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渡辺久信

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渡辺 久信
埼玉西武ライオンズ 監督 #99
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 群馬県勢多郡新里村(現・桐生市
生年月日 (1965-08-02) 1965年8月2日(58歳)
身長
体重
185 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1983年 ドラフト1位
初出場 NPB/1984年6月29日
TML/1999年
最終出場 NPB/1998年10月8日
TML/2001年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

渡辺 久信(わたなべ ひさのぶ、1965年8月2日 - )は、群馬県出身の元プロ野球選手投手)。2008年より埼玉西武ライオンズ監督

愛称は「ナベ」、「ナベQ[1]

来歴

前橋工業時代から速球派の大型投手と期待された。中学時代から140km/hに近いストレートを投げており、県の高校野球界でも注目の的だったが、自身は桐生高校を志望していた。当時の桐生高校は、阿久沢毅木暮洋のコンビで甲子園を席巻した直後であり、桐生高校側としても次代のエースとしての期待を込めて、受け入れ態勢を準備。専属の家庭教師をつけて、受験勉強を開始したが、生来の勉強嫌いもあって3日で受験を断念。結局、前橋工業高校に進学した[2]。優勝候補筆頭として出場した、高校3年の夏の選手権大会地方予選(県予選)では、決勝の最終回に押し出しフォアボール太田工業高校サヨナラ負けを喫した。渡辺が甲子園に出場したのは1年生の夏(1981年)のみで、この時も準優勝した京都商業高校に初戦でサヨナラ負けを喫している。

1983年プロ野球ドラフト会議において、西武ライオンズ高野光を1位指名するも抽選に外れ、「ハズレ1位[3]」で渡辺が指名され、入団した。

現役時代

日本プロ野球 (NPB)

1年目から一軍に定着し、快速球とフォークを武器に3年目の1986年最多勝最多奪三振の二冠となった。1988年1990年も最多勝となるなど、東尾修工藤公康郭泰源松沼博久らとともに西武黄金時代の柱としてチームを支えた。

1989年10月12日、熾烈な優勝争いの最後の天王山の近鉄とのダブルヘッダー第1試合で途中登板したものの、ラルフ・ブライアントに勝ち越しソロ本塁打を打たれた。結局西武は同日のダブルヘッダーを2試合とも落とし、同年の優勝を逃す要因となった(10.19の項も参照)。渡辺は引退の記者会見で、最も心に残る場面として「後悔しないように一番自信があった直球で勝負を挑んでモノの見事に打たれた」と、この場面をとりあげている。

1990年5月9日、対日本ハム戦に先発した渡辺は9回までノーヒットピッチング、だが西武打線も柴田保光投手の前に無得点に抑えられ延長戦になった。10回もノーヒットを続けたが11回ついに小川浩一にヒットを許し、ノーヒットノーラン達成はならなかった。なお、その試合では12回表に西武が先制、渡辺は11回無失点で勝利投手になった。1996年6月11日には対オリックス戦でノーヒットノーランを達成する。

1992年10月10日の対日本ハム戦では打席に入り、左前安打を記録した。当時は交流戦がなく、これは日本シリーズを見据えた采配であり、同試合では同僚の潮崎哲也石井丈裕も打席に立ったが、三振を喫しなかったのは渡辺だけであった。また、パ・リーグの投手の安打は2000年8月7日の対オリックス戦で松坂大輔が記録するまで、約8年間記録されなかった。

1997年には0勝に終わり、同年の日本シリーズでも投手の高津臣吾に適時打を打たれるなど不本意な結果となった。同年オフにはチームの若返りを目指す球団方針によって戦力外通告を受け、複数の球団による勧誘の中から「『野村ID野球』を学んでみたい」との思いから[4]野村克也が監督を務めるヤクルトスワローズに移籍する。

新天地で迎えた1998年シーズンは『野村再生工場』とも謳われた野村の下で復活を期待されたが、速球にこだわるが故にその速球を痛打される機会が目立った。同年は19試合の登板で1勝5敗、防御率4.23と成績が上向くことはなく、オフに再び戦力外通告を受けた。

台湾大聯盟 (TML)

ヤクルトにおける戦力外通告をもって現役引退を決断し、野球解説者としての専属契約を交わしたものの[5]、西武時代の先輩であり、渡辺が戦力外通告を受けた当時の西武監督でもあった東尾の勧めによって、指導者の勉強のため急遽台湾に渡ることとなり、台湾大聯盟嘉南勇士の投手コーチに就任する。しかし、言葉による意思疎通が困難であったことから当時台湾大聯盟で技術顧問を務めていた郭泰源に通訳を手配してくれるよう要請したところ「言葉が通じないのであれば(渡辺が)自ら投げて身をもって教えればよい」とアドバイスを受けて急遽選手兼任となり、現役に復帰した[6]

入団1年目から18勝を挙げて最多勝を記録するなど台湾球界を代表するエースとして活躍したほか、西武在籍当時の同僚であった郭・石井丈裕らとともに台湾球界の発展に努め、日本で活躍の場に恵まれない選手にも道を開いた。2001年限りで現役引退。この結果、日本球界において、有名選手あるいは所属球団への貢献度の高い選手の現役引退に際して恒例となっている引退試合が行われることなく[7]現役を引退することとなった。台湾での経験について、渡辺は自著『寛容力』の冒頭で「指導者としての原点は台湾での3年間にある」と語っている。

引退後

引退後は、テレビ朝日テレビ埼玉文化放送日刊スポーツなどで野球解説者を務めた。

2004年に西武二軍投手コーチに就任。翌2005年からは二軍監督との兼任、2007年は二軍監督専任となり指導者としての道を着実に歩んだ。

2008年より伊東勤の後任として一軍監督に昇格。球団主導で招聘された黒江透修をヘッドコーチに据え、自ら大久保博元清家政和熊澤とおるをコーチとして招聘、チーム力を底上げし前年度Bクラスのチームを就任1年目で優勝に導いた。リーグ優勝時には人目を憚ることなく涙を流し、「こんなに泣いたのはオグリキャップの引退レース(第35回有馬記念)以来だ」とのコメントを残した[8]。ポストシーズンでは、クライマックスシリーズセカンドステージで日本ハムを4勝2敗(アドバンテージ含む)で破って日本シリーズに進出、日本シリーズでは巨人を4勝3敗で破り、チームを4年ぶりの日本一に導いた。さらにアジアシリーズも制覇し、それら功績を評価され2008年の正力松太郎賞に選出された。

伊東の場合はレギュラーシーズン2位でプレーオフ・日本シリーズを制しての日本一であったため、西武でシーズン1位と日本シリーズ優勝を両方達成したのは森祇晶監督時代の1992年以来。また、前年Bクラスのチームを新人監督が日本一に導いたのは史上初である。新人監督の日本一は、湯浅禎夫毎日1950年)、川上哲治(巨人・1961年)、藤田元司(巨人・1981年)、森(西武・1986年)、権藤博横浜1998年)、原辰徳(巨人・2002年)、伊東(2004年)に続き4年ぶり8人目。また、投手出身監督が日本一になるのは湯浅、金田正一、藤田、権藤に続き10年ぶり5人目。

2009年は前年度オフに黒江が退任し、さらに大久保が自身の不祥事によって更迭された[9]ことから、コーチ陣を刷新して迎えるシーズンとなった。しかしシーズン序盤に抑え投手のアレックス・グラマンが故障で戦線離脱するなど、中継ぎ・抑え投手が軒並み調子を落としたことが主因となって、チーム成績はBクラスとなる4位と低迷した。同シーズンにおいては計14回のサヨナラ負けを記録しているが、これはパリーグにおけるワースト記録であり、両リーグを通じては1988年の中日、1993年の広島と並ぶワーストタイ記録であった。オフには球団から続投を要請され、2年契約を結んだ。

2010年はリリーフ陣の崩壊で接戦を落とした前年度の反省から、ロッテより移籍したブライアン・シコースキーを抑え投手に据え、岡本篤志藤田太陽長田秀一郎らをセットアッパーとして起用する継投パターンを確立した。9月16日時点では2位ソフトバンクに3.5ゲーム差の首位に立ち、優勝マジック4が点灯していた[10]。しかし、9月18日 - 20日の対ソフトバンク戦において同一カード3連敗を喫し0.5ゲーム差に迫られ、9月23日の対楽天戦で敗れて2位に転落した。9月26日の対日本ハム戦で敗れたことでソフトバンクの優勝が決定し、監督3年目は2位で終えた。また、チーム防御率は前身クラウンライター時代以来、33年ぶりのリーグ最下位に転落した。その後クライマックスシリーズファーストステージでロッテと対戦するが、2試合連続で延長戦に突入した末に2連敗しシーズンを終えた。その後、進退伺を提出したと報道されたが、「負けっぱなしではいられない」との本人の意向から、2011年シーズンの続投が決定した。

2011年は投手陣の不振が主因となって、前半戦を球団史上15年ぶりの最下位で折り返すこととなった。また、球団史上32年ぶりとなる最大15の負け越しを記録し、7月12日から25日にかけては球団史上初の3カード連続の同一カード3連敗を喫するなど[11]チーム成績は低迷した。後半戦以降、新人の牧田和久を抑え投手として抜擢し、セットアッパーとして起用したミンチェ・岡本篤志の2人と併せて勝ち試合における継投パターンを確立して投手陣をてこ入れし、さらに中心選手の中島裕之をキャプテンに任命してチームの建て直しを図った。また、3年目の浅村栄斗や新人の秋山翔吾といった若手野手を辛抱強く起用した結果[12]、9月14日から27日にかけて2つの引き分けを挟んで10連勝を記録するなど9月の月間成績を19勝5敗とし、クライマックスシリーズ出場へ望みを繋いだ。3位のオリックスと1ゲーム差の4位で迎えた10月18日のシーズン最終戦(対日本ハム戦)に勝利、同日オリックスが敗れたことから、わずか勝率1差で3位に浮上し[13]クライマックスシリーズ出場を決めるとともに、最大15あった借金を完済し勝率5割以上の成績で公式戦全日程を終了した。また同日試合終了後、球団からの来季続投要請を受諾し、1年契約で2012年シーズンも指揮を執ることを表明した[14]。クライマックスシリーズファーストステージにおいては日本ハムを2連勝で破りファイナルステージ進出を決めたが、ファイナルステージにおいてソフトバンクに0勝4敗で敗退した。

人物

プレースタイル

常時140km/h後半をマークする快速球(プロ入り後の最高速は149km/h)を軸に、カーブフォークボールを交える典型的な力投型投手であり、コントロールの緻密さには欠けるものの球のキレと力で勝負するタイプであった。また、1989年・1990年には2年連続で投球回数が200イニングを突破するなど、体力や回復力にも恵まれた投手であった。なお、その投球スタイル故に奪三振が多かった代償として被安打・被本塁打もまた多く、1989年・1990年には最多被安打を、1989年には最多被本塁打を記録している。

もっとも、力投型投手の多くがそうであったように、渡辺もまた力の衰えが見え始めた現役晩年に至っても全盛期のような力で押す投球スタイルから脱却できず、速球を痛打される機会が目立った。当時の西武監督であった東尾からは速球が通用するうちに投球の組み立てを変えるようアドバイスを受けたが、自身の体に残る全盛期のイメージが邪魔をしてモデルチェンジできなかったという[15]

現役当時

現役時代は、私服でDCブランドを着こなし、さらにグラウンド内外でのアクションが球界や社会に影響を与え、西武時代のチームメイトであった工藤、清原らと共に新人類と称された[16]。長身でスリムなことから西崎幸広阿波野秀幸星野伸之らと「トレンディエース」と並び称され、女性ファンから絶大な支持を受けていた。しかし1991年頃から頭髪が薄くなり始め、女性ファンからの人気は徐々に減っていってしまったという。選手達にも「今じゃ信じられないだろうが、昔はこれでも西崎さん・阿波野さんと並んでイケメンと言われていたんだ」と自虐的にジョークを飛ばしている。

入団当時の監督であった広岡達朗の『管理野球』には辟易したと語る。選手寮に入って初めての食事の際、ご飯が茶色い玄米であったことと、冷蔵庫に牛乳が入っておらず豆乳のみであったことに驚かされたという。当時の玄米にしても豆乳にしても現在のような味に気を使ったものではなかったことから非常に不味く、おかずだけは美味しかったために何とかなったと回想している[17]。渡辺自身、管理されるのが最も嫌いな性格であったことから、将来「監督になったら絶対に管理はしないぞ」と誓ったという[18]。もっとも、その一方で「今思えばその経験が良かったと思う。『新人類』と騒がれても、道は断じて踏み外していない。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎を作ってもらったのかも知れない」[19]、「蹴飛ばされたこともあったが、若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と当時を振り返っている[20]

かつてのチームメイトであった工藤や清原からは「今までやってきた27年間の中でプロ野球投手としては最高の存在」と高い評価を受けている。工藤によると、素質・筋肉の質・関節の柔軟性(と人気)をどれを取っても一流で、肺活量は7,500cc(通常プロは6,000cc前後)もあったという。また、工藤は「もう時効だから言いますけど、アイツ中学生の頃から喫煙していたにもかかわらず肺活量が並外れていて、それでいて筋肉の質も超一流。シーズン200イニング以上投げておきながら、試合後はまったくマッサージを受けないで平気でした。僕がマッサージを受けてる横から『工藤さん、お先です』って行って飲みにいってしまったの。今では200イニング投げるピッチャーっていませんよ」と述べている[21]。また、清原は菊池雄星との対談で「渡辺監督と潮崎コーチなんて手本が揃ってるチームは滅多にない。特に渡辺監督。あの人についていけばまず大丈夫。」とその手腕を絶賛した。

指導者として

怒らないことを指導方針としているが、プロ意識を欠いた人間を非常に嫌う人物である。台湾時代には新人ながら素質十分で練習しなくても活躍し、そのため首脳陣も何も口を出さなかった投手を呼びつけて「お前がどんなに優れた才能を持っていても、今の態度じゃ俺達のチームはお前なんていらない」と叱ったり、失策を犯した後に好プレーをした三塁手がコーチとハイタッチしているのを見て試合後「こんな馴れ合いの環境じゃ、絶対に強くなれないぞ!」と怒鳴りつけたこともある。西武二軍監督時代も「一人前の野球選手になる前に、まずは一人前の社会人にならなければならない」との方針から、若手選手の緊張感を欠いた態度には厳しく接した[22]。そのため、二軍監督時代を知る選手は一軍監督となった渡辺のあまりの豹変具合に戸惑っていた、と振り返る。

一軍監督就任後は「結果論で選手を叱らない」を信条とし、前述のように選手に対しては無闇に怒らないと自述しているが、一方で試合中における判定を巡る審判とのトラブルは目立つ。2008年シーズンには死球に端を発する乱闘の最中に年長の王貞治と口論する場面すら見受けられた[23]。このように、自著のタイトルにある「怒らない」とは裏腹に、現場や試合中においては感情を表に出した闘将ぶりを発揮している。

一軍監督就任以降、ドラフト会議における抽選では渡辺がくじを引いているが、2009年は6球団競合となった花巻東高の菊池雄星を、2010年は同じく6球団競合となった早稲田大学大石達也を、それぞれ引き当てている。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1984 西武 15 7 2 0 0 1 1 0 -- .500 219 52.2 41 7 29 1 2 38 0 0 24 23 3.93 1.33
1985 43 15 7 0 0 8 8 11 -- .500 644 152.0 132 22 72 2 3 121 0 1 59 54 3.20 1.34
1986 39 24 13 1 0 16 6 1 -- .727 907 219.1 191 22 76 2 6 178 5 0 79 70 2.87 1.22
1987 30 9 5 1 0 5 3 8 -- .625 434 105.2 81 10 42 4 4 74 1 0 43 36 3.07 1.16
1988 28 25 14 3 0 15 7 0 -- .682 754 185.0 163 29 59 2 3 123 4 0 79 74 3.60 1.20
1989 29 28 17 4 0 15 11 0 -- .577 956 226.2 210 34 86 5 4 174 3 0 93 86 3.41 1.31
1990 30 29 16 2 1 18 10 0 -- .643 944 224.1 206 31 84 5 2 172 3 0 77 74 2.97 1.29
1991 25 23 6 1 0 7 10 0 -- .412 658 151.1 142 17 68 3 5 127 7 0 79 74 4.40 1.39
1992 28 26 8 2 0 12 12 0 -- .500 777 179.1 164 17 84 1 4 141 8 0 83 76 3.81 1.38
1993 26 25 7 1 0 9 14 0 -- .391 692 160.0 153 15 70 2 3 143 7 0 72 68 3.83 1.39
1994 25 24 4 0 0 9 8 0 -- .529 653 146.1 149 16 73 2 5 97 14 0 79 71 4.37 1.52
1995 20 7 0 0 0 3 4 6 -- .429 216 49.1 42 7 29 0 1 43 3 0 31 31 5.66 1.44
1996 20 19 5 2 0 6 9 0 -- .400 509 118.1 116 19 50 0 3 92 6 0 66 60 4.56 1.40
1997 12 7 0 0 0 0 2 0 -- .000 193 43.1 42 4 25 0 2 37 1 0 25 20 4.15 1.55
1998 ヤクルト 19 9 1 0 0 1 5 1 -- .167 267 61.2 56 9 36 3 2 49 1 0 30 29 4.23 1.49
通算:15年 389 277 105 17 1 125 110 27 -- .532 8823 2075.2 1888 259 883 32 49 1609 63 1 919 846 3.67 1.33
  • 各年度の太字はリーグ最高

台湾TMLでの成績

年度 球団 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ 勝率 投球回 被安打 与四死球 奪三振 自責点 防御率
1999 嘉南勇士 28 8 2 18 7 0 .720 207.2 195 50 201 54 2.34
2000 27 7 1 15 8 0 .652 203.2 194 42 169 56 2.47
2001 23 3 0 2 7 4 .222 86.1 81 8 80 35 3.65
TML:3年 78 18 3 35 22 4 .614 497.2 470 100 450 145 2.62

年度別監督成績

レギュラーシーズン
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2008年 西武 1位 144 76 64 4 .543 - 198 .270 3.86 43歳
2009年 4位 144 70 70 4 .500 11.0 163 .261 4.01 44歳
2010年 2位 144 78 65 1 .545 0 150 .271 4.19 45歳
2011年 3位 144 68 67 9 .504 20.5 103 .253 3.15 46歳
通算:4年 576 292 266 18 .523 Aクラス3回、Bクラス1回
  • 順位の太字は日本一
ポストシーズン
年度 球団 大会名 対戦相手 勝敗
2008年 西武 パ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ(※1)
北海道日本ハムファイターズ
パ・リーグ3位)
4勝2敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ 読売ジャイアンツ
セ・リーグ1位)
4勝3敗=日本一
アジアシリーズ2008予選 統一セブンイレブン・ライオンズ
SKワイバーンズ
天津ライオンズ
2勝1敗=決勝戦進出
アジアシリーズ2008決勝 統一セブンイレブン・ライオンズ
(予選2位)
1x-0=アジア王者
2010年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
千葉ロッテマリーンズ
(パ・リーグ3位)
0勝2敗(敗退)
2011年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
北海道日本ハムファイターズ
(パ・リーグ2位)
2勝0敗=ファイナルステージ進出
  • 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※1 2008年のクライマックスシリーズ2ndステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
※2 アドバンテージの1勝を含む
※3 アジアシリーズ2008の詳細は2008年のアジアシリーズの項を参照のこと。

タイトル

NPB
  • 最多勝:3回 (1986年、1988年、1990年)
  • 最高勝率:1回 (1986年)
  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):1回 (1986年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰

表彰

記録

日本シリーズ
  • 通算連勝:6(1986年第6戦~1993年第3戦、シリーズ記録)
  • 2試合連続完封勝利(1990年第1戦、1991年第3戦、シリーズタイ記録)
  • 通算暴投:6(シリーズ記録)
  • シリーズ暴投:2(1988年、1993年、シリーズタイ記録、2度記録したのは渡辺のみ)
  • 1試合暴投:2(1988年第1戦、シリーズタイ記録)

背番号

  • 41 (1984年 - 1997年)
  • 21 (1998年)
  • 74 (2004年 - 2007年)
  • 99 (2008年 - )

関連情報

著書

脚注

  1. ^ 「ナベQ」は、渡辺智男の西武入団以降、活字メディアで「渡辺久」と表記される機会が増えたことから、「久」の字の音読みアルファベットにしたもの。ただし、同姓の選手が居た場合でも、ユニフォームの背中のネームは「エッチ渡辺(H.WATANABE)」に見えることを嫌い頭文字は入れなかった。
  2. ^ AERA 2000年5月15日号。
  3. ^ プロ野球ドラフト会議において、複数の球団が同じ選手を1位指名した場合、抽選を行う。その際、抽選に外れた球団が他の選手を1位指名することを「ハズレ1位」という。
  4. ^ 『寛容力』 p.78
  5. ^ 『寛容力』 p.72 - 74
  6. ^ 『寛容力』 p.90
  7. ^ 嘉南勇士における現役引退時は不明。
  8. ^ ナベQ男泣き!西武4年ぶり21度目V (2/3ページ)SANSPO.COM 2008年9月27日 05:12)同年、西武が日本シリーズ制覇を決めた11月9日には、奇しくもオグリキャップが、18年振りに東京競馬場に登場していた。
  9. ^ 2008年オフに引き起こした不祥事によって2009年は現場を離れ編成部プロ担当へ配置転換され、翌2010年に二軍打撃コーチとして現場復帰したものの今度は選手に対する暴力事件を起こし球団本部長付となり、その後解雇された。
  10. ^ もっとも、同時期には中継ぎ投手が軒並み不調に陥り、藤田は8月に2軍降格し、シコースキーは9月以降蓄積疲労のため救援失敗機会が増えつつあった。
  11. ^ 西武 球団初の屈辱9連敗 - 日刊スポーツ 2011年7月21日
  12. ^ 1毛差CS!借金最大15から最終戦で大逆転!…西武 - スポーツ報知 2011年10月19日[リンク切れ]
  13. ^ 公式戦全日程終了時における西武の勝率は.50370(68勝67敗9分)、一方オリックスの勝率は.50364(69勝68敗7分)であり、一般に「1毛差」と解説されるが、実際には「6差」という極々わずかな勝率の差による逆転劇であった。
  14. ^ ナベQ続投1年契約「来年もやります」 - 日刊スポーツ 2011年10月19日
  15. ^ 『寛容力』 p.77
  16. ^ 【話の肖像画】男のプライド(中)プロ野球投手・工藤公康 - MSN産経ニュース[リンク切れ]
  17. ^ 『寛容力』 p.172
  18. ^ 週刊ポスト、2009年2月6日号、p68 - 69
  19. ^ 週刊朝日、2009年4月10日号、p35
  20. ^ SPORTS COMMUNICATIONS - 西武、4年ぶりリーグ制覇!
  21. ^ 文藝春秋2008年5月号 工藤公康・あさのあつこ対談「バッテリーは永遠の友情の絆」 なお、渡辺から見て先輩に当たる工藤は、渡辺が監督を務める西武に2010年の1シーズン現役選手として所属した。
  22. ^ 『寛容力』 p.179 - 181
  23. ^ 渡辺の他に試合中に王と口論した監督は、同じく死球に端を発する乱闘の最中に、王に対して拳を突き付け怒鳴りつけた1987年シーズンの星野仙一(当時中日監督)だけである。

関連項目