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伊藤博文

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伊藤 博文
いとう ひろぶみ
フロックコートを着用し、胸に勲章の略綬を着けた伊藤
生年月日 1841年10月16日
(旧暦天保12年9月2日
出生地 日本の旗 日本周防国熊毛郡束荷村
没年月日 (1909-10-26) 1909年10月26日(68歳没)
死没地 黒龍江省ハルビン
出身校 松下村塾
所属政党 立憲政友会
称号 従一位
大勲位菊花章頸飾
公爵
名誉博士イェール大学
配偶者 伊藤すみ子
伊藤梅子
親族 野村靖岳父
末松謙澄娘婿
松本十郎義曾孫
松本剛明玄孫
サイン

内閣 第1次伊藤内閣
在任期間 1885年12月22日 - 1888年4月30日
天皇 明治天皇

日本の旗 第5代 内閣総理大臣
内閣 第2次伊藤内閣
在任期間 1892年8月8日 - 1896年8月31日
天皇 明治天皇

日本の旗 第7代 内閣総理大臣
内閣 第3次伊藤内閣
在任期間 1898年1月12日 - 1898年6月30日
天皇 明治天皇

日本の旗 第10代 内閣総理大臣
内閣 第4次伊藤内閣
在任期間 1900年10月19日 - 1901年5月10日
天皇 明治天皇

在任期間 1890年10月24日 - 1891年7月21日
天皇 明治天皇

その他の職歴
日本の旗 初代 工部卿
1873年 - 1878年)
日本の旗 第4代 内務卿
1874年8月2日 - 1874年11月28日
日本の旗 第6代 内務卿
1878年5月15日 - 1880年2月28日
日本の旗 宮内卿
1884年3月21日 - 1885年12月22日
日本の旗 貴族院議員
(1890年7月10日 - 1891年7月
1895年8月 - 1907年9月
1907年9月 - 1909年10月26日)
日本の旗 初代 韓国統監
1906年3月3日 - 1909年6月14日
兵庫県の旗 初代 兵庫県知事
1868年5月23日 - 1869年4月10日
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伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日1841年10月16日) - 明治42年(1909年10月26日)は、日本武士長州藩士)、政治家は博文(ひろぶみ。「ハクブン」と有職読みすることもある)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。は「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」など。「春畝公」と表記されることも多い。

周防国出身。長州藩私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷倒幕運動に参加。維新後は薩長藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代第5代第7代第10代内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長韓国統監府初代統監を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争に対処したことが特記できる。元老位階従一位勲等大勲位爵位公爵学位名誉博士イェール大学)。

アジア最初の立憲体制[1]の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。ハルビン朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺される。

生涯

生い立ち - 松下村塾入門

志士時代の伊藤博文

周防国熊毛郡束荷村字野尻[2]百姓・林十蔵(後に重蔵)の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。家が貧しかったため、12歳ごろから奉公に出されたという。父・十蔵が長州藩蔵元付中間水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防国佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵、博文父子も足軽となった。

安政4年(1857年2月江戸湾警備のため相模国に派遣されていたとき、上司として赴任してきた来原良蔵と出会い、その紹介で吉田松陰松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。松蔭が安政の大獄で斬首された際、桂小五郎の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸をひきとることになる。その後、同門の久坂玄瑞高杉晋作・桂小五郎・井上聞多らと倒幕運動に加わる。

文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽暗殺を画策し、品川御殿山英国公使館焼き討ちに参加し、山尾庸三とともに塙次郎[3]・加藤甲次郎を暗殺するなど、尊王攘夷志士として活動した。

英国留学

長州五傑。上段左から遠藤謹助野村弥吉、伊藤、下段左から井上聞多山尾庸三

文久3年(1863年)には井上聞多・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。伊藤の荷物は文久2年(1862年)に発行された間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。ロンドン到着後ヒュー・マセソンの世話を受けアレクサンダー・ウィリアムソンユニバーシティ・カレッジ・ロンドン教授化学者)の邸に滞在し、英語や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。

元治元年(1864年)、4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し戦争回避に奔走する。横浜上陸後、英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見。しかし、伊藤、井上両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。伊藤は戦後、宍戸刑馬こと高杉晋作の通訳として、ユーリアラス号で艦長クーパーとの和平交渉にあたる。藩世子・毛利元徳へ経過報告したときには、攘夷派の暗殺計画を知り、高杉とともに行方をくらましている。そして、この和平交渉において、天皇将軍が毛利藩宛に発した「攘夷実施の命令書」の写しをサトウに手渡したことにより、各国は賠償金幕府に要求するようになる。

挙兵

長州藩が第一次長州征伐幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い力士隊を率いて挙兵。この時、高杉の元に一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派(革新派)が藩政を握った。後に伊藤は、この時のことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。

明治維新

岩倉使節団。右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視山口尚芳木戸孝允

維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与外国事務局判事大蔵民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿宮内卿など明治政府の様々な要職を歴任する。

兵庫県知事時代の明治2年(1869年1月、『国是綱目』いわゆる「兵庫論」を捧呈し、

  1. 君主政体
  2. 兵馬の大権を朝廷に返上
  3. 世界万国との通交
  4. 国民に上下の別をなくし「自在自由の権」を付与
  5. 「世界万国の学術」の普及
  6. 国際協調・攘夷の戒め

を主張した。

明治3年(1870年)に発足した工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。のちにこれは、内務卿大久保利通のもとで内務省へと引き継がれる。また同年11月から翌年5月まで財政幣制調査のため、芳川顕正福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により、わが国最初の貨幣法である新貨条例が制定される。

明治4年(1871年11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う。明治7年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見し宰相ビスマルクと会見している。

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日1872年6月12日)に品川横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した[4]

当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。だが、征韓論争では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった(明治6年の政変)。このとき、木戸孝允と大久保利通の間を取り結び、明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。大久保暗殺後は内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の一人として辣腕を振るう。

明治12年(1879年)9月に「教育議」を上奏し、教育令発布となる。

明治14年(1881年)1月、井上馨、大隈重信と熱海で会談。同年10月14日、大隈が下野し、明治政府は明治23年(1890年)に国会を開設することを約束する(明治14年の政変)。明治15年(1882年)3月3日、明治天皇憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇平田東助吉田正春山崎直胤三好退蔵岩倉具定広橋賢光西園寺公望伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発し、はじめベルリン大学公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。のちにウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。

明治18年(1885年)2月、伊藤は朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清国に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印している。

初代内閣総理大臣就任

明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三条は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三条家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。なお、44歳2ヶ月での総理大臣就任は、2011年現在日本の歴代総理大臣の中で最も若い記録である(2番目は近衛文麿の45歳)。維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた公卿出身者の退勢はこれで決定的となり、以降、長きにわたって総理大臣はおろか、閣僚すらなかなか輩出できない状態となった。

明治19年(1886年)2月には各省官制を制定し、3月には帝国大学(現在の東京大学)を創設し、翌年3月には国家学会が創設されるが、これを支援した。

明治20年(1887年)から夏島で伊東巳代治、井上毅金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始する。

明治21年(1888年)4月28日、枢密院開設の際に初代枢密院議長となるために首相を辞任。

大日本帝国憲法発布

明治22年(1889年)2月11日、黒田内閣のもとで大日本帝国憲法が発布される。これに際し、伊藤は華族同方会で憲法に関して演説し、立憲政治の重要性、とりわけ一般国民を政治に参加させることの大切さを主張する。また6月には『憲法義解』を刊行する。明治25年(1892年)には吏党の大成会を基盤にした政党結成を主張するが、天皇の反対により頓挫する。

日清戦争

伊藤が2度目の首相を務めていたとき、朝鮮甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに、7月に清軍と衝突、朝鮮の主権を巡って意見が対立して8月に宣戦布告日清戦争がおこる。翌年の明治28年(1895年)4月に、陸奥宗光とともに全権大使として、李鴻章との間に下関の春帆楼で講和条約(下関条約)に調印する。

この下関条約(馬関条約)がドイツフランスロシア三国干渉を引き起こし、第2次伊藤内閣はこれを受け入れる。翌明治29年(1896年)8月31日、伊藤は首相を辞任する。

明治31年(1898年)1月、第3次伊藤内閣が発足。6月に衆議院解散閣議で政党結成の意思を表明するなど、新党結成を唱えるが、山縣有朋の反対に会い首相を辞任。その後、同年8月に長崎を出発し、朝鮮の漢城高宗と会見。9月には清国の北京慶親王康有為らと面談、光緒帝に謁見し、10月には張之洞劉坤一と会談している。

明治33年(1900年)には立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。政友会はその後、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した。また貴族院議長に就任。

日露戦争

日清戦争後、伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らとともに日露協商論満韓交換論を唱え、ロシア帝国との不戦を主張した。同時に桂太郎・山縣有朋・小村寿太郎らの日英同盟案に反対した。さらに、自らロシアに渡って満韓交換論を提案するが、ロシア側から拒否される。

日露戦争をめぐっては、金子堅太郎をアメリカに派遣し、大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼している。これがポーツマス条約に結びつく。講和後は、戦後処理に奔走する。

韓国統監府初代統監

大韓帝国皇太子李垠(右)と伊藤
長谷川好道陸軍大将と共に統監府へ向かう伊藤博文(手前)

明治38年(1905年)11月の第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって大韓帝国大日本帝国保護国となり、韓国統監府が設置されると初代統監に就任した。日本は実質的な朝鮮の支配権を掌握した(広義の日本統治時代として植民地時代35年と保護国時代5年をひとつながりでとらえることもある)。

伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅陸軍軍閥と、しばしば対立した[5]。また、韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていたが、統監であったことが韓国国民の恨みを買うことになり、朝鮮人安重根暗殺テロに繋がり韓国併合を加速させた。近年発見された伊藤のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて伊藤博文研究の第一人者とされる京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている[6]。 明治42年(1909年)、統監を辞任、枢密院議長に復帰した。

暗殺

伊藤は、亡くなる1か月前に高杉晋作の顕彰碑に、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」で始まる碑文を寄せている。

また、ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っている[7]。 明治42年(1909年)10月、ロシア帝国蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家安重根によって狙撃された。このとき伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば、「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが、伊藤の最後の言葉であったとされる。享年69。11月4日日比谷公園国葬が営まれた。

伊藤の死に際しては、

伊藤のしたことに過失はあっても悪意はなく、あれくらい公平に国家のためを思えば、まず立派な政治家といってよかろう。 — (政敵であった)尾崎行雄
韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである。 — エルヴィン・フォン・ベルツ
我輩は伊博(伊藤博文の略)を平凡の常人なりとは云はない、されど彼の死は世界の大損失ドコロか、日本の小損失にもあらずとするのである。(中略)明治十三四頃、國會願望者なる者全國に蜂起して東京に押寄せ、若し之を聴かずんば極端の暴動も起こるべき輿論の大勢に迫られ、餘義なく十年後を期して輿望を達せしむる事にしたのであって、在朝伊博の輩は、只其時代の要求に屈服したに過ぎないのである。斯かる輩を指して立憲の大元首と賞揚するが如きは、往事迫害を恐れずして自由民権の論を主張せし民間の志士を無視するの甚だしき者である。(中略)非命の死に同情を寄せて、死者を哀惜するのは人情の常であるから、我輩とても亦其事を非難しないが、其程度を過ごせし没理狂的の哀惜には寧ろ大反対である。 — 宮武外骨、『大阪滑稽新聞』11月25日号、通巻26号

などの評価がある。宮武の評価は当時、異例のものであった。これまで伊藤を攻撃していたマスメディアまでも、その死に際して伊藤の死を日本の損失だと伝え、「明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き」と、伊藤を高く評価した。

暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある[8]

死後

東京都品川区西大井にある伊藤博文の墓。毎年命日(10月26日)前後に内部公開される。公開日は品川区HPにて記載される。

埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、昭和34年(1959年)に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、に混じって韓国国花ムクゲが植えられている。平成18年(2006年)5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。後に日本銀行券C千円券1963年11月1日 - 1984年11月1日発行)の肖像として採用された。

安重根は暗殺後直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁された。日本政府は安らを関東都督府地方法院に移し、明治43年(1910年)2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6か月に処する判決が下された。

韓国では、2009年10月26日を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせ新しい記念館をソウル南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。

人物・業績

明治天皇との関係

4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と明治天皇の関係は常に良好であったわけではない。明治10年代(1877年 - 1886年)、天皇は元田永孚佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でないこともあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めて貰う面があり、機務六条を天皇に提示して認めてもらっている)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。

しかし、明治天皇は伊藤を信頼していた。明治天皇の好みの性格は、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことだった。伊藤はこれに当てはまり、伊藤に私財のないこと[9]を知った明治天皇は、1898年(明治31年)に10万円のお手許金を伊藤に与えている。ただし、後述にもある伊藤の芸者好きに対してはほどほどにするようにと苦言を呈したこともあった。日露戦争開戦直前の御前会議当日の早朝、伊藤に即刻参内せよという勅旨が下り、伊藤が参内すると明治天皇は夜着のまま伊藤を引見し、「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べた。これに対し伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上した。また、伊藤は天皇から「東京を離れてはならぬ」とまで命じられていた[10]

女子教育

明治19年(1886年)、当時あまり顧みられていなかった、女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設した(翌年には「女子教育奨励会」となる)。委員には、伊藤の他に実業家渋沢栄一岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。また、伊藤は日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵から女子大学設立計画への協力を求められ、これに協力した。

女子教育者であった津田梅子とは岩倉使節団で渡米のとき同じ船に乗ってからの交流があった。日本に帰ってから津田は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、伊藤の娘の家庭教師となり、また「桃夭女塾」へ英語教師として通っている。津田は明治18年(1885年)に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。また、津田とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の津田と国の将来について語り合っていた。伊藤からみれば津田は同じ日本人の婦人というよりは、顧問のつもりであったという[11]

芸者好き

女好きは当時から非常に有名であり、女性とよく遊ぶことから「」(女が掃いて捨てる程いたため)というあだ名がついた。また、宮武外骨の発行した一連の新聞では、好色漢の代表格としてパロディの手法を使い伊藤を度々取り上げた(それに次ぐのが、同じ艶福家として知られていた松方正義である)。地方に行った際には一流の芸者ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地その土地の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのこと。40度の高熱に浮かされている時でも両側に芸者ふたりをはべらせたという。もっとも、同じ女好きの松方とは違って伊藤にはそれほど多くの子供はできなかった。衆議院議員松本剛明は子孫の一人。

民族衣装

韓国の民族衣装を着て記念撮影におさまる伊藤(韓国統監時代、前列左から二番目が梅子夫人)

扶桑社刊の『新しい歴史教科書』と小学館刊の『21世紀子ども百科 歴史館』には、伊藤と妻の梅子が韓国の民族衣装を着ている写真がある。韓国統監として朝鮮人の衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子・李垠を日本に招き、日本語教育を行っている。

操り人形

お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が有栖川宮熾仁親王の方を向き、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをしたことを紹介している。

通称の変遷

当初は自身の曽祖父「利八郎」と「助左衛門」から「利」と「助」をとり「利助(りすけ)」と名づけられたが「としすけ」とも読み、「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」をにしたものである。

評価

晩年の伊藤
  • 幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。
  • 井上聞多は自身が刺客に襲われた際に駆けつけた伊藤の様子について「(伊藤は)自分の枕辺に涙をホロホロ落とした。自分は(喋ることも出来ないので)ただ手まねで、お前も危ないから一刻も早く帰ってくれと頼むようにせきたてたけれど、なかなか枕許を離れようとしなかった」と語っている。
  • よく同じ長州閥の山縣有朋と対比され「含雪公(山縣)と春畝公(伊藤)ほど対照的で、且つ力量の似通った一対も珍しい」と評された。現実に両者の政治姿勢は全く違うものであったが、当人たちの仲は非常に良く、お互いの良き相談役であった。二人が長州志士の中でもきわだって貧しい出身(木戸、井上、高杉らは中下級武士とはいっても家柄のはっきりした上士であり、足軽農民である山縣、伊藤とは当時の意識としても雲泥の差があった)であったことも重要である。
  • 同時代人が両者の特徴を評した言葉に次のようなものがある。「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができる。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」
  • 犬養毅曰く「公は職務を行うに、賄賂を使ったことはなく、公自身もまた賄賂を要求することはなかった。公を批判する者はいれども、公の金銭に関する清廉さを非難する者はいない」。
  • 大日本帝国憲法を制定する際に担当官に対し、「新憲法を制定するに、伊藤は一法律学者であり、汝らもまた一法律学者である。それ故、我が考えが非也と思わば、どこまでも非也として意見せよ。意見を争わせることがすなわち新憲法を完全ならしめるものである」と訓示している。今よりも特権意識の強い時代の政治家としては異例の見識であるとされている。
  • 大隈重信は伊藤を次のように評している。「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった。氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた」
  • また大隈は「(伊藤博文は)常に国家のために政治を行ふて、野心のために行はなかった」とも述べている。
  • 英国留学時代の学友、ミットフォード(のち外交官)は、若き日の伊藤を評して、「精悍で野性的、のようであり、冒険好き、無類に陽気な青年であった。しかし、いざ仕事となると正確で機敏、天稟が高鳴りする人物だった」と述べている。
  • 当時大磯には伊藤をはじめ、政治家の別邸が立ち並んでいたが、土地には伊藤の人柄について次のような逸話が残っている。「山縣は護衛の人が付き、陸奥は仕込み杖をもつて散歩するが、伊藤博文は、平服で一人テクテク歩き、時には着物のしりをはしょつた姿で出歩き、農家に立ち寄り話しかけ、米の値段や野菜の価格なども聞き、暮らしのことなども畑の畦に腰掛け老人相手に話すことがあった。村の農民や漁民などは伊藤を「テイショウ(大将)」と気軽に呼んで、話しかけた。」

言行

  • 「大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ」
  • 「今日の学問は全て皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である」
  • 「いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ」
  • 「お前に何でも俺の志を継げよと無理は言はぬ。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になったとて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて、喜びもせぬ」
  • 「たとえここで学問をして業が成っても、自分の生国が亡びては何の為になるか」
  • 「本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない」
  • 「国の安危存亡に関係する外交を軽々しく論じ去つて、何でも意の如く出来るが如くに思ふのは、多くは実験のない人の空論である」

住居

開東閣

記念館

栄典

系譜

林氏(伊藤氏)
林氏は本姓越智河野氏の支流といわれる。家紋はもと「折敷に三文字」だが、伊藤姓に改姓以後「上がり藤」を用いた。
博文自身の語るところ[12]によれば、「先祖は河野通有の裔で、淡路ヶ峠城主の林淡路守通起である」という。また「実家は周防国熊毛郡束荷村の農家で、博文の祖父林助左衛門は、林家の本家林利八郎養子となり本家を継いだ。林助左衛門の子、十蔵は萩藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり「水井十蔵」と名乗るが、安政元年(1854年)水井武兵衛が周防国佐波郡相畑の足軽で藤原姓を称する伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と名を改めたため、十蔵も伊藤氏を称した[13]」という。伊藤十蔵の長男が、伊藤博文公爵である。博文の跡は養子の博邦(盟友井上馨)が継いだ[14]
                                        ┏女子(守田直吉妻)
                                        ┣女子(林新兵衛妻)
林通村┳通安┳秀貞━━勝久━━信吉━┳信顕━━━信久┳惣左衛門 ┏利八郎==増蔵┻伊藤十蔵
   ┃  ┗通具 ┏通元━━信勝 ┃       ┗平治兵衛━┻利右衛門  ↑ 
   ┗通忠┳通政 ┣通代     ┃                    ┊
      ┃   ┣通重     ┣作左衛門━源蔵━与一右衛門┳(増蔵)┄┄┄┙      
      ┗通起━╋通好     ┣惣十郎          ┗助左衛門
          ┣通定     ┗又左衛門
          ┣通形
          ┣通永
          ┗通季
伊藤家
本姓藤原氏を称する。早川隆の著書『日本の上流社会と閨閥』211、214頁によれば、「もともと伊藤の家は水呑み百姓で父親十蔵は馬車ひきなどをしていたが食い詰めて長州藩の伊藤という中間の家に下僕として住み込んでいるうちに子供のない同家の養子になり伊藤を名乗った。博文は幼名を利助といい捨て子だったという説もある。それが武士のはしくれから明治の指導者に出世すると家系が気になりだしたのか孝霊天皇の息子伊予皇子の三男小千王子が祖先とか、河野通有の子孫とか言い出した。系図屋に、りっぱな系図を作らせるのは今も昔もよくある話で、とがめ立てするほどのこともあるまいが、偉くなってからの彼は故郷へはほとんど帰らなかった。昔の素性を知るものには頭が上がらないからである。だが、身分が低かろうが実力さえあれば偉くなれるという混乱期の日本を象徴するように首相、政党総裁、枢密院議長、公爵と位人臣(くらいじんしん)を極めた伊藤の生涯は、いわば明治版太閤記である。」という。
伊藤弥右衛門=直右衛門(水井武兵衛)=伊藤重蔵(林十蔵)━伊藤博文(林利助)
桂太郎━━寿満子
      ∥
   ┏━伊藤文吉
   ┣━伊藤眞一
   ┣━━━生子
   ┃    ∥
   ┃  末松謙澄
   ┣━━━朝子
   ┃    ∥
   ┃  西 源四郎
伊藤博文===伊藤博邦━┳伊藤博精━┳博雅━━━┳智明
            ┣清水博春 ┣邦子   ┗八重子
            ┣伊藤博通 ┣雪子
            ┣伊藤博約 ┣━━文子
            ┣伊藤博忠 ┃   ∥
            ┣伊藤博臣 ┃ 千家達彦
            ┣林 博利  ┣典子
            ┣伊藤博経 ┗久子
            ┣伊藤博孝
            ┣伊藤博英
            ┣琴子
            ┣愛子
            ┗十四子

家族・親族

脚注

  1. ^ 1876年発布のオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)は大日本帝国憲法より13年早いが、2年後の1878年から1908年まで停止しており、また現在のトルコ共和国政府はトルコをヨーロッパの国であるとみなしている。
  2. ^ 山口県光市束荷字野尻
  3. ^ 塙次郎の子、塙忠韶は明治維新後政府から召しだされ大学少助教に任ぜられ、その後文部小助教、租税寮十二等出仕、修史局御用掛へと一旧幕臣でありながらと異例の出世を経験した。これについて司馬遼太郎は伊藤が後年自責の念から忠宝を礼遇したのではないかと推測している...「死んでも死なぬ」『幕末』収録より。
  4. ^ 朝日新聞 2008年6月3日付記事
  5. ^ 『伊藤博文と韓国併合』 青木書店
  6. ^ 2010年8月22日放送 7:00-7:45 NHK総合
  7. ^ 『実録 首相列伝』学研
  8. ^ 上垣外憲一『暗殺・伊藤博文』ちくま新書、2000年、大野芳『伊藤博文暗殺事件 闇に葬られた真犯人』新潮社、2003年、海野福寿『伊藤博文と韓国併合』青木書店、2004年
  9. ^ 私的蓄財はほとんどないとされていた伊藤だが、実は公債だけで14万円(2009年換算で約28億円)も溜め込んでいたことが明らかになっている。伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』講談社、2009年
  10. ^ 以上引用『実録 首相列伝』学研より。
  11. ^ 大庭 みな子『津田梅子』朝日文芸文庫、朝日新聞社、ISBN 4022640130
  12. ^ 明治42年(1909年)松山での講演会での発言。
  13. ^ 『海南新聞』1909年明治42年)3月18日号の記事によると、同年3月16日松山道後を訪れた伊藤博文は、歓迎会演説の中で自らの出自に就いて 「予ノ祖先ハ當國ヨリ出デタル者ニテ、伊予ニハ予ト同シク河野氏ノ末流多シト存スルガ、予ノ祖先ハ300年以前ニ於テ敗戰ノ結果、河野一族ノ滅亡ト共ニ中國ヘ移リタル者テ「通起(みちおき)」ト称シ慶長16年(1609年)5月26日ニ死歿シタルガ故ニ、明年ニテ恰モ300年ニ相当ス。彼ハ「林淡路守通起」ト称シ、予ハ其レヨリ第11代目ニ當レリ。「通起」ハ敗戰ノ後、毛利氏ヲ頼リタルモ、毛利氏モ當敗軍ニ属シ、頗ル艱難ヲ極メタル時ナルカ故ニ、遂ニ村落ニ埋歿シ落魄シテ、眞ニ僻遠ナルカ寒村ニ居住シ、其裔孫此処ニ存続シテ、今ヤ一族60餘軒ヲ算スルニ至レリ。予モ即チ其一人ニシテ、明年ヲ以テ齢70ニ達スルガ故ニ、恰モ周防ニ移リタル通起ノ歿後230年ニ出生シタルモノナリ。予カ父母ニ擁セラレテ萩ノ城下ニ出デタルハ僅ニ8歳ノ時ニシテ、爾来幾多ノ変遷ヲ経テ、今日ニ及ベリ。近來家系ノ事ニツイテ當國ノ諸君ガ頗ル調査ニ盡力セラレタル結果、周防移住以前ノ事蹟、大ニ明確ト成リタレハ、明年ハ周防ニオイテ親族ヲ参集シ、通起ノ為ニ300回忌ノ法要ヲ營ム心算ナリ。今次當地ニ於テハ、諸君ガ頗ル厚意ヲ以テ來遊ヲ歓迎セラレタルハ、右ノ縁故ニ基クモノトシテ、予ハ殊更ニ諸君ニ対シテ感謝ノ意ヲ表スル次第ナリ。顧フニ古來成敗ノ蹟ニ就テ考フレハ、予ガ祖先ハ當國ヨリ出デタルモノナレバ、當國ハ即チ祖先ノ故郷ナリ。今ヤ祖先ノ故郷ヘ歸リ來リテ斯クノ如ク熱誠ナル諸君ノ歓迎ヲ受ク。胸中萬感ヲ惹カザルヲ得ズ。加之、本日ハ諸君ガ我過失ヲ論ゼズシテ、唯々微功ヲ録セラレタルニ至テハ、深ク諸君ノ厚意ヲ心ニ銘シテ忘却セズ」と発言している。
  14. ^ 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 226、227頁

参考文献

  • 浅野豊美『帝国日本の植民地法制 法域統合と帝国秩序』名古屋大学出版会、2008年2月。ISBN 978-4-8158-0585-2 
  • 学習研究社編集部編 編『実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌』学習研究社〈歴史群像シリーズ 70号〉、2003年7月。ISBN 4-05-603151-7 
    • 学習研究社編集部編 編『実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌』学習研究社〈学研M文庫〉、2006年9月。ISBN 4-05-901189-4  - 2003年刊の増訂版。
  • 早川隆『日本の上流社会と閨閥』角川書店、1983年9月、211-215頁頁。ISBN 978-4-04-820001-1 
  • 檜山幸夫総編集 編『伊藤博文文書』 全36巻、伊藤博文文書研究会監修、ゆまに書房、2007-2010年。ISBN 978-4-8433-2294-9,ISBN 978-4-8433-2295-6,ISBN 978-4-8433-2296-3,ISBN 978-4-8433-2297-0,ISBN 978-4-8433-2520-9 
  • 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』新人物往来社〈別冊歴史読本57、第28巻26号〉、2003年9月、226-227頁頁。ISBN 4-404-03057-6 

伝記

  • 伊藤博文 著、新人物往来社編 編『伊藤博文直話 暗殺直前まで語り下ろした幕末明治回顧録』新人物往来社〈新人物文庫 71〉、2010年4月。ISBN 978-4-404-03839-5  - 唯一の回顧記の復刻。
  • 伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』講談社、2009年11月。ISBN 978-4-06-215909-8 
  • 佐々木隆『伊藤博文の情報戦略 藩閥政治家たちの攻防』中央公論新社〈中公新書 1483〉、1999年7月。ISBN 4-12-101483-9 
  • 春畝公追頌会編 編『伊藤博文伝』 上・中・下巻、春畝公追頌会、1940年。 
    • 春畝公追頌会編 編『伊藤博文伝』 上・中・下巻、原書房〈明治百年史叢書〉、1970年。  - 春畝公追頌会(1940年)刊の複製。
  • 瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』中央公論新社〈中公新書 2051〉、2010年4月。ISBN 978-4-12-102051-2  - 2010年サントリー学芸賞受賞。

関連作品

映画
テレビドラマ

関連項目

外部リンク

議会
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