石井琢朗
広島東洋カープ コーチ #75 | |
---|---|
2009年9月19日、阪神甲子園球場にて | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県佐野市 |
生年月日 | 1970年8月25日(53歳) |
身長 体重 |
174 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 遊撃手、三塁手、二塁手 |
プロ入り | 1988年 ドラフト外 |
初出場 | 1989年4月13日 |
最終出場 | 2012年10月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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石井 琢朗(いしい たくろう、本名:石井 忠徳(いしい ただのり)、1970年8月25日 - )は、栃木県佐野市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)。現在は広島東洋カープ一軍打撃コーチ。
2012年夏現在、遊撃手での日本プロ野球史上最多試合出場記録(1765試合)を持つ[1]。
経歴
プロ入り前
小学校3年生から野球を始め、クラス文集に「巨人にドラフト一位で入りたい。」と記す[2]。プロへ進むには強豪高に入って甲子園に出場することが近道と考え[3]、栃木県立足利工業高等学校に進学。1年時から背番号1を背負い[4]、2年時に夏の甲子園に投手として出場した[2]。
高校2年時、佐野日本大学高等学校の投手を見に来ていたスカウトの江尻亮が、練習試合の相手投手であった石井の投球を見て、球の切れと速さに惚れ込んだ[2]。高校3年時のドラフト会議では東洋大学への進学が決まっていたため[3][5]どの球団からも指名されなかったが、半ば強引な形で1988年、ドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団[5]
大洋・横浜時代
高卒1年目の1989年4月13日、広島東洋カープ戦で一軍初登板。同年10月10日のヤクルトスワローズ戦で初先発初勝利を挙げる[6][5]。首脳陣からは「桑田二世」などと評価され、投手として将来を嘱望されたが[7][5]、二軍では好投するものの一軍で結果を残せず、また本人も篠塚和典にあこがれるなどプロ入り当初から野手志望であり、3年目のオフに須藤豊監督に野手転向を申し出る。もともと須藤も石井を野手として評価しており、投手不足という事情さえなければ最初から野手転向させたい意向を持っていた。しかしこの時に石井は「(投手は)もう限界です」と発言。その言葉が気に入らなかった須藤を「何が限界だ、その程度で限界ならもう野球をやめろ!」と一度は拒絶されたものの最終的には認められた[8][3][5]。
1992年から内野手として登録され、同時に登録名を本名の石井忠徳から石井琢朗に変更。シーズン後半には野手転向1年目にして清水義之から三塁手の定位置を奪った。
1993年、チーム名が横浜ベイスターズに変更されたのを機に背番号を0に変更。当初は進藤達哉と遊撃手のポジションを争っていたがやがて遊撃は進藤に固定され、自身は三塁を守っていた高木豊を一塁に追いやる形で「2番・三塁手」としてレギュラーを獲得し、初めて規定打席に到達。盗塁王とゴールデングラブ賞三塁手部門のタイトルを獲得した。ゴールデングラブ賞は以後、1995年まで3年連続で受賞することとなる。
1994年には背番号を5に変更。主に2番打者として出場し、フル出場を果たす。1995年は日替わりで1、2番を打ち、初の打率三割を記録した。同年のオールスターゲームに初出場。
1996年、新監督に就任した大矢明彦の意向により、遊撃手に転向した。慣れない守備に意識を奪われたためか前年より打撃成績を落とすも、中盤より1番打者に定着。タイトルこそ獲得できなかったが生涯唯一の40盗塁越えを記録した。
1997年は2番打者・波留敏夫との1、2番コンビが定着。2度目のオールスター出場を果たし、この年以降オールスターには5年連続して出場することになった。自身二度目の打率三割を記録し、初めてベストナインを遊撃手部門で獲得する。
1998年、選手会長に就任。マシンガン打線の1番打者としてチーム38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献した。初の最多安打と2度目の盗塁王のタイトルを獲得し、遊撃手としては自身初めてとなる、通算では4度目のゴールデングラブ賞を受賞。同年の日本シリーズでは優秀選手に選ばれた。103得点を記録し、松井秀喜と並んで球団創設以来初となる最多得点を獲得する。
1999年には通算1000本安打、1000試合達成、200盗塁達成。このうち、7月15日の阪神タイガース戦で記録した1000本安打は、勝利投手の経験がある選手として史上10人目の記録であった[9]。ロバート・ローズが1試合10打点を記録した7月22日のヤクルト戦で、1試合最多得点のセントラル・リーグ新記録となる6得点を記録。自身初の一試合2本塁打も記録した。
2000年は盗塁王を獲得した。
2001年には2度目の最多安打を記録するなど安定した成績を残し、遊撃手として1997年から5年連続でベストナインを受賞した。
2002年は140試合に出場したものの打率は8年ぶりに2割8分を下回った。
2003年は1992年以来の100安打未達を記録。打率.231は野手転向後では最悪の数字となった。スターティングメンバーから外された際には、野手転向時のようにゼロからやり直すつもりで自ら二軍落ちを志願した[3]。
2004年は2001年と同じ打率.295の成績を残し、3度目の2桁本塁打も達成するなど復活を果たした。
だが2005年は、全146試合に1番ショートでスタメン起用されフルイニング出場を果たすものの、打率は.255に落ち込むなど再び低迷した。
2006年5月11日、楽天戦の第1打席で愛敬尚史から中前打を放ち、史上34人目の2000本安打を達成。栃木県出身では初であり唯一。名球会入りを果たす[10]。投手として勝ち星を挙げた選手としては川上哲治以来史上2人目、またドラフト外での入団選手としては秋山幸二以来2人目の達成となり[3]、現在ではドラフト外入団選手で最多安打記録保持者となっている。その後、8月12日のヤクルト戦で、石川雅規から安打を放ち、松原誠の持つ球団安打記録2081本を塗り替えた。この年は打順こそ2番、3番打者として起用された試合もあったが、2年連続で全146試合フルイニングに出場。最終的には自己最多タイの174安打を放ち、打率も2割8分台に乗せるなど再び復調を果たした。
2007年は前年オフに膝を手術したこともあり、この年監督に復帰した大矢明彦は石井を無理せず休ませると公言。4月1日の巨人戦の6回の守備で石川雄洋と交代し、連続フルイニング出場記録が当時の現役選手では金本知憲に続く2位の339試合で途切れた。また、巨人から移籍した仁志敏久が1番打者に入ったことで、石井は2番打者を打つことが多くなる。9月5日、阪神戦(阪神甲子園球場)の第一打席で死球を受け、右手首を骨折。9月中に戦列復帰を果たすが安打数は99安打に止まり、4年連続・通算14度目のシーズン100安打達成はならなかった。
2008年は開幕戦から再び1番打者で起用されたが、成績が芳しくなかったため5月頃からは7番~9番打者で起用されることが多くなった。同年夏に開催された北京オリンピックの野球日本代表にチームの正三塁手だった村田修一が選出。村田がいない間、若手の石川雄洋が三塁手に定着したが、最下位を独走するチーム状況を鑑みた大矢監督の若手起用の方針もあり、村田復帰後も石川は遊撃手にコンバートされ、石井はスタメンでの出場が激減した。そして同年シーズン終了間近に球団から引退勧告を受ける。石井は勧告を拒否し、現役続行を希望して球団に自由契約を申し出た。国内外を問わず移籍先を探していたが、11月12日、広島が石井獲得を発表した[11]。2008年11月29日、自費で横浜スタジアムを借り切り、ファンへの感謝を表すイベントを開催した。主催者発表によるとファン3500人が参加し、オークションではユニフォームが20万円以上の値で落札された。石井は「これを区切りにして、広島で優勝できるよう頑張りたい」とコメントした。
広島時代
広島1年目の2009年は開幕一軍でスタート。本職の遊撃手の他に守備固めでの三塁手起用もされる[11]。横浜時代の応援歌が親しみやすく人気があったため、横浜応援団の計らいもありカープへの移籍後も広島応援団が引き続き使用した。7月4日の横浜戦にて、横浜スタジアムで通算100本塁打達成。2202試合目での達成は出場試合数で史上最遅の記録であった(従来の記録は東映・毒島章一の1773試合。またプロ在籍年数ではヤクルト・八重樫幸雄と並ぶ21年目で、最遅タイ)。移籍後の横浜スタジアムでの試合では、石井が打席に立つ際に横浜ファンも応援に参加し、球場全体から大声援が送られるという光景が見られ、100号本塁打達成時は両スタンドから賞賛の拍手と歓声が送られた。7月17日の横浜戦では、吉田義男(阪神)を抜き日本歴代最多となる遊撃手としての通算1731試合出場を達成。シーズン前半は梵英心、後半は小窪哲也と併用され出場試合数と打撃成績は前年を下回ったが、一年を通して一軍でプレーした。
2010年も年間を通して一軍に定着。スタメン出場は少ないものの打率は3割を超えた。この年の契約更改では200万円アップの年俸2700万円(推定)で契約し、広島移籍後は2年連続で年俸アップを勝ち取った。
2011年は前年より成績を落としたが、引き続き存在感を見せた。シーズンオフに右膝のクリーニング手術を受ける。オフの契約更改では2012年から一軍野手コーチを兼任することが発表された。
2012年は、一軍コーチ兼任選手として開幕からベンチに入り、6月まで代打を中心に試合に出場。7月9日に選手登録を抹消され、コーチ専任となって一軍に帯同していたが、8月27日記者会見を開き、2012年シーズン限りでの現役引退を表明した[12]。同年シーズン本拠地最終戦の9月30日の対阪神戦(マツダスタジアム)、引退試合として1番・遊撃手で先発出場。現役最後の安打を含む2安打を放つ[13]。その後も一軍登録は抹消されずに10月7日の対ヤクルト戦(神宮)では9回に代打で出場(結果は右飛)[14][15]。翌10月8日、シーズン最終戦となった古巣の対横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)では試合前に引退セレモニーが行われ、かつてのチームメイトの三浦大輔と金城龍彦から花束を受け取り、両チームのファンによる応援歌の合唱が行われた。試合では1番・遊撃手として先発フル出場し、現役最終打席はセンターフライとなった。石井を最後にドラフト外で入団した選手はすべて姿を消した[16][17]。
引退後
2012年の秋季キャンプより、広島一軍内野守備・走塁コーチを務める[18][19][20]。一塁ベースコーチも担当している。2015年シーズンからは三塁ベースコーチに配置転換された。 2016年シーズンより一軍打撃コーチへの就任が発表された。
選手としての特徴
打撃
憧れの選手は篠塚和典[4]。横浜球団史上最多の2306安打を放っている(2008年10月9日時点)[5]。
守備・走塁
三塁手としては3度ゴールデングラブ賞に輝き、遊撃手としても1度受賞している。送球までの速さと安定感は12球団1と評されたこともある[21]。
また、通算358盗塁を記録しており、4度盗塁王を獲得している。
人物
一言居士で、横浜時代は監督やチームの方針に納得がいかないと、臆することなく意見することも多かった。
登録名の琢朗は、野手に転向する際、大成する字画の名前として高校時代の先輩のアドバイスから付けられたもの[22]。1997年には同姓の石井義人がベイスターズに入団してきたため背ネーム表記がT.ISHII、報道やスコアボードでの表記も石井琢に変更され、球場アナウンスもフルネームで呼称されるようになった。2002年に横浜に在籍した石井浩郎が同年限りで引退、2003年には石井義人も移籍したため、報道などでは「石井」表記に戻ったが、その他の表記等は以前のままとしており、これは広島移籍後も続いた[23]。
ヒット1本につき1万円を積み立て、シーズン後に福祉関連先に寄付したり、横浜市内のこども医療センターに絵本を毎月寄贈したり、横浜スタジアムの石井琢朗シートを市社会福祉協議会へ寄付したりするなど、チャリティー活動にも積極的であった。 また、道具を大切に扱うことで有名であり、ミズノとアドバイザリー契約を結んでいた[24]。
2008年3月9日付『朝日新聞』に、出身地である栃木県佐野市の佐野松陽高校の生徒がいもフライをつかって町おこしに取り組んでるとの記事が紹介された。これに石井本人も一役買おうと意気込み、球団に働きかけた結果横浜スタジアム内レストランにて5月14日より販売が実現した。シーズン終了後にこのいもフライの売上金の一部が佐野市に寄付された。広島に移籍後の2009年にもMAZDA Zoom-Zoom スタジアムの売店にて石井琢朗プロデュースとして販売され人気を博した。
1996年に瀬能あづさと結婚したが、2000年に離婚。その後当時フジテレビアナウンサーの荒瀬詩織と再婚し、2002年7月に長女、2005年8月に二女、2013年7月に長男が誕生した。前妻瀬能との間に子供はいない。広島での選手生活はホテル、選手寮などでの単身赴任状態であったがコーチ就任を機に家族も広島に移住した[25]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | 大洋 | 17 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 142 | 30.1 | 34 | 2 | 19 | 1 | 0 | 19 | 0 | 0 | 14 | 12 | 3.56 | 1.75 |
1990 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 19 | 4.0 | 6 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 9.00 | 2.00 | |
1991 | 9 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 62 | 14.2 | 23 | 3 | 8 | 1 | 3 | 4 | 0 | 0 | 16 | 15 | 9.20 | 2.11 | |
通算:3年 | 28 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | -- | .200 | 238 | 49.0 | 63 | 5 | 29 | 2 | 4 | 23 | 0 | 0 | 35 | 31 | 5.69 | 1.88 |
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | 大洋 横浜 |
17 | 5 | 5 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .400 | .400 | .400 | .800 |
1990 | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1991 | 10 | 2 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .500 | .500 | .500 | 1.000 | |
1992 | 69 | 250 | 219 | 26 | 59 | 3 | 3 | 3 | 77 | 23 | 4 | 1 | 16 | 1 | 12 | 0 | 2 | 33 | 4 | .269 | .312 | .352 | .664 | |
1993 | 121 | 503 | 414 | 53 | 110 | 19 | 5 | 5 | 154 | 36 | 24 | 16 | 39 | 2 | 42 | 0 | 6 | 64 | 5 | .266 | .341 | .372 | .712 | |
1994 | 130 | 559 | 451 | 68 | 113 | 21 | 2 | 3 | 147 | 40 | 10 | 6 | 39 | 0 | 69 | 0 | 0 | 66 | 6 | .251 | .350 | .326 | .676 | |
1995 | 124 | 546 | 444 | 69 | 137 | 22 | 2 | 2 | 169 | 41 | 23 | 11 | 23 | 2 | 69 | 1 | 7 | 63 | 4 | .309 | .407 | .381 | .789 | |
1996 | 129 | 604 | 496 | 94 | 140 | 19 | 3 | 1 | 168 | 29 | 45 | 21 | 25 | 1 | 75 | 1 | 7 | 76 | 3 | .282 | .383 | .339 | .722 | |
1997 | 132 | 612 | 521 | 95 | 166 | 23 | 1 | 10 | 221 | 44 | 23 | 18 | 23 | 4 | 57 | 1 | 7 | 58 | 5 | .319 | .390 | .424 | .815 | |
1998 | 135 | 630 | 555 | 103 | 174 | 34 | 5 | 7 | 239 | 48 | 39 | 10 | 2 | 2 | 63 | 0 | 7 | 69 | 4 | .314 | .389 | .431 | .820 | |
1999 | 131 | 622 | 537 | 108 | 157 | 24 | 3 | 8 | 211 | 58 | 39 | 11 | 2 | 3 | 73 | 0 | 7 | 81 | 4 | .292 | .382 | .393 | .775 | |
2000 | 134 | 619 | 546 | 91 | 165 | 19 | 5 | 10 | 224 | 50 | 35 | 11 | 5 | 3 | 61 | 3 | 4 | 83 | 5 | .302 | .375 | .410 | .785 | |
2001 | 140 | 647 | 580 | 81 | 171 | 34 | 4 | 8 | 237 | 36 | 26 | 8 | 7 | 1 | 54 | 3 | 5 | 81 | 3 | .295 | .359 | .409 | .768 | |
2002 | 140 | 636 | 569 | 78 | 156 | 29 | 2 | 8 | 213 | 49 | 19 | 11 | 12 | 2 | 48 | 1 | 5 | 95 | 2 | .274 | .335 | .374 | .709 | |
2003 | 115 | 483 | 415 | 49 | 96 | 12 | 1 | 6 | 128 | 26 | 20 | 10 | 21 | 0 | 46 | 0 | 1 | 53 | 3 | .231 | .310 | .308 | .618 | |
2004 | 131 | 590 | 535 | 80 | 158 | 26 | 6 | 10 | 226 | 43 | 11 | 10 | 6 | 2 | 45 | 1 | 2 | 85 | 3 | .295 | .351 | .422 | .773 | |
2005 | 146 | 688 | 612 | 95 | 156 | 22 | 2 | 8 | 206 | 40 | 18 | 7 | 7 | 1 | 61 | 1 | 7 | 77 | 6 | .255 | .329 | .337 | .666 | |
2006 | 146 | 675 | 604 | 91 | 174 | 30 | 0 | 6 | 222 | 32 | 12 | 11 | 5 | 1 | 63 | 0 | 2 | 99 | 4 | .288 | .357 | .368 | .724 | |
2007 | 108 | 412 | 360 | 35 | 99 | 11 | 0 | 2 | 116 | 13 | 6 | 5 | 27 | 0 | 21 | 1 | 4 | 39 | 5 | .275 | .322 | .322 | .644 | |
2008 | 98 | 319 | 279 | 26 | 73 | 7 | 0 | 2 | 86 | 18 | 1 | 1 | 12 | 0 | 23 | 0 | 4 | 47 | 2 | .262 | .327 | .308 | .635 | |
2009 | 広島 | 89 | 246 | 211 | 27 | 48 | 10 | 3 | 2 | 70 | 18 | 2 | 0 | 11 | 0 | 20 | 0 | 4 | 33 | 4 | .227 | .306 | .332 | .638 |
2010 | 74 | 165 | 148 | 15 | 47 | 5 | 1 | 0 | 54 | 20 | 1 | 1 | 5 | 0 | 11 | 0 | 1 | 20 | 2 | .318 | .369 | .365 | .734 | |
2011 | 61 | 106 | 92 | 11 | 23 | 2 | 2 | 1 | 32 | 4 | 0 | 0 | 2 | 0 | 12 | 1 | 0 | 13 | 1 | .250 | .337 | .348 | .685 | |
2012 | 31 | 47 | 42 | 2 | 7 | 1 | 0 | 0 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 4 | 1 | .167 | .255 | .190 | .446 | |
通算:24年 | 2413 | 9967 | 8638 | 1298 | 2432 | 373 | 50 | 102 | 3211 | 670 | 358 | 169 | 289 | 25 | 930 | 14 | 82 | 1241 | 76 | .282 | .356 | .372 | .728 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更
年度別守備成績
年 度 |
三塁 | 遊撃 | 二塁 | 外野 | ||||||||||||||||||||
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試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | |
1992 | 42 | 22 | 63 | 5 | 9 | .944 | 32 | 37 | 76 | 5 | 19 | .958 | - | - | ||||||||||
1993 | 107 | 71 | 203 | 6 | 24 | .979 | 11 | 16 | 24 | 1 | 7 | .976 | - | 7 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||
1994 | 128 | 75 | 251 | 8 | 25 | .976 | 8 | 8 | 16 | 0 | 3 | 1.000 | - | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | |||||
1995 | 123 | 96 | 253 | 5 | 33 | .986 | - | - | - | |||||||||||||||
1996 | - | 129 | 207 | 382 | 11 | 76 | .982 | - | - | |||||||||||||||
1997 | - | 130 | 198 | 392 | 15 | 76 | .975 | - | - | |||||||||||||||
1998 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 135 | 204 | 423 | 17 | 80 | .974 | - | - | ||||||||||
1999 | - | 129 | 211 | 356 | 11 | 71 | .981 | - | - | |||||||||||||||
2000 | - | 134 | 210 | 386 | 10 | 81 | .983 | - | - | |||||||||||||||
2001 | - | 140 | 252 | 417 | 12 | 100 | .982 | - | - | |||||||||||||||
2002 | - | 140 | 219 | 394 | 9 | 69 | .986 | - | - | |||||||||||||||
2003 | - | 114 | 168 | 366 | 7 | 77 | .987 | - | - | |||||||||||||||
2004 | - | 130 | 194 | 413 | 10 | 97 | .984 | - | - | |||||||||||||||
2005 | - | 146 | 229 | 444 | 8 | 95 | .988 | - | - | |||||||||||||||
2006 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 146 | 204 | 473 | 10 | 91 | .985 | - | - | ||||||||||
2007 | - | 105 | 126 | 317 | 5 | 71 | .989 | - | - | |||||||||||||||
2008 | - | 79 | 118 | 211 | 4 | 41 | .988 | - | - | |||||||||||||||
2009 | 21 | 13 | 21 | 1 | 0 | .971 | 52 | 69 | 141 | 6 | 24 | .972 | - | - | ||||||||||
2010 | 48 | 18 | 72 | 3 | 10 | .968 | 2 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | 4 | 0 | 2 | 0 | 1 | 1.000 | - | |||||
2011 | 26 | 11 | 32 | 0 | 4 | 1.000 | 3 | 2 | 4 | 1 | 1 | .857 | 1 | 2 | 4 | 0 | 0 | 1.000 | - | |||||
2012 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | 2 | 4 | 6 | 0 | 2 | 1.000 | - | - | ||||||||||
通算 | 499 | 306 | 897 | 28 | 105 | .977 | 1767 | 2677 | 5243 | 142 | 1081 | .982 | 5 | 2 | 6 | 0 | 1 | 1.000 | 8 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞年
タイトル
表彰
- ベストナイン:5回(遊撃手部門 = 1997年 - 2001年)
- ゴールデングラブ賞:4回(三塁手部門 = 1993年 - 1995年、遊撃手部門 = 1998年)
- JA全農Go・Go賞:1回(好走塁賞 = 1996年4月)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1998年)
- セントラル・リーグ特別功労賞(2012年)[26]
記録
- 投手記録
- 初登板:1989年4月13日、対広島東洋カープ3回戦(横浜スタジアム)、4回表に救援登板、1回1失点
- 初奪三振:同上、4回表に白武佳久から
- 初先発・初勝利:1989年10月10日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、8回1/3を3失点(自責点1)
- 打撃記録
- 初出場:投手記録の初登板の項を参照
- 初先発出場:投手記録の初先発の項を参照
- 初安打:1989年10月10日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、3回表に加藤博人から中前安打
- 初得点:1989年10月16日、対阪神タイガース26回戦(阪神甲子園球場)、3回表に記録
- 初打点:1992年4月18日、対ヤクルトスワローズ2回戦(横浜スタジアム)、4回裏に高津臣吾から
- 初盗塁:1992年5月10日、対読売ジャイアンツ8回戦(横浜スタジアム)、1回裏に二盗(投手:チャック・ケアリー、捕手:村田真一)
- 初本塁打:1992年7月26日、対広島東洋カープ18回戦(横浜スタジアム)、1回裏に北別府学から
- 節目の記録
- 1000本安打:1999年7月15日、対阪神タイガース16回戦(阪神甲子園球場)、2回表に山崎一玄から ※史上196人目
- 1000試合出場:1999年10月15日、対ヤクルトスワローズ27回戦(横浜スタジアム)、1番・遊撃手として先発出場 ※史上354人目
- 1500本安打:2002年8月22日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、4回表に入来祐作からソロ ※史上83人目
- 200犠打:2003年7月8日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤドーム)、1回表に野口茂樹から ※史上24人目
- 300盗塁:2003年8月6日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、7回表に二盗(投手:コリー・ベイリー、捕手:阿部慎之助)
- 1500試合出場:2003年8月27日、対広島東洋カープ20回戦(横浜スタジアム)、2番・遊撃手として先発出場 ※史上140人目
- 1000得点:2005年4月5日、対読売ジャイアンツ1回戦(横浜スタジアム)、1回裏に金城龍彦の左前適時打で生還 ※史上31人目
- 1000三振:2006年5月2日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤドーム)、4回表に川上憲伸から ※史上38人目
- 2000本安打:2006年5月11日、対東北楽天ゴールデンイーグルス3回戦(横浜スタジアム)、1回裏に愛敬尚史から中前安打 ※史上34人目
- 350盗塁:2007年5月13日、対広島東洋カープ9回戦(横浜スタジアム)、1回裏に二盗(投手:黒田博樹、捕手:石原慶幸) ※史上15人目
- 2000試合出場:2007年6月13日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(札幌ドーム)、8回裏に遊撃手として出場 ※史上38人目
- 250犠打:2007年7月12日、対中日ドラゴンズ12回戦(横浜スタジアム)、9回裏にラファエル・クルスから ※史上11人目
- 3000塁打:2008年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(横浜スタジアム)、2回裏に金刃憲人から中前安打 ※史上42人目
- 100本塁打:2009年7月4日、対横浜ベイスターズ7回戦(横浜スタジアム)、5回表に三浦大輔から右越ソロ ※史上256人目
- その他の記録
- 1試合6得点:1999年7月22日、対ヤクルトスワローズ17回戦(横浜スタジアム) ※日本タイ記録、セ・リーグ記録
- 1試合4犠打:2003年7月8日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤドーム) ※日本タイ記録
- シーズン150安打以上9回:1997年 - 2002年、2004年 - 2006年(歴代2位タイ)
- 6年連続シーズン150安打以上:1997年 - 2002年(歴代2位タイ、セ・リーグタイ記録)
- オールスターゲーム出場:6回 (1995年、1997年 - 2001年)
- 遊撃手通算最多試合出場:1767試合
- 全球団から本塁打:通算100本塁打の項目を参照 ※史上17人目
背番号
- 66 (1989年 - 1992年)
- 0 (1993年)
- 5 (1994年 - 2008年)
- 25 (2009年 - 2012年)
- 75 (2013年 - )
登録名
- 石井 忠徳(いしい ただのり、1989年 - 1991年)
- 石井 琢朗(いしい たくろう、1992年 - )
著書
- 『疾走!琢朗主義』(ベースボールマガジン社:2002年4月)ISBN 978-4583036939
- 『心の伸びしろ』(ベストセラーズ:2013年3月)ISBN 978-4584134795
脚注
- ^ 野球の記録で話したい : 石井琢朗、引退表明へ|2012NPBペナントレース 2014年11月5日閲覧
- ^ a b c 澤宮優『ドラフト外』河出文庫、2013年、ISBN 9784309412603
- ^ a b c d e 第4回プロ野球選手 石井琢朗さんKREIS&Company 2009年2月23日
- ^ a b 『日本プロ野球偉人伝 vol.13 1997→99編』ベースボール・マガジン社、2014年、14-17頁。ISBN 978-4-583-62103-6。
- ^ a b c d e f 【10月10日】1989年(平1)横浜最多安打男・石井琢朗、打撃の神様と2人だけの記録SponichiAnnex 2008年10月
- ^ 同ゲームで先発バッテリーを組んだのが同級生の谷繁元信だった[1]。
- ^ 投手としては150キロ近い直球と落差の大きいカーブが持ち味で、当時の監督である須藤豊に「ボールをもてあそぶことができる。それに全力投球してもコントロールが乱れない。運動神経の偏差値が高い投手。近いうち桑田のライバルになる。今の石井にないのは経験だけ」と絶賛されていた。
- ^ “二宮清純「ノンフィクション・シアター・傑作選」 : 第109回 「核弾頭の明暗」 ~石井琢朗vs.松井稼頭央~<前編>”. 二宮清純責任編集 SPORTS COMMUNICATIONS. 2014年5月10日閲覧。
- ^ 2000 ベースボール・レコード・ブック。 ベースボールマガジン社 52頁「1999年度の主な記録と出来事」より。
- ^ 記録達成の際には冗談で、「投手時代の(打者として打ったヒット)3本はカウントして欲しくない」とコメントしている。
- ^ a b “三塁手候補に石井琢を獲得 横浜から戦力外通告”. 中国新聞. 2010年4月11日閲覧。
- ^ 広島】石井琢朗が「悔しい」引退表明 日刊スポーツ 2012年8月27日閲覧
- ^ [2]
- ^ [3]スポーツニッポン 2012年10月9日閲覧
- ^ [4]ヤクルト球団公式サイト
- ^ 【広島】石井琢、ハマスタ引退式で涙ニッカンスポーツ 2012年10月9日閲覧
- ^ [5]スポーツニッポン 2012年10月9日閲覧
- ^ 広島、石井琢朗氏とコーチ契約 - サンケイスポーツ 2012年10月22日
- ^ 来季スタッフ発表 石井コーチは内野守備・走塁 - 中国新聞 2012年10月30日
- ^ 石井琢朗氏は内野守備走塁Cに 広島が来季コーチ陣発表 - スポーツニッポン 2012年10月29日
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2006』白夜書房、2006年、101頁頁。ISBN 4-86191-134-6。
- ^ 字画を整えるため本来は正字の琢(旁部分に点が打たれている)を使うのが正しいが、パソコン等で表示されないため新字で代用されることが多い。
- ^ ただし広島入団会見時は背ネーム表記が「ISHII」だった。
- ^ ミズノボールパーク・リードオフマン石井琢朗選手の「スパイクお手入れ法」
- ^ 琢朗は鬼コーチ宣言「死んでもらう」 - デイリースポーツ 2012年10月23日
- ^ 2012年度 表彰選手(セントラル・リーグ)
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 石井琢朗 - NPB.jp 日本野球機構
- 超琢朗主義―今が大切―~石井琢朗Official Blog~