コンテンツにスキップ

阪神甲子園球場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。味村 (会話 | 投稿記録) による 2012年6月2日 (土) 12:57個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

阪神甲子園球場
Hanshin Koshien Stadium

阪神甲子園球場(21世紀の大改修後)

2007年夏の全国高等学校野球選手権大会・開会式の様子
施設データ
所在地 日本兵庫県西宮市甲子園町1番82号
座標 北緯34度43分16.34秒 東経135度21分41.84秒 / 北緯34.7212056度 東経135.3616222度 / 34.7212056; 135.3616222座標: 北緯34度43分16.34秒 東経135度21分41.84秒 / 北緯34.7212056度 東経135.3616222度 / 34.7212056; 135.3616222
開場 1924年8月1日
所有者 阪神電気鉄道
管理・運用者 阪神タイガース阪神園芸
グラウンド 外野 - 天然芝
内野 - 土
ダグアウト ホーム - 一塁側
ビジター - 三塁側
照明 屋根上投光器照明 - 2基、照明塔 - 4基
照度 - バッテリー間:2500ルクス
内野:2500ルクス
外野:2000ルクス
建設費 250万円(着工当時額)
設計者 大林組
建設者 大林組
旧称
甲子園大運動場(開場 - 不明)
甲子園球場(不明 - 1964年2月13日)
使用チーム • 開催試合
全国高等学校野球選手権大会(1924年・第10回大会 - 現在)[1]
選抜高等学校野球大会(1925年・第2回大会 - 現在)[2]
阪神タイガース(1936年 - 現在)[3]
毎日甲子園ボウル(1947年・第1回大会 - 現在)[4]
日本フットボール優勝大会[5](1925年・第8回大会 - 1928年・第10回大会)
南海ホークス(1948年 - 1949年)
社会人野球日本選手権大会(1974年・第1回大会 - 1979年・第6回大会)
収容人員
47,757席(2012年~)(内野:28,714席、外野:19,043席)
グラウンドデータ
球場規模 グラウンド面積 - 約13,000 m2
両翼 - 95 m (約311ft)
中堅 - 118 m (約387 ft)
左右中間 - 118 m (約387 ft)
フェンス 2.6 m

阪神甲子園球場(はんしんこうしえんきゅうじょう)は、兵庫県西宮市甲子園町にある、阪神電気鉄道が所有する野球場。通称「甲子園球場」または「甲子園」。

概要

全国中等学校優勝野球大会の開催を主目的として、兵庫県西宮市に建設された日本で最初に誕生した大規模多目的野球場であり、収容人数は日本の野球場の中で最大である[6]プロ野球セントラル・リーグ阪神タイガースの本拠地球場(専用球場)であるほか、全国高等学校野球選手権大会および選抜高等学校野球大会という2大高校野球全国大会が戦前から優先的に開催されており、大学野球における明治神宮野球場と並び、日本国内では「野球の聖地」と称される。この球場の名称である「甲子園」が高校野球全国大会の代名詞となっており、そのことに端を発して今や野球に留まらず高校生の各種全国大会の代名詞として「○○甲子園」などと使われることがある。大学野球の試合にも使用され、毎年春・秋に開かれる関西六大学野球連盟と、関西学生野球連盟リーグ戦の一部試合が当球場にて実施されている。野球以外では、アメリカンフットボールの全日本大学選手権の決勝戦である甲子園ボウルが開催されている。

2007年秋より、老朽化対策、耐震補強、快適性の向上、環境への配慮を目的に3年計画でオフシーズンのみの改修工事を進め、2009年春に球場本体の改修工事が完了、2010年春には外構整備工事を完了させ、大幅にリニューアルした。また、2008年からは野球場としては日本では珍しいオフィシャルスポンサー制度を採用しており、2012年3月現在はアサヒビール東芝ミズノみずほ銀行(以上4社は当初より)・三菱電機(2009年より)・本田技研工業(2010年より)の6社がスポンサーとなっており、いずれの企業も施設命名権ないし球場設備に関わっている。

紙テープ、紙吹雪、ウェーブによる応援は常時禁止されている。また周囲が住宅地であるため、環境に配慮して午後10時以降はトランペット太鼓を使った鳴り物応援は禁止となる。ただし、阪神勝利時の「六甲おろし」は午後10時以降でも合唱される。

この球場の広さから、関西では敷地などの面積を示す際に慣用単位として大阪ドームよりも「甲子園球場○個分」という表現が使用されるのが定番となっている[7]

毎年、春前には新しい社名が広告に登場するなどのマイナーチェンジを繰り返している。

球場の歴史

建設の経緯

大正年間に始まった全国中等学校優勝野球大会は、豊中球場に始まり第3回大会から兵庫県武庫郡鳴尾村1951年に西宮市と合併)にある鳴尾球場で開催されていたが、人気の高まりにつれ同球場の仮設スタンドでは大勢の観客を収容しきれなくなっていた。後に試合中に観客がグラウンドになだれ込んで試合が中断するという事態にまで発展し、特に1923年第9回大会では鳴尾球場に近い地元甲陽中が決勝戦で和歌山中との近畿対決を制したことから、中等学校野球人気がピークに達した。

この事態を重く見た主催の大阪朝日新聞は、本格的な野球場建設を提案。また鳴尾球場の所有者である阪神電鉄も、鳴尾球場と同じ鳴尾村に流れていた申川(さるかわ・武庫川の支流)を廃川とした後にできた埋め立て地の開発の一環で新球場の計画を進めていたため、利害関係が一致した。当時国内にあった野球場では参考になるものがなく、ニューヨークにあったニューヨーク・ジャイアンツの本拠地、ポロ・グラウンズをモデルに設計されたと言われている。完成するまでは枝川運動場と名づけられていたが、この年が十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねのとし)という60年に1度の縁起の良い年であることから、後に甲子園大運動場(こうしえんだいうんどうじょう、看板表記は阪神電車甲子園大運動場)と命名された。起工式は1924年3月11日に行われ、同年8月11日に竣工式が行われた。

当初は陸上競技場球技場としても利用されることを念頭に設計されたため、グラウンドは三角形で、ポール際のコーナーが丸みを帯びるという形状で、中堅119ないし120 m・両翼110 mに対し左右中間が128 mもあるという、現在の目から見ても過大といえるサイズとなった[8]。さらに1934年にはホームベースがさらに9 mほど下げられたため、同年の日米野球に出場したベーブ・ルースをして"Too large"(デカすぎだ)と驚かせている。開設当時はまだ外野も土のままであった。また、スタンドは「5万人収容」と公称され、グラウンドの内野にあたる部分のみが鉄筋コンクリート製(50段、高さ14.3 m)であり、現在のアルプススタンド、外野スタンドは土盛りの上に20段の木造スタンドがあった。内野席全体(現在のアルプススタンドを除く)には鉄傘が設置された。こけら落としは阪神間学童運動会で、同年夏から全国中等学校優勝野球大会の会場となった。また、大阪毎日新聞が主催していた日本フットボール優勝大会サッカーラグビーの全国大会、詳細は後述)や選抜中等学校野球大会も翌年から開催されている。

周辺の開発と戦火

球場完成後も周辺の開発が阪神電鉄によって進められ、遊園地、動物園、水族館(この3つは甲子園娯楽場として)、総合競技場(南甲子園運動場)、テニスコート(甲子園庭球場、甲子園国際庭球場)、競技用プール(甲子園水上競技場)などが設けられ、阪神電鉄のものではないがそれより前から存在していた鳴尾競馬場とゴルフ場(現在の鳴尾GCコースの前身)を含め一帯は阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなった。球場本体も改良が進められて外野に芝が張られ、現在のアルプススタンド・外野スタンドにあたるスタンドが増築され、公称収容人数は7万人となった。なお総合競技場の完成に伴って、陸上競技場や球技場としての球場の役割は終了したため、スタンド増築の際にフェアグラウンドの形状が変更され、現在に近い形となってほぼ野球専用となった。ただし、それでも当時の日本の野球場としては広大であり、小柄で非力な日本人選手の体型とボールの品質の低さもあって、本塁打が極端に出にくいことで知られていた[9]。また、1935年には所有者の阪神電鉄によって大阪野球倶楽部(球団名大阪タイガース・現阪神タイガース)が設立され、甲子園を本拠地とした。ただしフランチャイズ制度が導入される以前はホームゲ-ムを本拠地で行う習慣はなく、阪急西宮球場後楽園球場とともに各球団が使用していた。

しかし太平洋戦争が激化すると野球どころではなくなり、大日本学徒体育振興大会(幻の甲子園)を最後に中学野球が、1945年1月の正月大会(非公式大会)を最後にプロ野球が戦中の使用を終えた。球場や周りの施設は軍が接収し、スタンドは高射砲陣地、グラウンドは芋畑となってしまった。また鉄傘も金属類回収令のために供出を余儀なくされている。周りの施設も川西航空機の工場や鳴尾飛行場などに転用された。1945年8月には空襲を受けている。また機銃掃射による攻撃も幾度か受けており、弾痕が残った鉄扉が2007年に撤去されるまで長らく関係者入り口にあった(普段は開け放しになっていた。米軍接収時の試し撃ち跡ともいわれている。現在は甲子園歴史館に展示)。

戦後

終戦後は鳴尾飛行場とともに米軍に接収され、1946年はプロ、中学の各種野球の公式戦の開催ができず代わりに阪急西宮球場で行われ、選抜大会は中止となった。翌年にはスタンドの一部とグラウンドの接収が解除されたため、春と夏の中学野球、プロ野球が再開され、甲子園ボウルも始められた。なお球場全ての接収解除は1954年まで待たなければならなかった。ホームランを増やすため、プロ野球再開のシーズン途中にラッキーゾーンが日本で初めて設けられた(当初はプロ使用時のみ)。周りの施設の土地は住宅などに転用されたため、阪神電鉄関連のレジャー施設はプール(現在はテニスコートとクラブハウスになっている)と場所を移した遊園地(甲子園阪神パーク)のみに縮小された。

1948年にはプロ野球においてフランチャイズ制が暫定導入され、大阪タイガースが甲子園を専用球場とし、自前の大規模球場を持たない南海ホークスとともに主催試合のほとんどを甲子園でするようになった。南海電鉄は中百舌鳥球場を所有していたが、立地条件が悪いため戦後は公式戦を当球場及び阪急西宮球場で開催していた。ただし南海ホークスの使用は暫定的なもので、1950年から名目上のフランチャイズであった大阪市内に新設された大阪球場に移転した。

1950年のセ・パ2リーグ制になってからは阪急西宮球場が阪急ブレーブスの本拠地となったため、パ・リーグの試合は専ら西宮で行われ、当球場は阪神タイガースを中心にセ・リーグの公式戦のみが行われる状態が続いた(逆に当球場が高校野球などで使用できない時でも、タイガースが西宮で公式戦を行うことは1991年までなかった)。2リーグ分裂後に当球場で行われたパ・リーグの主催試合は、2011年の東北楽天ゴールデンイーグルスオリックス・バファローズ戦が初である(詳細は後述)。

大改修

その後はナイター施設の新設や、座席、スコアボードの改修がされていった。特に1976年からは数年かけて座席の更新が行われている。またグラウンドの大きさの見直しもあり、1991年にはラッキーゾーンを撤去した。このように当時の基準に合わせる改良が幾度も行われたが、最新の球場に比べて施設の老朽化・陳腐化は避けられず、また建物の耐用年数を考慮すると、いつかは建て替え、もしくは全面的な改修をしなければならないことは明白だった。そのため1990年代初頭には阪神電鉄首脳がドーム球場化を念頭において、アメリカの主要ドーム球場を視察して回った。当初は赤字だった阪神パークを閉鎖して、その跡地と周辺地を加えた用地(阪神パークの用地だけでは不足で、周りの用地買収が必要だったため)にドーム球場を建設する計画で進められていったようであり、実際に1993年には「(同年秋に開始する)西梅田再開発事業の終了の10年後を目処にドーム建設を始める」という報道がされている。

1995年1月17日には兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が発生し、スタンドの一部に亀裂や崩落が発生した。基礎部分の検査が行われたが問題なく、この年の選抜大会を前に亀裂や崩落箇所のみの補修が行なわれた。住民感情に配慮して第67回選抜高等学校野球大会の中止も検討されたが、予定通り開催された。

この地震の被害やバブル崩壊により、阪神電鉄は事業計画を見直すこととなり、阪神パークのある場所(2004年ららぽーとを誘致)でのドーム建設計画は正式発表されることなく白紙撤回された。その後改めて球場本体の構造強度の検査結果を踏まえ、工期はシーズンオフ3期に分割し、基礎部分を残して大規模改修をすることとなった。2004年7月には「西大阪線延伸事業が一段落する2008年のシーズンオフを目途に着工し、2010年以降の完成を目指す」という構想の概要が報道されたが、正式発表は2005年11月となり、着工は2007年秋からとなった。2010年春には全体の工事が完了した(詳細は後述)。

年表

  • 1924年 - 3月11日、起工。
  • 1924年 - 7月31日、完成。12月、蔦が植栽される。
  • 1925年 - 初代スコアボードを正式開設。
  • 1929年 - 内野スタンド内部改装、貴賓室新設。東西スタンドを木造から、鉄筋コンクリート50段、高さ14.3 mに改築。「アルプススタンド」の通称が付く。
  • 1931年 - アルプススタンドにも鉄傘がかけられる。
  • 1932年 - 10月1日、一塁側アルプススタンド下に室内運動場、三塁側アルプススタンド下に温水プール完成。
  • 1934年 - 外野中央に2代目スコアボード完成(通称・軍艦形)。
  • 1935年 - 大阪タイガース(現阪神タイガース)が誕生。
  • 1936年 - 外野東西スタンドを木造から、鉄筋コンクリートに改築。「ヒマラヤスタンド」の愛称がつく。フェアグラウンドが現在の形となり、バックスクリーンも設けられた。現在のプロ野球初の公式戦を開催。
  • 1937年 - 三塁側アルプススタンド下の温水プールが甲子園プール完成に伴い閉鎖。
  • 1943年 - 金属類回収令により鉄傘が供出される。
  • 1945年 - アメリカ軍に接収される。
  • 1947年 - 球場の接収が一部解除される。5月26日、ラッキーゾーンの設置工事が完了。
  • 1948年 - 大阪タイガースが甲子園を専用球場とする。また南海ホークスも甲子園を主に使用した。
  • 1950年 - 南海ホークスが大阪球場に移転する。11月、初の日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズ)開催(第3戦のみ)。
  • 1951年 - 内野ネット裏を中心として大屋根(銀傘)が復活。オールスターゲームの記念すべき第1戦開催。
  • 1954年 - 球場全体の接収が解除。
  • 1956年 - ナイター照明設備完成。その年の夏の甲子園でも早速、ナイターとなる試合も発生した。
  • 1958年 - スコアボードが完全手書き式に変更。さらにスコア表示と下段を一部改造。
  • 1963年 - 内野側に広告設置。
  • 1964年 - 2月14日、球場名を甲子園球場から現在の阪神甲子園球場に変更。室内練習場完成。
  • 1974年 - 看板広告を変更。
  • 1976年 - 座席更新開始(以後数年にわたる)。グラウンド改装。公称を中堅120m、両翼91mに変更。
  • 1978年 - 三塁側アルプススタンド下の温水プール跡に室内練習場を新設。
  • 1979年 - センターバックスクリーンに2面広告装置「トライビジョン」完成(1996年まで)。
  • 1982年 - 銀傘をアルミ合金に葺き替え。天然芝張替え。オーバーシードによる二毛作に成功し、通年緑化。
  • 1984年 - 開場60周年(開場以来の「甲子」の年にあたる)を記念し、スコアボードを3代目のものに更新。
  • 1985年 - タイガース創立50年を記念し、甲子園駅から球場へ続く通路に虎の銅像が建立される。
ジェット風船を使用した応援スタイルが定着
阪神電鉄本線、甲子園駅の臨時改札口を出て約20m先に設置されているモニュメント
  • 1992年 - ラッキーゾーン撤去。公称を両翼96 mに変更。なお、ラッキーゾーンのフェンスは西宮今津高校に展示されることになった。
  • 1993年 - スコアボード右半分をカラービジョンのフリーボードに変更。
  • 1994年 - 開場70周年を記念し、開場当時の姿を模したモニュメントがはめ込まれた記念碑が阪神甲子園バス停付近に建立される(2006年10月にお色直しの上、虎の像のそばに移設。跡地にはグッズショップが建てられた)。
  • 1995年 - 1月17日、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)発生。スタンドの一部が損壊。
  • 1996年 - アニメーション「炎の5回裏」登場。
  • 1997年 - 「トライビジョン」を4面広告装置「ペンタビジョン」に変更。
  • 2002年 - 内野席の一部座席間隔を拡大し、収容人員が約53,000人に減少。
  • 2004年 - 新室内練習場が完成。女子トイレ増設とフェンスラバーなどの改良工事実施。21世紀の大改修の具体案がまとまる。
  • 2005年 - スコアボード右側のフリーボードをLEDに改良。また、バックネット付近のフェンス広告を、電動で回転するものに変更。
  • 2007年 - 2月、新室内練習場の隣に新クラブハウスが完成。3月4日、阪神甲子園バス停付近に新しく「タイガースショップ アルプス」が完成。
  • 2008年 - 3月、第1期リニューアル工事完了。内野スタンドが改修される。
  • 2009年 - 3月、第2期リニューアル工事完了。アルプスと外野スタンド、照明塔、銀傘が改修される。公称を中堅118 m, 両翼95 mに変更。
  • 2010年 - 3月、第3期リニューアル工事完了、これにてリニューアル終了。甲子園歴史館が完成。三塁側外に売店基地棟が完成。球場外周が整備される。
  • 2011年 - 3月、スコアボード左側をフリーボードLEDビジョンに、審判名表示部分とプレー記録をLEDに、ボールカウンターをSBOからBSOに変更完了。同時にスコアボード下にあった守備交代時間のタイマーが撤去。4月15日 - 同17日、1950年の2リーグ分立以降初となる、パシフィック・リーグ球団の主催公式戦(楽天対オリックス戦)を開催(後述)。

21世紀の大改修

正面チケット売り場付近・改修工事前の撮影。球場外壁を覆う蔦
正面チケット売り場付近・改修工事前、蔦の伐採後の撮影。取り除かれた蔦の代わりに緑のパネルで覆われている。
新装後、ガラス張りとなった球場正面(2009年10月18日撮影)
ライトスタンド入場口周辺の光景。甲子園素戔嗚神社前から撮影。

基本構想の発表

2005年11月に基本構想として正式発表された。改修に関する主な構想は下記の通り(詳細は外部リンクを参照)。

  • 2007年10月着工、2010年3月竣工。シーズンオフを中心に3期にわけて工事を行い、プロ野球・高校野球はともに開催予定とする。
  • 天然芝と黒土、オープンエアー(グラウンドに屋根をかけない)の形態維持。
  • 甲子園のシンボルとされている蔦を改修工事前に一旦伐採(2006年度と2007年度のシーズンオフ2年間に分けて行う)し、工事終了後に再植栽。
  • バリアフリー対策により、収容人員を4万7,000人に縮小。

工事時期は以下の通り。

  • 2007年シーズンオフは内野スタンド内部の改装と銀傘の撤去(2008年シーズンは銀傘なし)を実施。
  • 2008年シーズンオフはアルプス・外野スタンドの内部及び観客席の改装と新銀傘の設置を実施。
  • 2009年シーズンオフは内野スタンドの観客席更新と外周整備を実施。

ドーム化見送りに関しては高校野球界から「青空の下でプレーできなくなり、高校野球に相応しくない」との反対論が続出していた。また収容人数を減らすことにより今以上に阪神戦のチケットの競争率が高くなり、球場へ見に行けなくなるファンが今よりも増えてしまう可能性があるため、改修するのなら増席をするべきだという意見もあった。

なお、この改修により2007年 - 2009年のシーズンは阪神がホームとなるポストシーズンクライマックスシリーズ日本シリーズ)のゲームを甲子園球場で行わないことが2005年11月の実行委員会で了承された。なお2008年まで阪神の監督を務めた岡田彰布はこの球団の対応に対し苦言を呈している。実際の代替開催先は以下の通り。

  • 2007年は阪神がホームとなるポストシーズンゲームは開催されず。
  • 2008年は工事開始日までに開催できなかったレギュラーシーズン1試合をスカイマークスタジアムで、クライマックスシリーズ第1ステージを京セラドーム大阪で開催。
  • 2009年は後述の工期短縮により10月にレギュラーシーズン2試合を行った。

試合ではないが、毎年オフシーズンに行っていたイベントも場所を変えて開催された。

工期短縮公表

2006年7月に上記基本構想の工期を短縮することが発表された。変更後の工事予定は以下の通り。

  • 2007年シーズンオフは内野スタンドの内部及び観客席の改装を実施(旧銀傘を維持)。
  • 2008年シーズンオフはアルプス・外野スタンドの内部及び観客席の改装と銀傘の撤去・付け替えを実施。
  • 2009年シーズンオフは外周整備を実施。

これにより、2008年シーズンも旧銀傘が維持され、球場本体は2009年3月までに完成することになった。

また改修に先立つ形で、2007年2月に球場西隣のテニスコート(旧甲子園水上競技場跡)があった場所にクラブハウスを建築し、球場内にあったロッカーやトレーニングルームなどの選手関連施設や球団事務所を移している。また外壁の工事はシーズン中も行われた。

第1期改修

2007年オフから予定通り工事を開始し、2008年3月11日に大林組より引渡しを受け工事完了となった。内野スタンド部の構造は改修前とは全くと言っていいほど変わり、外見上は新築同様となった。工事以前の構造を確認できるのは主だった柱ぐらいである。これまで観客用の回廊だった1階が関係者専用エリアとされ、2階の回廊と3階の回廊が観客エリアとなった。また分煙化も図られ、喫煙室も新設された。

後に無観客で行われた練習試合において、グラウンドとダグアウトとの段差が90 cmもあることや、後列のベンチに座ると天井が低すぎるなどの危険性を選手側から指摘されたため、ベンチを前にずらすなど手直しを行った。これ以外では特に問題はなく、3月22日に第80回選抜高等学校野球大会で内野エリアのリニューアルオープンを迎えた。

第2期改修

2008年5月には第2期改修の変更概要が発表され、同年10月より工事が開始、翌年3月12日に大林組より引渡し完了。アルプススタンドには2階回廊、外野スタンドには1階回廊が追加され、観客用施設面積が増やされたほか、銀傘とサブスコアボード、照明が替えられた。また外野の観客動線の変更により、スコアボード下にあった外野中央門が廃止された。銀傘の下には法人会員制の「ロイヤルスイート」と、リボン状LEDボード「甲子園ライナービジョン」が設置された。この改修で野球開催に関する球場本体の改修は全て終了した。また乳幼児を伴う観客への利便性向上のため、託児所(有料)、授乳室が新設された。

第3期改修

2009年10月から翌年3月まで行われた第3期の改修では、銀傘上部の太陽電池パネルの設置、グッズや軽食を販売する売店基地棟の設置、広場など各種イベント開催スペースの拡充、球場外野の外周道路の床面に煉瓦ブロックの敷設など、試合開催には支障をきたさない工事が行われた。

この工事に付随し、「タイガース史料館」をリニューアルさせて作る「甲子園歴史館」が外野席下にオープン。また、外周道路の煉瓦ブロックは「KOSHIEN NAMING BRICK MEMBERS」としてファンなどから購入者を募り、ブロック1個ごとに購入者の名前や短文を刻印して敷設される。

球場データ

阪神甲子園球場 上空からの撮影(1985年、ラッキーゾーンが確認できる)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
  • 所在地:兵庫県西宮市甲子園町1-82
  • 敷地面積:54,203.54 m2
  • 総面積:約38,500 m2(2007年までの公称値39,600 m2
    • グラウンド面積:約13,000m2(2009年より、2007年まで実測値13,500 m2、公称14,700 m2
    • スタンド面積:約22,600m2(2009年より、2007年まで実測値20,800 m2、公称24,900 m2
    • その他(スコアボード棟など):約2,900 m2
  • 収容人数:47,808席(内野:28,765席、外野:19,043席)(2009年~2011年)→47,757席(内野:28,714席、外野:19,043席)(2012年~)
  • 中堅:118 m
  • 左右中間:118 m
  • 両翼:95 m
  • 内野:土(日本の黒土と中国福建省の白砂を調合)、人工芝(ファウルゾーンの一部)
  • 外野:天然芝(ティフトン、ペレニアル・ライグラス)
  • 照明:銀傘庇部2基、照明塔4基
    • 照明数:ロングアーク(1,500 W)504台、ナトリウムランプ(600 W)208台、ショートアーク(2,000 W)44台、合計756台
    • 照明塔高さ:44 m
  • 電光掲示板:3基
    • スコアボード:縦13 m×横31.6 m(全体の大きさ)
    • サブスコアボード:縦2.5 m×横28.3 m
    • リボンビジョン(甲子園ライナービジョン):縦1.2 m×横249.6 m(映像表示部大きさ)
  • 工事発注者:阪神電気鉄道
  • 設計・施工:大林組(※リニューアル工事も担当)

球場設備

外野席側からバックネット方面を望む。銀傘下に「甲子園ライナービジョン」が設置されている
リニューアル前の銀傘(2007年)
右側から、一塁側アルプススタンド席、外野席、スコアボード(リニューアル前)
蔦に覆い尽くされていた旧外野スタンド外壁(2007年)

バックネット裏を覆う「銀傘(ぎんさん)」と呼ばれる大屋根、時計台型のスコアボードが特徴。かつては球場外周の外壁が(つた)に覆われていたが、リニューアル工事に伴って一旦取り払われてから再植栽されている(後述)。

スタンド

一層式にもかかわらず収容人員47,000人以上と、非常にスケールが大きい。内野席側の規模はそれほどではないが、外野席は他球場の倍程度の規模で全収容人員の4割程度を占めている(一般的なプロ野球球団の本拠地は2 - 3割の球場が多い)。よく阪神タイガースの新外国人選手が開幕前に球場フィールドに足を踏み入れて「非常に大きな球場だ」と驚く様子が関西のスポーツ新聞で報じられることがある。座席は緑色で統一されている。

開場した頃はグラウンドの内野に面した部分のみが鉄筋コンクリート製(50段、高さ14.3 m)であり、現在のアルプススタンド・外野スタンドの位置には土盛りの上に20段の木造スタンドがあった。その後1929年にアルプススタンドが、1936年に外野スタンドが内野スタンド並みに改築されている。またファウルグラウンドの規則改正のため当初の設計より内野スタンドとアルプススタンドは全体的にグラウンド側に増築されている。そのため内野スタンドとアルプススタンドは最前列がグラウンドレベルになっており、戦前にはすでに現在のフィールドシートのような座席となっていた。通常グラウンドレベルにある本塁後方のアナウンス室などは半地下となっている。

内野スタンド、アルプススタンド、外野スタンドはそれぞれ分かれた構造となっており、リニューアル後もその構造を引き継いでいる。内野スタンドとアルプススタンドは、2階、3階がスタンド内の通路でつながっている。それぞれスタンド間にはグラウンドから球場外まで通じる通路があり、リリーフカーの出入りや観客の退場路などに使用されている。

2007年からの改修後は選手などの関係者向け施設は内野スタンドとアルプススタンドの1階に集中している。以前はアルプススタンドの1階の他、内野スタンドの2階部分、外野スタンドの1、2階部分を関係者エリアとしていたが、スタンドの観客向けの施設を増やすために各所に移動している。

「アルプススタンド」は元々は通称であったが、現在は正式名称として使われている。この通称は拡張直後の夏の中学野球の折、観客の着衣でスタンドが白く映え上がって見えたことから、『朝日新聞』に連載記事を持っていた当時の人気風刺漫画家・岡本一平が、「ソノスタンドハマタ素敵ニ高ク見エル、アルプススタンドダ、上ノ方ニハ万年雪ガアリサウダ」の一文をつけた風刺漫画を載せたのが由来である。これには、「一緒に観戦していた息子の太郎(後の芸術家・岡本太郎)がふと呟いた」という説と「登山家の藤木九三(当時朝日新聞勤務)がスタンドをアルプスに形容したのを一平が伝え聞いた」という説がある。このアルプススタンドの部分が内野スタンドと分かれていて、座席が背もたれなしの長椅子形式となっているのはプロ野球球団の本拠地球場の中では唯一甲子園のみである。また外野スタンドは拡張後に同じく朝日新聞紙上で「ヒマラヤスタンド」と名付けられたが、あまり普及しなかった。

放送席や記者席はバックネット裏席にある。記者席・ラジオブース(上段)の入り口は別の所にあり仕切りもあるため隔離されているが、テレビ放送席(中段)は特に仕切りがない場所に仮設される。高校野球が行われる場合、NHK大阪放送局毎日放送(選抜)、朝日放送(選手権)のそれぞれの放送席に大会公式ポスターが数枚(ABCの場合は大会スローガンが大書きされたものも)貼り付けられたパネルセットが仮設される。

座席区分

内野はバックネット裏の「グリーンシート」(5,134席)を中心として、外野スタンドに向かって「アイビーシート」(1塁側3,740席、3塁側3,683席、ここまでが銀傘下)、アルプススタンドの「アルプス席」(1塁側6,276席、3塁側6,169席)と続いている。さらにフィールドシートとして、グリーンシート下部に「TOSHIBAシート」(968席)、アイビーシート下部に「みずほ銀行シート」(1塁側1,125席、3塁側1,143席)を設けている。これらのフィールドシートの名称はネーミングライツによるもので、2008年からの5か年契約(高校野球開催時を除く)である。なお他の多くの球場と違い、フィールドシートには防球用の金網があり、さらに後列との往来は制限されていない[10]。また2009年からは銀傘真下に法人向けの個室「ロイヤルスイート」(33室+貴賓室1室、348席。1室平均1,000万円。室内には大型モニターやビアサーバーなどが設けられている)、3塁側内野席上段に掘りごたつタイプのグループシート(ボックスシート)「三ツ矢サイダーボックス」(4人用6組と5人用11組の79人分の座席を用意している。利用者には三ツ矢サイダーやバヤリースなどアサヒ飲料商品が贈呈される)が設置されたが、使用はプロ野球開催時に限られている。2012年からは1塁側内野席上段にも同様の三ツ矢サイダーボックスが4人用6組と5人用5組の49人分設置された。なお「三ツ矢サイダーボックス」のネーミングライツの契約内容は明らかにされていない。

外野は「ライト外野席」(9,595席)「レフト外野席」(9,448席)に二分されている。また2006年からレフトスタンドに「ビジター応援席」が設置されるようになった。詳細はビジター応援席#阪神タイガース(阪神甲子園球場・京セラドーム大阪)を参照。

プロ野球ウエスタン・リーグ公式戦の開催日においては、基本的にバックネット裏のグリーンシートとTOSHIBAシートのみ開放される(全席自由席・有料)。

高校野球においては全席自由席となり、グリーンシートとTOSHIBAシートが「中央特別自由席」、アイビーシートとみずほ銀行シートが「1塁特別自由席」と「3塁特別自由席」になる。アルプス席はそのままであるが、学校の応援団が優先となる。外野席は無料開放されるが、満員の際は入場制限がある。

2001年まで「アルプス席」という名称は高校野球開催時のみ使用されていたが、プロ野球でも「アルプス席下さい」という人が後を絶たなかったので、2002年以降はプロ野球公式戦でも「アルプス席」という名称を用いている。読売ジャイアンツ戦およびオールスター戦日本シリーズなどの特別試合では「内野B指定席」と呼ばれていた。その他のプロ野球公式戦では、アルプススタンド=「内野自由席」であった。

改築前の座席区分はフィールドシート部分が「ボックスシート」(グループシートではない)、アイビーシート部分が「イエローシート」(一塁側)・「オレンジシート」(三塁側)であり、グリーンシート部分は今より狭いものであった。また席の色は緑・黄・オレンジとそれぞれ名称別に塗りわけられていた。2001年シーズンまではアルプスを除いた内野席上段部全体を「内野A指定席」と設定し、緑色のシートが設置されていた。

星野仙一は阪神監督時代、オレンジシートを指して「あれじゃジャイアンツカラーじゃないか、変えたほうがいい」と言っており、実際に他の色に塗り替えられるのでは、とよく噂された。また星野は「あのシートをファンで埋めて、見えないようにしたい」という趣旨の発言もした。そのため、インタビューなどで「甲子園に来てください」と発言するようになった。さらに選手も同様の発言を行い、観客増加に力を入れた。ただ、オレンジシートのメンテナンスはイエローシートほど行き届いておらず、色が褪せたり傷んでいる椅子もいくつか見受けられた。

通常甲子園では、スタンドの段数表記は1段、2段…と数字表記であるが、2012年シーズンから座席間違いを防ぐため、TOSHIBAシート・みずほ銀行シートのみA段、B段…というアルファベット表記に変更された。

銀傘

銀傘は開設当初「鉄傘(てっさん)」と呼ばれ内野席全体(後のアルプス部分を除く)を覆っており、その素材から「大鉄傘(だいてっさん)」と呼ばれて、さらに1930年には女性客の人気を狙ってアルプススタンドまで拡張された。しかし、第二次世界大戦中の1943年に鉄材供出のために取り外され、その後1950年までの7年間は青天井の状態が続いた。その後1951年にジュラルミン製の銀傘として復活したが、一・三塁内野席の半ばからネット裏の客席にだけの開設当初より小さいものが設置され、1982年にはアルミニウム合金製に葺き替えられた(柱はそのまま)。

2009年には4代目のガルバリウム鋼板製のものに架け替えられた。大きさは開設当初と同じ大きさであり、アルプスを除く内野席全体を覆っている。銀傘の下には個別の観覧席であるロイヤルスイートがあり、その壁面下部にリボン状LEDボード「甲子園ライナービジョン」が設置されている。また2代目の銀傘からは中央に外野席向けのサブスコアボードがある。

2010年には屋根上に太陽電池パネルを設置し、同年3月1日より稼動を開始した。パネルは本田技研工業の子会社・ホンダソルテック製で推定発電量は年間193,000 kW/h, またこれによって年間133トンの二酸化炭素排出を抑制できる[11]

銀傘を支えるための柱は客席内に立てられており、後ろの客席(約10段ほど)からは柱が邪魔になるため観戦しにくくなっている。なお、代を重ねるごとに下段側の柱は上方に移っている。

銀傘の中央部には、野球中継で使用するためにテレビ各局が共同でハイビジョン対応のリモコンカメラを設置している。このカメラは2台設置されているため、地上波の並列中継(高校野球ではNHK民放、プロ野球では在阪局とサンテレビ)があってもそれぞれ1台ずつ使用できる。

銀傘の上に上がったボールは、そのまま雨樋を通ってロイヤルスイートの屋根の上に落ちるようになっている。

フィールド

改修後のフィールド(2009年8月)

現在は中堅118 m, 両翼95 m, グラウンド面積約13,000 m2と公称され、左右中間は118 mということが公表されている。2007年オフからの改修以前は中堅120 m, 両翼96 m, グラウンド面積14,700 m2(この数値は日本プロ野球球団の本拠地中で最大)と公称され、左右中間は119 mあるといわれていたが、この数値には長年疑問が呈されており、たとえば野球場研究家の沢柳政義は、著書『最新野球場大事典』(大空社、1999年)で、中堅118.1 m, 両翼94.7 m, 左右中間117.9 mとする数値を発表していた。甲子園は落成以来たびたび改修を行いフィールド等の形状が変更されてきたが、それに伴う不動産登記の合筆は行われておらず、法務局にすら正しい図面が存在していなかった[12]。1991年にはラッキーゾーン撤去に伴い測量が行われているが、この時の記録は全く残されておらず、球場自身も正しい数値を把握していなかった。結局は改修に伴う実測により2008年にグラウンド面積の数値が、2009年に中堅、両翼の数値が現在のものに改められた[13]。すでにグラウンドは改修によってやや狭くなっていたが過去にさかのぼって13,500 m2だったと訂正された。しかし、阪神タイガースオーナーの坂井信也は、それでもフェアグラウンド面積が日本プロ野球球団の本拠地中で最大と主張している[14]

2007年8月時点のフィールド

フェアグラウンド面積の大きさの根拠としては左右中間から両翼寄りの広さがあげられる。外野フェンスはセンターからゆるやかな曲線となる独自の形状で、セカンドベース後方の一点を中心とする真円の弧の形状をとることが多い国内の他の球場には見られないものである。両翼の数値自体は小さいが、外野フェンスがファウルポールのそばで急に角度を増すためであり、左右中間からポール手前にかけては国内ではフィールドが改装前の甲子園と同じになるように、かつかつての公称値通り作られた広島県立びんご運動公園野球場(尾道・しまなみ球場)の一例をのぞき最も深い。ファウルグラウンドはかつての公称値からしばしば広大であると言われていたが、実際のところは千葉マリンスタジアム札幌ドームに及ばないものであり、さらに2007年オフからの改修で塁線及びベースから60 ft(約18.3 m)という規定に近いところまで削られている。

グラウンドの広さはしばしば変更されている。1934年の夏にはファウルゾーンの広さの規則改正(1931年、90 ftから現行の60 ftへ)によりホームベースをバックネット裏方向へ移設し、両翼の数値こそ短くなったが全体はさらに広くなった。1936年には外野スタンドの改築とアルプススタンドのグラウンド側への増設に伴い現在に近いものとなった。1950年代などの写真ではセンターと左右中間の3ヶ所に「390 ft」(≒118.9 m)の表示が確認できる。ラッキーゾーンは1947年に設置され1991年まで使用された。当初、高校野球時には取り外していたが、1949年の夏の大会からはそのまま使用していた。設置中には幾度か位置が変えられている。1976年には内野スタンドの改造に合わせてホームベースを移設、中堅120 m, 両翼91 mと公称されるようになった。また、このときラッキーゾーンを従来より前にせり出す改修もおこなわれている[15]。1991年オフにはラッキーゾーンを撤去、一部は甲子園歴史館と甲子園に近い兵庫県立西宮今津高等学校の中庭に保存されている。

グラウンド整備は阪神電鉄子会社の阪神園芸の手によって行われている。内野は黒土、外野は天然芝だが、内野スタンド(アルプスを含まず)沿いは全て人工芝が張られている。

内野グラウンドは独特の黒土である。鹿児島岡山鳥取大分など日本国内の黒土と中国福建省の白砂をブレンドしている。季節の雨量や太陽光量などを考慮し、春は白砂を多く(黒土5.5:白砂4.5)、夏は黒土を多く入れる(黒土6:白砂4)などしてブレンド具合を変えている。内野で激しい動きを見せるボールの行方が、スタンドの観客にも見えやすくするための配慮である。

当初は淡路島の土が使われていた。土質には研究に研究を重ね、同じ頃に売り出した甲子園住宅地の売価が当時坪あたり40円であった[16]ところ、球場の土には坪あたり50円を費やしたという。

高校野球では出場選手がこの土を持ち帰ることが慣習になっている。

外野グラウンドは、日本のプロ野球の本拠地としては稀少となった天然芝である。開場当初は外野も土のグラウンドであったが、1928年12月から1929年2月にかけて芝が張られた。

1982年からオーバーシードといわれる芝の二毛作方式を採用している。夏芝「ティフトン」と冬芝「ペレニアル・ライグラス」を用いることによって、一年中緑の芝生でプレーできるようになった。夏芝から冬芝への切り替えが9月下旬から10月上旬、冬芝から夏芝への切り替えが4月下旬から5月上旬である。2009年オフには同じ品種のものに張り替えられた。撤去したものは大阪府と兵庫県の公立校に譲渡されている。

外野が天然芝の球場ではフェンス際は芝の育成が難しいために、通常はウォーニングゾーンも兼ねて土となっているが、甲子園ではフェンス際まで芝が張られておりウォーニングゾーンは白線を引くことにより設けている。外野ファウルライン付近は2008年まで白線に沿って土のままであったが、阪神タイガース選手会からの要望により2009年より芝が植えられ、芝の上に直接白線が引かれている。

マウンド

ピッチャーマウンドのプレート後部蛇口を使用して内野グランドの水撒き作業

ピッチャーマウンドのプレート後部には、放水用の蛇口がある。高校野球の試合前に、7~8人の整備員が一列に並んで内野全体に大型のホースで水を撒いている姿がよくテレビで放映される。この水は井戸水で、海から近いために若干の塩分を含んでおり飲用には適さない。かつて、近畿で真夏に異常渇水に見舞われた時、井戸水を使用していることを知らない人たちが「水の使いすぎ」と問題視したこともあった。

フェンス

前述の通り、外野フェンスは独特の形状となっており、特にファウルポール際はクッションボールの処理が難しい。フェンスの構造はラバーと金網の組み合わせという一般的なものだが、ラバーは2004年から太陽工業製のメジャー風の厚いものとなっており、ラバーの最上部で打球が跳ねることも多い[17]。なおアルプススタンド部分のラバーは2009年より帝人ファイバー[18]である。現在のラバーにする以前にもラバーの最上部で打球が跳ねることがあり、ラッキーゾーン撤去元年にはいわゆる「幻のホームラン」事件が起こり、ルールに新たな取り決めが加えられた。外野フェンスの高さは公表されていないが、沢柳政義は2.6 m(ラバー部1.9 m, 金網部0.7 m)としているほか、3.0mとされることがある。

ブルペン

アルプススタンド一階内部は簡易室内練習場となっており、プロ野球では1999年からここにあるブルペンを使用している。投手交代時は、リリーフ投手がリリーフカーに乗り、アルプススタンドと外野スタンドの間にある通路からマウンドに向かう。室内練習場になる前は、一塁側は体育館、三塁側は25 mの温水プールであった。「三塁側の室内練習場は床が高くなっている」、「三塁側室内練習場の外にはマンホールが多数設けられている」など、元がプールであったことを彷彿とさせる部分が今も確認できる。

高校野球では、室内練習場を次の試合のチームのウォーミングアップ場として使用するため、ファウルゾーンに投手板とホームペース1組のブルペンを高校野球の期間のみ設置している。なお2007年オフの改修以前は広めだったファウルゾーンにマウンドが常設されており、投手板とホームベースが2組設置されていた。ラッキーゾーン撤去後の数年間(1992年 - 1998年)は、プロ野球でもこちらのブルペンを使用していた。

1991年以前はラッキーゾーンにブルペンがあり、リリーフカーもあった。車両の採用は1960年代途中からであったが、自動車ではなくバイクであった。1970年代終盤から自動車やサイドカーとなったがラッキーゾーン撤去時に一旦廃止され、のち1999年にブルペンの変更に伴い復活した。

リリーフカーは1999年の復活から2011年途中まではダイハツ工業製の電気自動車を使用。1塁側リリーフカーと3塁側リリーフカーの違いはカラーリングのみ。以前は3塁側リリーフカーの右側(すなわち、投手が座る助手席側)にカーテンが設けられていたが、2011年よりカーテンは外されている。この2011年のシーズンからメルセデス・ベンツの日本法人がスポンサーになり、カラーリングも変更[19]されたのに続き、9月13日からは3代目としてスマート・フォーツー(電気自動車仕様)を導入した。

室内練習場

室内練習場は1978年に3塁側アルプススタンド(現在のブルペン)に設けられたが狭いものであった。2004年には甲子園水上競技場跡にあったテニスコートの場所に新しく室内練習場が造られた。総工費は約9億円で広さは3,600 m2。一塁側と陸橋でつながれている。

ナイター設備

旧レフトスタンド照明塔を横から撮影

銀傘の上の2基と、照明塔4基で構成されている。この構成は1956年の新設時のままであるが、ランプの位置と形状は異なる。銀傘の上のものは新設時のものより細長くなっている。

2008年の外野席改修工事実施までの照明塔はスタンドにせり出す鉄塔方式であった。そのため1つの照明灯につき2本の柱が観客席内に建てられていたため、柱の直後の観客席からは大幅に視野が狭められていた。2009年からスタンド外の2本とスタンド最上段の2本の鉄柱で支える方式となり、外野の2本には大型看板が設置されるようになった。

蔦・外壁

3年目の蔦(画像の部分は植栽後1年程度)

完成当時の球場外壁はコンクリートのままであり、1924年12月に安価で見た目を向上させる策として外壁を覆う蔦が植栽された。正面の7号門と8号門の周りには日当たりの悪いところでも生育しやすいウコギ科の蔦を、その他の部分は冬に葉を落とすブドウ科の蔦を採用し、阪神園芸の手で管理されていた。かつては約430株ほどが植えられ、葉の総面積はおよそ畳8,000畳分あると言われた。

この蔦はリニューアル工事に伴いいったん取り払われ、外壁をレンガで覆った後に再び植えられている。蔦を取り払った後でレンガ張りにするまでは代わりに蔦をイメージした緑のパネルで外壁が覆われていた。蔦は、2000年に高校野球20世紀メモリアル事業の一環として全国の高校野球連盟加盟校4,170校に配布され、現在も育てられている。そのうち生育状態の良い苗が233校から集められ、2008年6月14日、「ツタの里帰り」として甲子園に植えられ始めた。この233校の名前を刻んだ銘板がレフトスタンド照明塔支柱の根元にある。約10年がかりで蔦に覆われた外壁に戻る予定。

スコアボード・バックスクリーン

スコアボードは現在の球場のシンボルマークとなっている。

歴史

3代目スコアボード(2007年第89回全国高等学校野球選手権大会
スコアボードの右半分(2006年第88回全国高等学校野球選手権大会の決勝再試合)

開設当時の甲子園のスコアボードは得点掲示のみをする仮設の板であった。これは1924年の夏の高校野球の開催に間に合わせるために球場を建設したため、常設のものが間に合わなかったためである。1925年に選手名も表示するスコアボードが正式に開設された。この当時から球場独特の明朝体の選手・チーム名表記がなされていた。位置は両方とも現在のセンター後方ではなくややライト寄りに位置していた。この頃にはまだバックスクリーンの概念がなく、センター後方も全て座席となっていた。

しかし、当時のスコアボードは最大で十六回[20]までしか書き記すことができなかった。1926年の夏の大会・静岡中学 - 前橋中学の試合は延長十九回まで続き、常設のスコアボードにやぐらで仮設のスコアボードを急ごしらえして凌いだ。その後1933年準決勝の明石中学 - 中京商業の試合は延長二十五回まで0-0の同点という試合となり、その仮設のやぐらに0のパネルが並び続けたため見づらいということから、1934年にスコアボードをセンター後方に造りなおすことになった。1936年には外野スタンドの改築と同時にバックスクリーンが設置されている。

2代目のスコアボードは1934年から1983年までの延べ半世紀にわたって使用された。スコアボード左側に選手名表記、真ん中に時計とボールカウント(ただしストライクも赤色ランプ)、審判団、右にスコア(当初は上段に九回まで、延長十回以後は下段[21]に記した)を表記するものだった。外野スタンドは改築前でそのスタンドに合わせて建設したため、高さは現在の3代目スコアボードの半分程度(スコア表示部分と三菱電機の広告がある緑色の部分の境目あたり)であり位置もホーム寄りだったため、外野スタンドの改築後は見えにくくなっていた。

当初は阪神電鉄の車両部のスタッフが遠隔操作でスコアやボールカウントを操作していたが、ナイター設備が1956年に完成すると、機械部分を雨からカバーする目的で使われていたガラスが反射して見づらいことから、ガラスを外して手動に改修。1958年にはスコア表示を十二回[22]までとし、下段はその日の試合結果(プロ野球の場合は他球場の経過)を表すものに変更された。2代目スコアボードの選手名、(高校野球の)チーム名は、全て球場係員の手による白ペンキを用いた手書きであった。選手名は全て明朝体に近い独特の書体で書かれており、明朝体よりもやや横幅が広いので字全体がひしゃげた感じであった。電光掲示が少なかった当時においても、明朝体で選手名を表示する球場は少なかった。ただし基本的には2文字分記入するのが精一杯のサイズだったために、3文字はまだしも4文字以上の選手名の表示や記入作業は難しく、チーム名も広島商業が「広商」となるなど、基本的には2文字分の大きさだった。書体ともども、職人芸といえる高度な技術が必要であった。さらに作業はスコアボードの裏側で行われたため、夏期は屋外以上の熱気がこもり、肉体的にも消耗度の高い大変な作業であった。また、雨中の試合においては手書きの部分のペンキが雨で流され、時間の経過とともに読みとれなくなることが多かった。この状態はよく「(スコアボードが)涙を流す」とか「洟(はな)を垂れる」などと表現されていた。高校野球において、プロ選手(特に阪神タイガースの選手)と同じ苗字の選手がいた場合は、プロ選手用のボードを使いまわすこともあった。また、プロ選手のボードは金属製であったが、高校野球用はベニヤ板だった、との証言もある。これらの特徴もまた甲子園の独特の雰囲気を演出していたため、2代目のスコアボードへ強い思い入れを持つオールドファンは多い。1979年にはバックスクリーン部分に2面広告装置「トライビジョン」が設置された。

その後、球場開設60年を機にスコアボードの近代化を実施することになり、1984年に2代目をモチーフにした電光掲示板を設置した。高さと位置は外野スタンドに合わせたもので、表示部分より下側はバックスクリーンとなっている。トライビジョンはそのまま残したためバックスクリーンが前後2つになる形となった。発光素子は白色電光にして日本初の白黒ボードとして2代目の雰囲気を残した。イニング表示は漢数字のままで、イニング単位のスコア表示は十回までに省略されたが、新たに合計得点(計)・ヒット数 (H)・エラー数 (E) も表示できるようにした。延長戦で十一回以上となった場合は、一回〜十回のスコアを全て消去した上で十一回の得点を一回のところに、それ以降の回はイニング数の下1桁と同じ漢数字のところに表示していた。スコア部分はチーム名や各イニング得点などの部分ごとに分割されていた。スコアの下には白黒の大型フリーボートがあり、プロ野球時には打席に立った打者の打率 (AV) とホームラン数 (HR) が表示されていた。バックネット裏のサブスコアボードも同時に電光表示化され、本体と同じスコア表示とボールカウンター、プレーの記録(ヒット、エラー、野選)の表示ができるものとなった。1992年からは球速表示もされるようになった。

1993年から右半分に三菱電機ブラウン管方式オーロラビジョンを採用して、スコア部分を含めたフルカラーフリーボードとした。動画も取り込めるようになったため、勝利インタビュー後の「阪神タイガースの歌」(六甲おろし)合唱時のアニメーションがカラー化され、また試合中のリプレイや、攻守交替時にCMが放映されるようになった。電光化されたイニング表示もそれまでと同じもの(一〜十計HE[23])が踏襲されており、更新されなかったサブスコアボードに合わせている。十一回からは十回までのスコアを消去した上で十一回からのスコアが入力され、十一回以降のイニングの漢数字は1文字分のところに2文字(十と一〜五)が縦書きで表示される。スコアのイニング表示は大会の規定イニング(春の選抜大会と夏の全国大会の高校野球は十五回、プロ野球は十二回、プロ野球の日本選手権シリーズは十五回)までとなる。プロ野球時の打者の打率とホームラン数も以前ととほぼ同じ位置に表示されている。また、広告も変更されている。さらに2009年からは、ライナービジョンにも打率とホームラン数が表示されている。

1997年には左側の選手名部分を明るい新型の三原色によるカラーブラウン管に更新した。ある程度の多色表示が可能で、現在の攻撃中チームとバッターを表示する赤いランプを廃止して代わりに赤いラインで表示するようになった。同時にチーム名表示部分も拡張された。2003年9月15日、阪神のサヨナラ勝ちでリーグ優勝へのマジックナンバーを1としたデーゲーム終了後、マジック対象チームであるヤクルトスワローズの試合(対横浜ベイスターズ)がオーロラビジョンで中継された際には、ビジターチームのチーム名が表示される部分に2チームのチーム名(SとYB)が上下2段で、選手名が表示される部分の一番打者から九番打者のところに横浜・ヤクルト戦の1回から9回までのスコアが、また10番目(DH制のときに投手名が表示される)のところに合計得点(計)が表示され、ホームチームの選手名が表示される部分の一番上の段には於・横浜スタジアムと表示された。このときイニングの数字と計の文字は緑色で表示された。また、球場には電車で来るように呼びかけている「ノーマイカー甲子園」の表示も左側、選手名の欄で表示されることがあるが、この時は赤色や黄色が表示された。

2005年からオーロラビジョンがブラウン管方式からLEDに変更され、よりクリアな映像が楽しめるようになった。スコア部分の文字も、大きさはブラウン管方式の時と同じながら1文字あたりドット数が16×16から24×24に増えている。現在のオーロラビジョンは49万1,520個のLEDによって構成され、内部には人はいない状態。

なお、2代目以降、大時計下にはSEIKO, 3代目の途中2001年頃からCITIZENの広告が入る。2002年から2008年までは右側オーロラビジョン下部にトヨタ自動車、2010年の途中からLED掲示方式で三井住友銀行の広告が入っている。

2009年からは銀傘の更新とともにサブスコアボードが更新され、スコア表示部がメインスコアボード同様のフリーボードに変更された。メイン・サブ共にレイアウトが自由になったのを機に、高校野球時はイニングスコアの十回の部分をなくして一回から九回までの表示とし、チーム名の部分をそれまでの3文字表記から4文字表記できるようにした。なお延長時には十回から新規に表示しなおしている(プロ野球時のイニングスコアは従来通り一回から十回まで)。

サブスコアボードの両サイドに2009年はきんでん奥村組が、2010年は奥村組とビルボード大阪が広告を出している。

メインスコアボード、サブスコアボードは2010年オフに改修が行われた[24]。メインスコアボードは、左側の選手名部分を動画も表示できるLEDフリーボードにし、ほっともっとフィールド神戸に次いで日本2つめの2面式ビジョン[25]になる。中央下部のプレーの記録(ヒット、エラー、野選)表示と審判名表示が統合されLED化し、試合経過時間・守備交代経過時間もここに表示できるようになった。また、サブスコアボードと共にアウトカウント表示もSBOから国際基準のBSOに変更された。投球数も表示されるようになった。従来からあった右側のビジョンも更新が行われ、解像度・動画表示性能が向上している。

表記

電光板左側の選手名および高校野球時のチーム名表記は、手書き時代と同じように明朝体の字体を忠実に再現している。ただし、選手名部分は漢字で3文字分が表示できるようになっており、同一チーム内に同姓の選手がいる場合に表示する下の名前の1文字は一回り小さい文字が右下に寄せて表示される。ただし、俊介由規のように下の名前のみで登録されている選手や、韓国または台湾出身で3文字(フルネーム)で表示される選手の場合は全て他の漢字と同じ大きさの文字になる。また、一行ではカタカナでも最高6文字までしか表示できないため、外国人選手などで選手名が7文字を超える場合は後述のように文字を小さくして枠内に二行で表示している。また、韓国や台湾出身の選手では1文字(姓のみ)で表示する場合と3文字(フルネーム)で表示する場合があるが、これはそれぞれの所属チームでの表記に合わせて表示している。

  • 1990年 - ディステファーノ中日ドラゴンズ)は「ディステ(改行、右へ二文字下げて)ファーノ」と表示された(第1号)。
  • 1997年 - グリーンウェル(阪神)は「グリーン(改行、右へ三文字下げて)ウェル」と表示された。
  • 2001年 - シュールストロム広島東洋カープ)は「シュール(改行、右へ二文字下げて)ストロム」と表示された。
  • 2006年 - フェルナンデス(楽天、「フェル(改行、右へ二文字下げて)ナンデス」)とオクスプリング(阪神、「オク(改行、右へ一文字下げて)スプリング」)の2名が改行されて表示された。
  • 2007年 - 前年同様にフェルナンデス(楽天)とフェルナンデス(広島、ともに「フェル(改行、右へ二文字下げて)ナンデス」)と、グライシンガー(ヤクルト、「グライ(改行、右へ二文字下げて)シンガー」)の二名が改行されて表示された。また、ローマ字表記の登録名となったTSUYOSHI千葉ロッテマリーンズ)は、綴りを「TUYOSI」に変更して一行で表示された。
  • 2008年 - フェルナンデス(楽天)、グライシンガー(巨人に移籍)に加え、コズロースキー(広島、「コズロー(改行、右へ三文字下げて)スキー」)が分けて表示された。
  • 2009年 - フェルナンデス(オリックスに移籍)、グライシンガーに加え、ファルケンボーグ福岡ソフトバンクホークス、「ファルケン(改行、右へ三文字下げて)ボーグ」)が分けて表示された。またバーナム・ジュニア(ロッテ)は、ジュニアを一文字分でJr.と表示したため改行はされていない。
  • 2010年 - スタンリッジ(阪神)が「スタン(改行、右へ一文字下げて)リッジ」と表示された。これは、「ッ」と「ジ」の濁点が干渉し一行で表示しづらくなるためこの表示になった。また、メッセンジャー(阪神)は7文字だが「ッ」と「ャ」の表示を工夫して一行で表示している。
  • 2011年 - MICHEAL(巨人)をカタカナでマイケルと表記した。
DH制を使用したスコアボード(2011年4月16日 パ・リーグ公式戦 楽天対オリックス)

普段は使用する機会が少ないが、DH制に備えて選手名は10人分確保されており、9番打者の右横が投手枠となる。また、試合開始30分前の先発バッテリー発表時には9番目の枠に投手、10番目の枠に捕手の名前を表示したが2011年からは右側に両方(投手・捕手)表示するようになったため左側に捕手・投手名は書かなくなった。

左側がフリーボード化されてから、選手名表示にアニメーションが加えられている。

  • スターティングメンバー発表 - 場内アナウンス「○番、(守備位置)、(選手名)」で、守備位置読み上げ時にそれを表す数字・記号が表示され、選手名読み上げ時はプロ野球では選手名が中央に大きく表示された後吸い込まれるように所定の位置に納まり、高校野球では選手名が所定の位置でパネル式のように横回転しながら表示される。なお審判員表示はアニメーションなし。
  • 選手交代時 - 交代及び代打・代走からそのまま守備につく選手名とポジションが反転し横回転すると、新たな出場選手名とポジションが反転表示され、通常表示と反転表示の点滅を経て通常表示となる。フリーボード化以前は新たな出場選手名とポジションの反転表示と通常表示の点滅のみ。

審判員の名前は球審塁審の4人制のみの対応のため、高校野球時のナイターやプロ野球のオールスター・日本シリーズ開催時の外審線審)は名前が表示されない。プロ野球開催時で外審がいる場合、試合開始前にスコアボード右側のカラースクリーン部分に並列する形で表示して紹介する。2010年までは審判の名前の上には「UMPIRE」と表記されていたが、2011年以降は「UMPIRES」とLEDによる複数形の表記に変更されている(写真を参照)。球審の表記は、2010年まではプロ野球12球団の本拠地の中では当球場が唯一「Chief umpire(チーフ・アンパイア)」の略であるCHを用いていた(過去では平和台野球場が球審をCHと表記)が、スコアボード改修後は他球場と同じく「Plate umpire(プレート・アンパイア)」の略であるPLに変更されLED化された。また塁審の表記は、一塁→IB・二塁→IIB・三塁→IIIBのように、ローマ数字とBの組み合わせとなっており、これも改修の際にLED化された。

ヒット、エラー等の判定は審判の名前の上にある横3文字分の枠の中に、ヒットの場合はH、エラーの場合はEとエラーをしたポジションの数字(白色)が表示される。1ヒット1エラーの場合はHE7のように表示される。また1つのプレーで2人がエラーをした場合にはE53(この場合はサードとファースト)と表示される。フィルダースチョイスの場合はFcと表示される。
2011年の改修以降は担当審判と時計カウンターを表示する部分と一体化されている。[26]

スコアボードのチーム名(得点側)は電光化されてから漢字3文字(詰めても3.5文字)までしか表示できなかったため、高校野球時には智弁和歌山和智弁駒大苫小牧駒大苫などのように工夫して表示してきた。この表示方法は、NHKABCテレビの高校野球中継でも用いられることが多い。また、1991年夏の大会では同名の高校を区別するため、詰めれば3.5文字入ることを利用して、智弁和歌山→和・智弁智弁学園(奈良)→奈・智弁大阪桐蔭大・桐蔭桐蔭学園(神奈川)→神・桐蔭と中点(0.5文字分)付きで表記された。このうち智弁和歌山のみ1997年まで中点付きの表記が継続された。

ただし、秋田経法大付経法大付(2002年選抜)、日高中津分校日高中津(1997年選抜)と4文字で表示された例がある(いずれもLED化前)。また、2009年の選抜大会からはバックネット上のスコアボード改修を機に高校野球時に限り、イニングスコアの十回部分をなくし一回から九回までを1イニング分ずらして表示することでチーム名が漢字4文字まで表示できるようになった。ただし早稲田実早 実(2010年選手権では早稲田実)、新潟明訓明 訓(2010年選手権)、鹿児島実鹿 実(2011年選抜)、智弁和歌山→和 智 弁(兄弟校の智弁学園と区別をつけやすいようにという事情がある)などの伝統校の中には表記を変えないように要請したり、県岐阜商のように得点側の表記変更と同時に選手名側の表記も変更(県 立(改行)岐阜商県岐阜(改行)商)した学校もあった。

なお右半分のフリーボード化以前は、下部の試合結果表示部分には5文字まで表示されていた。

選手名側のチーム名は、通常4文字以上の場合は上下2段に表記し上下段ともに最高3文字ずつ(最高6文字)であるが、表示部分が拡張された1997年以降は市和歌山商(現・市和歌山)市 立(改行)和歌山商(2005年選抜ほか)県和歌山商(現呼称・和歌山商)県 立(改行)和歌山商(2007年選抜)や九州国際大付九 州(改行)国際大付(2009年選手権)、日本航空石川日本航空(改行)石 川(同)など、3文字以内ずつに分けにくい場合は1段が4文字で表示されることもある。枠内には余裕があるため、2005年選抜大会では4文字の部分は枠をフルに使用し通常と同じ大きさで表示されたが、2006年以降は中央の3文字分×2段の部分に通常より小さい文字で表示されている。1996年以前はこのような場合でも4文字で表示されることはなく、秋田経法大付は1990年の選抜大会などで秋 田(改行)経法大と表示されていた。

なお、プロ野球の試合ではどちら側のチーム名も漢字ではなくアルファベットの略称(阪神タイガース→T、読売ジャイアンツ→G、横浜DeNAベイスターズ→DB、オリックス・バファローズ→Bsなど)で表示される。

高校野球では、ボーク守備妨害など観客からは分かりにくいプレー・判定に対し、場内に説明がされないので「表示してほしい」と要望があったことから、このようなケースの際にはスコア表示の下に判定を表示するようになっている。

また、現在のバッターが誰かを表示するランプは2代目スコアボードのときから上段のビジターの選手名と下段のホームの選手名の中間に9個の赤いランプがつけられていた。3代目スコアボードにも9個の赤いランプ(選手名の表示は10人分あるが、DH制の場合ピッチャーは打席に入らないため)が踏襲されていた。1997年からは、ランプとそれまで選手名とポジションの間で攻撃中のチームを表示していた赤いライン(一番から九番まで、DH制の場合はピッチャーのところまでが1本につながっていた)を廃止し、選手名ごとに区切った短い赤いラインで表示するようになった。

他の球場の多くが代打のポジションを「H」・「PH」、代走のポジションを「R」・「PR」としているのに対し、甲子園では代打は「」、代走は「」と漢字表記しているのも特徴である。ただし、オープン戦などDH制で行う場合の指名打者は「DH」、投手は「P」[27]と表記される。

甲子園ライナービジョン

2008年オフの銀傘改修の際に設置された三菱電機製リボン状LEDボード(オーロラリボン)である。サイズは縦1.2 m×横249.6 m. アメリカでは広く採用されているもので、日本初として2006年に採用が発表されたが、設置はクリネックススタジアム宮城(2007年に日本初設置)・千葉マリンスタジアム(2008年設置)に先行されている。プロ野球の試合ではタイガースの応援や選手紹介の映像動画、CM, 打席に立った選手のシーズン通算成績と当日の打撃記録、デジタル数字表示によるボールカウント[28]、他球場速報(オーロラビジョンの映像と連携した映像が流されることもある)などを、高校野球でもその日の試合結果を表示する。

また、NTTドコモ提供で「ドコモオーエン甲子園」(プロ野球・阪神主催試合開催日のみ)をファンからメッセージを募り、試合前、イニングのインターバルを利用して応援メッセージが流されている。

2011年の楽天イーグルス主催試合では「がんばろう東北」(ワインレッド地白文字)と楽天イーグルスロゴ、または同チーム協賛スポンサーの企業の広告を表示。

広告

ラッキーゾーンが設置されたごく初期のころ(1950年代初め)、ラッキーゾーンに直接広告看板を貼り付けていたことがあったが、1950年代後半ごろからフェンスに貼り付ける形になった。

甲子園球場ではフェンス、スタンド、ベンチに広告看板を掲出しているが、高校野球の全国大会期間中は日本高校野球連盟との取り決めでベンチ・バックネットのものについては広告をシートで隠している。高校野球の兵庫県大会、あるいは1998年に開かれた「AAAアジア野球選手権大会」(アジアの高校生年代の野球大会)の時は広告フェンスを隠さず、通常と同様の状態で試合を行っている。

外野フェンスに関しては、選抜高等学校野球大会時のみ、歴代優勝校の校章と校名、優勝回が書かれた白い校板を掲示していた。この校板は1932年の第7回大会から掲示されていたが、1984年の第56回大会2日目第1試合に行われた佐賀商高島の試合において、外野でワンバウンドしてラッキーゾーンに入る、本来ならばエンタイトルツーベースとすべき当たりを審判が間違えてホームランと判定してしまう事件が起きたことから、その翌日から伝統の校板は撤去された。これは校板が白くて大きいためにボールが見えにくかったためである。

フェンス部分は1983年夏の大会まで内外野全て脱着式だったが、1984年に内野部分にラバーが貼られるようになってからは内野部分の広告はそのまま露出し、外野部分とバックネット付近の広告を隠す(ラッキーゾーンの付近にある広告は取り外し式)ようになった。左中間・右中間にある大会名表示は春の大会は1985年・第57回以後、白パネルから緑地白文字のシートで広告を隠す方式に変更。夏の大会は元々から緑地白文字で、1985年の第67回大会までは1文字ずつ(大会の回数については2桁の数字を1枚にまとめた)切り離したパネル式のものだったが、1986年の第68回大会以後は春の大会同様シートをかける形になった。

1992年にラッキーゾーンが外され外野にラバーが貼られた際には大会名の入ったグリーンのシートで広告を隠すようになった。

  • (例)通常主催者のクレジットは左中間、大会名は右中間のフェンス部分に表示された
  • 春の大会 主催 日本高等学校野球連盟・毎日新聞社 第○回選抜高等学校野球大会
  • 夏の大会 主催 日本高等学校野球連盟・朝日新聞社 第○回全国高等学校野球選手権大会

1995年選抜大会には阪神・淡路大震災の復興を祈念する文言が右中間側に、復旧作業のお礼を示す文言が左中間側に、また2008年の第80回大会記念には大会歌「今ありて」の歌詞の一部「今ありて未来も扉を開く」が右中間側にそれぞれ掲示された。

2010年からは外野フェンスの広告をそのまま出すことになり、大会名はバックネット付近のフェンスに掲示することになった。これは、外野フェンスの広告を提供する14の企業・団体[29]が外野席下に新設された「甲子園歴史館」の協賛社となったため、この協賛社から歴史館の運営費用を捻出するためと、歴史館に高校野球に関する資料を大量に展示したためである。このため、高校野球大会を主催・後援する高野連、朝日・毎日の両新聞社と協議したうえで、高校野球期間中もフェンス広告を隠さないことになった[30]

本塁後方のフェンス広告(2か所)は2004年まではカネボウが、2005年からは江崎グリコおよびグリコ乳業が広告を出している。2005年から幕巻き取り式による電動で複数の広告パターンを交代で出せるようになった。試合前の打撃練習中の際「阪神甲子園球場」の幕が出ている時がある。オールスターゲームの時のみ協賛企業(三洋電機マツダ)の広告となる。なお、高校野球の時は2005年までは広告部分は緑のシートで覆って隠され、電動表示幕変更後は広告のない緑一色の表示を出していたが2010年選抜大会から大会名表示を行なうようになった。大会名はバックネット左側、主催団体表示は同右側のそれぞれ回転広告看板に表示される。なお、バックネット裏の「日本生命」とベンチ側の広告は従来どおりシートで隠してある。

セ・パ交流戦開催期間中のみ、本塁後方のフェンス広告の横に「日本生命 セ・パ交流戦」の広告文字が追加される。2008年は交流戦終了後も本塁向かって左側のフェンス広告横のみ、「セ・パ交流戦」だけを削除した「日本生命」が掲出され、2009年も公式戦開幕時からそのまま継続して掲出されている。これはバックスクリーンからの中継カメラがレフト寄りにあるため。

2011年は東日本大震災被災地への復興支援として、高校野球(春・夏とも)では「がんばろう!!日本」(大会特別スローガン。!!の箇所は野球のバットとボールをデザイン)を、プロ野球では「みんなに笑顔を届けたい。」(グリコ協賛広告)をそれぞれ随時表示している。また、同4月のパ・リーグ公式戦・楽天対オリックスでは「がんばろう(イーグルス球団ロゴ)東北」の広告を掲げている。2012年は楽天主催試合では「edyは6月1日楽天edyに」という広告が掲示された。日本生命の広告はシートで隠してあった。

スコアボード側のバックスクリーンには三菱電機が広告を出している。2010年現在は「三菱電機 オーロラビジョン」。バックスクリーン部分の広告はプロ野球時の試合開始前、攻守交代時、本塁打時、試合終了後に点灯する。過去に「三菱ビデオ ファンタス」「モバイルは三菱電機」「携帯は三菱電機」「霧が峰ムーブアイ」などと出していた。

下側にあるバックスクリーン(トライビジョン)の広告は、1979年から2004年まではカネボウ、2005年からはグリコグループが広告を出している。1979年から1996年まではトライビジョン(2面広告+緑一色)という名称で、1997年から2010年までペンタビジョン(4面広告+緑一色)の名称であったが、2011年3月バックスクリーンが改修され再びトライビジョンの名称になっている。面積は高さ3,450 mm×長さ14,392 mm[31].「おいしさと健康glico」とホームラン用の「ポッキー」の2面広告で電動により2種類のパターン(そのうち1種類はプレー中に使用する緑一色のパターンなので、広告として使用できるのは1種類)を掲示することができる。本塁打時には周囲の電飾が点滅するとともに「ホームランおめでとう!」のパターンが掲示される。2010年のペンタビジョンの時は「おいしさと健康glico」「ビールにCratz=クラッツ」「Posca」(ホームラン用のみポッキー)の広告が入っていた。高校野球期間中と阪神球団以外の主催試合では一切使用しない。2011年からホームラン時に電球が光る部分をLEDに替えている。以前は表示中の故障により緑一色に戻らなかった時のために、上部に巻き上げ式スクリーンが収納されていた。1999年頃に、阪神戦で1度故障により使われた。また2011年7月8日に行われた、ウエスタン・リーグの阪神対ソフトバンク戦で、5回表ソフトバンク柳田悠岐のホームランの時に「ホームランおめでとう!」の「ホームラン」までしか表示せず、また緑に戻らなくなり、球場職員が試合を中断して手動で緑に戻す作業を行った。

スタンド最上段には縦約2 m×横約15 mの看板が全面に設置されていた。リニューアル工事に伴い内野スタンド部分のものがロイヤルスイート上部壁面へ移設され、外野照明塔設備の両サイドがそれまでのものから、縦に大きい照明内蔵式看板になっている。またこれとは別に、銀傘先端直下に横断幕形式の広告(銀傘から吊り下げる形で掲出されており、札幌ドームとほぼ同じ)が採用されている。

歴史館

1985年に、ライトスタンド1階部分の一角(22号門の跡)に「阪神タイガース史料館」が作られた。ここでは選手の記念品やチャンピオンフラッグなどが展示され、スタンド内部へは直接の通行不可ながら試合開催時などに無料開放されていた。その後外野スタンドの改修工事に伴う準備により、2008年の夏に展示物は一旦撤去され、夏の高校野球の期間中に高校野球の記念品の展示を行った後、閉鎖された。その後2010年3月14日に、レフトスタンドの1階(17号門の跡)とレフト・ライトスタンドの2階部分で新たに「甲子園歴史館」として、高校野球や甲子園ボウルに関するものも展示に加えて新規に有料施設としてオープンしている。

入場料は一般500円、小中学生・幼児=4歳以上は300円。(20人以上の団体観光客向け割引あり)
前述したとおり、外野の広告フェンスを提供している企業・団体が甲子園歴史館の協賛社にもなっており、その運営費捻出のため、2010年春の選抜選手権以後、高校野球期間中も外野フェンス広告を掲出している。

野球塔

3代目野球塔

甲子園のスタンド外には、高校野球を記念して建立されたモニュメント「野球塔」が存在する。

初代

1934年、夏の甲子園20回大会を記念して、大阪朝日新聞社が建設。球場北東の松林(現在の甲子園警察署付近)に高さ30 mの塔のほか、20本の柱廊、直径35 m・8段・2,500名収容の階段型観覧席を備え、柱には第1回大会から第20回までの優勝校・選手名が1枚ずつ銅製の銘板に刻まれていた。しかし存在していた期間は短く、塔は近くに新設された鳴尾飛行場への離着陸の邪魔になると太平洋戦争中に撤去、銘板は軍に供出され、残りの列柱も空襲で崩壊、跡地も戦後に道路(現在の国道43号)の拡張時に区画整理され無くなった。現在は鋳潰されなかった銘板がいくつか残されており、そのうち第2回慶應義塾普通部のものが野球体育博物館に、第20回呉港中のものが甲子園歴史館に展示されている。

2代

正式名称は「選抜高校野球塔」。1958年、春のセンバツ30回大会を記念して、毎日新聞社が建設。球場西側の敷地に高さ4.5 mのモニュメントを建設し、台座には第1回大会からの優勝校が刻まれた。リニューアル工事に伴い、2006年に撤去。

3代

2010年のリニューアル第3期工事の完工にあわせて高野連・朝日新聞社・毎日新聞社の3団体により建設された。場所はレフトスタンド後方(「甲子園歴史館」の入口ゲート前にあたる)で塔の高さは15 m. 20本の列柱の一部には、春・夏それぞれの優勝校名が刻印された銘板が取り付けられている。

ミズノスクエア

2010年に一塁側場外へ整備されたイベント広場はミズノがネーミングライツを取得しており、ミズノスクエアと名づけられている。契約期間は5年間。リニューアル前まで球場正面に設置されていたベーブ・ルース記念碑が移設されているほか、ミズノのグラブ、バット、スパイク・ボールの歴史について学べるパネルが設置されている。

浜風

野球の開催シーズン(特に夏季の晴天時)はライトからホーム方向へ海風が吹くことが多く、球場の特徴の一つとなっており、「浜風」と呼ばれている。ただし海風でありながら昼間から強く吹くこともある。浜風が強い日は、上空で風が舞っていて野手を悩ませる球場である。特にライトへ打球を飛ばす左打者にとっては不利な球場であり、また右打者にとっても完全な追い風になることは少なくこの浜風で本塁打を損している選手は非常に多い。夏の高校野球の際にはライトからレフト方向に吹くことが多く、左方向の打球がよく伸びる。

この浜風の特性を逆手に取って、左打者であった掛布雅之ランディ・バースらは、芸術的と評される流し打ちでレフト方向への本塁打を量産した。

アルプススタンドと外野スタンドの“隙間”は風の抜け道となっており、浜風が舞っている日でも右翼ポール際への打球はよく伸びる。赤星憲広が2005年に放った唯一の本塁打(現役中に放った3本のうち、これが最後のものとなった)は、この球場で右翼ポール際に放ったもの。

奇跡のバックホーム”のように、この浜風が試合結果を左右してしまうこともある。

ただし2009年の銀傘架け替えにより、内野スタンド上の従来の広告看板があった場所が金網のみになったために風の吹き方が変わり、浜風が弱まったのではないかとも言われている[32]

プロ野球に関するエピソード

球場初の日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズ)はタイガースの試合ではなく、1950年11月25日の松竹ロビンス毎日オリオンズの第3戦である。この年はフランチャイズがまだ正式に制度化されておらず、シリーズは1試合ごとに会場を代えて行われた。

1953年10月12日にも日本ワールドシリーズ・南海対巨人の第6試合が開かれたが、有料入場者は6,346人でシリーズワースト記録となった。これは当時の規定に「第1・第3・第5・第7試合と第2・第4・第6試合の使用球場は毎年両リーグが交互にこれを指定する。ただし、第1・第2試合と第3・第4試合と第5・第6試合の使用球場はそれぞれ連続して同一地域にある球場を指定する」とあったためで、この年の偶数試合の球場指定権はセ・リーグ、つまり巨人側にあったためである。

1972年9月19日の阪神対巨人22回戦の試合中20時20分に、「3塁側アルプススタンドを20時40分に爆破する」という電話があり、5回裏2死で八番代打安藤統男の打席の20時38分に試合が一時中断。不審物は発見されず、12分後試合は再開された。[33]

1973年10月22日の阪神対巨人戦、勝ったチームがセ・リーグ年度優勝を決める試合で、巨人が9-0で勝ち、日本プロ野球記録の9年連続リーグ優勝を決めた。ところが試合終了後、余りに不甲斐ない試合に激怒した阪神ファンがグラウンド内に乱入したため、巨人は胴上げを宿舎で行った。前年の1972年も巨人は甲子園球場でリーグ優勝を決めているが、このときも阪神ファンがグラウンド内に乱入したため、球場での胴上げは中止となっている。これが後に各地の球場のフェンスが高くなった一因とも言われている[要出典]。さらに2002年、9月24日に巨人がリーグ優勝を決めた際も、警備員は通常より多く配置された。

阪神による日本シリーズの開催は1962年1964年1985年2003年2005年の5度となっている。このうち、3度(1962年、1964年、2005年)は甲子園球場で相手チームの胴上げを見ているが、一方で、阪神が唯一日本一になった1985年西武ライオンズ球場で日本一になったため、阪神の日本一の胴上げは甲子園球場では一度も行われていない。

1985年の日本シリーズ第4戦の有料入場者数は51,554人で、これは日本シリーズの最多入場者数記録である。

2011年3月11日、この日発生した東日本大震災の影響により、楽天が本拠地球場として使用している日本製紙クリネックススタジアム宮城が損壊し、修繕のため同球場での試合開催が4月28日まで不可能となったため、阪神球団の厚意もあり、4月15日 - 同17日に楽天対オリックス戦が当球場で代替開催され、3日間で計6万3千人が来場した。パシフィック・リーグ球団主催による公式戦の開催は、現行の2リーグに分立した1950年以来、初の出来事であった。場内アナウンスは日本製紙クリネックススタジアム宮城に準じて行われた。なお、リリーフカーは使用されず、中継ぎ投手はアイビーシートとアルプス席との間の通路から登場、そのまま走ってマウンドに向かった。2012年も、前年の開催が好評だったことを受けて、4月10日に楽天対西武戦を当球場で開催し、平日ながら2万2千人が来場した。翌11日も同カードを開催予定であったが雨天中止となったため、10月4日に日本製紙クリネックススタジアム宮城で振替試合を行う予定。

阪神球団主催分公式戦チケットの扱い

年間指定席においては、前年のシーズン終了後から発売されるが、その前年に購入した人に優先権がある。雨天中止が発生した場合は、予備日程が決まり次第、予備日当日に有効のチケットが郵送される。

一般発売においては、対巨人戦12試合および対戦日を8月に発表する試合日未定分を除き、交流戦を含む48試合全てを2月下旬から一斉に前売り発売している。対巨人戦に限り混雑緩和のため、各対戦日に応じてチケットの発売日をそれぞれ設定している(概ね対戦日の2か月前)。各試合ともに前売りで完売した場合は、当日券の発売は行わない。

雨天中止が生じた場合は、翌日以降に全額払い戻しとなる。予備日程については決まり次第その都度追加で発売日を決めるが、交流戦における予備日程に限り、全席種とも当日券のみの発売となる。

プロ野球・高校野球以外での使用

社会人野球

過去には社会人野球の大会もあった。1973年まで行われていた日本産業対抗野球大会(サンベツ)が廃止されたことを受けて新たに作られた「社会人野球日本選手権大会」の1974年第1回から1979年第6回までの大会を当球場にて行った。それ以後は社会人野球の公式大会は行われていない。

フットボール

現在は全日本大学アメリカンフットボール選手権決勝である甲子園ボウルが毎年12月に開催されている。

開場翌年の1925年から1928年(うち1927年は大正天皇が1926年末に崩御したため取りやめ)までは全国高等学校サッカー選手権大会及び全国高等学校ラグビーフットボール大会の前身の大会(1925年は2競技合同の「日本フットボール優勝大会」、1926年と1928年はそれぞれ「全国中等学校蹴球選手権大会」と「全国中等学校蹴球大会」)の会場となった。1929年には新設の南甲子園運動場での開催となったため、球場での開催は3回のみとなった。

1994年2月19日には、第10回全国中等学校蹴球選手権大会以来66年ぶりとなるサッカーの試合が開かれた。これはJリーグプレシーズンマッチ(シーズン開幕前の公開練習試合)として開かれたガンバ大阪ヴェルディ川崎の試合で、翌々年の1996年にも開催された。外野の部分を使用したが大きさが足らないために内野の一部に天然芝が仮設された。

連合体育大会

西宮市では、市立の全ての小学校および中学校の生徒による体育大会を、阪神甲子園球場にて毎年秋にそれぞれ1回開催している。内容は、学校対抗でリレーなどのトラック競技を行ったり、市内全学校が地区毎に数ブロックに分かれて共同でマスゲーム・組体操を披露するものである。もちろん球場のフィールド内で行われるため、参加者全員が「甲子園の土を踏む」わけである。つまり西宮市立の小学校高学年または中学校に通った者であれば、その多くが「甲子園の土を踏む」ことを、男女を問わず実際に体験していることになる。

小学校と中学校は別々の開催であり、それぞれ「小学校連合体育大会(略称・小連体)」、「中学校連合体育大会(略称・中連体)」と呼ばれている。中連体は全員参加だが、小連体は6年生のみの参加である。かつては5年生も参加していた。中連体では、全プログラム終了後には、各校ごとに校歌を歌いながら人文字やエール交換をする。

球場まで市内南部の学校からはいずれも徒歩で向かうが、北部(生瀬駅西宮名塩駅周辺など)の学校からはバスで向かっている。

参加各校の生徒はスタンドで待機しつつ、観戦および応援をする。なお、観戦場所は学校ごとに指定されているため、学校によって外野席になったり、屋根・テーブル付きのグリーンシートになったりして差が出る。ただし、場所は毎年順番に変わる。

甲子園の外野部分の天然芝の中にはミミズが多数生息しており、特に裸足で行う組体操の時には、このミミズがしばしば参加者を驚かせることがある。また、連合体育大会開催前日には、甲子園球場近くの小・中学校が、甲子園球場周辺を掃除している。

球場の改修工事に伴い、小連体・中連体共に2007年度から2009年度までの3年間と、東北地方太平洋沖地震のためプロ野球のペナントレースが遅くなったため日本シリーズと重なってしまう可能性が懸念されたので2011年は休止となった。

その他のイベント

戦前は特に色々なイベントが行われていた。1938年と1939年に全日本選抜スキー・ジャンプ大会が観客4万人を呼ぶ人気のスポーツとして外野のグラウンドを利用して開催したが、長野県から運ぶ雪の輸送コストや天候不順が心配されて、わずか2年で終わった。他にも野外映画会や鷹狩り、野外歌舞伎馬術大会、戦車博覧会、1940年には「紀元2600年奉祝・興亜厚生大会」と銘打たれた極東・東南アジア各国の代表との交流会等が開催されることもあった。戦後はボクシングやコンサートなどでよく使用されていたが、他にそれらの用途に向いた施設(大阪ドームなど)ができたため現在ではほぼ使用されていない。

その中でもTUBEは毎年9月(開催し始めた初期は8月)にコンサートを開催している。過去に当球場でコンサートを開いたアーティストにはエマーソン・レイク・アンド・パーマーイーグルスMr.Children, サザンオールスターズJUDY AND MARYなどがいる。コンサートでは天然芝である外野にステージを設営するため、設営に時間がかかる大規模なステージは組むことが不可能となっている。

また、1991年(第2回)から2006年(第17回)まで[34]学校法人立志舎グループの各専門学校生徒を対象とした野球大会BEST COLLEGES 硬式野球選手権大会が開催されていた。

映画・テレビドラマのロケーション

2002年公開の長嶋一茂主演の映画『ミスター・ルーキー』ではタイガースの全面協力の下、現役選手や本物の球場スタッフを揃えてロケが行われた。主にペナントレース終了後の11月頃に撮影されたため、シーズン中の真夏の試合のシーンでは、出演者、エキストラ共に薄着で寒さに震えながらのロケであった。

2005年冬季編成(1 - 3月)にTBS系(JNN)全国ネット放送の木曜22時ドラマ『H2~君といた日々~』で、高校野球の全国大会に出場するシーンの撮影に当球場が実際に使用された。ただし、この時は実際の大会(当時)のようなフェンスのシート隠しはしなかった。またバックネットのフェンス広告は当時回転広告盤を設置する工事が行われていたため、通常より高めの仮設フェンスを使って隠していた。

2007年の夏に発売されたDVD『THE HANSHIN KOSHIEN STADIUM ~大正・昭和・平成 悠久の時を経て~』では阪神甲子園球場の様々な位置にカメラが入っている。これはリニューアル前の映像であるため、現状とは違っている。

公開放送

1985年10月17日と2010年3月19日に『おはようパーソナリティ道上洋三です』の、1991年8月31日に『おはよう朝日です』の公開放送が当球場で行われている。

交通機関

甲子園駅西口。開催日には多数の観客で混雑するが、阪神電気鉄道では大量の乗客の扱いに比較的慣れており、試合展開を先読みして臨時列車を運転するなどの対策を行う。

列車・バス

阪神本線甲子園駅下車の経路が最も多く利用されている。

甲子園駅の隣駅である鳴尾駅(大阪側)、久寿川駅(神戸側)まではともに1 km弱の距離である。特急列車を利用しない観客の中には、試合終了後の混雑を避けるために、徒歩でこれらの両駅を利用する者もいる。

阪神なんば線開業後は、大阪市此花区からはもとより、特に相互乗り入れ先の近鉄奈良線沿線の東大阪市奈良県生駒市・同奈良市、更に大阪難波駅から近鉄特急を利用すれば名古屋伊勢志摩、同駅乗り換えで南海沿線からのアクセスも格段に向上している。また京セラドーム大阪への最寄り駅、ドーム前駅へも乗り換えなしで行けるようになった。

JR神戸線甲子園口駅からは約2 km離れており、徒歩では30分ほどかかる。阪神バス利用で10分程度である。

バスの場合、阪神バス「阪神甲子園」または「ららぽーと甲子園西」下車。なお、阪神バス宝塚甲子園線では、定期便終了後もナイトゲーム終了20分後には、宝塚行き臨時便が運行される。さらに2008年シーズンから、阪神バスと阪急バスの共同運行により阪急神戸線西宮北口駅への直通バスが運行されている。2005年シーズンから2010年シーズンまでの間はJR難波駅への臨時直通バスも存在したが、東日本大震災に伴う燃料節約を理由に2011年シーズンは休止され、そのまま廃止されている。

自家用車

球場周辺には駐車場がないため、電鉄・球団側はCMや車内の広告などで告知する形で、阪神西宮駅などの少々離れた駅近くの駐車場に車を停めて、電車や路線バスで来場することを勧めており、球場内でも頻繁にアナウンスされている。高校野球出場校の中には自校の応援貸切バスを球場近くのマンションといった一般住宅の駐車場を開催期間借用する形で使用したり、球場至近のダイエー甲子園店の駐車場や野球開催時にのみ営業される私営駐車場を観客が利用するといったことも多々見られる。

球場南方約1 kmの浜甲子園駅跡地にごく少数だけ駐車場が用意されているが、一般客の利用はできず、あくまで高校野球大会などの際の遠方からの来客と観戦ツアーバスのために用意されているものである。球場まで距離があるため、夏の高校野球時にはシャトルタクシーが用意される。

ロイヤルスイート席の利用客に限り、球場至近に用意された駐車場を1室につき1台分利用することができる。

甲子園阪神パークの跡地にあるららぽーと甲子園の駐車場は、当球場での試合開催日は観戦客の駐車を排除するため、3時間を超える駐車には本来の駐車料金に加え、特別駐車料金6,000円が加算される(買い物客およびキッザニア甲子園利用客には一定の条件で特別駐車料金は免除される)。また、球場周辺のコインパーキングも同様に、試合開催日当日に限り割増料金を設定している。

甲子園阪神パークが閉園した2003年までは、阪神パークの南側にあった大駐車場を球場の客向けに使用していた。また、2002年までは甲子園競輪場の駐車場を借用することで、両駐車場合わせて2000台以上の駐車スペースを確保していた。

脚注

  1. ^ 1941年・第27回大会は地方予選中に中止、1942年から1945年は開催なし、1946年・第28回大会は阪急西宮球場で代替開催。
  2. ^ 1942年から1946年は開催なし。
  3. ^ 1946年は未使用、専用球場化は1948年から。
  4. ^ 1960年・第15回大会は阪急西宮球場で、2007年・第62回大会と2008年・第63回大会は長居陸上競技場で代替開催。
  5. ^ 1926年からは「全国中等学校蹴球選手権大会」と「全国中等学校蹴球大会」に分割、1927年は中止。
  6. ^ 東京ドームの立見席を含む収容人数ははっきりしていないが、実数発表による満員時の観客数では2012年現在は東京ドームを上回っている。
  7. ^ 国土交通省国土地理院近畿大学をはじめ使用されている。
  8. ^ 1924年完成当時の甲子園
  9. ^ ラッキーゾーン設置以前のプロ野球公式戦796試合でオーバーフェンスの本塁打は49本しか出なかった。この中で、個人最多記録は景浦将山下実の各4本である(宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年、p.368)。
  10. ^ http://www.hanshin.co.jp/koshien/renewal/release/pdf/20071219.pdf
  11. ^ 甲子園球場の屋根でソーラー発電 薄膜太陽電池採用
  12. ^ 甲子園球場の登記ミス
  13. ^ 甲子園球場、実はちょっと狭かった 産経MSNニュース、2009年3月15日。
  14. ^ リニューアル甲子園、実は小さかった! 日刊スポーツ、2009年3月16日。ただし文中のフェアグラウンド面積の数値は誤りで、実際の数値は未公表。また「120 mの伝統」も誤り。
  15. ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年、p.368
  16. ^ 「町名の話 - 西宮の歴史と文化 - 」p.274。
  17. ^ 太陽工業によるニュースリリース
  18. ^ 帝人によるプレスリリース
  19. ^ 2011年4月11日発表、阪神電鉄のリリースより
  20. ^ イニング表示はアラビア数字で表記された戦後の一時期を除き漢数字で表記されており、当時十回以降の部分は「一」と「〇」から「六」が縦書きで表記されていた。
  21. ^ この時も「一」と「〇」から「八」が縦書きで表記されていた。
  22. ^ この時のイニング表示から十回を「十」1文字で、また十一回・十二回を「十」と「一」および「二」の縦書きで表記するようになった。
  23. ^ ただし漢字部分の書体は明朝体になった。他の電光化された漢数字部分も同様。
  24. ^ 阪神甲子園球場スコアボード更新工事とBSO表示への変更について (PDF) - 阪神電気鉄道 2011年11月11日プレスリリース。
  25. ^ 但し、神戸球場のものは製造会社が左側が東芝ライテック製、右側が甲子園と同じ三菱電機製と左右で異なっている
  26. ^ 2008年から2010年まではスコアボード棟手前、2枚のバックスクリーンの中間部分にプロ野球開催時に限り時計カウンターが仮設された。2008年から試合の攻守交代時のインターバルをできるだけ2分15秒(投手交代時は2分45秒)以内に収めて試合時間短縮をしようという球界の奨励に基づいて義務付けられた時刻表示のため。
  27. ^ かつてはDH制時の投手も、9人制の時と同じ「1」と表記されていた。
  28. ^ 三塁側の座席の一部からはサブスコアボードのボールカウンターが銀傘の柱(屋根部分)の影となり見えにくかったために、2009年のシーズン途中から追加された。
  29. ^ 2012年度の14社は、KONAMI, 東進ハイスクールat home, VanaH, デサントサンスターパナソニックほけんの窓口、エスライズ・エージェンシー、朝日新聞クボタジョーシンLOTTE, タカラホーローシステムキッチン
  30. ^ 朝日新聞2010年3月8日毎日新聞2010年3月9日
  31. ^ ブルー・エンジニアリング
  32. ^ 甲子園に異変…浜風の変化が影響?本塁打が大幅増
  33. ^ 【8月24日】1972年(昭47) 「巨人ベンチの上に爆弾。7時45分に爆発する」”. スポーツニッポン (2007年8月24日). 2012年5月18日閲覧。
  34. ^ 1990年(第1回)は神宮球場、2007年(第18回)以降はQVCマリンフィールドにて開催。

関連項目

外部リンク


前本拠地:
中百舌鳥球場
1939 - 1947
南海ホークスの本拠地
1948 - 1949
次本拠地:
大阪球場
1950 - 1988
前本拠地:
n/a
-
阪神タイガースの本拠地
1936 - 現在
次本拠地:
n/a
-