中嶋悟
中嶋 悟 | |
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中嶋 悟 (2008年) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県岡崎市 |
生年月日 | 1953年2月23日(71歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1987-1991 |
所属チーム |
'87-'89 ロータス '90-'91 ティレル |
出走回数 | 80 (74スタート) |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 16 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
初戦 | 1987年ブラジルGP |
最終戦 | 1991年オーストラリアGP |
F1関連記事 |
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関連リスト |
中嶋 悟(なかじま さとる、1953年2月23日 - )は、愛知県岡崎市出身の元レーシングドライバーで、有限会社中嶋企画代表取締役社長。身長165cm、体重60kg。血液型B型。
日本人初のF1フルタイムドライバーで、株式会社日本レースプロモーション(JRP)の取締役会長も務める。
経歴
生い立ち
愛知県岡崎市に、4人兄姉の末っ子として生まれる[要出典]。生家は約300年続く農家。父親は、航空母艦「雲鷹(うんよう)」で艦載機の整備兵をしていた軍人で、兄たちが戦死したので農業を継いだという[1]。
岡崎市立梅園小学校、岡崎市立葵中学校を経て名城大学附属高等学校に進学[2][3]。
レースデビュー
高校在学中にレーシングカートを始め、数戦のレースに参加し優勝も経験[要出典]。高校卒業後に自動車運転免許を取得し、アルバイト先だったガソリンスタンドに就職[要出典]。後に実兄が開業したガソリンスタンドに移り、そこで資金を稼ぎながら本格的なレース活動を開始する。1973年の鈴鹿シルバーカップ第1戦でレースデビュー(決勝3位)。1975年にはFL500に参戦してシリーズチャンピオンを獲得。ただこの頃は慢性的な資金不足にあえいでおり、1976年にはレース活動を辞めようかとも考えていたという。ところが同年夏、鈴鹿サーキットで行われたGCレースに参戦するためのドライバーを探していた松浦賢の目に偶然留まったことが契機となり、当時「最強チーム」との呼び声の高かったヒーローズレーシングへの加入が実現する。
ステップアップ
1977年にはヒーローズレーシングより全日本F2000/鈴鹿F2000とFJ1300に参戦。特にFJ1300ではシリーズ全7戦でポールポジション、全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得する。1978年には全日本F2に参戦しつつ、イギリスF3にスポット参戦。鈴鹿サーキット限定で争われる鈴鹿F2選手権でチャンピオンを獲得した。
なお1978年はイギリスF3に参戦する関係で、シーズン途中にモータースポーツライセンスを日本自動車連盟(JAF)発行のものからイギリスの王立自動車クラブ(RAC)発行のものに切り替えている。当時の全日本F2選手権では「外国ライセンスのドライバーはポイント対象外」との規定が設けられており、このため中嶋の後半2戦(第5戦・第7戦)の結果はポイント対象外となってしまった。この2戦で中嶋は共に2位に入っており、通常通りのポイントを獲得していたとすると同年の全日本F2でもチャンピオンを獲得していた計算になるため、一部メディアでは「幻のチャンピオン」と評されることがある[4]。
国内トップカテゴリー
1979年には生沢徹が結成したi&iレーシングに移籍。ただしヒーローズレーシングから半ば強引に引き抜かれる形でチームを移籍したため、ヒーローズ側の圧力により当時の全日本F2で最強エンジンと呼ばれたケン・マツウラレーシングサービス チューンのBMWエンジンの供給を受けられず、同年と1980年の全日本F2では成績が低迷する。一方で1979年には富士GCシリーズでチャンピオンを獲得した。
1981年からは生沢の伝で、前年よりF2に復帰したホンダのワークスエンジンの供給を受けられるようになり、同年と1982年には全日本F2選手権・鈴鹿F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。1982年にはヨーロッパF2選手権にも参戦し、緒戦で2位表彰台を獲得するが、資金不足に悩まされ成績は下降した。生沢と関係が悪化し1983年にi&iレーシングから離脱。自らの会社中嶋企画を設立するため、破格の契約金を提示したハラダレーシングに移籍する。i&iでの中嶋のドライビングを高く評価したホンダからは引き続きワークスエンジンの供給を受けていたが、チーム体制がまだ成熟しておらず同年はチャンピオンを逃した。
1984年にヒーローズレーシングに復帰。そのときに「車体はヒーローズが提供し、資金は中嶋企画がまかなう」という当時としては前例のない契約形態をとった。この時点でBMW勢より優位となっていたホンダエンジン、中嶋のテクニック、ブリヂストンタイヤのパッケージは当時の全日本F2選手権シリーズを制圧し、以後1986年まで全日本F2選手権で3連覇を達成する[5]。ただしホンダがエンジン供給しない富士GCシリーズでは依然としてケン・マツウラレーシングサービスチューンのBMWエンジンの供給を受けられず、劣勢であった。
F1テストドライバー
F1マシンの初ドライブは、1982年に全日本F2の一戦である「JPSトロフィー」で優勝した副賞として、当時JPSがメインスポンサーだったロータスのテストを行ったのが最初の機会だった。
その後、前述のホンダとの良好な関係により1984年からはホンダF1のテストドライバーを務めるようになり、当時ホンダがターボエンジンを供給していたウィリアムズのマシンをドライブするようになった。のちのF1デビュー後にはこの際の経験が生かされることとなった。
WECと国際F3000
1985年と1986年にはトムス・トヨタに乗りル・マン24時間レースや世界耐久選手権(WEC)にも参戦。特に1986年の「WEC in Japan」(富士スピードウェイ)ではトムス・86C/トヨタを駆り予選トップタイムをマークしたが、「Tカーで記録されたタイムのためにタイムは無効」とされ、ポールポジションを獲得することはできなかった。決勝は9位。
1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って国際F3000にもフルシーズン参戦した。国内選手権との同時参戦という過密スケジュールでの参戦である上、初めてのコースや時差に戸惑いながらも堅実な走りを見せ、オーストリアGPでの最高位4位(1回)を含む数回の入賞を上げ、新人ながらシリーズランキング10位という結果を残し、F1へのステップアップへの道を開いた。
F1時代
日本人初のフルタイムF1ドライバー
34歳にしてタイのプリンス・ビラに次ぐアジア人として2人目、日本人初のフルタイムF1ドライバーになる。1987年の開幕戦(ブラジルGP)で名門チームのロータス・ホンダよりデビューを果たし、1991年で引退するまでの5年間、ホンダと、F1初年度のチームメイトであったアイルトン・セナと共に、当時バブル景気で沸いていた日本にF1ブームを巻き起こした。
F1での生涯成績は、出走回数80回(決勝出走回数74回)、予選最高位6位(2回/1988年メキシコGP・1988年日本GP)、決勝最高位4位(2回/1987年イギリスGP・1989年オーストラリアGP)、ファステストラップ1回(1989年オーストラリアGP)、総獲得ポイント16点であった。
1987年
1984年からホンダエンジンを搭載したF1マシンのテストドライバーをつとめた後に、この年の開幕戦であるブラジルGPにロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走した。この年は慣れないコースの上、99Tに搭載されていた新技術であったが、構造が複雑かつ信頼性が低いアクティブサスペンションの熟成不足に苦しめられ予選で6-7列目の中団に埋もれる場面が多く見られたほか、細かなマシントラブルに苦しめられたものの、4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得し、グレーデッド・ドライバー(Graded Driver / 年間で複数回入賞したドライバーに与えられる名誉)の仲間入りを果たした。なおこの年のチームメイトは、後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナであった。
F1では若いカーナンバーがチームのエース・ドライバーに与えられることが多いが、新人の中嶋がカーナンバー11、すでにF1での実績のあるセナがカーナンバー12であった(これはセナが1985年のロータス加入時にエリオ・デ・アンジェリスのセカンドドライバーとして12番をつけ初優勝を記録していたため気に入っていた。マクラーレンに移籍した1988年も12であった)。
4位に入賞したイギリスGPでは、ホンダエンジン車による1-4位独占の一角を占めたほか、地元の日本GPでも、ベネトンのブーツェンやファビ、ブラバムのパトレーゼらと終始争い「中嶋返し」や「大外刈り[6]」と呼ばれる鈴鹿サーキット1コーナーでのアウト側からの追い抜きを2回も決めて6位に入賞した。
マシンに関しては、期待していたほどの成果を挙げることができなかったため、この年限りでアクティブサスペンションの実戦使用を中止した。だが長い期間アクティブサスペンション開発に注力してきたこともあり、パッシブサスペンションや空力、トランスミッション等の開発が立ち遅れ、翌年以降の低迷期へと繋がっていくこととなる。中嶋のマシンにのみ、シーズンを通じて車載カメラがテスト的に搭載された[7]が、このことがマシンのバランスを崩す結果となり、セナが2勝のトータル57ポイントに対して中嶋は7ポイントと差はかなり大きかった。
- マシン:ロータス 99T・ホンダ
- チームメイト:アイルトン・セナ
- 獲得ポイント:7
- 最高位:4位(イギリスGP)
1988年
初年度と同じくロータス・ホンダをドライブすることになったが、チームメイトは前年度のワールドチャンピオンでウィリアムズから移籍してきたネルソン・ピケに変わった。
この年はコースに慣れたこともあり、予選でピケに並ぶタイムを度々たたき出したほか、ターボエンジンが圧倒的な優位性を持つメキシコGPや、コースを熟知していた日本GPにおける予選6位など、たびたび予選トップ10に食い込む活躍を見せた。市街地コースで開催されたモナコGPとアメリカGPでは初の予選落ちを喫したが、決勝レースでもトップ10内フィニッシュを繰り返し、雨のイギリスGPでマクラーレン・ホンダのアラン・プロストを従えて走ったほか、性能で上回るフェラーリを従えてのレースや、予選で前後に着くことが多かったウィリアムズやベネトンと好バトルを繰り広げることが度々あった。
しかしマシントラブルが原因のリタイアも多く、開幕戦のブラジルGPで6位に入賞した以降は入賞することなくシーズンを終えた。このシーズンもチームメイトとのポイント差が大きかった(ピケ20ポイントに対し中嶋は1ポイントのみ)が、上記のように主にマシントラブルによるものであった。
当時のロータスは中嶋をセカンドドライバーと明確に割り切っていたため、チームの中嶋とピケに対する待遇差は歴然としていたが、レース中にピケを上回ることもあった。なお、ベルギーGP序盤で6位走行のピケに対し、中嶋はピケより上位の5位を走っていたものの、ほどなくしてピケに抜かれるという場面があったが、この順位の入れ替えはチームオーダーによるものではなく、自らのシフトミスの結果であったと中嶋はドライビング・ミスを認めている。
日本GPでは、開幕前日に母を亡くすという最悪の精神状態であったものの、自身の予選最高位である6位[8]を獲得。しかしポールポジションのセナとともにスタートでエンスト、大きく出遅れたものの鬼神の追い上げで入賞まで後一歩の7位まで挽回してみせた[9]。
シーズン序盤に来季のロータスに対するホンダエンジンの供給停止が決定されていたため、この年限りでの中嶋のロータス離脱は決定的に見えた。実際、アロウズと交渉を重ね契約寸前まで行っていたが、それぞれのスポンサーの問題で最終合意には至らなかった。そしてロータスは、マシン開発に長けているだけでなくチームスタッフとの関係も良好な上、EPSONやPIAAといった良好なスポンサーを持つ中嶋との1年間の契約延長を行った。契約延長が発表された最終戦のオーストラリアGPで中嶋は初めてTカーを与えられたが、ロータスが中嶋に対してTカーを与えたのはこのレースが最初で最後であった。
- マシン:ロータス100T・ホンダ
- チームメイト:ネルソン・ピケ
- 獲得ポイント:1
- 最高位:6位(ブラジルGP)
1989年
この年も引き続きロータスでドライブすることになったが、ホンダからのエンジン供給が止まったため、非力なカスタマー仕様のジャッドにエンジンが変わり、ワークスエンジンを持つトップ4チームに比べて明らかにマシンのポテンシャルは劣っていた。また、シーズン中にティックフォード・チューンの5バルブ仕様を投入する予定だったが、トラブルが頻発したため、実戦ではフランスGPで投入されただけに留まるなど、チームの混乱が続いた。
シーズン全般的に、ピケ・中嶋ともに予選、決勝ともに中位以降に沈む事が多かったが、チームメイトのピケはシーズン中盤に新型エンジンが投入されたことで、連続入賞を果たすなど戦闘力に劣るマシンながら元ワールドチャンピオンの意地を見せ、中嶋もイギリスGP、ドイツGPやポルトガルGPなどで好走を見せたこともあった。なお、昨年予選、決勝ともに中嶋が上位争いをしたシーズン中盤のベルギーGPでは予選初日に上位に顔を覗かせたが、結局ピケと共に予選落ちを喫する結果となった。エントリーしたマシンが全て予選不通過となったのは、長い歴史を誇るロータスのチーム史上初の屈辱であった。なお、この年の中嶋は既にモナコGP、カナダGPでも予選落ちを経験しており、これがシーズン3度目の予選不通過であった。
この年の中嶋とロータスにとって最大の見せ場となったのが最終戦のオーストラリアGPであった。中嶋は激しい雨が降る中、後方23位からスタートし、1周目にスピンし最下位まで落ちたものの、スピンやクラッシュで自滅するマシンも多い中で序盤から次々順位を上げ、レース中盤以降には、ワークスのルノーエンジンを搭載し、性能に勝るマシンで3位を走行するリカルド・パトレーゼのウィリアムズ・ルノーを追い回した。スリップストリームに入るとエンジンが(前のパトレーゼのマシンが巻き上げた)水煙を吸い込みミスファイアを起こすという症状が何度も起きたため、結局パトレーゼを抜くまでには至らなかった上に、時間制限により規定周回数前にレースが終わってしまったが、自身にとって初であり、同シーズンでロータスにとっても初のファステストラップを記録し、自己最高位タイの4位に入賞した。ファステストラップは2012年中国GPで小林可夢偉が記録するまでの長い間、F1において唯一アジア人ドライバーが記録したファステストラップだった。
- マシン:ロータス 101・ジャッド
- チームメイト:ネルソン・ピケ
- 獲得ポイント:3
- 最高位:4位(オーストラリアGP)
- ファステストラップ:1回(オーストラリアGP)
1990年
監督のピーター・ウォーがチームから去るなど、さらに体制が悪化することが予想されるロータスに見切りをつけ、前年の夏よりアロウズやティレル、オニクスなど複数の中堅チームと移籍交渉を行い、最終的にはティレルに移籍することになった(なおピケもロータスを去りベネトンに移籍した)。ティレルもカスタマー仕様のV8エンジンを搭載するかつての強豪チームだったが、現在はチームオーナーであり監督のケン・ティレル以下、中堅チームとして堅実に運営されているチームだった。
開幕前のヘレステストでは走行中にリアウィングが脱落するアクシデントでひやりとさせたが、1990年序盤に使用したティレル・018はバランスが優れたマシンであり、開幕戦アメリカGPでウィリアムズのパトレーセやブラバムのステファノ・モデナとのバトルを経て6位入賞を果たした。新車019がデビューしたサンマリノGPはスタート直後にイヴァン・カペリと接触し、マシンが2つに折れる大クラッシュに会うが無傷で生還した。
その後、シーズン中盤では6連続リタイアを喫するなど、たび重なるマシントラブルに見舞われ、完走5回という完走率の低いシーズンとなった。ポルトガルGPでは発熱のため、初めて決勝レースを欠場した。それでも、イタリアGPと日本GPで6位入賞し、3回の入賞で3ポイントを獲得した。019はF1に初めて本格的なハイノーズを導入した画期的なマシンであったが、中嶋は前年型である018のハンドリング特性をより好んでいた(「確かに018よりタイムは出るんだけど、019は018よりなんか乗りにくいんだよねぇ」と語る[要出典])。なお、デビューした去年からティレルで走るチームメイトのジャン・アレジは、アメリカGP・モナコGPと2度の2位表彰台を含む3回の入賞を果たすなどセンセーショナルな活躍を見せ、1991年はフェラーリへ移籍することになった。
ケン・ティレルは中嶋にアレジのような一発の速さはないものの、レースを通じての安定した走りや、ロングランでのタイヤテスト・決勝用タイヤの皮剥きのための走行など、チームに不可欠かつ地味な作業を黙々とこなす点[10]、そして何よりもマシン開発能力やセッティング能力などに高評価を与えており[11]。翌1991年もティレルに残留することが早くから決まった。
- マシン:ティレル018・フォード、019・フォード
- チームメイト:ジャン・アレジ
- 獲得ポイント:3
- 最高位:6位(アメリカGP、イタリアGP、日本GP)
1991年
昨年に続きティレルでの参戦となった。マクラーレンに2年連続ダブルタイトルをもたらしたホンダV10エンジンがティレルに供給されることが決まり、前年以上の好成績を収めることが期待された。
シーズンが開けると、開幕戦アメリカGPで5位入賞と幸先よくポイントを獲得し、第3戦サンマリノGPでは予選トップ10からスタートし、エンジントラブルでリタイヤするまで4位を走行するなど好調な出だしと思わせた。しかし、シーズンが進むにつれてティレル・020の相対的な戦闘力は低下し、結局入賞はアメリカGPのみに終わった。
低迷の原因としては、フォード・コスワースDFR V8エンジンに比べ重くて大きいエンジンを積んだことからマシンバランスが悪化し、それを補うために導入された軽量トランスミッションが信頼性不足となり、トラブルが頻発した。また、V8のフォード・コスワース・HBエンジンを搭載するベネトンがピレリタイヤの開発を主導したため、重いホンダV10エンジンのパワーにマッチしたタイヤを手に入れられなかった。さらに、シーズン序盤にデザイナーであるハーベイ・ポスルスウェイトがチームを離脱したため、マシン熟成作業が遅々として進まなかったことも挙げられる。
また、5シーズン目の中嶋自身も体力と視力の衰えに悩んでおり、第9戦のドイツGPにて、このシーズンを最後に引退することを発表した。前年のモナコGPでアレジが重いステアリングをねじ伏せながら縁石を乗り越えて走るのを見て、もう自分の出番ではないと思ったという[12]。本当は1990年一杯で止めようと思っていたが、ホンダV10の供給が決まるなど、周りが止めさせてくれない雰囲気があったので、もう1年頑張ろうと思ったという[12]。なお、引退発表直後に行われたドイツGP予選では、このシーズンで唯一チームメイトのステファノ・モデナより速い予選通過タイムを記録している。
その年の日本GPが行われた鈴鹿サーキットは「中嶋の母国ラストラン」を見届けようとする観衆で中嶋一色に染まり、日の丸とともに「ありがとう中嶋」などの横断幕がサーキットを埋めた。予選では中位に終わったものの最後の鈴鹿で念願の表彰台が期待されたが、スタート失敗から7位まで追い上げたところで、フロントサスペンションのトラブルによりS字を直進しクラッシュしてリタイアという結果に終わった。マシンを降りた中嶋は20万人を超すファンに手を振りながらピットへ戻った。
引退レースとなった最終戦のオーストラリアGPは、くしくも4位入賞・ファステストラップを記録した2年前と同じ、雨のアデレード市街地サーキットとなり期待をさせたが、レース序盤にリアをスライドさせてマシンがコンクリートウォールにヒット。26台中最初のリタイヤとなり、ここで静かにレース活動を終えた。なおF1からの引退とともにレース活動も引退した。
- マシン:ティレル020・ホンダ
- チームメイト:ステファノ・モデナ
- 獲得ポイント:2
- 最高位:5位(アメリカGP)
- 第2回(1991年度)スポーツ功労者文部大臣表彰受賞
ドライビング
「雨のナカジマ」
この節の内容に関する文献や情報源が必要です。(2015年8月) |
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日本国内の各選手権で活躍していたころから雨のレースを得意とし、ファンからは「雨のナカジマ」と呼ばれていた。
ロータスでの最後のレースとなった、1989年の最終戦オーストラリアGP(アデレード市街地コース)では、予選に失敗し23番グリッドからのスタートとなったものの、大雨に見舞われチャンピオン争いを行うセナや1987年のワールドチャンピオンのピケなど多くの選手がクラッシュ。最終戦とあって年間順位がほぼ確定していることもあり、セナとチャンピオンを争っていたものの、ほぼチャンピオンを確定していたプロストは危険なずぶ濡れのコースで無理に走らず棄権する他[13]、セナも前方が見えずブラバムのマーティン・ブランドルに追突してリタイアするなど、最悪のコンディションの中、戦闘力の劣るロータス101・ジャッドで上位のマシンを次々と抜き去り、日本人ドライバーとして初の、そしてチーム・ロータスとしては最後のファステストラップを記録した。
残り10周を切った時点で、3番手を走るウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼの直後に迫り、日本人F1ドライバー初の表彰台を期待されたが、エンジンの電気系統のトラブルで抜くことができず[14]、また2時間ルール規定にも阻まれ、結局4位に終わっている。レース後、中嶋は担当エンジニアのティム・デンシャムと抱擁した。
後年、TVのインタビューで「なぜ雨のレースが得意なんですか?」との問いに「雨だと車が滑るけど、その分ハンドルが軽くなって操縦しやすくなるから、腕力が無い自分にとって雨のレースはチャンスだった」と答えている。また、「中嶋のマシンの挙動に対する感覚の高さが、車が滑りやすい雨のレースにおけるドライビングの巧みさの理由である」という評価も受けている。毒舌で有名なイギリスのBBCの名物解説者であり、それまで中嶋に対して高い評価を与えたことのなかった元ワールドチャンピオンのジェームス・ハントは、後の1991年シーズン前に「(パフォーマンスの高いホンダエンジンを搭載したマシンをドライブしても)中嶋が表彰台に登れるはずがない」とこき下ろしたものの「だが、全戦が雨で開催されるなら、話は変わってくる」とも語っていた。
その後の1991年のサンマリノグランプリでも上位が潰れる中、予選10位より一時4番手まで順位を上げ、マクラーレンのアイルトン・セナ、ゲルハルト・ベルガー及び3番手を走るステファノ・モデナと共にホンダエンジン搭載車が1位から4位独占かというところで駆動系トラブルによりリタイヤしたが[15]、このときもレース前半はウエットコンディションであった。
評価
「スキルはあるが体力が無い」という主旨の発言をしたF1関係者は複数存在した。
- ハーベイ・ポスルスウェイト
1991年当時直線とシケインで構成されていたドイツ・ホッケンハイムリンクでの予選(ドライ)でこの年初めてチームメイトのステファノ・モデナを上回った際、当時ティレルのテクニカルディレクターであったハーベイ・ポスルスウェイトは
「 | 直線で一息入れられるサーキットではナカジマは速い | 」 |
また予選での走りを課題と指摘し、
「 | サトルは予選ではそれほどでもない。ところが決勝レースになれば、特に後半になればなるほどラップタイムがジャン(アレジ)と同じになるほど速くなる。マシンとタイヤを労わって走りレース運びがプロフェッショナルだ。だから予選でしくじって20番くらいになって、決勝でゴボウ抜きしても驚きはしない。彼にその能力があるのはわかっている。予選で4列目や5列目付近だと決勝で思わぬことに巻き込まれるから予選をこれからもっと頑張ってほしい[16]。 | 」 |
- ジェームス・ハント
イギリスBBCの解説者ジェームス・ハントはF1デビュー時の中嶋を低評価していたが、
「 | 1989年の雨のアデレードでのナカジマの走りは素晴らしかった。勇気とスキルが無ければああは走れない。それで感銘を受けて以後注意深く彼の走りを観察して感じたのは、彼には繊細なテクニックがあってもF1のワイドタイヤを振り回すだけの腕力が無いということに気付いた。実際に先日彼に直接話したら、彼はたどたどしい英語で丁寧にそのことを話してくれたよ。問題は腕力だ。[17] | 」 |
- ネルソン・ピケ
ロータスで2年間チームメイトだったネルソン・ピケも近い見解を示しており、
「 | サトルはフィジカル・トレーニングもだいぶやっていたようだけど、F1のコーナリングスピードは年々速くなっているから肉体的にもずっと辛い思いをしてたんじゃないか。サトルは好きなサーキットがハッキリしているタイプなんだけど、ハードなブレーキングを必要としないサーキットではスムーズでとても良い走りをするよ[18]。 | 」 |
と述べ、また長所も挙げて走りを評価している。
「 | サトルの走りは決して悪くないよ。みんなが思ってるよりずっとうまい。1988年にはコースも覚えて、中低速コーナーじゃ僕の方が速いけど、高速コーナーはサトルの方が速かったくらいだ。1987年に彼だけ全戦で車載カメラが付けられてたのは不幸だった。あのカメラに彼のアクシデントはすべて映っていてリプレイされたからつまらない事故を起こす印象が残ってしまったんだよ[19]。 | 」 |
元ホンダF1監督の中村良夫のインタビューに対しては
「 | 中嶋はとても速いドライバーです。必要なのは、サーキットを早く覚えることです。サーキットを完全に把握するのにちょっと時間がかかるような気がしますね。もし予選を、決勝が終わったあとの月曜日にもう一度やったら彼はすごく速くなっていると思います[20]。 | 」 |
マシンの開発能力及びセッティング能力が高いと評する発言も複数みられた。
- ケン・ティレル
ティレルチームで多くのドライバーを見てきたケン・ティレルは、
「 | 1990年のティレル・019でジャン・アレジが大活躍できたのはサトルが開幕前にピレリタイヤの選択に汗を流して完璧な選択をしておいてくれたからだ。フルタンク走行でテストを繰り返してマシンの状態を分析し、どこをどう変えたらよいか、どこまでが可能か、それを英語ですべて伝えることができる。ピレリの連中もサトルの仕事にとても感謝していた。彼の功績は大きい[21]。 | 」 |
- ジョアン・ビラデルプラット
ティレルのチーフエンジニアとして中嶋を知るジョアン・ビラデルプラットは中嶋の能力を語り、
「 | 日本人ドライバーと仕事するのは初めてだったので最初は不安だったけど、彼のレーシングマシンに対する経験値と感覚の細やかさは頼りにしている。ティレル019は彼が造ったマシンと言ってもいい。イモラ・サーキットでシェイクダウンから3日間一つの文句も言わずに淡々とロングランを走り続けて、ほとんどすべての問題点を明らかにしてくれた。レースディスタンスのテストで決めたタイムで走る能力が優れている[22]。 | 」 |
引退後
F1からの引退とともにレーシングドライバーとしての活動も引退したが、全日本F3000選手権→フォーミュラ・ニッポン→スーパーフォーミュラや全日本GT選手権→SUPER GTなどに参戦する自身のチーム「ナカジマレーシング」の監督として現場を率いている(詳しくは中嶋企画の項を参照)。
同チームは、野田英樹、中野信治、高木虎之介、桧井保孝、松田次生、小暮卓史、トム・コロネル、アンドレ・ロッテラー、ロイック・デュバル、武藤英紀、松浦孝亮、牧野任祐、アレックス・パロウといったドライバーを輩出するなど、若手ドライバーの登用に積極的である。
また鈴鹿サーキットレーシングスクール(「SRS-K」、「SRS-F」)の校長を開校(1993年)から2018年まで務め、これまで佐藤琢磨、松田次生、松浦孝亮、武藤英紀などを同スクールより送り出した。
2004年に日本レースプロモーション(JRP)の会長に就任、観客数の低迷が続くフォーミュラ・ニッポン(現 スーパーフォーミュラ)の建て直しにも本格的に乗り出している。
ホンダや鈴鹿サーキットのファン感謝デー、JAFグランプリ併催の「レジェンドカップ」などでたびたびデモランやエキシビションレースに参加し往年の腕前の一端を見せている。
メーカーとの関係
フォーミュラカーではホンダとの強い結びつきがイメージされるが、ワークス契約はしておらず、プロレーサーとしてホンダ一辺倒だったわけではない。
デビュー当初は、マツダ系ディーラーの碧南マツダの支援を受け、ファミリアやサバンナRX-3などで多くのレースに参戦していた。また、全日本F2でホンダのワークスエンジンの供給を受け参戦するのと並行して、ロータスから技術供給、および資本提携していたトヨタがF1参戦の可能性があったこともあり、1980年のフォーミュラ・パシフィック(FP)やその後のル・マン24時間レース・WEC-JAPANなどでは、トヨタ系のマシンを数多くドライブしている。
一方で日産との関係は薄く、1979年のFPで星野一義の代役として数戦に出場した程度である。一説にはこのFP参戦時に長谷見昌弘とチームオーダーの件で対立し、それが中嶋から日産を遠ざけた一因といわれている。しかし、中嶋本人は『ホリデーオート』誌上でフェアレディZを思い出に残る車にあげている[23](そのほか、引退した翌年にゲスト出演した「さんまのまんま」でもフェアレディZが愛車であったと語っている)。
スポンサー
- 販売拡大とブランドイメージ向上を図るため、セイコーエプソンは新たな広報活動として1983年に全日本F2に参戦するハラダレーシングのメインスポンサーとなった。この時、中嶋がチームに加入し、速くてマシンを壊さない中嶋のドライビングスタイルが商品と重なるとして、翌年より中嶋(及び中嶋企画)を支援することになった。なお、ハラダレーシングは1シーズンで全日本F2から撤退している。
- 1987年には中嶋のF1参戦に伴いパーソナルスポンサーとしてF1に参入。1988年から1991年には中嶋の所属チーム(ロータス、ティレル)のスポンサーとしての活動も展開した。この時期に制作された中嶋を起用したテレビCMで「F1=中嶋=EPSON」という印象が広く世間に浸透。当時のF1ブームも重なり企業イメージと知名度が飛躍的に向上した。
- 中嶋の現役引退後も中嶋企画(ナカジマレーシング)への支援を継続。2000年から子会社のエプソン販売にスポンサー活動が引き継がれたが、変わらぬ支援体制が続いている。2004年よりSUPER GTに「EPSON NAKAJIMA RACING」として参戦。スーパーフォーミュラではサブスポンサーとしてマシンにロゴが貼られている。※参考資料 - 『Racing On』(ニューズ出版) 2007年10月号・特集「中嶋悟」
- 1986年に当時はまだ珍しかった海外レース(国際F3000)に挑戦する中嶋のスポンサーとなる。翌年F1にステップアップした中嶋への支援は1988年から再開され、1989年から1991年にはEPSONと同様に所属チームのロータスとティレルのスポンサーも務めた。
- 国内では、1989年から全日本F3000とJTCCに白黒のPIAAカラーで中嶋企画が参戦。以降、PIAAカラーは中嶋企画にとってお馴染みのカラーリングとなり、EPSONと共に中嶋の長年のパートナーとして広く認識される存在であった。
- 2009年をもって中嶋企画のスポンサーから撤退したが、2012年より支援を再開している。
- ホンダ
- 1981年、生沢徹が率いるi&iレーシング在籍時、全日本F2に復帰したばかりのホンダエンジン[24]でシーズンを戦った。それ以前から非力なマシンで上位を喰う走りをみせていたが、ホンダエンジン搭載によるマシンの戦闘能力の向上もあり、中嶋は初の全日本F2チャンピオンに輝いた。
- その走りと開発能力に着目したホンダは、中嶋の独立後もエンジン供給を約束。国内のF1テストドライバーにも抜擢し、1986年の国際F3000参戦も支援。これが翌年からのF1参戦に繋がった。
- F1引退後もナカジマレーシングにマシンやエンジンを供給するなど良好な関係が続いている。
家族
あけみ夫人との間に長男・中嶋一貴と次男・中嶋大祐の2人の子供を授かり、共に現在レーシングドライバーとなっている。特に長男・一貴は、かつて父がホンダF1エンジンのテストドライバーをつとめた際に縁があったウイリアムズに2007年から所属し、同年最終戦から2009年アブダビGPまでF1に参戦していた。
歌手デビュー
F1ブームが頂点に達した1990年11月21日、キティレコーズ(現 ユニバーサルミュージック)から「悲しき水中翼船」で歌手デビュー。作詞・作曲・プロデュースは東京バナナボーイズ。
中嶋本人は歌うことに抵抗があったが、スポンサーであるEPSONのCMソングであったことと、テレビ番組など人前で歌わないことを条件に承諾したという。また、レコーディング直前まで自身が歌うことを知らされず、「僕は前もって言われると考えちゃってほとんど“NO”って言っちゃうんだよ。そのことをマネージャーが知っているから、直前まで隠したんだよね」と、『F1ポールポジション』(フジテレビ)に出演した際に語っていた。
折からのF1ブームや話題性、テレビCMでの大量オンエアもあり、多くのプロの歌手を押しのけオリコンで最高20位にランクインするスマッシュヒットとなった。
シングル
- 悲しき水中翼船(1990年11月21日発売、最高位:オリコン20位)
アルバム
- SATORU NAKAJIMA(1991年11月25日発売、最高位:オリコン14位)
- 中嶋の引退を記念して発売されたコンピレーション・アルバム。中嶋のモノローグとEPSONのCMソングを収録。
- FOREVER SATORU NAKAJIMA 1991 F-1 JAPANESE GP(1991年12月15日発売、最高位:オリコン69位)
- 1991年のF1日本グランプリの「Pit-FM」実況(サーキットの場内FM放送)の他、1887年から1990年の日本グランプリの「Pit-FM」実況のダイジェストやホンダV10エンジンのエキゾーストノートなどを収録したアルバム。
エピソード
- 中嶋が先鞭をつけたことにより、これまで数多くの日本人レーサーがF1に参戦しているが、参戦した年すべてにおいてポイントを獲得しているのは中嶋悟1人だけである。
- 1986年から1991年の引退まで、日本の自動車雑誌『カーグラフィック』に連載を持っていた。その後この連載は単行本化された。
- 1987年の開幕前のテストで、チーム・ロータスのエースでチームメイトとなるアイルトン・セナがマシンをテストし、ホンダエンジンにそれまで乗った経験のなかったセナは「エンジンから異常な振動がする」とチームスタッフに訴えた。それを知った中嶋は、セナのマシンでコースを1周すると「いや、これでいいんだ」と言った。セナは、長くホンダのテストドライバーだった中嶋のその言葉に納得し、ドライブを続けたという。
- 参戦初年度の1987年にブラジルGP開催の直前、高価なダイバーズウォッチをつけて市内をジョギングをしたが、ジョギングから戻った後F1スタッフから、「そんな高価な時計を身につけてジョギングするのはとても危険」ということを聞かされ、それ以降ブラジルではジョギング時には時計をつけないようになった。
- 1987年の『F1総集編』で、モナコGP開催直後(日曜日の夜)、モナコのホテルで行われたパーティーで「他のF1ドライバーはタキシードを着ているのに対し(ヨーロッパの文化に疎かったため)、中嶋だけがブレザーで出席してしまった」というエピソードが放送されたが、これは誤り。実際には、金曜日のパーティに中嶋はタキシードで出席しており、ヨーロッパ文化を知らなかったということは無い。しかし決勝レースでチームメイトのアイルトン・セナが優勝したため、優勝チームの一員として当初参加予定ではなかったレース後のパーティにも招かれたが、すでにセナと共にタキシードを含め荷物をパックした後で、仕方なくタキシード非着用で出席したというのが真相である。同パーティではF1解説者の今宮純もタキシード非着用(現地入りしてから招待を受けたためタキシードを用意しておらず、現地での入手もできなかった)だったため、その今宮の姿を見つけたセナと中嶋が助けを求めるかのように今宮のテーブルに移動してきたというエピソードもある[25]。
- 同じ年齢でロータス時代に中嶋のセッティング能力を高く評価していたネルソン・ピケは、中嶋がF1からの引退を発表した後に、「年も若いしまだやっていけると思うよ。俺が説得してこようか?」と話した。
- ティエリー・ブーツェンは、1992年の日本グランプリ前に鈴鹿での思い出をとのインタビューを受けたときに「マーチBMWで参戦した全日本F2。後ろからどんどん抜いて行って最終的に2位に入ったレースさ。ウイナーはナカサンだ。彼の完勝だったよ」と答えている。
- 前述のように、日本国内時代の中嶋悟の速さを知るブーツェンは、「日本では全く歯が立たなかったのに、F1に来てからの彼はどうしてしまったんだろう」という趣旨の発言をしている。
- ソース焼きそばと栗きんとんと中華料理が好物。レース期間中にピットでカップ焼きそばを食べることもあったという。英国誌では、中華レストランでテイクアウトを持ち帰る姿が紹介されていた。また、当時のマネージャーの話によると一週間ほどイギリスを離れる際、イギリスの自宅に買い置きしていた焼きそば2ダースが帰国後には、全てなくなっていたという程の焼きそば好きであるという。
- 趣味はドライブとゴルフ。現在に至るまで国内での移動は自身の運転で行い、年間走行距離が5万キロを超えることも珍しくないという。F1ドライバー時代のヨーロッパでも移動のほとんどを自らの運転で行っていた。ゴルフについては「僕がプロストに勝てるのはゴルフくらいかな」と語っている。当時のプロストのハンデは10だった[26]。レーシングドライバーを引退してからはゴルフ好きに磨きがかかり、息子の大祐曰く一年の2/3はゴルフ場に行っているという。
- F1実況を担当していた古舘伊知郎は、中嶋の自家用車で東名高速道路を同乗させてもらった時のことを『F1ポールポジション』番組内で「F1ドライバーだから飛ばすのかなと思いきや、普通に運転していた」「でも、安定感が違う」と語っている。また、中嶋が引退後の1992年南アフリカGPでは中嶋がゲスト解説で中継に参加した時、コース下見を中嶋の運転する車で行い、「その時にタイヤがきしむ音がずっとしていたが、クルマの限界を解った上で走っているから音がしてても全然怖くない」とも語っていた。
- 古舘は上記同乗の時、一番印象深かったこととして、バックでの駐車を語っている。その際中嶋は、ドアを開けて確認したり、助手席のヘッドレストに手をかけ後ろを覗き込んだりすることなく、バックミラー・サイドミラーの位置を徹底的に調整していたという。1 - 2分程度かけて調整し終わると、ミラーだけを見て後退を開始。車は切り返しを行うことなく、一発で駐車スペースに真っすぐ入ったという。古舘は他でもないこの瞬間に「一流ドライバーの真骨頂を見た」と感動したという。
- ケン・ティレルが中嶋を評価していたエピソードとして、1991年の日本グランプリの話がある。グランプリが始まる前に中嶋がガレージに呼びつけられると、そこには5台のティレル020が並んでいた。わけが解らないでいる中嶋にケンは「(最後の母国グランプリである)サトルのために用意した。さあ、好きなのに乗ってくれ!」と言いレースカーを選ばせたという。さらに引退後、そのマシンは引退記念として、ケンから中嶋に直接プレゼントされた。潤沢とは言い切れない資金の中レースカーを5台用意したり、その1台を無償でプレゼントしてしまうというのは、通常ではまずあり得ないことであり、ケン・ティレルがどれだけ中嶋を気にいっていたかを示している。ケン・ティレルとの関係はその後も続き、中嶋の愛弟子だった高木虎之介のF1デビューもティレルが全面的にバックアップし、中嶋も「スポーティング・ディレクター」の肩書きでチームに参加した。
著書
関連作品
- 海老沢泰久の小説『F2グランプリ』(1981年、1984年に東宝より映画化)に登場するドライバーの「中野英明(映画では中野訓)」は、中嶋をモデルとしている。
- 他にも自身の名を冠したテレビゲームがVARIE(現 レイアップ)社からいくつか発売された。
CM
- 久光製薬 エアーサロンパススパークリング (1990年)
- ポッカ100%コーヒーキリマンジャロマイルドコーヒー、100%コーヒーキリマンジャロ(1992年~1993年)
- EPSON
- 日本中央競馬会(JRA)(1996年、本木雅弘と共演)
- 本田技研工業 ホンダ・アコード(1992年)
- 日本信販(1991年)
- PIAA
レース戦績
F1参戦前の経歴
- 1973年 - レースデビュー
- 1975年 - FL500 チャンピオン
- 1977年
- FJ1600 チャンピオン(7勝, 7PP)
- 全日本F2000選手権 参戦
- 鈴鹿F2000選手権 参戦
- 1978年
- 1979年 - 富士グランチャンピオンレース チャンピオン
- 1981年
- 全日本F2選手権 チャンピオン(2勝, 1PP)
- 鈴鹿F2選手権 チャンピオン
- 富士グランチャンピオンレース 7位
- フォーミュラ・パシフィック 2位(2勝, 4PP)
- マカオグランプリ リタイア
- 1982年
- 全日本F2選手権 チャンピオン(4勝, 1PP)
- 鈴鹿F2選手権 チャンピオン
- 富士グランチャンピオンレース 6位
- ヨーロッパF2選手権 シリーズ13位(最高位2位)
- 1983年
- 全日本F2選手権 シリーズ4位(2勝, 2PP)
- 鈴鹿F2選手権 シリーズ2位
- 富士グランチャンピオンレース 5位
- 1984年
- 全日本F2選手権 チャンピオン(4勝, 6PP)
- 鈴鹿F2選手権 チャンピオン
- 富士グランチャンピオンレース 2位
- 1985年
- 全日本F2選手権 チャンピオン(5勝, 6PP)
- 鈴鹿F2選手権 チャンピオン
- 富士グランチャンピオンレース 2位
- 1986年
- 全日本F2選手権 チャンピオン(1勝, 5PP)
- 鈴鹿F2選手権 シリーズ2位
- 国際F3000選手権 シリーズ10位(最高位4位)
- ル・マン24時間 リタイア
全日本F2000選手権,全日本F2選手権
年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1977年 | ヒーローズレーシングコーポレーション | SUZ 4 |
SUZ Ret |
NIS | SUZ 10 |
FSW 5 |
FSW 2 |
SUZ 3 |
SUZ 5 |
3位 | 52 (53) |
1978年 | SUZ 3 |
FSW 2 |
SUZ 1 |
SUZ 2 |
SUZ 2 |
NIS | SUZ 2 |
3位 | 67 | ||
1979年 | i&iレーシング | SUZ 12 |
NIS | SUZ 11 |
FSW 4 |
SUZ 9 |
SUZ Ret |
SUZ 2 |
7位 | 48 | |
1980年 | SUZ 1 |
NIS | SUZ 1 |
SUZ 3 |
SUZ 6 |
SUZ 6 |
3位 | 59 | |||
1981年 | SUZ 3 |
SUZ 2 |
SUZ 3 |
SUZ 1 |
SUZ 1 |
1位 | 79 | ||||
1982年 | チーム・イクザワ | SUZ 1 |
FSW 6 |
SUZ 1 |
SUZ 3 |
SUZ 1 |
SUZ 1 |
1位 | 80(98) | ||
1983年 | ハラダレーシングカンパニー | SUZ 1 |
FSW DSQ |
NIS Ret |
SUZ 4 |
SUZ Ret |
FSW 13 |
SUZ 1 |
SUZ 2 |
4位 | 65 |
1984年 | ヒーローズレーシング | SUZ 1 |
FSW 3 |
NIS Ret |
SUZ 9 |
SUZ 1 |
FSW 2 |
SUZ 1 |
SUZ 1 |
1位 | 107 (109) |
1985年 | SUZ 2 |
FSW 1 |
NIS 1 |
SUZ 1 |
SUZ 2 |
FSW 2 |
SUZ 1 |
SUZ 1 |
1位 | 115 (145) | |
1986年 | SUZ 2 |
FSW 2 |
NIS 4 |
SUZ 1 |
SUZ 2 |
FSW 3 |
SUZ 2 |
SUZ 4 |
1位 | 92 (112) |
国際F3000選手権
年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | チーム・ラルト | SIL Ret |
VAL 5 |
PAU | SPA | IMO 8 |
MUG 5 |
PER Ret |
ZEL 4 |
BIR 8 |
BUG | JAR | 11位 | 7 |
F1
年 | チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987年 | ロータス | 99T | BRA 7 |
SMR 6 |
BEL 5 |
MON 10 |
DET Ret |
FRA NC |
GBR 4 |
GER Ret |
HUN Ret |
AUT 13 |
ITA 11 |
POR 8 |
ESP 9 |
MEX Ret |
JPN 6 |
AUS Ret |
12位 | 7 |
1988年 | 100T | BRA 6 |
SMR 8 |
MON DNQ |
MEX Ret |
CAN 11 |
DET DNQ |
FRA 7 |
GBR 10 |
GER 9 |
HUN 7 |
BEL Ret |
ITA Ret |
POR Ret |
ESP Ret |
JPN 7 |
AUS Ret |
16位 | 1 | |
1989年 | 101 | BRA 8 |
SMR NC |
MON DNQ |
MEX Ret |
USA Ret |
CAN DNQ |
FRA Ret |
GBR 8 |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL DNQ |
ITA 10 |
POR 7 |
ESP Ret |
JPN Ret |
AUS 4 |
21位 | 3 | |
1990年 | ティレル | 018 | USA 6 |
BRA 8 |
15位 | 3 | ||||||||||||||
019 | SMR Ret |
MON Ret |
CAN 11 |
MEX Ret |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA 6 |
POR DNS |
ESP Ret |
JPN 6 |
AUS Ret | ||||||
1991年 | 020 | USA 5 |
BRA Ret |
SMR Ret |
MON Ret |
CAN 10 |
MEX 12 |
FRA Ret |
GBR 8 |
GER Ret |
HUN 15 |
BEL Ret |
ITA Ret |
POR 13 |
ESP 17 |
JPN Ret |
AUS Ret |
15位 | 2 |
ル・マン24時間レース
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | ラップ数 | 順位 | クラス 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | トムスチーム | 関谷正徳 星野薫 |
トムス・85C-L-トヨタ | C1 | 330 | 12位 | 12位 |
1986年 | トムス | 関谷正徳 ジェフ・リース |
トムス・86C-L-トヨタ | C1 | 105 | DNF | DNF |
全日本ツーリングカー選手権
年 | チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | ホンダ・シビック | DIV.1 | SUG | TSU | NIS Ret |
SUZ 1 |
FSW 3 |
脚注
- ^ 中嶋悟のF1風雲録〔2〕 夢舞台・人生はレースとともに(朝日新聞) - WEB新書 - 朝日新聞社
- ^ 中日新聞 2014年4月21日、朝刊、三河版、12面 「こころは三河 私の古里」。
- ^ 『リバーシブル』(株式会社ペーパードール)1984年11月号、56-69頁 「THE INTERVIEW レーサー中嶋悟」。
- ^ 『Racing On』(三栄書房)2009年9月号・p.39
- ^ 1984年・1985年については鈴鹿F2とのダブルタイトル
- ^ 柔道とは無関係であるが、アウト側(外)からオーバーテイク(かる = 駆る、狩る、刈る)という意味で柔道で同名の技「大外刈」と語呂合わせで誕生した言葉。主に鈴鹿サーキット第1コーナーでのアウト側からのオーバーテイクに対して表現されるが、近年では他のコーナーでもアウト側からのオーバーテイクのことを「大外刈り」と表現する傾向がある。
- ^ なお、サンマリノグランプリは、セナのスペアカーに乗り換えたため搭載されていない
- ^ 5位のピケと同タイムだが、先にタイムを出したピケが上位となる
- ^ 鈴鹿は下り坂スタートのためアクセルコントロールが難しく、F2時代にも何度もミスしたことがある
- ^ アレジはこのような作業を当時嫌った
- ^ 「ぜんぶF1から教わった」(中嶋悟、マガジンハウス、1992年)pp.162
- ^ a b 中嶋悟「ファンの人たちにこたえたかった」 Nunber Web(2006年10月12日)2020年5月21日閲覧。
- ^ プロスト、ピケ、セナ、マンセルとワールドチャンピオン達はすべて完走できなかった。
- ^ 前述の通り、水煙の影響でエンジンがミスファイアを起こしていた
- ^ 「4位にはなれたよね」単独4位を走行中突然のギアボックストラブルでリタイアしてしまった中嶋悟 F1速報1991年第3戦サンマリノGP号 8頁 武集書房
- ^ 予選での速さがサトルの課題 F1グランプリ特集 1991年7月号 53頁 CBSソニー出版
- ^ F1グランプリ特集 1991年10月号 27頁 ソニーマガジンズ
- ^ 関係者50人の中嶋悟に贈るエール F1グランプリ特集 Vol.28 1991年10月号 35頁 ソニーマガジンズ
- ^ F1グランプリ特集 Vol.15 1990年7月号 52頁 CBSソニー出版
- ^ 中村良夫『F1グランプリ全発言』(第2版)株式会社山海堂、1990年6月10日、p.121頁。ISBN 4-381-07627-3。
- ^ F1グランプリ特集 1991年10月号 37頁 ソニーマガジンズ
- ^ F1グランプリ特集 1990年7月号 52-53頁 ソニーマガジンズ
- ^ 最初の愛車がフェアレディZだった。
- ^ 生沢がホンダと繋がりがあったことから獲得した
- ^ 「モータースポーツジャーナリスト青春編」(今宮純著、三樹書房、1998年)pp.198 - 202
- ^ 1987年日本GP前日のフジテレビのプロストへのインタビューによる
関連項目
外部リンク
- ご挨拶・中嶋悟プロフィール NAKAJIMA RACING Official Website