寛仁親王

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本来の表記は「寬仁親王」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
寬仁親王
Prince Tomohito 20030307.jpg
続柄 三笠宮崇仁親王第一男子(大正天皇孫)
身位 親王
敬称 殿下
お印
出生 1946年1月5日
日本の旗 日本神奈川県三浦郡葉山町
三笠宮御假寓所
死去 2012年6月6日(満66歳没)
日本の旗 日本東京都千代田区
佐々木研究所附属杏雲堂病院
配偶者 寛仁親王妃信子
子女 彬子女王
瑶子女王
父親 三笠宮崇仁親王
母親 崇仁親王妃百合子
役職 友愛十字会総裁
ありのまま舎総裁
公益財団法人新技術開発財団総裁
恩賜財団済生会総裁
高松宮妃癌研究基金総裁
日本ビリヤード協会総裁
日本職業スキー教師協会総裁
中近東文化センター総裁
日本ラグビーフットボール協会名誉総裁
学習院大学応援団最高顧問
他多数
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寛仁親王(ともひとしんのう、1946年昭和21年)1月5日 - 2012年平成24年)6月6日)は、日本皇族三笠宮崇仁親王同妃百合子の第一男子。今上天皇従弟麻生太郎元内閣総理大臣の義弟にあたる。身位親王皇室典範における敬称殿下お印(かしわ)。勲等大勲位称号 (現学位)は政治学士学習院大学)、鈴鹿国際大学名誉客員教授[1]。そのほか名誉学位として名誉博士アンカラ大学)の称号を有する。

人物[編集]

をたくわえた容貌から、「ヒゲの殿下」の愛称で国民に親しまれた。皇統譜上の記載は「寛」の旧字体である「寛に『、』が付く字」であるため、政府による公式表記及び本人の著述活動においては旧字体が使用されるが、報道等では新字体で表記されることも多い。生前の住居(寬仁親王邸)は、東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内(2013年7月31日より、旧寬仁親王邸は、三笠宮東邸と称している)。

姉に近衛甯子、弟に桂宮宜仁親王高円宮憲仁親王、妹に千容子がいる。

略歴[編集]

1946年昭和21年)1月5日、神奈川県葉山の三笠宮御假寓所にて、三笠宮崇仁親王百合子妃の第一男子として誕生。

1966年(昭和41年)1月、成年式に伴い大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。1968年(昭和43年)、学習院大学法学部政治学科を卒業した(政治学士)。同年から1970年(昭和45年)までの2年間、イギリスオックスフォード大学モードリン・コレッジに留学。1970年(昭和45年)から1972年(昭和47年)には、札幌オリンピック組織委員会事務局に、また1975年(昭和50年)には、沖縄国際海洋博覧会世界海洋青少年大会事務局に勤務した。

伯父の高松宮宣仁親王の影響を受けて早くから障害者福祉やスポーツ振興などの公務に積極的に取り組んできた。特に障害者がスポーツへの取り組みを通じて社会参加することを促すため、自らも指導にあたり、社会福祉法人「ありのまま舎」(仙台市にあるバプテスト系の筋ジストロフィー障害者福祉施設)の活動に見られるように施設の運営などにも関与し、講演や著述を通じて啓発活動にエネルギッシュに取り組んだ。

また英国留学を機に国際親善にも強い関心を持ち、日英協会名誉総裁をはじめ、諸外国との交際にも意欲的に取り組み、従甥の皇太子徳仁親王秋篠宮文仁親王の英国留学の先鞭をつけた。寛仁親王は曾祖父明治天皇との容貌の類似を指摘されるきっかけにもなった髭を蓄え、剛直で豪放磊落な性格であるが、他方で繊細な面をうかがわせることもある。また、若いころは社会福祉に熱心に取り組もうとしても自分の行動が皇族としての身分に制約されることに悩み、結局離脱する事は無かったものの、1982年(昭和57年)に「皇籍離脱発言」をして世間を騒がせたこともあった[2]

2012年平成24年)6月6日15時35分、多臓器不全のため薨去。66歳没[2]

薨去時の皇位継承順位は第6位だった[3]

闘病生活[編集]

1990年代から、をはじめとする疾病に悩まされていた。

1991年(平成3年)1月に食道癌の手術を行った[4]1995年(平成7年)までに舌の付け根・首のリンパ節・喉など6回のガン手術を行い[5]、その闘病経験を1999年(平成11年)に闘病記『癌を語る』として出版された[6]

2006年(平成18年)9月16日には洗顔中に転倒し顎を骨折した。またアルコール依存症により入退院を繰り返していた(2010年(平成22年)1月8日、5度目の入院)。入院してからも入院先の病院から公務に出席しており、いわゆる「ふてくされて出てこないのか」発言など行動力と鋭い舌鋒の健在ぶりを見せていた。

当初入院は1か月の予定であったが、3週間で退院した。同年10月20日には米誌とインタビューを行えるほどに回復した姿を見せた。しかし、咽頭癌が見つかったことから、2008年(平成20年)3月に再び手術を受けた。この時は声を残す方向で手術が行われたが、飲み込みが上手くいかず、4月には肺炎を発症し再入院した。この際、喉の一部を塞ぐ手術を行ったが、それが原因で声帯を震動させる空気の出口が塞がれ、声を失った。公務の際には、電気喉頭を首に当てて会話を行っていた。

2010年(平成22年)8月19日には不整脈の治療で入院、更に9月の定期検診で新たな咽の癌が発見されたことから12月14日内視鏡手術を受けることとなった[7]

2011年(平成23年)2月には肺炎で入院。同年7月8日には中咽頭上皮に見つかったの切除手術のため入院している。1991年(平成3年)以降、に関連する手術や治療を受けるのはこれで14回目であった。

2012年(平成24年)1月には咽喉に腫瘍が見つかり、財団法人佐々木研究所附属杏雲堂病院(当時)にて1月10日、腫瘍と周辺のリンパ節の摘出、及び欠損部への腹部からの移植処置を伴う手術を7時間半に亘り受けた。術後に細胞組織検査を行った結果、寛仁親王の病状が『咽喉癌の再発と見られる』と医師団から発表された[8]。3月には、食事の障害になっていた喉の軟骨の除去手術を受けた[9]

同年6月、喉から2回出血し輸血の必要性があった事が、4日明らかになった[10]。翌5日、宮内庁は腎臓や肺、肝臓の機能が低下状態にあり、意識レベルが低下していると発表した[11]。2012年(平成24年)6月6日15時35分、入院先の東京都千代田区公益財団法人佐々木研究所附属杏雲堂病院にて、66歳で薨去[12]。同日の宮内庁の会見で、死因は多臓器不全であると発表された[13]

1991年(平成3年)1月のガン発見から21年間。ガンの手術や治療は計16回を数えた[2]

宮号の有無と表記[編集]

存命時は、結婚を機に独立の生計を立てていたものの、父宮(三笠宮崇仁親王)の嗣子としていずれ三笠宮を継ぐものとされていたことから、特に宮号は賜っていなかった。「○○宮 ××さま」という表現は報道でよく使われてはいるが、宮号は一般国民の「」のように同一戸籍内の家族すべてに適用されるものと異なり、当主のみに与えられるものであるため、当主以外に「○○宮」と冠することは正確ではない。同様の誤用は悠仁親王をはじめ他の皇族に対する報道にも見られる。

寛仁親王本人は、こうした誤用に不快感を表したことがある。2001年(平成13年)12月、長女:彬子女王の成人に伴う記者会見が行われ、全国紙において彬子女王を「三笠宮寛仁さまの長女彬子さま」と記載したことに関し、寛仁親王は自身が総裁を務める日本職業スキー教師協会の広報誌の「総裁コラム」に、

  • 「私は、『三笠宮』(父の宮号)では無く、『寛仁親王』であり、彬子は身位が『女王』で、敬称は『殿下』でなければなりません。従って正しくは、『寛仁親王殿下の第一女子彬子女王殿下には……』となるべき」

と書いていた[14]。また、柏朋会の会報『ざ・とど』でも冗談を交えつつ

  • 「『三笠宮寛仁親王』でなく『寛仁親王』が正しい」

と書いている。

1947年(昭和22年)10月14日に11宮家が離脱する前までは宮家の数が多く、現在の寛仁親王のように「嗣子であるためあえて宮号を受けていない親王」を有する宮家が複数あったため、そのような「嗣子たる親王」のことを「○○若宮」(○○のわかみや)と呼ぶ慣習があったが、現憲法下ではこの呼称はほとんど用いられない。なお、政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では寛仁親王に限らず皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は必ず「寛仁親王」(妃の場合は「寛仁親王妃信子」)とされ、「三笠宮」が冠されることはない。しかしマスメディアでは「わかりやすさ」を図るために「(昭和天皇の弟の崇仁親王の創設した)三笠宮家の寬仁さま」と報道されることがある。

なお、三笠宮本家からは独立の生計を営む形であったため、「寬仁親王家」として、他の宮家に准ずる扱いを受けており、寬仁親王が当主となっていた。寬仁親王の薨去に伴い、当主不在の状態が続いていた(寬仁親王妃信子が、過去の当主薨去に伴う妃殿下の就任の慣例どおり継承することもなく、喪主となった彬子女王が継承するということもなく、空席の状態が続いていた)が、2013年(平成25年)6月10日に宮内庁は薨去にさかのぼり親王家を廃止すると発表した[15][16]。居所であった、寬仁親王邸の名称も、後に「三笠宮東邸」と改称された。

逸話[編集]

著述・発言に関するもの[編集]

2003年3月7日、高輪プリンスホテルでの講演にて
  • 各地での講演活動や新聞雑誌などでの著述活動にも積極的であり、エッセーなどをまとめた著書も複数出版している[17]。例えば、1968年(昭和43年)、学習院大学法学部政治学科を卒業した2年後、英国へ留学したが、その際の出来事を後日『トモさんのえげれす留学』(文藝春秋刊)という書物にまとめた。また、1977年(昭和52年)には、二見書房から『皇族のひとりごと』という書籍を刊行する。自身の好みの女性や結婚観・また、皇族としての自身の立場等々について縦横無尽に書いていた。
  • 1975年(昭和50年)には、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』のDJを担当したことがある(1975年10月27日放送分)。皇族がラジオ番組のDJを担当するのはもちろん、深夜番組の出演も皇室の歴史始まって以来の出来事であり、2012年(平成24年)現在、民放放送局のラジオ番組にDJとして出演した最初で最後の皇族である。また、独身時代の1976年(昭和51年)に『スター千一夜』(フジテレビジョン)、1977年(昭和52年)には『徹子の部屋』(テレビ朝日)といったトーク番組に出演した他、1980年(昭和55年)に結婚した後には信子妃と共にテレビのバラエティー番組に出演したこともある。寛仁親王本人の発言(1977年(昭和52年)4月1日『徹子の部屋』)によると、高校生になるとチンピラのように振る舞い、高校1年生あたりからタバコ喫煙し、飲酒に至ってはさらに若い頃から始めた[18]
  • 2007年(平成19年)10月にはニューヨーク・タイムズのインタビューに答え、学習院時代には山手線に乗って通学した、朝鮮学校の生徒に因縁をつけられることもあったなどと青春時代を回想した。「彼らは学習院の制服を見つけると、いつも襲いかかってきたものでした」との発言が記録されている。同インタビューにおいては人格否定発言に対しても触れ、「手紙に返答していれば、いくらかの進展はあったのではないかと思うが、意見を述べたことに対しての礼を述べる返事しか来なかった」と徳仁親王に発言について説明するよう長文の手紙を送ったものの、礼状程度の返事しか返ってこず、ために事の進展がなかったという趣旨の発言をしている。またアルコール依存症を公表した事に触れ「皇室はストレスの塊」と述べた[19]。依存症で度々入退院を繰り返した。

公的活動に関するもの[編集]

人物に関するもの[編集]

  • 1970年(昭和45年)に英国留学を終えて帰国した際、明治天皇そっくりの髭をたくわえていた姿が読売新聞のグラビアを飾っていた。これが「ヒゲの殿下」と称される所以である。
  • 愛知県名古屋市の名門クラブにおいて、寛仁親王が「御東場(おとうば。宮中用語でトイレ)がよごれていたんで拭いといたよ」と云ったとオーナーマダム・加瀬文恵が雑誌『プラチナ・スタイル』取材に語ったという[22]
  • 次女・瑶子女王によれば、寛仁親王の性格は細か過ぎるところがあるという[23]

皇位継承問題[編集]

女系天皇容認論に対する見解[編集]

憲法上の制約もあり、天皇および皇族が女系天皇の是非について自らの意見を公にする機会は限られている。寛仁親王は自身が会長を務める福祉団体「柏朋会」(はくほうかい)の会報『ざ・とど』で、公なものではない私的な見解と前置きした上で、女系天皇についての見解を表明した。この機関紙は市販されていない。この中で、女系天皇に明確に反対し、旧皇族の皇籍復帰などを求めた。

寛仁親王は、「歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と女系天皇を容認する意見を批判し、また「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実」と主張した。寛仁親王は男系継承を維持するための方法として

  1. 皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰。
  2. 女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子を取れるようにし、その方に皇位継承権を与える。
  3. 廃絶になった秩父宮や高松宮の祭祀を旧皇族に継承してもらい、宮家を再興する。
  4. 昔のように「側室」を置く。自分(寛仁親王)としては大賛成だが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思う。

を挙げた。

その上で、「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりません。国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年の歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結び、女系天皇容認の動きに反対する意見を述べた。

また、2006年(平成18年)1月3日付の毎日新聞、雑誌『文藝春秋』2006年(平成18年)2月号のインタビューでも同様の見解を表明している。殊に後者では、小泉純一郎首相有識者会議が女系天皇容認の方針なのは今上天皇の内意を受けてのことではないのかという噂について、「ご本人に直接確認してはいないが、あの慎み深い天皇様が女系天皇や長子優先継承に賛成なさるはずはない。噂は事実無根の臆測だろう」と主張した。

また、非公式ながら「父殿下、母妃殿下をはじめとして皇族には改正に反対論を唱えている人が多い。少なくとも三笠宮家は全員反対だ」ということもコメントしている。

見解に対する反響[編集]

  • 寛仁親王が見解を発表する以前、内閣総理大臣の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」座長吉川弘之東京大学名誉教授は、皇位継承資格者議論について「皇族から意見を聞くことは憲法違反」だと指摘していた。また、「憲法の解釈権は有識者会議にある」とも唱えた。
    • 一方で2005年(平成17年)11月4日、寛仁親王の見解についての記者質問に対し、小泉純一郎首相(当時)は、皇位継承資格者議論について皇族から意見を聞くのは憲法違反にあたらず、意見を表明するのは自由であると答えた。
  • 同年11月7日、有識者会議の会合を終えた吉川弘之は、寛仁親王の見解は会議へ影響せず、女系天皇容認の姿勢は変更しないとした。同日、小泉首相も、女系天皇を容認する有識者会議の方針を支持する考えを示した。
  • 同年11月14日静岡県知事石川嘉延は定例記者会見で、寛仁親王の見解に対し、同様な考えを持っており共感したと発言した。さらに皇位継承資格者議論に対し、拙速な議論に疑問を呈し「伝統的な国のあり方にかかわるものを、わずか数か月で結論を出して、ある方向に持っていこうとするのはとんでもない話。余りにも拙速。有識者会議には皇室問題について長年研究してきた人が何人入っているかというとお寒い限り」と主張した。
  • 朝日新聞は社説のなかで否定的見解を示しており、2006年(平成18年)2月2日付けの社説で『寛仁さま 発言はもう控えては』と題し、政治的発言であり象徴天皇制という憲法で定められている大原則から逸脱していると主張した。
    • 産経新聞は、翌3日の社説で『朝日社説 「言論封じ」こそ控えては』、また週刊文春週刊新潮はそれぞれ『寛仁さまに「黙れ」と命じた朝日新聞論説委員の実名と見識』『寛仁さまに「黙れ」と命じた朝日新聞ってそんなにエラい?』などと主張し朝日新聞を批判した。
  • 側室制度について皇室典範に関する有識者会議メンバーの岩男壽美子からは「側室制度の復活など時代錯誤」と激しく非難されることとなった。
    • なお1947年(昭和22年)5月1日に廃止された旧皇室典範1889年明治22年)2月11日発布の増補にある第六条「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」とあり、臣籍降下した元皇族の復籍をそれ以降廃されるまで禁止していた。また現在の皇室典範第15条「皇族以外の者及びその子孫は、女子が皇后となる場合及び皇族男子と婚姻する場合を除いては、皇族となることがない。」と定めており、旧皇族の皇籍復帰にあたっては、この第15条の改正が必要になるのではないかという意見がある。

子女[編集]

信子妃との間には二女がいるが、男子がいない。現行皇室典範上においては、信子妃の薨去および子の彬子女王・瑶子女王の薨去、または婚姻による皇籍離脱をもって宮家が断絶することになる。

系譜[編集]

1950年昭和25年)頃、左から寬仁親王、母:百合子妃、弟:宜仁親王、姉:甯子内親王
寛仁親王 父:
崇仁親王三笠宮
祖父:
大正天皇
祖母:
貞明皇后
母:
百合子
祖父:
高木正得
祖母:
高木邦子

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著作[編集]

単著[編集]

共著[編集]

参照文献[編集]

  • 『読売新聞』2012年6月7日中部朝刊

脚注[編集]

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  1. ^ 「寛仁さま 東海からも悼む声=中部」『読売新聞』2012年6月7日中部朝刊31頁参照。
  2. ^ a b c 三笠宮家寛仁さま、ご逝去…「ひげの殿下」愛称 - 読売新聞 2012年(平成24年)6月6日 逝去という表記はこの出典に依る
  3. ^ 寛仁さま:逝去 - 毎日新聞 2012年(平成24年)6月6日
  4. ^ 三笠宮家の寛仁さま逝去 66歳、ヒゲの殿下 - 日本経済新聞 2012年(平成24年)6月6日
  5. ^ 【66歳、“ひげの殿下”寛仁さま逝去】 がん手術繰り返し 皇室22人に - 47news 2012年(平成24年)6月6日
  6. ^ 21年間、がんと壮絶闘病=手術16回、前向き姿勢貫く-寛仁さま - 時事通信 2012年(平成24年)6月6日
  7. ^ 三笠宮寛仁さま、喉のがん手術へ - 時事通信 2010年(平成22年)12月13日閲覧
  8. ^ 寛仁親王殿下、がん再発でご手術 執刀医が会見 - 産経新聞 2012年(平成24年)1月11日
  9. ^ 三笠宮寛仁さま 喉の軟骨の切除手術へ - 日テレニュース24 2012年(平成24年)2月29日
  10. ^ 三笠宮寛仁さま、首の患部から2度出血 - 日テレニュース24 2012年(平成24年)6月4日
  11. ^ 寛仁さま、意識レベル低下…治療続く - 読売新聞 2012年(平成24年)6月6日
  12. ^ 寛仁さま:逝去 - 毎日新聞 2012年(平成24年)6月6日
  13. ^ 三笠宮寛仁さまの死因は多臓器不全~宮内庁 - 日テレニュース24 2012年(平成24年)6月6日
  14. ^ 「SIAニュース」115号
  15. ^ “寛仁親王家廃止、5宮家に=1年前にさかのぼり-ご一家、三笠宮家でお世話・宮内庁”. 時事ドットコム (時事通信社). (2013年6月10日). http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013061000502 2013年6月10日閲覧。 
  16. ^ “寛仁親王家廃し三笠宮家に合流 逝去1年、当主決まらず”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2013年6月10日). http://www.asahi.com/national/update/0610/TKY201306100305.html 2013年6月10日閲覧。 
  17. ^ a b c 三笠宮家のご活動 - 宮内庁
  18. ^ 寛仁ひげ殿下「不良の魅力」酒もタバコも高校生からやってたよ”. ワイドショー通信簿. J-CAST テレビウォッチ (2012年6月7日). 2012年6月8日閲覧。
  19. ^ A Font of Commentary Amid Japan’s Taciturn Royals - ニューヨーク・タイムズ 2007年(平成19年)10月20日
  20. ^ 寛仁さま ご逝去 (PDF) 東奥日報【号外】 2012年(平成24年)6月6日
  21. ^ 読売新聞 1981年(昭和56年)11月6日
  22. ^ 週刊新潮 2007年(平成19年)4月26日
  23. ^ 瑶子女王殿下の記者会見の内容 - 宮内庁オフィシャルサイト 2003年(平成15年)10月23日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]