コンテンツにスキップ

鎌倉市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。220.108.66.57 (会話) による 2012年5月26日 (土) 14:47個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎漫画)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

かまくらし ウィキデータを編集
鎌倉市
鎌倉市旗
鎌倉市章
市章:昭和27年11月3日 鎌倉市告示第56号「鎌倉市市章」による
日本の旗 日本
地方 関東地方
都道府県 神奈川県
市町村コード 14204-2
法人番号 3000020142042 ウィキデータを編集
面積 39.66km2
総人口 171,002[編集]
推計人口、2024年5月1日)
人口密度 4,312人/km2
隣接自治体 横浜市逗子市藤沢市
市の木 ヤマザクラ
市の花 リンドウ
他のシンボル -
鎌倉市役所
市長 松尾崇
所在地 248-8686
神奈川県鎌倉市御成町18番10号
鎌倉市役所本庁舎
鎌倉市役所本庁舎
外部リンク 鎌倉市

鎌倉市位置図

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

特記事項 市外局番:0467(市内全域)
ウィキプロジェクト
鎌倉大仏(高徳院)

鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県三浦半島西側の付け根に位置する

地理

横浜市の南西、藤沢市の東、逗子市の北西に位置し、南は相模湾に面している。三方が低い山で囲まれ海に面する地であり、かつては幕府が置かれ政権の要の地であった。今日では旧腰越町や旧大船町など、いわゆる「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も市内に含まれる。藤沢市から海岸がつながっているため、旅行者には湘南の一部とみなされることが多いが、地元では定義の曖昧な「湘南」という呼称より、歴史的に広く認知され、範囲もより限定される「鎌倉」の呼称が好まれている。なお、神奈川県の行政区分上も、鎌倉は藤沢や茅ヶ崎などの湘南地域には含まれず、横須賀や逗子などと同じ三浦半島のブロックに含まれている。

鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「古都」であるが、後述の通り室町時代中期以降に衰退したため「都市・鎌倉」としての歴史は連続していない。

江戸時代後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるが、明治初期の段階でも鎌倉大仏(高徳院)や長谷寺を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地は形成されていなかった。

明治初期、現鎌倉市域を含む鎌倉郡を管轄する郡役所は戸塚(現横浜市戸塚区)に置かれた。明治中期以降、保養・別荘地として、昭和以降に観光地として改めて「都市・鎌倉」の発展を見たのである。ゆえに中世以来の建造物はほとんど存在せず、文化遺産として価値の高い中世都市の遺構の多い地域といえる。

歴史

鶴岡八幡宮

地形が天然の要害でもあり、古代、鎌倉郡郡衙が設置された場所であり、また豪族の鎌倉氏の本拠でもあった。

平忠常の乱の際、平直方による鎮圧が失敗、実際に乱を征圧した源頼信の功により、その子源頼義の頃に畿内河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の所領となる。頼義の子で河内源氏三代目棟梁の八幡太郎義家の4代後の源頼朝鎌倉幕府を置いて武家政権を成立させ、鎌倉街道も整備される。幕府の要職に就いた有力御家人は鎌倉に居を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、鎌倉五山なども置かれ関東における文化的中心地となる。

1225年には北条泰時執権に就き、連署評定衆を置いて幕府の合議制を確立するとともに、政権を頼朝以来幕府が置かれた大倉から宇都宮辻子に移し、1232年には御成敗式目を制定して幕府の体制を磐石なものとした。1333年後醍醐天皇の討幕に呼応した上野国群馬県)の河内源氏義家流新田義貞は、分倍河原などで鎌倉幕府を専横した桓武平氏北条氏の兵を撃破し、鎌倉へ進撃して泰時以来の菩提寺である東勝寺で北条氏一族を滅亡させた(東勝寺合戦)。1953年(昭和28年)に鈴木尚の調査では大量の刀創などのある人骨が発掘されている。

京都で後醍醐天皇の建武の新政がはじまると義貞は召還され、京都の六波羅探題を滅亡させるなど討幕に効のあった一族の足利尊氏の弟である足利直義や一門の細川氏などが親王を奉じて下り、鎌倉将軍府が成立。北条氏一族の残党が中先代の乱を起こし鎌倉が陥落すると尊氏は討伐に向かい、そのまま新政から離反して鎌倉で恩賞の授与などを行うが、尊氏は追討に派遣された義貞らを撃破し、京での戦いに負け九州落ちした後に北朝を樹立して武家政権を設立し、鎌倉へは子の足利義詮を派遣する。足利家の内紛が観応の擾乱と呼ばれる内乱に発展すると義詮は京へ呼び戻され、代わりに尊氏の次子の足利基氏が鎌倉へ派遣されて鎌倉府を設置し、以後鎌倉公方として関東統治を行う。

室町時代には鎌倉公方は幕府と対立し、鎌倉公方を補佐する関東管領とも対立した事などにより上杉禅秀の乱永享の乱結城合戦などの騒乱が起る。1455年には享徳の乱足利成氏が下総国古河へ移り古河公方を成立させた事により鎌倉は衰退する。

戦国時代には小田原の北条早雲が進出、玉縄城を築いて東相模の拠点とした。安房の里見氏上杉謙信武田信玄らにより度々侵攻を受けたが、そのたびに撃退している。北条氏滅亡後は徳川家康の支配下に入った。

近世には江戸が東国の中心となり、江戸時代には寺社の復興がはじまる。江戸の庶民によって、大山阿夫利神社江の島江島神社などへの参拝を目的としたが結成されるようになると、代参者の立ち寄り先として観光ルートに含まれるようになった。

1889年(明治22年)に東京と軍港のある横須賀を結ぶ目的で横須賀線が開通したが、その経由地となったことによって、観光地としての性格が急激に濃くなっていった。また、東京から至近の別荘地として、皇族・華族や政財界の有力者などの一部が別荘を構えるようになり、これらを相手とした観光産業が発展していった。なお、この横須賀線建設工事のため段葛は寸断された。

その少し前1883年(明治16年)に、「衛生(えいせい)」という言葉を日本で初めて医学に使用した長与専斎が、神奈川県・鎌倉の海を、地形的な特徴から「海水浴場として最適」と紹介した。当時は海水浴が医療効果を持つと信じられていたため、長与の紹介も行楽的な観点からではなく医療的な観点によるものであったが、今日では海水浴と医療効果との因果関係は科学的根拠に欠けるとされ、由比ヶ浜、材木座海岸といった海水浴場は行楽客を対象に設営され、湘南の一部として一般に認識されている。

1923年(大正12年)9月1日におきた関東大震災では鎌倉も大きな被害がもたらされた。

昭和に入ると、久米正雄など、作家や文人の一部が鎌倉へ移り住むようになり「鎌倉文士」という言葉が生みだされた。1936年(昭和11年)、松竹が撮影所を蒲田から大船に移し大船撮影所が開設されるようになると、映画関係者で鎌倉に移り住む者が増えていった。

1928年(昭和3年)の鎌倉山の分譲を嚆矢に、1930年(昭和5年)の横須賀線列車の電車化以降、戦前・戦後を通じて大規模な住宅開発が行われるようになり、東京近郊のベッドタウンとしての性格が強くなっていった。とりわけ、高度経済成長期の大規模開発の波は「昭和の鎌倉攻め」とも形容される。この時期に起こった鶴岡八幡宮裏の「御谷」開発中止を求める、作家大佛次郎を中心とした市民運動は、古都保存法制定の契機となり、異論はあるが日本におけるナショナル・トラスト運動の嚆矢ともいわれている。

自治体としての鎌倉市の歴史

地域

由比ガ浜
鎌倉地域
扇ガ谷大町・御成町・極楽寺小町材木座・坂ノ下・笹目町・佐助・十二所・浄明寺・二階堂・西御門・長谷由比ガ浜・雪ノ下・稲村ガ崎
腰越地域
腰越七里ヶ浜・七里ガ浜東・・津西・西鎌倉
深沢地域
梶原・鎌倉山・上町屋・手広・寺分・常盤・笛田・山崎
大船地域
今泉今泉台岩瀬大船小袋谷(1丁目を除く)・高野山ノ内
玉縄地域
植木岡本・城廻・台1丁目・玉縄関谷

人口

鎌倉市(に相当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 139,249人
1975年(昭和50年) 165,552人
1980年(昭和55年) 172,629人
1985年(昭和60年) 175,495人
1990年(平成2年) 174,307人
1995年(平成7年) 170,329人
2000年(平成12年) 167,583人
2005年(平成17年) 171,158人
2010年(平成22年) 174,314人
2015年(平成27年) 173,019人
2020年(令和2年) 172,710人
総務省統計局 国勢調査より


隣接している自治体・行政区

行政

鎌倉市でも、風致地区の保存など観光資源の維持管理には努力しているが、関東大震災での被害などもあって建築文化財は少ない(国宝建造物は円覚寺舎利殿1棟のみ)。周辺地域に比べて自然が保存されており、例えば個人の土地の大きな樹を保存するのに市から助成金がでる。オムニバスタウンのひとつでもある。 市章は、源氏の家紋だったといわれる「りんどう」。

市長

市議会

  • 議員定数:28
  • 議長:赤松まさひろ(日本共産党
  • 副議長:前川あやこ(鎌倉みらい)
  • 監査:長嶋たつひろ(鎌倉無所属の会)
  • 会派
    • 民主党(4名)
    • 日本共産党(4名)     
    • 神奈川ネットワーク運動(4名)
    • 鎌倉みらい(4名)
    • 公明党(3名)
    • 鎌倉無所属の会(3名)
    • 無所属(5名)

姉妹都市・提携都市

国内

姉妹都市

海外

姉妹都市
友好都市

教育

小学校

公立

国立

私立

中学校

公立

国立

私立

高等学校

公立
私立

特別支援学校

大学・短期大学

鎌倉市では、「鎌倉市奨学金制度」という奨学金制度がある。

情報・通信

鎌倉市は三方を山に囲まれているため市外からの電波が入りにくく、古都保存法によって新たな中継局設置も困難なことから、地上デジタル放送の難視聴世帯が多く発生すると見られている。これに対し、市ではケーブルテレビによる解決を図っている[7]

放送事業者

ラジオ放送

交通

鉄道

江ノ電

バス

オムニバスタウン政策をとっていることもあり、コミュニティバスの普及も見られる。

道路

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

建長寺

以下に主要な名所などを掲げる。なお、鎌倉の歴史的建造物群には「武家の古都・鎌倉」として、日本の世界遺産暫定リストに登録されているものがある。

レジャー

祭り・イベント

鶴岡八幡宮で催される祭事については、当該項目も参照のこと。

  • 鎌倉祭り(4月)
  • 夏越(なごし)祭り(8月)
  • ぼんぼり祭り(8月)
  • 海上花火大会(8月)
  • 鶴岡八幡宮秋期例大祭(9月)
  • 面掛行列(9月)
  • 御鎮座記念祭(12月)

鎌倉祭りと鶴岡八幡宮秋期例大祭では、流鏑馬が奉納される。

2007年(平成19年)7月21日 - 8月19日週刊少年ジャンプで連載中の「ONE PIECE」連載10周年記念イベントの一環として、鎌倉駅、由比ヶ浜、小町通り等がジャックされた。市内でスタンプラリー等色々なイベントが行われた。

鎌倉ハムは旧鎌倉郡の名を科したため鎌倉市とは直接関係無い。

鎌倉市出身の有名人

ゆかりのある有名人

居住者

その他


鎌倉市が舞台となっている作品

映画

小説

漫画

注記のないものは連載終了した作品

主人公たちが通学につかう電車が江ノ電と思われる描写となっている
主人公がヴァンパイアとして覚醒する場所が鎌倉である
主人公の出身地『唯ヶ浜』のモデルは『由比ヶ浜』という説が有力
主人公達が試合を行うライバル校のモデルと推測される公立学校が鎌倉市に存在
作中に江ノ電や大仏が出てくることから鎌倉が舞台だと思われる。
主人公の通う高校が「鎌倉西高校(架空)」である。
鎌倉駅旧時計塔の描写がある
主要キャラの相沢千鶴と嵐山悟郎のデートの待ち合わせ場所に鎌倉駅と駅前の時計塔の描写がある
上記のまなびやと同じ高校、世界観を共有している。

ドラマ

アニメ

ゲーム

江ノ電(ゲーム中ではシカ電)沿線を中心に、鎌倉・藤沢一帯が舞台となっている

音楽

作者の大和田建樹の歴史・景勝好みが影響している為4番に渡って歌ったと見られている。
メインボーカリスト・桑田佳祐鎌倉学園の出身。「鎌倉」をモチーフとしたアルバム『kamakura』は鎌倉にまつわる楽曲を多数収められ、ノスタルジックな作品としてファン層外からも人気を集めている。
藤沢から鎌倉までの江ノ電の駅名を冠した曲名の入ったアルバム全10曲。

 

その他

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d e 鎌倉市教育委員会『かまくら34』第2版、1995年3月31日、98頁
  2. ^ 同日、内務省告示第515号
  3. ^ 昭和22年12月26日、神奈川県告示第458号
  4. ^ 同年5月29日、神奈川県告示第233号
  5. ^ 同日、自治省告示第322号
  6. ^ 同年4月20日、自治省告示第111号
  7. ^ 2011年7月24日 地デジ移行・7,000世帯が受信困難か”. タウンニュース. 2010年3月10日閲覧。

外部リンク

行政
観光