国鉄C53形蒸気機関車

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C53形蒸気機関車
C53 10
C53 10
基本情報
運用者 鉄道省日本国有鉄道
製造所 汽車製造川崎車輛
製造番号 別記
製造年 1928年 - 1930年
製造数 97両
引退 1950年
投入先 東海道本線山陽本線呉線(全線開通後)
主要諸元
軸配置 2C1 (4-6-2、パシフィック)
軌間 1,067 mm
全長 20,625 mm
全高 4,000 mm
機関車重量 80.98 t
動輪上重量 46.27 t
総重量 127.25 t
固定軸距 3,980 mm
動輪径 1,750 mm
軸重 15.44 t(第3動輪)
シリンダ数 単式3気筒
シリンダ
(直径×行程)
450 mm×660 mm
弁装置 ワルシャート式(左右)
グレズリー式(中央)
ボイラー圧力 14.0 kg/cm2
大煙管
(直径×長さ×数)
140 mm×5,500 mm×28本
小煙管
(直径×長さ×数)
57 mm×5,500 mm×88本
火格子面積 3.25 m2
過熱伝熱面積 64.4 m2
全蒸発伝熱面積 220.5 m2
煙管蒸発伝熱面積 140.9 m2
火室蒸発伝熱面積 13.5 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 12.00 t
水タンク容量 17.0 m3
制動装置 自車:空気ブレーキ
編成:自動空気ブレーキ
出力 1,040 PS
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C53形蒸気機関車(C53がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省アメリカから輸入したC52形を解析の上、国産化した3シリンダー型のテンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴサン

製造[編集]

汽車製造川崎車輛の2社により、1928年から1929年の間に97両が量産された。その状況は次のとおりである。

  • 1928年:C53 1 - 53(53両)
  • 1929年:C53 54 - 97(44両)
  • 汽車製造(47両)
    • C53 1 - 16(製造番号996 - 1011)
    • C53 43 - 53(製造番号1038 - 1049)
    • C53 57 - 59(製造番号1076 - 1078)
    • C53 71 - 80(製造番号1093 - 1097, 1104 - 1108)
    • C53 91 - 97(製造番号1152 - 1158)
  • 川崎車輛(50両)
    • C53 17 - 42(製造番号1241 - 1247, 1254 - 1272)
    • C53 54 - 56(製造番号1303 - 1305)
    • C53 60 - 70(製造番号1322 - 1332)
    • C53 81 - 90(製造番号1375 - 1384)

なお、本形式は製造中において以下に代表される細部の変更が行われた。

  • 砂箱の溶接構造化(C53 34以降、1929年製のC53 54からは外形も変更)
  • 運転室上部天窓の増設と加減リンク受の形状変更(C53 43以降)
  • シリンダ側面の蒸気室覗き穴を大型化(C53 45以降)
  • 煙室前面に手摺の増設(C53 54以降の川崎車輛製)
  • 汽笛取り付け位置を火室上部からドーム右側面へ、排障器位置を先台車から前部台枠に(C53 57以降)
  • 煙室前面の手摺を煙室扉から煙室外周へ(C53 57以降の汽車製造製)
  • 前デッキ前面の垂直部を一体のものから4分割した引戸に変更(C53 60以降)

開発の背景[編集]

大正晩年から鋼製客車の出現によって客車の重量が10%ほど増加し特別急行列車の速度を維持するには18900形(後のC51形)では出力不足であり、このため狭軌[注釈 1]でこれ以上の輸送力増加に対応するには3シリンダー機を導入するしかない[注釈 2]と考えられた[1]

これ以前に大正13年(1924年)頃に輸送力増大を見込んで3シリンダー機関車の案がいくつか挙げられていた。「機70形」「機78-2形」「機80形」という3形式の断片的なデータが残っており、それぞれ以下のような形式であった。

最初期の3シリンダー機計画案[2]
形式名 軸配置 最大軸重 動輪径 最高速度 運転整備総重量
機70形 2C1(4-6-2) 15.6t 1750mm 100㎞/h 130.0t
機78-2形[注釈 3] 2D1(4-8-2) 15.0t 1600mm [注釈 4] 134.95t[注釈 5]
機80形 2C1(4-6-2) 17.8t 1600mm 95㎞/h 138.4t

これらのうち機70形は急行旅客用で後にC53を実際に作る時に(大きさや性能の)原型にしたもの、後者2つは重量急行旅客用[注釈 6]だが、3シリンダーそのものをまったく扱ったことがない[注釈 7]当時は中央シリンダー取付位置などは未定のまま[3]で、実際にアメリカから3シリンダーのパシフィック機8200形(後のC52形)を試験的に輸入したところボイラ効率・機械効率が悪いと判断されたので、これらの問題を解消すべくD50並みのボイラーとC51並みの1750mm径動輪を持つ3シリンダー機関車として1928(昭和3)年から製造された[4]

この時、シリンダブロック周辺など3シリンダー機の特色となる部分は朝倉希一による「大学を出たばかりの頭の柔らかい新人に任せよう」との判断から、当時新進の島秀雄が研究を担当した。

この際3シリンダー要素以外にもボイラ径がC51形より太くなったことでボイラ中心位置が上がったため、重心を抑えるように設計が配慮されており、鋳物製の化粧煙突から軽いパイプ煙突に変更、給水加熱器を前方台枠下に吊り、先従輪は940mmだったものを860mmにして台枠を低め、砂箱をボイラー上から歩み板の上に変更されるなどの配慮がされている[5]

グレズリー式弁装置[編集]

本形式に採用されたグレズリー式連動弁装置[注釈 8]は、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 (LNER) の技師長 (Chief Mechanic Engineer:CME) であったナイジェル・グレズリー卿が考案した、単式3シリンダー機関車のための弁装置である。

これは通常のワルシャート式弁装置を基本として、その左右のピストン弁の尻棒の先端に連動大テコ(2 to 1 Lever:右側弁の尻棒と連動小テコの中央部に設けられた支点とを結び、中央部で台枠とピン結合される)・連動小テコ(Equal Lever:中央弁の尻棒と左側弁の尻棒を結ぶ)の2つのテコの働きにより、左右のシリンダーのバルブタイミングから差動合成で台枠中央部に設けられたシリンダーのバルブタイミングを生成する、簡潔かつ巧妙な機構である。

この方式を使えば、それぞれのシリンダーに独立した弁があるタイプの3シリンダー式に対し、中央シリンダーのロッド・クランク横のバルブギアを省略できるので整備の際に下にもぐる手間が省け、狭軌でもきちんと整備をしていれば使いやすいものだった[6]が、ベアリングの摩耗などでわずかでもレバーにガタが生じると中央シリンダーの動きがずれて主動軸クランクに損傷が起きるという問題があった(発祥の地のイギリスでも二次大戦中この問題が発生している)[7]

本機においては正式に特許実施権を獲得していたアメリカのアルコ社で設計・製造したC52や満鉄のミカニ(日本で製造したものもあるがアメリカ製造車と同設計)と違い、グレズリー弁関係のノウハウがない状態で設計を変えてあるので以下のような点で問題が生じている。

  • 軽量化を優先して連動テコを細く[注釈 9]、さらに上下方向に穴を8つ開けておいたため高速で動作する際の変形を招いた。
  • クランク軸にニッケル・クローム鋼を使用した所、発熱が大きくなった[注釈 10]
  • 給油機構がうまくいっておらず、上記の発熱もあって潤滑不足による中央クランクの焼きつきが問題になった[注釈 11]
  • リンクの動作中心をピストン弁中心に合わせるのではなく、リンクの回転円の外端をピストン弁中心に合わせて設計されている。

なお、国鉄側では中央シリンダーの不具合について台枠との取り付けが悪い(弱い)と認識していたらしく、国鉄によって編集された『鉄道辞典』では「C53形機関車」の項で「この部(注:主台枠の中央シリンダーの取り付け部分)に亀裂が発生して困った」と記述がある[8]他、「3シリンダ機関車」や「C59形機関車」でも中央シリンダーと台枠の取り付けに関して記載がある[9]

鉄道省唯一の日本製3シリンダー機[編集]

C53の第3シリンダー
(写真中央)
石山駅構内で速度超過により脱線したC53 30(1930年4月25日、東海道線石山駅急行列車脱線転覆事故

C53形は予期通りの性能を発揮したので97両量産され、東海道本線山陽本線において特急・急行列車牽引用の主力として運用された[10]。設計主任は伊東三枝(国鉄DC11形ディーゼル機関車設計製造監督)。

しかし、構造が複雑で部品点数が多いため整備検修側からは嫌われた。前述の通り設計そのものもシリンダー周りを担当した島秀雄をはじめとして3シリンダー機構の理解が不十分であり、軽量化を重視しすぎたことで設計陣が枝葉末節にとらわれ、全体を見ずその本質を見失っていた形跡が散見され、これらは運用開始後、台枠の剛性不足による亀裂多発、連動テコの変形による第3シリンダーの動作不良頻発と起動不能などといった重大なトラブルの原因となった。

前述の改悪に加え、軌間の狭さに由来する弁装置周りの余裕のなさが致命的で、特にメタル焼けが多発した第3シリンダー主連棒ビッグエンドへの注油(給脂)には想像を絶する困難[注釈 12] が伴うなど、およそ成功作とは言い難かった。

このため、お召列車や運転開始当初の超特急“燕”では、信頼性の面からC51形が使用されている[注釈 13]。なお、燕の名古屋以西の牽引機は程なくC53形が担当することとなった(沼津電化後は沼津以西をC53形が担当)。

それでも戦前の時点では、鉄道省は本機を主として名古屋[注釈 14] ・明石[注釈 15]・下関の3機関区を中心とする各機関区整備陣の自己犠牲を多分に含んだ[注釈 16] 努力、浜松工場で行われた「10000粁限定」[注釈 17] や「標修車」[注釈 18] などの大規模な整備、修繕[12][13] のほか、大阪鉄道局では主として優等列車仕業を担当する明石機関区に、管内配属の本形式のうち最も状態のよいグループを集中配備する[注釈 19] ことなどによって辛うじて使いこなしていたが、以後、鉄道省、国鉄を通じ、3シリンダー機関車の製造はおろか設計すらなくなり、日本の蒸気機関車は単純堅実だが性能向上の余地がほとんどない2シリンダー機関車のみ[注釈 20]に限定されることになった[注釈 21]

もっとも、適切に調整・保守された本形式は、等間隔のタイミングで各シリンダが動作する3シリンダーゆえに振動が少なく、広くて快適な運転台、蒸気上がりの良いボイラ、牽引力の強さから、乗務員の評価と人気は高かったという。後続のC59形C62形より乗り心地が良かったと伝えられている[注釈 22]

改造[編集]

元々C52を使用時、煙室の蓋を開けて清掃中にシンダがグレズリー式弁装置に入る問題が発生したのでそれを防ぐために前デッキに鉄製のエプロンを追加で取り付けていた[注釈 23]が、本形式は最初からこれ対策にこの鉄エプロンが正面だけでなく側面まで覆っていた、しかしこれは整備上の不便から短期間で撤去され前面のみとなり、こちらが標準スタイルになっている[14]。運用開始直後、勾配区間の走行時やブレーキ時に蒸気溜内部に水が入る問題が起こった[注釈 24]ため蒸気ドーム内部に通風管を設けたが、C53 93は試験的に蒸気ドーム高さを増した上でドーム自体の位置を後方に移す改造を行った。

第二動輪のクランク軸は当初動軸一体の鍛造品であったが強度や工作上の観点から組立式に変更、ピストン体やクロスヘッド、内側滑り棒といった箇所も強度の問題から順次改造された。また、1930年代半ば以降は検修上の問題から一部の初期製造車で排障器を移設、蒸気室覗き穴の拡大や前デッキ垂直部を4分割引戸として後期製造車と取り扱いを共通化したほか、C53 88は試験的に二段に折れていた前デッキ傾斜部分を一面の開戸に変更した。

昭和初期には排煙効果を高めるためC51形と同じく煙突上部や煙室周囲に各種の排煙装置を取り付ける試みがなされたものの、除煙板が良好だったので1931年頃から取り付けが始まり[15]、他の排煙装置のものも1933年以降は原型に戻されている。除煙板の形状は名古屋・大阪・門司(1935年以降は広島鉄道局に移管)の各鉄道局により長さや高さが若干異なるもの[注釈 25] が採用された。

このほか、名鉄局と大鉄局所属車の一部には特急・急行列車のロングラン運用に備え炭水車を標準的な12-17形からD50形初期車が使用していた20立方米形に振り替えたものが存在した[注釈 26]。本形式が使用した20立方米形炭水車は石炭搭載量を増やすため炭庫の高さや長さを増す改造を施しており、一つの外見的特徴となった。

流線型化改造[編集]

上り「つばめ」回送列車を牽引するC53 43
1934年12月9日 大久保 - 明石間にて撮影

1934年11月には当時の世界的な流線型ブームに乗り、梅小路機関区所属のC53 43が鷹取工場における20日の突貫工事で試験的に流線型に改造された。煙室前部を斜めに切り、運転室は密閉式のものに取替え、車体全体と炭水車上部を流線型の鉄板で覆い、機関車本体と炭水車の隙間はで覆った。さらに、露出した汽笛にも流線型のキセが奢られる徹底ぶりであった。これらの改造により他機とは全く異なる外観を呈した。塗色も完成直後は海老茶色で、試運転前に黒に塗り替えられたかのように新聞に書かれたが、当初黒以外の案があって採用されなかっただけとも言われている[注釈 27]

流線型ブームでは空気抵抗の軽減効果が多く標榜されたが、当時の100km/hに満たない運転速度では空気抵抗が列車の走行に与える影響はごく小さなものであった。それよりも列車の周囲の空気の流れを改善し、が列車に絡みつくのを防ぐとともに、走行中に対向列車や駅ホーム上の乗客に及ぼす風圧の軽減を目標としたという[16]

完成後の11月24日には鷹取工場構内で公式試運転を実施し、同年12月1日から1937年7月1日のダイヤ改正で梅小路機関区のC53が特急運用から撤退するまでの間上り「燕」の神戸 - 名古屋間(明石操車場 - 神戸間の回送列車も牽引)、下り「富士」の名古屋 - 大阪間を担当したほか機関車回送を兼ねて急行17列車の京都 - 神戸間や普通列車も牽引した[17]

1935年(昭和10年)6月には東海道本線の - 鈴川(現・吉原)間でC53 43と通常型のC53 55を使った性能試験[注釈 28]を実施[18]、この試験成績が良好だったため、C53を全車流線型に改造するため改造費1両3000円を計上、昭和10年度として10両改造することが内定した[19] が実現しなかった。「燕」の客車も展望車の後部を流線形にし、貫通幌を車体幅一杯まで2400ミリ広げるなどして空気抵抗を3割減らす改造に着手するという計画が報道された[20] が、これも実現していない。

運転室内は幌で覆われているため室内の騒音は軽減されたが、その反面、熱がこもり、室内温度が高温になりやすかった。また整備点検には他のC53形よりも約180%多くの時間を要したという[21]。特急運用から外れた直後には炭水車上部のカバーを撤去、戦時中には車体下部のカバーも撤去され、開閉に手間を要した煙室扉にはジャッキを取り付けた。

廃車[編集]

1940年代に入り、2シリンダーで同クラスの性能を持つC59形の完成に伴って幹線の主力機関車の座を譲ったが、あまりに大型であるため、当時は東海道・山陽本線と軍事輸送上から山陽本線並の軌道状態で整備された呉線以外には転用不可能であった。折から戦時体制に突入したために機関車需要がさらに逼迫、にもかかわらず旅客用機関車の製造は中断されたために本形式もフルに運用され、図らずもその寿命を延ばすことになる。だが元々複雑極まる構造であった上、戦時の酷使や整備不良、さらには相次いだ戦災や事故による損傷が祟り、戦後すぐに運用を離れる車両が続出した。結局、国産の本線用大型蒸気機関車の中ではもっとも早く、1948年から1950年にかけてすべて廃車となった[注釈 29]。その早すぎる廃車に対し朝日新聞の投書欄が発端となり衆議院運輸委員会で取り上げられることになった[22]

保存機[編集]

京都鉄道博物館のC53 45

1950年(昭和25年)に廃車されたC53 45は国鉄吹田教習所の教習用車両を経て鷹取工場内に放置されていたが、1962年(昭和37年)に鉄道90周年事業の一環として大阪市港区に開館した交通科学館(のちの交通科学博物館)に保存されることとなり、前年の1961年(昭和36年)に運行可能な状態に復元整備され、9月20日9月21日には吹田操車場 - 鷹取間で2日間記念走行が行われている。1972年(昭和47年)9月に京都市梅小路蒸気機関車館に移され、現存唯一のC53形として、同館が2016年(平成28年)4月に京都鉄道博物館に新装オープンした後も静態保存されている。2006年(平成18年)、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。

製造銘板は1961年(昭和36年)の復元整備時に、汽車会社の協力会社の矢内金属工業(大阪・御幣島)が保管していた木型によって製造当時の様式の物が複製された[23]。現役時代のナンバープレートは廃車後に失われ、復元走行時と交通科学館保存当初は新規鋳造の形式名なしのナンバープレートを装着していたが、のちに形式名入りの赤地の物、梅小路移転前後に形式名入りの黒地の物と交換されている[注釈 30]

交通科学館から梅小路への移動時は、大阪港駅まで陸路で運ばれ、そこから本線上に復線し甲種輸送された[24]

このほか、同じく1950年(昭和25年)に廃車されたC53 57が教習用としてボイラー部分を切開した状態で浜松工場に保存された。1963年当時は現存していたが、のちに解体されている[25]

タキ1600形貨車への改造[編集]

1949年(昭和24年)9月30日から同年11月5日にかけて、廃車となった本形式の炭水車糖蜜輸送用40t積タンク車タキ1600形に改造する工事が実施された。改造工事は東洋レーヨン、若松車両の2社にて2ロット16両(タキ1600 - タキ1615、本形式32両分)が行われた。

これは2両分の炭水車の石炭取出口側(機関車運転室側)を向かい合わせにして永久連結し、炭水車上部の炭庫を取り払い、下部の水槽をタンクとして利用するというものであった。台枠や台車は元の炭水車のものを用いた。永久連結した2両分を1両とし、各々の車両には「タキ16xx前」「タキ16xx後」と表記された。

所有者内外輸送であり、その常備駅は神奈川県新興駅であった。

1956年(昭和31年)7月までに全廃されている。

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ C51形は当時1067mm軌間では最大の1750mmを採用しており、ボイラーができるだけ細くする必要があるなどの制約があった。((国鉄1958上)p.650「C51形機関車」
  2. ^ 『鉄道辞典』上p.632-633「3シリンダー機関車」によると国鉄側が認識していた3シリンダーのメリットとデメリットは次の通り。
    利点
    1. (同出力でも)2シリンダー式より個々のピストンを小さくできるため、左右の往復運動部分の質量が小さくなり、これによってできる蛇行運動(原文は「へび運動」)を小さくできる。
    2. シリンダーが3つになるので走り装置全体の重量は重くなるが、これは重心を下げる方向に働くのでボイラー中心を高くできる。
    3. トルク変動が2シリンダー式より抑えられ、そのために起こる動揺が減り、粘着重量を有効に使える。
      (空転を抑えられる。設計上の粘着係数は2シリンダーが「1/5」、3シリンダーが「1/4.5」とされた。)
    4. 左右と中央の往復部分の重量が打ち消し合って絶気運転時に前後動を抑えられる。
      (理論上は左右:中央で同重量、各シリンダーが120度づつにすれば前後動を0にできるが、C53のように中央シリンダーが斜めに持ち上げている場合は少し残る。)
    5. シリンダーの排気が動輪1回転につき6回となり、2シリンダーの4回よりも回数が増え、個々が小さくなることで通風の強弱変動が抑えられる。これにより通風がスムーズになるとともに未燃焼の石炭が排気されにくくなるため、ボイラー燃焼効率が向上する。
    6. シリンダー引張力の変化が小さくなるので運転中供給蒸気圧力を十分高くして締切率を小さくできるので経済的になる。
    欠点
    1. 中央シリンダーは主動軸そのもののクランクを回すので構造が複雑になり、設計・工作の難易度が上がる。
    2. 台枠内部にある中央シリンダーの検修が不便になる。
    3. シリンダーの数が増えるので熱が逃げやすくなり、内部漏れも起きやすくなる。
  3. ^ 「『78-2』とあるのは比較用に2シリンダーの『78-1』があったのではないか」と、髙木は『幻の鉄道車両』p.62で推測している。
  4. ^ 機80形と同じ動輪径だが、髙木は『幻の鉄道車両』p.62で機78-2形を「毎分300回転の時の運転速度は90㎞/h」と推測している。
  5. ^ 本文中未記載、この数値は『幻の鉄道車両』p.61の表の機78-2形機関車重量85.50tと炭水車重量49.45t(いずれも運転整備時)の合計。
  6. ^ 比較的詳しいデータが残っている機78-2形は9900(D50)形のボイラーの煙室を延長したような構造だが、形式図を見る限り全長が長く軸距だけで18.8m以上に達するため、当時の標準であった60ft(約18.3m)転車台に乗れずに没にされ、軸重増加を覚悟で3軸動輪にした機80形が検討されたと髙木は推測している。((髙木2007)p.62
  7. ^ 満鉄の3シリンダー機ミカニ輸入も同じ1924年で、これをコピーして自前で量産できるようになったのは1926年から。
  8. ^ 国鉄では「グレズレー式弁装置」と呼称。((国鉄1958下)p.1591「弁及びリンク装置」
  9. ^ 上から見るとミカニなどは強度の必要な中央部が舟状に太くなっているが、C53は直線的な形状をしている。((髙木2012)p.120図(下)・121
  10. ^ 後に朝倉自身「ニッケルは粘りが強いので軸受に禁物と後で知った」としている。
    (朝倉希一、遺稿「技術随筆 汽車の今昔10」『鉄道ファン 第19巻第10号(通巻222号)』株式会社交友社、昭和54年10月1日発行、雑誌06459-10、p.117。)
  11. ^ ミカニなどは中央クランクピンに直接グリースを注入できる穴がクランク軸中央にあった((髙木2012)p.121(本文・図)
  12. ^ きちんと給脂した後に出区しても途中で潤滑油切れを起こすことがあり、沼津から機関助手が高速運転を行う機関車の制動てこ(各制輪子をつなぐ棒、ブレーキロッド。)の上に乗った状態のまま決死の覚悟で給脂を続け、名古屋で別の機関車に交換して事なきを得た、という逸話まで残っている[11]
  13. ^ 燕の箱根越え用後補機として国府津機関区に本形式が3両配置、使用された。この国府津のC53形は試験的に急行列車を牽引して東京駅に入線している。
  14. ^ 沼津電化後の名古屋機関区は浜松機関区が受け持っていた上り「富士」と下り「櫻」を除く全特急列車で沼津 - 名古屋間を担当し、「櫻」は名古屋 - 京都間の上下列車も牽引していた。
  15. ^ 明石機関区の場合は、配属両数が10両前後と比較的少なく、後述のように状態のよい優秀機も多かったことから、他の機関区に比べると目が行き届きやすいといった面はある。しかし、担当仕業のほとんどが優等列車牽引であり、中には名古屋 - 神戸間のロングラン運用が存在したにもかかわらず、1941年以降のC59形への置き換えまで大過なく本形式を運用していたことは注目に値する。
  16. ^ 機関区にはグレズリー式弁装置調整のため専門の技工長を置き、検査後の本線試運転でも技工を同乗させていた。
  17. ^ 名古屋機関区からの要望により工場出場後は走行距離1万kmまでは分解整備せず運用可能なよう検査や確認を緻密に行い、炭水車には「10000粁限定」標記を大書した。
  18. ^ 1937年以降「10000粁限定」に代わって行われることとなった大規模整備で、浜松工場で研究された整備技術やC53形以降に登場した新形機関車の経験を利用する形で行われ、名古屋機関区から初の「標修車」修繕の対象となったC53 57と続くC53 71には工場出場時にランボード上の手摺り、デフレクタには銘板といった装飾が施された。
  19. ^ 1930年の明石機関庫創設時に、梅小路機関庫から最も状態のよい12両を転属させ、その後の転配属においても優秀機を配属させるようにした。その中でも最も状態のよいC53 23やC53 30は、「明石の一等罐(機)」と呼ばれていたことが、『C52・C53 The echo of three cylinders』の中で紹介されている。
  20. ^ 外国ではドイツ・アメリカなども2シリンダー機が多いが、ドイツは1935年の流線形タンク機61形(1号機)で試験中に時速160㎞を越えたあたりで振動が激しくなり、比較用の3シリンダー機ではこれが起きなかったことから、1939年から急行旅客機は2気筒から3気筒に変えている(01形や03形→0110形や0310形)((齋藤2007) p.279-291)。
    アメリカは関節機を除き末期まで2シリンダーが主流(アルコ社の3シリンダー機はどちらかというと傍流)だが、バランスウェイトを前後動を抑える(蛇行を防ぐ)方に割り振って激しくなったハンマーブローは堅固な軌条で耐え、シリンダーを縮小して軽量化しその分カットオフを大きくとる(蒸気の消費量は上がる)などの対策をしていたので((齋藤2018) p.75)、日本向きの手法ではなかった。
  21. ^ 日本製という意味では3シリンダー機は満鉄向けミカニがあり、これはアルコ社の仕様をそのまま使っていたこともありそこまで不具合はなく1932年まで増備されてたが、それでもクランク軸の折損事故発生で41両(正確には初期5台はアルコ社製なので日本側で製造36両目)で製造を打ち切って1934年から代替えのミカシ形(トルク変動を平均化し粘着力を確保する制限締め切り方式を採用の2シリンダー機)に切り替えられている((髙木2012)p.139-140)。
    (既存車はその後も使用され戦後新生共産中国となってもしばらく使われた。)
  22. ^ 3気筒で給排気タイミングが等間隔になるように作られた機関では一次振動がゼロになるため。
  23. ^ アメリカ本国や満鉄では「煙室内部のネッティング(火の粉止め網)で着火力を無くした細粒をシリンダー排気のブラストで飛して排出」(要するに煙突からまき散らしている)方法を使用していた。このためC52のようなエプロンは必要とされず、一例として『満州鉄道発達史』p.77にあるミカニ1633号(1929年製造)の写真ではエプロンはつけられずに連動レバー露出のまま使用している。((髙木2012)p.76-77
  24. ^ 水はシリンダー内で膨張しないため出力が得られないばかりか、万が一高速運転中に大量に流入してドレンが間に合わなかった場合にはウォーターハンマーを起こす。
  25. ^ 名鉄局・門鉄局・広鉄局が採用した除煙板は大鉄局のものより基本的に大型である。また、大鉄局所属のC53 47はC51形の一部でも採用された前縁部が開閉できる除煙板を備えたほか、門鉄局・広鉄局所属車では煙突頂部を若干延長していた。
  26. ^ 名鉄局ではC53 7・57・67・68・71・73・75・85・86・87、大鉄局ではC53 18・19・33・41・43・89が対象となり、後年にC53 19はC53 30と再度炭水車を交換した。
  27. ^ 東京日日新聞 1934年11月24日記事『流線型機関車あす試運転 濃い海老茶の伊達姿』には「色は濃いめの海老茶で、下部は鼠色にぼかしてある」とある。さらに11月25日の大阪朝日新聞記事には「鉄道法規により漆黒色に塗り替えられ」と書かれている。後者は島秀雄「流線型蒸気機関車」鉄道ファン2000年7月号 No.471 pp.126 - 131(『島秀雄遺稿集』より)で引用あり。鉄道趣味昭和9年12月号(第2巻第11号)で柏原暁山が11月25日の鷹取機関庫での試運転見学を「色彩は鼠色の裾ぼかしだとか、小意気なカラーと聞いて居ましたが、(中略)確に黒色に間違ひはありません。之は始めその案があつたのでしたけれど、規程があつて蒸気機関車の塗色は黒と云ふ事に定められ居る為めだと云ふ事です。」と報告している
  28. ^ 機関車には性能試験車オヤ6650と控車スハフ34445が連結され、100km/h前後まで加速して走行した際の機関車状態を計測した。
  29. ^ 最末期に中央西線・名古屋口や関西本線(名古屋 - 亀山間)でごく一部が使用されたといわれる。また、関門トンネル開通後は小倉工場でも本形式の検査を行った関係上回送や試運転で鹿児島本線の一部区間(門司 - 吉塚間)を走行した。
  30. ^ 共栄興業株式会社(大阪市)でC53 45の形式名入り赤地ナンバープレートが展示されているが、交通科学館時代に装着していた物かは不明

出典[編集]

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  1. ^ (国鉄1958上)p.633「3シリンダー機関車」
  2. ^ (髙木2007)p.62
  3. ^ (髙木2007)p.62
  4. ^ (国鉄1958上)p.651-652「C53形機関車」
  5. ^ (国鉄1958上)p.652
  6. ^ (齋藤2007) p.168-169・253
  7. ^ (齋藤2007) p.258
  8. ^ (国鉄1958上)P.652
  9. ^ (国鉄1958上)p.633・651
  10. ^ (国鉄1958上)P.652
  11. ^ 交友社 鉄道ファン 345/1990年1月号「名古屋機関区OBの思い出・OBの語るC53と、その蒸機黄金時代」
  12. ^ プレス・アイゼンバーン『レイル』No.28 1992年3月 pp.81 - 87 西村勇夫 『昭和初期の名古屋を中心とした機関車運用 続』(エリエイ出版部)
  13. ^ 交友社『鉄道ファン』 2009年5月号 pp.126 - 131 西村勇夫 『交友社発行の雑誌から、その表紙写真に寄せて C53形機関車を動かした人たち ―その2』」
  14. ^ (片野2017)p.133「C52」・136-137「C53」
  15. ^ (片野2017)p.137「C53」
  16. ^ C53 43号機とC55型の流線型化設計と改造の始末について、島秀雄「流線型蒸気機関車」 交友社鉄道ファン』2000年7月号 No.471 pp.126 - 131(『島秀雄遺稿集』より)を参照。
  17. ^ プレス・アイゼンバーン『レイル』No.23 1988年6月 pp.66 - 69 『C5343の運用とその客車』を参照。
  18. ^ 根本茂『好きでたどった老ファンの道II』プレス・アイゼンバーン『レイル』No.31 1996年1月 p.36
  19. ^ 模型鉄道社『鉄道』第7巻第71号 p.55(1935年)
  20. ^ 鉄道趣味社『鉄道趣味』第2巻第10号/1934年11月号p.45「客車も流線形に!!」
  21. ^ 今村潔 国鉄蒸気機関車素描VIII C53 交友社『鉄道ファン』1964年4月号 No.34
  22. ^ 『第十六回衆議院運輸委員会議録第二十三号 昭和二十八年七月二十三日』(国立国会図書館国会会議録検索システムで閲覧可)
  23. ^ プレス・アイゼンバーン『レイル』No.78 pp.26 - 29高田寛『50年前のC53 45と周辺の人々』 (エリエイ出版部)
  24. ^ プレス・アイゼンバーン『レイル』No.78 p.18
  25. ^ 久保敏「プレイバック・展望館東海道 駿河から遠江への道-2」『鉄道ファン』No.640 p.108

参考文献[編集]

  • 日本国有鉄道 編『復刻版 鉄道辞典(上巻)』株式会社同朋社メディアプラン、1958(2013年復刻)。ISBN 978-4-86236-040-3
  • 日本国有鉄道 編『復刻版 鉄道辞典(下巻)』株式会社同朋社メディアプラン、1958(2013年復刻)。ISBN 978-4-86236-040-3

(『鉄道辞典』は元々ISBNが付いておらず、復刻版は上・下・補の3巻で1つの本という扱いのためISBNはすべて「978-4-86236-040-3」である。)

関連文献[編集]