皇太子徳仁親王妃雅子

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皇太子徳仁親王妃 雅子
日本の皇太子妃
Crown Princess Masako of Japan.jpg
2009年(平成21年)12月23日
天皇誕生日一般参賀にて
身位 皇太子妃親王妃
敬称 殿下
Her Imperial Highness
お印 ハマナス
出生 1963年12月9日(50歳)
日本の旗 日本 東京都港区虎の門病院
配偶者 皇太子徳仁親王
子女 愛子内親王
父親 小和田恆
母親 小和田優美子
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皇太子徳仁親王妃雅子(こうたいしなるひとしんのうひ まさこ、1963年昭和38年)12月9日 - )は、日本皇族皇太子徳仁親王の妃。旧名・小和田雅子(おわだ まさこ)。身位皇太子妃親王妃皇室典範に定める敬称殿下お印ハマナス勲等勲一等宝冠章学位経済学士(Bachelor of Arts in Economics magna cum laude)(ハーバード大学1985年)。


略歴[編集]

生い立ち[編集]

独身時代[編集]

徳仁親王との馴れ初め[編集]

  • 1986年(昭和61年)に来日したスペインのエレナ王女の歓迎レセプションに出席した時に徳仁親王と知り合い[5]、研修留学からの帰国後には、皇太子となった皇太子徳仁親王の御妃候補として報道され、大きな話題となった。その後、徳仁親王との交際に付いては、『鴨場でのデート』も話題になっている。
  • 1992年(平成4年)12月12日に、皇太子徳仁親王からの求婚を受諾している[5]

愛車と流行[編集]

当時、雅子が所有し運転するトヨタ・カローラIIが報道され、販売台数が爆発的に増えた。

皇太子妃時代[編集]

成婚を記念して発行された500円硬貨
  • 1993年平成5年)1月19日皇室会議にて徳仁親王妃に内定し、記者会見を行なう。ハーバード大卒のキャリアウーマンであること等が世間の注目を受けた。同年2月をもって外務省を退職。同年4月12日納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が行なわれた。成婚パレードには沿道に19万人の市民が集まり、テレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録した[6]6月17日に雅子の名が皇統譜に登録された。
  • 1996年(平成8年)5月、米国のニューズウィーク誌が伝統の中で能力を発揮できないという主旨の記事を掲載する[7]。同年12月の誕生日記者会見には単独で応じ、以後2002年(平成14年)まで6回、単独会見を開いている。
  • 1999年(平成11年)12月10日朝日新聞が朝刊一面で皇太子妃雅子の懐妊の兆候をスクープ報道する[8]。宮内庁および同東宮職は複数回に渡り、過熱報道の自粛を要請した。皇太子妃雅子は12月23日天皇誕生日一般参賀には出席したが、その後12月30日稽留流産手術を受けたと発表された。古川清東宮大夫・川口政行東宮侍医長・医師の岡井崇が記者会見を開き、懐妊が早期から大々的に報道され皇太子妃雅子に心労を与えたことを批判する一方、海外訪問[9]との因果関係については否定した[10]。また、過度の報道に対して徳仁親王は遺憾の意を表明した[11]
  • 2000年(平成12年)2月から、公務に復帰する。
  • 2001年(平成13年)4月16日に懐妊の可能性が発表された。
    • 同年5月15日に懐妊が正式に発表された。
    • 同年12月1日に第一女子・愛子内親王が誕生。結婚から8年余りでの第一子誕生だった。
  • 2004年(平成16年)5月、徳仁親王が訪欧を前にした記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言[12]。海外育ちで国際派と見られていた皇太子妃雅子と、伝統と慣習に厳格な宮内庁との間で不和があることをうかがわせた。この発言は人格否定発言と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。
  • 2006年(平成18年)からは今上天皇皇后(いずれも現在)陪席のもと、御所で歴代天皇のご進講を続けている。
  • 2010年(平成22年)3月以降、学校内に問題を抱えた愛子内親王を気遣って登下校に付き添うようになり[14]、外出の機会が一時期増加した。
  • 2013年(平成25年)4月28日、皇太子夫妻はオランダからの招待を受け同国の公式訪問が実現し、30日アムステルダムにある新協会で ウィレム=アレクサンダー (オランダ王) の即位式に出席した [15] 。海外で公務に臨んだのは夫妻でニュージーランドとオーストラリアを訪問した平成14年12月以来約11年ぶり。


公務と体調[編集]

2000年(平成12年)7月の香淳皇后の斂葬の儀の欠席や同年8月の佐賀県訪問中止を皮切りに、徐々に体調不良を理由とした公務や祭祀への欠席が目立つようになる。2003年(平成15年)には帯状疱疹のため長期静養し、翌2004年(平成16年)7月30日に、適応障害で長期間静養している事実が公表された。以後、東宮御所における接見を除けば出席する公務は殆ど無くなり、宮中祭祀も参加していない状態にある[16]。唯一、2009年(平成21年)1月2日、「昭和天皇二十年式年祭の儀」中の「皇霊殿の儀」に、今上天皇皇后の名代として夫の徳仁親王とともに拝礼した。これは2003年(平成15年)9月23日以来5年3ヶ月ぶりに、潔斎を経て平安装束を着用しての祭祀出席となった[17]

なお、公務の出欠の判断は病気の性質上東宮職医師団が行い、皇太子妃雅子の当日の体調により最終決定される [18]

2011年(平成23年)、4月より8月まで複数回、岩手県大船渡市などの東日本大震災の被災地慰問を行った[19]

2013年(平成25年)、復興の過程にある東日本大震災の被災地を励ますために東北三県の慰問を行った。8月20日には宮城県を訪れ、七ヶ浜町の仮設住宅を慰問した[20]。9月22日には福島県を訪れ、郡山市の仮説住宅と放射能対策の大型室内遊び場の親子達を慰問した[21]。11月1日と2日は岩手県を訪れ、3年ぶりの泊まりがけ公務にJR盛岡駅前の出迎えは1800人に達した。釜石市の仮設住宅と津波被害から復旧した水産加工会社を慰問した[22]

年譜[編集]

家系[編集]

小和田家系図
雅子 父:
小和田恆
外務省事務次官
祖父:
小和田毅夫
高田市教育委員長
祖母:
小和田静
母:
小和田優美子
祖父:
江頭豊
チッソ会長)
祖母:
江頭寿々子

発言[編集]

  • 「私に対して『皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』というふうに仰ってくださいました」 - 皇室入りを決意させたものについて
1993年(平成5年)1月19日、婚約内定の記者会見にて
  • 「本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」 - 愛子内親王出産の際の気持ちについて
2002年(平成14年)4月2日、愛子内親王誕生の際の記者会見にて[25]

脚注[編集]

  1. ^ ラドクリフ大学の項にDuring World War II, Harvard and Radcliffe signed an agreement that allowed women to attend classes at Harvard for the first time, officially beginning joint instruction in 1943. From 1963, Radcliffe students received Harvard diplomas signed by the presidents of Radcliffe and Harvard, and joint commencement exercises began in 1970. The same year, several Harvard and Radcliffe dormitories began swapping students experimentally, and in 1972 full co-residence was instituted. The schools' departments of athletics merged shortly thereafter. In 1977, Harvard and Radcliffe signed an agreement that put undergraduate women entirely in Harvard College, maintaining for them only a nominal enrollment in Radcliffe College. In practice most of the energies of Radcliffe (which remained an autonomous institution) were devoted to its other initiatives, such as the Bunting fellowship program, rather than to female undergraduates. During this time, the Harvard undergraduate community and class was officially known as "Harvard and Radcliffe" or "Harvard-Radcliffe", and female students continued to be awarded degrees signed by both presidents, even though Radcliffe usually had little to no impact on the average undergraduate's experience at the university.とあることから、小和田雅子が大学に入学した1981年当時、すでにラドクリフ大は大学独自の入学生を募集していなかった事実があげられる
  2. ^ 「素顔の雅子さま」 主婦と生活社
  3. ^ 1986年10月17日号「外交官に「清原級」ルーキー ハーバード出身小和田雅子さんの完全無欠」1986年12月6日 毎日新聞(夕刊)
  4. ^ 「麗しき外交官の卵」1986年10月6日 日本経済新聞(夕刊)
  5. ^ a b 1993年1月19日 毎日新聞「昨年5月に申し入れ 宮内庁長官、新事実明かす」
  6. ^ “【皇室ウイークリー特別編】お写真で振り返る皇太子ご夫妻の15年”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2008年6月8日). オリジナル2010年6月24日時点によるアーカイブ。. http://wayback.archive.org/web/20100624025958/http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080608/imp0806080824000-n1.htm 2013年10月19日閲覧。 
  7. ^ 1996年5月27日 読売新聞「「雅子妃は伝統の壁の中にこもってしまった」 米誌が特集記事」
  8. ^ 1999年12月10日 朝日新聞「雅子さま、懐妊の兆候 近く詳細な検査」
  9. ^ 12月3日~12月7日、ベルギー訪問(フィリップ王太子の結婚式に出席のため)
    なお、滞在中ヒール靴を履いたり等、妊娠を予感させる素振りは見せなかった(週刊朝日 1999年12月24日号)
  10. ^ 1999年12月31日 読売新聞「雅子さま流産 医師らの祈り届かず」
  11. ^ 皇太子殿下お誕生日に際し(平成12年)”. 宮内庁. 2013年10月19日閲覧。
  12. ^ デンマーク・ポルトガル・スペインご訪問に際し(平成16年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。
  13. ^ 宮内庁>広報・報道>公表事項>皇太子妃殿下のご病状に関する東宮職医師団の見解(平成22年2月5日)
  14. ^ 2010年12月9日 読売新聞「雅子さま47歳 体調 着実に快復」
  15. ^ 宮内庁>皇室のご活動>皇太子同妃両殿下のご日程>オランダご訪問(平成25年)
  16. ^ 宮内庁>皇室のご活動>皇太子同妃両殿下のご日程
  17. ^ 2009年1月7日 読売新聞(東京夕刊)「昭和天皇崩御20年 両陛下、武蔵野陵を拝礼」
  18. ^ 宮内庁>広報・報道>公表事項>皇太子妃殿下のお誕生日に際しての東宮職医師団見解(平成24年12月9日)
  19. ^ “【東日本大震災】皇太子ご夫妻が避難所をご訪問”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2011年4月6日). オリジナル2011年4月10日時点によるアーカイブ。. http://wayback.archive.org/web/20110410121252/http://sankei.jp.msn.com/life/news/110406/imp11040621000002-n1.htm 2013年10月19日閲覧。 
  20. ^ 2013年8月21日 朝日新聞「皇太子ご夫妻、宮城で激励」
  21. ^ 2013年9月23日 朝日新聞「皇太子ご夫妻、福島へ」
  22. ^ 2013年11月2日 朝日新聞「皇太子ご夫妻、釜石へ」
  23. ^ 新潟文化物語 - 地域文化情報
  24. ^ ラドクリフ大学の項にDuring World War II, Harvard and Radcliffe signed an agreement that allowed women to attend classes at Harvard for the first time, officially beginning joint instruction in 1943. From 1963, Radcliffe students received Harvard diplomas signed by the presidents of Radcliffe and Harvard, and joint commencement exercises began in 1970. The same year, several Harvard and Radcliffe dormitories began swapping students experimentally, and in 1972 full co-residence was instituted. The schools' departments of athletics merged shortly thereafter. In 1977, Harvard and Radcliffe signed an agreement that put undergraduate women entirely in Harvard College, maintaining for them only a nominal enrollment in Radcliffe College. In practice most of the energies of Radcliffe (which remained an autonomous institution) were devoted to its other initiatives, such as the Bunting fellowship program, rather than to female undergraduates. During this time, the Harvard undergraduate community and class was officially known as "Harvard and Radcliffe" or "Harvard-Radcliffe", and female students continued to be awarded degrees signed by both presidents, even though Radcliffe usually had little to no impact on the average undergraduate's experience at the university.とあることから、小和田雅子が大学に入学した1981年当時、すでにラドクリフ大は大学独自の入学生を募集していなかった事実があげられる
  25. ^ 愛子内親王殿下御誕生につき(平成14年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]