愛新覚羅奕キョウ
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アイシンギョロ・イークァン
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| 生年月日 | 1838年1月11日 |
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| 没年月日 | 1917年1月28日(満79歳没) |
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| 内閣 | 慶親王内閣 |
| 任期 | 1911年5月8日 - 11月16日 |
| 元首 | 宣統帝 |
愛新覚羅 奕劻(あいしんかくら えききょう、アイシンギョロ・イークァン、1838年1月11日 - 1917年1月28日)は、清の皇族で清朝末期の重臣である。慶親王。諡は密。
目次 |
[編集] 生涯
奕劻は乾隆帝の第17子愛新覚羅永璘の孫で、父である輔国公綿性の長男として生まれた。
- 道光30年(1850年)、輔国将軍を襲名する。
- 咸豊2年(1852年)の正月に貝子に封じられる。
- 同10年(1860年)正月、咸豊帝の満30歳を祝して貝勒に進む。
- 同治11年(1872年)9月、同治帝の結婚によって、さらに郡王位が与えられ、御前大臣に任じられる。
- 光緒10年3月(1884年)に恭親王奕訢が失脚すると、その後任として総理各国事務衙門を預けられる。
- 同年10月、慶郡王に進む。
- 同11年(1885年)、清朝としての海軍力の集中運用を企図して総理海軍事務衙門が設立されると、その総理醇親王の下で李鴻章とともに会弁に任命される。
- 同12年2月(1886年)、内廷行走に任じられる。
- 同15年(1889年)正月、右宗正に任命される。光緒帝の結婚によって四団正竜補服を下賜され、子の載振は頭品頂戴を下賜される。
- 同20年(1894年)、皇太后の還暦の祝いに、皇太后の命令で慶親王に封じられる。
- 同26年(1900年)の義和団の乱に際しては、西太后が太原に避難しても北京に留まって、李鴻章と共に各国との和平交渉を行った。(最終議定書が北京議定書)
- 同27年6月(1901年)、和平交渉での諸外国の要求を容れる形で総理各国事務衙門は外務部に改められた。外務部の位置付けは「六部より上」とされ、そのトップには慶親王が横滑りした。
- 同29年3月(1903年)に栄禄が死ぬと、外務部のトップのまま軍機大臣に任命される。さらにこの時期、財政処・練兵処を任される。また、御前大臣の任を解かれるが、この職は息子の載振が引き継ぐ。
- 同33年(1907年)、陸軍部(練兵処を改組)の総理となる。
- 同34年11月(1908年)、光緒帝・西太后が相次いで死んだ後、世襲罔替の親王となる。
- 宣統3年4月(1911年5月)に軍機処を廃止して内閣制に移行すると、慶親王は初代の内閣総理大臣として慶親王内閣を組閣した。だがこの内閣は閣僚の多くが満州族・皇族で占められていたため、皇族内閣として不人気だった。
- 同年8月19日(新暦10月10日)に武昌起義が起こると、9月26日(新暦11月16日)には慶親王内閣は瓦解する。後継としては失脚していた袁世凱を呼び戻して、自らは皇帝の顧問的位置づけである弼徳院の総裁となった。後に袁世凱と共に隆裕太后に宣統帝退位を勧めた。
- 中華民国が成立すると、子の載振と一緒に巨額の私財を携えて天津のイギリス租界に引っ越し、後にまた北京の西城区定阜街3号にある慶王府に戻った。
- 1917年1月28日に慶親王は慶王府内(一説には青島[1])で病死した。民国の大総統の黎元洪は命令を出して、長男載振の慶親王位の世襲を許した。
[編集] 家庭
清朝では皇族は5人まで妻を持つ事ができたが、奕劻には6人の妻があった。この事からも彼が親王の中でも特別な地位にいた事が分かる。
また彼には6人の男の子供がいた。三男・四男・六男は夭逝した。
この他に12人の女の子供がいたが、その中で三女・四女は常々西太后に付き従って遊んだり写真に写ったりしている。
西太后の実弟である承恩公桂祥の息子に、娘を嫁がせている。
[編集] 慶親王の家系図
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養子 |
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| 儀慎親王永璇 |
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慶僖親王永璘 1766-1820 |
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| 儀順郡王綿志 |
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慶良郡王綿愍 ?-1820-1836 |
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貝子綿悌 1811-1842-1849 |
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不入八分輔国公綿性 1814-1879 |
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| 已革慶郡王奕綵 1820-1836-1842 |
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慶密親王奕劻 1838-1850-1917 |
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慶親王载振 1876-1917-1947 |
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[編集] 評価
過去、奕劻の評価は「愚昧な汚職官吏」というものであった。しかし彼は清末の新政においてどちらかと言えば積極的な推進派であり、例えば沈家本の法制度構築を支持したりしている。[2]。
[編集] 参考文献
- 清史稿 巻二百二十一列伝八 『諸王七』