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有松英義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
有松 英義
ありまつ ひでよし
生年月日 1863年7月25日
文久3年6月10日
出生地 江戸幕府備前国御野郡岡山城下後楽園(現:岡山県岡山市北区
没年月日 (1927-10-24) 1927年10月24日(64歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本東京府東京市麻布区本村町(現:東京都港区南麻布
出身校 獨逸学協会学校
前職 司法官僚
内務官僚
所属政党 研究会
称号 従二位
勲一等旭日大綬章
大日本帝国の旗 第18代 法制局長官
内閣 寺内内閣
在任期間 1916年10月9日 - 1918年9月29日
在任期間 1920年2月17日 - 1927年10月24日
在任期間 1911年8月24日 - 1920年2月24日
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有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日文久3年6月10日〉- 1927年昭和2年〉10月24日[1])は、明治から昭和初期の官僚政治家寺内内閣法制局長官を務めた。通称は梅次郎。は子華。

来歴・人物

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備前国御野郡岡山城下に岡山藩士有松正義の長男として生まれる[2][3]1881年(明治14年)、岡山師範学校を卒業後、窪屋郡帯江小学校の教員をしながら漢学者西毅一の門下となる。陸奥宗光の著書を読んで上京して洋学を学ぶことを志した。相談を受けた同門の先輩である小松原英太郎は師である西が自由民権運動に没頭するのを憂慮して、1884年(明治17年)有松を獨逸学協会学校専修科に入学させた(小松原は同校の母体である獨逸学協会の会員であった)。そこで有松は同校の教師であるゲオルク・ミヒャエリスの影響を強く受けた。卒業後の1888年(明治21年)に行われた第1回高等文官試験において私立学校卒業者の合格第1号の1人となる。

だが、行政職ではなく、判事補に補されたことを不服としてその1ヶ月足らずで辞任して(ただし、辞表は司法大臣預かりのまま休職扱いとなる)、井上馨が構想していた自治党機関誌に予定されていた『自治新報』の記者となる。ところが自治党は成立せず、同誌も2年後に廃刊となると、司法大臣命令によって判事として復帰することとなり、そこでの実績が抜群であるとして司法省参事官に転じた。大日本帝国憲法第67条を巡る議論では政府の立場から論争に参加し、そこでの活躍が評価されて農商務省参事官、更に内務省書記官兼法制局参事官に転じる。治安警察法行政執行法著作権法出版法の立案・草案作成にあたり、第1次第2次桂内閣警保局長を務め、途中1904年(明治37年)には三重県知事を務めた。この間1910年(明治43年)には平田東助とともに幸徳事件の捜査指揮にあたり、幸徳秋水らを逮捕して、後に冤罪死刑に追い込んだ。この功績によって1911年(明治44年)8月24日、貴族院議員に勅選[4]され、研究会に属し1920年(大正9年)2月24日まで在任した[5]

1912年(大正元年)に帝室林野管理局長官、1914年(大正3年)に枢密院書記官長1916年(大正5年)に寺内内閣の法制局長官を務め、1918年(大正7年)には拓殖局長官1920年(大正9年)には枢密顧問官を歴任[6]、晩年は経営破綻寸前であった獨逸学協会学校の後援会理事長として母校再建に尽力した。墓所は青山霊園

栄典

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位階
勲章等
受章年 略綬 勲章名 備考
1902年(明治35年)6月30日 勲六等瑞宝章[7][12]
1903年(明治36年)5月15日 単光旭日章[7][13]
1904年(明治37年)6月28日 勲五等瑞宝章[7][14]
1905年(明治38年)12月22日 勲四等瑞宝章[7][15]
1906年(明治39年)4月1日 勲三等旭日中綬章[16]
1906年(明治39年)4月1日 明治三十七八年従軍記章[7][17]
1908年(明治41年)9月17日 日本赤十字社有功章[18]
1914年(大正3年)6月29日 勲二等瑞宝章[7][19]
1915年(大正4年)11月10日 大礼記念章[7][20]
1916年(大正5年)4月1日 旭日重光章[7][21]
1916年(大正5年)4月1日 大正三四年従軍記章[22]
1920年(大正9年)11月1日 勲一等瑞宝章[23]
1920年(大正9年)11月2日 大正三年乃至九年戦役従軍記章[24]
1921年(大正10年)7月1日 第一回国勢調査記念章[25]
1927年(昭和2年)10月24日 旭日大綬章[7][26] (没時叙勲)
1927年(昭和2年)10月24日 帝都復興記念章[7][27] (没後叙勲)
賞杯等

脚注

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出典

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  1. 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』92頁。
  2. 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 64頁。
  3. 『岡山県歴史人物事典』39頁。
  4. 『官報』第8454号「帝国議会」1911年8月25日。
  5. 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、29日。
  6. 『官報』第2260号「叙任及辞令」1920年2月18日。
  7. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 有松英義 アジア歴史資料センター Ref.A06051176700 
  8. 『官報』第2547号「叙任及辞令」1891年12月24日。
  9. 『官報』第7614号「叙任及辞令」1908年11月11日。
  10. 『官報』第772号「叙任及辞令」1915年3月2日。
  11. 『官報』第1858号「叙任及辞令」1918年10月11日。
  12. 『官報』第5696号「叙任及辞令」1902年7月1日。
  13. 『官報』第5962号「叙任及辞令」1903年5月20日。
  14. 『官報』第6298号「叙任及辞令」1904年6月29日。
  15. 『官報』第6746号「叙任及辞令」1905年12月23日。
  16. 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  17. 『官報』第7777号・付録「辞令」1909年5月31日。
  18. 『日本赤十字社史続稿:明治四十一至大正十一年』下巻、1929年10月。付録 p85
  19. 『官報』第574号「叙任及辞令」1914年6月30日。
  20. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  21. 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
  22. 『官報』第1411号・付録「辞令」1917年4月18日。
  23. 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
  24. 『官報』号外「叙任及辞令」1924年8月13日。
  25. 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  26. 『官報』第249号「叙任及辞令」1927年10月26日。
  27. 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  28. 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。

参考文献

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  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社、1994年。

外部リンク

[編集]
公職
先代
高橋作衛
大日本帝国の旗 法制局長官
第18代:1916年10月9日 - 1918年9月29日
次代
横田千之助
先代
高橋作衛
文官高等試験委員長
大日本帝国の旗 高等試験委員長
1918年
文官高等試験委員長
1916年 - 1918年
次代
横田千之助
先代
白仁武
大日本帝国の旗 拓殖局長官
第7代:1918年2月27日 - 同9月30日
次代
古賀廉造
先代
下岡忠治
大日本帝国の旗 枢密院書記官長
第10代:1914年4月18日 - 1916年10月9日
次代
二上兵治
先代
南部光臣
長官事務取扱
大日本帝国の旗 帝室林野管理局長官
1912年11月25日 - 1914年4月18日
次代
南部光臣
官職
先代
古賀廉造
安立綱之
大日本帝国の旗 内務省警保局長
第20代:1908年7月20日 - 1911年9月4日
第16代:1903年9月22日 - 1904年11月17日
次代
古賀廉造
仲小路廉