「広瀬久忠」の版間の差分
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山梨県立[[日川中学校]]、[[第一高等学校]]を経て[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]を大正3年 |
山梨県立[[日川中学校]]、[[第一高等学校]]を経て[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]を大正3年7月に卒業、[[文官高等試験]]に合格し[[内務省 (日本)|内務省]]に入省し、[[千葉県]]属を振出しに、大正6年5月に[[岐阜県]]警視、同7年10月に同理事官、同8年8月に[[警視庁]]理事官、同12年3月に警視庁警視、同年10月に[[滋賀県]]警察部長、同13年5月に内務省社会局書記官、同年12月に[[福井県]]内務部長、同14年10月に内務省復興局書記官、昭和4年5月に[[東京市]]助役、同5年8月に[[東京府]]内務部長となる。 |
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その後、同6年12月に[[三重県知事一覧|三重県知事]]、同8年6月に[[埼玉県知事一覧|埼玉県知事]]となり、同9年7月に内務省土木局長、同11年3月に社会局長官、同11年6月に[[内務次官]]、同13年1月に厚生次官を務めている。なお、これらと並行して[[対満事務局]]および[[企画院]]の[[参与]]も務めた。 |
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[[1939年]](昭和14年)1月の[[平沼内閣]]においては[[厚生省|厚生大臣]]<ref>広瀬久忠の厚生大臣就任は、山梨県出身者による初の大臣就任となった。</ref>となり、翌[[1940年]](昭和15年)1月の[[米内内閣]]においては[[内閣法制局長官]]となり同年5月には[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]に勅選されている。また、同16年12月に[[産業設備営団]]副総裁、同17年11月には同営団の総裁に就任している。 |
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[[太平洋戦争]]末期の[[1944年]](昭和19年 |
[[太平洋戦争]]末期の[[1944年]](昭和19年)7月の[[小磯内閣]]においては再度の厚生大臣を務め、、翌[[1945年]](昭和20年)2月には[[国務大臣]]兼[[内閣書記官長]]に転任し、同20年8月に[[地方総監府#地方総監|関東信越地方総監]]兼[[東京都知事一覧|東京都長官]]となったが、[[1946年]](昭和21年)8月に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による[[公職追放]](昭和21年8月~昭和26年8月)となっている。 |
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追放解除後の[[1953年]](昭和28年)には、[[第3回参議院議員通常選挙]]に[[山梨県選挙区]]から無所属で立候補して当選、政界に復帰した。その後[[緑風会]]を経て[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]へ移り、[[1959年]](昭和34年)の[[第5回参議院議員通常選挙]]では落選したが、[[1965年]](昭和40年)の[[第7回参議院議員通常選挙]]で当選した。 |
追放解除後の[[1953年]](昭和28年)には、[[第3回参議院議員通常選挙]]に[[山梨県選挙区]]から無所属で立候補して当選、政界に復帰した。その後[[緑風会]]を経て[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]へ移り、[[1959年]](昭和34年)の[[第5回参議院議員通常選挙]]では落選したが、[[1965年]](昭和40年)の[[第7回参議院議員通常選挙]]で当選した。 |
2014年9月13日 (土) 03:45時点における版
広瀬 久忠(ひろせ ひさただ、1889年(明治22年)1月22日 - 1974年(昭和49年)5月22日)は日本の官僚、政治家。
来歴・人物
山梨県東山梨郡七里村(現在・甲州市)に、父「久政」、母「さと」の長男として生まれる。[1]次男の勝丸は東山梨郡錦村(現在・笛吹市御坂町)の網野家の養子となり[2]、三男の繁は甲府市山田(ようだ)町の商家名取忠愛の婿養子として名取忠彦となり、昭和22年1月4日には山梨中央銀行頭取に就任し山梨県政にも影響力を持つこととなった。
山梨県立日川中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学法学部を大正3年7月に卒業、文官高等試験に合格し内務省に入省し、千葉県属を振出しに、大正6年5月に岐阜県警視、同7年10月に同理事官、同8年8月に警視庁理事官、同12年3月に警視庁警視、同年10月に滋賀県警察部長、同13年5月に内務省社会局書記官、同年12月に福井県内務部長、同14年10月に内務省復興局書記官、昭和4年5月に東京市助役、同5年8月に東京府内務部長となる。 その後、同6年12月に三重県知事、同8年6月に埼玉県知事となり、同9年7月に内務省土木局長、同11年3月に社会局長官、同11年6月に内務次官、同13年1月に厚生次官を務めている。なお、これらと並行して対満事務局および企画院の参与も務めた。
1939年(昭和14年)1月の平沼内閣においては厚生大臣[3]となり、翌1940年(昭和15年)1月の米内内閣においては内閣法制局長官となり同年5月には貴族院議員に勅選されている。また、同16年12月に産業設備営団副総裁、同17年11月には同営団の総裁に就任している。
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)7月の小磯内閣においては再度の厚生大臣を務め、、翌1945年(昭和20年)2月には国務大臣兼内閣書記官長に転任し、同20年8月に関東信越地方総監兼東京都長官となったが、1946年(昭和21年)8月にGHQによる公職追放(昭和21年8月~昭和26年8月)となっている。
追放解除後の1953年(昭和28年)には、第3回参議院議員通常選挙に山梨県選挙区から無所属で立候補して当選、政界に復帰した。その後緑風会を経て自由民主党へ移り、1959年(昭和34年)の第5回参議院議員通常選挙では落選したが、1965年(昭和40年)の第7回参議院議員通常選挙で当選した。
日本国憲法下では改憲を熱心に主張し、自主憲法期成議員同盟の初代会長に就任。また天皇の「首位」化、軍の創設、参議院の機能強化、基本的人権の限界規定などを主な特徴とする「広瀬試案」を発表した。
親族
- 妻: 広瀬陸子は宮内次官、枢密院書記官長を務めた河村金五郎の長女。また、母方の祖父は杉孫七郎。
- 長男: 広瀬久重は元日本銀行理事。
- 次男: 広瀬駿二は元大蔵省証券局長。
- 三男: 広瀬忠三は元労働省審議官。
脚注
公職 | ||
---|---|---|
先代 西尾壽造 |
関東信越地方総監 第2代:1945年 - 1946年 |
次代 (廃止) |
先代 田中武雄 |
内閣書記官長 第49代:1945年 - 1945年 |
次代 石渡荘太郎 |
先代 唐沢俊樹 |
法制局長官 第40代:1940年 - 1940年 |
次代 村瀬直養 |
先代 木戸幸一 小泉親彦 |
厚生大臣 第2代:1939年 - 1939年 第10代:1944年 - 1945年 |
次代 小原直 相川勝六 |
先代 篠原英太郎 |
内務次官 第40代:1937年 |
次代 羽生雅則 |