ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)
| 福者 ヨハネ・パウロ2世 | |
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| 第264代ローマ教皇 | |
2004年6月、ホワイトハウスで行われた 大統領自由勲章授与式にて。 |
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| 教皇就任 | 1978年10月16日 |
| 教皇離任 | 2005年4月2日 |
| 先代 | ヨハネ・パウロ1世 |
| 次代 | ベネディクト16世 |
| 司祭叙階 | 1946年11月1日 |
| 司教叙階 | 1958年9月28日 |
| 個人情報 | |
| 本名 | カロル・ユゼフ・ヴォイティワ Karol Józef Wojtyła |
| 出生 | 1920年5月18日 |
| 死去 | 2005年4月2日(満84歳没) |
| 埋葬地 | サン・ピエトロ大聖堂 |
| 原国籍 | |
| 親 | 父親 カロル 母親 エミリア |
| 妻 | なし |
| 子 | なし |
| 母校 | アンジェリクム神学大学 |
| 署名 | |
| その他のヨハネ・パウロ | |
福者ヨハネ・パウロ2世(ヨハネ・パウロ2せい、羅:Ioannes Paulus II、英:John Paul II 、伊:Giovanni Paolo II、波: Jan Paweł II、西: Juan Pablo II 1920年5月18日 - 2005年4月2日)はポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位 : 1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ラテン語表記でヨハネス・パウルス2世とも表記される。
本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Józef Wojtyła)。
ハドリアヌス6世(オランダ出身、在位 :1522年 - 1523年)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラブ系教皇。同時に20世紀中最年少で着座した教皇でもある。神秘神学と哲学の2つの博士号を持っていた。
世界平和と戦争反対への呼びかけと、呼びかけだけにとどまらない数々の平和行動の実践、反共産主義と東欧の民主化運動への精神的支援、諸宗教や文化間の対話の呼びかけとその実行、生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示など、宗教の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与えた。特に宗教間の問題に温和な態度で臨み、多くの信者、宗教関係者から尊敬されている。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 教皇位就任まで
カロル・ヴォイティワは1920年、クラクフ近郊のヴァドヴィツェに、父カロル、母エミリアの間に次男として生まれた。父カロルはハプスブルク家の軍隊に仕えたこともある退役軍人であった。
ヴォイティワは若くして、家族の喪失を体験する。8歳で母を、11歳で兄を、さらに20歳で父を失った。当時、ヴォイティワは戦前のクラクフのユダヤ人社会に親しんでいたが、そのことが後に教皇としての姿勢に影響を与えることになる。1939年、19歳のときドイツのポーランド侵攻によってポーランドが占領されたことで、ヴォイティワが学んでいた大学が閉鎖されたため、鉱山や工場で働きながら勉学を続け、同時に地下演劇の俳優、脚本家としても活動していた。
第二次世界大戦中の1943年に、聖職者として生きることを決意したが、神学校の運営が禁止されていたため非合法の地下神学校に入り、1946年11月1日に司祭に叙階された。優秀だったヴォイティワは司教の推薦でローマの教皇庁立アンジェリクム神学大学に送られ、そこで学んだ。1948年には十字架の聖ヨハネの著作における信仰概念についての研究で神学博士号を取得している。また、この年ポーランドへ戻り、クラクフの教区司祭としての職務を果たした。
1953年には、『カトリック倫理をマックス・シェーラーの倫理体系によって基礎づけることの可能性についての評価』と題する学位論文をルブリン・カトリック大学に提出。その後、クラクフのヤギェウォ大学、ルブリン大学神学部で倫理神学を教え、1958年7月4日にピウス12世によってクラクフ教区の補佐司教に任じられ、9月28日に叙階した。38歳であった。
1962年に始まった第2バチカン公会議にはクラクフ司教および神学者として参加。特に重要な2つの公会議文書『信教の自由に関する宣言 (Dignitatis Humanae)』および『現代世界憲章 (Gaudium et spes)』の成立に貢献した。
1964年1月13日、パウロ6世によってクラクフ教区の大司教に任命され、1967年7月26日には同教皇によって枢機卿に親任された。1978年、パウロ6世の死去に伴って新教皇に選出されたのは当時65歳の(教皇としては若い部類に入る)アルビノ・ルチアーニ(ヨハネ・パウロ1世)であった。このコンクラーヴェに参加したヴォイティワは、これでもう次のコンクラーヴェに参加する事はないだろうと思っていた。ところがヨハネ・パウロ1世が在位わずか33日で死去したため、1978年10月に再びコンクラーヴェが行われることになった。こうして生涯2度目のコンクラーヴェに臨んだ58歳のヴォイティワが新教皇に選出された(10月16日に選出され、10月22日に就任した)。
ポーランド人初のローマ教皇の誕生は故郷ポーランドにおいて、ナショナリズムの高揚とソビエト連邦への抵抗心を一層大きくすることになった。このことは1980年の独立自主管理労働組合「連帯」による国内改革への要求へとつながり、ひいては1988年以降のポーランド民主化運動へとつながってゆくことになる。
[編集] 教皇として
ヴォイティワは前教皇の遺志を継ぐ形で「ヨハネ・パウロ2世」という複合名を名乗った。さらに前任者にならって教皇職にまつわる多くの虚礼や前時代的な慣例を廃止した。
ヨハネ・パウロ2世は「旅する教皇」といわれたパウロ6世を遥かに凌ぐスケールで全世界を訪問し、「空飛ぶ教皇(空飛ぶ聖座)」と呼ばれるほどであった。最初の訪問国メキシコを皮切りに、1981年2月23日から26日までの日本訪問を含め、2003年9月に最後の公式訪問国となったスロバキアに到るまでに実に世界100ヶ国以上を訪問している。勉強熱心で、訪問先の言語で簡単な演説をすることでも有名だった。
1981年2月23日のローマ教皇として初の来日時には広島市と長崎市を訪れ、(片言ではあるが)日本語で「戦争は死です」と演説し、核兵器の廃絶を訴えた。
他宗教や他文化との交流にも非常に積極的で、プロテスタント諸派との会合や東方正教会との和解への努力を行い、大きな成果を上げた。また天台宗の大阿闍梨である酒井雄哉とも会っている。1986年には教皇として初めてローマのシナゴーグを訪れるなどユダヤ人への親近感を示し続けたことなどでも知られる。さらに1980年代後半以降の共産圏諸国の民主化運動において、精神的支柱の役割を果たしたともいわれている。
特に、冷戦下で共産主義政権下に置かれていた母国ポーランドの民主化運動には大きな影響を与えている。ポーランドは国民の98%がカトリック信者であり、教皇が着任8ヶ月後に初めての故国訪問をしたが、熱狂的歓迎をもって迎えられた。教皇はワルシャワのユゼフ・ピウスツキ元帥広場に集まった人々に「(共産主義政権を)恐れるな」と訴えた。その4ヶ月後の「独立自主管理労働組合「連帯」」が率いたストライキなどを経て政権は妥協路線を走り始め、1980年代後半には民意に押されて政権が民主路線へ転換している。なおこのような民主化運動への後援の姿勢がソビエト連邦を始めとする東側諸国の政府に脅威を感じさせ、後の暗殺未遂事件(後述)につながったという指摘がある。
他方、従来と同様にローマカトリックにおいて女性の聖職者を認めないなど教義的には保守的なことで知られ、1979年の最初の回勅「レデンプトーリス・オミニス」(『人間のあがない主』)から2003年の「エクレシア・デ・エウカリスティア」(『教会にいのちを与える聖体』)まで多くの回勅や使徒的書簡を精力的に発表している。特に議論を呼んだ1995年の回勅「エヴァンジェリウム・ヴィテ」(『いのちの福音』)では、妊娠中絶や安楽死を「死の文化」であると非難し、「いのちの文化」の必要性を訴えた。また貧困問題・難民や移住者の問題などの社会問題にも真摯な取り組みを見せた。
大聖年でもあった2000年、キリスト教の節目の年にあたっては、キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応、十字軍のムスリムへの行為への反省や、ガリレオ・ガリレイの裁判における名誉回復などを公式に発表している。教皇にとって、対内的には常にカトリック教会において存在する保守派と急進派の対立構造の間のバランスをどのように取っていくか、また対外的には、複雑化する現代社会の諸問題の要請にカトリック教会としてどう答えてゆくかということが常に課題であった。
また1980年代前半には、宗教事業協会(バチカン銀行)の主力取引行であったアンブロシアーノ銀行の破綻やロベルト・カルヴィ暗殺事件、P2事件などの、バチカンを揺るがすスキャンダルにも関わることを余儀なくされたが、前任者が進めようとした宗教事業協会を中心とした汚職構造の改革には消極的であったために、その後現在に至る宗教事業協会の汚職構造の温存を後押しする形になった。
伝説的な初代教皇ペトロを除けば、31年7ヶ月教皇位にあったピウス9世についで歴代2位の26年5ヶ月と2週間という長い治世を誇ったが、晩年はテロの後遺症やパーキンソン症候群など多くの肉体的な苦しみを受けた。
[編集] 死去と葬儀
2005年2月からはインフルエンザと喉頭炎による入退院を繰り返していたが、2005年3月31日以降、感染症によって容体が悪化した。しかし、教皇は入院を拒否し住み慣れた宮殿の居室で療養することを選んだ。教皇の容態悪化のニュースを聞いた信徒たちがサン・ピエトロ広場に集まって祈りを捧げていると、そのことを聞いた教皇は「私はあなたたちと一緒にいる。ありがとう」と語ったといわれる。
2005年4月2日午後9時37分(日本時間:3日午前4時37分)、敗血性ショックにより84歳で死去した。最期の言葉は「アーメン」だったとされていたが、2005年9月17日には最期の言葉が「父なる神の家に行かせてほしい」というポーランド語だったとも報道された。教皇の死去を受けて、世界各地からローマを訪れた信者の数は約500万人に上り、うち約200万人は教皇の故郷であるポーランドからの訪問者であったという。
2005年4月8日に行われた葬儀は、参加人数において史上最大規模のものとなった。厳戒態勢の中で、世界の要人が多数参加し、弔問外交の場にもなった。なお、日本からは川口順子首相補佐官(当時)・元外相が出席した[1]
- コフィー・アナン国連事務総長
- アレクサンデル・クファシニェフスキ ポーランド大統領
- レフ・ヴァウェンサ 元ポーランド大統領
- カルロ・アツェリオ・チャンピ イタリア大統領
- シルヴィオ・ベルルスコーニ イタリア首相
- ジャック・シラク フランス大統領
- ゲアハルト・シュレーダー ドイツ首相
- ウェールズ公チャールズ イギリス皇太子
- トニー・ブレア イギリス首相
- グロリア・アロヨ フィリピン大統領
- 陳水扁 中華民国総統
- モハンマド・セイエド・ハータミー イラン大統領
- アブドラ2世 ヨルダン国王
- ハーミド・カルザイ アフガニスタン大統領
- バッシャール・アル=アサド シリア大統領
- モシェ・カツァブ イスラエル大統領
- ジョージ・W・ブッシュ アメリカ合衆国大統領
- ローラ・ブッシュ アメリカ合衆国大統領夫人
- ジョージ・H・W・ブッシュ 元アメリカ合衆国大統領
- ウィリアム・J・クリントン 元アメリカ合衆国大統領
- ネルソン・マンデラ 南アフリカ元大統領
ヨハネ・パウロ2世の他宗教との対話推進という姿勢を評価して、キリスト教他派(英国聖公会、東方正教会など)やユダヤ教などの聖職者も多数参列した。 カンタベリ-大主教ウィリアムズも参列したが、これはヘンリ-8世によるイングランド国教会創設以来、はじめてのことであった。一般信者も約30万人参列した他、サン・ピエトロ広場に入れなかった信者や一般市民は約200万人にも及び、ローマ市当局は彼らのために大型のディスプレイを路上に設置して葬儀の様子を実況中継する措置を取った。また、参列者によって満室になる宿が続出し、ローマ市当局は野宿する参列者のためにテントを無料で貸し出すなどの緊急措置を取った。
式場で長年対立関係にあったアブドゥッラー2世ヨルダン国王と、カツァブイスラエル大統領が軽い挨拶を交わした光景も見られた。また、中華民国総統陳水扁(当時)が弔問に来たことに対し、同国と対立している上、バチカンとも国交がない中華人民共和国がなぜかバチカンに対して抗議声明を出したという珍事もあった。
葬儀後、ヨハネ・パウロ2世の遺体はサン・ピエトロ大聖堂の地下にある墓地のヨハネ23世の石棺の下の土中に埋葬された。一部の報道によればヨハネ・パウロ2世自身は生前に書いた遺書で、故郷での葬儀と埋葬を希望していたともいわれており、バチカンに埋葬した教皇庁の判断に異議を申し立てる声もある。
[編集] 列福へ
ヨハネ・パウロ2世の後継に就任したベネディクト16世は、2005年5月13日にヨハネ・パウロ2世の列福調査の準備を始め、6月28日には正式に調査を開始した。通常、列福調査は死後5年を待たないと始めることができないが、ヨハネ・パウロ2世は特例として死後まもなくの調査開始となった。
死後丸2年が経過した2007年4月2日にはクラクフでの調査が完了し、資料がバチカンの列聖省へ送付された。以降、同省内での審査の過程においてはヨハネ・パウロ2世は「神のしもべ」の位にあった。
2011年1月14日、ベネティクト16世はヨハネ・パウロ2世を「福者」に認定し、同年5月1日に「列福式」を執り行うと発表し、5月1日にミサが行われた。福者に認定される基準である「奇跡」は、パーキンソン病患者であったフランスの修道女がヨハネ・パウロ2世の死後に祈りを捧げると病気が快方に向かっていったという事例を挙げ、これを「奇跡」と認定した[2]。
[編集] 暗殺未遂事件
[編集] 1981年の事件
1981年5月13日、ヨハネ・パウロ2世はサンピエトロ広場にて、トルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャに銃撃された。銃弾は2発命中し、ヨハネ・パウロ2世は重傷を負ったが、奇跡的に内臓の損傷を免れ、一命を取り留めた。事件当日はファティマの聖母マリア出現の記念日であったため、ヨハネ・パウロ2世は「聖母が弾をそらして下さった」と語っていたという。アジャは逮捕され終身刑が宣告された(その後恩赦され、送還先のトルコで以前に犯した罪により服役)。
2005年2月、教皇自身が著書で犯行は共産党員によると発表。2005年3月、前月証拠書類として東ドイツで発見されていたと親バチカン紙が報道[1]。それによると、事件はKGBが計画し、トドル・ジフコフ率いるブルガリアや東ドイツなどが協力していたという。動機は、当時の社会主義圏における反体制運動の精神的支柱であったローマ教皇の絶大な影響力を排除することと推察される。
1983年のクリスマスの2日後、教皇は狙撃犯人のアジャが収監されている刑務所を訪れた。2人は面会し、短時間の会話を行った。ヨハネ・パウロ2世は「私たちが話したものは、彼と私の間の秘密のままでなければならないでしょう。私は彼を許し、完全に信頼できる兄弟として話しました」と語った。2005年4月に教皇の訃報を聞いたアジャは深い悲しみを覚え、喪に服したことが家族により伝えられている。
2010年1月18日、BBC・ワールドニュースで、アジャがトルコの刑務所から釈放されたことを伝えた。
[編集] 1982年の事件
1982年5月、ポルトガルのファティマを訪れていた際、教皇が進めるバチカン改革に反発していたスペイン人神父に刃物で襲われ、怪我を負った。神父はその場で取り押さえられ、6年半服役した。襲撃事件そのものは知られていたが、教皇が出血を伴う怪我をしていたことは2008年10月15日になって公表された。教皇の元側近であった枢機卿の回顧録を基に製作されたドキュメンタリー映画の中でナレーターを務めた枢機卿自身が明らかにしたとしている。
[編集] ヨハネ・パウロ2世の祈り
| “ |
人間ひとりひとりと諸国の民の母マリアよ、私達をおびやかす悪の力に打ち勝てるようお助け下さい。 |
” |
[編集] その他
- 1984年、青年カトリック信者の年次集会であるワールドユースデーを提唱。
- 1999年、アルバム「アバ・パーテル」でCDデビューした。
- 2003年3月、ヨハネ・パウロ2世名義で詩集「Tryptyk rzymski」を発売。ポーランドで初版30万部がすぐに完売したほか、全世界でベストセラーになった。
- 2006年9月3日、パリのノートルダム大聖堂前の広場に、従来の「ノートルダム前庭」という名称に「ヨハネ・パウロ2世」の名称が功績を称えて追加された。パリ市では、著名人を地名に採用する場合、死去から5年待つのが慣例であるが、この名称追加は例外的である(大聖堂の裏の緑地は「ヨハネ23世小公園」と呼ばれている)。
- 文化放送に自身の半生を元にした「The Choice」というラジオドラマ台本を投稿した事がある。惜しくも採用されなかったものの、現在では貴重な文化財として「日本脚本アーカイブズ」主催の展覧会に展示されている。
- 2011年5月 - ローマ市内のテルミニ駅前にブロンズ像が設置された。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
- ヨハネ・パウロ1世
- ベネディクト16世
- 『超人ポープマン』(ヨハネ・パウロ2世がスーパーヒーローとして転生して悪と戦う漫画)
- ポール・マルチンクス(大司教で教皇就任時の宗教活動協会の総裁。前任者のヨハネ・パウロ1世が更迭を決定していたものの、ヨハネ・パウロ2世はその決定を反故にした)
[編集] 書籍
- 『教皇ヨハネ・パウロ2世の詩』木鎌安雄訳、聖母の騎士社、2004年
[編集] 外部リンク
- バチカン公式サイト - ヨハネ・パウロ2世 (英語)
- カトリック中央協議会 - ヨハネ・パウロ2世
- カトリック中央協議会 - 略歴
- バチカン放送局 - 遺言(概略)
- バチカン放送局 - 遺言(第一部)
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