吉田茂

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吉田 茂
よしだ しげる
吉田茂の肖像写真
生年月日 1878年9月22日
出生地 日本の旗 東京神田駿河台
(現東京都千代田区
没年月日 (1967-10-20) 1967年10月20日(89歳没)
死没地 日本の旗 神奈川県中郡大磯町
出身校 東京帝国大学法科大学卒業
前職 待命大使
現職 二松学舎舎長
皇學館大学総長
称号 従一位
大勲位菊花章頸飾
法学士(東京帝国大学・1906年
親族 大久保利通義祖父
三島通庸(義祖父)
竹内綱
牧野伸顕岳父
竹内明太郎
麻生太賀吉娘婿
麻生太郎
サイン

内閣 第5次吉田内閣
在任期間 1953年5月21日 - 1954年12月10日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第50代 内閣総理大臣
内閣 第4次吉田内閣
在任期間 1952年10月30日 - 1953年5月21日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第49代 内閣総理大臣
内閣 第3次吉田内閣
第3次吉田第1次改造内閣
第3次吉田第2次改造内閣
第3次吉田第3次改造内閣
在任期間 1949年2月16日 - 1952年10月30日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第48代 内閣総理大臣
内閣 第2次吉田内閣
在任期間 1948年10月15日 - 1949年2月16日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第45代 内閣総理大臣
内閣 第1次吉田内閣
在任期間 1946年5月22日 - 1947年5月24日
天皇 昭和天皇

その他の職歴
日本の旗 第79代 外務大臣
(1949年2月16日 - 1952年4月30日
日本の旗 第78代 外務大臣
(1948年10月19日 - 1949年2月16日)
日本の旗 第5代 農林大臣
(1947年1月30日 - 1947年2月15日
日本の旗 第75代 外務大臣
(1946年5月22日 - 1947年5月24日)
日本の旗 第2代 第一復員大臣
(1946年5月22日 - 1946年6月15日
日本の旗 第2代 第二復員大臣
(1946年5月22日 - 1946年6月15日)
日本の旗 第74代 外務大臣
1945年10月9日 - 1946年5月22日)
日本の旗 第73代 外務大臣
(1945年9月17日 - 1945年10月9日
日本の旗 衆議院議員
1947年 - 1963年10月23日
日本の旗 貴族院議員
(1945年12月19日 - 1947年5月3日
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吉田 茂(よしだ しげる、1878年明治11年)9月22日 - 1967年昭和42年)10月20日)は、日本外交官政治家位階従一位勲等大勲位

外務大臣(第7374757879代)、貴族院議員勅選)、内閣総理大臣(第4548495051代)、 第一復員大臣第2代)、 第二復員大臣第2代)、農林水産大臣第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任した。

概要

1953年12月、談笑する吉田

東久邇宮内閣幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日1947年5月24日、および、1948年10月15日1954年12月10日まで在任した。

優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。

政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学にて総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人理事長にあたる舎長に就任した。

なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣厚生大臣小磯内閣軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人である。

生涯

生い立ち

1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区[1]に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎逮捕されてからまもないことであった[2]。実母の身元はいまでもはっきりしない[2]。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ[2]

吉田の実父と義父は若い武士として1868(慶応四、明治元)年の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった[3]。その養母は徳川期儒学の誇り高い所産であった[3]

小学時代の吉田茂

1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という[4]

養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などといっている[5]

学生時代

少年期は、大磯町西小磯にて義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。同年9月から、日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校一橋大学の前身)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶応義塾東京物理学校東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に学習院高等学科を卒業した。同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)同年9月に東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格する。ちなみに合格者11人中、首席で合格したのが広田弘毅だった。

外交官時代

当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる[6]中華民国奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離」論を支持。1928年、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務事務次官に就任する。

但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた[7]二・二六事件後の広田内閣の組閣では外務大臣内閣書記官長の候補に挙がったが陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。

太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)[8]。40日あまり後に不起訴・釈放となったが[9]、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる[8]

第二次世界大戦後

内閣総理大臣就任

1945年内閣総理大臣幣原喜重郎(前列中央)ら幣原内閣の閣僚らと

終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌1946年(昭和21年)5月、自由党総裁鳩山一郎公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。同年12月20日には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃される。

1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。

自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。

第2次、3次吉田内閣

1951年9月8日施政方針演説にて

このときGHQ民政局による山崎首班工作事件が起こるも失敗。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の第24回衆議院議員総選挙で自由党が大勝。戦後の日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。

1949年(昭和24年)3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義の悪と戦う手段として、私は長い間、米議会の非米活動委員会をモデルにした『非日活動委員会』を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法公安調査庁内閣調査室1952年(昭和27年)に設置・施行されるきっかけを作る[10]。アメリカでは当時赤狩り旋風が吹き荒れていた。

サンフランシスコ平和条約

サンフランシスコ平和条約署名式にて

直後の朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約を結んだ。国内では全面講和論の支持者も少なくなく、吉田は政治生命を賭けて平和条約の調印に臨んだが、帰国後の内閣支持率は戦後最高の58%(朝日新聞)に上った。しかし、ここが吉田の頂点であった。

独立達成を花道とした退陣論もあったが、吉田はなおも政権に意欲を見せ、続投。しかし、公職追放を解かれた鳩山一郎グループとの抗争や度重なる汚職事件を経て、支持は下落していく。造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の逮捕を延期させた(結局、逮捕はされなかった)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。

1954年(昭和29年)12月、野党による不信任案の可決が確実となると、なおも解散で対抗しようとしたが、緒方竹虎ら側近に諌められて断念し、12月7日に内閣総辞職。翌日、自由党総裁を辞任。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。

内閣総辞職後

1955年(昭和30年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介でのちに入党した。1962年(昭和37年)、皇學館大學総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼした。

1964年(昭和39年)、日中貿易覚書にともなう中華人民共和国との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた中華民国を池田勇人首相の特使として訪問、蒋介石と会談した。同年、生前叙勲制度の復活により大勲位菊花大綬章を受章。またこの年、マッカーサー元帥の葬儀に参列するため渡米。1965年(昭和40年)米寿にあたり、天皇より鳩杖を賜る。

その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である1966年(昭和41年)には、ブリタニカ百科事典1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century"(邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞を発症した。このときは、あわてて駆けつけた甥の武見太郎医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。しかし、さらに2ヵ月後の10月20日正午頃、大磯の自邸にて死去した。享年89。突然の死だったためその場には医師と看護婦三人しか居合わせず、身内は一人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという[11]。前日に「富士山が見たい」と病床で呟き、三女の和子に起こしてもらい、椅子に座り一日中飽かず快晴の富士山を眺めていたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である[12]

葬儀は東京カテドラルで行われた。10月31日には戦後唯一の国葬日本武道館で行われ[13]、官庁や学校は半休[14]、テレビ各局は特別追悼番組を放送して吉田を偲んだ[15]戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。遺骨は青山霊園の一角において娘婿の麻生太賀吉らと並んで葬られたが、2011年に神奈川県横浜市の久保山墓地に改葬された。

人物

尊皇家・臣茂 

尊皇家であり、終戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという(原彬久『吉田茂』)。

1952年(昭和27年)11月の明仁親王の立太子礼に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣茂」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「は総理大臣の臣だ」とやり返した。

辞めたくなったら…

1946年(昭和21年)4月10日戦後初の総選挙が行われた結果、幣原内閣を支持する旧民政党系の日本進歩党は善戦したものの伸び悩み、旧政友会系の日本自由党が比較第一党となった。内閣は総辞職することになり、幣原は4月30日に参内して自由党総裁の鳩山一郎を後継首班に奏請、鳩山はただちに組閣体制に入った。ところが5月4日になって突然、GHQから政府に鳩山の公職追放指令が送付されると、状況は一変した。

自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄と、駐米大使や駐英大使を歴任し今は宮内大臣として宮中にあった松平恒雄だった。しかし鳩山が古島のもとを訪ねると古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶。そこで鳩山は松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また1936年(昭和11年)にも広田弘毅の説得を行っている。外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸に訪ね、なんと「あの殿様[16]じゃ党内が収まらない、君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。

ところがこの日の夜から毎晩のように吉田のもとに押し掛けて後継総裁を受けるよう吉田を口説き、ついにはその気にさせてしまったのが、その手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた元政友会幹事長の松野鶴平だった。しかもこうした松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、この頃から二人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。

一方の吉田はといえば、蓋を開けてみると松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、

  1. 金作りは一切やらない
  2. 閣僚の選考に一切の口出しは無用
  3. 辞めたくなったらいつでも辞める

という勝手な三条件を提示して鳩山を憤慨させている。しかし総選挙からすでに一ヵ月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くか分らなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。

5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した[17]。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣が発足した。

吉田学校・ワンマン体制

自由党入党・総裁就任後の吉田は、政党政治家の多い自由党内で自らの地歩を築く必要があった。そこで、官僚出身者を中心とした吉田学校と呼ばれる集団を形成した。1949年(昭和24年)の第24回総選挙で当選した議員が吉田学校の主要メンバーとなり、広川弘禅大野伴睦らのベテラン政党政治家を組み合わせて党内を掌握し「ワンマン体制」を確立した。 吉田学校の主な人物として、佐藤栄作池田勇人田中角栄がいる。彼らは戦後保守政権の中核を担うこととなり、保守本流を形成することになる。

孤高のサイン

1951年9月8日、日米安全保障条約調印式にてアメリカ合衆国国務長官ジョン・フォスター・ダレス(後方最左)らと

日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の六人全員で署名した。

講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約に一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。

マッカーサーとの関係

1954年11月5日ウォルドルフ=アストリアにてダグラス・マッカーサー(左)と

吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン大統領によって解任され日本を去るまで親密であった。吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。その一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったと言う話もある。

復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。

東方会議をリードし治安維持法に死刑条項を設けたため、公職追放の対象になりかけたがマッカーサーへの様々な働きかけを通じて免れたという[18]

ユーモア

癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。

  • 寺内正毅が首相に就任する際、寺内の朝鮮総督時代にその秘書官であった吉田は、直接寺内から総理秘書官就任を要請された。しかし吉田の返答は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」。
  • ある日、会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれてしまった。抗議をする客人に対して、吉田の返答は「本人がいないと言っているのだから、それ以上確かな事はないだろう」。
  • 皇太子明仁親王から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際に、「そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい」と返答した(吉田は気に入らない質問をした記者に水をぶっ掛けたことがあった)。それに対して皇太子は「吉田さんのようにはいかない」と応じて苦笑したという。
  • 憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。
  • 単独講和に反対していた松野鶴平に、「このご時世、番犬くらい飼っているだろう?」と切り出し、「それがどうした」と返されると、「犬とえさ代は向こう持ちなんだよ」。
  • 終戦直後のまだ国民が飢えと戦っていたころ、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者はでなかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという[19]
  • 戦後の物資不足の折、葉巻を愛好する吉田に対し、フィリピンにタバコ畑を所有していたマッカーサーから葉巻を贈りたいと言われたが「私はハバナ産しかたしなみませんので」と慇懃無礼に辞退したという。
  • バカヤロー解散における広川弘禅農林大臣らの裏切りについては「坊主は三代祟る」(広川農相は僧籍を持っている)と皮肉を言った。
  • 晩年に大勲位の勲章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたという。
  • 1964年(昭和39年)11月の宮中園遊会で、昭和天皇が「大磯はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている。
  • 日米修好通商百年祭に日本の代表として訪米し外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」。特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した[20]
  • 吉田は米寿をすぎてもまだかくしゃくとしていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった[21]
  • 雪子夫人がカトリックだったこともあり、吉田家は長男の健一を除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っていた。昭和39年(1964年)に建設された東京カテドラル聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けている。ただし岳父・牧野伸顕のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯洗礼を受けていなかった。それでも東京大司教館司教だった濱尾文郎に「元気なときはともあれ、死にそうになったら、洗礼をうけて“天国泥棒”をやってやろう」と語っていたこともあって、濱尾は吉田に死後ただちに洗礼を授け、「ヨゼフ・トマス・モア」として天国に送っている[22] [23]
  • 落語が好きで、六代目春風亭柳橋を贔屓にしていた。さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代りにして一席演じさせていた。孫である麻生太郎は、吉田に連れられて鈴本演芸場に行くエピソードを著書で紹介している。

言行・逸話等

1952年1954年頃、鳩山一郎(右)と
1951年サンフランシスコ講和会議へ向かう機上にて白洲次郎(左)と
  • 耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせる。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという[24]
  • 吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。
  • 1947年(昭和22年)、GHQにより公認された労働組合ストライキを乱発し、政治闘争路線を突っ走っていた頃、吉田は「年頭の辞」の中で、「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と言い放った(「不逞の輩」発言:参照 - 二・一ゼネスト)。
  • 保安庁が改組され防衛庁自衛隊)が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせた迷言であった。
  • サンフランシスコ講和会議直前、ソ連や中国共産党政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、東京大学総長南原繁がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。これに激怒した吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言。「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を批判した。
  • サンフランシスコ講和会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえて巻物に書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれた。この巻物式の原稿は必ずしも読みやすいものではなかったようで、当の吉田も後に回顧録で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と記している。
  • 上記の「曲学阿世の徒」発言と同様、全面講和を主張する日本社会党に対し、吉田は「社会党のいう全面講和は空念的、危険思想である。エデンの花園を荒らす者は天罰覿面」と発言。こちらも大いに物議を醸した。
  • 吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりする事もしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて天皇から注意を受けたことがある。
  • 1952年(昭和27年)に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたのは有名。このエピソードの背景にはある事情がある。吉田は妻の雪子を1941年(昭和16年)に亡くしていたが、まもなく愛人の芸者で花柳流名取でもあった小りん(本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて生活を共にし始めている。ただし岳父・牧野伸顕の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたのだが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られてしまった。吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには良い感情を持っていなかったのである。ただし小りんとの関係が公表されてしまったおかげでかえって世間体を気にする必要もなくなり、1944年(昭和19年)には晴れて彼女と再婚している。
  • これら吉田の行動は、当時の新聞風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。
  • 駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省から吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりにムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。
  • 首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
  • 佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという。
  • 幣原内閣で外相に就任した際、白金台旧朝香宮邸を外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。
  • 大の葉巻好きで知られていたが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には好きな葉巻を断っていたという。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのハイライトに切り替えた。
  • 英国趣味は自家用車にも及んだ。駐英大使時代、英国の権化のような高級車、ロールス・ロイスの中型モデル「25/30hp」1937年式(フーパー社製サルーンボディ架装車)を私品として購入、帰国時には日本に持ち帰り、戦時中に政財界で奨励された皇室・軍等への「自家用車献納」もせず手元に留め置いた。吉田はこの25/30hpロールスを戦後も長く愛用、1950年代には同車をイギリスに送ってオーバーホールしてまで使い続けた。一方1960年代に入り日本の自動車輸入制限が緩和された際には、首相時代、個人的に西ドイツ首相コンラート・アデナウアーと交わした「貴国復興の暁にはドイツ車を購入する」という旧約から、当時のドイツ製最高級車メルセデス・ベンツ「300SE(W111)」を購入、その旨の電報をアデナウアーに送っている。何れも専属運転手の乗務により吉田の足として用いられたが、両車とも吉田没後は麻生太賀吉に引き継がれてのち日本国内の自動車愛好家に譲られ、2000年代に至っても自走可能なコンディションで保管されている。

年譜

選挙歴

当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第23回衆議院議員総選挙 1947年(昭和22年)4月25日 高知県全県区 日本自由党 98,176 29.39 1/9 - -/-
第26回衆議院議員総選挙 1953年(昭和28年)4月19日 高知県全県区 自由党 88,620 ' 1/8 - -/-
第27回衆議院議員総選挙 1955年(昭和30年)2月27日 高知県全県区 自由党 52,962 ' 1/11 - -/-
第28回衆議院議員総選挙 1958年(昭和33年)5月22日 高知県全県区 自由民主党 52,286 ' 4/11 - -/-
第29回衆議院議員総選挙 1960年(昭和35年)11月20日 高知県全県区 自由民主党 68,506 ' 2/8 - -/-
当選回数7回(衆議院議員7回)


栄誉・栄典

一族

家族・親族

1955年2月9日、九霞園にて麻生太賀吉(左)と
生家(竹内家)
  • 実父: 竹内綱(実業家、政治家)
  • 実母: 瀧子
ただし実母は芸者某とする説がある。『日本の上流社会と閨閥』203頁によると、「…母親の名も素性もはっきりしないが、後年、名門出の雪子夫人との間にすき間風が吹き始め、芸者遊びに精を出すようになると、雪子は “芸者の子は芸者が好きね” といったそうだから想像がつく。…」という。『吉田茂とその時代(上)』6頁によると、「…実母の身元はいまでもはっきりしない。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだのである…初期の戸籍は明らかに母 “不詳” としているが、吉田の存命中は竹内の本妻に生まれたという虚構の説が公に唱えられ、出生をめぐる回想のなかでも吉田は実母に言及することを用心深くさけている…」という。
養家(吉田家)
岳家(牧野家)
自家(吉田家)
麻生太賀吉と和子の長男が第92代内閣総理大臣麻生太郎であり、長女 信子寛仁親王の妃。

系譜

  • 吉田家
 
           岸秀助     ┏佐藤市郎
            ┣━━━━━━╋岸信介
           ┏茂世     ┗佐藤栄作
           ┃       
    佐藤信彦━━━┻さわ━━━━━━吉田寛
                     ┃
    竹内綱━━━┓          ┃
          ┃          ┃
    吉田健三==┸吉田茂      ┏桜子
            ┣━━━━━━━╋吉田健一
    牧野伸顕━━━━雪子(1)   ┣吉田正男
            ┃       ┣江子
            喜代(2)   ┗和子   ┏麻生太郎
                     ┣━━━━╋麻生泰
                  麻生太賀吉   ┣雪子
                          ┣旦子 
                          ┗信子
                           ┣━━━━━┳彬子女王
                         寛仁親王    ┗瑶子女王

脚注

  1. ^ ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』6頁には「吉田は一八七八(明治一一)年九月二二日横須賀に生れたといわれる。」とある
  2. ^ a b c ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』6頁
  3. ^ a b ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』5頁
  4. ^ ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』9頁
  5. ^ ジョン・ダワー著・大窪愿二訳『吉田茂とその時代(上)』11頁
  6. ^ 『100人の20世紀(下)』(57)吉田茂[有岡二郎執筆]2001年、朝日文庫、p.73-74
  7. ^ ただし、大村立三はその著書『日本の外交家 300人の人脈』の中で、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・佐藤尚武・芦田均を挙げ、後者として吉田と有田八郎谷正之を挙げており、奉天総領事・外務事務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は幣原や重光と比較した場合には、アジア進出に対してはより積極的であったとする見解をとっている。
  8. ^ a b 『100人の20世紀(下)』(57)吉田茂[有岡二郎執筆]2001年、朝日文庫、p.75
  9. ^ 自著『回想十年』によれば、牧野伸顕の義妹の嫁ぎ先宮崎県の旧高鍋藩主家秋月氏の縁で高鍋出身の海軍大将小沢治三郎を頼るようアドバイスを受け、そのツテで軍令部次長の小沢に「イギリスを通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから潜水艦航空機で自分を運んで欲しい」と懇願したが、小沢は十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断った。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だった、と著している。
  10. ^ 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』
  11. ^ 『別冊歴史読本特別増刊 — ご臨終』(新人物往来社、1996年2月号)
  12. ^ 『アサヒグラフ』臨時増刊 11月5日号、「緊急特集吉田茂の生涯」89頁
  13. ^ 吉田の国葬は佐藤栄作総理の強い要望で閣議決定を経て実現したが、大正15年に制定された「国葬令」は新憲法の施行によって失効していた(20条の「国による宗教的行為の禁止」と7条の「天皇の国事行為」に抵触するため)ため、国葬自体が違憲ということになり、野党や革新系の言論界からこれを批判する声もあった。しかし戦後の大宰相の記憶は多くの人々にとっては褪せることがなく、世論調査でも大多数がこれを容認するものだった。
  14. ^ 『産経新聞』2008年10月20日付朝刊、14版、3面
  15. ^ 特にフジテレビでは、追悼番組を放送するために、スポットCMを全て削除し、全ての通常番組を変更した。
  16. ^ 松平は元会津藩主京都守護職松平容保の四男で、長女の節子秩父宮の妃になっていた。
  17. ^ これが最後の「組閣の大命」である。
  18. ^ 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』
  19. ^ 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 73頁
  20. ^ 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 73-74頁
  21. ^ 戸川猪佐武『小説吉田茂』「あとがき」
  22. ^ 『アサヒグラフ 臨時増刊 11月5日号 緊急特集吉田茂の生涯』81頁(1967年)
  23. ^ 通常洗礼は本人が望まなければできないが、遺書や遺言などで生前明確な意思表示をしていることを司祭が確認できれば、例外的に死後洗礼を行うことができる(東京大司教館)
  24. ^ 『アサヒグラフ』 臨時増刊 11月5日号、「緊急特集吉田茂の生涯」73頁
  25. ^ 戸籍上の名は“コト”である
  26. ^ 吉田寛は将来が嘱望された若手外交官だったが、桜子と結婚して数年後に死去してしまう。その葬儀に来た親戚の佐藤榮作と吉田茂は初めて会うが、その時の佐藤の風貌が亡き女婿と瓜二つだったので、以後吉田は佐藤を我が子のように可愛がるようになったという。
  27. ^ 和子と太賀吉を結びつけたのは側近の白洲次郎であり、ふたりの仲人もつとめている。

参考文献

  • 吉田茂 『回想十年.(全4巻)』 東京白川書院(新版) 
  • 吉田茂 『大磯随想』、『世界と日本』、『日本を決定した百年』  
  • ダグラス・マッカーサー/津島一夫訳 『マッカーサー大戦回顧録 (上下)』  
  • 西村熊雄 『サンフランシスコ平和条約・日米安保条約』 
  • 池田勇人 『財政均衡、付・占領下三年の思い出』
  • 岡崎勝男 『戦後二十年の遍歴』
  • 今日出海 『吉田茂』 初版講談社――以上は<中公文庫>で再刊。
  • 衆議院憲政記念館編 『特別展吉田茂とその時代 ― サンフランシスコ講和条約発効50年』 2002年 
  • 吉田茂記念財団編 『清水崑画 吉田茂諷刺漫画集』 原書房、1989年→中央公論新社、2005年
  • 原彬久 『吉田茂 尊皇の政治家』 岩波新書、2005年 
  • 麻生和子 『父 吉田茂』 光文社知恵の森文庫、2007年 
  • 麻生太郎 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 徳間文庫、2007年
  • 白洲次郎 『プリンシプルのない日本』 ワイアンドエフ→新潮文庫
  • 戸川猪佐武小説吉田学校』 <人物文庫全8巻>学陽書房(新版)
  • ジョン・ダワー/大窪愿二訳 『吉田茂とその時代 (上下)』 TBSブリタニカ、1981年
  • 『アサヒグラフ 臨時増刊 11月5日号 緊急特集吉田茂の生涯』 1967年
  • 佐藤寛子 『佐藤寛子の宰相夫人秘録』 朝日新聞社 1974年
  • 鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社、1965年 54-62頁
  • 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 200-203頁
  • 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 光文社、2000年 75、173、262、263、333頁
  • 神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 30-44頁

近年刊行の伝記・研究

  • 高坂正尭 『宰相吉田茂』 中公クラシックス、2006年
  • 井上寿一 『吉田茂と昭和史』 講談社現代新書、2009年
  • 北康利 『吉田茂 ポピュリズムに背を向けて』 講談社、2009年
  • 北康利 『吉田茂の見た夢 独立心なくして国家なし』 扶桑社、2010年6月
  • 工藤美代子 『赫奕たる反骨 吉田茂』 日本経済新聞出版社、2010年2月
  • 保阪正康 『吉田茂という逆説』 中央公論新社、2000年→中公文庫、2003年
  • 袖井林二郎編訳 『吉田茂=マッカーサー往復書簡集 1945-1951』 法政大学出版局、2000年
  • 小倉和夫 『吉田茂の自問 敗戦、そして報告書「日本外交の過誤」』 藤原書店、2003年
  • 『歴史としての吉田時代 いま、吉田茂に学ぶもの』 吉田茂国際基金編、中央公論新社(発売)、2009年
  • 『吉田茂 写真集』 撮影:吉岡専造、吉田茂国際基金編、中央公論新社(発売)、2004年
  • 『人間 吉田茂』 吉田茂記念事業財団編、中央公論社、1991年
  • 『吉田茂書翰』 吉田茂記念事業財団編、中央公論社、1994年
  • 『吉田茂書翰 追補』 吉田茂国際基金編、中央公論新社、2011年3月

関連項目

本文中・表中にリンクのあるものを除く

外部リンク

公職
先代
幣原喜重郎
芦田均
日本の旗 内閣総理大臣
第45代:1946年 - 1947年
第48・49・50・51代:1948年 - 1954年
次代
片山哲
鳩山一郎
先代
重光葵
芦田均
日本の旗 外務大臣
第73・74・75代:1945年 - 1947年
第78・79代:1948年 - 1952年
次代
片山哲
岡崎勝男
先代
和田博雄
日本の旗 農林大臣
第5代:1947年(兼任)
次代
木村小左衛門
先代
幣原喜重郎
日本の旗 第一復員大臣
第2代:1946年(兼任)
次代
復員庁へ移行
先代
幣原喜重郎
日本の旗 第二復員大臣
第2代:1946年(兼任)
次代
復員庁へ移行
党職
先代
結成
自由党総裁
初代:1950年 - 1954年
次代
緒方竹虎
先代
結成
民主自由党総裁
初代:1948年 - 1950年
次代
自由党
先代
鳩山一郎
日本自由党総裁
第2代:1946年 - 1948年
次代
民主自由党
先代
三木武吉
日本自由党総務会長
第2代:1946年
次代
星島二郎
学職
先代
金子堅太郎
二松学舎舎長
第5代:1963年 - 1967年
次代
那智佐伝
先代
新設
皇學館大学総長
初代:1962年 - 1967年
次代
岸信介