小田急キハ5000形気動車

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小田急キハ5000形気動車
(小田急キハ5100形気動車)
登場当時のキハ5000形
登場当時のキハ5000形
基本情報
製造所 東急車輛製造[1]
主要諸元
軌間 1,067mm
最高速度 101km/h
車両定員 94名(1955年から1956年まで)
82名(1956年から[注釈 1]1968年まで)
自重 40.0t(キハ5000形)[2]
37.0t(キハ5100形)[2]
全長 20,560mm[2]
車体長 20,000mm[2]
全幅 2,720mm[2]
車体幅 2,620mm[2]
全高 3,855mm[2]
車体高 3,640mm[2]
台車 東急車輛製造 TS-104(キハ5000形)[2]
東急車輛製造 TS-104A(キハ5100形)[2]
機関 振興造機 DMH17B1(キハ5102を除く)[1]
振興造機 DMH17C(キハ5102)[3]
機関出力 180HP[1]
駆動方式 液体変速機 TC-2[4]
歯車比 1:2.976
出力 360HP(英馬力)(180HP×2)[1]
制御装置 電気式 DC24V
制動装置 日本エヤーブレーキ 自動空気ブレーキ DAR
備考 車両質量は運転整備重量
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小田急キハ5000形気動車(おだきゅうキハ5000がたきどうしゃ)は、1955年から1968年まで小田急電鉄(小田急)が運用していた気動車(内燃動車)である。

小田急小田原線日本国有鉄道(国鉄)御殿場線との直通運転に使用される車両として登場した気動車である[5]1968年に御殿場線が電化されるまで使用され、御殿場線への直通列車が初代3000形(SE車)に置き換えられた後に全車両が関東鉄道に譲渡された[6]。関東鉄道では扉を増設し[7]、一般車両として使用されたが、1988年に全廃となった[8]

本項では以下必要に応じて、小田急小田原線を「小田急線」、初代3000形は「SE車」、鉄道省日本国有鉄道など、国が直接関与していた鉄道事業をまとめて「国鉄」と表記する。また、本項では、一部仕様変更された小田急キハ5100形気動車、関東鉄道に譲渡された後の関東鉄道キハ751形気動車関東鉄道キハ753形気動車についても記述する。

導入の経緯[編集]

小田急線と御殿場線を結ぶという発想は、第二次世界大戦中に東海道本線が爆撃を受けた際に迂回路線として活用するという構想に遡り[9]、まもなく終戦となったために実現はしなかった[10]とする説もあるが、終戦後の1946年に東京急行電鉄(いわゆる大東急)が策定した「鉄軌道復興3カ年計画」の中に、小田急線と御殿場線を直通させて新宿駅と沼津駅を結ぶ計画が含まれていた[11]。1948年に大東急が解体[12]された後も、分離独立した小田急の社内で御殿場線への直通について検討が続けられていた。1947年には、駿豆鉄道が小田原から小涌谷までの路線バスの運行免許申請を行い[13]、これに箱根登山鉄道が反対の立場をとる[14]など、バス路線の免許について争いが生じていた(→箱根山戦争伊豆戦争)ことから、小田急では箱根への観光ルートとして、御殿場からのルートにも注目していた[9]

この時期、国鉄では地方線区の気動車化を進めるべく、総括制御方式の気動車の研究と開発を進めており[15]、1952年には液体変速機による総括制御方式を採用したキハ44500形気動車が導入された[15]。1953年5月にはこのキハ44500形を御殿場線において勾配線での試験を行なった[15]が、上り25‰の勾配での均衡速度は25km/h程度で[15]、これはD52形蒸気機関車牽引の旅客列車よりも低かった[16][注釈 2]。1954年には勾配線区用にエンジンを2基搭載したキハ44600形(後のキハ50形)を製造したが、この車両では上り25‰の勾配での均衡速度は45km/hに向上した[16]ものの、22mの全長のため、分岐器の通過に保安上の問題があった[15]

同じ頃、前述の通り御殿場からの観光ルートに注目していた小田急では、1952年に国鉄に対し御殿場線への直通運転の申請を行った[9]。国鉄と調整を進めると同時に、20m級の全長でエンジンを2基搭載した御殿場線直通用の気動車を[15]、東急車輛製造とともに開発を進めていた[17]

「御殿場線直通列車は気動車単行による運行を基本とする」ことが固まりつつあった時期[18]、営業部門から車両部門に対して、予測収支計算を行なうために気動車の定員についての照会があった[18]。車両部門では、国鉄客車の標準的な定員が88名であったことから、「両端のデッキを運転室とみなして、扉と便所の分を差し引く」と説明した[18]。ところが、営業部門では100名から扉と便所の分を差し引いた定員94名として収支計算を行い[18]、役員会でも承認されてしまった[18]。その後の車両部門との調整でこの食い違いが発覚[18]、やむを得ず気動車は定員94名として製造された[18]

こうした経緯で導入されたのが、小田急では初の気動車となるキハ5000形である。

車両概説[編集]

本節では、登場当時の仕様を記述する。

車体[編集]

キハ5000形・キハ5100形とも車体長20,000mm・全長20,560mmの全金属製車体で、車体幅は当時の地方鉄道法による車両限界の2,744mmに収めつつ[16]タブレット防護網を設置する関係上[19]、2,620mmと狭くなった[20]。20,560mmの全長は、小田急の車両史上では最長の車体である[21]。車体構造は2100形と同様の軽量構造であり、台枠横梁には軽量穴が設けられているが、通常の気動車と異なり外板2.3mm、屋根1. 6mmと電車と同じ板厚[注釈 3]であった。

正面は貫通型3枚窓で、キハ5000形とキハ5100形5101では貫通路脇にはクロムメッキの手すりを設けている[15]。キハ5100形5102では貫通路周囲に幌枠を設けた[22]2100形同様の貫通扉付きのスタイルであるが、正面窓が大きい、国鉄乗り入れの関係で尾灯が腰部にある、窓枠が軽合金製であるなどの特徴がある。キハ5100形では正面窓の幅が800mmから730mmに狭まり一般的な小田急スタイルに近くなっている

客用扉は乗務員室(運転室)の助士席後方に1箇所だけ設置され[15]、ドアエンジンは装備されていない[1][注釈 4]。扉部分には御殿場線内で高さの低いホームに対応するためにステップを設けている[21]。側面窓は高さ850mm×幅1,000mmの2段窓で[4]、キハ5000形では窓柱の幅を320mmとして[4]、キハ5100形では窓柱を520mm幅として配置した[4]。ただし、乗務員室直後の窓のみ幅800mmとなっている[4]

塗装デザインは腰部と上部が青色、窓周りが黄色という、当時の特急色となった[16]。キハ5100形5102では当時の社長の安藤楢六自身が東京都電を基に決定した、クリーム色に朱色の帯が入る、国鉄の準急用気動車に似たデザインに変更された[3]

内装[編集]

内装は壁面がクリーム色の2.5mmデコラ板、天井が白色の1.2mm鋼板、床が1.6mmの鋼板に3mmの暗緑色の床材で構成された他、座席はエンジ色のビニロンモケットの座布団と背摺にビニール製の白色枕カバーが付き、カーテンはクリーム色、荷棚などの金物は真鍮クロームメッキのものであった。

キハ5000形では座席は扉間に片側12組、合計24組の固定式クロスシート(ボックスシート)を配置した。御殿場側の乗務員室直後の運転席側は前向き座席である[15]。シートピッチについては、定員を94名とするために1,320mmと設定された[18]が、国鉄においては京阪神間で急行電車に使用していたモハ52形のシートピッチが1,400mmで[18]、木造客車を鋼体化した60系客車でさえもシートピッチは1,335mmであった[18]ことから見れば、優等列車用のボックスシートとしては狭かった[18]。なお、車両中央部の排気管が通る場所はボックスの片側については座席を設けていない[15]。キハ5100形では、座席は扉間に片側10組、合計20組のボックスシートとなり、シートピッチも1,520mmに拡大され[3]、車両中央部の排気管はボックスの背もたれの間を通している[3]

室内灯は、キハ5000形とキハ5100形5101では40Wの白熱灯を15個・20Wの白熱灯を11個使用した[1]。キハ5100形5102では蛍光灯が採用され、40Wの蛍光灯を11本、20Wの蛍光灯を10本使用した[1]

扉は片引戸で高さ220mmのステップがあり、御殿場駅と新宿駅の2種のホーム高さに対応するよう補助踏み段が設けられていた。なお、床面高さは1,200mmであり電車より30 - 40mm程度高かった。

便所は新宿寄り乗務員室の運転席側後方に設置した[18]

主要機器[編集]

台車を除いて、国鉄と仕様を合わせた機器が多く採用されている[23]

走行用機関は、キハ5000形とキハ5100形5101では振興造機製のDMH17B1形ディーゼルエンジンを採用した[24]。DMB17B1は水冷4サイクル直列8気筒排気量16.98lで国鉄DMH17Bから予燃焼室圧縮比の16から17への変更など[注釈 5]で定格出力を160PSから180PSに増強した他、燃料噴射ポンプ、軸受メタル、シリンダライナ、起動電動機などを改良したものである。また、燃料消費率も195g/PS/hから190g/PS/hと若干改善されている[注釈 6]。キハ5100形では夏期の25勾配運転時の冷却水沸騰を防止するため、放熱器[注釈 7]に水を噴射する機関冷却水散水装置をキハ5100形に設置し、5102では振興造機製のDMH17C形を採用している[3]。いずれの場合もエンジンは2台のうち1台を選択して運転することも可能となっていた。駆動装置は液体変速機(トルクコンバータ)のTC-2形を採用した[4]制動装置(ブレーキ)については、日本エヤーブレーキ[24]のDA-1形自動空気ブレーキに中継弁を追加して改良を施したDAR式自動空気ブレーキとして、ブレーキの遅れの解消と空気消費量の減少を図ったが、これは後の国鉄キハ57系と同形式のものである。空気圧縮機はレシプロ式3気筒、容量630l/minのC-600を搭載し、機関からベルト駆動する。また、電気回路は基本的にはキハ50形と同一であるが、2基の機関を別個に始動、停止ができるようにしたほか、表示灯回路も機関ごとに設置、電源回路を2機の発電機ごとに2ブロックに分離、帰路回路を帰路スイッチ経由でバッテリーに戻す回路[注釈 8]に変更するなどの改良がなされた。

台車は、国鉄気動車の標準であったDT19形・TR49形ではなく、東急車輛製造製の9mm厚のプレス鋼板を溶接で組み立てたウイングバネ式・オイルダンパ装備の1軸駆動台車であるTS-104形[注釈 9]を採用した[15]。車輪径は860mm[2]、固定軸距は2,000mmである[2]、下り勾配での制動力確保のため、基礎制動装置はクラスプ式(両抱式)とした[25]

乗務員室はキハ5000形が前後方向に1,000mmであった[4]が、キハ5100形では前後方向に1,100mmと拡大された[4]

沿革[編集]

運行開始[編集]

登場当時のキハ5100形5101
登場当時のキハ5100形5101
登場当時のキハ5100形5102
登場当時のキハ5100形5102

1955年9月5日に車両が入線[26]、運行開始の3週間ほど前から試運転が開始された[27]。試運転では平坦な区間で101km/h、25‰勾配の区間でも50.5km/hの速度を記録している[28]。9月27日には報道向け公開も行われた[28]。これに先立ち、同年8月からは気動車乗務員の養成のため、国鉄の乗務員養成所で運転士5名・車両関係者8名を含む16名の実習が行われた[29]

同年10月1日の特別準急「銀嶺」で運用を開始した。蒸気機関車の牽引する客車列車ばかりだった[30]御殿場線内[注釈 10]で、黄色と濃青色に塗られたキハ5000形は、沿線各地からは歓迎されたという[30]。その一方、狭いシートピッチには苦情が続出した[18]。また乗務員室が狭く[29]、進行方向左側にホームがある場合のタブレット交換では、運転士が起立した状態での運転を余儀なくされた[29][注釈 11]

通常は単行運転が基本であったが、土休日には2両編成で運行することもあり[3]、定期検査などがあると予備車もなく増結も出来ない状態になるため[3]、車両増備が行なわれることになり[3]、増備車は苦情の多いシートピッチを拡大し、窓配置も変更した新形式キハ5100形とすることになった[3]。増備車のキハ5101は1956年6月10日より運用開始[26]、その後キハ5000形は2両ともシートピッチを拡大する改造を行った[20]が、これによって窓と座席が合わなくなった[20]

1959年7月から特別準急を2往復から4往復に増発することになり、同年6月にキハ5102が増備された。この車両では当初より室内灯に蛍光灯が採用されている[3]ほか、塗装デザインがクリーム色地に赤帯が入るものに変更された[3]。キハ5102の入線後、他の3両も1959年中に順次室内灯の蛍光灯への変更[31]と、キハ5102にあわせて幌枠が設置され[32]、連結運転時には幌で接続するようになった[6]。1961年8月には、機関冷却効率向上の目的で、ラジエーターに散水装置を設けた[33][注釈 12]ほか、1962年2月までに各車両に扇風機が設置された[31]

夏になると、特別準急は満席の日が続いたが、時には冷却水の沸騰を招くこともあり[34]、だましだまし御殿場までたどり着いたこともあったという[35]。また、旅客需要にあわせて、朝の御殿場行き特別準急を2両編成とし、御殿場駅で1両を切り離した上で留置し、夕方の新宿行きで連結する運用もたびたび行われたが[34]、冬季には冷却水が凍結してしまい[34]、エンジンの始動に苦労したという[34]。一方、検車区の構内運転士は気動車の運転が出来ず[35]、入庫の際には本線の担当運転士が整備士に直接引き継ぎを行なっていた[35]ため、運転士と整備士の意思疎通は良好だったという[35]

1961年1月17日に、2400形HE車和泉多摩川駅登戸駅の間の踏み切りでダンプカーと衝突した事故の発生時には、事故車のうち2両を経堂工場へ収容する際に、キハ5000形もしくはキハ5100形が救援車として使用された[36]。また、1964年までは、経堂駅から新宿駅までの入出庫時には、2運用で個別に回送列車が設定されていたが、通勤輸送における混雑が激しくなったことから、同年11月5日のダイヤ改正からは、早朝に2列車分の気動車を連結して出庫し[37]、新宿駅で分割した上で「朝霧」に使用される車両を荷扱い線に引き上げて発車直前の入線まで待機することになった[37]

御殿場線が1968年に電化され、直通列車にはSE車を5両連接車に改造した上で運用することとなった[6]ため、キハ5000形・キハ5100形は同年6月30日で運用を終了した[38]

関東鉄道へ譲渡後[編集]

用途を失った気動車については、停電時の救援用に残すという意見もあった[6]が、保守面でのメリットがないので、4両とも1968年7月1日付で廃車となり[39]、関東鉄道に売却された[6]

キハ751形
キハ751形
キハ753形
キハ753形

関東鉄道では常総線で使用することになり、外吊り式の片開き扉を増設して3扉化となり[40]、車内の座席はロングシート化され[7]、便所は撤去された[7]。なお、制動装置が変更され[40]、中継弁つきのDAR形となったとする文献もあるが[41]、製造当初よりDAR形であった。これらの改造は日本車輌製造で行われた[40]。走行用エンジンは2基搭載のままであったが検査の際などに適宜換装が行われ、1983年時点ではDMH17B1×1/DMH17BX×1(キハ751)、DMH17×1/DMH17B×1(キハ752)、DMH17B×2(キハ753)、DMH17×1/DMH17B1×1となっているが、入線後にDMH17B形に揃えられたという文献もあった[41]

キハ5000形から改造された車両はキハ751形、キハ5100形から改造された車両についてはキハ753形として、1968年12月に竣功[41]、運用が開始された。なお、1969年から1970年にかけて、小田急1600形を改造したキクハ1形制御車・キサハ65形付随車が入線したが[40]、エンジンを2基搭載するキハ751形・キハ753形と連結して運用されるなど、小田急在籍当時にはみられない編成で使用されることもあった[8]

しかし、関東鉄道では輸送力増強のためキハ300形・キハ350形(元国鉄キハ30形・キハ35形)を大量増備することになり、キハ754が1987年9月に廃車となり[8]、廃車後には新塗装デザインの検討用モデルとして使用され、4種類の塗装が施された[8]。1988年3月にはキハ751・キハ753が廃車[42]、最後に残ったキハ752も1988年9月に廃車となり[42]、形式消滅となった。

運用[編集]

  • 1955年10月1日の改正から1日2往復(午前1往復:「銀嶺」、午後1往復:「芙蓉」)で運行された。行路は以下のとおりで所要時分は約105分。
    • 905 新宿7:30→御殿場9:13
    • 906 御殿場10:35→新宿12:20
    • 907 新宿13:25→御殿場15:11
    • 908 御殿場17:40→新宿19:26
  • 1957年当時の行路は以下のとおり。
    • 回2905B 経堂6:59→新宿7:15
    • 2905「銀嶺」 新宿7:30→御殿場9:10
    • 2906「銀嶺」 御殿場10:40→新宿12:20
    • 回2906A 新宿12:24→経堂12:40
    • 回2907B 経堂12:59→新宿13:15
    • 2907「芙蓉」 新宿13:30→御殿場15:18
    • 2908「芙蓉」 御殿場18:02→新宿19:42
    • 回2908A 新宿19:51→経堂20:18
  • 1959年7月2日から1日4往復(「銀嶺」、「朝霧」、「芙蓉」、「長尾」)に増強された。1964年11月5日改正時点での行路は以下のとおり。
  • 銀嶺 - 芙蓉
    • 回2701DB 経堂6:34→新宿7:00
    • 2701D「銀嶺」 新宿7:30→御殿場9:13
    • 2702D「銀嶺」 御殿場10:43→新宿12:20
    • 回2702DA 新宿12:24→経堂12:36
    • 回2705DB 経堂13:06→新宿13:21
    • 2705「芙蓉」 新宿13:30→御殿場15:18
    • 2706「芙蓉」 御殿場17:57→新宿19:40
    • 回2706DA 新宿19:51→経堂20:18
  • 朝霧 - 長尾
    • 回2701DB 経堂6:34→新宿7:00(新宿荷扱線留置)
    • 2703D「朝霧」 新宿8:45→御殿場10:41
    • 2704D「朝霧」 御殿場12:26→新宿14:04
    • 2707D「長尾」 新宿14:31→御殿場16:24
    • 2708D「長尾」 御殿場18:45→新宿20:30
    • 回2708DA 新宿20:40→経堂20:56

年表[編集]

  • 1955年(昭和30年)
  • 1956年(昭和31年)
    • 6月 キハ5101形5101号車竣工。
    • 7月 多客期に3連での運行を開始。
  • 1957年(昭和32年) キハ5001、5002号車座席配置改造認可。
  • 1959年(昭和34年)
    • 5月 キハ5100形5102号車竣工。
    • 7月2日 「朝霧」・「長尾」2往復を増発し、4往復体制となる。
    • 6月8日 キハ5001、5002、5101号車室内灯蛍光灯化、前照灯シールドビーム化、幌枠設置改造認可。
    • 6月 キハ5001号車幌枠設置、前面ステップ小型化、前照灯シールドビーム化改造施工、塗装変更実施。
    • 9月19日 皇太子明仁親王(現・今上天皇)が新宿から御殿場まで乗車。
  • 1961年(昭和36年)8月 キハ5100形に機関冷却用散水装置設置[注釈 13]
  • 1968年(昭和43年)
    • 6月30日 御殿場線が翌7月1日電化されることに伴い運用離脱。
    • 7月1日 キハ5000形キハ5001、キハ5101形5002、5101、5102号車廃車
    • 12月13日 キハ5001、5002、5101、5102号車を関東鉄道が譲受の認可。
    • 12月19日 キハ5001、5002、5101、5102号車形式変更届出、それぞれキハ751形751、752号車、キハ753形753、754となる。
  • 1969年(昭和44年)1月28日 キハ751、752、753、754号車車体改造、ロングシート化改造認可。
  • 1988年(昭和63年)

車両一覧[編集]

  • 小田急キハ5001 → 関鉄キハ751
  • 小田急キハ5002 → 関鉄キハ752
  • 小田急キハ5101 → 関鉄キハ753
  • 小田急キハ5102 → 関鉄キハ754

その他[編集]

当初は小田急には内燃車の運転資格を有する社員がいなかったため、「気動車」を運転することはできなかったが、日本国有鉄道千葉鉄道職員養成所で乗務員5名、助役3名と検車掛8名に教育を受けさせた。その後は社内で最初の8名により、さらに運転士5名の養成が2度行われた。

さらに「動力車操縦者運転免許に関する省令」発効後の1962年には経堂の教習所で甲種内燃車の5名の養成が行われて気動車の運転士は20名となった、なお、同様に気動車(熊谷線(廃止)のキハ2000形)を持っていた東武鉄道の運転士3名も同時に養成が行われた。

また、運行開始当初御殿場線には気動車運転士がいなかったため、小田急の運転士が全区間乗務していた。この体制は3000形への置き換え後も続き、1991年3月16日20000形JR東海371系による相互直通運転になった際、松田駅を境にそれぞれ自社区間の乗務員が担当するようになるまで続いた。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ キハ5100形は登場当初より乗客定員82名。
  2. ^ D52形蒸気機関車の列車では、上り勾配での速度は28km/h程度だったという(『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.111)。
  3. ^ 日本における鋼製車体の気動車は軽量化のため外板板厚を1.6mmとするのが一般的である。
  4. ^ 1700形2300形の客用扉も、特急専用車だった当時は手動扉(『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.37)。
  5. ^ そのほかピストン頂部の形状変更、予燃焼室の変更により予燃焼室対全燃焼室比を40%に変更、墳口数の変更を実施。
  6. ^ DMH17系のエンジンは当時国鉄では160PSであったが、私鉄においてDMH17B1やDMH17BXなどの180PSのエンジンを搭載した車両が登場していた。
  7. ^ キハ5000形では機関冷却水用×11、コンバータ油用×3、機関油用×2であったが、散水装置設置車ではエレメントを減らしていた。
  8. ^ キハ50形はマイナス側をまとめて車体に落としている。
  9. ^ のちの国鉄DT22と外観上は似ているが、荷重を側受のみで支持し、ボルスタは牽引力のみを伝達する構造である点が異なる。
  10. ^ これに先立つ1955年9月1日からは、国府津駅と山北駅の間でキハ44500形による気動車列車の運行が開始されていた(『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.108)。
  11. ^ タブレット交換は車掌の役目であった(『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.125)。
  12. ^ 「冷却水をジェット噴射する」機構のことが、なぜか「小田急の気動車にジェットエンジンがついた」という噂に変わって流れてしまったことがあったという(『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.162)。
  13. ^ キハ5100形の機関冷却用散水装置の設置時期については文献により記述が異なり詳細は不明である。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.71
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.70
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.161
  4. ^ a b c d e f g h 『小田急ロマンスカー物語』 p.137
  5. ^ 『小田急ロマンスカー物語』 p.136
  6. ^ a b c d e 『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.162
  7. ^ a b c 『鉄道ジャーナル』通巻246号 p.89
  8. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.171
  9. ^ a b c 『小田急ロマンスカー物語』 p.66
  10. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.157
  11. ^ 『ゼロ戦から夢の超特急』 p.118
  12. ^ 『小田急ロマンスカー物語』 p.67
  13. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.99
  14. ^ 『バスジャパン・ハンドブックR・58』 p.27
  15. ^ a b c d e f g h i j k 『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.158
  16. ^ a b c d 『小田急ロマンスカー物語』 p.68
  17. ^ 『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.14
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m 『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.159
  19. ^ 『小田急ロマンスカー物語』 pp.68-69
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  21. ^ a b 『小田急 車両と駅の60年』 p.73
  22. ^ 『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.67
  23. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.124
  24. ^ a b 『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.111
  25. ^ 『鉄道のテクノロジー』通巻12号 p.43
  26. ^ a b 『小田急ロマンスカー総覧』 p.169
  27. ^ 『小田急ロマンスカー総覧』 p.108
  28. ^ a b 『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.109
  29. ^ a b c 『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.125
  30. ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻297号 p.34
  31. ^ a b 『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.80
  32. ^ 『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.81
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  35. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.15
  36. ^ 『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.132
  37. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.128
  38. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.130
  39. ^ 『私鉄の車両2 小田急』 p.185
  40. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル』通巻405号 p.155
  41. ^ a b c 『鉄道ジャーナル』通巻246号 p.87
  42. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.200

参考文献[編集]

書籍[編集]

雑誌記事[編集]

  • 能村武雄「小田急キハ5000形要説」」『電気車の科学』 第90、91号 電気車研究会
  • 「小田急の・・・・新宿 - 御殿場直通運転試乗記」『電気車の科学』 第91号 電気車研究会
  • 生方良雄「御殿場線乗り入れ列車の思い出」、『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 157-163頁。
  • 生方良雄「私鉄車両めぐり37 小田急電鉄」、『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、 42-71頁。
  • 生方良雄「私鉄車両めぐり 小田急電鉄(補遺)」、『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、 74-82頁。
  • 大幡哲海「他社へ行った小田急の車両」、『鉄道ピクトリアル』第405号、電気車研究会、1982年6月、 154-159頁。
  • 川島常雄「新宿-御殿場直通列車 キハ5000形に乗務した頃」、『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 123-130頁。
  • 岸上明彦「他社へいった小田急の車両」、『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、 169-174頁。
  • 岸上明彦「他社へ転出した小田急の車両1999年版」、『鉄道ピクトリアル』第679号、電気車研究会、1999年12月、 194-200頁。
  • 須田寛「新特急あさぎり 経緯と期待」、『鉄道ジャーナル』第297号、鉄道ジャーナル社、1991年7月、 34-35頁。
  • M記者「お手並み拝見 小田急の……新宿-御殿場直通運転試乗記」、『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、 108-111頁。
  • 「甦る読者短信」、『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、 124-135頁。
  • 「ディーゼル王国 関東鉄道」、『鉄道ジャーナル』第246号、鉄道ジャーナル社、1987年5月、 81-90頁。
  • 「小田急座談 (Part2) 輸送・運転編」、『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第2号、電気車研究会、2002年12月、 6-20頁。
  • 「歴代小田急ロマンスカーカタログ」、『鉄道のテクノロジー』第12号、三栄書房、2011年10月、 40-79頁、 ISBN 9784779613494

関連項目[編集]