国鉄キハ07形気動車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
外観
車内
運転台
操作盤(同和鉱業片上鉄道譲渡車の動態保存運転時のもの。1950年代以降の新型液体式気動車に準ずるケーシング付きの運転台パネルに改装され、液体式気動車用の主幹制御器を装備する)
乗車風景(同上)

国鉄キハ07形気動車(こくてつキハ07がたきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1951年に再生改造した一般形気動車(ディーゼル動車)である[1]。旧形式名はキハ42500形(2代目)で、1957年の称号改正でキハ07形に改称された。

概要[編集]

キハ42500形(2代目)の前身であるキハ42000形は昭和時代初期に鉄道省が開発したキハ41000形ガソリン動車を基本とし、大都市近郊路線に投入するために車体寸法を拡大して機関出力を強化したものである。

キハ42000形には、1935年(昭和10年)から62両が量産されたガソリン機関搭載の基本形式であるキハ42000形、および、1937年(昭和12年)に3両が試作されたディーゼル機関搭載の派生形式であるキハ42500形(初代)の2形式が存在した。キハ42500形(2代目) → キハ07形はこれらのうち、戦後まで残存していた車両について機関をディーゼル機関に換装して再生改造されたグループと、これらの設計に準じて戦後追加製造されたグループで構成される。

製造[編集]

キハ42000形は、1935年から1937年にかけて62両(42000 - 42061)が製造された。このほか、ディーゼル機関を搭載した試作車キハ42500形が1937年に3両(42500 - 42502)製造されている。

製造は、民間の川崎車輛日本車輌製造新潟鐵工所のほか、鉄道省の大宮工場でも行なわれた。製造所及び製造年、両数、番号は以下のとおりである。

  • 1934年度
    • 川崎車輛(4両) - 42000 - 42003
  • 1935年度
    • 日本車両(17両) - 42004 - 42010, 42013 - 42022
    • 川崎車輛(13両) - 42011, 42012, 42023 - 42033
  • 1936年度
    • 大宮工場(6両) - 42034 - 42039
    • 日本車両(8両) - 42040 - 42043, 42047 - 42050
    • 川崎車輛(7両) - 42044, 42051 - 42053, 42500 - 42502
    • 新潟鐵工所(2両) - 42045, 42046
  • 1937年度
    • 日本車両(3両) - 42054 - 42056
    • 川崎車輛(3両) - 42057 - 42059
    • 新潟鐵工所(2両) - 42060, 42061

1934年度製造(1935年竣工)の最初の4両は各種試験に投じられたのち、2両は西成線(現・桜島線大阪環状線の一部)用に宮原機関区に、別の2両が中央本線名古屋口ローカル用に名古屋機関区にそれぞれ配属された。以後は日本各地で多くの場合、1933年以降すでに先行して41000形が導入されていた路線にこれを置き換え、あるいは併用する形で投入され、捻出した41000形で新たな気動車運行路線を開拓する措置が(42000形増備が停止する1937年の戦時体制期までの短期間であったが)進められた。

戦後にもディーゼル機関を搭載し、ドアのプレスドア化など細部の仕様を変更した同形車が製造されている。こちらは、1952年に20両が製造された。製造所及び製造年、両数、番号は次のとおりである。

  • 1952年度

概略[編集]

キハ42000形の概要[編集]

キハ42000形気動車は、全長19m、自重約27t、定員125名、燃料積載量400リットルと、量産形気動車としては当時日本最大級の気動車で、機関も日本製気動車用床下吊り下げ形ガソリン機関としては最大のGMH17形を搭載していた。

基本設計は先行するキハ41000形に多くを負っているが、そのキハ41000形自体が江若鉄道C4形[2]などの日本車輌製造製私鉄向け大型気動車の開発成果を基にしており、型鋼を多用した軽量車体構造や菱枠構造を採用した台車などにその影響は顕著であった。

車体[編集]

車体はウィンドウ・シルから上を灰黄色(黄かっ色2号)、下を藍青色(青3号)に塗装され、客用扉は3箇所に設置された。また車体前頭部は空気抵抗の低減のため、当時の流行を加味した流線型となっていたが、工程短縮のため半円柱の2次曲面とされ、窓ガラスには通常の板ガラスを使用したため、6枚窓構成となっている。

窓配置はD1231D1321Dという不規則なものであるが、これは戸袋部分の制約や構体の強度確保等に起因しており、車内に等間隔で並べられたクロスシートは窓とは不一致であった。

主要機器[編集]

本形式はキハ41000形同様に動力伝達方式が機械式と呼ばれる、自動車のマニュアルトランスミッションと同様の手動変速方式で、総括制御ができない構造であったため、大都市近郊の路線で1両で頻繁運行するのが原則であった。ラッシュ時などに連結運転を行う必要がある場合は、各車両に運転士が乗車し、先頭車の運転士がブザーにより後方の車両へ合図を送り、後方の車両の運転士はその合図に従って運転操作を行う協調運転を行っていた。この協調運転は大阪市西成線(現在の桜島線)などの路線で実施され[3]、戦後も千葉県など一部で行われた[4]

機関はキハ41000形搭載の鉄道省と日本国内のエンジンメーカー各社が共同で開発したGMF13形6気筒エンジンをベースに、気筒数を増やして直列8気筒とした「GMH17」(水冷4ストローク縦型、サイドバルブ、排気量16.98リットル)ガソリン機関で、連続定格出力150PS/1500rpm、最大出力200PS/2000rpmであった。垂直シリンダエンジンの床下搭載という制約からくるストロークの限界と、GMF13がボア拡大できる余地が(ブロックの摩耗時ボーリング再生を配慮した気筒間肉厚マージンの大きさを考慮しても)十分なものではなかったことから、GMF13のボア・ストローク拡大ではなく、130mm×160mmのボア・ストローク比はそのままに気筒数を追加する、比較的技術のハードルが低い手段を採ったものである。ヘッド部分はGMF13が3気筒ずつ分割の2ブロック構成であったのに対し、GMH17では4気筒ずつ分割の2ブロック構成とした。

点火時期調整については、GMF13では遠心力制御による機械式ガバナを用いたのに対し、GMH17は出力増大を考慮して吸気負圧制御をも併用した機械・真空式ガバナに進歩した。キャブレターは排気量増大に見合った大容量キャブレターが作れず、日本気化器(現・ニッキ)製のGMF13用ストロンバーグ型アップドラフト・キャブレター「トキハUT-5」の同型品を2基装備したツイン・キャブレター方式で対処している。なお、国産機関の採用は、ウォーケシャ6RBなどの輸入機関を使用する例が多かった江若をはじめとした私鉄向け大型気動車群や外地向け気動車群とは一線を画していた。

円錐式クラッチ板、4段の変速機(D211)はキハ41000形と同一であったが、台車に装架される逆転機については、歯車比を3.489から2.976に変更して高速運転に対応したD208を別途設計している。

台車はキハ41000形の軸バネ式の菱枠台車TR26をベースに、約7tの重量増加に対応して下揺枕を設けて枕バネ構成を変更、車軸を10t短軸[5]とし、ホイールベースを1800mmから2000mmに拡大したTR29を採用した。TR26・29系台車はその軸距の短さとバネ構成から、高速運転時にピッチング現象が発生しやすいという問題があったが、当時の国鉄車両用台車としては珍しく走行抵抗軽減を目的としてスウェーデンのSKF社製品を元に日本精工(NSK)などで国産化した複列テーパー(円錐)ローラーベアリングを軸受に採用し、軽量化に特に留意した構造と共に、日本車輌の私鉄向け気動車の設計を元にした先進的なコンセプトの下で設計された台車であった[6]

キハ41000形と比してより高性能な、幹線での運用をも可能とする走行性能が与えられていたが、ブレーキシステムは軽量化のためにキハ41000形と同じ、直通・自動両用型のGPSブレーキがそのまま継承され、前述の機械式変速機とあわせて、長大編成での運用は考慮されていなかった。

高速試験運転[編集]

本形式での流線型採用の背景の一つとして、流線型ブームと共に、当時の鉄道省がドイツ帝国鉄道(DR)が「フリーゲンダー・ハンブルガー」として知られる一連の電気式気動車による高速インターシティサービスを展開して大成功を収めていたのに刺激され、気動車の高速運転を検討していたことが挙げられる。

そのため、本形式はその竣工直後の1935年6月18日から20日にかけて名古屋 - 大阪間で、7月15日16日に、超特急「」に続行する形で東京 - 静岡間でそれぞれ高速試運転を実施し、東京 - 静岡間ではキハ42000+キハ42003の2両による試運転列車が表定速度86km/h、最高速度108km/h(沼津-静岡間で到達)を記録[7]、一度は小田原で先行する「燕」に追いついてしまうなど、気動車による高速列車運行の可能性を示唆した。

その一方で、機械式ガソリンカーの協調運転には問題が多いこともこの時点で既に指摘されており、結局本形式による正式な高速運転の実施は断念された。このため以後、総括制御の可能なキハ43000形電気式ディーゼルカーや液体式変速機などの技術開発が進められたが、これらも戦局の悪化による燃料統制で中止となり、開発途上にあった液体式変速機や、ほぼ完成段階にあった試作標準型ディーゼル機関はそのまま戦後まで各地の工場で放置された。

ディーゼル機関の試用[編集]

1936年に、GMH17をベースに日本国内の鉄道車両用機関の有力メーカー3社の手によってディーゼル化したエンジンが試作され、これらを搭載し比較試験を行うためにキハ42000形と機関系統の機器以外は同一の車両が3両、キハ42500形という別形式で製造された。

この時試作されたのは新潟鐵工所LH8、池貝鉄工所8HSD13、三菱重工業8150の3社3種で、いずれもGMH17を基本とする縦型8気筒150馬力級ディーゼル機関であった。前2社が渦流式の副燃焼室を持つ排気量16990ccの渦流室式、三菱が直接燃焼室に燃料を噴射する排気量19467ccの直噴式、と各社が自社の得意とする技術を生かした仕様での独自設計で、各部に様々な差違があり、特に前2社製と三菱製では口径・ストローク共に異なるシリンダヘッド周辺を始め、相互間の部品の互換性はなかった。

これら3種による試験の結果、比較的悪質な燃料での使用に耐え、シリンダ内圧が低いため工作技術面でのハードルも低く、また海外特許や輸入部品への依存度が低いため国内生産が容易な渦流室式の採用が決定され、鉄道省と試験に参加した3社と川崎車輌、神戸製鋼所の共同設計で、標準型8気筒150馬力級ディーゼル機関の設計と試作が行われたが、実質的には新潟鐵工所LH8Xの直系というべき設計となった。なお、戦時体制への移行で機関の開発が中断され、実車試験は実施されなかったが、この機関が戦後のDMH17系ディーゼルエンジンの原型機となった。

西成線列車脱線火災事故[編集]

事故現場で横転、全焼した本形式

1940年1月に西成線安治川口駅で発生した列車脱線火災事故で、本形式は犠牲者189名を出す大事故の被災車となった。事故原因は駅員が列車通過中に分岐器を転換したという誤操作であり、車両自体に直接の欠陥があったわけではない[8]が、気化・引火しやすいガソリンを鉄道車両に使用することの危険性が指摘され、発火しにくくより安全な軽油を燃料とするGMH17を代替するディーゼルエンジンの開発が急がれた。この事故により、被災車1両(42056)が廃車となっている。

燃料統制と戦時供出[編集]

戦争の激化に伴い燃料統制が進んだ結果、ガソリン動車の使用は縮小され、他の気動車同様に使用不可能となり、大半が各地の車庫や側線に放置された。なお、客車代用としての使用例があまり見られなかったが、これは軽量化を目的とした簡易連結器の強度が低く、客車列車に組み入れる場合には必ず最後尾に連結しなければならないなど、客車との混用が難しかったためである。

また、10両(42021, 42022, 42041 - 42045, 42059 - 42061)が陸軍の要請により、1938年5月31日付けで特別廃車のうえ供出され、大宮工場鷹取工場標準軌に改造のうえ、中国の華中鉄道に送られた。全車とも戦後の消息は不明である。

終戦直後[編集]

1947年までに4両(キハ42010, 42020, 42025, 42030)が戦災などで廃車になり、このうち、所在が明らかにならなかった42020と42025は行方不明車として処理された。また、燃料不足などにより、20両が休車、客車代用として2両、倉庫代用として1両が使われ、キハ42500形も全車倉庫代用となっており、1949年までにさらに8両(キハ42000, 42004, 42015, 42017, 42024, 42035, 42037, 42054)が廃車となった。なお、戦後廃車になった車両のうち6両が私鉄で再起し、42000は車体を利用して救援車ナヤ6566に改造され、42035は国鉄に復籍して42506と改番されている。

天然ガス動車キハ42200形[編集]

戦後まで残存していたキハ42000形およびキハ42500形の一部は、戦後の輸送量の急増と、燃料統制によるガソリン配給量半減への対応のため、1950年天然ガス動車(キハ42200形)に改造された。これらが使用された千葉地区では、木原線で戦時中からの41000形ガスカー運行事例や、九十九里鉄道でのガスカー採用事例などもあって、1949年以降、房総東線の乗客による主要線区でのガスカー運行運動が盛んになっており、ガソリン供給事情の逼迫も伴って、ガスカー導入拡大を真剣に検討せざるを得ない事態となっていた。

まず1950年4月に新小岩工場で改造された9両が、天然ガスを産出する千葉県内の久留里線房総東線房総西線、木原線、東金線で使用開始され、同様に天然ガスを産出した新潟近郊の越後線弥彦線信越本線(新津 - 新潟、直江津 - 新井)、磐越西線(馬下 - 新津)にも投入されることになり、長野工場で11両が改造された。同年10月には、千葉地区用に2両が増備され、計22両が天然ガス動車となった。

GMF17エンジンにはガソリン用気化器に代わって、ガスエンジン仕様とするためのガス調整器が装備された。床下には40Lガスボンベ24個が設置され、その搭載スペースを捻出するため、ラジエータが運転台下の台車前方・車端部側に移設されていることで、外見からもガスカーと判別できた。

列車混雑に悩まされていた沿線利用者からは「ガスカー」によるフリークエントサービスは歓迎されたが、燃料の天然ガス価格が極端に高価であること(1951年時点で1kmあたりの走行コストを比較すると、ディーゼル動車(軽油燃料)1円65銭、ガソリン動車6円91銭であるのに比し、天然ガス動車は11円70銭であった)、ガス充填作業に時間や手間が掛かること[9]、出力の小ささ(正規のガソリン燃料使用時の約8割強に低下)や、機関の老朽化、爆発の危険性など、天然ガス動車運行に伴う障害は多く、運行する支社や現場は苦慮せざるを得なかった。それでもしばらく天然ガス動車の運行が継続されたのは、天然ガス自体は地元で産出するため安定供給が可能であり、沿線からの気動車運行ニーズも非常に高かったことによる。

燃料統制が1952年に解除され、安価な軽油の入手が容易になったことなどから、同年中には機関をディーゼル機関に載せ換え、キハ42500形(2代目)に再改造されて天然ガス動車は消滅した。しかし、もと天然ガス動車の42500形にはディーゼル化後もラジエータ位置が運転台下のまま存置されたものもあり、出自を判別できた。

改造前後の新旧番号対照は、次のとおりである。

  • 42011 > 42200
  • 42012 > 42201
  • 42023 > 42202
  • 42026 > 42203
  • 42031 > 42204
  • 42032 > 42205
  • 42034 > 42206
  • 42036 > 42207
  • 42001 > 42208
  • 42002 > 42209
  • 42005 > 42210
  • 42009 > 42211
  • 42016 > 42212
  • 42027 > 42213
  • 42033 > 42214
  • 42048 > 42215
  • 42049 > 42216
  • 42050 > 42217
  • 42051 > 42218
  • 42053 > 42219
  • 42500 > 42220
  • 42501 > 42221

電気式気動車キハ42400形(計画)[編集]

天然ガス動車への改造と同時期の1950年、キハ41000形に対して、陸軍統制型機関にルーツを持つバス・トラック用ディーゼルエンジンである、日野ヂーゼル製のDA55[10]に載せ換える改造が実施され、使い勝手が良く故障が少なかった。しかし、この機関は車体が大きく自重も重いキハ42000形には不適当で、駆動用機関としてそのまま使用することはできなかった。

そこで、DA55を発電機関として搭載し、電車用電動機をGMH17や変速機が装架されていたスペースに装架、ユニバーサルジョイントによる気動車の駆動システムで台車に動力伝達する、原始的な直角カルダン駆動方式(一種の車体装架カルダン駆動方式)を用いた電気式気動車への改造が計画され、キハ42400形として7両が改造されることが予定されたが、改造費や出力の小ささが問題となり、結局実現には至らなかった。

ディーゼル動車キハ42500形[編集]

キハ42500形(戦後増備車の42600番台車)。山陰本線馬堀駅付近、1954年頃

戦時中にほぼ完成しながら放置され、戦後試作機が「発見」されて再度開発が進められていた、GMH17後継の標準型ディーゼル機関がDMH17として制式化され、量産品が1951年に完成した。その評価試験結果が良好であったため、この機関を用いたキハ42000形、キハ42200形およびキハ42500形(初代)のディーゼル動車化を同年2月から開始した。

この新型機関を搭載する車両は新たにキハ42500形(2代)とされ、43両が大宮工場、新小岩工場、長野工場、名古屋工場、多度津工場で機関換装・改番された。番号は廃車および供出車の欠番を整理する目的で42500~42542に改番されたが、順序は不規則で旧番号順ではない(ただし、初代42500形3両は、結果的に改番を免れた42502以外の42500・42501の2両も、天然ガス動車からの再ディーゼル化に際して、製造当初と同じ車番に復旧する結果となっている)。改造前後の番号は下記のとおり。

改造前>改造後
  • 42220 > 42500
  • 42221 > 42501
  • 42502 > 42502
  • 42013 > 42503
  • 42014 > 42504
  • 42029 > 42505
  • 42035 > 42506
  • 42046 > 42507
  • 42047 > 42508
  • 42052 > 42509
  • 42208 > 42510
  • 42209 > 42511
  • 42003 > 42512
  • 42210 > 42513
  • 42006 > 42514
  • 42007 > 42515
  • 42008 > 42516
  • 42211 > 42517
  • 42200 > 42518
  • 42201 > 42519
  • 42212 > 42520
  • 42018 > 42521
  • 42019 > 42522
  • 42202 > 42523
  • 42203 > 42524
  • 42213 > 42525
  • 42028 > 42526
  • 42204 > 42527
  • 42205 > 42528
  • 42214 > 42529
  • 42206 > 42530
  • 42207 > 42531
  • 42038 > 42532
  • 42039 > 42533
  • 42040 > 42534
  • 42215 > 42535
  • 42216 > 42536
  • 42217 > 42537
  • 42218 > 42538
  • 42219 > 42539
  • 42055 > 42540
  • 42057 > 42541
  • 42058 > 42542

戦後製キハ42500形[編集]

1952年までに新たに20両がDMH17搭載で追加生産された。形式は同じキハ42500形だが、車番は区分の意味で42600 - 42619となった。車体が溶接組立でリベットなしとなり、前照灯は埋込み式、客扉は当初から鋼板プレスドアで、車内の座席配置の一部変更、全車輪の当初からのプレート車輪化などの変更がされた。

車軸・車輪折損対策[編集]

キハ42000形グループ戦前型の装備するTR29形台車の車輪は、駆動輪も含め、戦前はごく一般的であったスポーク式車輪であった。

ガソリン動車時代はGMH17エンジンのトルクが低かったこと(および、それ以外のトラブルが遙かに多かったこと)もあってさほど問題にはならなかったが、それでも駆動輪のスポーク折損は時折発生していた。戦後、ガソリンエンジンよりもトルクの強いディーゼルエンジンへの換装が始まった1951年頃から、42500形では駆動輪のスポークが折損、またはひびの入る事故が続発するようになった(これは兄弟形式である41000形グループでも同様に発生した)。1955年9月14日には、相模線でキハ41300形41314がスポーク折損に伴って脱線転覆に至る重大事故も起きている[11]

キハ42500形の車軸・車輪回り事故件数
年 度 車軸折損
又は入疵
車輪折損
又は入疵
1953 17 25
1954 13 6
1955 10 3

※1955年度は同年9月末までの数値。[12]

スポーク車輪の破損を防止する最も単純な対策は、スポーク車輪自体を廃してより強度に勝る円盤状のプレート車輪に変更することであり、戦後製造の42600番台グループは駆動輪が最初からプレート車輪仕様とされ、戦前形も駆動輪交換が順次進められた。

しかし、破損は車輪のみならず、車軸にも及んだ(戦後製の42600番台も例外でなかった)。車輪や車軸の補強改良が進んだが、それでも問題の根治には至らなかった。

国鉄の中・大型機械式ディーゼル動車で続発したこれらの部材疲労による破損問題に対し、1954年末から鉄道技術研究所が対策目的の測定を行った。当初はディーゼル機関の不釣り合い振動やねじり振動に起因するトルク変動が原因と思われたが、精密な測定で導き出された事実は異なっていた。列車の発進時に、車輪とレールとの間で滑りと粘着が繰り返される際、車軸の自励的なねじり振動が発生し、その応力が極度に過大であった故に、車軸やスポークの破壊を招いていたのである。

対策であるが、ねじり振動に耐えられるほどに車軸を太くするとおよそ実用的でない太さになってしまうことがわかった。そこで問題の根治策として、エンジン・クラッチの制御系改良が図られた。この改良は次のようなものであった。

  • ディーゼルエンジンの調速ガバナについて、従来標準装備だったが変速操作時の過回転をきたしやすい機械式ガバナに代わり、全回転域で燃料噴射の安定制御ができる真空式ガバナへ変更。
  • クラッチ動作はもともと空気圧シリンダによる遠隔式であるが、シリンダに空気溜めを追加してクラッチ作動の速度を緩和。

以上の対策で、車軸自励によるねじり振動発生はようやく抑制に至った[13]

なお、1952年製造のキハ42500形同型車で同様なトラブルに悩まされた夕張鉄道キハ200形の場合は、駆動系部品の相次ぐ強化の末、1957年にエンジンと変速機の間に流体継手を装備するトルク変動緩和策で問題を解決している。

称号改正と液体式への改造[編集]

1957年に実施された気動車の称号改正によりキハ07形に改正された。戦前製は0番台、戦後製は100番台に区分の上で改番された。更に、1960年から1963年にかけて100番台のうち15両の変速機が機械式から液体式のTC-2に交換されて総括制御可能となり、200番台へ改番された。

0番台(42500 - 42542 > キハ07 1 - キハ07 43)
100番台(42600 - 42619 > キハ07 101~キハ07 120)
200番台
  • キハ07 118 > キハ07 201
  • キハ07 119 > キハ07 202
  • キハ07 101 > キハ07 203
  • キハ07 102 > キハ07 204
  • キハ07 103 > キハ07 205
  • キハ07 109 > キハ07 206
  • キハ07 110 > キハ07 207
  • キハ07 107 > キハ07 208
  • キハ07 108 > キハ07 209
  • キハ07 111 > キハ07 210
  • キハ07 112 > キハ07 211
  • キハ07 113 > キハ07 212
  • キハ07 104 > キハ07 213
  • キハ07 105 > キハ07 214
  • キハ07 120 > キハ07 215

晩年[編集]

戦前型・戦後型を合わせても1950年代の実働両数は60両余りに過ぎなかったが、運用区域は広範で、各地で普通列車として運用された。1950年代中期までは川越線山陰本線京都口など主要都市近郊での編成運転も見られたが、10系気動車に始まる後続の液体式気動車に追われて地方路線に散った。

昭和30年代前半以降、一部は北海道に転用され、長距離運用に備えてトイレが設置された車両も存在、また時にスノープラウを装備して、深名線名寄本線のような酷寒地の路線でも運用された。1基エンジン・1軸駆動で決して強力とは言えない車両ながら、原型機械式車・液体式改造車のいずれも急勾配路線での運用記録があり、明知線、宮原線、木次線といった1000分の33連続勾配を擁する路線でも用いられていた。

1960年代に入ると車齢の高い戦前製車から廃車・私鉄払い下げが本格化、1964年以降は戦後製グループも整理対象となった。0番台は宮原線用の41 - 43が1969年まで使用され、国鉄で最後まで使用された機械式気動車となった。200番台も木次線で使われていた213 - 215が1970年まで在籍した。

晩年は朱色クリーム色に塗り替えられた[14]が、国鉄での旅客営業用で根本的な形態変更を生じた事例はほとんどない。

改造車[編集]

ナヤ6566(ナエ2703)[編集]

終戦直後の1949年9月に廃車になったトップナンバーのキハ42000の廃車体を、1951年3月に鹿児島車両所救援客車ナヤ6566として車籍復活させたものである。中央扉は埋め込まれてステップは除去され、その位置にトイレが設置され、砲弾型のケーシングに収められた尾灯が特徴的であったが、その他は原形をよく保っていた。

1953年の車両形式称号規程改正によりナエ2703に改番された後、1963年に廃車。

キユニ07形[編集]

四国地区の客車列車の気動車化によって不足した郵便荷物車の増備のため、1960年多度津工場で4両(キハ07 22, 27, 15, 23 > キユニ07 1 - 4)が改造された。

車体の前位を荷物室、後位を郵便室とし、荷重は荷物室5t、郵便室4tで積載可能な郵袋数は278個であった。既設の引戸は、中央部のものを除いて埋め込まれ、荷物室には幅1.8mの両開き式、郵便室には幅1mの片開き式の引戸が新設された。前後の客用扉の跡には、乗務員用の開き戸が新設されている。当初は、液体式に改造される計画であったようだが、機械式のままとされ、単行運転の場合は自走したが、液体式の気動車と併結する場合は協調運転を行なわずに牽引され、その際の発電用に従台車に車軸発電機を装備した[15]。形式図では前後扉のステップ跡が残され、トイレも設置されているが、前者は撤去されており、後者は設置されなかった。

高松運転所に配置され、1966年まで使用された。

キハ07 901[編集]

世界的に普及の兆しを見せていたガスタービン動車を日本においても研究するため、日本鉄道車輌工業協会が中心となって「ガスタービン車両技術委員会」が発足し、国鉄の車両設計事務所、鉄道技術研究所、メーカー15社が参加し、運輸省から研究補助金を受けて実車試験を行うことになった。この目的で、大垣機関区で廃車になったキハ07 204を種車として、ガスタービンエンジンを搭載する改造が行われた。ガスタービンエンジンは石川島播磨重工業ゼネラル・エレクトリックとの技術提携で製作したヘリコプター用IM100-2形(CT58形)ターボシャフトエンジン (1,050 PS/19,500 rpm) で、これを床下に搭載し、トルクコンバータ無しの一段減速機械式動力伝達装置を介して片方の台車の2軸を駆動する構造となっている。設計最高速度は150 km/h。この改造の際に動力台車をキハ181系気動車と同型のDT36Bに交換された。鉄道技術研究所での連続153 km/h性能試験を含む台上試験を1968年度(昭和43年度)に行い、最大推進軸伝達馬力は152 km/hで1,062 PS、最大動輪周引張力は85 km/hで2,050 kgを記録した[16][17]

これを受けて本線上でも試験走行を行なうこととなり、1969年11月に汽車製造東京製作所で再改造のうえキハ07 901として車籍復帰した。その際、付随台車のTR205Bへの交換とFRP製の流線形前面の取付けが行われた。1970年2月より磐越東線郡山 - 船引間23.1 kmで試験が行われた。この試験では7ノッチ起動後60秒で55 km/hに達する加速性能を記録し、最大動輪周引張力は2,500 kg、懸念されていた騒音はディーゼル動車と同等とされたが、力行速度が想定より低かったこともあり燃料消費率は既存の急行用ディーゼル動車の1.8倍に達した。さらに同年7月には川崎重工業製のKTF1430 (1,230 PS/18,500 rpm) を床上に搭載して同じく磐越東線で走行試験が行なわれた。こちらでは7ノッチ起動後60秒で57.5 km/hに達する加速性能で、最大動輪周引張力は3,100 kg、騒音は機関の床上搭載の効果によりディーゼル動車より低減し、減速比を大きくして燃費の良い回転数を中心に使用したことから燃料消費率は現行ディーゼル動車の1.4倍に改善した。これらの試験結果を基にしてキハ391形気動車が製作されることとなり、1971年に再び役目を終えて除籍された[16][17]

キヤ91 1(ヤ395)[編集]

電化工事用職用車のうちの建柱車として、キハ07 201をベースに1969年郡山工場で改造された。台枠以上の車体は取り払われ、台枠強化のため従来の台枠の上に別の台枠を組んで厚みを増し、その上に建柱用のジブクレーン、コンクリートミキサおよびディーゼル発電機、一端に運転台を設けている。種車の機関は残されて自走可能であったが、台車は重量の増した車体を支えるため、キハ10系用のDT19/TR49に交換されている。試用の結果、気動車では乗務員の手配、検修等に問題があり、1970年3月に電気回路の改造を実施して最高運転速度を45km/hに抑え、同時に貨車に車種変更してヤ395に改番した。同用途のヤ360形(穴掘車)、ヤ370形(骨材車)、ヤ380形(材料運搬車)、ヤ390形(装柱車・旧キヤ90形)とともに房総西線の電化工事に使用され、その後旧大網駅構内で長期休車の後、1984年に廃車となった。

キヤ92 1[編集]

電気検測車として、き電停止時でも検測できるよう気動車であるキハ07 205をベースに1970年に郡山工場で改造したもので、架線の測定機能の他に信号・通信関係の検測機能も備え、交流電化区間の検測も可能である。車体は、基本的に種車の構造を活かしているが、前位寄りの屋根上に検測用のパンタグラフ(下枠交差式)を3基搭載するため、その部分の屋根は低屋根化されており、後位寄りには架線観測用のドームが設けられている。床下には走行用の他に測定機器の電源用エンジンを装備している。台車は、改造当初は種車のままであったが、後にDT19/TR49に交換された。

後継のキヤ191系試験車が登場したため、1976年青森運転所で廃車になり、東京都国分寺市中央鉄道学園(国鉄職員の研修施設)で教材として使用されたが、1985年頃に同学園の閉鎖とともに解体された。

私鉄での使用[編集]

鹿島鉄道キハ600形602号 石岡機関区(2006年3月16日

キハ42000形は戦前に鉄道省が製作した最大の量産気動車で、戦後も追加新製が行われており、戦後すぐの段階では払い下げ対象とはならなかった。例外的に戦災等による廃車体が茨城交通羽幌炭礦鉄道などに早期に払い下げられ、車体復旧後バス用ディーゼルエンジンを搭載してディーゼルカーとして復活しているが[18]、この時期は戦時中の私鉄買収に伴う種々雑多な買収気動車群の整理・廃車が優先されており、私鉄からの気動車払い下げ申請には原則的にこれらが充てられていた。

そのため、この時期に本形式と同クラスの大型気動車の確保を企図した夕張鉄道南薩鉄道の2社は、本形式をベースとした車両を1952年に相次いで自社発注している。

このように、国鉄での温存が図られたキハ42500形も、1950年代中盤以降は液体式のキハ10系キハ20系の増備が進むにつれて余剰となり、最終的に廃車されたうち25両が同和鉱業片上鉄道有田鉄道江若鉄道関東鉄道茨城交通などに払い下げられた。

このうち、最多の7両[19]を揃えて主力車としていた江若鉄道では、当初は原型のまま使用された[20]が、のちに3両について片運転台化+切妻化した連結面側への貫通路設置あるいは両運転台のままでの貫通路設置+前面形状変更(平妻化)と乗務員扉の設置、前照灯のシールドビーム2灯化、機関のDMH17への換装、変速機の液体変速機(TC-2)への換装と総括制御化、車体補強(床下へのトラスロッド追加など)等々、国鉄のキハ10系と同等の機能となるよう改造を実施し、総括制御による「気動車列車」を運行していた。これらの車両は湖西線建設に伴う江若鉄道の廃止後は関東鉄道へ譲渡され、同社の気動車整備にも影響を及ぼした。

鹿島参宮鉄道(→関東鉄道(鉾田線)→鹿島鉄道)へ払い下げられ、最終的に鹿島鉄道キハ600形となった2両(キハ42032、42036。1936年/1937年製)は譲受後、変速機を液体式変速機に交換、前面形状を平妻に改造、冷房装置を搭載するなど大幅な改造・改修を重ねた。結果、車体側面の形態と台車(TR29台車)、床油引きの木張り床板等に、往年の姿を残すのみとなっていたが、2007年3月31日の鹿島鉄道線廃止まで第一線の主力車として運用された。現役最後の42000形気動車、かつ第二次世界大戦前製造車では日本最後の現役営業気動車となった2両の車齢は、鹿島鉄道線廃止時点で約70年に達した。これは、日本で一般旅客営業に運用された気動車の中でも、史上最長の運用期間記録である。

キハ42000形時代の譲渡車[編集]

  • キハ42004 > 常総筑波鉄道キハ42001 > 常総筑波鉄道キハ704 > 関東鉄道キハ704
  • キハ42015 > 羽幌炭礦鉄道オハフ5 > 羽幌炭礦鉄道キハ1001
  • キハ42017 > 長門鉄道キハ11 > 江若鉄道キハ19 > 江若鉄道キハ5122 > 関東鉄道キハ522
  • キハ42025 > 茨城交通ケハ302
  • キハ42030 > 茨城交通ケハ301
  • キハ42037 > 有田鉄道キハ210
  • キハ42054 > 江若鉄道キハ18 > 江若鉄道キハ5121 > 関東鉄道キハ521

キハ07形時代の譲渡車[編集]

旧同和鉱業片上鉄道キハ702(元キハ07 5)(2011年2月6日)
鹿島鉄道キハ602(元キハ07 32)
  • キハ07 1 > 江若鉄道キハ22
  • キハ07 2 > 江若鉄道キハ23
  • キハ07 4 > 片上鉄道キハ701 > 水島臨海鉄道キハ321
  • キハ07 5 > 片上鉄道キハ702
  • キハ07 8 > 片上鉄道キハ703
  • キハ07 9 > 江若鉄道キハ20
  • キハ07 24 > 江若鉄道キハ24 > 江若鉄道キハ5124 > 加越能鉄道キハ162 > 関東鉄道キハ551
  • キハ07 26 > 鹿島参宮鉄道キハ42502 > 関東鉄道キハ42502 > 関東鉄道キハ612
  • キハ07 29 > 鹿島参宮鉄道キハ42503 > 関東鉄道キハ42503 > 関東鉄道キハ601 > 鹿島鉄道キハ601
  • キハ07 30 > 鹿島参宮鉄道キハ42501 > 関東鉄道キハ42501 > 関東鉄道キハ615
  • キハ07 31 > 北陸鉄道キハ5251 > 関東鉄道キハ706 > 関東鉄道キハ614
  • キハ07 32 > 関東鉄道キハ42504 > 関東鉄道キハ602 > 鹿島鉄道キハ602
  • キハ07 35 > 常総筑波鉄道キハ705 > 関東鉄道キハ613
  • キハ07 38 > 江若鉄道キハ21
  • キハ07 106 > 加越能鉄道キハ173 > 関東鉄道キハ707 > 関東鉄道キハ611
  • キハ07 202 > 水島臨海鉄道キハ320
  • キハ07 206 > 有田鉄道キハ07 206
  • キハ07 207 > 有田鉄道キハ07 207

キハ42000形同型の私鉄新製車[編集]

準同型車

保存車[編集]

柵原ふれあい鉱山公園のキハ702
  • キハ07 41(旧番号キハ42055)は宮原線での使用を最後に1969年に廃車後、豊後森機関庫で保管されていたが、1986年大分運転所に移されて引き続き保管された後、2003年に修復され、九州鉄道記念館に展示車両として静態保存されている。
  • キハ07 5(旧番号キハ42029、同和鉱業片上鉄道キハ702)は1991年7月1日の片上鉄道廃止まで旅客営業に運用された後は柵原ふれあい鉱山公園で動態保存され、月に1回の割合で展示運転されている。なお、廃止以前の1968年1月に、ヘッドライトのシールドビーム2灯化工事が行われて[22]幾分イメージが変わったが、正面の流線形のフォルムは維持されている。
  • キハ07 29(旧番号キハ42032、鹿島鉄道キハ601)は70年以上にわたって使用された現役最後の国鉄キハ42000形気動車であったが、2007年の鹿島鉄道の廃止による廃車後は、他の鹿島鉄道の車両1両とともに旧鉾田駅にて動態保存され、イベントで実際に運転された。その後、2009年11月に鉾田市に寄贈され、同年12月には鉾田市内の温泉施設にて引き続き動態保存されている。『鹿島鉄道キハ600形気動車』の項も参照。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 交友社 日本国有鉄道工作局・車両設計事務所『100年の国鉄車両(3)』 p.431。当形式が製造された時代の時点での気動車は普通列車用しか製造されていないが、同書によれば「一般形機械式ディーゼル動車」に分類されている。ただしこれは制式に分類したわけではない。
  2. ^ 車体長18m、定員120人、荷物室付き。新造段階では日本最大の機械式気動車。
  3. ^ 坂上茂樹・原田鋼『ある鉄道事故の構図』(2005)p67-。同書においては、1930年代末期の西成線における42000形運用を担当した宮原機関区の区長・磯田寅二の著作『ガソリン動車の故障手当』(大教社 1940年)における42000形の故障記録とその対策を引用し、重通勤路線の西成線で厳しい省燃費運転を伴っての連結運用を強いられた42000形が露呈した、数々の脆弱さ・欠陥面を厳しく指摘している。
  4. ^ 私鉄では江若鉄道で、夏期の水泳客輸送時等に常用されていた。
  5. ^ 当時の客車は12t長軸を採用。車輪はスポーク車輪を採用したが、動軸についてはスポークに亀裂が入るという問題が発生したことからプレート車輪へと変更された。
  6. ^ 当時の一般的な19 - 20m級電車が最低でもMT15(1時間定格出力100kW(約133PS))クラスの主電動機を4基装架していたのに対し、気動車はエンジン技術の不足から、当時最大級のキハ42000でもエンジンの連続定格出力はわずか150PSに過ぎなかった。低抵抗なコロ軸受軽量台車の採用はこのような機関の非力さを補うためで、国鉄・私鉄を問わず同時期の気動車の多くに共通した必然的措置であった。なお、坂上・原田(2005)p43、p55によれば、鉄道省ガソリンカーのローラーベアリングは、36900形のTR26時点ではアメリカ・ティムケン社の原型を日本精工・東洋ベアリングで国産化させた単列テーパー式であったが、TR29ではより整備しやすいSKF原型の複列テーパー式に変わったとする。
  7. ^ 坂上・原田(2005)p56-57
  8. ^ ただし、燃料タンクが推進軸の真横に配置されていたため、推進軸のジョイントが外れてタンクを破る事態を起こした事実があり、設計上の配慮は不足していたといえる。坂上・原田(2005)p138以降の事故検証および同書p159以降の総括では、この事故を含めて42000形は総合的に技術力や配慮不足の著しい欠陥車であったと指弾する。また42000形は当時の国鉄旅客車には珍しく鋼板張り屋根を用いていたため、鋼製車でも屋根は鉄骨木造・防水布張りが一般的だった他の車両のように、横転車の屋根部分を緊急破壊して旅客救出を図る策も採り難かった。
  9. ^ ボンベ充填には数時間を要し、ガス会社専用線への車両回送やガスボンベ輸送専用貨車の手配などの手間も無視できないものであった。
  10. ^ 縦型6気筒、連続定格出力75PS。
  11. ^ 坂上茂樹「1930~・60年代前半における本邦鉄道車軸とその折損事故について(2/2)」(大阪市立大学経済学部『経済学雑誌』117-2 2016年9月)p73にて引用された、1955年11月1日付の国鉄工作局長による全国国鉄工場長向け通達・工修第1355号「歯車式気動車の動輪の検査について」に基づく。同通達によれば、41314は事故5日前の9月9日に甲修繕を終えて大宮工場を出場したばかりであった。
  12. ^ 坂上茂樹「戦前・戦時期の国産中・大型自動車用機関について(2)」(大阪市立大学『経済学雑誌』111(4) 2011年3月)p29・表3に準拠。引用元の典拠は、大谷武雄「ディーゼル動車の空気調速機はどうして車軸折損に役立つか」(『機関車工学』Vol.10 No.2 1956年2月)による。
  13. ^ 本項は坂上・前掲論文p29-30による。
  14. ^ 前面を直線に塗り分けたものと、80系電車に類似したいわゆる「金太郎の腹がけ」としたもの(直江津機関区所属車(旧色)と米子鉄道管理局の一部車両(新色))があった。
  15. ^ 一般に気動車は、運用中常時回転している走行用エンジンでベルト駆動される空気圧縮機や発電機で所要の圧縮空気や低圧電源を賄う。気動車がエンジン停止状態で牽引されている場合でも、自動ブレーキ用圧縮空気は牽引する動力車から供給できるが、車内照明や尾灯の電源は得られなくなり、車軸発電機装備などの対策が必要になる。
  16. ^ a b 滝田光雄「国鉄ガスタービン動車開発の経緯と今後の計画」『鉄道ピクトリアル』第266号、電気車研究会、1972年6月、 4 - 7頁。
  17. ^ a b 小林正治「わが国ガスタービン動車開発の経過」『鉄道ピクトリアル』第266号、電気車研究会、1972年6月、 7 - 11頁。
  18. ^ 程度の悪さはそれ相応であり、例えば茨城交通払い下げの戦災車は、再生工事後も著しい台枠垂下を起こすほど状態が悪かった。
  19. ^ 長門鉄道への払い下げ車の再譲渡も含む。
  20. ^ それでも機関換装や車体補強など様々な改修が実施されていた。
  21. ^ 五日市鉄道キハ500形は「キハ42000の前面にキハ41000の側面を組み合わせたような」と形容されたキハ41000と同クラスの2扉車であり、木製屋根であるなど構造的にはキハ41000との類似性が強く、台車、機器類はキハ41000と同一であり、厳密な意味ではキハ42000の同型車ではない。
  22. ^ 山陰鉄道研究会編「備前の里に消えた列車たち」自費出版、1991年6月20日発行、p.96

参考文献[編集]

関連項目[編集]