ジャズ

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ジャズ
様式的起源 ブルースラグタイム黒人霊歌ワーク・ソングマーチ英語版西アフリカ音楽英語版
文化的起源 19世紀、アメリカ南部(諸説あり)
使用楽器 ピアノトランペットトロンボーンサクソフォンクラリネットフルート鍵盤楽器コントラバスドラムギター
派生ジャンル
サブジャンル
  • アヴァンギャルド・ジャズ
  • ビッグバンド
  • ビバップ
  • チェンバー・ジャズ
  • クール・ジャズ
  • フリー・ジャズ
  • ジプシー・ジャズ
  • ハード・バップ
  • ラテン・ジャズ
  • コンテンポラリー・ジャズ
  • モード・ジャズ
  • ネオバップ英語版
  • ポスト・バップ
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  • スウィング・ジャズ
  • トラッド・ジャズ
  • 融合ジャンル
  • アシッドジャズ
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  • ボサノヴァ
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    ジャズ: jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国南部の都市を中心に発生した音楽ジャンル。 ジャズはシンコペイトする音楽であるラグタイムからアフリカ系アメリカ人リズム感覚民俗音楽を継承して生まれた。演奏の中にブルー・ノート[1]シンコペーションスウィングコールアンドレスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーション(即興演奏)、ポリリズム(複合リズム)などの要素を含んでいることが、大きな特徴とされている。

    また、初期からポール・ホワイトマンやビックス・バイダーベック[2]らの白人ミュージシャンも深くかかわり、黒人音楽であると同時に人種混合音楽でもあった。演奏技法なども急速に発展し、20世紀後半には世界の多くの国々でジャズが演奏されるようになり、後のポピュラー音楽に多大な影響を及ぼした。

    概要

     マンハッタン。パーカーやディズが演奏したライブハウスは、ハーレムにあった。

    ジャズは誕生後、さまざまなスタイルに分化してきた。ニューオーリンズ・ジャズは行進とフランス音楽の組み合わせ、初期の1910年代に始まったラグタイムとブルースを集団で、ポリフォニックも含め即興演奏した[3]。1930年代には、ダンス志向のスウィング[4]のビッグバンド、カンザス・シティ・ジャズ、ハードなスウィング、ジャズ・ブルース、即興スタイル、ジプシー・ジャズ(ワルツを強調したスタイル)が目立ったスタイルだった。ビバップは戦後の1940年代に登場し、ジャズをダンサブルなポピュラー音楽から、より速いテンポで演奏され、よりコードベースの即興演奏を使用した、挑戦的なミュージシャンの音楽にシフトさせた。クールジャズは1940年代の終わりごろに開発され、より穏やかで滑らかなサウンドと長く直線的なメロディーラインを導入した。

    1950年代半ばには、特にサックスやピアノの演奏において、リズム&ブルース、ゴスペル、ブルースの影響を取り入れたハードバップが登場した。モードジャズは1950年代後半に開発され、モード、つまり音階を音楽構造と即興演奏の基礎として使用した。フリージャズは、通常の拍子、ビート、形式的な構造なしで演奏することを目指した。ジャズとロックの融合は、1960年代後半から1970年代初頭に登場し、ジャズの即興演奏とロックミュージックのリズム、電気楽器、高度に増幅されたステージサウンドを組み合わせた。1980年代初頭、スムースジャズと呼ばれる商業主義的なジャズがジャズフュージョンの後継として登場し、ラジオのエアプレイを獲得した。ラテン・ジャズ[5]やアフロ・キューバン・ジャズなど戦後のジャズも、他のスタイルやジャンルと共に2000年代以降も存在している。

    チャーリー・パーカーらのビバップ[6]や、オーネット・コールマンらのフリー・ジャズのような革新的側面と、フランク・シナトラらの保守的側面、商業主義が混在しながらジャズ音楽は存続してきた。ジャズでは革新的側面が、アメリカにおいては黒人のサブカルチャーと捉えられた。保守的側面が白人富裕層・中流階級寄りの権威主義的な音楽としての一面、また大衆的側面が大衆音楽ポピュラー音楽としても発展した大衆文化の一種だった。ジャズの保守性に関しては、聴き手の一部である白人富裕層が、娯楽に快感を求めるブルジョワジー有閑階級、中流階級であったことも原因していたと考えられる。

    また、ジャズは60年代の公民権運動ヒッピー文化などのカウンターカルチャーとは方向性が異なる、音楽におけるマイノリティー文化で、様式を否定し革新性を追求するものだった。

    詳細

    表参道にあるジャズクラブ、ブルーノート東京の外観。

    「卑猥な意味をもつ」というイギリス古語"jass(ジャス)"によるとする説や、19世紀からアメリカ南部の黒人が使っていた性行為などの性的意味、熱狂や急速なテンポ・リズムを意味するスラングの"jazz(ジャズ)"によるとする説、チャールズというドラム奏者の名がCharles→Chas→Jass→Jazzと転訛したとする説などがある。jassという言葉の意味は様々に変化し、1910年代のシカゴでは「快適」「ごきげん」といった意味のスラングになっていた。前記のような特色をもつ黒人音楽をジャズと称するようになった時期も明らかではない。作曲家のジェリー・ロール・モートンは、1902年に自分のピアノ演奏スタイルをジャズと名付けたといい、後年にジャズの創始者と自称したが、信じる者はいなかった。ジャズと称される以前は、ラグタイムと混同された形でラグタイム・ミュージック、またはラグと呼ばれていた。

    1916年にシカゴで活動していたジョニー・ステイン英語版をリーダーとする白人バンドが、jassということばにヒントを得てバンド名を"Stein's Dixieland Jass Band(ステインのディキシーjassバンド)"とし、これからジャズと称されるようになった、という記録がある。このグループはさらに"Original Dixieland Jass Band(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)"と改名、1917年1月に史上最初のジャズ・レコードを録音したが、そのレコードのラベルには"jass band"と印刷されていた[7]

    詳細・革新的側面

    ジャクソン・ポロックアクション・ペインティングを模した絵画。ジャクソン・ポロックの絵画は、オーネット・コールマンのアルバム『Free Jazz』のジャケットデザインに使用された

    ジャズの歴史においては、革新的な面がジャズミュージシャンたちの原動力として働いていた。西洋クラシック音楽や白人至上主義への対抗、そして自由な音楽性を探求する「前衛」の思想である。それが70年代前半まではムーヴメントとして存在し、新たな演奏スタイルが誕生し、ジャズをより幅広い音楽ジャンルへと変化させていった。その中でも、1940年代後半におけるビバップの誕生は即興演奏の飛躍的発展として、また1950から1960年代におけるビートニクに共感する若者からの支持は革新の原動力になった(ビートニクジャズ喫茶も参照)。ジャズにおけるモダン・ジャズ(後述)、西洋音楽の排除を目指したフリー・ジャズや、ロックとの融合を目指したジャズ・ロックなど、音楽ジャンルや音楽イメージをこえた新たな音楽ジャンルが模索されていった。「多様性」は、ジャズにおいて顕著に表れており、演奏スタイルは多様である。白人・黒人の混合文化はジャズの初期からの傾向でもあるが、1970年代半ばのフュージョン以降は保守的なもになった。

    またフリー・ジャズなどの革新的な面が如実に表れた演奏スタイルにおける音楽イメージは、エネルギッシュで混沌とした印象以外には、もはやこの世の事物では表現することのできない人知を超越した領域に達しているものも多く、大衆性・商業性には結び付きづらい面があり、現在でもジャズの中ではコアな部類として理解されている[8]。しかしながらこういった革新を追い求める姿勢こそが、ジャズを高尚で芸術性の高い音楽ジャンル[9]へとその価値を押し上げた大きな要因でもあり、またこの革新性が存在しなければ、"ジャズは死ぬ(ジャズがジャズではなくなる)"といったような意見もある[10]

    保守的側面・商業主義側面

    保守的(特権的)側面
    禁酒法時代を代表する高級ナイトクラブ、「コットン・クラブ」。デューク・エリントン楽団のジャズライブは当時の白人富裕層やマフィアから人気を博した。
     保守・商業主義の象徴だったフランク・シナトラ。

    1910年代にクラシカルな編成であるビッグバンド(後のスウィング・ジャズ)が誕生すると、それを機にハーレム・ルネサンスの後押しもあってジャズクラブジャズバーニューヨークの各所で開店されていった。しかしコットン・クラブのように、クラブやバーにおける演奏者は黒人でありながらも、顧客は白人の富裕層・中流層が多かった。

    フランク・シナトラ系の商業主義的なエンターテイナーには、トニー・ベネット、ペリー・コモ、ロ-ズマリー・クルーニー、パティ・ペイジらがいた。ジョージ・ガーシュウィンをはじめとして、ベニー・グッドマンスタン・ケントングレン・ミラーギル・エヴァンスビル・エヴァンスなどの白人音楽家による白人ジャズも常に存在した(これがジャズの保守性を強固にした一因という見方もある)。他にも富裕層に関連して「クラシック音楽」や「ジャズ」は年収の上昇とともに「好き」の割合が高くなっていくといった調査結果が出ているが、これは社会的偏見をあおる危険性もある[11]

    ジャズは、メインカルチャーとは異なる都会の黒人独自の洗練された音楽として登場したが、ラグタイムブルースからの音楽性を受け継いだ当初から、大衆音楽としての側面があった。大衆文化に寄り添い、また商業性を意識した音楽性は、1940年代の芸術音楽であるビバップの誕生まで、保守的側面とともにジャズの主要な音楽性として認識された。中でもビッグバンドやスウィング・ジャズは、先述のようにクラブやバーで演奏される富裕層のためのサロン音楽と同時に、ダンスホールで演奏される、若者や労働者のためのダンス・ミュージックとしての役割も担っていた。あるいはヴォーカル・ジャズも同様にして大衆からの人気を博し、ロックやポップスが誕生する以前のポピュラー音楽の一翼を担っていた。ただしそのジャズ・ヴォーカリストたちの方向性については、ポピュラー歌手ビング・クロスビーフランク・シナトラ、アフロアメリカンのビリー・ホリデイエラ・フィッツジェラルドルイ・アームストロングやなどの音楽活動が見られた。

    ジャズは聴衆に「大人」「オシャレ」なイメージを想起させた[12]

    歴史

    1920年代 - 1940年代

    Duke Ellington, 1943年
    Buddy Bolden, 1905年頃
    Art Blakey, 1985年

    ジャズは西洋音楽アフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアルブルース[13]ラグタイム[14]の要素を含み、ルーツは西アフリカ、西サヘルサハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の人種音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。ラグタイムの有名ミュージシャンにはアフロアメリカンのスコット・ジョプリン[15]がいた。ラグタイムは1900年ごろから1920年ごろまで、人気の音楽となった。

    ニューオーリンズが発祥の地[16]とされており、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀初頭には、コルネット奏者の「アフロアメリカン」、バディ・ボールデン[17]がニューオーリンズで人気を博したが、ボールデンは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない[18]

    1917年、ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初のレコードとなる、“Dixie Jass Band One Step”と“Livery Stable Blues”の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表。

    初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けており、ブラス(金管楽器)・リード(木管楽器)・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響に基づく可能性もある。初期は黒人が楽器を買う金がなく、白人が捨てた楽器を拾って演奏することもあった。ジャズが普及していった理由は、ラジオが1920年代末には、かなり多くの家庭に普及し、楽譜を売っていた音楽業界も、蓄音機の発明により、レコード産業へと発展していったことが大きかった。ラグタイムは、後のダンス向きなスウィング・ジャズへと交代していく。アメリカの禁酒法時代(1920-1933年)に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードラジオの普及によって、ダンスミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった[16]第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた[16]

    1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。人気の中心となったのは、デューク・エリントンベニー・グッドマングレン・ミラーカウント・ベイシー[19]トミー・ドーシースタン・ケントンらのスウィング・バンドだった。人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たしたクレオールも媒介役になった[16]。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視されるようになった。ルイ・アームストロングは、ジャズとヴォーカルとの融合において重要な役割を果たした。

    その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求めたり、スウィング・ジャズに反発するミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ[20]等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない[18]。戦前に設立されたアルフレッド・ライオン[21]ブルーノート・レコードは弱小レーベルながら、ジャズの発展に大きく貢献した。

    1950年代 - 1960年代

    1950年代にはチャーリー・パーカー[22]ディジー・ガレスピーセロニアス・モンクらによる「ビバップ」が誕生し、多くの録音を残した。ビバップのコンボは、サックス(アルト、テナーなど)、トランペット、ピアノ、ドラムス、コントラバスで構成される小さなコンボだった。ビバップ・ミュージシャンは、編曲された音楽を演奏するのではなく、通常、リズムセクションの伴奏で作曲のメロディー(ヘッドと呼ばれる)を演奏し、その後、各演奏者がソロを即興で演奏し、最後にメロディーに戻る。

    最も影響力のある、ビバップアーティストの作曲家や演奏家は次のとおり。アルトサックス奏者のチャーリーパーカー。テナーサックス奏者のデクスター・ゴードン、ソニー・ロリンズ。クラリネット奏者バディ・デフランコ、トランペット奏者のファッツ・ナヴァロ、クリフォード・ブラウン、マイルス・デイヴィス、ディジー・ガレスピー。ピアニストのバド・パウエル、セロニアス・モンク。ギタリスト、 チャーリークリスチャン、ジョーパス、ベーシストのカーリー・ラッセル、ドラマーのバディ・リッチ、ケニー・クラーク、マックス・ローチ、アート・ブレイキー。ジャズの全盛期であった1950年代には、クール・ジャズウエストコースト・ジャズハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。ナット・キング・コールメル・トーメ、リー・ワイリー、ペギー・リー[23]らの歌手も、この時期活躍した。

    1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックをジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィス[24]が『死刑台のエレベーター[25](監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』の映画音楽を担当した。1958年には、アメリカ映画私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった[26]

    1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、即興演奏の自由度が増す。一方、オーネット・コールマンアルバート・アイラーサン・ラらは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名から「フリー・ジャズ[27]という言葉が広まっていった[28]。また、ジャズ・ヴォーカルではビリー・ホリディサラ・ヴォーンカーメン・マクレエエラ・フィッツジェラルドニーナ・シモンアニタ・オディ、らも活躍した[29]。白人歌手のヘレン・メリルウテ・レンパーらも人気を集めた。

    1960年代前半には、ブラジル音楽ボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなる。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)をビルボード誌のポップ・チャート1位に送り込み[30]、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、ハンク・モブレーのカバーによる「リカード・ボサノヴァ」が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。カーティス・フラーキャノンボール・アダレイホレス・シルヴァーナット・アダレイラムゼイ・ルイスらを中心としたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、50年代後半から60年代に人気となった。またリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」は大ヒットしすぎたために、ブルー・ノート・レコードが一度倒産状態になるという珍現象も見られた。

    1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギターハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、エレクトリック・ジャズ・アルバム『ビッチェズ・ブリュー』をヒットさせた。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。

    1970年代 - 1980年代

    70年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバーと呼ばれるスタイルに変容していく。この時期に大ヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかく語りき」である。さらには70年代半ばには、フュージョン[31]と呼ばれるスタイルに発展していく。フュージョンのリー・リトナーラリー・カールトンアル・ディ・メオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフ、クルセイダーズ、スパイロ・ジャイラジョージ・ベンソンチャック・マンジョーネグローバー・ワシントン・ジュニアらも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応を受けた。これは商業か芸術かといった、普遍的な問題の表れでもあった。

    1990年代 - 現在

    1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのでは無く多様化が進んでいる。フュージョンの後継とも言えるスムーズ・ジャズがその1つである。ブラッド・メルドーザ・バッド・プラスと共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロックミュージシャンによるジャズ・バージョンの演奏を行なったりしている。90年代に入ってからも前衛的なジャズも伝統的なジャズも継承され演奏されている。

    またハリー・コニック・ジュニア[32]ダイアナ・クラールノラ・ジョーンズカサンドラ・ウィルソンホセ・ジェームスジェイミー・カラムなど、伝統的なジャズとポップスの音楽を組み合わせて人気を博したミュージシャンも登場している。電子楽器やロック由来の楽器をジャズに使用する動きは2000年代に入っても続いている。この流れはパット・メセニージョン・アバークロンビージョン・スコフィールドロバート・グラスパー・エクスペリメント、エスペランサ・スポルディング等に受け継がれている。2010年代になると、ヒップホップファンクの要素が加わったケンドリック・ラマーサンダーキャットのコラボのジャズラップなどが人気となり、カマシ・ワシントンのサックスも注目された。また、様々な音楽要素を融合させ、多数の楽器を使いこなすジェイコブ・コリアーのパフォーマンスも話題となった。

    ジャズメンの来日

    NHK『タモリのジャズスタジオ』においてピーター・バラカン・ブロードキャスターが「ヨーロッパ日本がなければ、アメリカのジャズミュージシャンは生計が立たなかった」と述べた様に、ジャズプレイヤーにとって日本は重要なマーケットで、多くのミュージシャンが来日公演を行なっている。日本にジャズミュージシャンとして初めて来日したアメリカ人は1952年、ベニー・グッドマン楽団で活躍したドラマーのジーン・クルーパである。翌年には、オスカー・ピーターソンベニー・カーターエラ・フィッツジェラルドなどと共にジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)として再来日した(この一座にチャーリー・パーカーが参加し来日する予定もあったが結果的に実現しなかった)。その翌月にはルイ・アームストロングが初来日し公演を行っている。

    ヨーロッパのジャズ

    ヨーロッパではイギリス、フランス、ドイツ、北欧などでもジャズが発展した。イギリスのケニー・ボールの「遥かなるアラモ」、クリス・バーバーの「可愛い花」などはよく知られている。フランスでは「小さな花」のシドニー・ベシェや、後のデクスター・ゴードンらがジャズを演奏した。北欧でもジャズが、盛んに演奏された。しかし、ヨーロッパの一部では、保守層やファシズム政権等で、「黒人音楽」「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。ナチ党に支配されたナチス・ドイツでは、反ジャズが政府の公式な見解となり、「斜めの音楽」(比喩:「変な音楽」)と呼ばれ1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は行われていた。ナチスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた[33]

    ラテン・アメリカのジャズ

    アフロキューバン・ジャズと呼ばれ、ラロ・シフリンらが活躍した。

    アフリカのジャズ

    ダラー・ブランドがいたが、彼のジャズはアメリカのジャズとほぼ同じ音楽性だった。アフロ・ジャズ、アフロ・ディスコは、欧米や日本で考えられている、ジャズ、ディスコとは、サウンドが異なる。

    戦前日本のジャズ

    戦前の日本にすでに渡ってきていた舶来音楽、西洋音楽には、ジャズとタンゴがあった。初期のジャズ演奏家には、紙恭輔、南里文雄、井田一郎らがいた。井田は1923年に日本で初めてのプロのジャズバンドを神戸で結成した[34][35]

    ジャズの聴き手や演奏家には、都会人やブルジョワ階級の子弟が多かった。関西のプロたちが東京に流れた背景には1927年に警察が大阪市内のダンスホールを一斉閉鎖したことも一つの要因だった。当時のレコード業界はポリドール(1927)、ビクター (1927)、コロムビア(1928)と外資系の大手レコード会社が設立された。テイチクは、異業種参入組のキング(大日本雄弁会講談社のレコード会社)より更に遅い1934年だが、その年の12月に発売したディック・ミネの『ダイナ』がヒット。ダイナは最も多くカバーされた日本のジャズソングであり、榎本健一はパロディとしてカバーした。

    最初のジャズソングとされるのが二村定一がジーン・オースチンのマイ・ブルー・ヘブンをカバーした『青空』で、1927年にラジオ放送された。レコードが発売されたのは翌年の1928年。A面が「青空」、B面が「アラビヤの唄」だった。また、ラジオ、レコードで企画を立ち上げる人間も必要になり堀内敬三が登場した。初期のジャズ演奏家である紙恭輔がコロムビアに関わった。

    1930年代のスウィングジャズは、時代の最先端であり、服部良一は1935年当時のデザインの流線型を題材にした「流線型ジャズ」(志村道夫)を世に出した[36]。しかし、1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。

    行政警察を管掌する内務省、映画や音楽を監督指導する情報局はジャズを「敵性音楽」として禁令[37]を出したが、抽象的過ぎて何の曲がジャズに含まれるか、音楽の素人である役人に判別は難しかった。また1943年1月にはジャズレコードの演奏禁止、更にレコードの自発的提出、「治安警察法第十六条」の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図ったが、北村栄治のように自宅でこっそり聴いていた者もいた。最終的には役人に協力する音楽業界の人間が、日本音楽文化協会、いわゆる「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会の決定により、「ジャズの演奏は禁止」となった。こののちジャズメンの活動は各種の慰問団などへシフトしていく。

    戦前に活躍したジャズ・ミュージシャン、ジャズ歌手としては、二村定一服部良一淡谷のり子ディック・ミネ志村道夫南里文雄堀内敬三川畑文子ベティ・稲田、井田一郎、レイモンド・コンデ水島早苗あきれたぼういずらがいた。

    戦後日本のジャズ

    戦後、ジャズ、カントリー、ハワイアンなどのアメリカ音楽が、日本に入ってきた。進駐軍の音楽は、「ベース」で演奏された。戦後の日本のジャズの早い例には、ニュー・パシフィック・ジャズバンドがあげられる。弘田三枝子伊東ゆかりしばたはつみは少女歌手として、米軍キャンプで歌った。

    戦後は、服部良一が作曲したブギウギ笠置シヅ子に歌わせたことから始まる。江利チエミジョージ川口ティーブ釜萢ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国のポピュラー音楽をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである[38]。また、ディキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。

    鈴木章治とリズムエース、北村栄治らも音楽活動を始めた。宮沢昭、守安祥太郎らも活躍した。1956年穐吉敏子が、1962年渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学[39]1963年には松本英彦モントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。八木正生、猪俣猛らも活躍した。

    1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった[40]

    1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行富樫雅彦日野皓正菊地雅章山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里ジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身の原点だと述べる[41]

    1965年、ニューポートジャズフェスティバルに日本人ジャズシンガーとして初めて出演したのは、3日目のトリをビリーテイラートリオと一緒に出演した弘田三枝子だった。

    1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、阿部薫、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン・ブームとなり、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを出すほどだった。中央線沿線を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂プロデューサーが続に中央線ジャズという言葉を提唱した[30]

    21世紀に入ってからも、H ZETTRIO山中千尋矢野沙織寺久保エレナ上原ひろみ国府弘子、西山瞳、菊地成孔小曽根真らが活躍した。

    展開

    洗練された音楽を演奏しながらも、退廃的な生活(ドラッグの使用など)をしていたかつてのジャズメンの一部が、映画などで自滅型の人物像として描写される場合もある[42][43]

    セクシーな女性歌手の系譜では、ヘレン・メリルらがルーツとも見られているが、21世紀の日本のジャズでも、高木里代子らがそれを引き継ぎ、山下毅雄の音楽が、映画のサウンドトラックとして使用されたりする現象も見られた[44][45]。 他の音楽ジャンルにおけるジャズ要素を取り入れた楽曲は、ジャジーと表現されることがある。ジャジーという表現は、ロックやポップス、歌謡曲など、異なるジャンルでも使用される[46]

    主なスタイル/ジャンル

    過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。

    アーティスト

    著名なジャズ評論家

    ジャズが演奏された著名な場所

    著名なジャズクラブ

    • ヴィレッジ・ヴァンガード(1935年 - 、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、モダンジャズを牽引した名店。
    • ミントンズ・プレイハウス(1938年 - 1974年、ニューヨーク)テナーサックス奏者ヘンリー・ミントンが開店。ビバップの発祥の証しとなる「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」1941年でのセッションレコードで有名。2006年再開店。
    • バードランド(1949年 - 1965年、ニューヨーク)マンハッタン地区にあったビバップ・モダンジャズの黄金時代を牽引した名店。1986年再開店。
    • プリザベーション・ホール(1960年代 - 、ニューオーリンズ)ディキシーランド・ニューオーリンズジャズ主体の名店。
    • ブルーノート(1981年 - 、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、世界各国にレストランをチェーン展開。ブルーノート・レコードとは無関係。

    ジャズクラブ以外

    ジャズ喫茶

    ジャズを聴きながら楽しむ喫茶店。日本で1950年代後半から流行り、1970年代から下火となる。

    著名なジャズ・フェスティバル

    三大ジャズ・フェスティバル

    北アメリカ

    ヨーロッパ

    日本

    開催終了

    著名なジャズ教育機関

    ジャズに関するその他の作品・関連メディア

    TV・ラジオ番組

    ジャズ専門衛星放送

    ジャズ専門ネットラジオ局(無償配信)

    ラジオ放送

    映画

    アーティスト伝記物、もしくはストーリー・音楽ともにジャズと関わりの深い作品

    洋画

    伝記物
    記録映画
    フィクション

    邦画

    伝記物
    フィクション
    ジャズの映画音楽/サウンドトラック

    その他

    参考文献

    • 『ジャズの歴史 その誕生からフリー・ジャズまで』 Frank Tirro、音楽之友社、1993年。ISBN 4276232511
    • 『ハーレムの黒人たち』植草甚一、晶文社(2005/5)
    • 『コーヒー一杯のジャズ』植草甚一、 晶文社(2004/12)
    • 『ファンキー・ジャズの勉強』植草甚一、晶文社(2005/6)
    • 『ジャズの十月革命』植草甚一、晶文社(2005/4)
    • 『ジャズは海をわたる』植草甚一、晶文社(2005/7)
    • 『ジャズマガジンを読みながら』植草甚一、晶文社(2005/7)
    • 『ビリー・ホリディ物語』油井正一、大橋巨泉
    • 『ジャズ 進化・解体・再生の歴史』悠雅彦、音楽之友社、1998年。ISBN 4276370787
    • 『新版 ジャズを放つ』細川周平、後藤雅洋、村井康司、寺島靖国、小川隆夫、西島多恵子、山下泰司、黒田京子ほか多数、洋泉社、1997年。ISBN 4896912500
    • 『知ってるようで知らない ジャズおもしろ雑学事典 ~ジャズ100年のこぼれ話~』小川 隆夫、ヤマハミュージックメディア、2001年。ISBN 4636207505
    • 『ニューヨークJazz』小川隆夫、東京キララ社、2002年。ISBN 4380022005

    関連図書

    • 『東アジア流行歌アワー―越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)、貴志俊彦、岩波書店、2013年10月。ISBN 4000291157

    脚注

    1. ^ http://www.simplifyingtheory.com/blues-scale-blue-note/
    2. ^ http://www.redhotjazz.com/bix.html
    3. ^ ニューオーリンズ・ジャズ2021年1月18日閲覧
    4. ^ スウィング・ジャズ2021年1月18日閲覧
    5. ^ 有名な曲にはハンク・モブレーの「リカード・ボサノヴァ」などがある
    6. ^ チャーリー・パーカー バイオグラフィBiography.com 2021年1月14日閲覧
    7. ^ 参考文献:小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』「ジャズ<語源>」(著・青木啓、2018年11月19日)
    8. ^ 「フリー・ジャズ」の誕生と存在意義”. uDiscoverMusic. 2020年9月17日閲覧。
    9. ^ 山下洋輔「魂の音楽 ジャズの魅力」”. KEIO MCC. 2020年9月13日閲覧。
    10. ^ 坂本龍一インタビュー後篇 「音楽に力はあるか」”. WHAT’s IN? tokyo. 2020年9月17日閲覧。
    11. ^ 高収入層は「アイドル」や「アニソン」を聴かない? 転職サイトが「音楽と年収」のアンケート結果を公開”. キャリコネニュース. 2020年9月15日閲覧。
    12. ^ ジャズに関する意識調査①”. ローソンエンターテインメント. 2020年9月12日閲覧。
    13. ^ 戦前のブルース・マンにはロバート・ジョンソン、チャーリー・パットンらがいた。
    14. ^ http://www.allmusic.com/style/ragtime-ma0000004422
    15. ^ 1920年の「メイプルリーフ・ラグ」を作曲。彼の友人が紹介した
    16. ^ a b c d 斎藤真 他(監修)『アメリカを知る事典』(平凡社、1986年)pp. 210-217
    17. ^ http://www.nps.gov/jazz/learn/historyculture/bolden.htm
    18. ^ a b 岩浪洋三『これがジャズ史だ〜その嘘と真実〜』(朔北社、2008年)pp.65-68、291-292
    19. ^ https://www.allmusic.com/artist/count-basie-mn0000127044
    20. ^ http://www.jazzradio.com/bebop
    21. ^ ドイツ人。相棒はフランシス・ウルフ。
    22. ^ http://www.allmusic.com/artist/charlie-parker-mn0000211758
    23. ^ http://www.npr.org/nat-king-cole-the-singer
    24. ^ 表題曲でマイルスはブルージーな即興演奏を披露している
    25. ^ ジャンヌ・モローが出演したサスペンス映画
    26. ^ 相倉久人『新書で入門 ジャズの歴史』(新潮社、2007年)pp.116-127
    27. ^ http://www.allmusic.com/subgenre/free-jazz-ma0000002598
    28. ^ 『フリー・ジャズ』レビュー(All Music Guide)
    29. ^ http://www.discogs.com/Billie-Holiday-Ella-Fitzgerald
    30. ^ a b 『音楽CD検定公式ガイドブック上巻』(音楽出版社、2007年)p.131, 220
    31. ^ http://www.allmusic.com/subgenre/fusion-ma0000002607
    32. ^ Chart Beat, Billboard, April 9, 2009
    33. ^ 田中まり 「第三帝国とジャズ」北陸学院短期大学紀要 32, 237-248, 2000-12-28
    34. ^ ジャズライブKOBE神戸とJAZZ|NHK神戸放送局(2015年8月24日閲覧)
    35. ^ 兵庫県/神戸県民局7月のメッセージ(神戸県民局長平野正幸)(2015年8月24日閲覧)
    36. ^ 流線型ジャズ~特別企画!作曲家・服部良一の世界~第七夜”. たけ平の名曲への招待・昭和編. 2020年12月31日閲覧。
    37. ^ 以下の3つの基準で禁止された。「1).旋律の美しさを失った騒擾的なるリズム音楽。2).余りに扇情的淫蕩的感情を抱かしめる音楽。3).怠惰感を抱かしめる様な退廃的或は亡国的なる音楽」(情報局・内務省共編「出版警察報」138号、1941年7月p64)
    38. ^ みつとみ俊郎 『音楽ジャンルって何だろう』 新潮社〈新潮選書〉、1999年12月25日、p.40
    39. ^ 『jazzLife』(2010年7月号)p.57
    40. ^ 『jazzLife』(2010年7月号)p.55 ファンキー・ブームは世界のいくつかの国で起こり、フランスでのブームが最初。
    41. ^ 『jazzLife』(2010年7月号)p.56, 57 日本のミントンズ・プレイハウスといえるのだという。
    42. ^ タモリ「もともと向上心はないけど、仕事以外は厳しいんです」【滝川クリステル】”. GOETHE. 2020年9月17日閲覧。
    43. ^ 「ジャズだねぇ」タモリのこの独特な言い回しは、はたしてどんなヒトを指すのか?”. citrus. 2020年9月17日閲覧。
    44. ^ ルパン三世×ジャズの魅力 ハードボイルドな世界構築”. NIKKEI STYLE. 2020年9月15日閲覧。
    45. ^ https://news-postseven.com 高木里代子
    46. ^ ジャジー[jazzy](音楽用語辞典)”. ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス. 2020年9月17日閲覧。
    47. ^ 11PMオープニング・テーマ曲の作曲者

    関連項目

    外部リンク