ロジェ・ヴァディム

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ロジェ・ヴァディム
Roger Vadim
ロジェ・ヴァディムRoger Vadim
1971年
本名 Roger Vladimir Plemiannikov
生年月日 1928年1月26日
没年月日 2000年2月11日(満72歳没)
出生地 パリ
国籍 フランスの旗
配偶者 ブリジット・バルドー (1952-57)
アネット・ヴァディム (1958-60)
ジェーン・フォンダ (1965-73)
Catherine Schneider (1975-1977)
マリー=クリスティーヌ・バロー (1990-)

ロジェ・ヴァディムRoger Vadim、本名:Roger Vladimir Plemiannikov1928年1月26日 - 2000年2月11日)は、フランスパリ出身の映画監督映画プロデューサー脚本家作家俳優ジャーナリスト。映画監督としてだけでなく、プレイボーイとしても有名。

生涯[編集]

彼の白ロシア人の父親イゴール・プレミャニコフは、ウクライナからの移民で、同化したフランス人になり、フランスのエジプト副領事にまでなった。9歳で父親が亡くなると母親と共にフランスに帰国した。母親はアルプスの麓に民宿を開業。戦時中はユダヤ人をスイスなどに逃がすための基地としても活用していたという。

ヴァディムは、16歳で舞台俳優としてデビュー。1947年アンドレ・ジッドの紹介でマルク・アレグレMarc Allégret、映画監督)の助手となり、脚本を書き始める(1950年 - 1956年)。また、パリ大学でジャーナリズムを専攻した。

1952年に当時雑誌のモデルをしていた18歳のブリジット・バルドーと結婚。1956年、22歳の妻バルドーを主演に『素直な悪女』で、28歳で映画監督としてデビュー。バルドーは一躍セックス・シンボルとしてスターとなるが、バルドーが共演のジャン=ルイ・トランティニャンと恋に落ちてしまい1957年に離婚。彼女とはその後も『何がなんでも首ったけ』(1961年)などで一緒に仕事をしている。

1958年にはデンマークのツボルグビールの広告モデルだったアネット・ストロイベリと結婚し、アネット・ヴァディムと名づけて『危険な関係』『血とバラ』にも出演させ、娘(ナタリー・ヴァディム、在ハリウッド)をもうけるが2年で離婚。1961年からはカトリーヌ・ドヌーヴと交際して息子クリスチャンを授かり、彼女主演の『悪徳の栄え』を製作・演出するが結婚はしなかった。

1965年にはジェーン・フォンダと結婚し『獲物の分け前』や『バーバレラ』などのフォンダ主演作品を監督するが1973年に離婚。一女あり(ヴァネッサ・ヴァディム)。

1975年に衣装デザイナーと結婚するが数年で離婚(一児あり)。1983年にはドヌーヴとの子クリスチャン・ヴァディムを主演に据えた青春映画『さよなら夏のリセ』を監督している。1990年には女優のマリー=クリスティーヌ・バローと結婚。彼女と1994年北海道夕張市ゆうばり国際ファンタスティック映画祭審査員のため来日した。彼女とはヴァディムがガンで没するまで一緒であった。

著書『我が妻バルドー、ドヌーヴ、J・フォンダ』(吉田暁子訳、中央公論社 1987年)が訳されている。

主な監督作品[編集]

備考[編集]

  • 1950年代後半に流行し始めたアメリカ音楽を流して踊らせる社交場を「ディスコテーク」と名づけたのはヴァディムだと云われている。アネット・ストロイベリに「ナンパ」されたのはその「ディスコ」でのことで、ドヌーヴとの出会いも「ディスコ」でだったと自伝で述懐している[1][2]
  • 1950年代後半から60年代前半までの多くの作品でモード・ジャズを自作品に使用した。日本では「シネ・ジャズ」と呼ばれたムーブメントの牽引者として知られ、アート・ブレイキーによる『危険な関係のブルース』やジョン・ルイスによる『大運河』は特に有名であり[3]、1960年代からのジャズ喫茶ブームと共に語られる代表曲となっている[4]

脚注[編集]

  1. ^ “闇”に自由を見出した、70年代の魔術STUDIO VOICE、2012.06.12
  2. ^ 『我が妻バルドー、ドヌーブ、J・フォンダ』ロジェ・ヴァディム著、中央公論社、1987年
  3. ^ 映像と音楽の相乗効果 ヌーベルヴァーグとシネ・ジャズ日経BP
  4. ^ 『ジャズ喫茶論 戦後の日本文化を歩く』 マイク・モラスキー、筑摩書房、2010年

外部リンク[編集]