有田義資
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有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年12月26日)[1] - 1940年(昭和15年)8月12日[2])は、幕末の佐賀藩士、明治・大正期の内務官僚、政治家。県知事、津市長、錦鶏間祗候。
経歴
[編集]佐賀藩士・有田伝蔵の長男として佐賀城下水の江に生まれる。藩校・弘道館で学ぶ。戊辰戦争に従軍し、会津戦争に小隊副指令(嚮導)として参加。
1875年(明治8年)1月、内務省に入り地理寮雇となる。以後、栃木県師範学校副幹事、栃木県八等警部、島根県警部、福島県警部、青森県属・庶務課長、同県警部、青森県警部長、埼玉県警部長、福岡県警部長、山口県警部長、島根県・大分県・岡山県の各書記官などを歴任。
1900年(明治33年)4月、徳島県知事に登用された。以後、福島県知事・群馬県知事・三重県知事を歴任した。1911年(明治44年)9月、三重県知事を辞して退官した。1916年(大正5年)2月9日、錦鶏間祗候となる[3]。同年10月14日、津市長に就任した[4]。墓所は多磨霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 1898年(明治31年)4月16日 - 従五位[5]
- 1900年(明治33年)7月10日 - 正五位[6]
- 1905年(明治38年)7月31日 - 従四位[7]
- 1908年(明治41年)9月30日 - 正四位[8]
- 勲章等
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 「有田義資三重県津市長就任ノ件」
- ^ 『官報』第4083号、昭和15年8月15日。
- ^ 『官報』第1056号、大正5年2月10日。
- ^ 『官報』第1264号、大正5年10月16日。
- ^ 『官報』第4436号「叙任及辞令」1898年4月18日。
- ^ 『官報』第5106号「叙任及辞令」1900年7月11日。
- ^ 『官報』第6626号「叙任及辞令」1905年8月1日。
- ^ 『官報』第7581号「叙任及辞令」1908年10月1日。
- ^ 『官報』第5395号「叙任及辞令」1901年6月28日。
- ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
伝記
[編集]- 中野邦一編、有田満寿著『有田義資翁』有田満寿、1943年。