門田博光
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 山口県小野田市(現・山陽小野田市) |
生年月日 | 1948年2月26日(76歳) |
身長 体重 |
170 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1969年 ドラフト2位 |
初出場 | 1970年4月12日 |
最終出場 | 1992年10月1日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督歴 | |
| |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 2006年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
|
門田 博光(かどた ひろみつ、1948年2月26日 - )は、山口県小野田市(現:山陽小野田市)生まれ、奈良県五條市育ちの元プロ野球選手(外野手)。
現役時代は南海・ダイエー、オリックスで主に指名打者として活躍した。40歳を超えても活躍した数少ない選手であり、「不惑の大砲」の異名を持つ。
来歴・人物
現役時代
天理高校から社会人野球チームクラレ岡山を経て、1968年のドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けるがこれを拒否。翌1969年のドラフトで南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り。
1年目から俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現し、2年目の1971年にレギュラー定着。打率3割、31本塁打、120打点を記録して打点王。同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。この頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王に協力を頼んで「ヒットの延長がホームランなんだ」と2人で説得を図ったほどだった[1]。しかし頑固で鳴る門田はこれを一切受け入れず、あくまで長打にこだわった打撃を押し通した。「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。
1979年2月のキャンプで右足のアキレス腱を断裂しほぼ1シーズンを棒に振るが、同年9月には代打で登場した。翌1980年に復活。以降、「ホームランなら足に負担がかからない。全打席ホームランを狙う」と長打狙いのバッティングに徹し、同年41本塁打を放つと、翌1981年には44本塁打で初の本塁打王に輝く。
怪我からの復帰後は脚力が大きく衰え、しばしば「ライトゴロ」を記録するほどで、DHとして出場することがほとんどになった。新人時代に強肩ぶりを誇った肩も著しく衰えた。南海時代末期には加藤英司がDHに入ったり、オリックス時代には石嶺和彦がDHに入ったために門田が守備に就くこともあった。だが、88年の球宴では指名打者部門が設置されておらず秋山幸二・平野謙と共にパリーグ外野手部門でファン投票選出され、ナゴヤ球場での第2戦に3番右翼手で先発出場。門田より22歳下のセリーグ先発2番であった立浪和義が門田より17歳下のパリーグ先発投手阿波野秀幸から打った打球を捕球、ライトフライに仕留めている。
しかし打撃は衰えを見せず、1983年も40本塁打で本塁打王。1987年8月26日の西武ライオンズ戦では史上24人目となる2000本安打を達成。1988年は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王、さらにMVPに輝く。40歳で44本塁打は日本初の快挙。この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。その後、42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。この記録は、2010年42歳を迎える楽天の山崎武司が更新している。
引退時に本塁打を奪った投手の数が184人は王貞治の183人を抑え、2003年に清原和博に抜かれるまで1位だった。現在もパ・リーグ記録や同一リーグでの日本プロ野球記録である。
1989年に南海はダイエー本社に買収され福岡に移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強・原田賢治・白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックスに移籍。移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。
1991年、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と、古巣への愛着から福岡に移転していた古巣のホークスに復帰。二桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せず、翌年の1992年夏、記者に「オレは老衰」と漏らし、現役引退。引退試合は平和台球場でのプロ野球最終公式戦、3番DHで先発し1回裏近鉄の野茂英雄投手との対戦で、すべて速球をフルスイングで空振りし3球三振だった(広永益隆のソロホームランで挙げた最少得点を若田部健一・吉永幸一郎のバッテリーが守り抜き完封)。
無理にパワーをつけようとして過度の食事を摂ったことで、現役時代から体調不良に悩まされた。ある日、自宅で休養していたところ、突然脈拍が乱れ、体温が急速に下がっていくのを感じた。這いつくばりながら門田は外に出て、太陽を浴びると何とか持ち直した。「あの時晴れていなければ、自分は死んでいただろう」と門田は述懐している。2005年に小脳梗塞を発症し30日間入院したが、幸い後遺症が出ることもなく退院した。
引退後
2005年まで朝日放送(ABC)の野球解説者を務めた。2006年、野球殿堂入り。7月21日に神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた野球殿堂入り表彰式に、病気療養中ながら姿を見せている。
2009年に大阪ホークスドリームを設立し、総監督となる。2011年6月、田中実監督が解任されたため、新監督に就任。同年9月、契約満了に伴い退任。
エピソード
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
野村克也との関係
南海時代、野村克也とソリが合わなかったと言われる。
- 野村の南海監督解任に至るチーム内の不協和音には「自分の中に入ってきてもらっては困る」と明言して一切気にしなかったが、野村が「二塁の桜井(輝秀)とライトの門田のふたりは10年間不動のままでいける」と言っていてくれたことが助かったと自著に記している[2]。
- 後日、野村は「江本、江夏、門田の3人を三悪(または映画「隠し砦の三悪人」を模して南海の三悪人)と呼んでいる。指導者には絶対向かん」と自著で述べている。しかし内心では野村は門田の実力を大いに認め(最初に門田を見い出したのも野村である)、門田も従うべきところでは従っていたと言われている(出典:20世紀プロ野球事件簿、ベル・スズカワ、2001年他)。野村が解説者時代に「週刊朝日」に連載した「野村克也の目」(後に単行本化)にも門田を取り上げて諭すように記した回がある。
選手として
その頃のプロ野球の主力選手には珍しく大きな数字の背番号をつけており、しかも次第に大きくなっていった。1980年から使用した44番はメジャーリーグの強打者に多いことや、44歳で亡くなった母親の供養の意味で44本の本塁打を目標とする意図からつけられた。1981年に実際に44本塁打を放って本塁打王を獲得すると、次は60本に目標を切り替えて背番号を60とした。
当時の南海には門田の手本になるような左打者がおらず、そのことで悩んでいたが、ある日凡退したあとベンチの隅にある鏡の前の水道で手を洗ってふと鏡を見ると、次打者の野村克也が反転して左打者として映っていた。それ以来、門田は手を洗う格好をして「鏡の中の左打者」野村の打撃フォームを熱心に観察・研究した[3]。
本塁打王と打点王を獲得した1988年に、日本テレビ系列で放映された「追跡」の特集では、インタビュアーであった作家の安部譲二に今年ホームラン王を獲得できたことに関して、「ここ7・8年、どこの球場でも場外を打つことがホームランという気力でやれたこと」と語っていた。
オリックス移籍1年目の1989年9月25日のダイエー戦。3回裏に本塁打を打ち、ホームで出迎えたブーマーからのハイタッチに応じた際、右腕を脱臼。この時、登録抹消までには至らなかったが、シーズン終盤での貴重な約1週間を棒に振るアクシデントに見舞われる。(ちなみに入団直後のある試合で走者として一塁に帰塁した際に脱臼して以来、持病として脱臼癖を持っていたのだが、この日のスポーツニッポンの取材に対し、「何度もやっているから自分でどうすればいいか分かっている。」としながらも落ち込んでいた。また、ハイタッチの当事者ながら悪気はなかったブーマーもひどく落ち込んでいた。)この年は近鉄・西武とオリックスが最後まで競り合った末、近鉄が優勝したが、この終盤戦での門田の離脱はオリックスにとってダメージとなった。
1990年の西武戦で打席に立った際、投球を捕手の大宮龍男が落球し、1塁ランナーが進塁を試みるという場面があった。ここで門田は、自らの足元にボールが転がっているのを確認していたにも関わらず、まだ必死でボールを探している大宮に向かって、全く別の方向を指差して撹乱するという珍プレーを披露している。大宮は一瞬だがまんまと騙され、結局ランナーの進塁を許してしまい、門田を小突いている。
オリックス移籍で感じたこととして、「強いチームというのは勝つときも負けるときも淡白でさらっとしている」とのこと。南海が低迷した一因として、いつでも全力で闘うため、手の抜きどころを知らず、シーズンの前半戦は善戦するも後半戦は息切れしていたことを挙げている。これを「マラソンの25km地点で息切れするようなもの」と表現している。
来歴・人物欄にあるアキレス腱断裂の際、チームに担架が用意されておらず、門田は戸板に乗せられて搬送された。南海の貧乏ぶりを示す逸話である。
健康管理
南海・オリックス時代、当時住んでいた奈良市の学園前から球場まで電車で通勤していた。理由は右足のアキレス腱断裂後の足のトレーニングを兼ねていたためである。マイカーも持っていたが、運転で集中力を切らさないためにあえて避けていた。
グレープフルーツと共にゆで卵を摂取するデンマーク式ダイエットをオリックス時代に用いた時期があった。その一方で好物は炭酸飲料という一面もある。
人物像
野球用語の使い方に強いこだわりを持つ。打点は「RBI」、犠打は「サクリファイスバント」等々、原語の野球用語を使うことを心がけていた。しかし、ドーム球場に対して屋根の付いていない球場のことを「ナチュラル球場」、「パ・リーグ」を「パアリーグ」と呼ぶなど、長嶋英語に匹敵する単語も解説の際しばしば飛び出した(ちなみに門田は長嶋のファンでもある)。
現役時代はマスコミとの接触をあまり好まなかった。特に、普段は見向きもしないのに記録がかかると大挙して押し寄せて来る東京のマスコミを嫌っていた。またマスコミのみならず、シャイで口下手な性格ゆえに「私は滅多に人を好きになれないようで、今日まで5人くらいしか気の許せる人はいない」ということである。上記の「追跡」のインタビューでは、話す相手に性格が仇となって誤解を招かないかと心配していた事もあったという。
オリックス時代に平和台球場での試合で、福岡のファンからオリックスに移籍し福岡に来なかったことに対して、博多弁で「なんばしょっか」と野次られたが、本人は「難波のショッカー」に聞こえ、また「帰れ!」コールには「ホークスに帰ってこい」の意味と思い込み、福岡のファンは自分を応援してくれているのだと感動したという。
工藤公康が回想するところによると、最初の西武ライオンズ在籍時に門田に死球を与えてしまった際、その後の攻守交代時に門田が「黒田(正宏。かつて南海でチームメイトだった)、出てこい!」と西武ベンチに怒鳴り込んできたことがあったという[4]。
趣味は陶芸、油絵、写経など。引退後は広島市のお好み村に、広島風お好み焼き店を出していたことがある。
現役引退後の1993年1月26日放送のテレビドラマ「ホテルドクター」(ABC制作、テレビ朝日系)の第3話にラーメン屋台の主人役でゲスト出演した。また、ABCのラジオ番組を持っていた時に、「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造の物真似を披露し、コーナーのタイトルを読み上げていた。持ちネタとして他に、山下清の物真似も披露していた。
2006年7月21日で行われた神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた野球殿堂入り表彰式のお礼の挨拶で「最高のものを頂きました。人生の“終着駅”に着いたかなという感じです」と発言し、終了後にその場にいた名球会の会長である金田正一から「二度とそんなことは言うな!」と叱責され、「これからも後進のために頑張ると約束してくれ」と言われたという。
2007年8月24日、8月31日の「小兵」をテーマとした『ナンだ!?』に、舞の海秀平(相撲)、志村雄彦(バスケットボール)と共に出演。「高校時代の3年間で1本も本塁打を打てなかった」などのエピソードを明かした。
家族
夫人との間に一男一女をもうける。アキレス腱断裂で病院から自宅に戻ったあと、長男(当時小学1年)から職業を聞かれたことがきっかけで、「今度オールスターゲームに出たら、球場に来るか」と口にする。復帰した1980年に門田はそれを子どもとの約束と考えてプレーに励み、パ・リーグの西本幸雄監督の推薦で出場を実現させた。西宮球場の第1戦に家族を招き、その前で本塁打を放つことができた[5]。
ホークスの福岡移転で門田が関西の他球団への移籍を申し出たことについて、門田を知る球団・球界関係者の多くは「子煩悩なカドさんなら仕方ないか」と納得していたようである(当時中学生の娘のためだったと思われる)。その後、娘の高校進学などでダイエーに移籍した。
上記の「追跡」の特集では夫人と娘へのインタビューも紹介された。それによると、
- 家庭での門田について - 娘:普段は「面白いお父さん」、夫人:シーズンオフの家ではとてもリラックスして過ごしているが、シーズンが始まると無口になり、とても近づきづらい。
- 娘は当時、西武に在籍していた工藤公康のファンで、工藤に会いに門田に内緒で大阪球場に行った。夫人によると、その後娘から工藤のファンと聞かされた門田は、ある日の試合で家を出る際、「今日は、工藤やから打つぞ!」や「むちゃくちゃ打ったる!」と言って球場に向かったという[6]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970 | 南海 | 79 | 246 | 232 | 27 | 58 | 12 | 1 | 8 | 96 | 31 | 2 | 1 | 0 | 2 | 9 | 0 | 3 | 39 | 2 | .250 | .285 | .414 | .698 |
1971 | 129 | 558 | 506 | 70 | 152 | 24 | 1 | 31 | 271 | 120 | 5 | 3 | 1 | 6 | 38 | 2 | 7 | 58 | 8 | .300 | .354 | .536 | .889 | |
1972 | 125 | 529 | 475 | 73 | 147 | 24 | 2 | 14 | 217 | 58 | 4 | 3 | 1 | 5 | 45 | 1 | 3 | 37 | 9 | .309 | .369 | .457 | .826 | |
1973 | 127 | 530 | 484 | 66 | 150 | 26 | 1 | 18 | 232 | 65 | 3 | 5 | 0 | 2 | 40 | 1 | 4 | 43 | 10 | .310 | .366 | .479 | .845 | |
1974 | 124 | 487 | 432 | 62 | 116 | 23 | 4 | 27 | 228 | 76 | 1 | 2 | 0 | 7 | 47 | 6 | 1 | 59 | 10 | .269 | .337 | .528 | .865 | |
1975 | 129 | 550 | 485 | 72 | 136 | 29 | 2 | 19 | 226 | 85 | 6 | 1 | 1 | 5 | 55 | 5 | 4 | 49 | 8 | .280 | .355 | .466 | .821 | |
1976 | 125 | 522 | 456 | 64 | 137 | 25 | 4 | 22 | 236 | 77 | 2 | 1 | 0 | 10 | 54 | 7 | 2 | 51 | 8 | .300 | .370 | .518 | .887 | |
1977 | 128 | 543 | 479 | 71 | 150 | 22 | 0 | 25 | 247 | 91 | 5 | 5 | 0 | 8 | 52 | 5 | 4 | 72 | 3 | .313 | .379 | .516 | .895 | |
1978 | 106 | 406 | 360 | 37 | 90 | 13 | 0 | 15 | 148 | 44 | 3 | 2 | 1 | 4 | 37 | 3 | 4 | 59 | 4 | .250 | .323 | .411 | .735 | |
1979 | 19 | 63 | 54 | 5 | 15 | 2 | 0 | 2 | 23 | 17 | 0 | 0 | 0 | 1 | 8 | 0 | 0 | 15 | 0 | .278 | .365 | .426 | .791 | |
1980 | 111 | 430 | 377 | 60 | 110 | 10 | 0 | 41 | 243 | 84 | 0 | 0 | 0 | 2 | 48 | 9 | 3 | 72 | 7 | .292 | .374 | .645 | 1.019 | |
1981 | 127 | 537 | 438 | 83 | 137 | 18 | 0 | 44 | 287 | 105 | 4 | 1 | 1 | 4 | 92 | 8 | 2 | 70 | 10 | .313 | .431 | .655 | 1.086 | |
1982 | 107 | 392 | 333 | 42 | 91 | 17 | 0 | 19 | 165 | 45 | 6 | 1 | 0 | 4 | 52 | 11 | 3 | 63 | 6 | .273 | .372 | .495 | .868 | |
1983 | 122 | 487 | 396 | 68 | 116 | 14 | 1 | 40 | 252 | 96 | 1 | 1 | 0 | 2 | 85 | 20 | 4 | 86 | 6 | .293 | .421 | .636 | 1.057 | |
1984 | 108 | 444 | 362 | 60 | 103 | 11 | 0 | 30 | 204 | 78 | 3 | 1 | 0 | 5 | 75 | 20 | 2 | 75 | 1 | .285 | .405 | .564 | .969 | |
1985 | 114 | 466 | 383 | 63 | 104 | 12 | 2 | 23 | 189 | 62 | 0 | 0 | 0 | 4 | 78 | 8 | 1 | 88 | 9 | .272 | .393 | .493 | .886 | |
1986 | 123 | 479 | 416 | 51 | 109 | 14 | 0 | 25 | 198 | 77 | 2 | 3 | 1 | 0 | 57 | 12 | 5 | 101 | 7 | .262 | .358 | .476 | .834 | |
1987 | 126 | 458 | 379 | 63 | 120 | 16 | 0 | 31 | 229 | 69 | 1 | 1 | 0 | 3 | 74 | 24 | 2 | 66 | 5 | .317 | .428 | .604 | 1.032 | |
1988 | 130 | 557 | 447 | 82 | 139 | 12 | 0 | 44 | 283 | 125 | 2 | 1 | 0 | 10 | 98 | 20 | 2 | 82 | 13 | .311 | .429 | .633 | 1.062 | |
1989 | オリックス | 116 | 489 | 406 | 70 | 124 | 17 | 1 | 33 | 242 | 93 | 0 | 2 | 0 | 3 | 78 | 3 | 2 | 103 | 12 | .305 | .417 | .596 | 1.013 |
1990 | 119 | 527 | 446 | 77 | 125 | 21 | 0 | 31 | 239 | 91 | 0 | 1 | 0 | 2 | 78 | 7 | 1 | 118 | 11 | .280 | .387 | .536 | .923 | |
1991 | ダイエー | 112 | 425 | 367 | 38 | 97 | 15 | 0 | 18 | 166 | 66 | 1 | 0 | 0 | 3 | 54 | 7 | 1 | 77 | 10 | .264 | .358 | .452 | .810 |
1992 | 65 | 179 | 155 | 15 | 40 | 6 | 0 | 7 | 67 | 23 | 0 | 0 | 0 | 3 | 19 | 3 | 2 | 37 | 5 | .258 | .341 | .432 | .773 | |
通算:23年 | 2571 | 10304 | 8868 | 1319 | 2566 | 383 | 19 | 567 | 4688 | 1678 | 51 | 35 | 6 | 95 | 1273 | 182 | 62 | 1520 | 164 | .289 | .379 | .529 | .907 | |
7位 | 5位 | 5位 | 9位 | 4位 | 14位 | - | 3位 | 4位 | 3位 | - | - | - | 4位 | 6位 | 5位 | - | 9位 | 35位 | - | - | 20位 | - |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更
タイトル
表彰
- MVP:1回 (1988年)
- 正力松太郎賞:1回 (1988年)
- ベストナイン:7回 (1971年、1976年、1977年、1981年、1983年、1988年、1989年)
- カムバック賞 (1980年)
- 月間MVP:3回 (1981年7月、1988年5月、1989年5月)
- オールスターゲームMVP:2回 (1976年 第2戦、1983年 第1戦)
- 野球殿堂入り (競技者表彰:2006年)
記録
- 月間本塁打16本(1981年7月、プロ野球タイ記録)
- オールスターゲーム出場:14回 (1972年、1975年 - 1977年、1980年 - 1984年、1987年 - 1991年)
- 通算1000試合出場 1978年5月11日(200人目)
- 初安打 1970年4月12日 対ロッテ戦(東京) 木樽正明から
- 初本塁打 1970年5月13日 対東映戦(大阪) 高橋直樹から
- シーズン満塁本塁打:4本 (1983年、パ・リーグタイ記録)
- 5試合連続本塁打:2回 (1981年7月1日 - 7月7日、1981年7月9日 - 7月12日)
- 2試合連続サヨナラ本塁打(1990年9月9日 - 9月10日)
- 1試合5四球(1988年5月27日、パ・リーグタイ記録)
- 1試合10守備機会、1試合10刺殺(1973年6月10日、共に外野手としてのパ・リーグタイ記録)
背番号
- 27 (1970年 - 1979年)
- 44 (1980年 - 1982年)
- 60 (1983年 - 1988年)
- 78 (1989年 - 1990年)
- 53 (1991年 - 1992年)
関連情報
著書
- 『不惑の挑戦:南海ホークス最後のモンスター』(海越出版社, 1988年)ISBN 4906203639
- 『我が輩はバットである:私小説・プロ野球人門田の軌跡』(海越出版社, 1993年)ISBN 487697148X
- 『門田博光の本塁打一閃:ホームランに魅せられた男』(ベースボール・マガジン社, 2006年)ISBN 458303928X
解説者としての出演番組
- ABCフレッシュアップベースボール - 出演していたABCラジオのプロ野球中継の現行タイトル。
- スーパーベースボール - 出演していたABCテレビのプロ野球中継現行統一タイトル。
脚注
- ^ 『門田博光の本塁打一閃』P107。同書によると、大阪球場のオープン戦でのことで、自説を撤回しない門田に二人とも呆れていたという。
- ^ 『門田博光の本塁打一閃』P118
- ^ 『門田博光の本塁打一閃』P121~122。野村に話すと「参考になったやろ」と威張られるに決まっているからという理由で、門田は絶対にそのことは野村には言わなかったという。
- ^ 『プロ野球スカウティングレポート2011』(廣済堂出版、著:小関順二)に収められた工藤のインタビューより。なおいつの出来事かは明記されていないため、その時の黒田が現役選手であったかバッテリーコーチであったかは不明である。
- ^ 『門田博光の本塁打一閃』の冒頭にこの話が詳しく紹介されている
- ^ ちなみに門田は2000本目の安打を工藤から打っている。