千葉ロッテマリーンズ
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
千葉ロッテマリーンズ | |
---|---|
会社名 | 株式会社千葉ロッテマリーンズ |
創設 | 1950年 |
今シーズン | |
2024年の千葉ロッテマリーンズ | |
所属リーグ | |
パシフィック・リーグ | |
歴代チーム名 | |
| |
本拠地 | |
QVCマリンフィールド(千葉県千葉市) | |
収容人員 | 30,200人 |
| |
永久欠番 | |
なし | |
獲得タイトル | |
アジアチャンピオン(1回) | |
2005 | |
日韓クラブチャンピオンシップ(1回) | |
2010[1] | |
日本一(4回) | |
1950 | 1974 | 2005 | 2010 | |
リーグ優勝(5回) | |
1950 | 1960 | 1970 | 1974 | 2005 | |
セ・パ交流戦優勝・最高勝率(2回) (2015年から2018年までは最高勝率) | |
2005 | 2006 | |
成績(タイトル以外) | |
アジアシリーズ出場(1回) (太字は優勝、斜体は準優勝) | |
2005 | |
日韓クラブチャンピオンシップ出場(1回) (太字は優勝、斜体は準優勝) | |
2010 | |
日本シリーズ出場(6回) (太字は勝利した年) | |
1950 | 1960 | 1970 | 1974 | 2005 | 2010 | |
クライマックスシリーズ出場(2回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
1勝1敗 2007 | 2010 | |
プレーオフ(2004-2006)出場(1回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
1勝0敗 2005 | |
プレーオフ(前後期制)出場(4回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) | |
1勝3敗 1974 | 1977 | 1980 | 1981 | |
球団組織 | |
オーナー |
重光武雄(本名:辛格浩) (代行)重光昭夫(本名:辛東彬) |
運営母体 | ロッテホールディングス |
監督 | 西村徳文 |
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | ロッテ、マリーンズ |
本社所在地 |
日本 〒261-8587 千葉市美浜区美浜1番地 |
本店所在地 |
〒169-0073 東京都新宿区百人町2-2-33 |
設立 |
1950年1月 (株式会社毎日球団) |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 8011101012891 |
事業内容 | プロ野球競技の運営並びに選手の指導、養成など |
代表者 |
重光武雄(オーナー) 重光昭夫(代表取締役オーナー代行) 中村家國(取締役社長) |
資本金 | 6000万円(2010年12月31日時点) |
純利益 | 558万1000円(2010年12月期) |
純資産 |
1億1727万5000円 (2010年12月31日時点) |
総資産 |
31億9392万4000円 (2010年12月31日時点) |
従業員数 | 55人(2009年12月31日時点) |
決算期 | 12月末日 |
主要株主 | ロッテホールディングス |
関係する人物 | 永田雅一(現法人設立時オーナー) |
外部リンク | http://www.marines.co.jp/ |
特記事項:1957年11月に大映野球株式会社を吸収合併。 |
千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ 、Chiba Lotte Marines)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団の一つ。
千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるQVCマリンフィールドを専用球場(本拠地)としている。なお、二軍(イースタン・リーグ)の本拠地はさいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。
球団の歴史
オリオンズ時代
毎日
- 1949年9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された。毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム・大阪毎日野球団(大毎野球団)を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大毎野球団を基礎に、自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請。
- リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、ライバル社であった読売新聞社(読売ジャイアンツ親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズ親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、電鉄系を中心とした毎日加盟賛成派の球団による太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した(詳細はプロ野球再編問題 (1949年)を参照)。
- この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志・別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻したタイガースに対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。
- かくして1950年のパ・リーグ公式戦開始より参戦。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前タイガース監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、タイガースからの移籍組に、大洋漁業から獲得した河内卓司・戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した別府星野組のエース荒巻淳や、大洋漁業から獲得した野村武史が活躍。
- 創設1年目にしてリーグ優勝、日本シリーズでも松竹ロビンスを圧倒し、初代プロ野球日本一の座を射止めた。
- 1952年7月、福岡・平和台球場に乗り込んでの対西鉄戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生(平和台事件)。責任を取り湯浅総監督、若林監督が更迭される。以後チームは低迷。
- 毎日オリオンズ時代のユニフォームはホーム用がヤンキースタイプで、ビジター用がドジャースタイプだった(毎日オリオンズ時代のユニフォーム)。
大毎・東京
- 1957年のシーズンオフ(11月28日)、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。略称は大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。新会社「毎日大映球団」が設立。大映社長の永田雅一がオーナーに就任。
- 1950年の優勝以後、西鉄と南海ホークスに水をあけられていた。1950年代後半には、西日本に本拠を置く両チームがリーグの覇権を握り関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことが、リーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった[2]。初優勝から10年を経た1960年に2度目の優勝を遂げる。この年監督に就任した西本幸雄のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」でリーグ制覇を飾るが、日本シリーズ・対大洋ホエールズは4連敗で敗北。その時のバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。その後はBクラスに甘んじた。この年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握する事になる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた[3]。毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある[4]。
- 1962年より本拠地は永田が私財を投じて東京・南千住に建設した専用球場・東京スタジアムに移転。
- 1964年、チーム名を東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)に改称。現在で言うところの地域密着策というわけではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていない事に永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった(チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から東京ヤクルトスワローズに改称している)。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため毎日側が不快感を示したため、結局毎日新聞社は球団に残っていた資本も翌1965年1月に引き上げて、後援も1966年度シーズンをもって打ち切っている。これによって球団は完全に永田が掌握することになったが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。また1966年にはペットマークに「桃太郎」を採用した。
ロッテ(東京・仙台・川崎時代)
- 1969年1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、チーム名をロッテオリオンズ/ロッテ・オリオンズに改称。ただ正式な球団買収ではないので球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば命名権の制度に近い)を取得する形としてとどまった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。
- 1970年パシフィック・リーグ優勝。東京スタジアムでの優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。日本シリーズは巨人に1勝4敗で敗れる。
- 1971年1月25日をもって永田は球団経営から撤退。ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、会社名もチーム名と同じ「ロッテオリオンズ」になる[5]。以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパシフィック・リーグでは最長である。
- 本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局1972年シーズンオフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。東京スタジアムは閉鎖され、本拠地球場を喪失した。
- 1973年から、宮城県仙台市の県営宮城球場(現・クリネックススタジアム宮城=東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地)を中心に(1974年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場を転々としつつ主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年まで続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(この期間の詳細についてはジプシー・ロッテを参照。また歴代本拠地も併せて参照)。
- 1973年、日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否。このためフライヤーズは日本ハムに売却されることになった(現・北海道日本ハムファイターズ)。また、1971年からオーナーを務めた中村長芳が西鉄ライオンズ(→太平洋クラブライオンズ)の経営に参画・福岡野球株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。
- 1974年に金田監督の下で有藤道世、山崎裕之、弘田澄男、投手では成田文男、村田兆治、木樽正明らが活躍して後期優勝。プレーオフでは、阪急を3連勝で退けリーグ優勝。日本シリーズでは中日と対戦し4勝2敗で日本一になった。この時の日本シリーズ(対中日)主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのプレーオフ(対阪急)は宮城で開催された)。また日本一を決定した後の凱旋パレードも、東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。
- 1977年、神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋ホエールズと共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンから川崎球場への本拠地移転が決定。10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。
- 1978年から正式に川崎球場を本拠地として使用(なお、県営宮城球場でも引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)している。しかしこの時期は観客動員が少ないことで知られる、テレビのプロ野球珍プレー好プレー番組などでもこの事が話題にされていた。
- 1979年、元祖ミスターオリオンズ・山内一弘が監督に就任。1980年には山内監督の下、レロン・リー、レオン・リーのリー兄弟、投手陣では仁科時成・水谷則博・倉持明が活躍し前期優勝したが、プレーオフで近鉄に敗退した。翌1981年はエース村田の大活躍もあり2年連続前期優勝するものの、またしてもプレーオフで日本ハムに敗退した。
- 1982年、山本一義が監督就任。しかし1982年は5位、翌1983年は球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで辞任。翌1984年から稲尾和久が監督就任。なお、稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく、1986年限りで解任。
- 1982年以降は、投手陣が振るわず、チームが低迷する。特に、1985年は落合の三冠王以外にも西村徳文、レロン・リー、新人の横田真之が打率3割をマークし、チーム打率1位になったものの、投手陣は肘の手術から復帰した村田が活躍したのみにとどまった。マスコミからは広岡率いる西武ライオンズ管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、1984、1985年は2年連続で勝率2位を確保したものの、1985年シーズン優勝した西武からは15ゲームも離された。1985年と1986年には落合博満が2年連続で打撃部門三冠王を達成している。
- 1986年、稲尾監督を解任し生え抜きのスター・有藤通世新監督誕生。「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した落合博満を牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4トレードで中日に放出[6]。
- 1987年から女性向けのフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を発行。URE・Pはロッテリアなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで発行された。これにより観客動員数が10万人ほど増えたという[7]。
- 1988年、この年は最下位だったが、10月19日の対近鉄のダブルヘッダーがリーグの優勝のかかった大一番となり(近鉄の2連勝でのみ近鉄の優勝、それ以外は引き分けでも西武の優勝)、川崎球場には入りきれないほどの観客がつめかけ(ほとんどが近鉄ファンだったとされる)、テレビ朝日系列で全国放送され30%以上の視聴率となった。終盤、有藤監督による9分間の抗議による試合中断が物議を醸した[8]。試合は第1試合が近鉄の勝利、第2試合は引き分けたため、西武の4年連続のリーグ優勝が決まっている(詳細は10.19参照)。
- 1989年、二軍の本拠地が東京都青梅市の青梅球場から、埼玉県浦和市(当時)のロッテ浦和球場に移転。その後1998年には現在の球団寮が竣工した。5月13日の対日本ハム戦に勝利し、村田兆治が通算200勝を達成。
- 1991年に内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」を謳い文句にファン拡大作戦を実施した(同年の新語・流行語大賞表現部門で『川崎劇場』が金賞に選ばれた)。
- 低迷していたチームではあったが、毎年タイトルホルダーが現れた。1984年には石川賢が最高勝率、西村が1986年から4年連続で盗塁王、1990年には首位打者になり、1987年は落合とのトレードで中日から移籍してきた牛島和彦が最優秀救援投手(1988年にもセーブ王に輝く)、1988年は高沢秀昭が首位打者・小川博が奪三振王、1989年は村田が防御率1位、1991年は平井光親が首位打者に輝いた。
マリーンズ時代
低迷期
- 1991年9月4日、翌1992年から保護地域を千葉県、専用球場を千葉県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに変更することが承認された。球団名は一般公募により改称されることになり、同年11月21日、新名称は千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。
- この年のオフ、金田監督が監督を勇退。後任に、OBの八木沢荘六が就任。球団名変更に伴い、ユニホーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。
- 1992年、千葉移転初年度は最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人をマークするなど順調な滑り出しを思わせた。しかし1993年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。
- 1994年、当時の原野和夫パ・リーグ会長は、ロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
- 1994年、開幕当初よりチームは低迷し、八木沢は8月1日をもって休養。その後は、中西太が代理監督を務め、5位に終わる。
第1次バレンタイン監督時代
- 1995年シーズン、日本初のGMとして広岡達郎が就任すると、広岡はメジャーでの監督経験のあるボビー・バレンタイン監督を招聘。序盤は出遅れるが、投打のかみ合った1年となり10年振りのAクラス入りを果たし貯金10の2位で終了。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。ファンはバレンタインの退団を惜しみ、広岡やフロントによるこの騒動を「暴挙」と非難した。
再び低迷期
- 1996年、バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの広岡の大学の後輩ということで「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。またチームも5位に沈み、広岡・江尻ともにこの年限りで辞任。
- 1998年にはプロ野球記録となる18連敗(途中1引き分け挟む)を喫し話題となる(詳細は後述)。また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271)でありながら最下位となった。当時の監督は近藤昭仁で、シーズン終了後の監督退任会見では「今度やるときはもっと強いチームでやりたい」と発言し、物議を醸した。
- 1999年から山本功児が2軍監督から1軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣(2001年まで)を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。しかし、この時期にドラフトで獲得した渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入りに大きく貢献している。
- 2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌2003年の春期キャンプ中に、野球に対する情熱がなくなったため退団されるというアクシデントにも見舞われる[1]。
- 2002年と2003年は特に秋に好成績を収めており、両年とも8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、それまで4位だった日本ハムをかわし4位に浮上している。
- 2003年オフ、韓国・三星ライオンズから李承燁を獲得。
第2次バレンタイン監督時代
2004年、バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ3者連続ホームランで逆転し、西武に勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差でプレーオフ進出を逃した。しかし、シーズン全体では勝率5割を記録した。
2005年は今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートをきる。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、「マリンガン打線」と呼ばれた。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦)では初代チャンピオンとなる(毎日時代の初代パ・リーグ優勝、初代日本一に続いて3つ目の初代王者の称号を得た)。この交流戦で獲得した賞金の一部は公約通りファンに還元され、スタジアムへの送迎バス(京成バス)のラッピング(ユニフォームと同一のカラーリングに“ファン”を表す背番号26のマーキングを施し、「栄光が俺たちを必要としている」「集え! 26番目の戦士たち」「俺たちと伝説を作らないか!」「No magic(奇跡無用)! そう、俺たちは強い」のフレーズ入り)などに使われた。
8月17日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝ち10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスを確定。9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージで西武、第2ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした(当時はレギュラーシーズンの順位に関係なく、プレーオフ第2ステージ勝利チームがリーグ優勝チームとされていた)。10月22日からの日本シリーズでは阪神を4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。11月10日から東京ドームで行われた初めてのアジアシリーズに出場。初戦で李の古巣である三星ライオンズ(韓国代表)を6-2で下すと翌日は興農ブルズ(台湾代表)に12-1の7回コールド勝ちを収め、ロッテOBのジム・ラフィーバー率いる中国棒球協会選抜チーム(通称チャイナスターズ、中国代表)との対戦を待たずに決勝進出を決めた。チャイナスターズ戦は3-1で勝利し、決勝では三星を5-3で下して勝利、1・2軍合計で年間6冠の優勝(レギュラーシーズンは2位のため、惜しくも完全優勝は逃す)を達成した。
このアジアシリーズも初回大会ということで毎日時代のパ・リーグ、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの初代王者の称号を手に入れた事になる。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。
この年渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利をマークした[9]。また久保は新人ながら10勝をマーク。この記録は毎日オリオンズ時代の1950年の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利をマークしたのは球団史上初である。
2006年は主力だった小坂誠(金銭トレード)と李承燁が巨人へ、ダン・セラフィニがオリックスへ移籍したことから始まった。また新たにオリックスからケビン・バーン、トライアウトで瑞季を獲得した(但し両選手とも同年オフに退団)。開幕直前に開催された2006 ワールド・ベースボール・クラシックに2005年の優勝に貢献した10人[10]の選手を送り込んだ。交流戦では6月20日にヤクルトが日本ハムに2-4で敗れたため、2年連続して最終戦で交流戦での単独優勝を決定したが、夏場以降チームは急失速し、最終的にシーズンを4位で終えプレーオフ進出を逃す。
2007年、3月24日の開幕戦(千葉マリンの対北海道日本ハムファイターズ戦)が降雨コールドで引き分け[11]。翌日も延長12回で引き分け[12]。
投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により、事実上YFKは崩壊したが、38HPで最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦が、シーズン終盤にクローザーに回り、2年目の川崎雄介とルーキーの荻野忠寛がしっかり穴を埋め、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が2ケタ勝利の記録が途切れるなどの不振で大きく期待を裏切るも、渡辺俊介が不振から脱却し、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率と最優秀投手の2冠を獲得する大活躍を見せた。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。 一方野手陣は福浦和也、今江敏晃、フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、最終的には1位の日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズ1stステージではソフトバンクを2勝1敗で下したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で惜しくも敗退し、2年ぶりの日本シリーズ出場を逃した。
2008年。先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の里崎智也・橋本将・田中雅彦が同時期に故障してしまうという受難もあり、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、前年の成績を上回る打撃で巻き返しを図ったが、3位の北海道日本ハムにわずか0.5ゲーム差及ばず4位でシーズン終了。クライマックスシリーズ進出を逃した。打撃陣がチームを牽引し、Bクラスながら最終的に勝率が5割を超え、優勝した西武まで4.5ゲーム差と近年稀に見る僅差であった。その反面、投手力不足によりチーム防御率はリーグ最低となってしまった。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタイン監督と5年目以後の契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨発表。公式の理由は、高騰する監督の年俸を支払う余力がなくなった為としている(球団は約30億の赤字を抱えており、監督に対して5億の高年俸がネックであることや、赤字解消へ向けた第一ステップとして経費削減を図るのが狙いであった)。
2009年 ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、淑徳大学とパートナーシップ包括協定を締結。
バレンタイン監督の退任騒動の影響もあってチームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。バレンタインの後任にはヘッドコーチの西村徳文が昇格。また選手補強では韓国・ハンファ・イーグルスからFA宣言した金泰均を獲得。
西村監督時代
2010年。シーズン序盤はルーキー荻野貴司や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と唐川侑己の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落とした。しかし、楽天を除いた5チームによる激しいAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込んだ。リーグ優勝はならなかったものの、レギュラーシーズン最後の3試合を3連勝し、最終戦で3位を確定させた。1位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差。4位の日本ハムとは0.5ゲーム差だった。
クライマックスシリーズのファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗(うち1敗は首位ソフトバンクのアドバンテージによるもの)で連破し、クライマックスシリーズを制覇。史上初のリーグ3位からの日本シリーズ進出となった。そして、日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下し、5年ぶり4度目の、日本一を果たした。またパリーグ初のリーグ優勝せずに日本シリーズを制した球団となった[13]。3位からの日本一は史上初めてである。また、二軍もファーム日本選手権でウエスタン・リーグ優勝の阪神を4点ビハインドから延長10回の末に6-5と逆転で制し、球団史上2度目のファーム日本一に輝いている。11月13日、日韓クラブチャンピオンシップにおいて韓国シリーズ優勝のSKワイバーンズを3-0で降して日韓王者に輝いた。
12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・QVCジャパンによる命名権導入に伴い、名称を「QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。
2011年。オフ期間中に小林宏之が阪神へ、西岡が大リーグ・ミネソタ・ツインズへ移籍し、開幕後はサブローがトレードで巨人へ、金泰均がシーズン中に退団するなど昨年の主力が大幅に抜け、更には西岡に代わりショートを守っていた荻野貴がまたしても怪我で長期離脱、福浦や井口など主力打者の不振の影響もありリーグ最下位に終わった[14]。チームの成績とともに観客動員数も減少し、1試合平均で3000人弱減少した。また、チーム本塁打は46本で、この年本塁打王を獲得した西武・中村剛也の48本より少ないという結果になった。オフにはこの年巨人に移籍したばかりのサブローがFAで復帰。
2012年、巨人からセス・グライシンガーを、ヤクルトからジョシュ・ホワイトセルをそれぞれ獲得。3月30日~4月5日、毎日オリオンズ時代の1952年以来、60年ぶりの開幕4連勝を記録。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 5回(1950年、1960年、1970年、1974年、2005年)
- クライマックスシリーズ優勝 1回(2010年)
- 日本一 4回(1950年、1974年、2005年、2010年)
- アジアシリーズ優勝 1回(2005年)
- 日韓クラブチャンピオンシップ[15]優勝 1回(2010年)
- セ・パ交流戦優勝 2回(2005年、2006年)
- 前期優勝 2回(1980年前期、1981年前期)
- 後期優勝 2回(1974年後期、1977年後期)
- Aクラス 25回(1950年 - 1952年、1954年 - 1957年、1959年、1960年、1968年 - 1971年、1973年、1974年、1976年、1977年、1980年、1981年、1984年、1985年、1995年、2005年、2007年、2010年)
- Bクラス 37回(1953年、1958年、1961年 - 1967年、1972年、1975年、1978年、1979年、1982年、1983年、1986年 - 1994年、1996年 - 2004年、2006年、2008年、2009年、2011年)
- 連続Aクラス入り最長記録 4年タイ・2回(1954年 - 1957年、1968年 - 1971年)
- 連続Bクラス最長記録 9年タイ・2回(1986年 - 1994年、1996年 - 2004年)
- 最下位回数 8回(1983年、1988年、1989年、1991年、1992年、1997年、1998年、2011年)
- 最多勝 85勝(1955年)
- 最多敗 85敗(1963年)
- 最多引分 15分(1978年、1980年、1984年)
- 最高勝率 .704(1950年)
- 最低勝率 .361(1983年)
※1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝(併せて、前後期通算での最高勝率=.580を達成)。以来、37年間年間最高勝率が無く、楽天を除く11球団で最もリーグの年間最高勝率から遠ざかっている。また、これは横浜ベイスターズの大洋時代から続く1961年 - 1997年と並び、NPB最長記録となっている。
その他の記録
- 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1952年)
- 最大ゲーム差 39.5ゲーム(1983年)
- 最多本塁打 193本(1971年)
- 最少本塁打 46本(2011年)
- 最高打率 .287(1985年)
- 最低打率 .232(1965年)
- 最高防御率 2.40(1956年)
- 最低防御率 5.12(1983年)
- 最多連勝 18(1960年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は14(同年)
- 最多連敗 18(1998年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は12(同年)
チームの特徴
- 1982年まで、前身を含めて当時の12球団では唯一、年間最下位がなかった。前後期制の1975年前期、1982年前期は最下位となっているが、年間通算での最下位は1983年が史上初である。ただし、それ以降は低迷が続き、1988年から1998年までの11年間で6度も最下位に甘んじている。
- チームの生え抜き選手が監督に昇格する読売ジャイアンツや阪神タイガース、広島東洋カープなどと比べ外様監督が多いことでも知られている。このため、生え抜き監督は西本幸雄・戸倉勝城・山内一弘・有藤道世・八木沢荘六・西村徳文の6人しかいない。但しコーチはオリオンズ・マリーンズOBが多く、山本功児が監督を務めていた時は山本も含めてコーチ全員が球団OBだったこともある(山本は厳密には巨人出身)。
- 過去4回日本選手権シリーズを優勝しているが、フランチャイズ制が確立されていなかった1950年以外の3回はいずれもビジターの球場(1974年・中日スタヂアム、2005年・阪神甲子園球場、2010年・ナゴヤドーム)で胴上げをしており、ホーム球場(後楽園、東京、宮城、川崎、千葉)での日本一の胴上げはまだ成し遂げられていない。但し、リーグ優勝における胴上げはある(1970年・東京、1974年・宮城=プレーオフ優勝。他に年間優勝ではないが1981年前期のステージ優勝を川崎で達成している。日本シリーズ優勝を本拠地で挙げていないのは、シリーズ未出場の楽天以外の既存チームでは他に阪神タイガース〔1985年・当時の西武ライオンズ球場の胴上げのみ〕の例があるだけ)。
- 球団創立以来、オリックスとともに沢村賞を受賞した投手が1人もいない(2011年現在)。
東京・仙台・川崎時代
- 以前のニックネーム「オリオンズ」は星座のオリオン座が由来。球団創立以来1991年まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・毎日新聞社の社章でもあることから付けられた。
- 大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも「以前、毎日新聞は『大毎』(大阪毎日新聞の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。しかし実際には「プロ野球には我が大映が先んじて進出しているのだから、後発の毎日よりも前に大映を示す“大”の文字が入るのが当然である」という永田の思惑によるところが大きかったといわれる。
- 旧球団歌は「わがオリオンズ(毎日球団の歌)」。これはマリーンズに名称が変更されるまで、オリオンズの歌であった。他に「ビバ! オリオンズ(作詞・作曲:郷伍郎、編曲:小六禮次郎)」や「われらロッテ親衛隊」などがあった。
千葉時代
- 1992年から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被る為に、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも海兵隊の文字が散見される。オーナー企業であるロッテは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連は無い。なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉に因んで有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。
- FAによる選手の補強には消極的である。1995年オフに仲田幸司が阪神から、2011年オフにサブローが巨人からFAで加入しているのみ。
- また、球団からFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっている。
チームのスローガン
- 1993年:「心・技・体 '93」
- 1994年:「激闘」
- 1996年:「One at a time(一つ一つを大切に)」
- 1998年:「Play Hard '98」
- 1999年:「For The Team」
- 2000年:「For the Team 2000」
- 2001年:「For the Team Strive for Victory(チームのために勝利に向かって奮闘しよう)」
- 2002年:「For the Team」
- 2003年:「Ambition for Victory (勝利への執念)」
- 2004年:「This year is beginning of the future.(今年から未来が始まる)」
- 2005年:「BUILDING OUR DREAM!~夢をみんなで~」
- 優勝直後には「We built our dream(夢を叶えたぞ)!」の文字が公式サイトに現れた。
- 2006年:「Let us do it again(夢を再びみんなで)」
- 2007年:「All Hands to The Flag! ~結束、フラッグのために~」
- 2008年:「A Passion for Our Dream,A Commitment to The Flag(夢に情熱を、フラッグに誓いを)」
- 2009年:「Remember ~1969―2008、2009~」
- 2010年:「和」
- 2011年:「和 2011」「今こそみんなで和の力」
- 「今こそみんなで和の力」は東日本大震災復興スローガン。
- 2012年:「和のもとともに闘おう!」
マスコット
千葉ロッテマリーンズ マスコット #なし | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 幕張の浜 |
生年月日 | 8月9日 |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | マスコット |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
現在のマスコットであるマーくんは4代目でカモメがモチーフ。ペットマーク等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている[2]。
- マーくん
- 8月9日生まれの5歳だが、2008年1月の年始イベント「初投げ・初売り」で、鏡割りをした樽の清酒を、未成年でありながら成年のファンと一緒に飲むという荒業を披露している。しかも年の割りに・また他球団のマスコットに比べて腹が出ており、周囲からは度々その事をいじりネタにされている(メタボリック・シンドローム。他にこの特徴を持つのは東京ヤクルトスワローズのつば九郎と北海道日本ハムファイターズ2軍のカビー・ザ・ベアー程度。日本ハム一軍のブリスキー・ザ・ベアーはその事をつつき、“そこまで言うか!”と首を絞められた)。野球好き。右投げ右打ち。
- メインキャラクターでありながら、ステージイベントでボケキャラになっており、ステージMCの庄司こなつらからは弄り倒されるのがお約束。
- 他球団マスコットとの関係では中日ドラゴンズのドアラが親友と認め、B☆Bは自著の中で「古くからの付き合い」と語っている。またマスコット交流で神宮球場を訪れると球場内外でつばみにじゃれつかれる。
- ユニフォーム姿(背番号なしでネーム「MAR-KUN」のみ)。
- チーム・マイナス6%メンバー(744号)
- また、韓国のロッテジャイアンツには、マーくんによく似たマスコットキャラクターがいる(事実、ジャイアンツのペットマークに使用されている)。
- 2012年3月1日からはtwitterのアカウントが独立。[16]元々千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたものの、専用のアカウントが出来たことで発言の頻度が増している(2012年4月現在)。千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたころの名残か、つぶやく際に毎回「マーです」と名乗っている。
- リーンちゃん
- 4歳・マーくんの彼女
- ポニーテールでピンクのサンバイザーに白のトレーナー若しくはピンク系のスタジャン・白またはピンクのプリーツミニスカ姿。
- 「M☆splash!! ダンスアカデミー」の校長を務めている。
- チーム・マイナス6%メンバー(745号)
- ズーちゃん
- 3歳・マーくんの弟
- 前後逆に被った黒のキャップに灰色のパーカーと水色のハーフパンツ姿で左頬に絆創膏。
- チーム・マイナス6%メンバー(746号)
- クール(COOL)
- イワトビペンギンをモチーフにサングラス(登場当初はビン底メガネ。環境問題に関するレクチャーを行なう時には掛け替えたりもする)
- 「ロッテオリオンズ応援団」と書かれたハッピやチーム・マイナス6%のロゴ入りのビジターユニフォーム(背番号なし)などを着用
- マリーンズ誕生後の1992年、オリオンズのマスコットとなるべく川崎球場にやってきてしまい、チームを探して日本や世界中をあちこち探し回ってようやく千葉にたどり着いたという設定。
- 2005年8月3日、謎の新マスコットとして突然デビュー。8月24日に名前が正式発表される。登場当初は「ビジターチームのファンを盛り上げる」ということで相手チームのビジターユニフォームを羽織り、レフトスタンドや三塁側スタンドに陣取ったビジターチームのファンを盛り上げていたが、正マスコットの座を狙う「悪のマスコット」というポジションに変更された。
- 2006年8月に小池百合子環境大臣(当時)より「環境戦士」に任命され、「環境戦士COOL」として環境問題啓発活動も行っている。チーム・マイナス6%メンバー(546号)
- 2007年4月にテーマ曲『COOLだぜ!』(作詞・作曲・演奏 伝承歌劇団-エウロパの軌跡-)が作られた。
- 運転免許(普通・8トン未満限定中型一種)を持っているらしく、マイクロカーの運転までしてのける。
いずれも基本的には喋らないが、キャラクターショーでは野球マスコットにしては珍しく喋る(声優不明)。また、イベント限定キャラクターとして、まれにコアラの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。「戦」ユニフォームで背中に顔シルエットと“CHANCE”の文字)が登場する。
コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には4人とも浴衣を着たり、アロハシャツに半ズボン・麦藁帽子姿になったりする。
- 過去のキャラクター
- 初代マスコットは東京オリオンズ時代の「桃太郎(刀の代わりにバットを持っている)」である。
- 2代目マスコットはロッテオリオンズ時代の「風船ガム坊や(バブリー君という説もある)」である。
- 3代目マスコットはピンクのユニフォームのころのカモメのマスコット(名称不明)である。現在のマーくんとは容姿が異なる。
営業・ファンサービス
瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。また、京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。
ボールパーク化構想
「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。
2004年のプロ野球再編問題における10球団構想では、ロッテと福岡ダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、更に2006年度からは指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。
プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたスカイマークスタジアムと、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のクリネックス(旧フルキャスト)スタジアム宮城での例がある。
360度全席自由席
ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。
そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから(後述)、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。
こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、ビアガーデンのように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。「ビアスタジアム」は翌2006年シーズンも6月27日の対北海道日本ハムファイターズ戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(但しドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の実数発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。
更に2007年はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス・バファローズ戦で実施。通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。また、ゲストとして渡辺真知子を招聘するなど(一部後述)、様々な企画が行われた。恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。
この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。
なお、マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。また内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される(販売価格は通常の15000円が7500円となる。定員5名であるため、1人換算1500円)。この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。
その他の営業・ファンサービス
- 夏休み期間中(7月下旬 - 8月いっぱい)の千葉マリンでの公式戦は全試合ナイター開催で、5回終了後に花火が打ち上げられる「京成グループ花火ナイター」は毎年恒例である。
- 始球式は一部の例外(ロッテOBによるものなど)を除いてプレーボール直前ではなく、野手が守備位置につく前に行われる。
- チア・パフォーマーチームM☆Splash!!がホームゲームやイベントなどでパフォーマンスを行う。
- 2005年、東北楽天ゴールデンイーグルスが「スタメンに次ぐ控え選手の一人」として、背番号10をファンのための欠番にしたことが話題になったが、それに先駆けてマリーンズでは、ファンを「一軍の25人に次ぐ26番目の選手」として背番号26を欠番とした。元々サッカーでは同様の理由で12番を欠番にしたり、サポーターが「12」という大きな横断幕を作っているが、マリーンズファンもそれに倣ってライトスタンドを覆う「26」をモチーフとしたデザインのビッグフラッグと呼ばれる大横断幕を試合開始前に広げるパフォーマンスを背番号26が欠番になる前から行っている。スタジアム前の6冠記念モニュメントにも2005年当時の監督と選手のサイン付き手形レリーフと共にユニフォームマークの形でプレートが嵌め込まれている。
- 過去にはホーム戦でのラッキー7の攻撃前に「Take Me Out to the Ball Game」が演奏されていた(現在は公式応援歌「WE LOVE MARINES)。
- 地元千葉県の地方銀行である千葉興業銀行が、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0.026パーセント加算、リーグ優勝で0.26パーセント加算)「マリーンズ応援団定期預金」を販売している。
- 2010年のクライマックスシリーズでは全試合において千葉マリンスタジアムでパブリックビューイングが行われた。入場無料ながら特別ゲストに立川隆史を迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市の熊谷俊人市長も応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。
独立リーグへの派遣構想
- 2007年10月1日のプロ野球運営実行委員会で、瀬戸山球団社長は、5 - 8人程度の育成選手を獲得した上で、独立リーグである四国アイランドリーグ(当時)の徳島インディゴソックスに派遣する構想を表明した。当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。一部球団からは「イースタン・リーグの混成チームであるフューチャーズの活用が先ではないか」といった意見が出されている。その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、NPB内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。
- 2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず、引き続き継続審議となっているが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名は、支配下登録を受けた1名を除き2009年のシーズン終了後に戦力外通告を受けて退団した。
- しかし、2012年3月1日にNPB実行委員会が育成選手に限り四国アイランドリーグplusとBCリーグへ選手の派遣が許された。[18]
ユニフォーム
ユニフォームの変遷
毎日時代
- 1950年(シーズン開幕前) - 練習用(プロトタイプ)として、白を基調としたものとグレーを基調としたものを使用した。
- 白地・濃紺ツバの帽子、白地のシャツ・パンツ(ズボン)、濃紺のアンダーシャツ。シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)が入った。
- 濃紺地の帽子、グレー地のシャツ・パンツ、濃紺のアンダーシャツ。シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)、左袖に毎日新聞社社旗を流用したデザイン(赤い社章と二本線)が使われた。
- 1950年〜1957年 - ホーム用はヤンキース、ビジター用はドジャースをイメージして作られた。1950年シーズン途中から左袖には毎日新聞社の社章に代わりトリコロールのワッペンが付いた(1951年からは月桂樹の枝と「1950」(優勝年)の金糸文字が入った。1952年シーズン途中〜1955年は平和台事件を起こした責任を取る形で廃止したが、1956年には「Orions」ロゴが入る形で復活)。
- シャツ・パンツは、白地に濃紺縦じま(ホーム用)、グレー地(ビジター用)。
- アンダーシャツは、濃紺。
- 胸マークは、ホーム用 - 左胸に「M」マーク(飾り文字書体。濃紺・白縁取り)・ビジター用 - 「Mainichi」(筆記体。濃紺。1950年)、「Orions」(セリフ風書体。濃紺・白縁取り。1950年シーズン後半より使用)。
- 帽子は濃紺地に白い「M」マークの入ったもの。1950年には、白地に濃紺縦じまに白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ホーム)、グレー地に白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ビジター)も使用された。
- 1956年には、グレー地などを基調としながら、首周り・袖・ズボンサイドにラインが入ったビジター用を、1957年には、「Orions」に代わり「TOKYO」の胸マーク(ヤンキースの「NEWYORK」に似た書体)が入り、ラインを外したビジター用をそれぞれ使用した。
大毎→東京オリオンズ時代
- 1958年〜1965年 - 球団名が大毎オリオンズとなり、胸マークも「Orions」となるが毎日時代のスタイルを踏襲。また、旧大映からゴシック体の番号フォントが継承された。ビジター用は最初「DAIMAI」だったが、1960年から「TOKYO」に変更される。この間、腰番号や胸番号が付く。
- 1966年 - 赤色をふんだんに使ったホーム用ユニフォームが登場。左袖のワッペンは小さくマイナーチェンジされたもの(「Orions」の文字なし)が使用されたが、シーズン途中の6月22日の対近鉄戦より左袖にペットマーク(バットを持った桃太郎のイラストが描かれたもの)がつく。
- 帽子マークは「T」(赤色・白縁取り)。胸マーク・番号・ライン(首周り・袖・ズボンサイド) - 赤色・濃紺縁取り。
- 1967年〜1968年 - 球団名を「東京オリオンズ」に変更。ホーム用がドジャース風(ただし、青ではなく紺を基調としており、胸マーク・背番号は赤、胸番号は紺)となり、縦縞が廃止される。左袖には桃太郎のマークが形を変え引き継がれた。当初首周り・袖・ズボンサイドに赤ラインがあったが翌年廃止され、さらにドジャースに近くなった。このデザインはロッテになってからも引き継がれた。
ロッテオリオンズ時代
- 1969年〜1972年 - 株式会社ロッテがスポンサー(1971年から正式な親会社)となり、チーム名が「ロッテオリオンズ」に改称。ユニフォームは東京時代のスタイルを踏襲(ただし、紺→青になる)。ホーム、ビジター用共胸番号が消え、赤の「LOTTE」だけのシンプルものになり、「Orions」のロゴは左袖に移る(色は青)。背番号(赤色)はオリジナル書体。また帽子のマークがLとOとの組み合わせと星のマークがついたものになる。
- 1973年〜1991年 - 金田正一監督就任に伴い、ユニフォームを一新。帽子・アンダーシャツが青から紺に代わる。また、金田監督のアイデアを取り入れたニット素材の特徴を生かし、肩、袖、パンツからボディにかけて、両サイドを紺で挟む赤の太ラインが入る。「LOTTE」の胸ロゴは紺色に赤の縁取りのゴシック体(背番号も同様)となり、「Orions」のロゴは消滅。また、背番号の上に選手名が入り、胸番号が復活する(胸番号・選手名は紺)。帽子のLOと星マークに、赤の縁取りが入る。
- ホーム用はオフホワイト地。
- ビジター用はスカイブルー地で、胸ロゴはホーム同様「LOTTE」。
- 翌1974年より、胸ロゴ・背番号の色が赤色に紺の縁取りへ変更され、ボタンの素材が、白の2つ穴から透明4つ穴タイプに変わる。
- 1984年より、スパイクの色が黒地に白ラインから白地に紺ラインに変わる。
- 1989年より、ボタンの素材が透明からユニフォームの地色と同じ色に変わる。
- 金田監督より、ラインは生地の上に乗せるのではなく、生地と生地との間にはめ込むよう要望があり、当時の技術では非常に苦労したという。
- 背番号の書体の中で「1」については、下に「_」の付かないスタイルであったが、背番号1の選手(ジム・ラフィーバー→ラファエル・バチスタ→高橋博士→愛甲猛)については「_」が付いていた。
マリーンズ時代
- 1992年〜1994年 - 本拠地が千葉市に移転し、球団名が千葉ロッテマリーンズとなり、初めてプルオーバー・タイプを採用。サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。
- 帽子は、黒色地に帽子マークはピンクの縁取りに黒文字でCLM(Chiba Lotte Marinesの略)で真ん中に波模様が入ったもの。
- シャツ・パンツは、白(ホーム)、ブルーグレー(ビジター)をそれぞれ採用。
- 首周り・袖口には、黒・ピンクのライン(外側にピンク)が、ズボンサイドにはピンクを黒で挟んだラインが入る。
- 胸マークには「Marines」(筆記体)を、左袖にはホーム「CHIBA」ビジター「LOTTE」(親会社ロッテのロゴマーク)のマークをそれぞれ採用。
- 胸マーク・番号にはピンク・黒縁取り、左袖マーク・背ネームには黒を使用。
- 背番号の「1」の書体は、「_」の無いもの(ただし、左上の欠けていない書体)が引き続き採用されたが、背番号1の愛甲猛については引き続きオリオンズ時代と同様の書体が採用された。
- 1995年〜2003年 - 後述する事情から、広岡達朗GMの提案によりユニフォームを一新。チームカラーを白と黒を基調にしたものになる。毎日オリオンズ時代から東京時代まで使われていた縦縞が29年ぶりに復活し、シカゴ・ホワイトソックスを模したデザインになる。さらに、当時球界で主流になりつつあったユニフォームのパンツ裾を足首まで下げるスタイルを、広岡GMが非常に嫌っていた為、オールドスタイルを実現すべく長めのストッキングを採用(上部に白いMマークの刺繍が入る)。ちなみにビジターユニフォームの胸の文字はホームユニフォームの“M”に対し、“Marines”の文字が入ったものだった。また、スパイクは黒地にホワイトのラインのものに変更。
- 2000年〜2004年 - ビジターでの負けが多い事から、上下グレーのビジター用ユニフォームを上が黒、下がグレーの新たなユニフォームに変更した(球団史上初の上下ツートンカラーのユニフォームである)。ビジターゲームでマリーンズファンが「黒の軍団」と称されるのは、この頃からである。
- 2003年〜2004年 - サードユニフォームとして上下グレーのビジターユニフォームが採用(翌年はセカンドビジターユニフォーム)。このサードユニフォームの胸の文字はホームユニフォームと同じ“M”であり、胸番号は無く、背番号の上には選手の名前が書かれていないものだった。このユニフォームは金曜日、土曜日、日曜日のビジターゲームに使われ、その他の曜日のビジターゲームでは黒い上着のユニフォームが使われた。おおむね、同時期の阪神タイガースのビジターユニフォームに、既存のロッテのユニフォームのマーク・背番号を張り替えたようなデザインだった(ただし、ラインは阪神と違い白に黒を挟んだものであり、阪神のそれと比べ細かった)。
- 2004年〜2007年 - 復帰したバレンタイン監督の提案で、上記のホーム用ユニフォームにプラスする形で、黒いダンダラ帯のはいったサンデーユニフォームが登場。初年度は縦縞の入ったホーム用の白パンツとの組み合わせだったが、翌年から法被に合わせてデザインされた新たな白パンツが登場した。
- 2005年よりユニフォームの名称を変更し、法被と白パンツを組み合わせたものを「誠(まこと)」、法被と黒パンツの組み合わせを「侍(さむらい)」、それまで使われてきた上下縦縞を「戦(いくさ)」とした。また、上下グレーのセカンドビジターユニフォームは廃止され、ビジター用のユニフォームは1種類のみとなった。黒地のビジターユニフォームの胸の文字が“Marines”から帽子のマークと同じ“M”に変更され、濃いピンクのラケットラインが入る。パンツも「誠」と同じものへ変更。「戦」以外のホーム時やビジターでは、帽子のツバには濃いピンクと白のギザギザがデザインされ、Mの文字にはピンクのシャドウが入ったものを使用。ホームゲームでどのユニフォームを着るかは、メジャーと同じく先発投手が自由に選んで決められる方式にした。この年の後半にはいい状態でチーム状態が継続していたため、普段は「戦」を選択する清水直行さえ縁起担ぎで「誠」を使用。ポストシーズン(プレーオフ・日本シリーズ・アジアシリーズ)のホームゲームでは「誠」で戦い全勝した。
- しかし、「戦」「誠」が選手に受け入れられたのに対し、「侍」は「格好が悪い」ために選手から敬遠されていた。実際、2005年に公式戦で「侍」が着用されたのは5月14日の対ヤクルト戦の1回だけで、先発のダン・セラフィニがこのユニフォームを選択したが、その試合は3-11と大敗。その後「縁起が悪い」と敬遠されたのか、「侍」を選択した先発投手はいなかった。
- 2006年〜2009年 - 2005年のアジアシリーズ制覇を記念したチャンピオンエンブレムが袖に入る。図案は「CHIBA LOTTE MARINES」の白文字入り黒リングで囲まれたボールを背景に「05 Marines ASIA」の文字、「CHAMPIONS」の白文字が入った赤リボン、最下部に6冠を表す銀の六連星。
- 2008年〜2009年 - デサント社がオフィシャルサプライヤー契約を締結、デザインをマイナーチェンジ。チームカラーを「白、黒、赤」とし、ホーム用は従来のストライプタイプ「戦」と、「誠」の袖のダンダラ帯と胸ラインを赤色にした2タイプがある。ビジター用は黒を基調とし、上から下へ向かって黒から白へと徐々にグラデーションしたもの(日本プロ野球史上初のデザイン)である。またビジター用ユニフォームには右胸に球団ペットマークが浮き上がって出るようにあしらわれている。「戦」以外は、背番号の書体も丸い斜体文字へ変更されている(ホーム用「誠」は赤、ビジター用は黒)。
- 2009年 - ロッテのプロ野球参入40周年を記念した「ORIONS-MARINES 40th ANNIVERSARY」エンブレムが袖に入る。図案は“ORIONS-MARINES”のアーチと“40th ANNIVERSARY”“1969-2009”の帯で囲まれた中に、青空と海をバックに歴代のユニフォームを模した色(左からオリオンズ初代、オリオンズ2代目、マリーンズ初代、マリーンズ現行)で空を飛ぶ4羽のカモメ。
- 2010年〜 - バレンタイン監督退任に伴い、「戦」以外のユニフォームのデザインが変更(各ユニフォームのニックネームも廃止)。チームカラーの一つとされていた赤が消えた。ビジター用はグラデーションを廃止し、黒地に白のカットラインが入る。サードユニフォームはラグランスリーブ部に黒を配した。ビジターとサードにはそれぞれ右袖には2段組みで「CHIBA LOTTE」の文字が入る(ホームは今までどおり「LOTTE」のみ)。帽子は従来の黒帽子で統一された。右袖に2006年から付けられていたアジアシリーズチャンピオンエンブレムが廃止。右胸のワッペンスポンサーがハートフォード生命保険からネクソンに変わる。2011年現在、サードユニフォームが使われたのは、2010年は4月25日、6月30日、8月1日の3試合(対戦相手はいずれも福岡ソフトバンク)、2011年は6月8日の阪神タイガース戦の1試合のみであり、ストライプ地のユニフォームを殆どの投手が選んでいる。
限定ユニフォーム
- 2008年8月13日〜18日の2カードで、ロッテのプロ野球参入40周年記念として、1991年までのホーム用ユニフォームを復刻使用した[19]。
- 「1」の書体については、当時のものは左上が欠けていたが、復刻版は欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。
- 2009年8月18日〜20日のオリックス戦で、前年に続いてロッテのプロ野球参入40周年記念として、1972年までのホーム用ユニフォームを復刻使用した。
- 2011年、千葉移転20周年を記念してホームゲーム限定で、1992年から94年までのホームユニフォームを復刻使用している。
- 上記の2008年のユニフォーム同様、「1」の書体については欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。
- 2012年、千葉移転20年を記念した「Thanks 20 years“ALL for CHIBA"シリーズ」のイベントの一環として、白をベースに両肩と両わき腹に黒いライン。胸に黒文字で「CHIBA」と記したロゴが入ったユニホームを着用する。なお、マリーンズのユニホームに「CHIBA」のロゴが入ったのは92年の移転後初。下記5試合のほか、2軍の公式戦でも数試合限定で着用する。
対象試合
- 6月29日 西武戦
- 7月7日 オリックス戦
- 7月29日 ソフトバンク戦
- 8月28日 楽天戦
- 9月13日 日本ハム戦
先祖帰りのユニフォーム
「千葉ロッテマリーンズ」となった1992年にチームのイメージカラーとしてピンクが登場、球団旗・ペットマーク・ユニフォームに採用された。明るいパステル調のこのピンクは「サンライズピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮と黒潮のぶつかり合い」と定義付けられた。
- ところが、1995年に監督に就任したボビー・バレンタインはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった(2005年に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、先述の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』221ページに、先述の変更へのいきさつとともに記述されている。
球団旗
- 1950年〜1970年 - 上から赤・白・青のトリコロールカラー、左端に☆を三つ。中央の白の部分に黒文字で「Orions」とロゴが染め抜かれた。大映スターズとの合併後、さらにその後の東京オリオンズに改称後もそのまま使用される。
- ちなみに、このトリコロールカラーは当時の親会社・毎日新聞社のグループ企業にも波及しており毎日放送、スポーツニッポン新聞社の社旗にも採用されている(ただし、両社とも上部は赤ではなく濃い橙色)。
- 1971年〜1991年 - ロッテが親会社となり、チーム名が「ロッテオリオンズ」となる。おおまかなデザインはそのままだが中央の「Orions」の上に赤文字で「LOTTE」のロゴが入る。
- 1992年〜1994年 - 球団名が千葉ロッテマリーンズとなる。白地にマリーンズのロゴ(MARINESが筆記体で描かれており、その下にCHIBA・LOTTEの文字)、そして下の部分は当時のユニフォームの基調の色にも採用された「サンライズピンク」と「カレントブルー」のツートンライン。「千葉沖の海流のぶつかり合い」をイメージ。
- 1995年〜 - シルバーを地色に、上に黒文字で小さく「CHIBA LOTTE」、その下に大きく「Marines」ロゴ。右斜め上に球団のマスコットキャラクターにも使われているカモメを1羽。
マリーンズファン・応援スタイル
スポンサー
- ユニフォーム右胸 ネクソン(オフィシャルスポンサー、2010年度~)
- パンツ左側 君津住宅(オフィシャルスポンサー、2007年度~)
- ヘルメット右側 クレバリーホーム
- バックネット下部広告 DKNY(オフィシャルスポンサー、2009年度~)
歴代本拠地
- 1950年〜1962年 - 後楽園球場 ※1
- 1962年〜1972年 - 東京スタジアム ※1
- 1973年〜1977年 - 宮城球場 ※2
- 1978年〜1991年 - 川崎球場
- 1992年〜 - 千葉マリンスタジアム ※3
- ※1 1962年5月まで後楽園を使用、同年6月より東京スタジアムへ移転。
- ※2 東京スタジアムの閉鎖に伴う暫定処置。1973年シーズンは地域保護権を東京都に置き、宮城球場と首都圏の他球団本拠地などで主催公式戦を行った。同年12月21日の実行委員会で翌1974年から暫定的に保護地域を宮城県に移転することが決まり、1974年から1977年の間は同県を保護地域とした。しかし球団事務所は従来と同じく東京都に置き、試合の開催方法も1973年とほぼ同様だった。
- ※3 2011年からの呼称は「QVCマリンフィールド」
歴代監督
- 1950年 - 1952年 : 湯浅禎夫
- 1952年 : 別当薫(第1次)
- 1953年 : 若林忠志
- 1954年 - 1959年 : 別当薫(第2次) ※1
- 1960年 : 西本幸雄
- 1961年 - 1962年 : 宇野光雄
- 1963年 - 1965年 : 本堂保次 ※2
- 1966年 : 田丸仁
- 1967年 : 戸倉勝城
- 1967年 - 1971年 : 濃人渉 ※3
- 1971年 - 1972年 : 大沢啓二
- 1973年 - 1978年 : 金田正一(第1次) ※4
- 1979年 - 1981年 : 山内一弘
- 1982年 - 1983年 : 山本一義
- 1984年 - 1986年 : 稲尾和久
- 1987年 - 1989年 : 有藤道世
- 1990年 - 1991年 : 金田正一(第2次) ※5
- 1992年 - 1994年 : 八木沢荘六 ※6 ※7
- 1995年 : ボビー・バレンタイン(第1次)
- 1996年 : 江尻亮
- 1997年 - 1998年 : 近藤昭仁
- 1999年 - 2003年 : 山本功児
- 2004年 - 2009年 : ボビー・バレンタイン(第2次)
- 2010年 - : 西村徳文
※太字は優勝達成監督
- ※1 ここから大毎オリオンズ
- ※2 ここから東京オリオンズ
- ※3 ここからロッテオリオンズ
- ※4 1975年は4月22日まで指揮、5月6日に復帰するまでは高木公男が代行
- ※5 1990年は6月23日まで指揮、7月27日に復帰するまでは徳武定之が代行
- ※6 ここから千葉ロッテマリーンズ
- ※7 1994年は7月31日まで指揮、残り試合は中西太が代行
永久欠番
- 2011年現在永久欠番は無い。
準永久欠番
- 8 有藤道世(1987年-1991年)
- 元は永久欠番だが、1992年の千葉移転後、マックス・ベナブルが付けたことで永久欠番ではなくなる。後に平野謙(1994年〜1996年)、清水将海(1997年〜2002年)、波留敏夫(2003年〜2004年)を経て、2005年から現在に至るまで今江敏晃が付けている。
- 26 マリーンズファン(2005年-)
- 千葉ロッテマリーンズは2005年度以降、背番号26を東北楽天ゴールデンイーグルスの10番同様にファンのための欠番としている(ベンチ入り25人に次ぐ「26番目の選手」の意)。ちなみに最後に26を付けた選手は酒井泰志(2003年〜2004年)。
- 試合中はダッグアウトの壁に、個人ネーム無しの背番号26ユニフォームがハンガーで掛けられており、試合に勝った時には、ヒーローインタビューを受けた選手が、ファンへの感謝を込めてそのユニフォームをファンの前に掲げる(マスコットのマーくんが掲げることもある)。
- 2006年からはこれに因み、ファンクラブ制度を大幅にリニューアル、TEAM26と命名される。
歴代の球団歌
- わがオリオンズ(毎日球団の歌)
- われらロッテ親衛隊
- ビバ!オリオンズ!
- WE LOVE MARINES
主なキャンプ地
1軍春季キャンプ
- 鹿児島市県立鴨池球場ほか(1972年 - 1995年、1997年 - 2007年)
- アメリカ合衆国・アリゾナ州ピオリア(1995年 - 1998年)
- オーストラリア・ジーロング(2006年 - 2007年)
- 沖縄県石垣市石垣市営球場(2008年 - )
- 千葉県鴨川市総合運動施設(2008年ファーム)
- 鹿児島県薩摩川内市総合運動公園(同)
キーワード
最長試合
1969年10月10日、大阪・日生球場での近鉄戦のダブルヘッダー第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球初の出来事でもあった。
その後、この日本最長記録は更新(全てセントラル・リーグ、または交流試合)されているが、2009年7月2日の埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)では、交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では歴代最長となる5時間42分(延長12回・9-8で勝ち)を記録した。
さらに参考記録ではあるが1981年のプレーオフ、川崎球場での日本ハムとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分の大熱戦を展開したが、4-4の引き分けに終わった。
また、ポストシーズンでは2010年の日本シリーズ、ナゴヤドームでの対中日第6戦で5時間43分の死闘を繰り広げ、日本シリーズにおける歴代最長試合記録を35年ぶりに塗り替えている。なお、この試合は規定により延長15回での2-2の引き分けに終わった。
幻の合併計画
現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に大映ユニオンズと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。
- 1973年、日拓との合併構想
1973年、ロッテオリオンズはジプシー時代最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた東映フライヤーズはオーナー企業の経営難等により、同年2月7日に球団の経営権が東映から日拓ホームに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)上、プレーオフを制して日本シリーズに進出した南海ホークスも読売ジャイアンツ(巨人)の前に1勝4敗で散り、巨人のV9を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、更に1リーグ制への移行を画策し始めた。
前述の通り、当時ロッテはジプシー生活を強いられていたため首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。またロッテのオーナー・重光武雄も球団経営にあまり執心がないと憶測されたことから、合併調印は時間の問題といわれていた。更には関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。
しかし重光はこの合併を否定。結局、合併そのものも程なく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を日本ハムに売却、事態は収束した(この一連の詳細はプロ野球再編問題 (1973年)を参照)。
- 2004年、球界再編問題
また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるため更なる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。
この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れた事が判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、2軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併して、「ロッテライオンズ」、東京ヤクルトスワローズと合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが[21]、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。
結局同年オフ、ダイエーは産業再生機構の支援を受けて経営再建を図る事となり、ホークスはソフトバンクに売却されて福岡ソフトバンクホークスとなった。
ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(球団名のスポンサーとしては1969年から)、2009年現在パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。
ライオンズとの遺恨
千葉ロッテマリーンズと埼玉西武ライオンズは、前身の毎日・西鉄時代から1952年の平和台事件を発端に何かと遺恨を残している。
川崎球場時代のエピソード
5年間のジプシー時代を経て、1978年から川崎球場に落ち着いたロッテだったが、同年シーズンは移転早々、苦難に次ぐ苦難を強いられた。6月18日には川崎で阪急に前期優勝を決められ、更に前期終盤は2分けを挟んで日程終了まで負けっぱなしの15連敗(当時リーグ3度目のワーストタイ)。結局6月は0勝15敗4分と未勝利のまま終わり(2リーグ制以降の月間成績ワースト記録)、7月18日には西宮で阪急に4-23と大敗を喫し(阪急は当時リーグ新の最多22打点、リーグ2度目の最多得点タイ)、8月31日には宮城で今井雄太郎に完全試合達成を許し、挙げ句に9月27日には川崎でまた阪急に目の前で後期優勝を決められるなど、同年リーグ優勝の阪急を引き立てるばかり(シーズン対戦成績6勝17敗3分)。ロッテはこれが大きく響いて前期5位、後期3位でシーズン通算の年間順位も4位に終わり、金田は監督を辞任した。「ジプシー時代は本拠地が無いため緊張感があったのに、本拠地を持った途端に安心して油断したのではないか」と酷評する評論家もいたほどだった。さらに前年までリーグ2位だったロッテの観客動員数は激減し、同年は496,500人とリーグ5位に陥落。前年までの“家主”で横浜スタジアムに移転した大洋が1,437,000人と、前年の825,000人から大幅に観客動員を増やしたのとはまるで対照的だった。これが後に「閑古鳥」と揶揄される川崎時代のケチの付き始めとなる。
ロッテはその後1991年までの14年間に亘って川崎を本拠地として使用したが、観客動員の面では終始苦戦を強いられた。優勝争いに絡んだ1981年の854,300人をピークに、1986年までの観客動員数は平均60万人台と営業面で低迷し続けていた。また首都圏もしくは関東の他地区への本拠地移転も何度か検討されたものの、いずれも頓挫。千葉県千葉市の千葉県野球場や栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場など、候補地は浮かんでは消えていった[22]。またロッテは前身の毎日、大毎、東京時代を含め、当時の12球団で唯一最下位を経験した事がないチームだった(前後期制の1975年前期、1982年前期は最下位となっているが、シーズンを通算した年間最下位の経験はなし)。ところが、パ・リーグが再び1シーズン制となった1983年は43勝76敗11分と大きく負け越し、5位の南海にも8ゲームの大差を付けられて遂に球団史上初の年間最下位に沈むと、1986年以降は優勝争いどころかAクラスにも浮上できず、下位の常連に成り下がった。
ロッテが大映から球団を譲渡されたのは1971年だが、その3年後の1974年には日本一になっている。戦力補強や施設改善などチームの強化を行わないまま、球団保有開始から比較的短期間で優勝を果たしたのに加え、暫定移転した仙台で当時としては群を抜く観客動員を記録したのが、その後のチーム整備やファンサービスがおざなりになった遠因ではないかといわれている。丁度この頃、1974年の日本一メンバーが引退やトレードで少しずつロッテを去り始めていた。こうして球団の運営上の諸問題は、老朽化した川崎球場を舞台にいよいよ浮き彫りとなりつつあった。
その川崎球場は1952年の開場以来、大規模な改修はほとんど行われておらず、移転時には既に開場から26年を経過して老朽化が著しく進んでいた。市がロッテ移転に合わせて行ったのは室内練習場の新設くらいで、それ以外の箇所、即ちスタンドやフィールドについては外野フェンスの嵩上げなどごく小規模な改修が行われた程度に過ぎず、前年まで大洋が使っていた時とほとんど変わらない状態で供用されていた。またフィールドのみならず施設そのものも狭隘だったことから、それにまつわる様々なエピソードが残っている。
当時の主力有藤道世は「ロッカールームが湿気でジメジメしていて、バットやグラブ、スパイクを置いたまま1週間遠征に出るとカビが生えた。バットは一晩置いておくだけで20g重くなった」と証言している。またスタンドが低かったため、ファウルボールが一塁側場外に出ると「ドーン」或いは「ガシャーン」という音と共に、選手用駐車場に停めてあるロッテ選手の愛車を直撃することもしばしばあった。
作家の鉄矢多美子は、大学卒業後の1977年から10年間、ロッテ球団で場内アナウンスなどの仕事をしていたが、川崎移転時には老朽化した設備に四苦八苦したという。放送室に置かれたボールカウント表示用のスイッチには「昭和二十七年製」と書かれてあり、球場関係者から「壊れたら替える部品が無いので、丁寧に扱ってください」と注意されていた。またアナウンス中に足許にネズミが這い出してきたり、フィールド上でネズミとネコが追いかけっこをしたり、外野のスピーカーアンプの中にヒバリが巣を作っていたり、またある日の試合中にはウェイティングサークルにいた愛甲猛が放送室前のバックネットに臀部を押し付けるや、突然空調のない部屋目掛けて放屁したりと、当時のエピソードは枚挙に暇がないという。
また、川崎は映画やテレビドラマの撮影でもしばしば使われた。刑務所のトイレのシーンの撮影が、スタンド下のトイレで行われた事がある。また、ある刑事ドラマの撮影にも川崎が使われた。犯人が追っ手を逃れ、古ぼけた野球場のスコアボード棟に逃げ込むシーンの撮影だったが、ドラマの監督は撮影場所を選んだ理由について「都内近辺で、こんなオンボロのスコアボードがあるのは川崎しかない」と話していたという。
不入りは相当なもので、当時ロッテの選手がベンチでスタンドの観客数を数えたところ、僅か89人しかいなかったという事もあった程だった。主催者もついに外野席を無料開放し、宣伝カーを出して球場周辺の町内に「ただいま無料です」と放送して、来場を呼びかけていた。
来場者はスタンドがあまりにも不入りだったのに乗じて、ガラガラのスタンドでキャッチボールをしたり、複数の男性が上半身裸になって踊ったり、柔道の乱取りをしたり、試合中にもかかわらず、三塁側に隣接する川崎競輪場で行われている競輪をスタンド上段にある広告板の隙間から覗き見したり、スタンドの段差を使って流しそうめんを始めたり、卓を囲んで麻雀をしたり、本塁打が出れば持参した打ち上げ花火を点けたり、カップルが試合そっちのけでキスを交わしたり、ロッテに本塁打が3本出た試合では選手が投げ込むマスコット人形を1組の親子が3個ともキャッチしたりと、プロ野球の試合が開催されているとは思えない光景が連日繰り広げられ、「珍プレー好プレー」などテレビ番組でしばしば取り上げられた。中にはわざわざテレビに映るのを目的に川崎へ足を運び、こうしたパフォーマンスを行う者もいたほどだった[23]。
このような川崎の不入りぶりは何度も話のネタにされ、ビートたけしも「川崎球場では人が死んでも誰にも気付かれないので、ミイラ化した死体がゴロゴロ転がっている」などと毒づいていた。また、ロッテファンだったヨネスケ(落語家・桂米助)も、自作の新作落語で川崎球場の不入りぶりをネタにするなどしていた。その頃は成績もどん底だった為、マスメディアでロッテのフロントの無気力ぶりを批判されたり(例:朝日新聞1983年10月12日付記事)、週刊ベースボールの読者投稿欄「ボールパーク共和国」でもロッテの弱さや不人気ぶりを揶揄するネタやロッテのフロントに対する批判投稿が頻繁に掲載されたりもした。
川崎の設備や動員数の悪さは、日本でプレーした外国人選手にもいくつかのカルチャーショックを与えたといわれている。阪急ブレーブスのブーマー・ウェルズが来日初年、川崎球場で試合前の練習をした後「ところで本番の試合はどこでするんだろう」と思っていたところ、その後スタンドに観客が入ってきたので驚いたといわれている。当のブーマーは川崎球場をアメリカで言うところのマイナーリーグ、つまり2軍の野球場だと思い込み、試合は別の野球場に移動して行うものだと考えていたらしい。また、その日の川崎球場は客が不入りで、それこそマイナーリーグ並みの僅かな観客数だったため、その光景には「これが日本のプロ野球なのか」と特に驚いたようである。他にも1988年、ロッテはメジャー時代に4度首位打者に輝いたビル・マドロックの獲得に成功した際、一塁側ダッグアウト裏を改修してわざわざマドロック専用のロッカールームを用意した(1984年に近鉄に入団したものの、球団の待遇や施設の不備を巡ってシーズン序盤に退団したドン・マネーらの一件が背景にあったといわれる)。またマドロックは初めて川崎球場を訪れた際、狭隘なフィールドを見るや「この球場なら、本塁打50本は打てると思う」と豪語した(因みにマドロックは既に現役晩年だったこともあって同年の成績は平凡で、本塁打も19本にとどまった)。
このような状態からも察すことができるように、当時は球団・球場ともファンサービスには余り執心がなかった。右翼スタンドには川崎市が広告主となって「がんばれ! 市民球団ロッテオリオンズ」とチームを激励する広告(写真)を掲出したり、川崎駅構内にも「皆様の市民球団ロッテオリオンズを応援しましょう」と呼びかける看板を設けるなどしたものの、市は球場の改修については財政難や観客の不入りなどから終始消極的。当時全国の主要都市でドーム球場の建設が次々計画される中、川崎市でも一時ドームの建設構想が浮上したことがあったものの、結局頓挫した。ロッテは1987年から女性向けのPR用フリーペーパー「URE・P(ウレピー)」の配布を行ったり、芸能プロダクションの浅井企画の協力を得て場内でミニFM局による放送サービスを行うなどしてイメージアップを図ったものの、球場の設備そのものは改善されないまま。同年の観客動員数は6年ぶりに70万人を越えて778,000人を記録したものの、観客動員100万人達成など、まさしく夢のまた夢の話だった。
そして1988年10月19日のいわゆる「10.19」では、普段川崎を訪れない観客が多く来場したこともあって数々の問題点が露呈された。場内のトイレは男女兼用で、女性は用便をする際には男性用の小便器の横を通って個室に行かねばならなかった。普段は観客が少ないこともあってスタンドには売り子が配置されておらず、ビールや軽食・菓子は観客自らわざわざネット裏1階の売店まで出向いて購入しなければならなかった。内野場外にはラーメン店、お好み焼き店、そば・うどん店等があったが、10.19の際にはどの店も試合途中で僅かな食材のストックを使い果たし、麺が底を突いたラーメン店では空腹の観客が「せめてスープだけでも分けて欲しい」と嘆願する一幕もあったほどだった。この10.19が、翌1989年から着手された川崎球場の改装工事の契機となったといわれている。
その1989年、南海がダイエーに売却されて福岡に移転し「福岡ダイエーホークス」となると、球団史上初の観客動員100万人を達成した(1,251,000人)。これによって当時のプロ野球12球団で100万人を超えた経験がないのは、遂にロッテ1球団だけとなった。それ以前からも、落合博満の応援歌(後には高沢秀昭、初芝清に流用)では「ロッテの夢は観客動員100万人」と、この状態を皮肉った歌詞が当てられている。これらのロッテ球団の問題点は当然当時の野球少年達にも知られ、「最も入りたくない球団」の代名詞となり、例えば古木克明(元横浜、オリックス。現:格闘家)が小学校の文集で「将来はプロ野球選手になりたい。しかし大洋とロッテには入りたくない」と書いたり(皮肉にも大洋改め横浜に1998年ドラフト1位でプロ入り。もっとも横浜は同年38年ぶりに日本シリーズを制覇したが)、1990年ドラフトの超目玉小池秀郎の交渉権を8球団の抽選により運良く獲得したものの入団を拒否されたりと散々な扱いだった。
1991年、川崎市が総額14億円を投入して行った改修事業が完工。フィールドの人工芝化、スコアボードの電光化、一部座席の取替えなどが実施された。同年シーズン、ロッテは本格的な誘客キャンペーンの実施に乗り出した。キャッチフレーズを「テレビじゃ見れない川崎劇場」と銘打ち、自虐的なテレビコマーシャルが首都圏で放映された。だが老朽化した施設が抜本的に改善されたわけではなく、数々の問題が完全に払拭されたわけではなかった。
またこの間、千葉県千葉市が千葉マリンスタジアムを1990年に竣工させ、ロッテ側に対して本拠地誘致を積極的に進めていた。ロッテはこれを受けて6月の段階で千葉への移転を方針付け、そして7月31日(この日パ初の千葉マリンでの公式戦、ロッテ対西武戦が行われた)、重光球団社長代行は同日のオーナー会議の席上、翌1992年から本拠地を千葉マリンスタジアムに移転する意向を公式に表明した。重光は「千葉には現在フランチャイズがなく、野球ファンの底辺拡大にも繋がる」と理解を求め、出席者の了解を得た。また球団名についてはこの時点では「ニックネームのオリオンズは変えないが、地元意識を高めるため『千葉』を入れたい」とし、「ロッテオリオンズ」を移転後の仮称とした。但しこれまでの川崎市との関係も考慮して「今後も年間5 - 10試合程度開催したい」とし、川崎でも継続して公式戦を行う考えであった。しかし川崎市側は川崎球場を改修したばかりであったことから、この移転発表には猛反発。市はロッテに対し千葉移転に関する収入補償を求める方針を決定したが、ロッテはこれまで市側に対し、何度となく川崎球場の改修もしくは新球場の整備を求めてきたのを拒否し続けられた過去の経緯からこれを拒否。予定していた川崎での試合開催数も削減することになった。
結局9月4日、実行委員会でロッテの保護地域の千葉県への移転が承認された。10月17日、川崎の本拠地としての最終戦・対福岡ダイエー25・26回戦ダブルヘッダーが行われ、第1試合は7-3、第2試合は7回雨天コールドで5-4とロッテが連勝し、“川崎劇場”に幕を下ろした。ロッテの同年の観客動員数は1,021,000人。球団史上初、12球団ではしんがりとなる“夢の”100万人突破を川崎最終年にしてようやく達成した。
球団名は一般公募により改称することになり、11月21日、新たな球団名は「千葉ロッテマリーンズ」と決まった(応募1位の愛称は上記の通り「ドルフィンズ」だった)。
千葉移転初年の1992年、ロッテは7月3日・7月4日に川崎で対近鉄バファローズ2連戦を開催。3日は18,000人、4日は23,000人を集め、これがロッテが川崎で主催する最後の公式戦、そしてプロ野球一軍最後の公式戦となった(翌1993年には横浜対阪神戦が予定されていたが雨天中止となった)。
ロッテはこの川崎で低迷期を味わってきた。設備は古く観客も少なかったが、それでも当時を知る者は振り返るたびに「いい思い出だった」と語っている。有藤は「ジプシー時代から解放され、川崎が本拠地に決まった時は嬉しかった。球場は汚かったけど“住めば都”で、グラウンドとスタンドが一体になった雰囲気は良かった」、鉄矢も「時代遅れの空間だったけど、人々の体温を感じる球場だった」、2010年に引退し川崎時代を知る最後の選手となった堀幸一も「当時は他の球場が羨ましかったが(堀が入団した1988年に日本ハムの本拠地だった東京ドームが開業した)、いい事も悪い事もいい思い出。プロに入って初めての球場で、川崎最後の年に初めてレギュラーを獲ったし、思い入れがある」と語っている。
ロッテの千葉移転後、川崎球場は首都大学野球連盟のリーグ戦や社会人野球などのアマチュア野球で使われた他、アメリカンフットボールのXリーグやプロレスのFMWなどが開催され、プロ野球でも既述の1992年の公式戦2試合以外にオープン戦やイースタンリーグが開催されたが、スタンドの老朽化はさらに進行し、震度6程度の地震で倒壊する危険性が1999年12月の検査で指摘されたため、同年度最終日の2000年3月31日限りでの一時閉鎖とスタンド解体が決まった。これを受け、3月26日に横浜スタジアムでロッテとのオープン戦(プロ野球サントリーカップ)を予定していた横浜ベイスターズが川崎球場への球場変更を提案しロッテが応じたため、同日に「川崎劇場ファイナル」として、かつて同球場を本拠地としたチーム同士による改装前最終戦の開催が実現した。安全性の観点から公式発表で2万1000人に抑えられた観衆の前で行われた試合は合計10本の本塁打、うち小坂誠が1イニング2発の大乱打戦となり、22-6でロッテが勝利した[24]。川崎球場は2001年に小規模なスタンドを整備して再開され、現在は硬式野球の開催が不可となったものの、アメリカンフットボールを中心に使用されている。
川崎本拠地時代のロッテの観客動員数(1978年 - 1982年はプレーオフを除く)
チーム順位 | 年間観客動員数 (リーグ内順位) |
主な出来事 | |
---|---|---|---|
1978年 | 前期5位・後期3位 年間4位 |
496,500人(5) | 阪急が前期・後期とも川崎で優勝決定 金田監督が引責辞任 |
1979年 | 前期4位・後期3位 年間4位 |
467,200人(5) | |
1980年 | 前期優勝・後期3位 年間2位 |
773,500人(4) | 張本勲通算3000本安打達成 プレーオフ進出も近鉄に敗れる |
1981年 | 前期優勝・後期3位 年間3位 |
854,300人(3) | プレーオフ進出も日本ハムに敗れる |
1982年 | 前期6位・後期4位 年間5位 |
652,200人(3) | |
1983年 | 6位 | 634,000人(5) | 球団史上初の年間最下位 |
1984年 | 2位 | 685,300人(4) | |
1985年 | 2位 | 638,500人(4) | 落合博満三冠王 |
1986年 | 4位 | 692,700人(5) | 落合、2年連続三冠王 |
1987年 | 5位 | 778,800人(6) | |
1988年 | 6位 | 816,000人(6) | 近鉄戦ダブルヘッダー「10.19」 |
1989年 | 6位 | 841,000人(6) | 村田兆治、通算199勝から川崎で2連敗 オリックス3連戦「10.12、10.13」 |
1990年 | 5位 | 786,000人(6) | |
1991年 | 6位 | 1,021,000人(6) | 翌年から千葉への移転を発表 |
その後
落語家・ヨネスケ(桂米助)は、川崎時代には前述の通り、当時の不入りぶりをネタにした新作落語を発表したが、ロッテが千葉に移転した1992年には古典落語「寝床」をアレンジした「ロッテグループの社長たちが、千葉マリンでの観戦会に嫌々集まってくる」というストーリーの新作落語「野球寝床」を発表している。この「野球寝床」にはその後も現在に至るまでアレンジが加えられ続けており、その年の球団やプロ野球界の動向に因んだフレーズが織り込まれている。
また、2000年代以降、この川崎時代のロッテに因んだイベントやパフォーマンスが何度か行われている。
- 2005年7月4日に東京ドームで開催された対日本ハム戦で、両チームのマスコットキャラクターが、開放されていない2階席を利用して流しそうめんをするというパフォーマンスが行われた。
- 2007年5月25日に千葉マリンで開催された対横浜ベイスターズ1回戦で、ロッテはかつて同じ川崎球場を本拠地とした両球団の対戦に因んで、川崎時代をモチーフにしたイベントを実施した。当時球場内で販売されていた「肉うどん」や「パインジュース」、東京都大田区の弁当店「鳥久」の弁当などの復刻販売が行われ、試合前の始球式には村田兆治が登板、球速135kmを記録して喝采を呼んだ。なお、このイベントは翌5月26日の同カードでも予定していたものの当日は雨天中止、6月25日の同4回戦に振り替えられた。また、このうち肉うどん、鳥久の弁当の復刻販売は2008年以降も、交流戦の対横浜2連戦で実施されている。
- 2008年にはロッテの球団継承40周年を記念して「オールドユニフォームシリーズ」を実施。選手は仙台移転初年の1973年から川崎最終年の1991年まで使ったモデルを、8月13日から8月18日までの6連戦で着用した。
悪夢の18連敗
1998年、ロッテは6月13日から7月8日までの19試合で、プロ野球記録となる18連敗(1分を挟む)を喫した。
月日 | スコア | 開催球場 | 勝敗 | 責任投手 |
---|---|---|---|---|
6月12日 | ロッテ 2-1 オリックス | 千葉マリン | ○ | 黒木知宏 |
6月13日 | ロッテ 4-6 オリックス | 千葉マリン | ● | 小宮山悟 |
6月16日 | ロッテ 8-12 近鉄 | 藤井寺 | ● | 竹清剛治 |
6月17日 | ロッテ 6-9 近鉄 | 藤井寺 | ● | 近藤芳久 |
6月18日 | ロッテ 5-7x 近鉄 (延長11回) |
藤井寺 | ● | 竹清剛治 |
6月19日 | ロッテ 0-7 日本ハム | 東京ドーム | ● | 小宮山悟 |
6月20日 | ロッテ 2-3 日本ハム | 東京ドーム | ● | 黒木知宏 |
6月21日 | ロッテ 10-11x 日本ハム | 東京ドーム | ● | 黒木知宏 |
6月23日 | ロッテ 0-4 西武 | 富山市民 | ● | 薮田安彦 |
6月24日 | ロッテ 5-6x 西武 (延長11回) |
富山市民 | ● | 竹清剛治 |
6月26日 | ロッテ 1-3 近鉄 (延長11回) |
千葉マリン | ● | 藤田宗一 |
6月27日 | ロッテ 1-3 近鉄 | 千葉マリン | ● | 武藤潤一郎 |
6月28日 | ロッテ 2-6 近鉄 | 千葉マリン | ● | クロフォード |
6月30日 | ロッテ 5-5 西武 (延長12回) |
福井 | △ | - |
7月1日 | ロッテ 4-7 西武 | 石川県立 | ● | 礒恒之 |
7月3日 | ロッテ 3-4 ダイエー | 千葉マリン | ● | 小宮山悟 |
7月4日 | ロッテ 7-10 ダイエー (延長11回) |
千葉マリン | ● | 礒恒之 |
7月5日 | ロッテ 3-10 ダイエー | 千葉マリン | ● | クロフォード |
7月7日 | ロッテ 3-7x オリックス (延長12回) |
GS神戸 | ● | 藤田宗一 |
7月8日 | ロッテ 4-6 オリックス | GS神戸 | ● | 薮田安彦 |
7月9日 | ロッテ 9-6 オリックス | GS神戸 | ○ | 小宮山悟 |
ロッテは6月12日の対オリックス・ブルーウェーブ11回戦(千葉マリン)で、先発の黒木がオリックス打線を3安打に抑えて2-1と投手戦を制したのを最後に、それから実に約1か月もの間、白星から見放された。
投手陣はシーズン序盤から小宮山、黒木、武藤ら先発陣が安定した成績を残していたものの、前年シーズンに右肘の手術を受けたストッパーの成本年秀はリハビリのためシーズン当初から戦線に加われず、その成本と共にストッパーを任されていた河本育之も左肩に炎症を発症し、開幕1か月も経たぬうちに戦線離脱を余儀なくされた。開幕直前に獲得した外国人右腕のスコット・デービソンは中継ぎとして4月まで5試合に登板し好投していたが、5月に入ると右肩痛を発症して離脱した[25]。加えて彼らに代わる竹清、吉田篤史らリリーフ陣も相次いで不調に陥り、ルーキー・藤田の奮闘こそあったもののブルペンの台所事情は徐々に深刻化。フロントは急遽ブライアン・ウォーレンをストッパー役として獲得するが、チーム合流は7月中旬まで待つこととなった。一方、打線はフリオ・フランコが調子を崩しはじめていたものの、堀幸一や平井光親、立川隆史ら好調を維持する選手も多かった。だが好機で得点を奪えない上に併殺打も多く、投打の歯車が噛み合わない展開が相次ぐちくはぐな状況から、チーム全体に大きな負担がのし掛かり始めていた。ロッテは4月を首位で快走するなど序盤戦は好調だったが、その後じりじりと順位を下げて5位に陥落し、12日の時点でシーズン通算23勝25敗、勝率.479。戦績の上では辛うじてほぼ五分を保っていたとはいえ、その23勝分の責任投手は全て先発投手。終盤に競り合う試合展開では継投失敗や拙攻が続き、手痛い形で勝利を逸すことが少なくなく、同日までの1点差敗戦は16試合にも及んでいた。
そして翌6月13日の同12回戦(同)、エース小宮山が2点のリードを守れず、8安打を喫して5回途中5失点でKOされるなどし、4-6で敗れたのを皮切りに連敗が始まった。6月16日からの対大阪近鉄バファローズ3連戦(藤井寺)では先発・リリーフとも大崩れして3連敗。こうした状況から近藤昭仁監督は吉田を登録抹消し、黒木にストッパー転向を打診、毎試合ブルペンに入ることになった。だが黒木は対日本ハムファイターズ3連戦(東京ドーム)のうち2戦目以降の2試合で、さらに対大阪近鉄3連戦(千葉マリン)の初戦の計3試合でいずれも救援に失敗し、遂に10連敗。結局黒木はストッパーを外され、再び先発として調整することになった。
ロッテはこの間、打線が奮起しても投手陣がリードを守れなかったり、投手戦では打線の援護なく競り負けたりと文字通り噛み合わない展開が相次ぎ、次々と黒星を重ねた。10連敗を喫した頃にはマスメディアもこの異変に注目し、次第に各媒体でも大きく取り扱われはじめた。6月27日に11連敗を喫し、遂にパ・リーグ最下位に転落。6月30日の対西武ライオンズ2連戦の初戦(福井)で引き分けたものの、試合後に中村稔投手コーチの更迭が決まった他、翌7月1日の2戦目(金沢)で13連敗を喫した後には三ツ野充蔵球団代表がファンに対し謝罪するなど、事態は混迷を極めた。7月3日からの対福岡ダイエーホークス3連戦(千葉マリン)でも3連敗。ワースト記録が目前に迫った7月4日の試合前、シーズン中としては異例の御祓いを受けたものの延長戦の末に15連敗を喫し、1955年に大映スターズ、1969年に南海ホークス、1978年にロッテオリオンズ自らが計3回記録したパ・リーグワーストタイ記録に到達。さらに翌7月5日に16連敗を喫してリーグ記録を更新し、遂に1リーグ時代の1936年に大東京軍(のちの松竹ロビンスの前身)、2リーグ分立後の1970年にセ・リーグのヤクルトアトムズが計2回記録したプロ野球ワーストタイ記録にまで達してしまった。
こうして迎えた7月7日の対オリックス13回戦(GS神戸)、ロッテは先発に黒木を立て、終盤までに3-1とリードを奪い、待ち望んだ連敗脱出が目の前に見えてきた。8回まで被安打2と好投していた黒木は、そのまま完投を目指して9回のマウンドに上がった。しかし二死一塁とするとハービー・プリアムに対し、カウント2-1から投じた139球目を叩かれ、左翼ポール際へ11号同点2ラン本塁打。「あと1球」の土壇場から一転、振り出しに戻されてしまった。黒木は打球を見送ると崩れ落ちるようにしゃがみ込んで呆然と涙を流し、うずくまったまま立ち上がることすらできなかった。(試合後プリアムは「これがプロの厳しさだ。これを乗り越えれば彼は一流の投手になれる」と語ったという。)降板を告げられた黒木は鈴木悳夫バッテリーコーチらに抱きかかえられてようやく立ち上がり、ダグアウト裏へ下がると堰を切ったように号泣、嗚咽はダグアウトを通じてフィールドにまで達した。25日ぶりの勝利を最後の1球でふいにした罪悪感に駆られ、さらに極度の疲労と緊張で全身が痙攣し、降板直後は右腕が曲げられず、鈴木悳夫バッテリーコーチに腕を支えられて帰宅。試合は延長12回、近藤が無死満塁から代打広永益隆に1号サヨナラ満塁本塁打を浴び、遂に日本新記録の17連敗。(広永はヤクルト時代の1995年にも代打サヨナラ本塁打を放っており、史上2人目の両リーグ代打サヨナラ本塁打記録者となっている)1リーグ制時代からは62年ぶり、2リーグ制以降では28年ぶりの記録更新となってしまった。翌7月8日の同14回戦(同)も敗れ、ワースト記録は18にまで達した。黒木が本塁打を喫した直後のうなだれた姿は当時大きな反響を呼び、七夕の悲劇とも揶揄された。
7月9日の同15回戦(同)は序盤に打線が奮起して5回までに9点を奪い、先発の小宮山も6回に7連打を喫するなど5点を失ったものの大量リードに守られ、14被安打6失点ながら140球で完投し、9-6で勝利。実に27日ぶりにトンネルを脱出した。小宮山は試合後のヒーローインタビューで「6回の点の取られ方は自分でも信じられなかった。何か取り憑いてるんじゃないかという気持ちになりかけたが、本当に勝って良かったです」と話し、近藤監督も「選手は辛かったと思う。凄い試合ばかりで疲れている中、全員よく頑張った」とナインを労った。
ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4。連敗脱出後はウォーレンの加入、河本の戦線復帰でブルペンが強化されるなど復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは遂に脱することができず、結果的にこの18連敗がシーズンを通じて大きな痛手となった。
これだけ負け続けたものの、ロッテのファンクラブ会員数は4月末時点には約20,000人だったのが、連敗中に入会者が急増して約30,000人にまで増加したという。また当時のプロ野球ワーストタイ記録に並んだ7月5日の試合後には、千葉マリンスタジアムの正面玄関前にファン約500人が集結し、応援歌『俺たちの誇り』を歌い続けたという逸話もある。現在のマリーンズファンの多くはこの18連敗からファンになった者も多いと言われている。
一方、先のプリアムの同点本塁打を喫した黒木はその後奮起し、13勝9敗、勝率.591の好成績を挙げて同年シーズンの最多勝利・最高勝率の投手二冠に輝いている。また2007年シーズン終了後に現役引退を決意した際、記者会見でこの同点本塁打と18連敗を「忘れられない思い出」として挙げ、「こうした経験を基に、野球の素晴らしさ、怖さを伝えていきたい」と第二の人生の抱負を述べている。
1試合最多得点完封勝利試合
2005年の開幕2連戦、ロッテは同年新規参入した新球団東北楽天ゴールデンイーグルスを地元・千葉マリンに迎えて対戦した。
開幕戦となった3月26日の1回戦は0-1の完封負けを喫し、楽天に球団初白星を献上。だが翌3月27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の渡辺俊介が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。
26点差での完封勝利は1946年7月15日、富山県の高岡工業専門学校グラウンドでの公式戦でグレートリング(現在の福岡ソフトバンクホークスの前身)がゴールドスター(のちの大映ユニオンズ、その後毎日オリオンズと合併)を相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなるプロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。また1試合最多得点の球団記録も、前身の毎日オリオンズが1950年5月31日に対東急フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
楽天 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
ロッテ | 2 | 11 | 1 | 0 | 1 | 4 | 0 | 7 | x | 26 |
韓国での公式戦開催構想
ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から韓国と台湾での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対福岡ソフトバンクホークス2連戦とし、釜山の社稷(サジク)野球場、ソウルの蚕室(チャムシル)総合運動場野球場で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である仁川の文鶴(ムナク)野球場での開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。
だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は前述)。
1イニング最多記録を7つ樹立
ロッテは2009年6月11日の対広島東洋カープ4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の太字は新記録及びタイ記録)。
1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの、打者2巡・1イニング打者20人はこれまでの18人を更新する新記録。1イニング15得点、1イニング15打点も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。打者3人目の井口資仁から15人目の里崎智也まで3四死球を挟んで記録した10打数連続安打は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。加えて里崎の後にはチェイス・ランビンと今江敏晃も死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する15者連続出塁の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。さらにこの間、井口からランビンまで記録した14連続得点も、1992年7月26日にオリックス・ブルーウェーブが対福岡ダイエーホークス21回戦(GS神戸)で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。
また、この回先頭の福浦和也は2打席目に代走を送られたが、続く大松尚逸は日本プロ野球史上初の1イニング3打席を記録した。だが2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れ、試合後には「不思議な感じ。自分はアウトを2つ取られた。損したのか得したのか分からない」と苦笑いしていた。
結局ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2で圧勝。ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目の2005年6月12日に読売ジャイアンツが対西武ライオンズ6回戦(東京ドーム)で記録した19得点を更新するセ・パ交流戦最多得点の新記録となり、交流戦初の20得点以上をマークした。
ロッテは前日の6月10日、広島先発のコルビー・ルイスに苦しめられるなど11残塁13三振を喫する拙攻で完封負けを喫していただけに、試合後のボビー・バレンタイン監督は「昨日はラッキーな安打が出なくて苦労したのに、今日はそんな安打が何本も出たね」と満足そうだった。一方、大量失点を喫して敗れた広島のマーティ・ブラウン監督は「まるでラグビーだね」と怒りを通り越して呆れ返り「今日の勝者はマリーンズじゃない。むしろ、これだけ点差があっても応援し続けてくれた左翼席のカープファンこそが真の勝者だ」と悔しさをにじませていた。
球団ではこの記録達成を記念して、このイニングに出場した12人が当日使用していたバットを納めた「1イニング15得点記念モニュメント」を作成し、8月1日から千葉マリンスタジアムの内野スタンド2階Bゲート付近にて展示している。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
広島 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
ロッテ | 0 | 2 | 5 | 0 | 0 | 15 | 1 | 0 | x | 23 |
- ロッテ6回裏の攻撃(括弧内は得点数)
- 福浦 左前安打
- 大松 三飛
- 井口 中前安打
- 橋本将 右前安打 (1)
- サブロー 四球
- 里崎 中前安打 (1)
- ランビン 左前安打 (1)
- 今江 四球 (1)
- 早坂 死球 (1)
- 福浦 右前安打 (1)
- 大松 右二塁打 (2)
- 塀内 右前安打 (2)
- 橋本将 中前安打
- サブロー 中前安打 (1)
- 里崎 中前安打 (1)
- ランビン 死球
- 今江 遊ゴロ失策 (1)
- 田中雅 中犠飛 (1)
- 堀 中前安打 (1)
- 大松 右飛
1イニング最多連続打席安打
2010年6月7日の対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)で、7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。
ロッテは1点ビハインドのこの回、一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りに、南竜介の左前安打から連打攻勢がスタート。代打青野毅が中前安打で満塁とすると、西岡剛の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルト先発の村中恭兵をKOした。さらに今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。続けて金泰均が15号満塁、サブローも10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回ったフアン・ムニスが二塁打で出塁すると、里崎も8号2ラン本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成。そして南がこの回2本目の中前安打を放って10者連続安打の新記録を達成した。
青野の代打で送られた岡田幸文が三塁ゴロに倒れ、連続記録はストップ。岡田は試合後「すみません。知りませんでした」と平身低頭だった。同日、ロッテがこの記録を達成した直後にはオリックス・バファローズが対広島東洋カープ4回戦(福山市民球場)の6回表に、やはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。試合は結局14-2で大勝。西村徳文監督は試合後「同じ日に同じ事をやるとは思わなかった」と驚嘆しつつも、報道陣の「もう1本続いていれば単独新記録だった」という問いに対しては「そんな贅沢は言ってられない。よく繋いでくれた」と笑顔を見せ、快挙を達成したナインを讃えた。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ロッテ | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 10 | 3 | 0 | 14 |
ヤクルト | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
- ロッテ7回表の攻撃(括弧内は得点数)
- ムニス 投ゴロ
- 里崎 四球
- 南 左前安打
- 青野 中前安打
- 西岡 左前安打 (2)
- 今江 中前安打
- 井口 三塁安打 (1)
- 金泰均 左本塁打 (4)
- サブロー 左本塁打 (1)
- ムニス 左中間二塁打
- 里崎 右中間本塁打 (2)
- 南 中前安打
- 岡田 三ゴロ
- 西岡 遊飛
1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したのは、前述のヤクルトに次いでロッテが史上2チーム目。ヤクルトが1度目に達成したのは1998年4月22日の対中日ドラゴンズ戦でのもので、2年連続での達成は史上初のケースである。さらにロッテが1イニング10連続以上の得点を記録したのは前述の2005年の楽天戦(10連続)、2009年の広島戦(14連続・プロ野球記録)に次いで、これが通算3度目。2桁連続得点は阪神タイガースが通算5度と最も多く、ロッテは中日と並んで2位タイ、パ・リーグではオリックスの2度を抜いてリーグ最多である。
加えてこの日開催されたセ・パ交流戦の6試合で、パ・リーグ6球団が挙げた総得点は55得点(オリックス21、ロッテ14、日本ハム13、西武4、ソフトバンク3、楽天0)で、1日あたりのリーグ総得点の新記録も更新している。
鬼門の仙台
ロッテは宮城県仙台市の宮城球場(2008年から施設命名権によりクリネックススタジアム宮城)での公式戦において、10連敗以上を2回記録している。同球場を暫定的に本拠地としていた1973年から1977年にかけての5シーズンでは2桁連敗の経験はなかったが、首都圏に本拠地を再移転してからはこれを2度喫している。
1度目は1991年から1994年にかけ、ロッテ主催の地方開催試合で足掛け4シーズンにわたって喫した12連敗。2度目は2009年7月9日から2010年9月19日にかけ、足掛け2シーズンにわたって喫した16連敗。宮城球場は2005年から東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となっており、後者の連敗はいずれも対楽天戦でのものである。ロッテはこの間、同カードのビジター戦では2010年4月21日に郡山総合運動場開成山野球場で開催された同5回戦に6-0で勝利したのみで、仙台では全敗を喫していた[26]。9月20日の同22回戦、延長12回の末に9-7で勝利して連敗を16で止めると、翌9月21日の同23回戦は12-2で大勝して同年シーズンの仙台での試合を終えたものの、結局このカードのビジター戦は2年連続で3勝9敗と大きく負け越した。
なお同一球場・同一カードの最多連敗記録は、1954年から1956年にかけ、大映スターズが後楽園球場での対南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)戦で記録した21連敗である。
放送
テレビ・ラジオ中継
テレビ中継は全てハイビジョン制作
- CTCマリーンズナイター(チバテレ):千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像(解説・実況はチバテレ制作)
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS):球団の公式映像(解説・実況はJ SPORTS制作。かつては千葉マリンスタジアムビジョン制作協力。現在はExpress制作協力)
- TwellV プロ野球中継(TwellV):2008年シーズンからTwellVでマリーンズ主催試合(公式戦)の内およそ60試合をハイビジョンで生中継。(チバテレ、J SPORTSと同じ千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像。解説・実況は球団制作で、後述の動画中継と同じもの)
- スーパーベースボール(BS朝日):CTCマリーンズナイターの同時中継(2007年まで)、2008年からは上記のTwellVでも使われる球団制作の中継。
- NHKプロ野球(NHK総合テレビ・BS1):BS1の中継のみ千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像
- ラジオ日本マリーンズナイター(RFラジオ日本 なお同局は読売新聞グループの一員であり「ラジオ日本ジャイアンツナイター」を放送している事にも見られるように、通常は読売ジャイアンツ戦が主である)
- 文化放送ライオンズナイター(文化放送):俳優・かわのをとやをマリーンズ専任リポーターとして起用
- 東京球場・ジプシー・川崎球場時代
- CTCダイナミックナイター(千葉テレビ。東京球場時代。1971年5月1日開局の事実上第1号番組は東京球場でのロッテ対東映戦のデーゲーム生放送だった)
- TVKハイアップ・ナイター(パ・リーグナイター)(テレビ神奈川。宮城を主戦場としたジプシー時代と川崎球場時代)
- TBCダイナミックナイター(東北放送ラジオ。ジプシー時代、及び川崎球場を本拠としたあとも準本拠として使用していた時代)
- 応援番組
インターネット中継
パシフィック・リーグはセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦ができる状況になっている。
各球団が様々な形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た(なお、GyaOでの放送は、日本国外からは視聴不能)。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。
「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。
中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。
2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。また、NTT東日本のインターネット接続サービス「フレッツ」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。
2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。
いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。
ロッテレビ
JCN千葉制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内のJCNグループのケーブルテレビ局(千葉・船橋習志野・市川・コアラ葛飾のJCNプラスチャンネル(コミュニティチャンネル)で放送されている。
千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「ロッテレビ~マリーンズフリークス~」。タイトルの由来は、"マリーンズ一筋""マリーンズ命"などの意味から生まれた『マリーンズ狂』を示す。
番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する『ロングインタビュー』や『マークンファミリーの取材』『球団主催行事取材』など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。またゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子(愛称:クッキー)。
マリーンズ・ベースボール・アカデミー
2010年4月10日からTwellVにて放映されている、少年野球向けテレビ講座。これまでも「プロ野球チームによる野球講座」を映像ソフトとして制作・発売している球団は存在したが、テレビ放送として行なうのは日本球界では初の試み(ただし、同年4月4日からフジテレビジョンにて東京ヤクルトスワローズが制作協力にあたっている「スワローズキッズアカデミー」の放送を開始している)。ロッテ球団が千葉県内の少年野球選手を対象として行なっている野球教室「マリーンズ・アカデミー」で講師を務めている武藤一邦・高沢秀昭・園川一美・平井光親の他、現役のロッテ選手も登場を予定している[27]。司会進行はこなつ。
ミュージアム
前身「毎日オリオンズ」当時からの記録が展示保存されている「マリーンズ・ミュージアム」を持つ。千葉マリンスタジアム#設備を参照。
脚注
- ^ 2010年度はアジアシリーズの代替として、日韓クラブチャンピオンシップを開催。
- ^ 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)P164。ここでは1958年に『週刊サンケイ』に載った中澤不二雄の意見と、1959年の『週刊読売』の記事が紹介されている。
- ^ 井上2001年、P163および永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P155
- ^ 上記井上2001年、P166および永井・橋爪2003年、P155
- ^ 球団の経営権利譲渡で、連盟登記の球団名やユニフォームなどを変更しなかったケースはこれが初である。類似の例として2001年の横浜ベイスターズが挙げられる(球団をマルハからTBSに譲渡したとき、チーム名やユニフォームなどは全て従来のままとした)。
- ^ ロッテ、ついに落合放出 中日と1対4のトレード発表 - スポーツニッポン
- ^ このことは後年、フジテレビの番組「トリビアの泉」でも紹介された。
- ^ 4時間を越えたら新しいイニングに入らないという時間制限のため。結果としてはこれが試合に大きく影響した
- ^ 同一チームから2ケタ勝利投手が6人出たのは1956年と1963年の南海ホークス以来である。
- ^ 日本代表8人、イタリア代表1人、韓国代表1人(巨人に移籍した李を含む)。
- ^ パ・リーグでは1966年の東映対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事。
- ^ 開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。
- ^ 日本球界では2007年の中日(セ・リーグ)に続き2例目
- ^ 前年日本一のチームがリーグ最下位になったのはパ・リーグでは初めて、セリーグを含めても3球団目。ただし、ロッテはレギュラーシーズン勝率は3位だったのに対し、過去の2例(1961年大洋、1979年ヤクルト)はともにレギュラーシーズンの勝率は1位とその性格は異なる。リーグ優勝から翌年最下位の例は1981年の近鉄の例がある(当時のパ・リーグは前後期制で、1980年は前期はロッテ、後期は近鉄が優勝。年間順位は近鉄が上で、現在の方式なら近鉄が優勝となる)。
- ^ アジアシリーズの振り替え大会
- ^ マリーンズ公式マスコットキャラクター『マーくん』公式twitterアカウントを開設!!- 球団公式ホームページ 2012年4月2日閲覧
- ^ 18時半開始はパ・リーグでは過去に西武ライオンズが1985年ごろまで実施。更にオリックスが阪急西宮球場本拠地最終年となった1990年の主催ナイターを18時半に全て開始した事例がある。セ・リーグではヤクルトが1989年まで神宮での試合を大学野球の都合もあり、通年で18時半開始としていた他、横浜ベイスターズも2009年の火曜日の一部の試合でテレビ中継(当時19時55分から21時48分にナイターを放送)の都合上18時半開始とした試合があった
- ^ 独立リーグ結果&ニュース : 育成選手の独立リーグ派遣OKに-スポーツコミュニケーション2012年3月1日
- ^ ちなみにこの年はヤクルト、ソフトバンク、西武、広島も交流戦を中心に過去のユニフォームを着用しており、復刻ユニフォームの当たり年である。
- ^ 「やくやくスポーツらんど」第1巻参照。
- ^ 両計画とも、本拠地は千葉マリンスタジアムとすることを構想していた。
- ^ このほか、1984年から1986年に監督を務めた稲尾和久は、球団を数年以内に福岡市に移転させる条件で就任を引き受けたと著書に記している。
- ^ このような行為を止めさせるために2005年、「試合観戦契約約款」が定められた。現在は同約款第8条に抵触するものであり全て禁止され、場合によっては退場処分となる。
- ^ スポーツニッポン 日めくり野球3月「【3月26日】2000年(平12)“川崎劇場”ついにフィナーレ 10本塁打で花添える」。この試合では堀幸一も2本の本塁打を打った。
- ^ デービソンは5月8日に精密検査のため帰国し、5月28日に内視鏡手術を受け全治6か月と診断され、シーズン中の復帰が絶望的となった為そのまま戦力外となった。
- ^ ロッテはこの他、東京ドームで開催された2010年4月20日の同4回戦でも2-8で敗れている。
- ^ テレビ野球教室番組『マリーンズ・ベースボール・アカデミー』放送開始のお知らせ- 球団公式ホームページ 2010年3月5日閲覧
関連項目
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧
- Template:千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団ドラフト指名選手
- 千葉ロッテマリーンズ主催試合の地方球場一覧
- ロッテ・ジャイアンツ(韓国のプロ野球チーム)
- 淑徳大学 - パートナーシップに関する包括協定を締結している。
- 千葉日報・千葉テレビ - 応援をしている地元マスコミ。
- スポーツニッポン - 毎日新聞社がかつてオーナー企業だった関係で、祝勝紙面を提供する。
- 千葉ロッテマリーンズの応援団
- 千葉商科大学 - サービス創造学部の公式サポーター企業
- アストロ球団 - 漫画作品。アストロ球場のフランチャイズ権(1年間)を賭けて、金田正一監督率いるロッテオリオンズがアストロ球団と対戦。
- 弁当の呪い
- 平松可奈子(SKE48) - 自身の持ちネタに拝借している。
外部リンク
- 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト
- marines.tv(千葉ロッテマリーンズ・ネット放送局)
- 千葉ロッテマリーンズ公式アカウント (@Chiba_Lotte) - X(旧Twitter)
- マーくん公式アカウント (@clm_markun) - X(旧Twitter)
- 千葉ロッテマリーンズ (chibalotte) - Facebook
- chibalotte - Ustream
- マリーンズチャンネル - ニコニコチャンネル