国鉄D52形蒸気機関車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
D52形蒸気機関車
静態保存されるD52形、2011年
静態保存されるD52形、2011年
基本情報
運用者 運輸省日本国有鉄道
製造所 浜松工機部鷹取工機部
汽車製造日本車輌製造
川崎車輛日立製作所
三菱重工業
製造年 1943年 - 1946年
製造数 285両
投入先 東海道本線山陽本線
函館本線室蘭本線
東北本線
主要諸元
軸配置 1D1 (2-8-2、ミカド)
軌間 1067 mm
全長 21105 mm
全高 3982 mm
機関車重量 74.42 t(空車)
85.13 t(運転整備)
動輪上重量 66.29 t(運転整備)
炭水車重量 19.74 t(空車)
51.76 t(運転整備)
総重量 94.16 t(空車)
136.89 t(運転整備)
動輪径 1400 mm
軸重 16.63 t(最大・第3動輪上)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程)
550 mm × 660 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 16.0 kg/cm2
ボイラー水容量 9.87 m3(過熱式)
大煙管
(直径×長さ×数)
140 mm × 5500 mm × 35本
小煙管
(直径×長さ×数)
57 mm × 5500 mm × 94本
火格子面積 3.85 m2
全伝熱面積 167.1 m2
過熱伝熱面積 77.4 m2
全蒸発伝熱面積 167.1 m2
煙管蒸発伝熱面積 147.4 m2
火室蒸発伝熱面積 17.5 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 10.0 t
水タンク容量 22.0 m3
制動装置 自車: 空気ブレーキ
編成: 自動空気ブレーキ
最高運転速度 85 km/h
最大出力 1949 PS
動輪周出力 1660 PS
テンプレートを表示

D52形蒸気機関車(D52がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄、製造時は鉄道省運輸通信省)の貨物用テンダー式蒸気機関車である。

導入の経緯[編集]

本形式は第二次世界大戦に伴う戦時輸送のために導入された大型貨物用蒸気機関車であり、資材不足に対応するための戦時設計となっていることが特徴であった。

戦時輸送[編集]

1937年日中戦争開始に伴い、人も物資も動きが活発になり、旅客列車は毎年10 - 20千 km、貨物列車は20 - 30千 kmの増発が行われ、以後6年間で旅客列車は60千 km、貨物列車は110千 km 増加していた[1]

その後、太平洋戦争の進展に伴い、日本国内の貨物輸送は、貨物船の陸海軍による徴発と米軍の攻撃による喪失が増大したこともあって産炭地からの石炭輸送を中心に内航運輸の輸送力が不足した。これに対応するため、1942年10月6日閣議決定された「戦時陸運非常体制確立方策要綱」[2][3]では戦時陸運の非常体制を確立し、まずは石炭輸送の確保を主眼とし、逐次鉄鋼その他の重要物資の海上輸送を陸上輸送に移して余剰の船舶を満州中国大陸方面や南方方面からの輸送に充てるための5項目からなる要綱が定められ、その要綱の下に9項目からなる措置が定められており、そのうち国内輸送に関する主な事項は以下の通りであった。

  • 関門トンネルを経由する九州炭の輸送能力を年間750万トン程度を目標として増強する。
  • 北海道炭は青函連絡船の増強により輸送能力の年間250万トン程度を目標として増強する。
  • 危険性の高い太平洋側の海上輸送を日本海側への陸揚げ・陸上輸送への連携にシフトさせて、月間13万トンから50万トン程度に引上げる。
  • 輸送線区・設備の増強工事の施工、車両の増備および改造、荷役力・小運搬力の増強・石炭荷役設備の整備などの緊急措置を行う。

この計画を念頭に、1943年2月のダイヤ改正では旅客列車を21千 km削減して貨物列車約20千 kmを増発し、その後も約2か月毎程度のダイヤ改正を行って北海道・九州・裏日本揚の石炭輸送増や山田線鉄鉱石輸送開始に対応し、さらに同年10月のダイヤ改正では旅客列車を約46千 km削減して貨物列車約35千 kmを増発して貨物列車の運行は398千 kmの設定となり、旅客列車の削減により余剰となった機関車を貨物列車に回すとともに、列車運行の効率化などを行うなどの施策によりこれに対応している[4]1944年に入ってもダイヤ改正が続き、4月には第五青函丸の就航に伴う北海道炭輸送増強と急行列車13.4千 kmの削減、6月には九州炭輸送増強のための貨物列車9.5千 kmの増発などが実施され、10月のダイヤ改正では旅客列車を6千 km削減して貨物列車を17.5千 km増発し、旅客列車350千 km・貨物列車430千 kmの設定となっている[4]。1937年から1945年の間の輸送量の変化は以下の通り。

年度別の戦時輸送の状況[5]
種別 項目 1937年 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
貨物列車 トン数 106百万 t 118百万 t 131百万 t 146百万 t 152百万 t 158百万 t 178百万 t 161百万 t 81百万 t
トンキロ数 18.9十億 t・km 21.9十億 t・km 25.3十億 t・km 27.9十億 t・km 29.8十億 t・km 33.9十億 t・km 42.8十億 t・km 41.2十億 t・km 19.0十億 t・km
1日1キロ平均通貨貨車 447.4 両 480.5 両 521.4 両 542.3 両 562.1 両 613.6 両 647.0 両 561.9 両 291.9 両
1列車あたり輸送トン 221.1 t 237.6 t 243.0 t 256.6 t 263.1 t 278.0 t 306.2 t 297.1 t 229.1 t
旅客列車 人キロ数 29.1十億 人・km 33.6十億 人・km 42.1十億 人・km 49.3十億 人・km 55.5十億 人・km 60.5十億 人・km 74.1十億 人・km 77.3十億 人・km 76.0十億 人・km
1日1キロ平均通貨客車 165 両 167 両 180 両 193 両 199 両 201 両 186 両 167 両 133 両

戦時の車両増備と戦時設計[編集]

1937年日中戦争開始に伴い鉄道動員体制となった[6]ことと、開戦に伴う旅客・貨物の輸送量増加に対応するため、1938年度に「輸送力拡充4 ヵ年計画」(1941年度まで)を策定し、総額96.6百万円の予算のうち、車両増備にその55%に充当して輸送力の増強を図ったが、資材不足により次第に計画達成率が低下していた[7]。その後、1942年度から10か年の「交通施設長期整備計画」を策定し、当初の5年間は毎年220百万円の予算のうち22%を車両増備に充てることとしていた。しかし、1942年の戦時陸運非常体制確立に伴いこちらに経営資源を振り向けることとなり[8]1943年7月20日の閣議決定により、「鉄道車輌の計画増産確保に関する件」[9]が定められ、車両製造工場を国家総動員法に基づき鉄道大臣の管理下に入れて官民一体で車両製造・修繕にあたるとともに、車両製造については五大重点産業[注釈 1]並みの扱いとして車両増備を加速することとなり、各民間工場に監理官が配置されて指揮監督または指導斡旋を行った[11]。1937年から1945年にかけての蒸気機関車の発注状況は以下の通り。

年度別の蒸気機関車発注状況[12][表注 1]
用途 形式 1937年 1938年 1939年 1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年 備考
支線用 C11形 31両 - 60両 26両 20両 - 19両 59両 - 1943年度発注分以降は戦時型
C12形 22両 26両 30両 30両 -
C56形 45両 14両 -
C58形 10両 135両 71両 73両 40両 20両 19両 -
旅客用 C57形 58両 48両 28両 16両 17両 -
C59形 - 15両[表注 2] 50両 35両 -
貨物用 D51形 58両 136両 248両 194両 134両 29両 100両 160両 - 1943年度発注分は準戦時型[表注 3]、1944年度発注分は戦時型
D52形 - 150両 220両 - 全機戦時型
合計 224両 359両 437両 354両 261両 84両 288両 439両 0両
  1. ^ 戦時買収および樺太内地編入による鉄道省編入機を除く。
  2. ^ 別資料では1940年度以降27両、63両、10両[13]
  3. ^ 別資料では1942年度発注分のうち4両も準戦時型[14]


一方、開戦により車両用の資材が不足する状況となり、1938年製造のC58形以降代用材が使用されるようになり、1939年11月には269項目からなる「蒸気機関車代用材ー覧表[15]」を設定して新製・修繕に適用し、一部部品については代用材使用に対応するための設計変更が実施された[16]。さらにその後、一層の資材の節約を図るため、1943年1月4日付の「戦時規格委員会規程」で制定された戦時規格委員会において戦時陸運非常体制下における車両の生産増強のため以下の5項目について検討がなされた[16]

  • 安全率の低減
  • 耐久寿命の短縮
  • 規格の変更
  • 使用期限および検査期間の延長
  • 工程・艤装の簡易化

これらの検討の結果、戦争に勝つまでの2-3年を目途として、耐久力は問題外として急速大量生産するための、いわゆる「戦時設計」が策定され、1943年5月10日にD51形を対象に「戦時設計要網」およびその施行細則が定められ、これに基づいた「D51 形蒸気機関車戦時設計詳表」をもとにD51形戦時型が製造されるとともに、他形式の新製・修繕にもこれが準用されている[16]。戦時設計は「重要資材の節約」「資材確保の容易化」「製作工数・動力等の節約」の3項目の観点で定められており[17]、これによるD51形の資材削減状況は下表のとおり。

(参考)D51形の戦時設計における使用資材削減状況[18]
上段:所要量[表注 1]、下段:削減率
材料 原設計 準戦時設計
1942年
戦時設計
1943年
2400 kg 1080 t
55 %
500 kg
79 %
1200 kg 380 t
68 %
160 kg
89 %
76000 kg 67000 kg
12 %
64000 kg
16 %
  1. ^ 所要量を示しており、これは設計重量とは異なる

D52形の導入[編集]

1930年代後半から1940年代前半において、鉄道省ではD51形を増備していたが、同形式はD50形を元に粘着重量の軽減、全長の短縮など地方路線でも運用しやすくすることを重視した設計であったことから、前期のような状況を踏まえ、幹線の貨物列車牽引用としてD51形より出力の高い蒸気機関車が鉄道省内で検討されていた。

そのような中で、動軸の軸重を16 t以上、ボイラーをD51形より大型化させたD形機で、3種類のボイラー容量毎にKD50形、KD51形、KD52形としたものが1939年に、車軸配置を1D2としてさらに大容量のボイラーを採用したKD53形および、ボイラーに燃焼室を採用したKD54-A形、KD-54B形が1940年にそれぞれ計画され、このうち、KD54-B形はD51形と同程度の下回りに燃焼室を備えた大型ボイラーを載せたもので、後にD52形となったものである[19]。これらの計画機とD51形、D52形、1943年に計画されたKE50形の比較は以下の通り。

KD51 - KD54形、KE50形、D51 - D52形主要諸元比較表[19][20]
形式 車軸配置 動輪径 ボイラー シリンダー 動輪上重量 シリンダー
牽引力
備考
火格子面積 内径 [表注 1] 煙管長 燃焼室長 圧力 直径 行程
D51形[表注 2] 1D1 1400 mm 3.27 m2 1632 mm 5500 mm - 1.37 MPa 550 mm 660 mm 56.00 t 166.4 kN 1936年製
KD52形 3.60 m2 1700 mm 1.57 MPa 530 mm 62.00 t 176.6 kN 1939年計画
KD50形 4.10 m2 1800 mm 560 mm 66.00 t 197.2 kN
KD51形 4.50 m2 1900 mm 580 mm 70.00 t 211.5 kN
KD53形 1D2 1520 mm 5.02 m2 1850 mm 570 mm 710 mm 68.00 t 202.4 kN 1940年計画
KD54-A形 1D1 1400 mm 3.80 m2 1700 mm 500 mm 550 mm 660 mm 64.40 t 190.2 kN
KD54-B形 3.85 m2 1846 mm 5000 mm 1000 mm 65.00 t
D52形 64.79 t[表注 3] 1943年製
KE50形 1E1 1250 mm 5500 mm 70.00 t 212.9 kN 1943年計画
  1. ^ 最大部の数値
  2. ^ D51 1 - 85, 91-100号機
  3. ^ 原形、甲缶・乙缶

当時は蒸気機関車の設計は主要部の鉄道省が、詳細設計は鉄道省と民間会社が分担しており、D52形も同様の体制で進められており[21]、1943年春時点では設計がある程度進んでいる状況であったが、その後「戦時設計要網」の適用や設計の見直しを行い[22]、鉄道省が詳細設計を担当して[23]急遽設計の手直しが行われた。製造に当たっては、変更点が多岐にわたる戦時設計のD51形とD52形は民間工場の混乱を防ぐために鉄道省の浜松工機部と鷹取工機部で先行製造されることとなり[22]、本形式は1943年9月に製造が開始され、12月21日に鷹取工機部でD52 21号機が、12月28日に浜松工機部でD52 1号機が竣工している[24]。その後、鉄道省の工場に引続いて民間の汽車製造日本車輌製造川崎車輛日立製作所三菱重工業でも生産が開始され1944年には量産体制となった。

D52形はD51形より動輪上重量を増して粘着引張力を増強するとともに、その分の重量とD51形でのデッドウエイトの廃止分の重量を利用したボイラーの大形化と高圧化によりシリンダー引張力および出力の増加を図っている。また、火室に燃焼室を設置することにより、燃焼効率をD51形の70 %から78 %に向上させるとともに煙管の短縮による資材の節約を図り、また、これにより重心を前方に移すことによってD51形では後方に偏っていた軸重バランスを前方に移して均等化を図っている[25]。一方、各部の構造については機能の改善を図るとともに、生産性向上や資材入手の容易化を考慮しており、単なる代用材の使用に留まらずになどの重要資材の節約を図った本格的な銅鉛節約設計となっており[26]、これらの設計により、D52形はD51形との比較において空車重量(≒資材所要量)は5 %、製造時の工数は約6 %それぞれ増加したが、出力は約22 %の増加となり、重量および所要資材量・工数あたりの出力が増強されている[25]

概要[編集]

仕様[編集]

D52形は戦前に計画されたKD54形の案を元に、D51形と同一の軸配置でボイラーを可能な限り大型化、火室前方に大きな容量の燃焼室を設けて効率を向上、粘着重量の増大や重量配分の変更を図るとともに出力を上げ、ボイラー大型化の効果により最大動輪周出力は1660 PSと、日本の蒸気機関車の中では最高の出力であった。

しかし、戦時中のため物資が極端に不足した情勢でもあることから、戦争完遂まで数年だけ持てば良い、または走ればよいという戦時設計が計画途中から本格的に導入され[27][28]、砂箱・蒸気ドームカバーの角型化や、台枠・弁装置などに鋳鋼製部品使用といった工作の簡易化、系材料の節約、除煙板や踏板、炭水車の炭庫といった部分に代用材として木材が多数使われるなど、総体として非常に質の悪いものであった。その結果、設計上の性能はD51形よりも大幅に改善されているにも関わらず、本来の力を出せない車両が多く、1944年末の大阪鉄道局管内を例にすると配属33両中12両が材質や工作状態の不良による故障を起こしていた[29]

ボイラーの種類は3種(甲缶、乙缶、丙缶)あり、丙缶はボイラー用材の幅広鋼材が不足したため各缶胴の長さを変え、用材の寸法取りを合理化したが、煙管長は5000 mmで統一されていたため、丙缶では燃焼室長が短くなっている。原設計は甲缶で、長手継手は鋲接により組立てられており、将来の増圧 (18 kg/cm2) を考慮して缶胴の接続部はリベットが2列であったが、乙缶・丙缶ではリベットを1列とし、長手継手を溶接とするなど、構造の簡略化が図られている。概ね、甲缶が国有鉄道工場、乙・丙缶が民間工場製と分かれている。これ以外にも給水加熱器もボイラー受台の中に排気膨張室兼用のものを設置して配管を簡略化と金属材料の使用量削減を図っている。ボイラー種別ごとの要目は以下の通り。

D52形ボイラー種別一覧表[19][30]
ボイラー種別 缶胴 火室・燃焼室 煙管 伝熱面積 缶水容量 重量
缶胴
種別
缶胴長 缶胴[表注 1]内径 缶胴工法 燃焼室
種別
火格子
面積
燃焼室長 外火室
天板長
火室容積 煙管長 大煙管[表注 2]
本数
小煙管[表注 3]
本数
火室 煙管 過熱
第1 第2 第3 第1 第2 第3 周方向 長手方向
甲缶 2230 mm 2470 mm 1501 mm 1770 mm 1808 mm 1846 mm リベット2列 リベット 3.85 m2 1000 mm 2296 mm 7.0 m2 5000 mm 35本 94本 20.1 m2 147.7 m2 77.4 m2 9.6 m3 18.37 t
乙缶 2100 mm 1450 mm リベット1列 溶接 2276 mm 17.65 t
丙缶 各1980 mm 920 mm 2275 mm 6.88m3 19.7 m2 9.5 m3 17.53 t
  1. ^ 板厚19 mm
  2. ^ 直径140 mm
  3. ^ 直径57 mm

さらに、細部の設計変更は本省の承認を得ることなく、現場の工場長や監督官の一存に任せられた。そのため、ドームカバーの段差やサンドパイプの減少、工作の簡略化や装備の省略化が行われ、形態が多様化しているほか、汽車製造製のD52 380 - 384号機の5両は制式のボックス輪心に代えて円板を湾曲させて一枚板構造としたディスク輪心を使用した。

炭水車は鋳鋼製2軸ボギー台車を装備するが、テンダー下部の水槽部分で牽引・圧縮および垂直強度を保持することとして、6 mm厚の底板を用いた船底型のフレームレス構造とし、一般的な台枠は前後の連結器部から台車中心部のみとした[注釈 2]。炭庫部分は石炭の質が悪化したことに対応して容量を当初計画の10 tから12 tに増大、転車台が空襲などで使用できない場合の逆行運転を想定し後方視界を確保するため、水槽部分より幅を狭めた形となった[31]

戦後の改造[編集]

運用状況[編集]

戦時設計であった本形式は、運用上の酷使、工作や整備の不良のため、1945年中に死傷者を伴うボイラー破裂・爆発事故を続けて3件も起こしたことから、一旦全機の使用が停止され、X線によるボイラーの検査等を実施する一方、応急的な対策としてボイラー水位を高めたり火室控の交換、蒸気圧の減圧といった処置を施して対応した[注釈 3]が、事故および状態不良で1946年 - 1950年に以下の55両が廃車となった。

D52 5, 7, 8, 9, 27, 30, 47, 51, 59, 73, 78, 80, 83(事故), 84, 87, 88(戦災), 90(戦災), 91(戦災), 95, 97, 103, 107, 110, 111, 113, 114, 116, 120, 205, 206, 207, 208, 209(事故), 212, 215, 220, 221, 238, 346, 347, 350, 351, 359, 364, 371, 381, 394, 395, 409, 410, 411, 412, 413, 443, 465

他形式への改造[編集]

戦時輸送の終了による貨物用機関車の余剰化と、旅行の制限がなくなったことによる旅客輸送量の増加にともなう旅客用機関車不足のため、1948年から1949年にかけて本形式のボイラーを流用し、C59形相当で従軸を2軸とした走行装置と組合わせた旅客用機関車C62形が49両(うち1両は2両分のボイラーを組合わせて1両分としたため、種車となったD52形は50両。)製造された。前後の機番対称は以下の通り。

また、第二次大戦後に主要幹線の急速な電化が計画されたことに伴い、1950年から1951年にかけて戦時設計から標準設計への復元に併せて従軸を1軸から2軸として、軸重を線路規格の低い「乙線」への入線可能な値に調整することが可能なD62形に20両が改造された[34]。当時の線路等級ごとの軌道延長は以下の通り。

線路種別・本線軌道延長の構成(1945年度末)[35]
上段:延長、下段:構成率
種別 特甲線[表注 1] 甲線 乙線 丙線 簡易線[表注 2]
構成 1267 km
5.7 %
3710 km
16.6 %
6788 km
30.4 %
8518 km
38.2 %
2041 km
9.1 %
22326 km
100.0 %
  1. ^ 甲線のうち、特に主要な線区[36]
  2. ^ 丙線のうち、特に簡易な構造の鉄道[37]

改造後しばらくは動輪上重量をほとんど軽減せずにD52形と共通運用されていたが、1958年から1959年にかけて動輪の軸重を軽減して乙線に入線可能にするとともに、シリンダー直径を550 mmから530 mmに縮小してシリンダー牽引力をD51形とほぼ同じに変更しており、低速域ではD51形と、高速域ではD52形と同等の性能となった[34]。しかし、幹線の電化が当初の計画通りには進展せず、輸送情況も変化したため、当分の間はD52形が必要とされることとなり、D62形への改造は20両で終了して[34]D52形のまま標準設計に復元する装備改造の実施に移行することとなった[26]

改造前後の機番対称は以下の通り。

装備改造[編集]

その後、D62形・C62形へ改造した70両と、廃車となった55両を除いた160両のうち148両に対し、1951年以降、D62形の整備内容に準じた装備改造を浜松工場、鷹取工場ならびに広島工場において実施した。装備改造は自動給炭機の設置、給水加熱器もボイラー受台内部のものを撤去して煙突前方の煙室上に新設、戦時設計で代用材を使用していた部位を正規のものに交換、炭水車の中梁追加や炭庫の改造といった内容で、外見上は角型・カマボコ型ドームの丸型化、木製除煙板や炭水車炭庫側面の鋼板化などにより、形態的にも戦前製作機と比べて遜色のないレベルとなった。一方、装備改造から外れた12両 (D52 12, 96, 126, 131, 146, 216, 222, 340, 417, 419, 456, 460号機) は、除煙板や歩み板、石炭庫側板などの木製部を鋼板製に取り換えた程度で、自動給炭機も装備されず、角型のドームを残すなど戦時型の面影を強く残したまま、瀬野八の後部補機運用を受け持つ瀬野機関区に配置された。

その他[編集]

装備改造機は当初の設計どおりの性能を発揮できるようになったが、ボイラーは戦時中製造のものが検査、補修を受けながら引続き使用されており、1954年にはボイラー破裂事故を再発したことから、本形式やD62形・C62形を中心に、戦中戦後に製造された蒸気機関車のボイラー再検査を実施、翌1955年から新造ボイラーへの交換が行われた[39]

製造[編集]

本形式は設計に並行して1943年6月から2か所の国鉄工場(工機部)で先行的に部品や機関車本体の製造を開始し[注釈 4]、その後に製造計画を割り当てられた民間メーカー5社による本格的な製造に移行した。当初は492両が製造される計画であったが、1945年の終戦により計画は中止、終戦時点で未完成だった28両が同年度中に竣工した時点(最終出場は、1946年3月31日付、日本車輌製のD52 62号機。実際の落成日は4月16日)の285両で製造は打ち切られたため、欠番が多数あり、最終番号はD52 468である。

製造の状況は、以下のとおり。

  • 1943年度(19両)
  • 1944年度(204両)
    • 浜松工機部(10両):D52 6 - 15(製造番号94 - 103)
    • 鷹取工機部(9両):D52 25 - 33(製造番号63 - 71)
    • 日本車輌製造(18両):D52 41 - 58(製造番号1319 - 1330, 1374 - 1379)
    • 川崎車輛(62両):D52 68 - 97, 151, 152[注釈 5], 198 - 227(製造番号2972 - 2978, 2986 - 2990, 2994, 2998, 2995, 2996, 2997, 2999, 3047 - 3058, 3060, 3061, 3064 - 3071, 3073 - 3075, 3077 ,3078, 3080 - 3086, 3088, 3089, 3092 - 3100)
    • 日立製作所(41両):D52 98 - 122, 393 - 408(製造番号1734 - 1736, 1838 - 1847, 1894 - 1905, 1960 - 1975)
    • 汽車製造(46両):D52 133 - 142, 333 - 368(製造番号2433 - 2442, 2458, 2459, 2467 - 2494, 2497 - 2502)
    • 三菱重工業(18両):D52 143 - 150, 443 - 451, 453(製造番号469 - 476, 477 - 485, 487)
  • 1945年度(62両)
    • 日本車輌製造(4両):D52 59 - 62(製造番号1409 - 1412)
    • 川崎車輛(11両):D52 228 - 238(製造番号3101 - 3111)
    • 日立製作所(15両):D52 409 - 423(製造番号1976 - 1990)
    • 汽車製造(16両):D52 369 - 384(製造番号2503 - 2518)
    • 三菱重工業(16両):D52 452, 454 - 468(製造番号486, 488 - 502)

計画されたものの未成となった番号(総数は207両)は以下の通り[注釈 6]

  • 浜松工機部(5両):D52 16 - 20
  • 鷹取工機部(7両):D52 34 - 40
  • 日本車輌製造(5両):D52 63 - 67
  • 川崎車輛(94両):D52 239 - 332
  • 汽車製造(8両):D52 385 - 392
  • 日立製作所(19両):D52 424 - 442
  • 三菱重工業(69両):D52 153 - 197, 469 - 492

運用[編集]

本形式はまず東海道山陽本線(沼津 - 下関間)の沿線機関区へ重点的に配置され、続いて函館室蘭本線(函館 - 倶知安間および長万部 - 岩見沢間)での運用目的から北海道に配置されたほか、品鶴線山手貨物線東北貨物線(新鶴見操車場 - 大宮操車場間)用として関東地方にも投入された[42]。1944年に行われたD52 1号機の性能試験では10‰の上り勾配で1200 tを牽引、この結果に基づいて大戦中は一般貨物列車1100 t、石炭集結列車1200 t運転を実施することなるが、途中停車・遅運転事故続発のため定数低下となり、この時期1200 t列車を牽引していたのは結局EF12形電気機関車のみであった。

本形式が全機出揃った1946年3月末時点の配置は以下のとおり。

  • 札幌鉄道局(29両)
    • 長万部機関区(29両):D52 21, 31, 46 - 52, 94 - 97, 111 - 113, 146, 152, 205 - 208, 220 - 222, 345 - 348
  • 東京鉄道局(27両)
  • 名古屋鉄道局(72両)
    • 静岡機関区(7両):D52 204, 215, 217, 403, 409 - 411
    • 浜松機関区(19両):D52 53 - 58, 114, 115, 210 - 214, 216, 218, 219, 361 - 363
    • 稲沢機関区(32両):D52 1, 9 - 14, 41 - 43, 99, 133 - 137, 139, 140, 201 - 203, 336 - 339, 375 - 378, 414, 415, 462
    • 米原機関区(14両):D52 15, 44, 45, 209, 333 - 335, 343, 344, 404, 405, 412, 413, 416
  • 大阪鉄道局(81両)
    • 梅小路機関区(9両):D52 354, 356 - 359, 364 - 366, 368
    • 吹田機関区(31両):D52 32, 33, 102 - 109, 198, 199, 223 - 233, 340 - 342, 353, 355, 360, 406, 407
    • 鷹取機関区(8両):D52 82, 89, 110, 200, 393 - 395, 408
    • 姫路機関区(33両):D52 22 - 24, 29, 30, 73, 74, 80, 81, 83 - 87, 90 - 93, 138, 141, 142, 147 - 149, 351, 352, 367, 369 - 374
  • 広島鉄道局(76両)
    • 岡山機関区(11両):D52 117, 119 - 121, 144, 150, 445 - 447, 453, 461
    • 糸崎機関区(6両):D52 122, 145, 151, 451, 452, 460
    • 広島第一機関区(13両):D52 79, 98, 100, 116, 118, 123, 124, 448 - 450, 459, 463, 464
    • 岩国機関区(4両):D52 401, 443, 444, 458
    • 小郡機関区(21両):D52 75 - 78, 101, 129 - 132, 143, 349, 350, 396 - 400, 454 - 457
    • 下関機関区(21両):D52 2 - 8, 25 - 28, 68 - 72, 88, 125 - 128

戦後は函館・室蘭本線用として長万部機関区に配属されていた全車が1948年までに本州へ転属ないし廃車、東海道・山陽本線でも状態不良からD51形とほぼ同一性能として運用されていた本形式であったが、1949年5月に東海道本線の電化区間が浜松まで延長、続いて1951年から実施された装備改造の実施後は、D51形が950 tを牽引する区間で本形式が1100 tを牽引、さらに夏季牽引定数が設定されて東海道区間での1200 t列車牽引となり、EF12形・EF13形EF15形の牽引定数1200 tと同一となって、新鶴見操車場 - 稲沢操車場間で1200 t列車を運転した。本形式の牽引トン数の推移は以下の通り。

D52形牽引トン数推移[43]
上段:牽引トン数、下段:均衡速度
通貨[表注 1]甲A[表注 2] 通貨丙C[表注 3] 通貨戌A[表注 4] 通炭[表注 5]丙C 備考
10パーミル 25パーミル 10パーミル 25パーミル 25パーミル 10パーミル 25パーミル
1943年 750 t
31 km/h
330 t
25 km/h
1100 t
19 km/h
450 t
19 km/h
- 1200 t
17 km/h
-
1945年 - 900 t
25 km/h
350 t
24 km/h
- 炭質低下のため牽引トン数削減
1946年 950 t
25 km/h
1950年 1200 t
17 km/h
- 400 t
20 km/h
D52形、D62形(軸重軽減改造未実施)共通
  1. ^ 貨車とその他車両で組成された通過列車
  2. ^ 速度種別:勾配10パーミルで均衡速度28 km/h、25パーミルで25 km/h
  3. ^ 速度種別:勾配10パーミルで均衡速度18 km/h、25パーミルで18 km/h
  4. ^ 速度種別:勾配5パーミルで均衡速度22 km/h
  5. ^ 石炭だけを積載した列車で組成された通過列車

その後、関ヶ原や船坂峠といった10‰勾配の連続する区間も含む東海道・山陽本線全線での1200 t貨物列車運転に使用された一方で、ワキ1形ワキ1000形などで編成された急行貨物列車も牽引している[44][45]。山陽本線の難所である瀬野 - 八本松間(瀬野八)の補助機関車として、同区間を通る上り旅客列車と軽量の貨物列車には単機、重量貨物列車には重連で使用された。

また、御殿場線岩徳線で旅客列車や貨物列車を牽引したほか、梅田貨物線城東貨物線でも少数が運用されていた[46]。1955年末以降は東海道本線の電化により余剰機が延べ9両鹿児島本線(門司 - 鳥栖間)用として門司機関区に転属、同線で貨物列車を牽引したが、1961年の門司 - 久留米間電化により全車が休車となり、廃車となった1両を除き翌年までに本州へ転属した[47]。さらに、1964年の山陽本線全線電化や1968年の御殿場線電化により、これらの路線で使用されていた本形式は後述する北海道地区へ転属した機体以外は廃車となった。

最終的には北海道地区の函館室蘭本線(函館 - 東室蘭間)での再度の運用のため、山陽本線の電化に伴い余剰となった姫路第一機関区所属の8両 (D52 56, 136, 138, 202, 204, 235, 404, 468号機)と岡山機関区所属の5両 (D52 140, 201, 217, 400, 414号機)の計13両が1960年度に、吹田第一機関区のD52 142号機、糸崎機関区のD52 28号機の2両が1968年度に五稜郭機関区に転属となり[48]1972年12月まで使用され、稼動状態で最後まで残ったのはD52 202号機であった。

参考として、1962年6月1日時点の配置表は以下の通り(総数154両)。

  • 青函船舶鉄道管理局(13両)
    • 五稜郭機関区(13両):D52 56, 136, 138, 140, 201, 202, 204, 217, 235, 400, 404, 414, 468
  • 東京鉄道管理局(7両)
    • 国府津機関区(7両):D52 62, 70, 72, 236, 335, 403, 460
  • 大阪鉄道管理局(12両)
    • 吹田第一機関区(11両):D52 142, 148, 200, 203, 229, 232, 340, 355, 382, 405, 466
    • 鷹取機関区(1両):D52 216
  • 岡山鉄道管理局(22両)
    • 岡山機関区(14両):D52 15, 32, 55, 102, 105, 117, 134, 210, 218, 223, 354, 383, 384, 424
    • 糸崎機関区(8両):D52 10, 13, 28, 89, 418, 421, 422, 452
  • 広島鉄道管理局(94両)
    • 広島第一機関区(33両):D52 11, 14, 45, 50, 52, 53, 71, 75, 76, 92, 98, 99, 100, 122, 124, 130, 135, 139, 143, 144, 149, 213, 228, 341, 342, 348, 356, 373, 376, 378, 406, 408, 416
    • 瀬野機関区(14両):D52 12, 48, 101, 118, 123, 126, 128, 129, 131, 133, 146, 398, 417, 463
    • 柳井機関区(16両):D52 2, 29, 54, 58, 68, 108, 214, 234, 237, 369, 370, 372, 402, 453, 457, 467
    • 小郡機関区(31両):D52 1, 3, 6, 24, 31, 33, 41, 43, 57, 60, 61, 81, 86, 109, 115, 125, 137, 198, 199, 219, 224, 225, 361, 362, 363, 393, 420, 444, 454, 456, 459
  • 門司鉄道管理局(6両)

保存機[編集]

京都市の京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)をはじめとして、7両が静態保存されている。同機の活躍舞台として知られた御殿場線の縁から、神奈川・静岡両県での保存が多い。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 石炭、鉄鋼、アルミニウム造船航空機、1942年11月に内閣に設置された臨時生産増強委員会設置要綱[10]による
  2. ^ 同時期の戦時型D51と同様な省力化・省資材化の手法で、モノコック構造の鉄道車両への本格採用が1950年代中期近くまで立ち遅れた日本における、例外的な採用例であり、一部の設計を変更した形で終戦後に増備された中・大型の旅客用蒸気機関車にも導入されている。
  3. ^ 1945年8月11日に山陽本線万富駅でD52 82のボイラーが破裂する事故が発生。乗務員は50 mも吹き飛ばされた。1945年12月7日には、三石・吉永間でD52 371の焚き口から蒸気が噴き出す事故が発生し、乗務員が飛ばされた。これは、火室の中の天井板の破裂が原因である[32]
  4. ^ 機関車番号「1」は、最も早く完成させた工場に当時の東條総理大臣を迎えて渡されるとされていたため、1943年9月から製造を開始し浜松・鷹取の両工場が早期竣工を競った。当初鷹取工場は浜松工場より5 - 10日程度製造工程が遅れていたが、浜松を追い抜こうという合言葉のもとにいろいろな悪条件を克服し、徹夜作業で数日は家に帰らぬ者も多く、1943年12月17日23時、初号機の構内試運転を実施して浜松工場より1日早く竣工させた。しかし、機関車の竣工直前になって東京側に近い工場から順次機関車番号が割当てられることになり、初号機は「D52 21」となった[40]
  5. ^ D52 151 - 152号機は三菱重工業で製造予定であったが、川崎車輛に製造が代行された。
  6. ^ D52 153 - 197, (D52 239 - 332のうち、D52 239 - 287を除外した)288 - 332号機の90両が、それぞれ三菱重工業、川崎車輛に割当てられたとは考えにくく、蒸気機関車研究家の金田茂裕は「何の確証もないが、これらの合計90両は故意に空番を作って各工場の生産能力を外部から知られ難くするための工作であったと考えられるのではないか」と推測している[41]
  7. ^ 復元に際し中心的な役割を担っていた国鉄OBが直後に急逝し、次回の運行を中止すると報じられた[54]が、役割は国鉄OBと交流があった人物に引継がれた[55]

出典[編集]

  1. ^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.17
  2. ^ 「戦時陸運非常体制確立方策要綱」『経済基本方策要綱』東京商工会議所商工資料 第88号(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」(国立国会図書館リサーチ・ナビ)
  4. ^ a b 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.18
  5. ^ 『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.6
  6. ^ 『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.4
  7. ^ 『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.7
  8. ^ 『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.16
  9. ^ 「鉄道車輌ノ計画増産確保ニ関スル件」(国立国会図書館リサーチ・ナビ)
  10. ^ 「臨時生産増強委員会設置要綱」(国立国会図書館リサーチ・ナビ)
  11. ^ 『日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開』 p.18
  12. ^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.86, 105, 116, 130, 153, 169
  13. ^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.169
  14. ^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.116
  15. ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.436-440
  16. ^ a b c 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.435
  17. ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.441
  18. ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.446
  19. ^ a b c 『国鉄蒸気機関車史』 p.146, 189
  20. ^ 『国鉄蒸気機関車史』 p.159, 161
  21. ^ 『機関車の系譜図 4』 p.597
  22. ^ a b 『国鉄蒸気機関車史』 p.150
  23. ^ 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.166
  24. ^ 『機関車の系譜図 4』 p.599
  25. ^ a b 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.446-447
  26. ^ a b 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.188-189
  27. ^ 衣笠敦雄「D52とD62」『鉄道ピクトリアル』 1962年10月号 (No.137) pp.4 - 5
  28. ^ 「蒸気機関車四方山話 第25回 国鉄唯一のヘビー・ミカドD52形」高木宏之『国鉄時代』2014年5月号 (vol.37) pp.74 - 75
  29. ^ 川上幸義『私の蒸気機関車史 下巻』 1981年5月 p.364
  30. ^ 『機関車の系譜図 4』 p.540-541
  31. ^ 「蒸気機関車四方山話 第25回 国鉄唯一のヘビー・ミカドD52形」高木宏之『国鉄時代』2014年5月号 (vol.37) p.75
  32. ^ おのつよし 『日本の鉄道100ものがたり』文藝春秋文春文庫 1991年5月10日 pp.318 - 321 「爆発する機関車」
  33. ^ 『機関車表』 p.1886-1893
  34. ^ a b c 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.190-191
  35. ^ 『機関車の系譜図 4』 p.627
  36. ^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.62
  37. ^ 『鉄道技術発達史 第1篇』 p.65
  38. ^ 『機関車表』 p.2148-2180
  39. ^ 川上幸義『私の蒸気機関車史 下巻』 pp.365 - 366
  40. ^ 蒸機とともに一世紀. 高輪印刷株式会社 日本国有鉄道鷹取工場編集. (1970年9月30日). p. 100 
  41. ^ 『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』 p.502-503
  42. ^ 今村潔「D52・D62形機関車の車歴しらべ」『鉄道ピクトリアル』 1962年10月号 (No.137) pp.27 - 29
  43. ^ 『鉄道技術発達史 第5篇』 p.115
  44. ^ 今村潔「マンモス機D52・D62」『蒸気機関車』 1978年3月号 (No.54) pp.75 - 76
  45. ^ 西村勇夫「名古屋を中心とする戦後蒸機ものがたり その2」交友社『鉄道ファン』 1990年3月号 (No.347) pp.84 - 87
  46. ^ 今村潔「D52・D62形機関車の車歴しらべ」『鉄道ピクトリアル』 1962年10月号 (No.137) p.28
  47. ^ 谷口良忠・奈良先博保「九州線のD52」『蒸気機関車』 1978年3月号 (No.54) pp.16 - 17
  48. ^ フォト海道(道新写真データベース) 【写真説明】鷲別機関区に着いた D52型機関車 掲載 1960/11/02
  49. ^ 138号機の証 - 相模原D52保存会、2010年4月2日
  50. ^ D52 403号機関車 - 平塚市博物館
  51. ^ D52型機関車の見学について - 平塚市博物館
  52. ^ “半世紀ぶりSL奇跡の復活 山北町でD52試運転”. 神奈川新聞. (2016年3月19日). http://www.kanaloco.jp/article/160258 2016年3月19日閲覧。 
  53. ^ “「D52」48年ぶり自走、ファンからどよめき”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2016年10月15日). オリジナルの2016年10月15日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20161015034055/http://www.yomiuri.co.jp/national/20161015-OYT1T50011.html 2016年10月15日閲覧。 
  54. ^ “SL復活の立役者・恒松さんの死悼む”. 神奈川新聞. (2016年10月26日). http://www.kanaloco.jp/article/208231 2016年11月5日閲覧。 
  55. ^ “山北町 駅前に鉄道資料館”. タウンニュース. (2017年1月14日). http://www.townnews.co.jp/0608/2017/01/14/365801.html 2017年1月21日閲覧。 
  56. ^ 「BSジャパン 空から日本をみてみようplus」でも取り上げられた。BSジャパン 空から日本をみてみようplus 2017年6月1日放送 湧水豊かな足柄平野から富士山の麓へ 小田原〜御殿場。
  57. ^ 御殿場駅前にD52がやってくる! SL解体見学会開催 鉄道ホビダス最新鉄道情報(2010年8月20日)

参考文献[編集]

書籍

  • 日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第1篇』日本国有鉄道、1958年。
  • 日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第4篇』日本国有鉄道、1958年。
  • 日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第5篇』日本国有鉄道、1958年。
  • 臼井茂信『機関車の系譜図 4』交友社、1978年。
  • 臼井茂信『日本蒸気機関車形式図集成 2』誠文堂新光社、1969年。
  • 川上幸義『私の蒸気機関車史 下』交友社、1981年。
  • 高田隆雄『万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編』小学館、1981年。
  • 高木宏之『国鉄蒸気機関車史』ネコ・パブリッシング、2015年。ISBN 9784777053797
  • 沖田祐作『機関車表』ネコ・パブリッシング、2014年。ISBN 9784777053629
  • 金田茂裕『形式別 国鉄の蒸気機関車IV』機関車研究会、1985年。
  • 高砂雍郎「鉄道広報による国鉄車両台帳〔機関車編〕」1991年 鉄道史資料保存会 ISBN 4-88540-073-2
  • JTBキャンブックス『幻の国鉄車両』2007年11月、JTBパブリッシング

雑誌

  • ネコ・パブリッシング『国鉄時代』2014年5月号 (vol.37) 特集:貨物列車
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』 1962年10月号 (No.137) D52・D62機関車特集
  • キネマ旬報社『蒸気機関車』 1978年3月号 (No.54) D52・D62特集
  • 林采成「日本国鉄の戦時動員と陸運転移の展開」『経営史学』第46巻第4号、経営史学会、2011年6月、 3-28頁。

関連項目[編集]