国鉄キハ20系気動車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Tokyo-Good (会話 | 投稿記録) による 2021年3月7日 (日) 16:23個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎キハ52形(譲渡車): 出典を追加。)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

国鉄キハ20系気動車
キハ20 32(一番手前側の車両)
基本情報
運用者 日本国有鉄道
北海道旅客鉄道
東日本旅客鉄道
西日本旅客鉄道
四国旅客鉄道
九州旅客鉄道
製造所 東急車輛製造
帝國車輛工業
富士重工業
日本車輌製造
製造年 1957年 - 1966年
製造数 1,126両
廃車 2011年
主要諸元
軌間 1,067 mm
最高速度 95 km/h[1][2]
車両定員 キハ20: 82名
(座席70名)[1][2]
自重 30.6 - 32.1 t[1][2]
全長 20,000 mm[1][2]
21,300 mm(キハ52)
車体長 19,500 mm[1][2]
全幅 2,928 mm[1][2]
車体幅 2,800 mm[6]
全高 2,803 mm[1][2]
車体高 3,680 mm[6]
床面高さ 1,250 mm[6]
車体 普通鋼[7]
台車 枕ばね:ゴムブロック
軸箱支持:鞍型ウイングばね式
DT17A/TR49A
枕ばね:下枕2連コイルバネ
軸箱支持:ウイングばね式
DT22A/C / TR51A/C[1][2][3][4][5]
車輪径 860 mm[3]
固定軸距 2,000 mm(DT19系)
2,100 mm(DT22系)[1][2]
台車中心間距離 13,800 mm[6]
動力伝達方式 液体式
機関 DMH17B/Cディーゼルエンジン[1][2] × 1基(キハ52は2基)
機関出力 118 kW (160 PS) / 1,500 rpm(DMH17B)又は132 kW (180PS)/ 1,500 rpm (DMH17C)[1][2]
変速機 新潟コンバーター製液体式(DF115)又は振興造機製液体式(TC2)[8]
変速段 変速1段・直結1段[9]
制動装置 DA1A自動空気ブレーキ[1][2]
備考 諸元節の特記無きはキハ20形の値を示す。
テンプレートを表示
碓氷峠鉄道文化むらに静態保存されているキハ20 467

国鉄キハ20系気動車(こくてつキハ20けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1957年[10](昭和32年)に開発した一般形気動車[11]。キハ20形と同一の設計思想で製造された形式群の総称である。

1966年(昭和41年)までに系列合計で1,126両が製造され、日本各地で広く使用された。

なお、「キハ20系」という呼び方は国鉄制式の系列名ではなく、鉄道ファンなどが便宜的に使用しているものである。

開発の経緯

本系列が開発された1950年代中期の時点では、国鉄では普通列車用気動車としてキハ10系(当時はキハ45000形一族、その後の通称はキハ17系)が製造されていたが、これらは当時の一般的な20m級客車と比較して車体断面が小さいために居住性が犠牲となっており、乗り心地の点でも問題があった[注 1]

これは、当時国鉄で気動車用として利用可能であった最大のディーゼル機関であるDMH17形の出力では、通常車体断面の20m級車体とした場合、重量過大に伴う出力不足で十分な走行性能が得られなかったがゆえの苦肉の策であり、そればかりか当時の車体設計手法では小車体断面化だけでは出力不足を補いきれず、客室内の各座席の座り心地を犠牲にした軽量化、あるいは乗り心地が悪いことを承知の上での軽量設計台車の採用など、ありとあらゆる手段を講じてようやく実用性能が得られている状況であった。

しかし、1955年ナハ10形軽量客車の完成で状況は一変する。スイス国鉄流の準モノコック構造車体と、プレス鋼板による溶接組立台車の導入により、十分な強度を維持したまま、従来比3/4程度の大幅な軽量化が可能となり、これにより、非力な既存エンジンのままでも大型車体を備える気動車の製造に目処が立った。

こうして、10系客車の設計ノウハウを有効活用する形で、翌1956年に大断面車体を備える20m級[注 2]気動車の第一陣として、準急形気動車であるキハ55形(当時はキハ44800形)が製造され、ここに初めて電車客車と同等の車体(車内設備)を備える気動車が実現した。

その後、キハ55形の成功を受ける形で、普通列車に用いる一般形気動車についても大型車体へ移行することが決定され、同形式に準じた設計で新たに開発されたのが本系列である。

形式一覧

  • 表中の年は、各番台の製造初年度を示す。
キハ20系形式一覧
形式 車体
形状
バス窓 二段上昇窓(除キハ22) 備考
白熱灯車 蛍光灯車
キハ20形
(キハ49000形)
両運転台 1 - 103
(1957年)
201 - 484
(1958年)
501 - 522
(1964年)
暖地向け
括弧書きは予定形式
キハ25形
(キハ49500形)
片運転台 1 - 75
(1957年)
201 - 253
(1958年)
301 - 314
(1963年)
暖地向け
括弧書きは予定形式
キハ21形
(キハ49200形)
両運転台 1 - 84
(1957年)
- - 寒地向け
括弧書きは予定形式
キハ22形 両運転台
デッキ付き
本形式はすべて
一段上昇・小型二重窓
1 - 170
(1958年)
201 - 343
(1963年)
酷寒地向け
キハユニ25形 片運転台 1 - 6
(1958年)
- 7
(1962年)
7のみキハ22形と同様デッキ付き
一段上昇・小型二重窓
寒地・酷寒地向け
郵便荷物二等合造車
キハユニ26形 片運転台 - 1 - 41
(1958年)
42 - 59
(1963年)
暖地向け
郵便荷物二等合造車
キハ52形 両運転台 - 1 - 56
(1958年)
101 - 156
(1962年)
横形エンジン
勾配線区向け
2個エンジン車
キユニ21形 両運転台 1・2
(1969年)
- - 寒地向け
キハ21形からの改造
キハ20系各型式で諸元が異なる点[1][12][2][13][14][15]
形式 キハ20 キハ21 キハ22 キハ25 キハ52 キハユニ25 キハユニ26
運用者 国鉄
JR東日本
JR西日本
JR四国
JR九州
国鉄 国鉄
JR北海道
JR東日本
国鉄 国鉄
JR東日本
JR西日本
JR四国
JR九州
国鉄 国鉄
製造所 東急
帝車
富士重
日車
帝車
新潟
帝車
富士重
新潟
日車
東急
富士重
帝車
新潟
帝車
新潟
東急
日車
新潟
製造初年 1957 1957 1958 1957 1958 1957 1958
製造数(両) 409 84 313 142 112 7 59
全廃年 1991[15] 1984 1995 1987 2010 1986 1987
座席定員(人) 70 70 71 76 76 40 40
定員(人) 82 82 82 88 88 46 46
自重(t) 30.6 - 32.1 32.1 - 32.6 32.0 - 32.9 30.0 - 30.7 35.5 - 36.6 30.5 - 30.8 31.1
全長(mm) 20,000 20,000 20,000 20,000 21,300 20,000 20,000
車体長(mm) 19,500 19,500 19,500 19,500 20,800 19,500 19,500
機関搭載数 1 1 1 1 2 1 1

構造

TR49形台車 写真はキハ11形に装着のもの。(佐久間レールパーク、2006年9月)

初期形(バス窓車)

当初は、キハ10系と同様に機関としてDMH17B形ディーゼルエンジンを搭載し、防振ゴムブロックを枕バネに使用するDT19C(駆動台車)・TR49A(付随台車)ウィングバネ式台車を装着した[注 3]

車体は先行するキハ55形の設計が踏襲され、だけではなく側板なども強度を分担する準張殻構造となり、キハ10系より大型化され、客車並みの大断面となった。また、従来の反省から、客ドア位置も車体中央寄りに配置され、ラッシュ時の客扱いに配慮している。座席も車体幅拡幅を受けて準急形に準じたゆとりのあるものとなった。客室内を通る排気管キセはキハ55 1 - 46などと同様に大型のタイプである。暖房装置は燃焼式の温気暖房である。

客室窓はキハ10系のそれを踏襲して、上段がH断面ゴムによる構体直接固定、下段が上昇式の俗にいう「バス窓」である。しかし、キハ10系とは異なり、窓下のウィンドウシル(補強帯)は廃され、平滑な外観となった。

初期車竣工当初の車体塗色は、当時の気動車標準色である濃い青(青3号)+窓周りが黄褐色(黄かっ色2号)のツートーンであった。また当系列においては前面幕板部の塗色が前照灯部分に回り込むように塗装されていることが他系列には見られない特徴となっている。

改良形

1958年からは機関を180psのDMH17Cに変更して走行性能を改善し、台車は従来のDT19で使用されていた硬い防振ゴムブロックに代えて複列コイルばねを枕ばねに使用した揺れ枕吊り台車とし揺動特性を改善したDT22A(駆動台車)・TR51A(付随台車)に変更することで大幅な乗り心地の向上が実現した。

車体の部材を専用のプレス品から市販の形鋼に変更し、調達コストの低減が図られた。また、客室窓が2段上昇式(上下段共に上昇式)に変更され、より近代的な外観となり、客室内の採光や換気も改善されたほか、排気管キセが小型化されて見通しがよくなった。

この際、派生形式として寒冷地向け仕様のキハ22形、郵便荷物合造車のキハユニ26形、そしてエンジンを2基装架する勾配線区向け強力形のキハ52形などが新たに設計された。

なお、このグループの初期車は室内灯として白熱灯を装備し扇風機無しで製造されたが、バス窓の初期形を含むその多くが後年に環形蛍光灯仕様に改造し扇風機の取付もされている。

塗色の変遷

1959年9月から一般形気動車は、外板色をそれまでの青系から、朱色4号の地色に、窓周りをクリーム4号の塗り分けとした新塗色へ移行した。

新塗色で落成した号車
キハ20 268 -
キハ22 35 -
キハ25 233 -
キハ52 15 -
キハユニ25 7
キハユニ26 9 -
この他、一部の車両では準急列車への増結を目的として準急色(外板色全体がクリーム2号で雨樋と窓下部分の帯が赤2号)に塗り替えられた車両もあった。

1978年度から、朱色(朱色5号)単色塗装のいわゆる首都圏色への塗り替えが行なわれている。

ただし、定期急行「いなわしろ」運用を持つ小牛田運転区配置のキハ52型(126 - 128,143)は、例外的に首都圏色への塗り替えは行われなかった。
1982年11月のダイヤ改正の「いなわしろ」運用廃止後も、一部は1985年頃まで前項の朱色系の塗り分けを維持していた。
これらの内、1983年に事故車(キハ53 6)の補充として米子運転所に転属したキハ52 128は、2000年に廃車になるまで塗装変更されることはなかった。

形式別詳説

両数・番台区分は上記「形式一覧」を参照。

キハ20形

キハ20 367(JR四国色、客室窓は上段固定下段上昇式のユニット窓に改造)

本系列の基本形式。暖地向けの両運転台、1基エンジン形で、4位側の乗務員室にやや食い込むかたちで便所を備える。1957年から1965年に409両[2]が製造された。計画時にはキハ49000形と称したが、登場が1957年の称号規程改正後となったため、この形式番号を称したことはない。

298・299のように北海道に新製配置されたものや、多客期に渡道したものもあり、日本全国で用いられた。戦前形の機械式気動車キハ04形・キハ05形・キハ06形キハ07形の取替時期に丁度当たっていたこともあり、大量に製造された。0番台は初期形のバス窓車、200番台以降は改良形の2段窓となった。最終期に製造された500番台では室内灯が蛍光灯に、暖房装置も温水式となり、台車もDT22C・TR51Bに変更されている。

ローカル線向けの簡易郵便荷物車として0番台を改造した600番台が2両、200番台を改造した650番台が1両存在した。これらは客室の一部分が郵便荷物室兼用となっており、その部分はロングシートとなっていて、仕切り用のアコーディオンカーテンが取り付けられていた。

キハ21形

キハ20形に耐寒装備を盛り込み、寒地向けとして1957年に製造された形式。計画時にはキハ49200形と称したが、登場が1957年の称号規程改正後となったため、この形式番号を称したことはない。主に北海道および東北地方で運用され、キハ22形も含めて急行列車にも投入された。

キハ20形0番台とは外観上は客用扉下部の明かり窓がないこと以外相似する。寒冷地向けの装備として、客室窓の二重窓化・運転台にデフロスタ設置・床下機器耐寒・耐雪装備を施工した。しかしドア位置はキハ20形と同じでデッキがなく、冬期の客室内温度維持に問題があることが指摘された。そのため1957年に84両が製造されたのみで、翌1958年からは耐寒・耐雪性能が強化された酷寒地向けキハ22形に製造が移行された。

1968年苗穂工場で3両が荷物車兼用(新聞輸送)としてロングシート化され100番台区分へ、1969年に旭川工場で2両がキユニ21形へ改造された。

当初は主に道内各地のほか東北地方などに配置されたが、キハ22形の増備が進むにつれ釧路客貨車区(現・釧路運輸車両所)・苗穂機関区(現・苗穂運転所)・苫小牧機関区(現・苫小牧運転所)・長万部機関区(1993年函館運輸区に統合)・函館機関区(現・函館運輸所)・一ノ関機関区(現・一ノ関運輸区)に集約配置された。

キハ40形の増備と共に1982年までに運用を離れ、1983年に全車廃車となった。

キハ22形

キハ21形は北海道の酷寒地での防寒性能が不満足であったことから、酷寒地向けの耐寒仕様車として完全に新設計されたものである。1958年から製造開始され、北海道および東北地方に配置されていた。製造会社はキハ21形の帝車と新潟に加え、富士重工業(現・SUBARU)と日本車輌製造が加わっている。

乗降口を車体両端へ配置して、客室との仕切り扉を備えたデッキ付きとし、側窓を小型の一段上昇式二重窓として保温性を高めている。暖房装置はエンジン冷却水利用の温水暖房として強化し、かつ放熱フィンを大型化して効率を良くした。床は雪が融けて濡れた時の滑りにくさや、雪靴・雪下駄の滑り止め金具(スパイクなど)への対策から張りとされ、さらに断熱材の厚さを増したため、暖地向けの標準車に比べ、レール面基準で50mm高くなった。そのため、客室窓、乗務員用扉、運転台窓、貫通路扉(幌枠高さは標準車と同じ)、尾灯の位置もキハユニ25 7を除くキハ20系他車よりも高い。また、警笛前照灯脇から、温水管の取り回しが楽な乗務員室床上(助手席足元)に変更された。

室内色も暖色系の薄茶色4号とされ、車端部がロングシートであること、窓側に肘掛けがないことを除けば、準急形のキハ55系に遜色ない水準であり、急行列車にも用いられた。

床下機器のカバーリングや冷却水による保温をはじめ、補器類に至るまで徹底した耐寒・耐雪措備が施され、北海道の酷寒地での実用上も十分な能力が確保された。

これら本形式の耐寒・耐雪スペックは、キハ56形一族711系交流電車キハ40 100番台、キハ54 500番台など、以後の北海道における一般・近郊形車両における耐寒設計の基準となったばかりでなく、羽幌炭礦鉄道留萠鉄道など、道内の私鉄においても本形式とほぼ同一設計のコピー車が導入されることになった[注 5]

便所はキハ20形同様4位側にあるが、その向かいがロングシートであるため出入口はデッキ側に変更され、立ち客や乗降の妨げとならないよう扉を内開きとしたことから前後方向の寸法も拡大されている。他のキハ20系中期車と同様、座席や室内灯などが製造途中で改良された。初期車の白熱灯は後に多数が20W環形蛍光灯に改造され、新製時から蛍光灯となった車両も、20Wの直管から40Wの直管へ設計変更されている。屋根上の通風器は初期の1 - 170では6個であったが、後の201 - 245では7個、246 - 343では9個へと変更されており、一部には客車用のガーランド形通風器を装備した車両も存在する。最終の設計変更では外ハメ式の尾灯ハニカムコア構造の客用ドア[注 6]も採用されたが、同じく遅くまで増備され、すでにキハ52形100番台で採用されていた横形機関(水平シリンダーエンジン)は本形式では採用されなかった。

また、同等の耐寒・耐雪装備を持つ2基エンジン車は製造されず、ローカル線では旅客需要がないにも関わらず、排雪ラッセル抵抗による運行障害(1軸駆動のため空転しやすかった)を防ぐため、冬季は2両編成で運転せざるを得なかった。

しかし、本形式に対する現場の信頼は厚く、酷寒地向け次世代車のキハ24形・キハ46形の仕様が具体化していた1960年代中期でも新形の採用には消極的で、本形式の駆け込み増備が図られたという(製造年・製造会社別一覧を参照)[注 7]

1960年代から1970年代に北海道のローカル列車の多くは本形式が投入されていた。また、循環急行「いぶり」、函館本線の「らいでん」、「せたな」や羽幌線の「はぼろ」など道内のローカル急行にも数多く使用され、これらは「遜色急行[注 8]として鉄道ファンに注目された。

1980年(昭和55年)に、200番台のうちの5両が苗穂工場釧路車両管理所で簡易郵便荷物車に改造され、600番台となった。車内の排気管立ち上がり部付近に完全なる仕切りが設けられ、郵便荷物室として使用される前位側(便所と反対側)の室内はロングシートとなった。室内には郵便区分棚が設置され、窓には保護棒が追加された。改番はされていないが、1も600番台とほぼ同じ仕様に改造されている。

本形式は北海道内での使用を前提に設計された車両であるが、キハ21形共々、一部は東北北部でも使用されていた(国鉄分割民営化後、JR東日本に引き継がれた車両もあった)。これらの中には、地方私鉄第三セクター鉄道へ譲渡、または貸し出された車両も存在する(詳細は後述の「#譲渡車・同形車」節を参照)。

キハ25形

キハ25 0番代(1978年) キハ25 237(1984年)
キハ25 0番代(1978年)
キハ25 237(1984年)

キハ20形を片運転台にした形式である。計画時にはキハ49500形と称したが、登場が1957年の称号規程改正後となったため、この形式番号を称したことはない。キハ20形0番台に相当する0番台、同200番台に相当する200番台、同500番台に相当する300番台がある。片運転台となったことで、キハ20形より客席が2区画(8名分)多い。後位(運転台のない側)の車端に便所を持つが、位置はキハ20形と異なり、3位側となった。

真岡線での運用を最後に1987年2月までに全車廃車された。

キハユニ25形

郵便車 キハユニ25 1(小樽交通記念館、2009年9月19日)

寒冷地・極寒地向けの郵便荷物合造車で、7両が製造された。

1 - 6はキハ21形の仕様に基づいて製造された寒冷地向けで、室内配置は前位から運転室・荷物室・郵便室・客室となっている。客室窓は上段固定の「バス窓」で、客用扉はキハ25形の後位扉と同位置にある。便所はない。

7はグロープラグの不具合によって焼失し、廃車となった6の代替として製造された車両で、車体はキハ22形に準じた極寒地仕様に設計変更された。客室窓は1段上昇の二重窓で、デッキを設けたため客用扉は車端部に移されている。

キハユニ26形

キハユニ26 12(岡山駅、1984年)

暖地向けの郵便荷物合造車。キハユニ25形と同様に室内配置は前位から運転室・荷物室・郵便室・客室となっている。客室窓は上・下段とも上昇式で、客用扉はキハ25形の後位扉と同位置にある。便所はない。

番台の区分はないが、構造は1 - 41がキハ20形200番台に、42 - 59は同500番台に準ずる。

キユニ21形

キハ21形を改造して郵便荷物合造車としたもので、1969年に2両が旭川工場で改造された。キハ20系の中で唯一形式変更を伴う改造が行われた車両でもある。

極力、種車の車体構造を生かすような改造がなされており、車体中央部の排気管立ち上げ部付近に仕切りを設け、前位側(1・2位、車体中央から見て便所と反対側)に郵便室、後位側(3・4位、同便所側)に荷物室を設けた。便所はキハ21形時代からのものをそのまま再用した。郵便室には郵袋室と区分室が設けられ、区分室部分にあった4枚の一段上昇式の窓は埋められた。荷扱い扉は旧客用扉をそのまま利用している。荷物室部分には、便所付近(ボックスシート3組分)のスペースに荷扱い車掌室と貴重品箱が設けられ、客用扉と窓6枚(戸袋窓2枚、一段上昇式窓4枚)を埋めた上、新たに1,800ミリ幅の両開き式の荷扱い扉が設けられた。荷扱い扉の材質は各車で異なり、1は鉄製、2は木製のものが使われていた。

当初は遠軽機関区に配置されたが、後に深川機関区に転属となった。1は深川機関区配置のまま1984年3月10日付で、2は旭川機関区配置を最後に1986年3月31日付で廃車となっている。

  • キハ21 26・35→キユニ21 1・2

キハ52形

キハ52 45(土讃本線窪川駅、1985年頃)

勾配区間用の一般形気動車で、キハ20形の2基エンジン搭載形である。

国鉄の2基エンジン気動車としては最初の両運転台車であり、急勾配のローカル線用車両として本州四国九州各地で重用された。キハ20形に準じた両運転台、片開き2ドア、2段窓であるが、エンジン、変速機、放熱器をそれぞれ2基搭載する必要から、床下スペースの確保目的で、全長が1.3m長い車両限界一杯の21.3mとなり、それに伴い、ドア間の2段窓の数もキハ20形の5個から6個に増えている。それでもなお床下は手狭なため、水タンクは床上(通路を挟んだ便所の反対側)に置かれた。

初期形(0番台)
1958年から1962年に製造された。エンジンはキハ20形200番台と同様の垂直シリンダー形DMH17C形。床面にエンジンの点検蓋がある。照明は白熱灯で、燃焼式温風暖房。
キハ52 128(米子運転所にて
許可を得て撮影)
後期形(100番台)
1962年から1966年に製造された。キハ58形とキハ80形の好評を受け、騒音と振動の低減、量産効果の向上(コスト低減)の見地からも2基エンジン車はすべて横形エンジンに統一されることになった。水平シリンダー形のDMH17Hを搭載し、床面点検蓋・車体中央壁面の排気管が廃止された。それにともない、排気管が車体の中央部から車端寄りに移ったため、0番台では排気管によって3個-3個に分かれていた客用扉間の窓が、6個等間隔に並ぶようになった。さらに、勾配線区での使用実績に基づきエンジンブレーキ機能が追加されている。末期にはキハ22形同様、外ハメ式の尾灯や、ハニカム構造の客扉が採用された。室内照明は蛍光灯で、キハ20系の中ではキハ22形と並んで例外的な温水暖房車。スタイルと旅客設備を除いたメカニズム面では、急行形気動車のキハ58形との共通点が多い。
100番台は静粛性に対する期待から、寝台気動車の試験[注 9]に供され、注目を集めたが、音振(おとしん)や変速ショックの点で採用には至らなかった。その後も日本では寝台車にエンジンを搭載した寝台気動車が実現した例はない[注 10]
2010年3月12日には、大糸線で運用されていたJR西日本が保有するキハ20系気動車最後の3両の運用が終了し、同年3月13日のダイヤ改正でキハ120形に置き換えられた。これによってJR線上でのキハ20系列の定期運用が終了した。
2011年8月3日に最後まで在籍していた新津運輸区のキハ52形7両が廃車されたことでJRでは全車廃車、同時にキハ20系の系列消滅となった。

キハ20形は一般型気動車であり、キハ22形を除いて定期の急行運用に就くことはなかったが[注 11][注 12]、本形式は、2基エンジンで強力なこと、単行運転が可能なことから、只見線および会津線の急行「いなわしろ」として、1982年6月23日東北新幹線開業による列車自体の廃止時まで、長らく使用された。この列車は気動車単行の急行で、かつ遜色急行であるとともに、急行「あがの」「いわき」と併結する多層建て列車として異色の存在であった。なお、この列車に専ら用いられたキハ52 128は首都圏色化されず、同列車廃止後小牛田から、盛岡、米子と転属した後も1999年の廃車時まで国鉄一般色で残った。

ローカル線向けの簡易郵便荷物車として0番台を改造した600番台が4両、100番台を改造した650番台が1両存在した。

製造年・製造会社別一覧

製造年別の製造会社一覧は以下の通り[14][15]

製造
年度
形式 東急車輛製造 帝國車輛工業 富士重工業 日本車輌製造 新潟鐵工所
1957 キハ20 1 - 4
13 - 25
38 - 62
5 - 8
26 - 37
74 - 88
9 - 12
63 - 73
89 - 103
 
キハ21   5 - 10
43 - 80
83・84
  1 - 4
11 - 42
81・82
キハ25 11 - 30
56 - 75
  1 - 10
31 - 55
 
キハユニ25   1 - 6  
1958 キハ20 206 - 211
225 - 234
240 - 254
212 - 224
255 - 267
201 - 205
235 - 239
 
キハ22   1 - 15   16 - 34
キハ25 201 - 203
205 - 214
  204
215 - 224
 
キハ52   1 - 14
キハユニ26 1 - 8  
1959 キハ20 268 - 279 280 - 291 292 - 299  
キハ22   35 - 52 53 - 85  
キハ25 225 - 229
241 - 248
  230 - 240
249
 
キハ52   15 - 25
キハユニ26 9 - 20  
1960 キハ20 394 - 403 404 - 423 349 - 358
379 - 393
424 - 427
300 - 348
359 - 378
 
キハ22   91 - 109 86 - 90  
キハ52   26 - 45
キハユニ26 21 - 36  
1961 キハ20   428 - 475  
キハ22   136 - 140 110 - 135
キハ25   250 - 253  
キハ52   46 - 56
キハユニ26 37 - 39  
1962 キハ20   476 - 484  
キハ22   155 - 169   151 - 154
170
キハ25 301 - 314  
キハ52   101 - 107
キハユニ25   7
キハユニ26 40 - 48  
1963 キハ20 501 - 503  
キハ22   211 - 216 217 - 230   201 - 210
キハ52   108 - 113
キハユニ26 49 - 51  
1964 キハ20   518 - 522   504 - 517  
キハ22   231 - 245  
キハ52   114 - 118
キハユニ26 52 - 59  
1965 キハ22   317 - 343 274
289 - 297
298 - 316 246 - 273
275 - 288
キハ52   119 - 148
1966 キハ52   149 - 156

国鉄分割民営化後の状況

キハ21形、キハ25形、キハユニ25形、キハユニ26形は国鉄分割民営化以前に全廃され、新会社に承継された内訳はキハ20形53両、キハ22形157両、キハ52形73両の計283両であった。東海旅客鉄道(JR東海)を除く旅客5社に承継された。

JR移行後は各旅客会社とも残った特定地方交通線の転換や新形式気動車への取替えにより廃車が進行し、キハ20形は1993年までに、キハ22形は1995年までに全車が廃車された。その後もキハ52形のみ残った。これは、本来キハ20系を置き換えるべきキハ40系の出力荷重比が悪く、キハ40形に対する強力形形式となるキハ67系の製造は様々な問題から少数に終わり運用にも制限がついたため、両運転台の一般型で強力形気動車として需要があったためである。しかし、21世紀に入る頃から新世代の気動車への置き換えが進み、JR九州、JR東日本の順に運用を離れ、2010年3月をもってJR西日本でも定期運用を終了した。

JR北海道

引き継がれたのはキハ22形のみで、経年が浅く状態のよい103両が残った。キハ40形のワンマン化にさきがけ、1990年苗穂工場でキハ22 321・314がワンマン化改造され、キハ22 701・702となり、1月に出場した。同年3月より函館本線上砂川支線でJR北海道の鉄道線では初となるワンマン運転を開始した。次いで同年内にキハ22 311・312・330・334が五稜郭車両所でワンマン化改造されてキハ22 703 - 706となり、江差線函館本線長万部以南の順に投入された。これらは白地に青の細帯とコーポレートカラー萌黄色の帯を巻いた新塗装で出場した。

ワンマン化改造された車両も含め1995年までに全車廃車された。

JR東日本

キハ20形11両、キハ22形54両、キハ52形30両が承継された。

キハ20形・キハ22形

キハ20形は足尾線用として高崎運転所に配置されていた車両と真岡線用として水戸運転所真岡支所に配置されていた車両で、両線の第三セクター転換により全廃された。

キハ22形は東北地方の各区に配置されていたが、ワンマン運転対応のキハ100・キハ110系の導入によって、1992年までに全廃された。

キハ52形

キハ52形は一部が新型エンジン[注 13]への換装と内装の更新改造を施され、2000年代後半まで使用された。

盛岡車両センター所属の車両は新潟鐵工所製またはコマツ製エンジンへの換装・客用窓の一段上昇式化改造が実施されたほか、外部塗色は白+赤帯の塗り分けとし、正面上半部を赤色とした「盛岡赤鬼色」と俗称される配色で使用された。また、2001年頃に一部の車両が国鉄時代の朱色4号+クリーム4号の配色に復元された。2007年11月まで17両が配置され、花輪線山田線岩泉線で使用されていたが、キハE130形の導入で余剰となった水郡線のキハ110系が順次転用され、花輪線からは同年3月18日改正で撤退、他2線区からも同年11月25日に撤退した。使用を終了した本形式は同年12月に全車がミャンマー輸出・譲渡のため、川崎貨物ターミナル経由で搬出された。

新津運輸区配置の車両は長野総合車両所(現長野総合車両センター)在籍時にカミンズ製エンジンに換装された。飯山線からの転属車で、外部塗色は転属当初は「飯山線色」のままであったが、のちに全車「新潟一次色」(上の写真を参考)へ塗色変更をしている。2006年に一部の車両が国鉄時代の朱色4号+クリーム4号の配色に復元された。最終的に7両が配置され米坂線羽越本線磐越西線で使用されていたが、キハE120形の導入により置き換えが実施され2009年3月14日改正で定期運用から離脱した。このうち国鉄色を纏った車両はその後も磐越西線・米坂線等で団体・臨時列車に使用され、特に同年10月から12月にかけて開催された新潟デスティネーションキャンペーンにおいて、同じ国鉄色に復元されていたキハ28形・キハ58形とともに多数の臨時列車に充当し、2009年12月26・27日の「ありがとう磐越西線国鉄色号」を最後に引退した。長らく同区に留置された後、2011年8月3日付で7両とも廃車され[16]、これをもってキハ20系は廃系列となった。同日中に全車がフィリピンへ輸出・譲渡のため、新潟東港経由で搬出された。

JR西日本

広島色のキハ20 519
キハ52 128
山陰本線・木次線用。首都圏色に変更されることなく国鉄一般色のままJRに承継され、1999年に廃車となるまで国鉄一般色のままであった
国鉄色に復元されたJR西日本キハ52 115(大糸線南小谷駅、2007年3月24日)

キハ20形8両、キハ52形13両が承継された。

キハ20形は加古川線鍛冶屋線用として姫路運転区に配置されたものと、芸備線用として広島運転所に配置されたものが承継された。加古川・鍛冶屋線用の車両は1989年までに全廃された。芸備線ではキハ20形が最後まで残ったが、1993年までに全廃された。

キハ52形は高山本線(富山 - 猪谷)用として富山運転所に配置されたもの、越美北線用として敦賀運転所に配置されたもの、山陰本線木次線用として米子運転所に配置されたものが承継された。最後には大糸線非電化区間(糸魚川 - 南小谷)用として越美北線から転じた3両が残ったが、車両の老朽化を理由に、2010年(平成22年)3月13日のダイヤ改正でキハ120形に置き換えられた。

なお、最後まで在籍していた3両は次の通り。

  • キハ52 115:1965年(昭和40年)製造
    • 2004年7月にクリーム4号+朱色4号の「国鉄一般色」に塗装変更。
    • 定期運用終了後の2010年3月20日 - 22日に運転された「キハ52ありがとう号」を最後に運用を終了し、同年3月31日付で廃車された。
    • 現在は津山駅構内にある津山まなびの鉄道館静態保存されている[17]
  • キハ52 125:1965年(昭和40年)製造
    • 2006年11月に黄褐色2号+青3号の「鉄道省色」に塗装変更。
    • 2010年8月21日・22日の臨時快速「ジオパーク」を最後に運用を終了し[注 14][18]、同年9月1日付でいすみ鉄道に譲渡された。
    • 現在はいすみ鉄道いすみ線にて運用されている(詳細は後述の「国鉄・JRからの譲渡車両」節を参照)。
  • キハ52 156:1966年(昭和41年)製造
    • 2004年12月に朱色5号の「首都圏色」に塗装変更。
    • キハ52 125と同じく臨時快速「ジオパーク」を最後に運用を終了し、同年10月1日付で廃車された。
    • 廃車後は糸魚川市に譲渡され、金沢総合車両所松任本所にて保管される間に補修が行われ、同市が実施したカラーリング投票の結果を踏まえ「国鉄一般色」に再塗装された。
    • 糸魚川市は2012年6月、大糸線にて同車をイベント列車として復活させる構想を発表していたが、その後糸魚川駅アルプス口駅舎1階の高架下施設「糸魚川ジオステーション ジオパル」に設けられる「キハ52展示待合室」にて静態保存する方針が決まり、2014年11月26日に搬入された。同年12月14日の北陸新幹線開業3か月前カウントダウンイベントでの一般公開を経て、2015年2月14日の「ジオパル」オープンにより常設公開が開始された[19]

なお、3両ともエンジンは製造当時のDMH17系のままであったが、越美北線時代に冷房設置の取り付け・便所撤去・ワンマン化改造工事がされていた。当初の外部塗色は越美北線時代の白を基調に緑のストライプを配したものであったが、後に全車が歴代の国鉄標準塗色に復元された。

JR四国

キハ20形20両、キハ52形3両が承継された。

キハ52形は松山気動車区に配置されていたが、1989年までに廃車となっている。キハ20形は松山気動車区・徳島気動車区高知気動車区に配置されて普通列車で使用された。一部の車両は延命工事を実施され客室窓が上段固定下段上昇式のユニット窓となったが、1990年の予讃線伊予北条駅 - 伊予市駅間電化に伴い、同年度内に全廃された。

JR九州

キハ20形14両、キハ52形27両が承継された[15]

キハ20形は高千穂線用として南延岡運転区に配置されていた11両と、都城運転区の1両、鹿児島運転所の2両が承継された[15]。南延岡運転区には全国で唯一JRに承継された0番台(キハ20 41)が配置されていた。高千穂線の第3セクター化などに伴い、1990年に全車が廃車となった。

キハ52形は承継当初は長崎運転所に1両、大分運転所に7両、熊本運転所に2両、人吉運転区に4両、鹿児島運転所に13両配置された。その後転属や廃車が進み、最終的には筑豊篠栗鉄道事業部に2両(キハ52 132・134)が保留車として残っていたが、2002年に廃車となり消滅した。

なお、JR九州に所属したキハ52形のうち数両の貫通路扉がキハ58形等の他形式のものに交換されていた[20]

譲渡車・同形車

本系列の中には他社に払い下げられたり貸し出されたりした車両があるほか、同仕様で製造した同型・類似車両が多数存在している。

2020年現在はいすみ鉄道とひたちなか海浜鉄道のみ稼働車が存在する。

国鉄・JRからの譲渡車両

キハ20形(譲渡車)

水島臨海鉄道キハ20形203・205(国鉄色)(倉敷市駅-球場前駅、2007年10月17日)
茨城交通(現・ひたちなか海浜鉄道)キハ200形205(国鉄色)(中根駅-金上駅、2008年3月2日)

鹿島臨海鉄道に4両、水島臨海鉄道に12両、島原鉄道に13両譲渡されている。鹿島臨海鉄道では2000形(2001 - 2004)、水島臨海鉄道ではキハ201 - 212、島原鉄道ではキハ2005 - 2017となった。2020年4月現在はひたちなか海浜鉄道のキハ205[注 15]が在籍している。

キハ22形(譲渡車)

下北交通キハ85形気動車

津軽鉄道弘南鉄道黒石線(旧国鉄黒石線))・下北交通大畑線)に各3両譲渡されている。津軽鉄道ではキハ22027 - 22029、弘南鉄道ではキハ2210・2220・2230、下北交通ではキハ85 1 - 3となった。いずれも老朽化や使用路線の廃線により廃車となっている。

また国鉄時代の1986年に阿武隈急行に5両、秋田内陸縦貫鉄道に9両が貸し出されている。ともに番号はそのままで塗色のみ塗り替えられた。いずれも1988年まで使用され、電化や新車両への置き換えによりJR東日本に返還された[注 16]

キハ52形(譲渡車)

いすみ鉄道にて一般色に塗り直されたキハ52 125(2020年8月6日)
首都圏色に塗装されていた頃のキハ52 125(2019年3月30日)

1987年に南阿蘇鉄道[21]、2010年にいすみ鉄道に1両ずつ譲渡されている。

南阿蘇鉄道に譲渡されたキハ52 35はMT2105に改番され当時のMT-2000形と同じカラーリングに塗り替えられたが[21]、あくまで予備車の位置づけのためワンマン化改造されず[21]、あまり使われないまま1993年に廃車となっている。

大糸線で最後までイベント用に運用されていたキハ52 125は黄褐色2号+青3号の塗色のままいすみ鉄道に譲渡され、2010年12月に行われたお披露目を兼ねた撮影会で展示された後、整備とクリーム4号+朱色4号への塗色変更を受け2011年4月29日から営業に入っている[22]。2014年3月からカラーリングが首都圏色に変更された[23]が、2019年6月に国鉄一般色に塗り直された[24]

同型車両

  • 留萠鉄道 キハ1100形1103 → 茨城交通
    • キハ21形同型車。1959年新潟鐵工所製。側窓配置はキハ21形に準じるが、前面はキハ1000形に続いて湘南型とされた。路線廃止後、茨城交通(現・ひたちなか海浜鉄道)へ譲渡。1991年廃車。
  • 留萠鉄道 キハ2000形2004・2005 → 茨城交通(→ひたちなか海浜鉄道)→平成筑豊鉄道
    • 1966年に新潟鐵工所と東急車輛製造で製造。キハ22形同型車であるが便所と二重窓は装備していない。路線廃止後、茨城交通へ譲渡。2004は国鉄準急色、2005は国鉄急行色を纏っていた。2015年に引退。キハ2004は平成筑豊鉄道に再譲渡され、動態保存される予定。
  • 羽幌炭礦鉄道 キハ22形1 - 3 → 茨城交通(→ひたちなか海浜鉄道)
    • キハ22形同型車。1960年 - 1966年富士重工業製。豪雪地帯用として、前面窓に旋回窓が装着されているのが特徴であった。また、ワインレッドに白帯の塗装は路線廃止後、茨城交通へ譲渡された後も維持され、一時期の同社車両の標準塗装となった。2は国鉄旧気動車標準色を纏っていた。2015年に引退。
  • 雄別鉄道 キハ49200Y形1 - 3 → 関東鉄道(→筑波鉄道)キハ760形761 - 763
    • キハ21形同型車。1957年新潟鐵工所製。台車はTR29相当の新潟鐵工所NH38で、キハ21の計画時の形式称号であるキハ49200に雄別の頭文字であるYを付した形式が与えられていた。路線廃止後関東鉄道へ譲渡、筑波線(後・筑波鉄道)で1987年の廃線まで活躍した。
  • 雄別鉄道 キハ100形104・105 → 関東鉄道(→筑波鉄道)キハ810形811・812
    • 1962年新潟鐵工所製。キハ21形の側窓配置のままキハ22形と同様の一段上昇窓としたもの。台車も正規のDT22・TR51相当となった。路線廃止後は関東鉄道に譲渡、キハ49200Y形同様筑波線に配属。筑波鉄道に分社後、812は1986年に廃車、811は廃線まで活躍した。
  • 雄別鉄道 キハ100形106 → 関東鉄道キハ813形813
    • キハ100形の増備車にして、雄別では最初で最後の片運転台車。廃止前年の1969年に新潟鐵工所で製造。路線廃止後は関東鉄道へ譲渡されたが、他の雄別からの譲渡車が筑波線に配属されたのに対し、本車のみは常総線に配属された。1989年廃車。
  • 定山渓鉄道 キハ7000形7001 - 7003
    • 国鉄札幌駅への乗り入れに備えて1957年に製造。客用扉を両端に寄せた翌1958年製造開始のキハ22形に近い側窓配置とキハ20系に準じた基本構造を備えるが、前面は湘南形の2枚窓構成で便所はなく、メーカーである日立製作所笠戸工場のオリジナルデザインである。国鉄線内は国鉄キハ08系気動車などとの併結あるいは単独で、定山渓鉄道線内はエンジンをアイドリングさせたまま電車に牽引されて運用された。1969年の路線廃止後はキハ7501を含めて全車が他社に譲渡されることもないまま解体処分されている。
  • 定山渓鉄道 キハ7500形7501
    • 1958年に製造された増備車。前面はキハ7000形と同様であるが、側窓配置がキハ21形に準じたものとなった。運用はキハ7000形と同様。
  • 津軽鉄道 キハ24000形24021 - 24024
    • 1962年 - 1967年新潟鐵工所製。窓配置等はキハ21形に準じているが、側窓はキハ22形と同様の一段上昇窓。2000年全廃。
  • 小湊鐵道 キハ200形201 - 214
    • キハ20形に準じた設計であるが、便所はなく扉間の2段窓が6個、座席はロングシート、前面も前照灯が前面窓上に2灯が独立してあるなど京成系の独自色が出ている。全車両が日本車輌製造製である。キハ20系の設計で製造された中では一番遅くまで増備が続いた。最終グループではユニット窓仕様となったものの、機関は保守部品共通化の見地からDMH17C形で首尾一貫した。国鉄車とも併結が可能であり、千葉駅まで乗り入れたこともある。現在も同社の全定期列車が本系列で運転されている。
  • 島原鉄道 キハ20形2001 - 2003
    • キハ20形同型車。国鉄線直通乗り入れ運転に備えて1958年に製造。2001・2002は日本車輌製造製で国鉄の0番台車と同じDT19C・TR49C装着のバス窓車。2003は帝國車輛工業製で200番台車と同じDT22A・TR51A装着の2段上昇窓車。いずれも国鉄車とは異なり便所が設置されていない。塗色は新製時は栗色とクリームの塗り分けに白帯だったが、後に国鉄急行色に準じた塗色となり前頭部に3本ひげで独自性を持たせた。2008年初の時点では2003のみが在籍していたが、2008年4月1日に島原外港駅(現在の島原港駅) - 加津佐駅間が廃止されたことにより廃車となった。

保存車

各地に保存車が存在する。本系列は大量淘汰の時期が特定地方交通線の転換と重なっており、廃止もしくは第3セクター化された特定地方交通線で使用されていた車両が保存されているケースも多い。

キハ20系静態保存車一覧
画像 番号 所在地 備考
キハ22 208 北海道枝幸郡中頓別町字中頓別
中頓別バスターミナル
(旧中頓別駅跡)
塗色を変更し集会所として使用されている
キハ22 202
キハ22 251
北海道紋別郡興部町幸町
道の駅おこっぺ
(旧興部駅跡)
塗色を変更し簡易宿泊所として使用されている(5月から10月の営業)
キハ22 237
キハ22 245
北海道上川郡下川町共栄町6
下川バスターミナル
(旧下川駅跡)
キハ22 69 北海道網走郡津別町字相生83-1
道の駅あいおい
(旧北見相生駅跡)
キハ22 168 北海道標津郡標津町字川北
川北バス待合所前
川北駅跡)
キハ22 239 北海道野付郡別海町西春別駅前西町1-2
別海町鉄道記念公園
西春別駅跡)
キハ22 221
キハ22 238
北海道帯広市幸福町東1線
幸福駅幸福鉄道公園
キハ22 52 北海道三笠市幌内町2丁目287
三笠鉄道記念館
キハ22 56
キハユニ25 1
北海道小樽市手宮1丁目3-6
小樽市総合博物館
下北交通
キハ85-1
キハ85-2
キハ85-3
青森県むつ市大畑町庚申堂
旧下北交通大畑駅
旧キハ22 149,150,151。転換時から廃止まで使用された。保存団体「大畑線キハ85動態保存会」の手によって定期的にエンジンを稼動させ、動態保存されている。キハ85-2は国鉄時代のクリーム色+朱色の塗装に戻され、番号もキハ22 150に戻された。運転会開催日のみ公開。
津軽鉄道
キハ22027
青森県五所川原市字大町7-5
津軽鉄道 津軽五所川原駅
旧キハ22 156。秋田内陸縦貫鉄道の開業時に同社に貸し出され、返還後に津軽鉄道に譲渡された。廃車後、津軽五所川原駅に留置されている。
津軽鉄道
キハ22028
青森県五所川原市金木町嘉瀬端山崎
津軽鉄道 嘉瀬駅
旧キハ22 169。秋田内陸縦貫鉄道の開業時に同社に貸し出され、返還後に津軽鉄道に譲渡された。1997年にテレビ番組「SMAP×SMAP」の企画として香取慎吾と地元の子供たちがペインティングを施し、「夢のキャンパス号」として使用されたが、2000年に廃車となり嘉瀬駅に留置されている。廃車後の2017年にはテレビ番組「おじゃMAP!!」の企画として香取らが塗り直しを行った。
弘南鉄道
キハ2230
青森県南津軽郡田舎館村大字高樋字八幡10
道の駅いなかだて
※解体済み
旧キハ22 143。弘南鉄道黒石線転換開業時に譲り受け、廃止まで使用された。同線で使用されていたキハ2105・2107とともに廃線による廃車後に保存され塗色も変更されたが、2013年に解体された。
キハ20 213 栃木県真岡市台町
真岡鐵道真岡駅構内
キハ20 247 栃木県真岡市台町2474-6
SLキューロク館
(真岡駅東口)
JR真岡線の最終列車に使用された車両。
キハ20 467 群馬県安中市松井田町横川
碓氷峠鉄道文化むら
キハ52 156 新潟県糸魚川市大町1丁目7-47
糸魚川ジオステーション ジオパル
糸魚川駅高架下)
大糸線非電化区間用として最後まで残ったキハ52形3両のうちの1両。
キハ20 443 静岡県浜松市天竜区二俣町阿蔵
天竜浜名湖鉄道 天竜二俣駅構内
新製時から廃車まで終始二俣線で使用されていた車両。天竜二俣駅構内に設置が計画されていた鉄道公園の保存予定車両として留置されていたが、鉄道公園の計画が頓挫し放置され荒廃状態となっていた。2006年からNPO法人「天竜レトロ・トレインクラブ」が保存・修復を行っている。
キハ52 115 岡山県津山市大谷
津山まなびの鉄道館
大糸線非電化区間用として最後まで残ったキハ52形3両のうちの1両。
キハ20 70 宮崎県宮崎市花ケ島町瀬々町1253-1
喫茶ろくろ
※車体前部のみ
高千穂線で使用された車両。車体がカットされているが、現存する唯一のキハ20形バス窓車である。
キハ20 441 鹿児島県鹿屋市共栄町20-2
鹿屋市鉄道記念館
(旧鹿屋駅
キハ20 452 鹿児島県鹿屋市吾平町麓51-1
キハ52 130 鹿児島県志布志市志布志町志布志3丁目26-1
志布志線大隅線記念公園
(旧志布志駅跡)

脚注

注釈

  1. ^ 近鉄への対抗上、スピードアップのためにキハ55系開発・製造を待たずに、止むを得ずキハ10系を準急に使用したケース(関西本線名古屋-湊町間準急、詳細はかすが (列車)及び近鉄特急史を参照)もあり、そこでキハ10系の居住性や乗り心地が問題視された。
  2. ^ キハ55系の車体長は、床下機器の多い2エンジン車に合わせ、全車21.3mとなった。
  3. ^ エンジンについては燃料噴射ノズルなどの改良でキハ10系より10psアップの170ps仕様とし、さらに後年その大半が180psのDMH17C形相当に改造または換装され、台車についても以後の増備車と同様にコイルバネ+オイルダンパを枕バネとするDT22A・TR51Aに交換されたものがある。
  4. ^ キハ12・16・17も温水暖房に改造され引き続き道内で使われた。
  5. ^ キハ58系以降の車両設計では、そのバリエーションとして北海道向けが製造される場合、当初より北海道形の設計要件が盛り込まれるか、北海道形を基本とするようになり、床や窓の高さは統一されている。「サンロクトオ」で北海道に初投入されたキハ80系も例外ではなく、車輪「踏面剥離」(と蝕)を除き、冬季も安定した運用が可能であった。
  6. ^ プレス成形のへこみがなくなり、平滑となった。
  7. ^ キハ22形の総数343両に対し、両運転台のキハ24形でも10両、片運転台のキハ46形に至ってはわずか6両の製造に留まっている。
  8. ^ 1980年の時点では、他に「えさし」、「しれとこ」、「ちほく」、「天都」、「松前」、「るもい」などにも投入された。
  9. ^ キハ52 107(1963年4月・盛岡工場改造)。機関防音・防振対策として新型機関吊り装置の試験を行い、合わせて車内に寝台を一区画仮設し寝台気動車の可能性を探った。また屋根上に自然冷却式放熱器を搭載してキハ90系気動車にデータを提供した。
  10. ^ 寝台気動車は2017年6月に「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」用87系が運行開始したことで初めて実現したが、87系は寝台車全車がエンジンを搭載しない付随車である。同年5月に運行開始した「TRAIN SUITE 四季島」用E001形も走行用に使用可能なエンジンを搭載するが、寝台車にはエンジンを搭載していない。それ以前に北海道内の夜行特急・急行において14系寝台客車に制御回線を追加し気動車編成に組み込んだ例があったが、列車は気動車列車であったものの、寝台車は客車扱いのままであった。
  11. ^ ただし、北海道では気動車不足から、キハ21形がかなりの頻度で支線直通系統の急行に使われていた。
  12. ^ 初期に房総地区で定期の準急に使用されたケースはある(キハ26形の製造が間に合わなかったため)。
  13. ^ 機関本来の仕様は出力330psまたは350psだが、種車の液体式変速機を流用したため、出力を250psに落として使用していた。
  14. ^ 最終日の8月22日にはヘッドマークに「さようならキハ52」の文字が付け加えられ、車体側面に行き先表示のサボが取り付けられた。
  15. ^ 水島臨海鉄道から茨城交通に譲渡後ひたちなか海浜鉄道が承継。
  16. ^ 秋田内陸縦貫鉄道への貸し出し車はJR東日本に返却後、うち2両が津軽鉄道に譲渡された。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『鉄道ピクトリアル』通巻605号p12
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『鉄道ピクトリアル』通巻823号p12
  3. ^ a b 台車近影 DT22A TR51A/水島臨海鉄道キハ20形
  4. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻515号p27
  5. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻515号p29
  6. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル』通巻605号p11
  7. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻605号p10
  8. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻823号p15
  9. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻905号p23
  10. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻823号p10
  11. ^ ネコ・パブリッシング『公式パンフレットに見る 国鉄名車輛』p.157
  12. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻605号p13
  13. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻823号p13
  14. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻605号p13
  15. ^ a b c d e f 『鉄道ピクトリアル』通巻605号折り込み
  16. ^ 『JR電車編成表2012冬』ISBN 9784330256115 359頁。
  17. ^ 西日本旅客鉄道金沢支社 (2009年12月18日). “平成22年春ダイヤ改正について” (PDF). 2009年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年12月19日閲覧。
  18. ^ 快速"ジオパーク",キハ52で運転 - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp 2010年8月23日
  19. ^ 新潟日報 (2015年2月16日). “糸魚川丸ごと再現 「ジオパル」オープン”. 2015年3月15日閲覧。
  20. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻605号p66
  21. ^ a b c 鉄道ジャーナル』第21巻第14号、鉄道ジャーナル社、1987年12月、114頁。 
  22. ^ “乗り心地「懐かしい」 キハ52、営業運転開始 いすみ鉄道”. 千葉日報 (千葉日報社). (2011年4月30日). オリジナルの2021年3月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210307161530/http://www.chibanippo.co.jp/news/local/40932 2021年3月7日閲覧。 
  23. ^ いすみ鉄道のキハ52、3月から「首都圏色」に - レスポンス、2014年1月29日
  24. ^ 令和の時代の昭和路線。いすみ鉄道のキハ52がきれいになりました。

参考文献

書籍

  • 寺田 祐一『私鉄気動車30年』JTBパブリッシング、2006年。ISBN 4-533-06532-5 

雑誌記事

  • 鉄道ピクトリアル』通巻496号「新車年鑑1988年版」(1988年5月・電気車研究会
    • 藤井信夫、大幡哲海、岸上明彦「各社別車両情勢」 pp. 118-133
    • 「国鉄車両昭和61年度新製車・改造車・廃車」 pp. 201-212
    • 「竣工月日表」 pp. 216-226
  • 『鉄道ピクトリアル』通巻515号「<特集> 台車」(1989年8月・電気車研究会)
    • 大幡 哲海「写真でみる台車あれこれ」 pp. 25-35
  • 『鉄道ピクトリアル』通巻605号「<特集>キハ20系」(1995年5月・電気車研究会)
    • 岡田誠一「キハ20系車両のあゆみ(国鉄編)」 pp. 10-17
    • 藤田吾郎「キハ20系車歴表」
    • 藤岡雄一「私鉄キハ20系カタログ」 pp. 39-43
    • 進藤匡「現役キハ52形のすべて」 pp. 59-67
    • 服部明宏・藤岡雄一「私鉄のキハ20系」 pp. 68-75
  • 『鉄道ピクトリアル』通巻823号「【特集】キハ20系」(2009年9月・電気車研究会)
    • 岡田誠一「国鉄キハ20系気動車のあゆみ」 pp. -23
    • 「キハ20系形式図」 pp. 24
    • 藤田吾郎「キハ20系気動車形式集」 pp. 25-35
  • 『鉄道ピクトリアル』通巻905号「【特集】 ディーゼルカー」(2015年7月・電気車研究会)
    • 「近年における気動車の技術動向」 pp. 21-27

Web資料

関連項目