国鉄E10形蒸気機関車

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E10形蒸気機関車
E10 2(2006年5月14日 青梅鉄道公園)
E10 2(2006年5月14日 青梅鉄道公園)
基本情報
運用者 運輸省日本国有鉄道
製造所 汽車製造
製造年 1948年
製造数 5両
主要諸元
軸配置 1E2
軌間 1,067 mm
全長 14,450 mm
全高 3,982 mm
機関車重量 102.1 t(運転整備時)
動輪径 1,250 mm
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程)
550 mm × 660 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 16.0 kg/cm2
火格子面積 3.30 m2
燃料 石炭
制動装置 自動空気ブレーキ
最高運転速度 65 km/h
定格出力 1,340 PS
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国鉄E10形蒸気機関車(こくてつE10がたじょうききかんしゃ) は、かつて日本国有鉄道(国鉄)およびその前身である運輸省に在籍したタンク式蒸気機関車である。1948年(昭和23年)に4110形の代替機として製造されたもので、動輪5軸を有する。日本国内向けのタンク式蒸気機関車としては最大の機関車である。

開発・製造[編集]

E10 2(2006年5月14日、青梅鉄道公園)

板谷峠の急勾配区間を抱える奥羽本線福島駅 - 米沢駅間では、大正時代製造の勾配用機関車4110形が戦後になっても使われていた。しかし長年の使用により老朽化が進み、また戦時中から続く整備不良や燃料事情の悪化、牽引力や速度などの問題で輸送需要増加に応えることが難しくなってきた。そこで、代替機関車として1948年(昭和23年)に製造された蒸気機関車が本形式である。

4110形の置き換えは過去にも検討されており、戦時中には国鉄内部で2-10-4 (1E2) 型軸配置のKE10形が設計されていた。1946年(昭和21年)には4110形を運用していた庭坂機関区で機関車の状態調査が行われ、同時に庭坂機関区からは、運転方向を逆向定位(運転台を前)としつつD51形程度のボイラを備え、全長15 m以内、動輪上重量60 - 65tのE型ないしE1型タンク機を代替機とする要望が出された[1]。当時、板谷峠は電化工事が行われていたが、電化工事はGHQから一時中止命令が出され、後に命令は撤回されたものの、その間にも4110形の老朽化は深刻なものとなっていた。このため4110形全数(庭坂機関区に25両配置)を置き換えるのではなく、電化完成までの繋ぎとして少数を製作することとし、先に設計されていたKE10形を元に庭坂機関区や車両メーカーからの意見を交え再検討した1E2型タンク機関車を計画し汽車製造に発注、5両[2]製造番号2445 - 2449)が製造された。本形式以降に登場した国鉄の新形式蒸気機関車はすべて改造によるものであり、本形式は純粋な新製機としては国鉄最後の新形式蒸気機関車である[3]

構造[編集]

E10 2の第2 - 第5動輪。画面中央 - 右の第3・第4動輪はフランジレスとなっており、接地面がフラットである。
(2008年10月15日、青梅鉄道公園)

4110形は先輪従輪ともになく、動輪のみであったが、本形式は4110形より大型化されているため先輪を1軸、従輪を2軸持つ2-10-4 (1E2) 型の車軸配置である。曲線通過を容易にするため、第1動輪には6 mmの横動を許容し、第2動輪はタイヤのフランジを6 mm薄く、第3・第4動輪はフランジレスの車輪となっている。D52形と比べると長さは短いが同じ太さのボイラーを備え、カタログ上の牽引力、21.7 tfは日本の蒸気機関車の中でもっとも大きい。また、庭坂機関区から出された要望を反映し、トンネル内での煙害防止のため、ボイラー側を後ろとした後進運転(本形式は炭庫側が前となるのが正向)を前提として設計・製造されたので、機関士は炭庫側を向いて左側に座る席配置となっており、そのため、運転席から蒸気溜めに伸びる加減弁ロッドや空気作用管の位置も通常とは逆側(非公式側。煙突を前にした場合の右側)であり、逆転器レバーや計器類も炭庫側に向けて取り付けられた。また、そのような運転形態を予定したことから近代形蒸気機関車としては珍しく除煙板(デフレクター)を装備していない。後に金沢機関区に転属した際、通常の機関車と同じようにボイラー側が前位となるよう運転士席周辺の機器配置を変更、加減弁や逆転器の開閉方向を製造当初と逆向きに改造したが、運転士席の位置はそのままとされたため、日本の蒸気機関車としては珍しく右側運転台となった。なお、煙突側が前位となるように改造された際にも除煙板は装備されなかった。

運用[編集]

E10形はテストでも33パーミル勾配において4110形の1.5倍の270トンを牽引したが、シリンダ牽引力に対する動輪上重量の不足や細かい運転操作の難しい動力逆転器の採用もあって4110形より空転が増え、また急曲線での牽引力の低下が見られるなど、期待したほどの高性能は発揮できず、逆に線路に与える横圧が問題となり、動輪のタイヤ弛緩も5両中3両で発生した。[4]

試運転を経て板谷峠越えでの運用を開始したものの、就役した翌年の1949年(昭和24年)には板谷峠区間が直流電化され、早々と他線に転用されることになった。肥薩線人吉駅 - 吉松駅間で半年ほど運用されたがここでも大型すぎて曲線通過の際の横圧過大の問題を抱えて結局不適とされ、D51形に置き換えられた。その後、北陸本線石動駅 - 津幡駅間の倶利伽羅越えの補機に転用され、先述した運転方向を変更する改造を行ったうえで1955年(昭和30年)9月の新倶利伽羅トンネル開通による勾配緩和新線の完成時まで使用された。

1957年(昭和32年)、本形式は米原機関区に転属する。交流電化区間と直流電化区間の接続のため非電化となっていた、米原駅 - 田村駅間専用の機関車として運用された。勾配線用の大型蒸気機関車の運用先としては場違いな区間であり小運転の運用であったが、他に適当な運用場所もなかったのが実情であった。強力なことと転向不要というタンク機のメリットを生かして短距離をピストン運行していたが、戦時規格資材による不良箇所の発生や側水槽が邪魔になりボイラーの検修が困難なこと、少数機のために予備部品の確保が不便なことなど様々な問題が発生するようになった。ちょうどこのころ、他線区でD50形やD51形の余剰が出ており、これらをもって本形式を置き換えたほうが得策と判断されたため、ここを最後に1962年(昭和37年)に営業運転を終えて廃車された。運用期間はわずか14年に過ぎなかった。

保存機[編集]

少数製造であったうえ、特殊性による扱いがたさから各所を転々とする不遇な形式で、廃車も早期であったが、廃車時期がちょうど鉄道90周年事業の時期だったこともあり、E10 2が東京都青梅市青梅鉄道公園静態保存され、他は解体された。同機が選定されたのは、保存の決定時にはE10 1が既に解体済みだったためである。

その他[編集]

敦賀駅みどりの窓口にて流されている敦賀駅の歴史や駅周辺と北陸本線の鉄道史を紹介するDVDにおいて、走っている様子および連結作業をしているE10の貴重なカラー映像を通して、活躍していたころの様子を観察することができる。

参考文献[編集]

  • 野口昭雄 写真・文「j train Photo Essay 米原〜田村間 E10形最後の活躍」
イカロス出版『季刊 j train』December 2001 Vol.4 p.90 - 91
プレス・アイゼンバーン『レイル』1983年春の号 1983年4月

脚注[編集]

  1. ^ 『レイル』1983年春の号 p.55
  2. ^ 当初は10両の製造を予定したが、予算と資材の都合から5両に削減された。
  3. ^ 改造機を含めた国鉄最後の新形式蒸気機関車はD61形である。
  4. ^ 『レイル』1983年春の号 p.56

関連項目[編集]