年)、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥金井半兵衛熊谷直義など浪人を集めて幕府転覆を計画した。決起の寸前になり計画の存在を密告され、正雪は駿府の宿において町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院に存在する。

大名取り潰しによる浪人の増加が社会不安に結びついていることが事件の背景にあるとして、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換するきっかけの一つとなった。

関連施設[編集]

  • 静岡市清水区(旧・庵原郡由比町)に正雪の生家とされる染物屋がある。※正雪紺屋と呼ばれている。

登場作品[編集]