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享徳の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
享徳の乱
戦争室町時代中期 - 後期
年月日享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日
場所関東地方
結果室町幕府古河公方の和睦(都鄙和睦
交戦勢力
堀越公方
山内上杉氏
扇谷上杉氏
越後上杉氏
関東諸将
古河公方
関東諸将
指導者・指揮官
足利政知
詳しくは#堀越公方・上杉側
足利成氏
詳しくは#古河公方側
享徳の乱


享徳の乱(きょうとくのらん)は、室町時代中期から後期にかけて、関東で28年間続いた内乱[1][2]。この戦乱は、鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠を殺害したことによって勃発し、関東の諸勢力を二分する大乱となった[2]

概要

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享徳3年(1455年)12月、第5代鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠を殺害したことにより、戦乱が勃発した。室町幕府の8代将軍足利義政は成氏の追討を命じ、幕府と結んだ山内上杉氏扇谷上杉氏が成氏方と争った。この戦乱は関東の諸勢力を二分し、 関東地方一円に拡大した。

成氏が中央政権への抵抗として改元に従わず[注釈 1]、「享徳」の年号を使い続けたため、この戦乱は「享徳の乱」と呼ばれている[3]。なお、成氏はこの享徳年号を、文明10年(=享徳27年、1478年)までの23年間使用している[4][5]

一連の戦いの結果、関東地方は江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になる[注釈 2]

また、義政は成氏への対抗策として、還俗させた兄の足利政知を正式な鎌倉公方として、関東に向かわせた。だが、その実権はほぼ幕府に握られており、政知は関東地方在住の武士たちの支持・協力も得る事ができなかった。そのため、政知は鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆堀越に入り、堀越公方と称した。

文明14年(1483年)11月に至り、幕府と成氏との和睦が成立した(都鄙和睦)。これによって、成氏が正式な鎌倉公方として関東を引き続き統治する一方で、伊豆の支配権については政知に譲ることになった。

和睦によって、成氏による反幕府的行動は停止されたが、配下の諸将を多く持つ古河の成氏と、幕府公認の公方として権限を持ちながら関東に入れない堀越の政知の2人の公方が並存する状態は依然として続くこととなった。

前史

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鎌倉府再興問題

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足利義教

観応の擾乱を受けて、足利尊氏が設置した鎌倉府は、尊氏の次男である基氏の子孫が世襲した鎌倉公方(元はこちらを関東管領といった)を筆頭に、上杉氏が代々務めた関東管領(元は関東執事といった)が補佐する体制であった[6]

だが、次第に鎌倉公方は幕府と対立し、関東管領とも対立するようになった(上杉禅秀の乱など)[7][8]。これを打開するため、6代将軍の足利義教は、前関東管領の上杉憲実を討伐しようと軍を起こした4代鎌倉公方の足利持氏を、逆に憲実と協力して攻め滅ぼした(永享の乱[9][10]

その後、義教は実子を次の鎌倉公方として下向させようとした。これに対し、結城氏朝などが持氏の遺児である春王丸安王丸の兄弟を奉じて挙兵し、結城合戦が起きた[11][12]

だが、幕府はこの反乱を鎮圧し、春王丸と安王丸は捕らえられたのち、処刑された[11]。他方、この合戦に参加していなかった万寿王丸(足利成氏)は生きながらえて、関東を離れ、信濃大井持光のもとに身を隠した[13]。そして、関東は幕府の強い影響の下に置かれた[14]

しかし、嘉吉元年(1441年)6月に義教が赤松満祐に殺害され、9月に満祐も幕府に討伐される嘉吉の乱が起きた[11][14]。ここに、義教と持氏という東西の権力者が世を去り、新たな時代を迎えることになった[11]

義教の死後、幕府内に鎌倉公方再興の議論が起きた[11]。また、嘉吉2年(1442年)6月に細川持之管領を辞任し、親鎌倉公方派の畠山持国が新たな管領となったことも、後押しとなった[15]

文安4年(1447年)8月27日、万寿王丸が信濃から鎌倉に入り、人々に迎えられた[16][17]。これは、鎌倉公方に繋がる大名や奉公衆といった武士らの尽力によるものであり、上杉氏も公方の存在が必要と判断したため、万寿王丸の鎌倉入りを受け入れたとみられる[16]

文安6年(宝徳元年、1449年)1月、幕府は関東地方の安定を図るため、鎌倉府の再興を願い出ていた越後守護上杉房定や関東地方の武士団の要求に応え、万寿王丸を立てることを許した[2][11][18]

同年7月、万寿王丸は鎌倉で元服し、8代将軍の足利義成(義政)から偏諱を受け、「成氏」と名乗った[19][16]。かくして、成氏が5代鎌倉公方として認められ、鎌倉公方は再興されるにいたった[20]

足利成氏と上杉憲忠の対立

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細川勝元

再興後の鎌倉府では、上杉憲実の息子である上杉憲忠が父の反対を押し切り、関東管領に就任し、成氏を補佐し始めた[21]。だが、成氏は父を死に追いやった憲実の息子である憲忠を感情的に許すことが出来ず、持氏派であった結城氏らを重用し、上杉氏を遠ざけ始めた[21]

宝徳2年(1450年)4月、関東管領を務めた山内上杉氏の家宰である長尾景仲扇谷上杉氏の家宰である太田道真太田道灌の父)らは、上野・武蔵国人一揆を組織し、成氏に軍事的圧力をかけた[22]。上杉方には、成氏が永享の乱での敗者に対し、所領や権益の復活を行ったことに不満があった[23]

4月20日夜、成氏が鎌倉を出て海を渡り、江の島に逃れ[24][25]、結城氏や千葉氏小山氏ら諸将を集めた[22]。成氏は上杉方に攻められることを察知し、鎌倉を離れたようである[24]。他方、上杉方も戦闘の準備を整えていた[24]

4月21日、長尾・太田勢が江の島近くまで攻め寄せ、成氏方と腰越由比ヶ浜で戦ったが、敗退を余儀なくされた(江ノ島合戦[22][24]。敗れた長尾・太田勢は糟谷荘に退き、成氏方と対峙した[22]

5月、前管領の憲実は事態を憂慮し、弟の道悦駿河から招き、両者の調停にあたらせた[26]。また、幕府も和平を望み、管領の畠山持国を仲介として和平を実現させようとした[26]

他方、同月12日に成氏もこの争いを幕府に注進しており、持国らの仲介で和議に持ち込もうとした[26][27]。成氏はまた、長尾景仲と太田道真の処罰、永享の乱や結城合戦で上杉方に与えられた成氏方諸将の所領返還なども求めていることから、関東を永享の乱以前に戻す意図もあったとみられる[25]

5月27日、持国から大平山城入道(成氏の近臣か)に宛てて書状がつくられた[28]。そのなかでは、成氏の言い分を認める形で幕府の御教書が出される予定であることや、憲忠らの帰参については御教書に従って実行させるべきであると列記されていた[28]。持国ら幕閣らは成氏の訴えをほぼ認め、上杉氏に対して成氏に帰参するように指示を出す形となった[28]

8月、成氏は政情が落ち着いたと判断し、江の島を出て、鎌倉に帰還した[28]

10月、憲忠も鎌倉に帰還し、他の諸将も成氏に従う姿勢をみせた[28]。成氏を襲撃した長尾景仲と太田道真は誅罰対象であったが、成氏に恭順を誓ったことで誅罰を免れている[28]。これにより、半年に及んだ内乱は一応の終結を見たが、成氏と上杉氏との対立は容易に解消し得ない状態となった[25]

享徳元年(1452年)11月、幕府では畠山持国が管領を辞任し、細川勝元が新たな管領となった[29][30]。持国が成氏やその近臣に好意であったのに対し、勝元は上杉氏と親しかったようで、その主張を受け入れる方向に方針の転換を図るようになった[31]

享徳3年(1454年)3月21日、勝元は成氏のもとにいる禅僧に対して、書状を出した[29][30]。勝元はそのなかで、成氏が御書(命令)を出す際には憲忠が副状を書き、取次をつとめることが重要であるとしている[29][30]。このような書状が出されるということは、公方の御書が管領の副状なしで出される状態が恒常化していたからとみられる[29]。また、上杉氏も独自に文書を発給するようになっていたとみられる[29]

鎌倉公方である成氏にとって、どのような命令を出そうとも、関東管領やその周囲の人々の同意がなければ何も進められないという状況は耐えがたいものであった[29]。加えて、幕府も上杉氏に同調し、公方が独自に政治を進めることを認めない姿勢をみせた[32]

成氏は持国を頼りにしていたが、その畠山氏も後継者争いが勃発したため、持国の権威が失墜した[33][34]。成氏を取り巻く状況は悪化していったため、その打開のため、成氏ら公方派の人々は実力行使に打って出ることになった[33][35]

経過

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上杉憲忠らの誅殺・乱の勃発

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享徳3年12月27日、成氏は上杉憲忠を自邸の西御門御所に招いた[36]。そして、憲忠や山内上杉氏家宰の長尾実景憲景父子が御所に参上すると、成氏の奉公衆が彼らを討ち取った[37][36][注釈 3]。これにより、憲忠以下の主従22人が謀殺されるに至った[39]

同日夜、成氏方は鎌倉の山内上杉氏邸を襲撃し、上杉方を敗走させている[40][41]。このとき、結城成朝武田信長、印東式部少輔らが成氏方の軍勢を率いていた[33]。なお、岩松持国は成氏方について襲撃に参加し、戦いで負傷したため、29日に成氏から感状が与えられている[42]

当時、上杉氏は江の島合戦の際と同じく、成氏方に攻撃の準備をしていた[37]。その軍事行動の中心を担ったのは、山内上杉氏前家宰の長尾景仲であり、扇谷上杉氏当主の上杉顕房庁鼻和上杉氏上杉憲信も加わっていた[37]。また、扇谷上杉氏前当主の上杉持朝は糟屋館で軍備を整えていた[43]。そのため、成氏は上杉方に先制攻撃を行うことにし、それが憲忠らの誅殺であった[44]

上杉憲忠らがこの軍事的緊張にもかかわらず、成氏からの御所への参上要請を断らなかったのか疑問が残るが、それには以下のような見解が示されている[44]。事件の一ヶ月前の11月23日に享徳地震が東日本で発生しており、さらに半月前の12月10日には鎌倉でも地震があったようであり、地震の続発で世間が混乱していた[44]。そのため、憲忠らは災害復興のために何らかの政策協議を行うべく、御所に参上したとみられる[44]

いずれにせよ、成氏は上杉憲忠らを「騙し討ち」にした[44][36]。成氏やその近臣らは、憲忠ら上杉氏の中核を討つことでその戦意を喪失させ、事態を有利に進めることが出来ると考えていたとみられる[45]。そして、岩松持国ら成氏方が山内上杉氏の本拠・山内荘を攻撃した[44]

だが、主君の上杉憲忠らを殺害された上杉方が引き下がるはずもなく、上杉持朝や長尾景仲、太田道真らはすぐさま体制を整え[45]、直ちに成氏方に軍事行動を開始した[44]。もとより、上杉方にとって成氏方への攻撃は既定路線であり、加えて報復の大義名分も得た[44]。さらに、上杉方は幕府に支援を求めていることから、憲忠らの謀殺後すぐに連絡をとったとみられる[44]

成氏は上杉方の軍事行動開始を受け、これを自身への反乱とし、これを討伐することにした[44]。ここに、「享徳の乱」が勃発する形となった。

初戦における成氏方の勝利

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高安寺東京都府中市

享徳4年(康正元年、1455年)正月5日、成氏は糟屋荘から進軍してきた扇谷上杉持朝の軍勢を迎撃すべく、御一家一色直清や奉公衆の武田信長からなる軍勢を迎撃に向かわせた[4]。成氏自身も武蔵国府(東京都府中市)に赴き、高安寺に本陣を構えた[42][注釈 4]

正月6日、成氏方と扇谷上杉方が相模の島河原で合戦を行った[4][42]。成氏方がこの戦いに勝利し、持朝らは伊豆三島に敗走した[4]。この戦いは、享徳の乱の幕開けを告げるものとなった[4]

正月16日、幕府が上杉方支持を表明した[4]。それに合わせ、信濃守護の小笠原光康に上杉方支援のため、出陣を命じている[4]

正月中旬頃、上野で軍備を整えていた扇谷上杉顕房、庁鼻和上杉憲信、長尾景仲を中心とする上杉方が、鎌倉を目指して武蔵への進軍を開始した[4]。上杉方は上州一揆や武州一揆らの軍勢を従え、その軍勢は数万の大軍であった[4]。この進軍は先の敗戦や、幕府からの支持表明を受けたことによるものとみられる[46]

これに対し、成氏も迎撃すべく自ら出陣した[47]。また、常陸佐竹義人や武蔵の豊島氏ら諸将に参陣命令を出し、成氏方の勢力を集結させようとした[47]。そして、上杉方が上野から武蔵国府(府中市)まで進むと、成氏は多摩川を挟んで着陣し、それぞれ高幡(日野市)・分倍河原(府中市)に在陣した[47]

正月21日及び22日、成氏方と上杉方は2日間にわたって合戦を行ったが、この合戦でも成氏方が勝利した(分倍河原の戦い[47][48]。上杉方の被害は大きく、上杉憲信が22日の戦いで戦死し[48]、上杉顕房と同族の小山田上杉藤朝が深手を負いながらも入東郡夜瀬(入間市)、または多西郡由井(八王子市)に撤退したが、24日に自害した[47]。また、犬懸上杉氏上杉憲顕も負傷し、21日に所領の荏原郡池亀(大田区)で自害している[47]。さらに、山内上杉氏宿老の大石憲儀も22日の戦いで戦死し、同族の大石重仲も合戦で負傷し、12日に死去している[47]

このように、上杉方は幕府からの支持を取りつけたものの、一門や有力者数名が戦死、負傷の末に自害するなど、甚大な被害を受けた[49]。他方、成氏方はこの戦いに勝利したものの、石堂氏や一色氏、里見氏、世良田氏らが戦死している[50]

幕府による成氏追討の決定

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足利義政

享徳4年2月18日、成氏は先の戦いで戦死を免れていた長尾景仲を追撃すべく、武蔵村岡(熊谷市)に着陣した[51]。そして、成氏は利根川を越えて上野に入り、3月3日には下総の古河に入った[51]。この古河は、下総の結城成朝の結城城や下野の小山持政祇園城の背後に位置し、両者ともに成氏の有力与党であった[51]

2月20日、幕府は成氏追討のため、後花園天皇から「天子御旗」を得た[47]。これは、成氏を朝敵として位置づけるものであった[52]

3月5日、成氏は上野で成氏方と上杉方の争いが起きていることを受けて、「三大将」を派遣した[51][53]。この三大将の名は不明だが、御一家の岩松持国、鳥山式部大夫、桃井左京亮とみられる[51]

3月14日、成氏に味方していた上州中一揆が所領の維持が不安になったためか、古河の陣を離れ、本拠に帰還した[51][53][注釈 5]。そのため、成氏はこれを「言語道断」と怒り[54]、欠けた軍事力の穴埋めとして、小山氏や結城氏、宇都宮氏、千葉氏、佐竹氏といった外様衆の動員を図っている[51]

3月19日、長尾景仲が常陸の小栗城に入った[51][55][56]。常陸は上杉方の影響力が強く、上杉方与党との連携を図ったとみられる[57]。成氏は古河を拠点として、同日に白川結城氏結城直朝に参陣を命じ、小栗城の攻略を進めた[57]

3月24日、岩松持国が上杉方の那波氏との戦いのため、西荘帥に進軍した[58]。上野では、3月下旬ごろから上杉方が桐生郷や山上保(前橋市)などで活動するようになっていた[58]

3月28日、幕府は在京していた上杉房顕を新たな山内上杉氏の当主とし、関東管領に任じるとともに、「天子御旗」を与えて関東に下向させた[59][60]。房顕は成氏に殺害された憲忠の弟であった[59][60]。房顕は越後守護の上杉房定を頼り、北陸道を経由して関東に下向した[61]

4月3日、幕府は駿河守護の今川範忠桃井氏(桃井讃岐守)、上杉氏(上杉教房)に「武家御旗」を与え、関東に進軍するよう命じた[52][62][60]。この「武家御旗」は将軍に代わって軍の指揮を執る者に与えられる旗であり、範忠らは幕府軍の大将として扱われた[52]

鎌倉の陥落・古河公方の成立

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古河公方館址(古河市

享徳4年4月4日[注釈 6]、岩松持国の次男・次郎(宮内少輔)が成氏の命により、東上野の小此木刑部左衛門尉や那波掃部助、冨塚氏ら上州一揆の在所を攻撃し、上杉方を撃破した[54][63]。この戦いで、次郎は小此木刑部左衛門尉を討つなど戦功をあげ、近辺を平定するなど活躍した[64]。当時、那波郡・西荘から新田荘にかけて成氏方と上杉方で攻防が行われており、その後もこれらの地域では攻防が続いたようである[63]

4月5日、成氏は外様衆の軍勢を小栗城攻略に派遣し[57]、その外城を陥落させた[64]。この軍勢には、宿老の簗田持助、常陸の小田持家、下野の小山持政、下野の那須持資、下総の結城成朝も加わっていた[57]

4月22日、伊豆三島で幕府の援軍を待つ上杉持朝が成氏方から攻撃を受けたが、これを破っている[65]。成氏方は伊豆やその近辺にいた勢力を動員したとみられる[65]。その後、持朝は今川範忠ら幕府軍との合流し、閏4月15日には相模の箱根山に入った[65]

閏4月末、上杉方の佐竹実定江戸通房が成氏方である湊小田氏の本拠・湊城を攻め、これを占拠した[66]。常陸の佐竹氏は享徳の乱以前より、佐竹義人・義頼父子と義頼の弟・実定との間で抗争が始まっており、成氏はその頃から義人・義頼父子を支援していた[66]。そのため、常陸では乱の勃発に伴い、佐竹義人・義頼父子、宍戸持久、小田持家、湊小田出羽太郎、真壁朝幹鹿島実幹らが成氏方につき、上杉方には佐竹実定、江戸通房、山入佐竹義継大掾頼幹清幹父子、石神小野越前守・同美作守らがついた[66]

5月11日、成氏の弟である鶴岡八幡宮別当の定尊が兄を支援すべく、鎌倉から足利に赴いた[67]。成氏は岩松持国に御内書を出し、定尊が足利に入ったことを伝え、今後は定尊と相談しながら事を進めるように指示している[67]

5月14日、成氏方と上杉方は武蔵の大袋原(川越市)で合戦を行った[58]。この戦いは上杉方が勝利し、成氏方は江戸道景・妙景父子が戦死している[58]

5月中旬、成氏方は長尾景仲の籠る小栗城を攻略し[56][67]、同月20日の段階で攻略が確認できる[58]。このとき、成氏も古河から結城城まで進み、攻略を指揮している[57][67]

だが、景仲は城から脱出し、下野の天命(佐野市)・只木山(足利市)に立て籠もった[58][28][62]。この頃、上杉房顕と上杉房定が上野中部に進軍してきたとみられる[58]

5月25日までに、上杉房顕と成氏方の桃井左京亮が合戦を行っている[58]。これを受け、5月晦日に成氏は結城城から小山城に移っている[58]。房顕の進軍に呼応して、武蔵の上杉軍も上野の角淵まで進軍し、岩松持国の軍に迫った[68]

6月5日、成氏方と上杉房顕・房定率いる上杉方が、上野白井(渋川市)と惣社(前橋市)の間に位置する三宮原で激突し、上杉方が敗北[68]、越後上杉氏の被官らが討死・負傷している[69]。この直後より、成氏は岩松持国に対し、支援のために上野に進軍することを繰り返し伝達したものの、長尾景仲を放置することが出来ず、6月11日(13日とも[69])には小山から景仲が籠る天命に進軍した[68]

6月16日、上杉持朝や今川範忠らの軍勢は鎌倉を攻略し、鎌倉を守備していた成氏方の木戸氏印東氏、里見氏らを武蔵に追い払った[65][70]。その後、鎌倉は範忠ら今川勢が守備することになり[70]、持朝は武蔵に進軍した[65]

これにより、成氏は鎌倉に帰還することが出来なくなった[65][71]。以後、12月23日までに成氏は古河に帰還している[65]。そして、成氏はこの古河を本拠とし、政権の基礎を作ったため、「古河公方」と称されるようになった[65][71]。なお、成氏は古河公方館を2年ほど御所としたのち、城郭化された古河城に移ったようである[注釈 7]

拡大する戦乱

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康正元年6月24日、成氏は下野の足利に陣を移した[68][69]。この頃、房顕ら上杉方が景仲救援のため、さらに進軍してきたとみられ、その対応のためとみられる[68]

7月6日、上杉方が岩松持国の所領である新田荘に侵攻したが、持国はこれを撃退している[68]。だが、9日に成氏は上杉軍との正面からの衝突を避け、小山氏の祇園城に戻っている[68]。成氏の率いる軍勢は上杉氏の主力と戦えるほど多くなく、軍勢を整えるために帰陣したとみられる[68]。他方、成氏は持国に対し、従軍していた那須氏や小山氏、結城氏、佐野氏舞木氏らを援軍として派遣した[68]

7月25日、成氏方と上杉方が相模の穂積原(伊勢原市)で合戦を行った[68]。この戦いは上杉方が勝利し、敗北した成氏方は足利に撤退した[68]

同日、朝廷改元を行い、年号が享徳から康正となった[74]。だが、成氏やその与党はこの改元を受け入れず、享徳の年号を使い続けた[74]。おそらく、幕府は成氏に改元を通達しなかったため、成氏も改元を認めなかったためとみられる[75]

7月末、下野の宇都宮等綱が成氏方から上杉方に転じたため、成氏は那須持資に等綱攻撃を命じた[65]。この頃になると、義政が成氏の討伐命令を出していることが広く知られており、諸大名にも御内書が下されていた[69]。大名らにとって本来の主君は義政であり、その意向を無視できず、上杉方に転じる者も出てくるようになった[69]

8月、下総の千葉氏でも内乱が発生した[76]。上杉方についた宗家の千葉胤直胤賢兄弟と、成氏方についた庶家である馬加千葉氏の千葉(馬加)康胤(胤直の叔父)との抗争であった[77][78]。そして、康胤の攻勢により、8月15日に胤直が下総の妙光寺で、胤賢が上総の小堤城でそれぞれ自害に追いやられた[77][79]

これにより、千葉氏の宗家が滅亡し、勝利した千葉康胤が千葉氏の家督を継承した[77][79]。だが、胤賢の遺児である千葉実胤自胤兄弟は生き残り、葛東郡市川城に逃れ[77][78]、反抗を続けることになる[79]。なお、康胤を擁立したのは、千葉市の一族で重臣の原胤房であった[77]

10月15日、宇都宮等綱が進軍してきたため、成氏は小山持政にこれを迎撃させ[65]、その進軍をくい止めている[70]

10月17日、成氏方が下野の小野寺に在陣している[80]。この成氏方は小山城から進軍してきたもので、長尾景仲が籠る天命・只木山の攻略を目指していた[80]

11月朔日、宇都宮等綱の嫡子・明綱が成氏方に内応してきた[65]。これにより、宇都宮市に内部抗争が発生し、同月7日に成氏は結城直朝に宇都宮への進軍を命じ、12月28日には那須持資の軍勢が宇都宮城に向けて陣取りした[77]

東常縁

11月13日、東常縁が幕府から上杉方の援軍として派遣され[78][注釈 8]香取郡を攻略した[77]。これにより、康胤房方の弥富原朗珍・朗嶺兄弟が戦死している[77]

11月25日、東常縁が千葉康胤の本拠である馬加城を攻略した[77]。これにより、康胤は平山城を新たな本拠とした[81]。また、同日に八幡荘今島田(市川市)で合戦があったが、これは千葉実胤方と康胤房方の合戦であったとみられる[82]

12月3日、成氏方は上杉方と武蔵の太田荘須賀(行田市)で合戦を行い、上杉方である岩松家純(長純)の家宰・横瀬良順を戦死させている[83]

同月、成氏方は長尾景仲が籠る天命・只木山に攻撃を加え、両所とも攻略した[70][84]。景仲は武蔵の崎西郡(騎西町周辺)に移り、崎西城を構築したが、この城も成氏方に攻略された[70][83]。景仲は脱出に成功したが、その後どこを在所としたかは不明である[83]

同月、下野東部の茂木満知が上杉方についた[85]

康正2年(1456年)正月7日、成氏は新田荘の岩松持国に対し、11日に上野に進軍する意向を伝えている[86][74]。成氏は東上野の確保を優先的に考えていたとみられる[86]

正月19日、成氏は奉公衆の南図書助と簗田出羽守を主将とする大軍に下総の市川城を攻撃させ、千葉実胤・自胤兄弟を武蔵に追い払った[87][74]。武蔵に逃れた実胤・自胤兄弟は山内上杉氏の庇護を受けて、それぞれ赤塚郷(板橋区)と石浜郷(台東区)を与えられ、その系統は武蔵千葉氏と呼ばれるようになった[87][78]

正月25日、武蔵の上杉勢が同国長井荘に布陣し、利根川を越えようとした[86][88]。この軍勢は長尾景仲らに率いられていたとみられ、武蔵の太田荘や上野の佐貫荘の攻略を目指していた[86]

正月下旬、岩松持国が上杉方の動きを成氏に注進した[88]。成氏は持国に対し、利根川の川端にある古戸渡(大泉町)まで軍勢を進めて確保し[86][88]、さらに佐貫荘に陣を寄せるように命じた[88]。また、成氏は下野佐野荘の佐野氏、武蔵長井荘の長井氏幡羅郡蓮沼(深谷市)の蓮沼氏に対し、持国への援軍を命じている[86]

2月、下野西北部の日光山が成氏に敵対するようになったが、この日光山は成氏の兄である成潤勝長寿院門主)の管轄下にあった[89]。成潤は成氏方の攻撃を受け、起請文を出したものの、上杉方の陣に加わった[89]。以後、成潤の動向は判然としない[89]

2月21日、上杉方の岩松家純が新田荘北部の鹿田・泉沢(みどり市)に進軍した[86]。また、26日は上杉方の沼田氏上田長尾氏が赤城山南麓の深巣・赤堀(伊勢崎市)・大胡・山上(前橋市)に進軍し[86][88]、成氏方の赤堀時綱が戦死している[88]。これらは成氏方によっていずれも撃退されたが、上杉方から新田荘への侵攻が行われていることがわかる[86]

3月3日、成氏方の那須持資が下野において、上杉方の茂木氏の居城である茂木城を攻撃した[90]。成氏は持資の陣所に使者を派遣し、持資に感謝の意を伝えている[88]。以後、持資による茂木城攻めが続くことになる[90]

3月11日、西上野に在陣していた上杉房顕の軍勢が、15日には長尾景仲の軍勢がそれぞれ新田荘に進軍するとの話が流れた[63]。これを受け、成氏方は新田荘・佐貫荘の防備を固め、岩松持国は嫡子の次郎を西荘に派遣した[63]

4月4日、成氏は義政近臣の正親町三条実雅と管領の細川勝元にそれぞれ書状を出し、今回の戦乱が幕府に対する敵対行為ではないことを弁明した[91][92]。実雅宛ての書状では、幕府の直轄領に関しては押領しないことや、足利荘に関しては代官を派遣し、直接支配するように要請した[93][92]。勝元宛ての書状では、自身にかけられた逆賊の汚名を晴らしてほしいと述べるとともに[88]、上杉憲忠の誅殺については江の島合戦以来の状況を述べて理解を求め、幕府に異心がないことを述べている[94][95][96]。だが、勝元ら幕府の面々が成氏の訴えを黙殺したため、使者は何の成果も得られぬまま、京都から帰還した[97]

同4日、宇都宮等綱が成氏方に降参し、没落した[90]

6月、宇都宮等綱が上杉方に転じ、活動を見せるようになった[90]。これは、南陸奥の結城直朝と小峰直常が成氏方から上杉方に転じたことを受けたことによるものであった[90]

7月25日、成氏方と上杉方との間に「上州合戦」があり、成氏方が勝利した[63]。この合戦が上野のどこの地で起きたかは不明である[63]

7月28日、結城直朝と小峰直常が宇都宮等綱・明綱父子を和睦させるためとして、下野に進軍した[90]

9月3日、成氏方と上杉方との間に「東上州合戦」があり、成氏方が勝利した[63]。この合戦が東上野のどこの地で起きたかは不明であるが、上野や武蔵に上杉方が集まっていたことがうかがえる[63]

9月17日、成氏方と上杉方は武蔵の榛沢郡岡部原(深谷市)で合戦を行った[63][97]。戦いは成氏方が勝利したようであるが、岩松持国・次郎父子が負傷したほか、鳥山式部大夫も戦死するなど、損害も少なからずあった[63][98]

10月1日、上杉持朝が東京湾を渡海し、下総と上総に侵攻した[87]。そして、成氏方の千葉康胤を上総の八幡で戦死に追いやった[87]。これにより、一族の千葉輔胤が千葉氏の家督を継承した[87]

11月8日、成氏方の塩谷安芸守の要害が上杉方から攻撃を受けたことで、成氏は那須持資に支援を命じている[90]

12月5日、成氏は小山持政に対し、求めてきた宇都宮等綱の進退保証を却下した[90]。また、那須持資に対しては、茂木城攻略の援軍に持政や宇都宮明綱を援軍として送ることを伝えた[90]。このほか、上杉方の日光山領の野口氏や那須地域の長倉氏に御書を出したことも伝えた[90]

このように、関東の全域において、成氏方と上杉方の両勢力、及びそれに与する勢力らによって争いが繰り広げられた[82]

戦況の膠着化・五十子陣の構築

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康正3年(長禄元年、1457年)閏正月26日、成氏は上野方面に出陣する意向を示し、岩松持国に参陣を命じた[99]

5月8日、武蔵千葉氏の宿老である円城寺氏が下総侵攻を図ったことで、山内上杉房顕は常陸信太荘の家臣にその支援を命じた[99]。このことから、上杉方による武蔵・常陸から下総にたいする侵攻が図られていたことがわかるが、その後の状況は不明となる[99]

なお、それまでのように戦況が関連史料に見られなくなることから、成氏方と上杉方との間で戦いが膠着状態になっていたとみられる[99]。この頃になると、成氏方と上杉方でそれぞれの勢力圏が形成されつつあった[99]

西関東
  • 伊豆・相模・武蔵南部では、上杉方による鎌倉占領後、合戦が見られないことから、上杉方の勢力圏となった[99][100]。また、武蔵北部については、東部の長井荘・太田荘・崎西郡などが成氏方、西部の秩父郡賀美郡児玉郡などが上杉方であり、その間の幡羅郡・榛沢郡などが緩衝地帯であった[99]
  • 上野では、新田荘・佐貫荘・桐生郷など東上野が成氏方、西上野から沼田荘までの北上野が上杉方、その間の東上野の那波郡や西荘などが緩衝地帯であった[101][102]
東関東
  • 下野は成氏方であったが、宇都宮氏と那須氏が成氏方と上杉方で分裂していた[103][104]
  • 常陸では、西部の小田氏、東部の鹿島氏、北東部の佐竹義人・義頼父子が成氏方であった一方、南部の信太荘・東条荘、北部の佐竹実定や佐竹山入氏、中央部の大掾氏が上杉方であった[103]。なお、中央部の真壁氏は成氏方と上杉方で分裂していた[103]
  • 下総は、北部の結城氏、下河辺荘北部・辛島郡などは成氏方、南部では西端の葛西御厨(葛飾区など)が上杉方であり、それ以東は成氏方の千葉氏が優勢であった[103]
  • 上総安房では、成氏の奉公衆である武田信長が上総に、御一家の里見義実が安房にそれぞれ入国し、成氏方として勢力を確立した[103][105]

上記のように、関東を流れる利根川を軍事境界線として、東側を成氏方、西側を上杉側とする勢力圏が形成された[103][106]。そして、成氏方と上杉方の勢力圏が形成されるに伴い、上杉方による軍事拠点の構築が進められた[107]

扇谷上杉氏は武蔵の河越荘河越城を、豊島郡江戸郷に江戸城を構築し、崎西郡から下総にかけての拠点とした[103]。両城は長禄元年4月に構築されたと伝わるが、確実な史料はない[103]

山内上杉氏も武蔵児玉郡において、上杉氏の本陣となる軍事拠点「五十子陣」を構築した[103][106]。上杉方が五十子に陣を築いた理由としては、利根川の渡河点にあり、成氏方の勢力圏に侵入するには、渡河点を確保する必要があったからとみられる[103]。五十子陣は東五十子と西五十子を中心に、その周辺の村々を含めた広範にわたる陣所であった[106]。その構築時期は不明な点が多いが、長禄2年9月には構築されていたとみられる[103]

足利政知の派遣・堀越公方の成立

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国清寺伊豆の国市

長禄元年7月、幕府は享徳の乱における状況打開のため、義政の兄である清久を「関東主君」、つまり正式な鎌倉公方と決定した[108]。これは、幕府と敵対状態にあった成氏に対して、上杉氏が成氏に代わる新公方の派遣を幕府に要請したことによるものであった[109]。また、成氏からの弁明をはねつけた幕府も同様に、関東の安定のため、新たな公方を足利一門から派遣するという必要があると考えていた[110]

12月19日、清久は義政の命により還俗し、その際に義政から偏諱を受けて、「政知」と名乗った[108]。そして、24日に政知は渋川義鏡と共に京都を出立し、近江園城寺に入った[111][108]

その後、政知はこの地にしばらくとどまり続けた[110]。政知がなかなか関東に下向しなかった理由としては、下向の時期が整っていなかったという判断があったと考えられる[108]。また、幕府が成氏討伐のため、新公方を派遣するという話は関東にも伝わり、成氏に従っていた諸将にも動揺が走った[110]

長禄2年閏正月11日、成氏が小山持政に対して長文の書状を送り、これまでの功績をたたえるとともに、兄弟の契りを結んでもかまわないとまで述べている[112]。この書状は、持政が成氏に従う見込みがあれば出す必要のない書状であり、成氏が持政の離反を恐れ、心配したとみられる[113]

3月17日、義政が岩松持国やその息子の次郎と三郎(岩松成兼)に対して、成氏方から離反するように御内書を出したり[108]。また、渋川義鏡や朝日教貞も同様に書状を送り[108][113]、これらはまとめて持国のもとに送られた[113]

5月15日、岩松持国が義政の命令を受け入れる請文を出し、成氏方から離反した[108][113]。持国に離反を促したのは、一門の岩松家純と家純の重臣・横瀬国繁であった[114]。持国にとっての一番の課題は、この争乱で失われつつあった自身の所領の回復であり、幕府に味方することでその所領支配を確立したかったようである[115]

5月20日、岩松家純は持国に書状を送り、やがて下向する新公方の政知との関係を仲介すると約束した[114]。また、同日に横瀬国繁も持国の重臣・伊丹伯耆守に書状を送り、互いに協力するように求めている[114]

長禄2年(1458年)5月25日(6月8日とも)、政知は幕府から「天子御旗」を渡され、関東へ下向した[108][111]。政知は下向に際し、義政から関東における御料所(鎌倉公方の直轄領)、新闕所の処分権(敵方の所領を処分して味方に与える権利)、寺社領の安堵権、兵糧料所の管理権も認められた[116]。政知はまた、奉行人布施為基や朝日教貞らを連れて下向した[117]。さらに、渋川義鏡や上杉教朝関東執事として、政知の補佐役とされ、同時に下向した[118][119]

だが、政知は幕府公認の鎌倉公方として派遣されたものの、成氏の勢力が強大なために鎌倉に入ることができず、伊豆に逗留した[109]。政知が伊豆に到着したのは、5月25日以降から8月13日までの間と考えられている[111]。政知は伊豆の政治的中心地であった奈古屋(伊豆の国市)の国清寺に入ったが[108]、同地には山内上杉氏菩提寺があり、伊豆の守護所であったともされる[120]。その後、政知は北条内堀越に堀越御所を構えたため、「堀越公方」と呼ばれるようになった[108][121]

かくして、関東には堀越公方という第三の勢力が形成されるに至った[122]。また、これまで関東で幕府軍として戦っていた軍勢は堀越公方の指揮下に入り、奉公衆の東常縁、相模(駿河河国人でもある)の大森氏頼実頼父子、武蔵の千葉実胤・自胤兄弟などは、政知の政治勢力に属す形となった[122]

幕府の関東出兵失敗・両軍による一大決戦

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斯波義敏

幕府は政知の下向にあわせて、関東や奥羽、東海の大名・国人衆に動員をかけ、大規模な成氏討伐計画を進めていた[111][123]。7月24日の時点で、渋川義鏡ら諸大名に出陣が命じられている[123]。また、義政が自ら動き、8月には陸奥の結城直朝に数度の命令を下しているほか、信濃小笠原光康小笠原氏の一族・家臣にも命令が下されている[124][123]

そして、6月下旬に義政は政知の伊豆到着と前後して、 越前尾張遠江守護の斯波義敏に対し、関東出兵を命じた[125][126][127]。この当時、関東にいた幕府方は、上杉氏以外に、足利氏一門の渋川義鏡や吉良義真、駿河守護の今川範忠であった[128]。だが、義鏡や義真は守護ではないので軍事力が低く、範忠も関東の抑えとしての役目を担っていたため、義政は斯波氏に政知の援軍の主力となることを期待したのであった[128][129]

他方、義政は義敏と抗争する守護代の甲斐常治(将久)にも出兵を命じていたが、この常治は主君の義敏と不和な状況にあった[130][126]。義政は義敏と常治による斯波家中の内紛(長禄合戦)を収拾できず、幕府軍による関東出兵政策は事実上頓挫した[130]。また、義敏も家中統制がままならず、関東出兵ができなかったため、義政の信任を失っていった[130]

9月24日、岩松持国が上杉方に参陣すると、政知はそれを賞する御教書を出した[123]

11月(10月末とも[123])、渋川義鏡や上杉方の軍勢が利根川を越え、古河の成氏を攻撃すべく、五十子陣に集結した[123][124]。そして、成氏方に攻撃をかけたが、この戦いに敗北した(五十子の戦い[123][124]

11月10日、「京都御方が打ち負けた」との報が、京都にもたらされた[123][129]。この戦いでは、参陣を命じられていた結城直朝が蘆名盛詮との争いで参戦できず、他の奥州勢も参戦しなかったようである[129]。なにより、義政や幕府の面々が政知の援軍に期待した斯波勢が、内紛で関東に出陣しなかったことが、敗北の大きな要因であった[129]

11月17日、上杉方は成氏方と上野の佐貫荘岡山で合戦を行った[123]。このとき、政知は義政と共に、岩松家純を「信州御勢」の大将に起用したとされ、このことから信濃からも軍勢が参加していることがうかがえる[123]

長禄3年(1459年)2月、岩松持国の次男・成兼が上杉方を離反し、成氏方についた[131]。これにより、持国と成兼は親子で抗争することになった[131]

5月、斯波義敏が再三にわたる義政の督促により、関東出兵のための軍勢を集め、京都から出陣した[132][133]。だが、義敏は越前に向かって進軍し、甲斐方の金ヶ崎城敦賀城を攻めて大敗したため、義政の逆鱗に触れた[132][133]。これにより、8月に義政は義敏の斯波氏家督を剥奪し、嫡子の松王丸(斯波義寛)に代えた[130][134]

10月、政知や上杉氏らは、成氏方に大規模な軍事攻勢をかけようとした[129]。このとき、上杉方は一門や有力被官など動員できる勢力を全て集めており[134]、堀越公方からも渋川義鏡が軍勢を率い、五十子陣に入っている[135]。だが、奥州の伊達氏や白川結城氏、蘆名氏らは幕府から軍事催促を受けていたにもかかわらず、参陣していない[134]

10月14日、堀越公方及び上杉方は古河に進軍するさなか、武蔵の太田荘会下(鴻巣市)において、成氏方と合戦を行った[135][131][136]。このとき、堀越方は渋川義鏡が、上杉方は山内上杉房顕や扇谷上杉持朝、越後の上杉房定ら軍が率いていた[135][137]

10月15日朝、両軍は上野佐貫荘の海老瀬口(板倉町)において、夕刻には羽継原(館林市)で戦闘を行った[135][136][138]。戦場が徐々に東に移動していることから、当初は上杉氏が優勢だったとみられるが[131]、やがて成氏方に敗北した[135][137]

敗れた上杉方は上杉教房が戦死するなど、大きな損害を出した[139]。渋川義鏡と岩松家純は豊島郡浅草まで退いてここに陣取ったほか、上杉房定は五十子陣に後退し、上杉持朝は本拠地の河越城まで逃れた[135][108]

だが、勝利した成氏方も上杉方と同様に、この総力戦といえる合戦(太田荘・佐貫荘の戦い)で疲弊していた[140]。そのため、以後は古河と五十子で両軍がにらみ合って在陣する状況が長く続いた[140]

上杉方は山内上杉房顕、越後上杉房定が五十子陣に在陣し続けたほか、越後上杉氏の一族である上条上杉氏や四条上杉氏、八条上杉氏もここに在陣した[141]。庁鼻和上杉氏も在陣した[141]。他方、扇谷上杉氏は五十子陣と武蔵の河越城との間を行き来していたようである[141]

関東全域での戦乱激化

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伝堀越御所跡伊豆の国市

長禄4年正月、駿河守護の今川範忠が前年の敗北を受けて[142]、自身が制圧していた鎌倉を離れ、駿河に帰還した[143]

3月、宇都宮等綱が死去したことにより、宇都宮氏はその息子の明綱で一本化された[141]

4月28日、義政から9通の感状が出されているが、その宛先は佐竹実定、江戸通房、小田持家、真壁氏幹、下総の結城成朝の一族である結城宮内少輔・同刑部少輔の両名である[144]。このことから、それまで成氏方であった小田持家が上杉方になっていることがわかる。また、結城成朝も成氏方から上杉方に転じている[145]

他方、同月(または5月[141])、政知の陣所である国清寺が成氏方によって襲撃され、焼き討ちにあった[141][146][147]。そのため、政知は堀越へ本拠を移し[108][146]円成寺を接収する形で堀越御所を構えた[141][148]

4月27日、政知や渋川義鏡の意向を受けた板倉頼資が上洛し、関東の情勢を伝えるとともに、幕府と軍事力に関して対応を協議した[146]。協議の結果、斯波勢が再編されることになり、8月に斯波氏の家臣である朝倉孝景甲斐敏光が関東に派遣され、堀越方の軍事力の目処は立った[149][150]。斯波氏の軍勢が動員されたのは、政知や義鏡が今川勢の帰国によって欠けた軍事力を、斯波勢によって補おうとしたからと考えられる[151]

また、政知は長禄4年の段階で、斯波氏の越前・尾張・遠江の軍事力を背景に、箱根山を越えて相模に進み、8月か9月には鎌倉に入る計画を立てていたようである[152]。その計画は、板倉頼資から義政に伝えられたとも[152]、義政に諮らなかったともされる[153]。他方、この相模への進軍計画は、政知が先の国清寺襲撃に対する敵対勢力への報復を意図した可能性もある[153]

しかし、政知が渋川義鏡と共に相模へ進軍しようとすると、両名が「箱根山を越えた」との情報を受けた義政より、8月22日に「粗忽の企て」で「一向に不忠」として強く制止された[153][150][152]。義政が政知の相模入国を許さなかったため[150]、政知の鎌倉入りは延期となった[152]。この一件は、鎌倉公方としての政知の自発的な軍事活動を否定し、室町殿である義政に軍事動員権があることを示したものであった[150]

閏9月、政知は義政から制止されたことを受けて、近臣の朝日教貞を上洛させ、義政にその窮状を訴えた[150]。これにより、10月に義政は関東や奥羽の諸将に対して、一斉に大量の御内書を発給し、関東進軍を命じている[153][150]。なお、義政が発給した御内書の数は31通にのぼり、26通は奥州探題の大崎氏や羽州探題の最上氏ら奥羽の武家、それ以外の4通は成氏方の有力者に宛てられたものであった[154]

このとき、義政が示した姿勢はこれまでに見られない大規模なものであり、成氏討伐にようやく本腰を入れた形になったが、関東や奥羽の諸将はこの出陣要請に応じなかった[155]。おそらく、諸将は前年の成氏への大規模な攻撃計画の失敗を見て、幕府の動員命令に対する信頼を失ったと考えられる[142]

寛正2年(1461年)5月、上杉方であった岩松持国・次郎父子が成氏に内通し、その露見を受けて、岩松家純が両者を殺害するに至った[155][156]。おそらく、持国父子は家純の下に位置することに耐えかねたようであるが[155]、家純としても持国らの成氏方復帰は何としてでも阻止しなければならなかった[157]。持国らの死によって、岩松氏は家純に一本化された[155]

10月26日、結城駿河守や同伊賀入道、同掃部助が武蔵の上杉顕房もとに参陣し、上杉方についた[155]。当主の成朝が上杉方であったことから、結城一族を上杉方に集結させていたことがわかる[155]

堀越公方と上杉方の対立

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鹿王院

寛正2年10月、政知のもう一人の補佐役である関東執事の上杉教朝が、「心中に決し難きことあり」として、伊豆の国清寺で自害した[158][159]

当時、政知は幕府から御料所や新闕所の処分権を与えられていたことで、相模や武蔵東部といった扇谷上杉氏の勢力圏において、両国の御料所や闕所地を収公し、それらを自身の近臣に与えていた[160]。そのなかには、扇谷上杉氏が武蔵における本拠としていた河越荘も含まれていた[160]。教朝はその事態解決に苦慮して自害したと考えられるが、扇谷上杉氏の側でもまた、太田道真(資清)が家宰を辞して隠居していることから、両者の間で均衡がとられたものとする見方がある[158]

10月23日、義政がこれを受け、政知と渋川義鏡に宛てて、事々に諷諫し、扶持を加えるように指示している[159]。また、上杉政憲(教朝の長男)が新たな関東執事として、京都から伊豆に派遣された[159][161]

寛正3年(1462年)3月、扇谷上杉氏当主の上杉持朝が政知と対立したことより、成氏方に離反したとする「雑説」が流れた[162][158][163]。義政はこの報に接すると、政知に「非常に驚愕している」と伝え、持朝が「代々の忠節者」であるとし、その分国や所領に関して保障するよう要求した[158]

だが、堀越公方と扇谷上杉氏の対立は深刻で、その余波を受けてか、3月に相模の三浦時高が、4月に武蔵の千葉実胤らが隠居する事態に発展した[162][158]。二人はともに両勢力の板挟みにあい、そのために進退窮し、隠居せざるを得なかったと考えられる[164]

上杉教朝の自害や上杉持朝の「雑説」をはじめ、太田氏三浦氏千葉氏の隠居は全て一連のものであり、政知ら堀越公方が関わった政争であったとみられる[165]。この結果、政知は持朝の相模守護職を罷免したとされる[165]。また、関東執事の渋川義鏡が一連の事件に深くかかわり、持朝の守護職罷免も義鏡によるものとする見方もある[137][166]

11月初旬、扇谷上杉氏と堀越公方との間で和解が成立した[161]。堀越方は持朝の離反が事実でないと幕府に報告し、扇谷上杉氏の分国や所領の維持を容認した[161]。これを受け、同月19日に義政は上杉政憲に宛てて、そのことを賞している[161]

12月、義政は政知や上杉持朝らに御内書を下し、持朝の地位を保障するとともに、河越荘など扇谷上杉氏が領有する御料地や闕所地、家臣の所領で発生した闕所地に関しても、従来の領有権や進退権を保証した[165][161]。また、政知に対しては、扇谷上杉氏から収公した兵糧料所を元に戻すことも命じている[161]。この混乱の収拾のためか、寛正3年頃に渋川義鏡が幕府によって、関東執事から解任された[137][167][166]

寛正4年(1463年)12月、山内上杉房顕が幕府に対し、関東管領を辞職することを申請した[168]。だが、同月26日に義政は辞職を認めず、引き続き関東管領として政知を補佐するように命じる御内書を下した[169]

当時、山内上杉氏が抱えていた問題として、武蔵の千葉実胤が兵糧料所とする豊島郡赤塚郷の返還問題があげられる[170][168]。この問題は、領主の京都鹿王院が幕府に赤塚郷の返還訴訟を起こし、幕府もそれを認めたため、堀越公方が山内上杉氏に対して引き渡しを実行するように求めたことに起因する問題である[170][168]。房顕の辞職申請直前に山内上杉氏が抱えていた問題は、鹿王院領赤塚郷の問題しか確認されておらず、辞職申請もそれが理由となった可能性が高い[169]

政知は房顕に対して、幾度もこの命令の実行を要求し、同月28日にも辞職が認められない以上は当職にあるのと同じなので、改めて先の命令を執行するよう要請した[169]。だが、幕府や堀越公方の命令であっても、当地を知行する上杉方の武家の立場を考えると、山内上杉氏も簡単に命令を実行できるものではなく、この問題がその後どう解決したかは不明である[171]

堀越公方の武蔵進軍・両上杉氏の当主交代

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勧農城址(足利市

寛正4年11月7日、成氏方が上杉氏に攻撃を仕掛けようとする状況があったとみられる[172]。このとき、義政は政知の軍事力が少ないことから、駿河守護の今川義忠に伊豆への参陣を命じた[172][注釈 9]

12月12日、越後上杉氏の一族・上杉右馬頭が信濃に進軍し、戦死している[172]。成氏はその死を岩松成兼に報せて喜びを示していることから、右馬頭の進軍した先の北信濃の高梨氏は成氏方であったようである[173]

12月27日、義政が大森氏頼に対し、上洛を命じている[172]。義政がなぜ氏頼に上洛を命じたかは定かではないが、過去にも命じられていたにも関わらず行われていなかったため、あらためて命令が下され、息子の実頼にもその実現を要請している[172]

同日、義政は佐竹実定と江戸通房に対しても、これまでの軍功を賞し、「来春一途」を命じている[172]。このことから、翌年春に義政が成氏方に対し、大攻勢をかける計画があったとみられる[172]。だが、この計画は実行に移されなかった[167]

寛正5年(1464年)4月14日、上総の中野原において、成氏方の千葉氏と上杉方の千葉氏との間で合戦があった[174]。その後、16日に千葉方の原氏が中野城を攻略した[174]

5月、堀越公方の有力者である大森実頼が隠居を表明し、義政がこれを強く慰留した[167]。このとき、大森氏の進退をめぐって何らかの問題が発生しており、その問題は政知との関係によるものと推測される[167]。この問題がどう解決したかは定かではないが、実頼はその後も大森氏の当主であり続けたことから、その意向に沿った解決が図られたとみられる[167]

8月、義政は下野の小山持政とその重臣の水谷壱岐守、常陸の鹿島実幹に対し、上杉方への参向を命じたほか、佐竹実定と江戸通房にも早急に成氏討伐を行うように命じた[167]。なお、実定には前年から成氏討伐を命じており、改めて要請する形となった[167]

寛正6年(1465年)5月19日、管領の畠山政長は南陸奥の石川治部少輔(陸奥石川氏)に対し、大崎教兼葛西氏の被官である富沢河内守を休戦させ、大崎氏と葛西氏が関東に出陣できるように命じた[175]。このころ、上杉顕定は幕府に対し、成氏方から五十子陣に降参者が出たことを報告している[176]。政知はこれを受けてか、家宰の上杉政憲に出陣の準備を命じた[176]

6月、上杉政憲が堀越公方軍の大将として、成氏追討の「天子御旗」を掲げ、箱根山を越えて相模に進軍した[167][176][177]。政憲は武蔵世良田の吉良成高、駿河今川氏の小鹿範満宅間上杉氏上杉憲能らを率いて、上杉方の本陣である五十子陣に入った[176][178]。堀越公方軍の五十子着陣により、上杉方の主力が五十子陣に集結する形となった[143]。堀越公方の主力が武蔵に進軍したのはこれが初めてであることから、政知が成氏討伐に本気を示したとみることができ、また義政の度重なる催促の結果でもあったとみることができる[174]

同月、成氏方の千葉輔胤の重臣で、下総松渡城主の原朗意・八郎父子が上杉方に転じた[167]。この離反は、堀越方の進軍により、武蔵東部と下総西部で上杉方の攻勢が強まった結果とされる[174]

9月、成氏が政知らの攻勢を受けて、自ら軍勢を率い、武蔵太田荘に出陣した[143][179]。成氏が五十子陣に向けて進軍したため、上杉方と崎西郡荒木要害(行田市)で合戦になった[143][180]

12月8日、義政が駿河守護の今川義忠と甲斐守護の武田信昌に対し、関東への出陣を命じた[143]。すでに、成氏が出陣したことを受けて、義政は両者に出陣を命じていたが、これに応じようとしなかったので、あらためて命が出された[143]

文正元年(1466年)2月12日、上杉方の総帥であった山内上杉氏当主の上杉房顕が死去した[143][180]。このため、上杉房定の次男・顕定が養子として、同氏を継承した[143]

4月18日、下総の相馬御厨守谷(盛屋とも、守谷市)において、成氏方と上杉方で合戦が行われた[181]。これは、上杉方の守谷相馬氏をめぐる合戦とみられる[181]

6月3日、義政は上野桐生の佐野直綱が成氏方から上杉方に転じたことを受けて、成氏方の有力武将らに対し、上杉方への参向を命じているほか、陸奥の伊達持宗や蘆名盛詮に関東出兵を命じている[182]。また、義政は上杉政憲に従軍していた吉良成高や小鹿範満、上杉憲能の五十子進軍を賞しており、その文面を見る限りでは、堀越公方軍が五十子陣に在陣していたことがわかる[182]。ただし、堀越方が五十子陣にいつまで在陣したかは定かではない[182]

7月、上杉方が下野の足利荘に進軍した[182]

同月、義政は斯波氏の家督を、斯波義廉から斯波義敏に交代させた[183]。この家督交代は、義廉の父であり、政知の執事だった渋川義鏡が失脚したことに関連している[184]。堀越公方の援軍として斯波勢を動員するため、義鏡の息子である義廉が家督に据えられたものの、義鏡の政治手法は堀越方と上杉方の軋轢を大きくするだけに終わり、義鏡が失脚したことで同時に成氏討伐における義廉の必要性もなくなったことで、義敏の復権に繋がったとみられる[184]。他方、義廉はこの家督交代に納得せず、母が山名氏の娘であったことから[185]、その惣領である山名宗全を頼った[184]

11月、山内上杉氏の宿老・長尾景人が足利荘に入り、勧農城を築いた[182]。このことから、上杉方の攻勢が強まったこととみられる[182]。他方、成氏が東上野の上杉方を迎撃する意向を示した書状があるが、それはこの時のことだった可能性がある[182]

同月、武蔵北部の玉井氏、長井氏、別府氏が上杉方から成氏方に転じており、これは成氏方の結城氏広の調略によるものであった[186]。乱の当初、この三氏は成氏方であったが、上杉氏の攻勢を受けて離反していたものの、再び成氏方についた[186]

応仁元年(1467年)4月14日、下総の野田で、7月24日には同国の我孫子で、成氏方と上杉方の合戦があった[181]。いずれも原氏をめぐる合戦とみられ、8月12日に上杉方の原朗意が武蔵の水ハツ(所在地不明)で死去していることから、すでに松渡城から没落していたとみられる[181]。これらの動向から、成氏方による千葉氏領国北部における領域が確定し、

9月7日、上杉方の長老であった扇谷上杉氏の当主・上杉持朝が死去した。没後、孫の上杉政真が家督を継承したが、山内上杉氏の顕定と同様に若年であった[182]

上杉房顕と上杉持朝の死により、山内上杉氏と扇谷上杉氏はともに若年の当主となった[182]。そのため、山内上杉氏では家宰の長尾景信が、扇谷上杉氏では太田道真・道灌父子がそれぞれの当主を支える体制がとられた[182]

応仁の乱の勃発・成氏と西軍の交渉

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足利義視

上杉方と成氏方が武蔵でにらみ合う最中[182]、応仁元年5月に京都では細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が衝突したことで、応仁の乱が勃発した[187][188]。これにより、幕府は関東に軍勢を送ることが不可能となった。

応仁2年(1468年)2月、上杉方の岩松家純が新田荘に進出すると、同地とその周辺を確保し、8月には金山城に入った[189][190]。これにより、成氏方の岩松成兼は没落し、岩松氏の一門や家臣は家純の下で統合された[189][190]。また、新田荘が上杉氏の勢力圏に入ったことで、上野における成氏方の勢力は最東部の佐貫荘のみとなった[189]

4月、成氏が西軍の斯波義廉から返事を受けた[182]。その内容は、成氏が申請した和睦に関して、義廉や山名宗全、畠山義就が了承したというものであった[191]。だが、これは和睦ではなく、軍事同盟であったとする見方もある[192]

10月8日、上杉方が上野西荘に進軍し、成氏方と毛呂島・網取原(伊勢崎市)で合戦を行い、これに勝利した[193][190]。このとき、義政から山内上杉配下の上野武士らに対し、感状が出されている[193]

閏10月1日、成氏は下野の天命に在陣している[193]。なお、成氏はそれまで太田荘に在陣していたとみられることから、上杉軍の進軍を受け、東上野の後背地にあたる同地に陣を移したとみられる[193]。また、成氏は那須持資に対し、都鄙和睦に尽力するようにという「京都御教書」が送られてきたことを伝えている[194]。この書状は、管領の斯波義廉から送られてきたとみられる[189]

閏10月29日、成氏は下野の足利荘小曾根に進み、那須持資も参陣した[189]

11月、政知や義政の弟・義視が西軍諸将によって、事実上の将軍として擁立された[195]。義視は西軍の盟主として、独自の外交を展開し、政知が対峙する成氏とも和睦交渉したとみられる[196][注釈 10]

12月12日、成氏は上杉方の勧農城攻略を目指すも、これを実行には移されなかった[189]。この頃の成氏は勧農城の攻略を戦略として描いていた[189]

12月、成氏は古河に帰還した[198]

上杉方の攻勢・古河城の陥落

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古河城本丸跡(古河市

文明2年(1470年)に入ると、義政は成氏方の有力武家に対し、上杉方への転向を促す御内書を発給した[199]

文明3年(1471年)3月、千葉氏や小山氏結城氏といった成氏方の軍勢が大挙して南に向かい、箱根山を越え、伊豆の三島に攻め込んだ[198][200]。その標的は政知であったとされ、堀越公方の軍勢は劣勢だったが、上杉氏被官の矢野安芸入道らが加勢して成氏方に攻めかかり、これを相模に撃退した[198][200]。成氏方は相模に退くと、上杉顕定の家臣・宇佐美孝忠との戦いに敗れ、成氏方は古河に逃げた[198]。この成氏方の軍事行動は、かえって上杉方を勢いづかせる結果となった[201][200]

4月、上杉方は成氏方に大規模な攻勢をかけ、同月15日には足利荘の赤見城を攻略した[202][200][203]。赤見城攻撃は、山内上杉氏家宰の長尾景信を主将とした軍勢によって行われた[202]。これを受け、義政は上杉顕定や家宰の長尾景信、岩松家純らに対し、感状を出している[202]

また、同時期に上杉方は足利荘の樺崎城も攻略しており[200]、成氏方の南式部大輔父子が討たれている[202]。義政はこれを受け、上杉顕定の宿老・長尾景人に感状を出している[202]

5月6日、成氏方と上杉方が下野の河原田(栃木市)で合戦を行い、小山持政の一族・小山右馬助が義政から戦功を賞されている[204]

5月23日、上杉方は成氏方の佐貫荘立林城を攻略した[202][200][203]。立林城攻めには、長尾景信・景春父子、長尾忠景、太田道灌・資忠兄弟らが率いる上州一揆・武州一揆からなる6千騎があたった[204][200]。これについても、義政が上杉顕定や長尾景信・景春父子らに感状を与えている[205]

5月30日、義政は越後に帰国していた上杉房定に関東出陣を命じ、在京中の岩松明純(家純の子)にも関東下向を命じた[206]。また、同日に関東や陸奥の諸氏らに対して、一斉に御内書を発給した[199]。義政は宇都宮正綱や結城氏広、簗田持助、大掾清幹、佐竹義治、鹿島実幹、宍戸持久真壁久幹、那須持資らに対し、上杉方への参向を命じている[206]。なお、小山持政や小田成治らがこの時点で上杉方に与していた[199][207]

6月6日、宇都宮正綱が岩松家純の家宰・横瀬国繁の調略により、成氏方から上杉方になった[206]。これは、先の義政の働きかけも奏功したとみられる[206]

6月24日、上杉方は成氏の本拠である古河城に大軍で押し寄せ、城を陥落させた(古河城の戦い[206][208]。この攻撃により、成氏は古河城から脱出し、下総本佐倉(酒々井町)の千葉輔胤・孝胤父子を頼って落ちのびている[209][208]

だが、成氏方がこれで壊滅したわけでもなく、関東での戦乱は収束しなかった[209]。そのため、上杉方は結城直朝に関東出陣を要請し、成氏方への攻撃を進めている[209]。他方、斯波氏の軍勢なしに上杉方が勝利したことは、斯波義廉の存在意義を減らし、義廉ら西軍諸将に動揺を与えた[200]

成氏の古河奪還・上杉方への反転攻勢

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香取神宮香取市

文明3年7月21日、成氏が千葉氏の庇護のもと、下総千葉の「千葉館」に滞在していることが確認できる[210]。その場所が千葉氏本拠の平山城かどうかは定かではない[210]。また、同日の時点で、結城氏広が結城城に籠って上杉方に抵抗を続けていたことも確認できる[210]

8月6日、成氏は下総一宮社の香取社に社領の返還を保証したほか、同月18日には所々の社両の返還も保証した[211]。また、29日には下総に御旗を立てるとともに、本意のための祈祷も行っている[211]

9月5日までに、真壁幹久が成氏方から離反し、上杉方についた[212]。成氏はこれを受け、真壁氏の所領である真壁郡を那須持資に与えている[212]

9月9日、千葉輔胤の家宰・原胤房の本拠である下総の小弓城での合戦により、胤房が戦死している[211]。詳細は不明ながら、千葉氏の側で上杉方に転じた者がおり、その攻撃を受けたとみられる[211]

9月17日、義政が結城氏広や大掾清幹、鹿島実幹、那須明資、佐竹義治、江戸通房、宇都宮正綱、小田持家に対し、戦功をあげるよう命じる御内書が発給されている[212]。この時、上杉方への参向を要請されているのは那須持資のみであることから、以前から参向していた那須明資や小田持家、宇都宮正綱に加え、佐竹氏や江戸氏、大掾氏、鹿島氏らが上杉方に転じていたようである[212]。ただし、結城氏は以後も成氏方の立場であることから、ここでの参向は誤記か虚言とみられる[212]

10月頃、扇谷上杉氏前家宰の太田道真が越後に下向している[209]。その目的は、上杉房定に関東出陣を要請するためのものであったとみられる[209]

12月3日、義政が大掾清幹に出陣を命じる御内書を発給している[212]

文明4年(1472年)2月、成氏方が反撃を開始し、25日までに古河城を奪い返した[213]。これを受け、成氏は千葉館を発ち、結城城に入った[213]。成氏が没落してから8か月後の出来事であった[213]

成氏は上杉方への反撃を開始し、3月22日までに宇都宮正綱が、同日には真壁幹久が成氏方に帰参した[213]。また、同月29日には小山成長(持政の養子)が成氏方となった[213]。かくして、成氏が古河城に帰還すると、宇都宮氏真壁氏、小山氏が相次いで帰参した[213]

4月28日、成氏は大名衆を動員して上杉方への反転攻勢を画策し、出陣に先立つ形で自身の7歳の嫡子「若御料(足利政氏)」を宿老の簗田持資の館に預けている[213]。そのため、上杉方が児玉塚陣から五十子陣に撤退し、成氏は結城氏や小山氏、那須氏、宇都宮氏、佐野氏、舞木氏ら常陸、上総、下総、安房、下野の軍勢8千騎をもって足利荘に進軍し、さらに新田荘・佐貫荘に進んだ[214]

5月22日、成氏が率いる大手の軍勢は新田荘の世良田・大館(太田市)に、搦め手の軍は佐貫荘の岡山原にそれぞれ布陣し、五十子陣の上杉方と利根川を挟む形で対峙した[215]

6月6日、小田持家が上杉方を離れ、成氏方に帰参している[215]。成氏は真壁幹久を通し、その嫡孫である成治の帰参も進めた[215]

7月18日、上杉方は反攻に出て、軍勢を下野の天命に進め、ここに布陣した[215]。そのため、成氏は足利荘に後退した[215]。だが、成氏と与同する勢力の力量は尋常ではなく、上杉側も幕府の権威をもってしても殲滅は不可能であると認識しだすようになった[208]

長尾景春の蜂起・五十子陣の崩壊

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文明5年(1473年)6月23日、山内上杉氏の家宰・長尾景信が死去した[216]。当時、当主の上杉顕定が若年であったため、景信が実質的な上杉氏の総帥であった[216]。その死は上杉方に動揺をもたらすとともに[216]、家宰職を誰が継承するかも問題となった[217][218]

景信の死後、主君の顕定は景信の弟・長尾忠景を新たな家宰に任命した[217]。忠景は惣社(総社)長尾氏の当主であり、年齢的にも長尾氏一門の長老格であったため、家宰の適任者であった[217][218]。他方、景信の嫡子・長尾景春は若年ながらも、父と共に戦いに参加してきた経験を持つことから、忠景の家宰継承に不満を持った[216][217]。ここに、山内上杉氏の内部に分裂が生じることになった[216]

11月14日、成氏方がこの情勢を受けてか、上杉氏の本陣である五十子陣を攻撃した[216][219]。成氏方の攻撃は苛烈だったようで[220]、扇谷上杉氏当主の上杉政真が戦死した[216][219]。五十子陣が成氏方の攻撃を受けたのは、これが最初で最後であり、上杉氏がいかに動揺していたかがわかる[216]。その後、成氏方はそれ以上の攻撃をせず退陣し、成氏も古河に帰還したようである[216]

扇谷上杉氏では、当主の政真の戦死を受け、叔父の上杉定正が新たな当主となった[216]。以後、扇谷上杉氏は定正と家宰の太田道灌が主導する形が取られた[221]

他方、山内上杉氏では家宰の地位を巡る問題から、長尾景春が自身を支持する家臣らの突き上げを受けて、五十子周辺の通路を封鎖して兵粮の補給を困難にしたほか、所々で所領を巡る争いを頻発させていた[222][223]。そのため、太田道灌が仲裁に乗り出し、長尾忠景にも働きかけ、両者の和解を目指した[222]

道灌は解決策として、景春に武蔵守護代(山内上杉氏では家宰に次ぐ地位が武蔵守護代であった)の地位を与えることで、この問題の解決を図った[223][224]。長尾忠景はそれまで武蔵守護代職にあり、家宰就任に伴い、両職を兼帯する状況となっていた[225]。道灌は忠景からの了解もとりつけたものの、顕定からは拒否された[226]

文明6年(1474年)12月、この月までに長尾忠景による山内上杉氏の家宰就任が実現した[225]。忠景の家宰就任はすぐには実現をみず、前家宰の長尾景信の死からすでに1年以上たっていた[225]。この間、太田道灌は景春と忠景の和解を模索していたが、道灌や上杉定正が五十子陣に参陣していなかったこともあり、上杉顕定ら山内上杉氏がこれを不審に思ったようで、「雑説」が流れている[225]

文明7年(1475年)に入ると、道灌が五十子陣に参陣しようとするも、景春はそれを阻止するため、上杉顕定や上杉定昌(房定の嫡子)を殺害する意思を明かした[227]。道灌と景春は叔父と甥の関係にあり、景春は道灌が味方になると思っていたようであるが、道灌はこれを無視して五十子陣に入った[227]

道灌は五十子に参陣すると、上杉顕定や長尾忠景に景春に謀反の意志があることを告げたが、顕定らは取り合わなかった[227][228]。そのため、道灌は再度、景春と忠景の和解に乗り出すも、景春の行動はますます過激になっていった[227]。結局、道灌は両者の和解に失敗し、江戸城に帰還した[227]。道灌は帰還すると、五十子陣に赴かず、江戸城に留まった[229]

文明8年(1476年)2月19日、駿河守護の今川義忠が遠江に出陣中、同地で戦死した[229]。そのため、義忠の死後、嫡子の今川氏親と一族の小鹿範満との間で家督争いが起き、道灌と堀越公方の執事・上杉憲政が調停に入った[229]。両者を和睦させたのち、9月末に道灌は伊豆堀越の政知のもとに参上し、10月に江戸城に帰還した[229]

文明9年(1477年)正月18日、長尾景春がついに蜂起し、鉢形城を出て、上杉方の本陣である五十子陣を攻撃した[230][229][231]。なお、上杉方は不意をつかれる形となり、また少なからず内応者がいたためにさしたる反撃もできず、この攻撃によって五十子陣が陥落した[229][231]

五十子陣は陥落したものの、上杉方の首脳部は真夜中に北に向かって逃げた[229]。上杉顕定やその家宰の長尾景忠、上杉定正やその前家宰の太田道真、越後上杉氏の上杉定昌ら上杉方の主な人々は東上野に逃れた[230]

これにより、長尾景春の乱の勃発した[232]。景春の蜂起は、上杉顕定や長尾景忠らによる政治的圧迫によるものであり、それを実力で覆そうとしたことによるものであった[230]。ここに、18年におよぶ五十子陣は崩壊し、上杉方の本拠地が解体されるに至った[233]

長尾景春の乱・各地の戦い

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石神井城の内郭土塁(練馬区

江戸城にいた太田道灌は、五十子陣の陥落という事態を受けて、すぐさま鉢形城の長尾景春に使者を派遣し、主君の上杉定正らを攻撃しないように申し入れた[234][235]。それにより、景春は攻撃を行わず、上杉勢は利根川を越えると、山内上杉勢は那波荘阿内(伊勢崎市)に、扇谷上杉勢は細井(前橋市)に、越後上杉勢は北上野の白井城にそれぞれ入った[234][236]

他方、上杉方が景春の蜂起によって分裂したことを受けて、古河の成氏も動きを見せるようになった[237]。成氏は北武蔵の安保氏泰に書状を送り、状況の説明を求め、氏泰も注進状をしたためている[237]。成氏は南武蔵の豊島勘解由左衛門尉に感状を送り、簗田持助と相談して作戦を立てていることを賞した[237]。豊島氏は景春方の中心人物であったが、成氏の重臣である簗田氏とも連絡を取り合っていた[237]

文明9年3月、道灌は豊島氏兄弟の豊島泰経(勘解由左衛門尉)・泰明(平右衛門尉)が拠る石神井城練馬城の両城の攻略を目指した[238]。両城の存在により、扇谷上杉氏の最重要拠点である河越と江戸の連絡が遮断されていたため、河越と江戸の中間点にある豊島氏の勢力圏を道灌は脅威とみなした[238][237]。道灌は攻撃を同月14日に予定していたが、多摩川が大雨で増水したために扇谷上杉氏の相模勢が来援できず、延期となった[238][237]

3月18日、扇谷上杉氏の相模勢は、相模の景春方の溝呂木城小磯城を攻略した[238][239]。相模勢はまた、 小沢城の攻略も進めた[238][240]。そして、道灌は同月下旬より、武蔵南部と相模における景春方に対する軍事行動を行った[241]

4月10日、景春方の矢野兵庫助が苦林(毛呂山町)に陣取り、河越城に向けて進軍する動きを見せたため、太田資忠ら河越在城衆らは城から討って出た[241][240]。資忠らは景春方を両陣の中間点にあたる勝原に誘い出し、これに勝利した[241]

4月13日、道灌は豊島泰明の練馬城を攻撃し、その過程で豊島勢を江古田原(中野区)で迎撃し、泰明を討ち取った(江古田原の戦い[241][242]。その後、豊島泰経の石神城を攻撃し、18日に降伏させた[241]。同日、相模勢も景春方の小沢城を攻略した[241][243]。かくして、道灌は同月までに武蔵南部と相模における景春方を攻略するに至った[241]

5月8日、道灌ら上杉方は針谷原(深谷市)で景春方を迎撃し、これに大勝した[244]。だが、この合戦で上杉方は山内上杉氏宿老の大石源左衛門尉(大石房重か)が戦死しており、景春方も上州一揆の旗頭である長野為業が戦死しているなど、双方で有力者が戦死していることから、この戦いが激戦であったことがうかがえる[244]

同月、景春は敗北を受けて、五十子南方の富田に布陣し、四方田(本庄市)・甘粕原(美里町)に布陣する上杉方と対陣した[245]。また、景春は上杉方に対抗するため[246]、成氏に従う姿勢をみせ[230]、成氏に支援を要請した[245]。このため、景春の乱は単なる主家への反乱から[245]、成氏方と上杉方の抗争の一環として展開されるようになった[230]

7月、上野新田荘の岩松家純が情勢の変化により、上杉方から離反し、成氏方についた[245]。家純は古河城に護持僧の松蔭を派遣し、成氏の赦免を与えられた[245]。だが、家純の嫡子・岩松明純がこれに同意しなかったため、7月23日に家純は明純を義絶し、義絶された明純が山内上杉氏の陣に加わった[245][247]

これを受け、成氏は上野への出陣を決めた[245][248]。成氏は長尾景春や岩松家純の要請を受け、下総結城氏や下野那須氏、上野岩松氏、自身の奉公衆の簗田氏などからなる8,000騎の軍勢を率い、東上野に進軍した[245][249]

上杉方は上杉顕定が武蔵の清水(上里町)まで進んでいたが、成氏方の進軍を受け、その軍勢に対抗できないと判断し、顕定と上杉定正をそれぞれ河越城と江戸城に後退させるか、あるいは顕定を上野へ、定正を河越城に後退させるかで議論となった[247][250]。そして、道灌が上杉方の主将ら皆で上野に後退させることを提案し、顕定や定正らは北上野の越後上杉氏の拠点・白井城に後退することとなった[247][251]

成氏が上野中央部に進み、利根川を越えて、滝・島名(高崎市)に布陣した[251][247][252]。また、岩松家純が500騎を率いて、成氏方に参陣している[251]。その際、成氏は家純に対し、新田荘の一円的な領有を認めている[251]

成氏方と上杉方の対陣・両軍の和睦

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広馬場榛東村相馬原飛行場

文明9年9月、上杉方は白井城を出陣し、片貝(前橋市)に進んだ[253][254]。太田道灌は別行動をとり、それより北方に位置する荒巻・引田に進んでいる[253]。この行動は、成氏の軍勢を二分するためのものであった[253]

成氏はこれに対して、結城氏・那須氏・佐々木氏・横瀬氏らの軍勢に、長尾景春や長尾房清の軍勢を加えた大軍を派遣し、道灌の予想通りの動きをした[253]。道灌は塩売原(前橋市)に攻め上がり、引田を前に布陣してこれを待ち構えた[253][254]。上杉顕定が「天子御旗」を掲げれば、道灌は景春ら成氏を攻めようと考えていたものの、顕定に慎重な意見を述べる者がいたようで、両軍の合戦には至らなかった[253]

11月10日、京都では、義政の弟・義視が美濃に下向したほか、大内政弘ら西軍諸将もそれぞれの領国に下向したことにより、応仁の乱が終結した[255]。乱の終結に関しては、長尾景春の乱による関東の情勢変化が京都に伝わり、義政と義視の和平交渉が開始されたとする見方もある[200]

11月14日、景春ら成氏方が退陣した[253][254]。道灌は追撃し、細井の用水あたりで合戦をしようと考えていたが、本軍から出陣してきた長尾景忠の到着が遅れたため、その機会を逸した[253]

12月1日、成氏は下野の茂木治興に書状を送った[253]。そのなかで、上杉顕定が武蔵と上野の国境に在陣しているので、近く重ねて一戦に臨むと伝えるとともに、代官による軍勢を派遣することを要請した[253]

12月23日、成氏は上杉方との決着をつけようと、滝陣を出陣して北上した[256][252]。そして、翌24日に成氏は府中観音寺原(高崎市)を通り、広馬場に布陣した[256][257]

12月27日、上杉方も成氏に対抗すべく、片貝を出発し、利根川を越え、漆原(吉岡町)に陣を敷いた[256]。本軍は水沢(渋川市)・白岩(榛名町)を廻り、広馬場に向かった[256][258]。また、太田道真の軍勢を保戸田に派遣している[256]

かくして、成氏方と上杉方はわずか2里を挟んで対峙することになった[256]。だが、決戦を期したこの27日、大雪に見舞われたことによって、両軍が戦闘不能に陥り、決戦は回避された[256][259]。これにより、両軍の間で和睦の気運が高まる形となった[256][259]

文明10年正月1日、上杉顕定が家臣の長井左衛門尉と寺尾上野介を、成氏の宿老である簗田持助のもとに派遣し、成氏と幕府の和解を仲介することを条件に、和睦を申し入れた[256]。成氏にとって、京都の義政の赦免を得ることは長年の宿願であった[260]。成氏は迷ったものの、これを受け入れることにした[256]

正月2日、成氏方と上杉方との間で和睦が成立した[261]。成氏はその日のうちに退陣し、峰林陣に移動した[261]

正月4日、結城氏や宇都宮氏も陣払いし、5日には成氏方の軍勢が全て撤退した[261]。成氏は上野から退陣し、武蔵の成田(行田町)まで引き上げた[259][260][261]

なお、上杉顕定は太田道真から和睦成立の報告を受けた際、景春の問題もあって、直ちに納得しなかった[261]。だが、道真は成氏が裏切ることはないとして、成氏方と景春の問題は別問題であると説得している[261]。以降、上杉方は景春の乱の鎮圧に注力することになる。

太田道灌の転戦

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太田道灌

文明10年正月24日、太田道灌は主君の上杉定正が河越城に入ると、これに従った[260]。だが、道灌が上野に在陣している間、豊島泰経が蜂起しており、江戸城の近くに平塚城を構築し、江戸と河越の連絡を遮断していた[260][262]。そのため、道灌はすぐさまこれに対応した[262]

同日、成氏が一色兵部少輔に対し、上杉定正が河越城に帰還したことを伝えた[262]。一色氏から相模への軍事行動について連絡があり、成氏のもとに参陣する意向が伝えられたようである[262]。だが、兵部少輔は病を患っていたようで、成氏は養生するように伝えている[262]。どのような事情かは不明ながら、成氏方が相模への軍事行動を計画していたことがわかる[262]

正月25日、道灌は平塚城を攻撃すべく進軍し、膝折宿に着陣した[262]。豊島泰経は道灌の軍勢が迫ると、平塚城から脱出し、荏原郡丸子(川崎市)まで逃れた[262][260]。道灌は泰経を安達郡まで追撃したものの、江戸城にいったん帰還した[260][263]

正月26日、道灌は丸子に進み、豊島氏の軍勢を攻め立てた[260][263]。そのため、豊島泰経は南に逃れ、小机城に籠った[260]

正月28日、道灌は小机城の近くに迫り、城の周辺を圧迫した[263]

2月9日、成氏は下野の小山成長に対し、自身を取り巻く軍勢が少数になったことを理由として、軍勢の派遣を求めている[263]

2月28日、上杉顕定が倉賀野(高崎市)から大塚(藤岡市)まで陣を進めたことについて、成氏は安保氏泰から受けた連絡に対し、状況の報告を求めている[264]

3月3日、成氏は安保氏泰より、「上杉勢から攻撃を受けたものの撃退した」という報告を受け、上杉顕定が倉賀野に陣を移したという状況についての報告を求めている[264]。当時、氏泰は成氏方であり、顕定から攻撃を受けたということは、成氏方と上杉方による双方の抗争が続いていたことがわかる[264]。つまり、先の和睦はあくまでも「成氏と上杉方の退陣のための和睦」であり、その配下の抗争にまでは及んでいなかったことがわかる[264]

3月10日、河越城の扇谷上杉勢は長男景春が城の近くの浅羽(坂戸市)に陣取ったことを受けて、その陣を攻撃した[265]。敗れた景春は成氏が布陣する成田陣に対陣したものの、そこに下総千葉氏の千葉輔胤の軍勢が進んできたため、それを伴って河越城に向かい、羽生峰(滑川村)に布陣した[265]

3月19日、道灌は河越城支援のため、弟の資忠を河越城に向かわせた[265]。翌20日に上杉定正が河越城を出て、羽生陣に進軍すると、景春は戦わずに成田陣に退いた[265]。これにより、道灌は小机城の攻撃に専念することが出来るようになった[265]

4月7日、成氏は安保氏泰に対し、所領注文(所領の一覧)を発給した[266]。この享徳27年4月7日の安保氏泰所領注文(『安保文書』)が、成氏の署判を有する享徳年号使用の文書の終見であり[3]、成氏が享徳年号を使用してから実に23年の年月が流れていた[4]

4月10日、道灌は小机城を攻略し、豊島氏を滅ぼした[265][267][注釈 11]。豊島郡最大の領主であった豊島氏の旧領は扇谷上杉氏が全て没収し、その多くが道灌の所領となった[265]。そのため、道灌は江戸城の周辺地域で最大の領主となった[265]

この頃、下総の葛西城の大石石見守も降伏したとみられ、石見守のもとにいた千葉実胤は進退窮し、美濃に没落した[265]。これにより、武蔵千葉氏は道灌と親しかった弟の自胤に統一された[265]

4月14日、太田資忠や六郎(資常か)が相模の奥三保(相模原市緑区)に進軍したことを受けて、相模の景春方が攻撃を仕掛けた[267][268]。だが、資忠勢の奮戦もあって、景春方の海老名左衛門尉が戦死するなどして敗退した[268]。資忠は武蔵の村山にいた道灌のもとに伝令を送った[267]

同日夜、道灌は奥三保での勝報を受けて、未明に村山から出陣し、甲斐郡内に軍を進めた[269][268]。道灌は景春方の有力領主・加藤氏の本拠(上野原か)を攻略したのみならず、後退する景春方を追撃し、これを撃破した[268]。これにより、道灌は相模の景春方も制圧した[268]

この間、上杉定正と景春が対陣を続けていたが、膠着状態にあった[270]。道灌は6月までに相模から江戸城に帰還したのち、定正を救援すべく、河越城に入った[270]

7月上旬、道灌は河越城から出陣し、17日に荒川を越え、景春の拠点である鉢形城と成氏の拠点である成田陣の間に布陣した[270]

7月17日夜、成氏は道灌が成田陣に進軍してきたことを受けて、景春の切り捨てを図り、道灌のもとに宿老の簗田成助を使者として遣わした[270][271][272]。そして、成氏は上杉方との和睦で古河に帰還したかったものの、景春が近隣に在陣しているためにそれができなかったとし、道灌に景春への攻撃を要請した[273][271]。成氏の行動は自身の不利を悟ったためのものであったが、道灌はこれに応じた[273][271]

7月18日未明、道灌は景春に攻撃を仕掛け、これに勝利した[273][272]。また、この攻撃によって鉢形城が落城したとみられる[273][272]。これにより、景春は叔父の長尾景明の勢力下にあった秩父郡に逃れたようである[273][272]

7月23日、成氏は利根川を渡り、古河城に帰還した[273][271]。この帰還は、景春の敗退を受けてのものであった[273][271]

12月、道灌は成氏の了承を得て、江戸城の東方で対峙する千葉輔胤ら下総千葉氏を討つべく、千葉自胤とともに国府台に軍を進めた[274]。一方、下総千葉氏も千葉孝胤が平山城から出陣し、境根原(柏市)まで進軍した[275]

12月10日、道灌は千葉孝胤と境根原で戦い、これに勝利した(境根原合戦[275][276]。孝胤は境根原から後退し、臼井城に籠城した[276][277]

文明11年(1479年)正月18日、道灌は千葉孝胤が籠もる臼井城を攻撃した[277]

だが、攻城戦が長期にわたったため、上杉顕定に天子御旗を掲げて参陣するように要求した[277]。結局、顕定の出陣はなく、道灌は弟の資忠に臼井城を任せた一方、千葉自胤には上総・下総の千葉孝胤方の攻略を任せて、いったん帰国した[276][277]

7月5日、上総真里谷の武田清嗣や下総飯沼の海上師胤らが千葉自胤に降伏、服属した[278]。これにより、自胤は上総・下総の多くの勢力を従えることになった[278]

7月15日、資忠は道灌の命により、臼井城の包囲を解き、退陣を始めた[278]。すると、千葉勢が城内から討って出てきたため、資忠はこれを迎撃し、臼井城を攻略した[278]。だが、資忠らをはじめ、道灌の親類・傍輩・被官ら53人がこの戦いで戦死した[276][279]。千葉孝胤は本拠の千葉に撤退し、臼井城は千葉自胤の管轄となった[280]

9月、景春が武蔵で再度蜂起し、長井憲康の本拠(御嶽城か)に入り、さらに秩父に入った[281][276]。これにより、道灌は長井の城を攻めることにした[281]

閏9月24日、成氏は別符宗幸に対し、上杉顕定が景春に攻撃を行えば、協力して軍事行動をとるように命じた[281]。また、成氏は崎西郡の忍城の守備を心配し、城主の成田下総守と相談するように命じている[281]

11月28日、道灌は江戸城を出陣し、御嶽城を目指した[282]。だが、成田氏の忍城で不穏な動きがあったため、29日に道灌はその支援のため、久下(熊谷市)に陣取った[282][283]。これにより、忍城の不穏な状況もおさまり、道灌は御嶽城に向かった[282]

文明12年(1480年)正月4日、景春が長尾氏を支援するためか、児玉郡に軍を進めた[272][284][283]。そのため、6日に道灌は上杉顕定が在陣する鉢形城付近の塚田に進んだ[284]。顕定は鉢形城で「天子御旗」を掲げ、景春方を威圧した[284]

上杉定正は河越城を出陣し、大谷に陣取り、正月13日には沓懸(深谷市)に進んだ[284]。景春が飯塚(深谷市)に転進してきたため、定正は夜討ちをかけようとしたが、その夜に景春は後退した[284]

正月20日、景春は越生に進軍した[284][283]。だが、同地の龍隠寺には太田道真がいたため、景春はその迎撃を受けて敗北し、秩父郡に後退した[272][284][283]。そして、景春は同郡の日野要害(熊倉城)に籠城した[272]

2月、上杉方は同月6日までに御嶽城に2度にわたり攻撃を加えたが、長井勢に撃退され、多くの犠牲を出した[285]。だが、道灌は5月までにこの城を攻略した[284][283]

成氏による和睦交渉の働きかけ・長尾景春の没落

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細川政元

文明12年(1480年)2月25日、成氏が管領の細川政元に書状を送り、和睦への尽力を要請した[286]

3月、成氏に依頼された長尾景春が、政知の執事・上杉政憲と、政憲に匹敵する地位にあったとみられる沙弥信照に対し、和睦の仲介を依頼した[287]。景春の依頼を受け、同月20日に政憲と沙弥信照が政元に書状を出したが、幕府中枢にはすぐさま取り次がれなかった[287]

4月4日、太田道灌が成氏の奉公衆である梶原能登入道に宛てた書状では、成氏の幕府への言上について、上杉顕定や上杉定正が妨害にあって進んでいないことや、成氏の御料所や近習の所領については別紙の書状で返事することを返事した[288]。また、それらがとても重要で、天皇から赦免を得ねばならず、様々な事情で進展していないことを伝えた[288]

上杉方が長井氏の御嶽城を攻略したことを受けて、上杉顕定は景春の秩父における拠点・日野要害を攻略すべく、鉢形から秩父に入り、大森に布陣した[283][288]。だが、成氏がここで態度を豹変し、景春の支援に回った[283][288]。成氏が景春の支援に動いた理由としては、上杉方が幕府との和睦仲介の要請に応えないことに苛立ったからとみられる[283][288]

5月13日、道灌が高見陣から秩父に向けて出陣した[289][290]。道灌は成氏の転向を受けて、武蔵中央部の安定を優先しようとしたものの、上杉顕定が景春の討伐を優先したため、その意向に従った[289][290]

だが、その直後に東上野の成氏方が蜂起したため、道灌は江戸城に戻り、防備について在番衆に指示したのち、2日後に高見陣に戻った[289][290]。だが、道灌は成氏が東上野から利根川を越えて武蔵に進軍してくると予想していたものの、成氏がその予想に反して退陣したことを受けて、長尾忠景に新田荘に進軍することを相談している[290]

6月13日、道灌は秩父の上杉顕定のもとに参陣し、顕定から日野要害の攻略を命じられた[289][291]。これを受け、道灌は敵方への調略を行い、毛呂三河守を退城させて上杉方に帰順させたりしている[291]

6月24日、道灌が日野要害を攻略した[291][292]。この日野要害の攻略により、景春の反乱は鎮圧されるに至ったとみなされている[291]。これにより、景春は武蔵から没落し[272]、上野に逃れた[291]

7月21日、成氏は東上野国人の赤堀左馬助に対し、上杉顕定が幕府との和睦仲介を申し出てきたので、それを了承したと伝えている[293]。これは、成氏が景春の没落を受けて、顕定に働きかけたものとみられる[294]

8月、成氏は下総に進軍し、11月27日に同国の我孫子で合戦があった[293]。この攻撃は成氏の下総進軍によるもので、千葉氏に対して行われた可能性が高い[293]。千葉氏がかねてから幕府との和睦に反対していたことから、成氏は自ら追討することで、上杉氏に対して和睦実現に対する強い意志を示したとみることができる[293]

だが、上杉方が和睦仲介に動き出すことはなかった[295]。そのため、成氏は弟の尊敒や近臣の結城氏広、越後の上杉房定を通して、細川政元やその有力な一族である細川政国に接触を図り、和睦の実現を目指した[296][297]

都鄙和睦・乱の終結

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足利義尚

文明13年(1481年)7月19日、細川政国が幕府中枢に取り次いだことにより、幕府と成氏方との和睦交渉が開始された[298]

和睦交渉における最大の争点となったのは、鎌倉公方の地位が成氏と競合する政知の存在であった[299]。政知の下向により、古河公方と堀越公方という二人の鎌倉公方が並立していたが、関東に二人の公方は不要であった[300]。もし、関東を享徳の乱発生以前に戻すのであれば、堀越公方は廃止されるとともに、政知が伊豆から京都に帰還する形となり、これは成氏ら古河公方側も主張したと考えられる[300]

だが、伊豆に留まることを望む堀越公方の要求を、幕府は断りづらい事情があった[300]。また、将軍の足利義尚としても[注釈 12]、伯父である政知が帰京した場合の処遇には困ったと考えられる[300]。堀越公方の処遇をどうするかは、交渉を大きく長引かせた[300]

和睦決定までの具体的な過程は不明であるが、越後の上杉房定によって、政知ら堀越公方や、上杉顕定や上杉定正ら両上杉氏との交渉が行われたと推測される[298]。堀越公方では、執事の上杉政憲や堀越公方奉行人らが交渉を担当したとみられる[300][303]

文明14年(1483年)11月27日、前将軍の義政が成氏を赦免し[304]、幕府と成氏ら古河公方との間に都鄙和睦(都鄙合体)が成立した[298]。そして、義政から政知と上杉房定に対し、和睦が決定した旨を知らせる御内書が下された[298]

幕府が決定した和睦の内容としては、成氏に鎌倉公方としての地位を認めて関東を支配させる一方で、政知には「豆州主君」として伊豆一国の支配が認められるという形がとられた[298][305]。つまり、伊豆一国を鎌倉公方や関東管領の支配から切り離し、成氏は関東御分国のうち伊豆を政知に割譲する代わりに、残りの諸国の支配権を幕府に認めさせることで妥協することとなった[306]。また、上杉氏は守護国である伊豆を放棄する形となった[306][注釈 13]

これにより、およそ28年続いた享徳の乱は終結した[306][303]。だが、成氏と幕府の和睦に際し、正式な鎌倉公方として派遣された政知の立場を否定したことから、この戦乱の和睦は政知の犠牲のうえで成立したともいえる[303]

戦後

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享徳の乱後、古河公方と上杉氏は利根川を境として、それぞれの領域を支配する二元的な支配体制に入り、その支配下の領域では戦国領主が割拠するようになった[307]。そのため、かつてのように鎌倉公方と関東管領が協力する、従来の鎌倉府体制が復活することはなかった[308][303]

また、享徳の乱が終了したといえど、古河公方と幕府・上杉方の対立が解消されたに過ぎなかった[309]。そのため、関東から戦乱がなくなったわけではなく、上総や下総地域では上杉方との和睦に反対する勢力が健在であった[309]

この戦乱は、足利義政や幕府にとっても、何ら成果を上げることが出来ず、失敗といえるものであった[303]。義政は都鄙和睦以降、関東に関与することがほとんどなくなるが、これは関東に関心がなくなったからとみられる[303]

古河公方

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古河城の諏訪曲輪

古河公方の足利成氏は都鄙和睦により、幕府から正式な鎌倉公方と認められ[310]伊豆以外の関東諸国を安堵された[306]。また、成氏と義政との仲も改善されることとなり、後年には成氏の嫡子がその偏諱を得て、政氏と名乗っている[311]

だが、享徳の乱が成氏方有利に進んでいたことから、成氏方諸将の間では和睦交渉の最中より不満が募っていた[309]。上杉方の内紛に際しても、成氏方が手を差し伸べたにもかかわらず、和睦条件の中では上杉方に奪われた所領などについて言及がなかった[309]。加えて、堀越公方を伊豆に定住させたものの、成氏の鎌倉帰還についても一切触れられていなかった[309]

このような和睦条件のため、成氏方諸将の間では反発が起き、和睦推進派と反対派の間で対立が続いたとみられる[309]。成氏が反対派を沈静化させるのには半年の歳月を擁しており、文明15年6月になってようやく、成氏から上杉房定への対幕府交渉の謝意が送られたほどであった[309]

結局、成氏は鎌倉に帰還することなく、古河を本拠とし続けた[309]。また、古河公方はかつての鎌倉公方のように、東国全体への支配権は持つことはなかった[309]。そして、下総北部と上総上部に御料所を持ち、東関東をその支配領域として大名や国人を従える「鎌倉殿」として、成氏から5代にわたって存続した[309]

上杉氏

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山内上杉氏・扇谷上杉氏は、享徳の乱やそのさなかに発生した長尾景春の乱によって、大きな傷跡を残した[312]。また、両上杉氏はこの戦乱によって、その関係に溝が生じていた[313]

景春与党の多くは山内上杉氏の家臣であったが、その所領は没収され、相模や南武蔵の扇谷上杉氏分国内ではほとんどが道化の領有となった[312]。扇谷氏は分国内での所領を飛躍的に増大させ、その多くが景春の乱の鎮定に活躍した太田道灌やその与党の支配下に入った[312]。また、道灌は乱の鎮圧過程で多くの東国の有力領主に指導的な立場を確立したほか、景春与党の中には道灌を通じて上杉方に服属した者も多く、彼らは道灌の統制下に入っていた[312]

一連の戦いで活躍した道灌の威望は大いに上がったが、それは主君である定正にとっては危険なことでもあった[314]。加えて、上杉方の勢力の中に道灌を快く思わない者も現れており、それらは山内・扇谷上杉氏との間に溝を生じさせた[314]。そのため、文明18年(1486年)7月に道灌は糟屋舘(神奈川県伊勢原市)で、定正によって謀殺された[314]

道灌の死により、関東の情勢は混乱に陥った[314]。道灌の嫡子である太田資康が山内上杉氏を頼り、その庇護を受けたため、両上杉氏の対立が進んだ[315]

長享元年(1487年)11月、山内上杉氏と扇谷上杉氏は決裂し、長享の乱と呼ばれる両上杉氏の抗争に突入した[316]。また、没落していた長尾景春は扇谷上杉氏に味方し、再び山内上杉氏と戦うことになる[317]

堀越公方

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伊勢盛時(宗瑞)

堀越公方の足利政知は都鄙和睦によって、幕府から伊豆一国の支配を認められたが、鎌倉公方としての地位を否定された[303]

政知はこの和睦に至るまで、成氏ら古河公方勢力と二十余年にわたる抗争を繰り広げたものの、幕府から満足な軍事力を付与してもらうことができず、関東一円を制することは叶わなかった[318]。最終的に堀越公方は伊豆一国のみの支配者となり[310]、政知は和睦交渉を進めた上杉政憲とそれに同調した伊豆国人衆に不満を抱くようになった[319][320]

やがて、政知は長子の茶々丸を廃嫡し、三男の潤童子を後継にした。その際、政憲はこれを強く諌めたため、政知の怒りを買って自害に追いやられたと伝わる[321]

延徳3年(1491年)に入ると、政知は京都細川政元と連携し、次男で天龍寺香厳院主の清晃(足利義澄)を将軍の座につけようとした[322]。政知は清晃を将軍とすることで、成氏の討伐を再開し、古河公方に代わる関東の主となる狙いがあったとする見方がある[316][323][324]。また、政元も政知との連携によって、将軍に清晃を、鎌倉公方に潤童子を、細川氏の家督に細川澄之(清晃・潤童子兄弟の従兄弟にあたる)を据えることで、京都と関東、朝廷と幕府の合体による新政権を構想していたとされる[325]

だが、4月に政知が死去したため、計画は白紙となった[326]。政知の死後、潤童子による家督継承が図られたが、7月に茶々丸がクーデターを起こし、潤童子とその母の円満院を殺害、事実上の公方となった[327][328][329]

明応2年(1493年)4月、細川政元が10代将軍の足利義材を廃し、清晃を新将軍として擁立するクーデターを行った(明応の政変)。すると、同年に幕臣の伊勢盛時(宗瑞)が潤童子と円満院の仇討ちを大義名分として[326][316]、駿河から伊豆に攻め入り、茶々丸を堀越御所から放逐した[330][331]。この伊豆討ち入りは、京都と関東の政治情勢が連動したことによるものであった[326]

そして、盛時は伊豆を平定すると、さらに相模へ進出した[332]。やがて、盛時を祖とする後北条氏は両上杉氏を滅ぼし、関東に覇を唱えることになる[333]

考察

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足利義政が白川顕朝(白川結城氏の一族)に対し、足利成氏の追討を命じた御内書東京国立博物館蔵)[334]

享徳の乱は東国全体を巻き込んだ大規模な戦乱であり、その年数は都鄙和睦が成立するまでの28年間に及んだ[313]。そのため、この乱は応仁の乱に匹敵する東国の内乱と位置付けられている[313]

享徳の乱は単なる古河公方と上杉氏の対立ではなく、足利義政室町幕府が上杉氏に加担し、古河公方の打倒を目指した「東西戦争」であった[75]。だが、義政ら幕府が上杉方に立ってしばしば介入したにもかかわらず、この乱は30年近く続く結果となった[75]。そして、この間に京都では応仁の乱が始まり、かつ終了している[335][注釈 14]

享徳の乱が30年近くに及んだ理由としては、義政が父の足利義教のような対応を取れなかったからとする見方がある[337]。かつて、義教は鎌倉公方の足利持氏が敵意を見せると、周到に用意を重ねたうえで軍勢を送り、永享の乱を短期決戦で片づけた[337]。だが、義政は成氏が反逆すると、その準備が不十分なままで戦端を開き、有効な対策を出せず、情勢を泥沼化させている[338]。義政は義教に憧れていたが、自身の単純さや優柔不断さで徹底できず、その政治能力には甘さがあった[339]

享徳の乱が長期化したことは、結果として応仁の乱に波及する形となった[340]。この関東の大乱を治められなかった将軍の義政及び管領の細川勝元に対する不満が、応仁の乱の原因の一つとなったとされる[340]。義政や勝元が上杉方につき、古河公方の存在を認めようとしなかった一方で、勝元の路線に対する山名宗全らの反発があるなど、京都の幕府内では関東への対応の不一致があった[340]

一方、足利成氏もまた、山名宗全や畠山義就ら西軍諸将が足利義視を擁立して所謂「西幕府」を立てると、西軍側の勝利を期待して、西幕府との和睦交渉に動いている。だが、戦況は次第に東軍優勢となり、最終的に応仁の乱は東軍の勝利に終わったために成氏の当ては外れることになる。しかし、勝った幕府(東軍)側も西軍諸将の行動(成氏との交渉を含めて)の責任を問わないことにした上に、長すぎた空白の間に発生した上杉氏の内紛によって関東への介入を再開できる状況ではなくなっており、成氏との和睦交渉に応じる背景になったと考えられている[341]

現代の歴史研究において、享徳の乱は関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている[342]。なお、この享徳の乱の名称は、歴史学者の峰岸純夫が戦国時代の幕開けとして位置づけるために新たな名称・用語が必要ではないかと考え、昭和38年(1963年)に提唱したものである[3][注釈 15]。以後、歴史用語として次第に学会で認められるようになり、一般にも広まっていった[343]

参戦武将

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古河公方側

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長尾景春の乱以降

堀越公方・上杉側

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幕府は他に奥州探題大崎教兼白川結城氏結城直朝信濃守護の小笠原光康にも出陣要請をしたが、奥羽国人が互いに抗争を繰り返しており、大崎・結城の2人もそれに巻き込まれていて出陣することはなかった。また、小笠原も一族の内訌に巻き込まれて同様であった。

脚注

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注釈

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  1. 享徳4年(1455年)7月25日、朝廷は享徳から康正に改元した。なお、成氏が享徳の年号を使い続けている間、朝廷は享徳→康正→寛正文正応仁文明と改元している[3]
  2. 上杉氏の領国だった上総安房は成氏方の武田信長里見義実に攻められ、占領された。
  3. 鎌倉大草紙』では成氏方が「上杉氏の西御門御所」に襲撃をかけたとしているが、これは誤りであり[37]、『康徳記』に記されているように「成氏が自邸(西御門御所)に招いて誅殺した」とするのが史実である[38]
  4. 成氏はまた、武蔵の荏原郡芝郷(港区)にある稲荷大明神に戦勝祈願の願文を捧げ[4]、勝利の暁には社殿の修造を行うと記している[42]
  5. この頃、上州一揆は急激な政治情勢の変化により、成氏方につくか、あるいは上杉方につくかを決めかねていたとみられる[54]
  6. 黒田基樹は、この攻撃を翌年の康正2年(1456年)に比定している[63]
  7. 鎌倉大草紙[72] 享徳4年(1455年)6月の条に「成氏は総州葛飾郡古河縣こうのすと云所に屋形を立、……」とある。長禄元年(1457年)10月の条には「下河辺古河の城ふしむ出来して古河へ御うつりありける」とあるので、成氏は鴻巣の古河公方館を2年間程度御所としたのち、立崎の古河城へ移ったことになる[73]
  8. 常縁は義政の命により、美濃の郡上から本貫地である下総の東荘に入っていた[74]
  9. 今川氏は享徳の乱の初期において、鎌倉の守備を担っていたが、寛正元年(1460年)正月に今川範忠(義忠の父)らが帰国していた[172]
  10. だが、成氏が義政ではなく義視と和睦交渉していたかに関しては、容易に判断できないとする指摘もあり、仮に義視との和睦が成立したとしても、義政との和睦が成立したわけではないため、成氏と義政及び上杉氏との対立が解消されるわけではなかった[197]
  11. 豊島泰経は消息不明となり、その後の活動が見られなくなる[267]
  12. 文明4年(1473年)12月19日、義政は嫡子の義尚に将軍職を譲っている[301]。ただし、義政は室町殿として、実権を握り続けた[302]
  13. 伊豆は当時、山内上杉氏の領国であったことから、上杉房定上杉顕定との調整にあたった[303]
  14. 享徳の乱は応仁の乱が始まる13年前に開始されていた[336]
  15. 峰岸が命名する1960年代初頭までは、「15世紀後半の関東の内乱」などと呼ばれていた[3]

出典

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  1. 「享徳の乱」『百科事典マイペディア』(コトバンク、2020年7月10日閲覧)
  2. 1 2 3 「享徳の乱」『世界大百科事典 第2版』(コトバンク2020年7月10日閲覧)
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  4. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 黒田 2021, p. 12.
  5. 「享徳の乱」『山川 日本史小辞典 改訂新版 』
  6. 峰岸 2017, pp. 29–31.
  7. 峰岸 2017, p. 43.
  8. 山田 2015, p. 29.
  9. 山田 2015, p. 31.
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  14. 1 2 山田 2015, p. 46.
  15. 市村 2022, p. 26.
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  58. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 黒田 2021, p. 18.
  59. 1 2 黒田 2021, p. 16.
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  70. 1 2 3 4 5 山田 2015, p. 73.
  71. 1 2 峰岸 2017, p. 69.
  72. 例えば、『古河市史 資料中世編』No.1522 など
  73. 『古河市史資料第10集 古河城・鴻巣館』、65-68頁
  74. 1 2 3 4 5 山田 2015, p. 74.
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参考文献

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関連項目

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