明治天皇
明治天皇 | |
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即位礼 |
即位礼紫宸殿の儀 1868年10月12日 (慶応4年8月27日) 於 京都御所 |
大嘗祭 |
1871年12月28日 (明治4年11月17日) 於 東京府大嘗宮 |
元号 |
慶応: 1867年2月13日 - 1868年10月23日 明治: 1868年10月23日 - 1912年7月30日 |
時代 |
江戸時代 明治時代 |
摂政 | 二条斉敬 |
征夷大将軍 | 徳川慶喜 |
総裁 | 有栖川宮熾仁親王 |
輔相 | 三条実美・岩倉具視 |
左大臣 | 有栖川宮熾仁親王 |
右大臣 | 三条実美 |
太政大臣 | 三条実美 |
内閣総理大臣 | |
先代 | 孝明天皇 |
次代 | 大正天皇 |
誕生 |
1852年11月3日 (嘉永5年9月22日) 13時頃 日本 山城国 平安京(現:京都)、中山忠能邸 |
崩御 |
1912年(明治45年)7月30日 午前0時43分(59歳没) 日本 東京府東京市麴町区 明治宮殿 |
大喪儀 |
1912年(大正元年)9月13日 於 帝国陸軍青山練兵場 |
陵所 | 伏見桃山陵 |
追号 |
明治天皇 1912年(大正元年)8月27日追号勅定 |
諱 |
睦仁(むつひと) 万延元年9月28日命名 |
称号 | 祐宮(さちのみや) |
印 | 永 |
元服 |
1868年2月8日 (慶応4年1月15日) |
父親 | 孝明天皇 |
母親 | 中山慶子 |
皇后 |
昭憲皇太后(一条美子) 1869年2月9日 (明治元年12月28日)大婚 |
子女 | |
皇嗣 | 皇太子嘉仁親王 |
皇居 |
安政度内裏 青山御所 東京城・皇城・宮城 |
栄典 | 大勲位 |
親署 |
明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日[1])は、日本の第122代天皇(在位: 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや、旧字体:祐󠄀宮)。お印は永(えい)。倒幕および攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。皇族以外の摂政を設置し[注釈 1]、かつ在位中に征夷大将軍がいた最後の天皇。複都制としながらも東京府に皇居を置いた。在位中、国力を伸長させた英明な天皇と謳われ「大帝」と称えられた[2]。皇后とともに和歌も多く残しており、その作品数は93,032首に及ぶ[3]。
生涯
生誕から即位まで
孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃に京都石薬師の中山邸にて生誕。8日目の9月29日に父・孝明天皇から祐宮(さちのみや)という幼名を賜る。安政3年(1856年9月29日)に宮中に移るまで中山邸で育つ。
予定より2年遅れて万延元年閏3月16日(1860年5月6日)、深曽木の儀を行った。7月10日(8月26日)に儲君と定められ、准后・九条夙子の実子とされる。9月28日(11月10日)に親王宣下を受け「睦仁(むつひと)」の諱を賜る。
元治元年7月19日(1864年8月20日)、朝廷に嘆願書を提出するために発砲しつつ御所に近づいている長州藩兵を会津・桑名・薩摩連合軍が撃退した(禁門の変)。その翌日7月20日(8月21日)の夜、宮中に不審者が300人以上侵入するという騒動が起こり、パニックの中で睦仁親王が一時卒倒した。「長州藩に内通した」との嫌疑で外祖父の中山忠能に蟄居処分が下ることとなる。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、父の孝明天皇が崩御すると慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚した。元服前の践祚であったので、立太子礼を経ずに皇位継承をしている。父と同じく中沼了三を信頼し初の侍講にする。
慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服し、同年旧暦3月から閏4月は大阪へ行幸した[4]。同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、内裏(京都御所)にて即位の礼を執り行い即位を内外に宣明する(詳細は明治の即位の礼を参照。大嘗祭は明治4年11月17日〈1871年12月28日〉に東京で挙行)。12月28日、一条美子を皇后に冊立する。
幕末の動乱
践祚から間もなく、薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕論が形成され、幕府と討幕派はそれぞれ朝廷への工作を強めていた。慶応3年10月14日(1867年11月9日)、征夷大将軍・徳川慶喜が討幕の大義名分を消滅させるために大政奉還を奏上した為、翌15日(11月10日)、明治天皇は上奏を勅許し、約680年続いた武家政権に終止符を打った。12月9日(1868年1月3日)、薩摩藩・広島藩・尾張藩・福井藩・土佐藩による政変が発生すると王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言する。慶応4年(1868年)12月11日(1月5日)から始まった戊辰戦争においては、仁和寺宮嘉彰親王に錦旗と節刀を与えて征討大将軍に任命し、旧幕府勢力を鎮圧した。
新時代・明治
この間、慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して「一世一元の制」を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日〈1868年10月23日〉。しかし、改元は慶応4年1月1日〈1868年1月25日〉に遡って適用するとした)。
江戸開城から半年を経た明治元年10月13日(1868年11月26日)、明治天皇は初めて江戸に行幸し同日、江戸を東京に改称し、江戸城を東京城に改称(東京奠都)。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り、崩御まで東京に居住していた。
明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心メンバーを占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの発言権が強大になっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。
他方、明治3年1月3日(1870年2月3日)には、「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)[6] を発して、「神道の国教化(国家神道)」と「天皇の絶対化」を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主と考えていた[2]。
征韓論を勅旨で収める
明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨を出して西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には「国会開設の勅諭」を発して帝国議会(上院:貴族院、下院:衆議院)創設の時期を明示し運動の沈静化を図った。
また士族反乱が激化した際、下野した西郷らが西南戦争を起こして逆賊となり、新政府軍はこれを鎮定した。そしてこれが日本史上最後の内戦となっている。
近代国家の確立
宇多天皇による寛平御遺誡以降、天皇が外国人に直に面会することはなかったが[注釈 2]、明治天皇は外国要人と頻繁に会談している。まず明治2年(1869年)にイギリスの女王ヴィクトリアの第2王子アルフレートがイギリス王族として初めて訪日し会談。明治12年(1879年)にユリシーズ・グラントがアメリカ合衆国大統領経験者として初めて訪日し会談。明治14年(1881年)に、ハワイ国王カラカウアが外国元首としては初めて訪日し会談する。
明治2年(1869年)、直轄領であった蝦夷地を北海道として編入。明治12年(1879年)には琉球王国を廃し沖縄県として併合、奄美群島を正式に大隅国として編入している。
明治15年(1882年)、陸海軍を「天皇の軍隊」と規定するとともに、「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」という軍人としての5つの基本徳目や、軍人の政治不関与を命じた軍人勅諭を発した[8]。
明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、官僚制支配体系の整備と並行して莫大な皇室財産の設定を行った。
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赤坂離宮(1911年〈明治40年〉)
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、当時アジアでは初となる立憲君主制国家確立の基礎となった。翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語(教育ニ関スル勅語)を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、明治天皇はしばしば詔勅を発し調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、明治天皇は宥和に努めた。共和演説事件では文部大臣・尾崎行雄に辞表を提出させた。
世界の列強へ
日本が初めて直面した外国との近代戦争である日清戦争と日露戦争では、明治天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。外交上は1894年(明治27年)の日英通商航海条約、1902年(明治35年)の日英同盟など大国との条約を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。
他方、日露戦争の『宣戦の詔勅』に続いて作成された詔勅草案は、「信教の自由」と「戦争の不幸」を強調していたが、大臣らの署名がないまま公布されなかった[注釈 3]。
日英軍事同盟の締結と日露戦争での働きにより、イギリスの首相アーサー・バルフォアの許可を得、1906年(明治39年)にガーター勲章を授与される[12]。また、日清戦争の勝利により獲得した台湾、日露戦争後は韓国併合による朝鮮領有や満州経営(現在の中国東北部)を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の西洋列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用した。
明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの欧米各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。
崩御
明治天皇が崩御した公式の日時は1912年(明治45年)7月30日午前0時43分であり、同月30日に刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあり[1]、『明治天皇記』でも、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。持病の糖尿病が悪化して尿毒症を併発し、宝算61歳(満59歳)で崩御した。これに伴い、皇太子嘉仁親王が皇位継承し(大正天皇)、第123代天皇として践祚した。
明治天皇は明治45年(1912年)7月11日の東京帝国大学卒業式に出席したが、「気分は悪かった」という。侍医では対応できなくなり、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断した。20日宮内省は天皇が尿毒症で重態と発表した。28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まった。「病や死などの『穢れ』を日常生活に持ち込まない」という宮中の慣習により、また、明治天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典侍)だけであり、仕事柄上、特別に侍医は入れるものの、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、明治天皇は自分の寝室である御内儀で休養することができなくなった。そして、明治天皇の居間であった常の御座所が臨時の病室となった[13]。看護婦も勲五等以上でなくてはいけないので、五位以上の女官が看護した[14]。
7月21日以後、平癒を祈願する市民が終日宮城前に集散した。東京市は天皇に騒音が届かないよう内濠線の電車を徐行し、三宅坂交差点では軌道にボロ布を敷いた。
宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と公表したが、当時宮内書記官であった栗原広太によると、実際の崩御日時は前日の7月29日22時43分である。これは「登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないが、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせ、翌日午前0時43分と定めた」という[15]。
明治天皇の崩御に際してその側にいた皇族の梨本宮妃伊都子も、この間の様子を日記に克明に記している。伊都子の日記によれば、「(伊都子ら皇族は)二十八日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機した。二十九日午後十時半頃、奥(後宮)より、『一同御そばに参れ』と召され伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていた。明治天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしたが時計が10時半を打つ頃には天皇の声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなった。2,3分すると、にわかに天皇が低い声で『オホンオホン』と呼び、皇后が『何にてあらせらるるやら。』と返事をしたが、そのまま音もなく眠るように亡くなった」という。
同年(大正元年)8月27日、追号を明治天皇(めいじてんのう)にすると、大正天皇による勅定がなされた。
世界における明治天皇崩御の受け止め
明治天皇の崩御は、世界各国で報道された。
明治天皇崩御の代表的論調は、望月小太郎が「明治天皇の一年祭」に際して編纂し刊行された『世界に於ける明治天皇』にまとめられた。各国別全28章にわたり20余国からなり、そこには、イギリス、フランス、帝政ドイツ、アメリカ合衆国はもとより、中華民国、イギリス領インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、アメリカ領ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国、在中国外国人の論調まで掲載されている。
日本との軍事同盟を締結し同様に立憲君主制を敷くイギリスは「王朝の臣民として能く日本の君民関係は理解」、革命により王政を廃止し共和制国家となったフランスは「血を以って革命を贖いたる国民なるを以って、神聖なる君主政体と立憲政体の一致とは不可能なる如し想像し、民主主義に重きを措くの先入観あり」、当時は帝政を敷きのちに君主制が崩壊するドイツ、オーストリア=ハンガリーは「深奥なる哲理思想なる国民として多くは、大帝陛下の御治績を科学的分析的に研究」とした。
日露戦争において日本に敗北して、社会主義革命により君主制が崩壊する帝政ロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」、近代史上初の共和制国家としての成立起源を持ち、黒船来航を行い日本が明治維新に至るきっかけを作り、日露戦争の際には両国の講和の仲介役を務めたアメリカ[16]は「其建国の事情を異にし、自ら我が君臣の関係を知らず」さらに、米領フィリピンに対して、共和国でありながら明治天皇のために挽歌をつくり、「祖宗神霊の御加護を失ふ国民は滅亡すべしと謳える如きは最も味ふべき点」と述べ、また南米諸国も共和国であるが、「『我が国体の崇高さ』や『先帝陛下の叡聖』などを『憧憬仰慕』として感心している」と述べた。
崩御後
7月30日、主要新聞は天皇崩御のために9月17日まで全ページを黒枠で囲んだ。
天皇が崩御した当時、天皇の葬儀(大葬)など、その祀り方については、規定は帝室制度取調局が上奏した段階であり、明文化されていなかった(皇室喪儀令や皇室陵墓令が公布されたのは、大正15年)。また、明治年間における天皇・皇室やそれを取り巻く社会の変化があまりにも大きかったため、それまでの先例の単なる踏襲にはならないことが想定され、具体的な式次第などは不明瞭のまま、一連の儀式の準備が始まった[17]。
まず、天皇の陵墓について、崩御当日に阪谷芳郎東京市長が宮内省に天皇陵の造営地として、東京が選定されることの希望を申し入れた。阪谷市長が同日招集された市議会でこの意見を述べると、これに実業家の渋沢栄一ら東京の政財界の名士が賛同し、西園寺首相などに働きかけを行った。しかし8月1日、河村金五郎宮内次官発表により、陵墓造営地は京都府紀伊郡堀内村伏見城址(桃山丘陵)であること、この決定の根拠は天皇の遺志であることが公にされた[18]。9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において明治天皇の大喪の礼が執り行われた。明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して伏見桃山陵に移動、9月14日に埋葬された。
天皇陵の東京造営が叶わなくなると、阪谷らは御陵に替わるものとして、天皇の遺徳をしのぶものを東京に構えることを模索する。天皇崩御の直後、まだ御陵の造営地が発表される前から、天皇、あるいは天皇が統治した「明治」という時代を記念する何らかの施設を設ける意見が多数あり、その中身も神社、銅像、記念門、記念塔、博物館、図書館、美術館、科学院、記念植樹など多岐にわたった[19][注釈 5]。
結果、明治天皇の御霊を祀る神社を東京に創建することとなり、関東一円の複数の候補地からの選定の上で、大正9年(1920年)、明治神宮が東京に鎮座した。また、神宮外苑には聖徳記念絵画館(葬場殿の址地)をはじめ、各種の文化・体育施設が建てられ、神社のほかに立案されていた記念事業の少なくない部分を引き継いでいた。
人柄と影響
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 「明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴」として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、どれほど寒冷な日でも暖房は火鉢1つだけ、暑中も軍服(御服)を着用し続け執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。
- 第九皇女東久邇聡子(稔彦王妃聡子内親王)の証言では、「記憶力が抜群で、書類には必ず目を通した後に朱筆で疑問点を書き入れ、内容を全て暗記して次の書類と相違があると必ず注意し、よく前言との相違で叱責された伊藤博文は『ごまかしが効かない』と困っていた」とある。
- 「日本の残すべき文化は残し、外国の取り入れるべき文化は取り入れる」という態度を示した。
- 乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。蹴鞠も好み、自身でも蹴鞠をし、教えもした。蹴鞠の作法を知る人が少なくなったのを憂い「蹴鞠を保存せよ」との勅命と下賜金でもって明治40年(1907年)5月7日に飛鳥井家の蹴鞠を伝える蹴球保存会を梅渓道善(うめたにみちとう)を初代会長に発足させた。
- 当時の最新の技術であったレコードをよく聴き、唱歌や詩吟、琵琶歌などを好んでいた。機嫌の良い時は琵琶歌を歌っていたが、周囲の証言では「あまり上手ではなかった」とある。
- 奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を自ら進んでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。
- 散髪脱刀令が出された後の明治6年(1873年)3月、明治天皇が西洋風に断髪したことで、国民も同様にする者が増えたという。
- 一方で普段は茶目っ気のある性格で、「皇后や女官達のことを、自分が考えたあだ名で呼んでいた」という。また私生活では、日本酒を好み、夜は女官たちと楽しそうに宴会をすることが多かった。晩年は糖尿病を患い酒量は減退したが、健康のためにそれでもワインなどを飲んでいた。
- 「兵たちと苦楽を共にする」という信念を持っていた。例えば日清戦争で広島大本営に移った際、「暖炉も使わず殺風景な部屋で立って執務を続ける」といった具合であった。こうした態度は、晩年に自身の体調が悪化した後も崩れることがなかった。
- 青年期(とりわけ明治10年代:1877-1886年)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しよう(親政)と積極的であった時期がある。
- 無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14年(1881年)の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になる余り、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞である)。以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、自身も「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に帯刀していた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として名刀の散逸が防がれることとなった。反面、集めるだけでなく試し斬りを好み、数多くの名刀を試し斬りにて損傷させてもいる。
- 明治34年(1901年)に伊藤博文が内閣総理大臣の辞表を提出した時は「卿等は辞表を出せば済むも、朕は辞表は出されず」と述べた。現に、明治22年(1889年)に制定された旧皇室典範と登極令で退位禁止が明文化されていた。
- 「大の写真嫌い」であったことは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネ(お雇い外国人の一人)による肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。しかしながら明治29年(1896年)に、当時の東京府南葛飾郡(現在の東京都墨田区)に存在した水戸徳川家の私邸を訪問した際に、邸内を散策する明治天皇が隠し撮りされた写真が平成29年(2017年)に発見された[22]。また最晩年の明治44年(1911年)、福岡県八女郡下広川村において陸軍軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが生前最後に撮影された姿といわれている。
- 最晩年は、体調も悪く歩行に困難をきたすようになった。天皇自身、身体の衰えに不安を持っていて、「朕が死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「朕が死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いたり、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまい「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴るなど、これまでの壮健な天皇に見られなかったことが起こり、周囲を心配させた[23]。
- 大喪の日には、日露戦争の英雄の一人でのちに明治天皇の勅命で学習院院長を務める陸軍大将乃木希典が妻静子とともに殉死し、社会に波紋を呼ぶこととなった。
- 貧困層に対する医療政策として明治44年(1911年)2月11日、『済生勅語』によって、皇室からの下付金150万円を済生会創設に下付された。
- 諸外国では切手や貨幣に国家元首の肖像が数多く用いられていることから、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが明治天皇の肖像図案を提案したが拒絶された。そのため明治天皇の肖像切手は一度も発行されていなかったが、セルビアで2007年(平成19年)に発行された「セルビア・日本相互関係125年」記念切手の図柄に、関係樹立当時のセルビア国王ミラン1世と、若き明治天皇の肖像(右の画像1枚目)が描かれている[24]。
- 日露戦争で勝利した日本に列強支配打倒の希望を持った一部のイスラム教徒により、明治天皇カリフ化計画が「イジュティハート」誌上の論文にて主張された。イランからはタバタバーイーらの立憲派学者が明治天皇に電報を打ち、イスラム社会への保護と支援を求めた[25]。
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凱旋観兵式 小林万吾筆
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枢密院憲法会議 五姓田芳柳(二代)筆
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山形秋田巡幸鉱山御覧 五味清吉筆
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観菊会 中沢弘光筆
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憲法発布式 和田英作筆
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広島大本営軍務親裁 南薫造筆
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聖徳記念絵画館(東京都新宿区)
著名な御製
明治天皇は和歌を好み、多くの御製(読み:ぎょせい、天皇の自作和歌)を遺している。その数は、九万三千首余り[26] [注釈 6] といわれる。
よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな
よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ
しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける
わが國は 神のすゑなり 神まつる 昔の手ぶり 忘るなよゆめ
目に見えぬ 神にむかひて はぢざるは 人の心の まことなりけり
系譜
父は孝明天皇、母(生母)は中山慶子。父・孝明天皇の女御・九条夙子(英照皇太后)を「実母」と公称した。その姪で、息子・大正天皇の后でもある九条節子(貞明皇后)は義理の従兄妹でもある。乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良くない」として1年余りで「木村らい」に変わり乳児期を過ごす。
明治天皇の系譜 |
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系図
114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
115 桜町天皇 | 典仁親王 (慶光天皇) | 倫子女王 | 鷹司輔平 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
117 後桜町天皇 | 116 桃園天皇 | 美仁親王 | 119 光格天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118 後桃園天皇 | 120 仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桂宮淑子内親王 | 121 孝明天皇 | 和宮親子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914) | |||||||||||||||
子女無し | |||||||||||||||
葉室光子 (1853-1873) | |||||||||||||||
稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 ) | |||||||||||||||
橋本夏子 (1856-1873) | |||||||||||||||
稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 ) | |||||||||||||||
明治天皇(第122代天皇) | |||||||||||||||
梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 ) | |||||||||||||||
建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 ) | |||||||||||||||
明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇) | |||||||||||||||
柳原愛子 (1855-1943) | |||||||||||||||
滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 ) | |||||||||||||||
増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 ) | |||||||||||||||
千種任子 (1856-1944) | |||||||||||||||
久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 ) | |||||||||||||||
昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 ) | |||||||||||||||
常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女子/第十子) | |||||||||||||||
竹田宮恒久王 | |||||||||||||||
周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女子/第十一子) | |||||||||||||||
北白川宮成久王 | |||||||||||||||
富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女子/第十二子) | |||||||||||||||
朝香宮鳩彦王 | |||||||||||||||
満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇男子/第十三子・夭折 ) | |||||||||||||||
泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女子/第十四子) | |||||||||||||||
東久邇宮稔彦王 | |||||||||||||||
貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女子/第十五子・夭折) | |||||||||||||||
園祥子 (1867-1947) | |||||||||||||||
以下、明治天皇の皇子女で成人した5人(1男4女)。
御称号及び諱・身位 | 読み | 生年月日 | 没年月日 | 続柄 | 生母 | 備考 | |
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明宮嘉仁親王 | はるのみや よしひと | 1879年〈明治12年〉 8月31日 |
1926年〈大正15年〉 12月26日(満47歳没) |
第三皇男子 (第5子) |
柳原愛子 |
九条節子と結婚 (→皇太子妃→皇后→皇太后) 大正天皇(第123代天皇) 1912年(明治45年/大正元年) 7月30日: 父である明治天皇の崩御に伴い、 即位(皇位継承:践祚)。 子女:4男(4人)。 | |
常宮昌子内親王 | つねのみや まさこ | 1888年〈明治21年〉 9月30日 |
1940年〈昭和15年〉 3月8日(満51歳没) |
第六皇女子 (第10子) |
園祥子 |
竹田宮恒久王と結婚 恒久王妃昌子内親王 (つねひさおうひ-) 子女:1男1女(2人)。 | |
周宮房子内親王 | かねのみや ふさこ | 1890年〈明治23年〉 1月28日 |
1974年〈昭和49年〉 8月11日(満84歳没) |
第七皇女子 (第11子) |
園祥子 |
北白川宮成久王と結婚 成久王妃房子内親王 (なるひさおうひ-) 皇籍離脱後:北白川房子 (きたしらかわ-) 子女:1男3女(4人)。 | |
富美宮允子内親王 | ふみのみや のぶこ | 1891年〈明治24年〉 8月7日 |
1933年〈昭和8年〉 11月3日(満42歳没) |
第八皇女子 (第12子) |
園祥子 |
朝香宮鳩彦王と結婚 鳩彦王妃允子内親王 (やすひこおうひ-) 子女:2男2女(4人)。 | |
泰宮聡子内親王 | やすのみや としこ | 1896年〈明治29年〉 5月11日 |
1978年〈昭和53年〉 3月5日(満81歳没) |
第九皇女子 (第14子) |
園祥子 |
東久邇宮稔彦王と結婚 稔彦王妃聡子内親王 (なるひこおうひ-) 皇籍離脱後:東久邇聡子 (ひがしくに-) 子女:4男(4人)。 |
栄典
日本
外国
- オーストリア=ハンガリー帝国:聖シュテファン勲章大十字章(1881年5月16日)[27]
- ベルギー:レオポルド勲章大綬章(1880年11月20日)[27]
- デンマーク:エレファント勲章騎士(1887年5月18日)[27]
- フランス共和国:レジオンドヌール勲章大十字章(1883年3月20日)[27]
- ドイツ帝国:
- プロイセン:黒鷲勲章頸飾(1895年6月10日)[27]
- バイエルン王国:聖フーベルトゥス勲章騎士(1895年6月10日)[27]
- ブラウンシュヴァイク公国:ハインリヒ獅子勲章大十字章(1907年6月18日)[27]
- ザクセン=コーブルク=ゴータ公国:ザクセン=エルンスト勲章大十字章(1872年10月31日)[27]
- メクレンブルク:ヴェンド人の王冠勲章頸飾付大十字章(1885年2月2日)[27]
- ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国:白鷹勲章大十字章(1882年12月27日)[27]
- ヴュルテンベルク王国:ヴュルテンベルク王冠勲章大十字章(1896年12月23日)[27]
- ギリシャ王国:救い主勲章大十字章(1891年5月13日)[27]
- ハワイ王国:カメハメハ勲章頸飾付大十字章(1881年3月15日)[28]
- イタリア王国:
- 聖アヌンツィアータ騎士団騎士(1879年7月26日)[29]
- 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章大十字章(1879年7月26日)
- イタリア王冠勲章大十字章(1879年7月26日)
- 大韓帝国:大勲位金尺大綬章(1900年9月5日)[27]
- モンテネグロ公国:ダニーロ1世勲章大十字章(1885年2月18日)[27]
- オランダ:ネーデルラント獅子勲章大十字章(1881年7月26日)[27]
- オスマン帝国:イムティヤ-ズ勲章(1890年6月13日)[27]
- ポルトガル王国:キリスト・聖ベントのアヴィス及び聖ヤコブ帯剣勲章大十字章(1904年4月16日)[27]
- 清:頭等第一雙龍宝星(1898年12月20日)[27]
- ロシア帝国:聖アンドレイ勲章騎士(1879年9月5日)[27]
- スペイン王国:金羊毛騎士団騎士(1884年3月4日)[27]
- シャム:大チャクリー勲章騎士(1887年12月22日)[30]
- スウェーデン=ノルウェー:セラフィム勲章騎士(1882年4月20日)[27]
- イギリス:ガーター勲章騎士(1906年2月20日)[27]
元号・追号
在位中の元号は、慶応と明治である。1912年(大正元年)8月27日、在位期間の元号から採って、「明治天皇(めいじてんのう)」と追号された(大正天皇勅定)。
明治天皇の在位時代から、一人の天皇在位中に元号を改変せず(「一世一元の制」のちに「元号法」)、またその元号を追号とする事が慣例となったため、(大正天皇、昭和天皇)以後、諡(おくりな)を持つ天皇はいない(追号も諡号の一種とする説もあるが[要出典]、厳密には異なる)。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により桃山陵墓地にある伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)に治定(京都府京都市伏見区桃山町)されている。宮内庁上の形式は上円下方[31]。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇である。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族と共にその御霊は祀られている。
大正9年(1920年)、明治神宮の造営に伴い御祭神として祀られた。その後、関東神宮(在関東州・廃社)、また朝鮮神宮(在ソウル・廃社)などの海外神社に多く祀られた。戦後、北海道神宮(在札幌)にも合祀された。
著書
明治天皇の御製(和歌)の総数は93,032首あり、その全てを収めたものを「御全集」と称する。御全集157冊(昭憲皇后御歌集47冊を含む)全部は宮内庁侍従職に保管されていた[32]。
明治天皇を主題とした主な作品
小説
映画
- 明治天皇と日露大戦争(新東宝、1957年、演:嵐寛寿郎)
- 天皇・皇后と日清戦争(新東宝、1958年、演:嵐寛寿郎)
- 明治大帝と乃木将軍(新東宝、1959年、演:嵐寛寿郎)
- 明治大帝御一代記(大蔵映画、1964年、演:嵐寛寿郎)※上記の再編集版
- 日本海大海戦(東宝、演:松本幸四郎、1969年)
- 二百三高地(東映、1980年、演:三船敏郎)
- ラスト サムライ(ワーナー・ブラザース、2003年、演:中村七之助)
テレビドラマ
- 明治天皇 第一部(よみうりテレビ、1966年、演:17代目市村羽左衛門。青年時代は石倉英彦が演じた[35]。)
- 明治天皇 第二部(よみうりテレビ、1967年、演:13代目片岡仁左衛門)
- 二百三高地 愛は死にますか(TBS、1981年、演:6代目市川染五郎)
- 走向共和(CCTV(中国)、2003年、演:矢野浩二)
- 坂の上の雲(NHKスペシャルドラマ、2009年、演:5代目尾上菊之助)
- 西郷どん(NHK大河ドラマ、2018年、演:野村万之丞)
脚注
注釈
- ^ 王政復古の大号令により摂政と関白制度は廃止されたが、のち皇族に限り摂政は復活した(実際に皇太子裕仁親王〈のちの昭和天皇〉は大正天皇の摂政宮となっている:1921-1926年/大正10-15年)。
- ^ 宇多はかつて唐人に面会したことを悔いていて醍醐天皇に「外国人に『直(ぢき)に対(むか)ふべからざらくのみ』」(面会する場合は御簾ごしに会うべき)」と述べている。後白河法皇は譲位後に宋人に御簾無しで面会したが九条兼実は「天魔の所為」と述べている(高橋昌明、「平清盛の対中国外交と大輪田泊」『海港都市研究』 2007年 2巻 p.27-39, doi:10.24546/80030016, NAID 110006386886, 神戸大学文学部 海港都市研究センター
- ^ 堅田によればドイツ法制を日本に導入するほぼ唯一の窓口は国策機関の独逸学協会(会員に大蔵大臣で日本赤十字社社長の松方正義、ロエスレル、レーマンら)であり、同団体の影響も考えられる。
- ^ 創設期の陸軍野戦砲兵学校の教官であった。
- ^ これらの案は、5年後に迫っていた天皇即位50年記念事業の候補として取りざたされていたものであり、これを転用したものが少なくなかった[20]。
- ^ 宮内庁、明治神宮とも九万三千首余りと記しているのは、異動があった際に記述を変更しないようにとの配慮か。
出典
- ^ a b 『官報』号外、明治45年7月30日、p.3
- ^ a b 百科事典マイペディア『明治天皇』 - コトバンク
- ^ “明治天皇の御聖徳|明治神宮”. www.meijijingu.or.jp. 2022年7月4日閲覧。
- ^ 『御親征 行幸中 行在所日誌(ごしんせい ぎょうこうちゅう あんざいしょにっし)』 1-7巻、国立国会図書館 。
- ^ 『明治天皇の大日本帝国』、講談社、2011年、119〜120頁
- ^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ
- ^ 『明治天皇の大日本帝国』、講談社、2011年、119頁
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク)
- ^ 明治天皇 自然な姿.中国新聞.2017-01-21,朝刊,16判
- ^ 『天皇四代の肖像』、毎日新聞社、1999年
- ^ 藤樫(1965) p.192
- ^ #ミットフォード。
- ^ 米窪明美『明治宮殿のさんざめき』216項(文藝春秋、2011年)
- ^ 林栄子『近代医学の先駆者 三浦謹之助 明治天皇・大正天皇のお医者さん』166-176頁、(叢文社、2011年)
- ^ 栗原広太『人間明治天皇』1953年、p102-103。
- ^ アメリカ人のお雇い外国人・ウィリアム・グリフィスによる明治天皇伝『ミカド 日本の内なる力』(亀井俊介訳、新版・岩波文庫、1995年)がある。
- ^ 山口, pp. 32–34.
- ^ 山口, pp. 44–47.
- ^ 山口, pp. 36–37.
- ^ 山口, pp. 38–39.
- ^ 坂本一登『伊藤博文と明治国家形成-「宮中」の制度化と立憲制の導入-』(吉川弘文館、1991年) ISBN 464203630X
- ^ “隠し撮り?44歳の明治天皇を撮影した貴重な一枚”. 産経ニュース. 産業経済新聞社. (2017年1月21日) 2017年1月21日閲覧。
- ^ 保坂正康『崩御と即位』(新潮文庫、2011年)
- ^ 両者の肖像が描かれた記念切手
- ^ 西尾 幹二 『新・地球日本史〈1〉明治中期から第二次世界大戦まで』 (産経新聞ニュースサービス、2005年)
- ^ 『類纂新輯明治天皇御集』 明治神宮、1990年。九万三千三十二首と記載している。うち八千九百三十六首謹撰.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 刑部芳則『明治時代の勲章外交儀礼』明治聖徳記念学会紀要、2017年、152頁 。
- ^ Greer, Richard A (1971). Royal Tourist-Kalakaua's Letters Home from Tokio to London. 5. Honolulu, Hawaiian Historical Society. pp. 76-77 .
- ^ Italia : Ministero dell'interno (1900). Calendario generale del Regno d'Italia. Unione tipografico-editrice. p. 54
- ^ “พระราชสาสนไปญี่ปุ่น” (タイ語). Royal Thai Government Gazette. (30 December 1887) 8 May 2019閲覧。.
- ^ “-天皇陵-明治天皇 伏見桃山陵(めいじてんのう ふしみのももやまのみささぎ)”. www.kunaicho.go.jp. 2018年5月3日閲覧。
- ^ a b 明治神宮 (1990) 後記。
- ^ 上中下巻本奥付、活字本奥付。
- ^ 「類纂新輯明治天皇御集 」国立国会図書館サーチ、書誌詳細、2019年8月19日閲覧。
- ^ 『福島民報』1966年2月19日付朝刊10面 「私のりれき書・矢車剣之助でデビュー 石倉英彦」
参考文献
- 宮内省臨時帝室編修局 編修『明治天皇紀』(全13冊、吉川弘文館、1968年~1977年)- 明治天皇百年祭記念出版
- 第1冊 嘉永5年から明治元年まで ISBN 4642035214
- 第2冊 明治2年から明治5年まで ISBN 4642035222
- 第3冊 明治6年から明治9年まで ISBN 4642035230
- 第4冊 明治10年から明治12年まで ISBN 4642035249
- 第5冊 明治13年から明治15年まで ISBN 4642035257
- 第6冊 明治16年から明治20年まで ISBN 4642035265
- 第7冊 明治21年から明治24年まで ISBN 4642035273
- 第8冊 明治25年から明治28年まで ISBN 4642035281
- 第9冊 明治29年から明治33年まで ISBN 464203529X
- 第10冊 明治34年から明治37年まで ISBN 4642035303
- 第11冊 明治38年から明治40年まで ISBN 4642035311
- 第12冊 明治41年から明治45年まで ISBN 464203532X
- 索引 ISBN 4642035338
- 『明治天皇とその時代 『明治天皇紀附図』を読む』(明治神宮監修・米田雄介編、吉川弘文館、2012年7月)
- 五姓田芳柳による関連絵画を収録。
- アルジャーノン・ミットフォード『The Garter Mission to Japan』(日本行きガーター勲章使節団)、マクミラン出版社、1906年。
- 『英国貴族の見た明治日本』長岡祥三訳、新人物往来社、1986年
- 『ミットフォード日本日記 英国貴族の見た明治』長岡祥三訳、講談社学術文庫、2001年
- 『英国貴族の見た明治日本』長岡祥三訳、新人物往来社、1986年
- 『臨時帝室編修局史料 「明治天皇紀」談話記録集成』(全9冊組、ゆまに書房、2003年) ISBN 484330901X
- ドナルド・キーン『明治天皇』(角地幸男訳、新潮社(上・下)、2001年)
- 新版『ドナルド・キーン著作集 第14・15・16巻 明治天皇』(新潮社、2016年)
- 飛鳥井雅道『明治大帝』(講談社学術文庫、2002年) ISBN 4061595709
- 笠原英彦『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』(中公新書、2006年) ISBN 4121018494
- 伊藤之雄『明治天皇 むら雲を吹く秋風にはれそめて』(ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2006年) ISBN 4623047199
- 米窪明美『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』(新潮新書、2006年) ISBN 410610170X
- 米窪明美『明治宮殿のさんざめき』 文藝春秋、2011年/文春文庫、2013年
- 中山和芳 『ミカドの外交儀礼 明治天皇の時代』(朝日選書、2007年)
- ジョン・ブリーン 『儀礼と権力 天皇の明治維新』(平凡社選書、2011年)
- 松本健一 『明治天皇という人』(毎日新聞社、2010年)ISBN 4620322172
- 坂本一登 『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入』(吉川弘文館、1991年) ISBN 464203630X
- 堅田剛『独逸学協会と明治法制』 木鐸社、1999年。
- 『類纂新輯 明治天皇御集』明治神宮、1990年。
- 西尾幹二 『新・地球日本史〈1〉明治中期から第二次世界大戦まで』(産経新聞ニュースサービス、2005年) ISBN 4594048935
- 山口輝臣『明治神宮の出現』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2005年2月。ISBN 4-642-05585-1。
関連項目
外部リンク
- 国柄探訪:変革の指導者・明治天皇
- 明治天皇 - NHK for School
- 『明治天皇』 - コトバンク
- ウィキソースには、明治天皇崩御の告示の原文があります。
- ウィキクォートには、明治天皇に関する引用句があります。
- ウィキメディア・コモンズには、明治天皇 (カテゴリ)に関するメディアがあります。
明治天皇
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日本の皇室 | ||
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先代 孝明天皇 (統仁) |
皇位 第122代天皇 1867年2月13日 - 1912年7月30日 慶応3年1月9日 - 明治45年/大正元年7月30日 |
次代 大正天皇 (嘉仁) |